ヨハネ福音書 翻訳と講解 

 第三章 新しく生まれなければ


 7 ニコデモとの対話 (3章1〜21節)

 1 さて、ファリサイ派のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。 2 この人が、夜イエスのもとに来て言った、「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師であることは、わたしたちは知っています。神が共におられるのでなければ、あなたが行っておられるようなしるしは、誰にもできないからです」。 3 イエスは答えて彼に言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。 4 ニコデモはイエスに向かって言った、「人間は年老いてから、どうして生まれることができるでしょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれてくるというようなことができるのでしょうか」。 5 イエスはお答えになった、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6 肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である。 7 あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしがあなたに言ったことを驚いてはならない。 8 風は欲するままに吹く。あなたはその音を聞くが、風がどこから来てどこへ行くのか知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。 9 ニコデモは答えてイエスに言った、「どうしてそのようなことが起こりえましょうか」。 10 イエスは答えて彼に言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、このようなことが分からないか。11 アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12 わたしがあなたがたに地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したとしても、どうして信じることができようか。 13 天から降ってきた者、すなわち人の子のほかに、天に昇った者はない。 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。 15 それは、彼を信じる者がすべて永遠の命をもつようになるためである」。
 16 神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった。それは、すべて彼を信じる者が滅びることなく、永遠の命をもつようになるためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18 御子を信じる者は裁かれることなく、信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の御名を信じなかったからである。 19 人々は自分の行いが悪いので、光が世に来たのに、光よりも闇を愛した。それがすなわち裁きである。 20 悪を行う者は光を憎み、自分の行いが明るみに出ないように、光のもとに来ない。 21 真理を行う者は、自分の行いが神によってなされたものであることが明らかになるように、光のもとに来る。

夜の対話

 前章(二章)は、「イエスは過越祭のとき祭りの期間中はエルサレムにおられたが、イエスのなされたしるしを見て、多くの人が彼の名を信じた」という報告を含む短い段落(二・二三〜二五)で終わっていました。この段落は二章を締めくくると同時に、三章の導入にもなっています。まさにこの過越祭の祭りの期間中に、イエスのなされたしるしを見て彼の名を信じた多くの人の中の一人ニコデモが、夜ひそかにイエスのもとに来て、永遠のいのちをめぐる対話が始まるのです。

 ニコデモはヨハネ福音書だけに登場する人物です(ここの他に七・五〇と一九・三九に登場します)。ニコデモはここでは、著者とその共同体が対話するユダヤ教を代表する人物として登場します。
 
 ニコデモはファリサイ派のひとりで、「ユダヤ人の指導者」でした(一節)。「指導者」《アルコーン》は、ユダヤ教の指導的な立場にあるラビを意味しますが、多くの場合最高法院の議員を指します。彼が最高法院の議員であることは、後で明記されています(七・五〇)。
 
 当時の最高法院の議員はサドカイ派が主流でしたが、ファリサイ派のラビもいました(使徒言行録五・三四)。ニコデモは実際にファリサイ派のラビであったのでしょうが、この福音書が書かれた時代ではユダヤ教はファリサイ派だけでしたから、ニコデモは論争相手のユダヤ教会堂を代表する人物としてファリサイ派であるとされます。
 
 彼は夜ひそかにイエスのもとにやって来ます(二節前半)。最高法院の議員クラスの長老指導者が、若い一介の巡回教師に教えを乞うことは公の場ではできないので、夜ひそかに面会に来たのです。このように、この対話の舞台が夜に設定されたのは、光であるイエスと対照して、ニコデモが背負っているユダヤ教と世界の暗闇を象徴しているのでしょう。あるいはまた、この対話の神秘性を示唆していると見ることもできます。
 
 ニコデモはイエスに言います。「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師であることは、わたしたちは知っています。神が共におられるのでなければ、あなたが行っておられるようなしるしは、誰にもできないからです」(二節後半)。
 
 ニコデモはイエスに「ラビ」と呼びかけます。自ら指導的なラビであるニコデモは、イエスをラビ、すなわち律法の真意を説き明かし教えることができる教師と認めるのです。

 ヨハネ福音書は、ユダヤ教の用語である「ラビ」を、最初に訳をつけて用い(一・三八)、その後も多く用いています。なお、新共同訳と岩波訳は「ラビ」をそのまま用いていますが、他の邦訳は「先生」と訳しています。 

 「わたしたち」、すなわちユダヤ教徒とその指導者たちも、イエスがなさっている「しるし」を見ては、イエスが「神のもとから来られた教師」であることを認めざるをえません。ニコデモはイエスを、たんに「父祖の言い伝え」を教える教師ではなく、神から遣わされ、神から与えられた知恵をもって教える教師であることを認めています。その根拠として、「神が共におられるのでなければ、あなたが行っておられるようなしるしは、誰にもできないからです」と言っています。
 
 この福音書は、イエスが行っておられる奇跡の業は、神がイエスと共におられるという霊的な現実を、目に見える形で指し示す「しるし」であるとしています。これは著者の立場であるだけでなく、ユダヤ教の立場でもあります。ユダヤ教では、モーセの場合がそうであったように、終わりの時に現れる「モーセのような預言者」もモーセのような「しるし」を現すことを期待されていました。そうである以上、ユダヤ教徒もニコデモと一緒に、イエスが行われた業を見て、イエスが神のもとから来られ、神が共におられる教師であることを認めるべきである、と本節は主張しているのです。
 
 ところが、実際にはユダヤ教会堂は、イエスのなされたしるしを見ながら、それをイエスが「神のもとから来られた教師」であることの「しるし」であるとは認めず、「魔法使い」とか「詐欺師、ぺてん師」と呼んで、イエスを罵倒し、退けました。安息日の律法を破るような者が「神のもとから来た教師」であるはずがないという判断からです。ニコデモがイエスの力ある業を見て、それをイエスが「神のもとから来られた教師」であることの「しるし」と理解したのは、ユダヤ教徒の中では例外です。ヨハネ福音書はユダヤ教会堂に向かって、ニコデモのように「しるし」を認めて、イエスを「神のもとから来られた教師」として受け容れるように迫っているのです。

新しく生まれる

 しかし、ニコデモのように、「しるし」を見てイエスを「神のもとから来られた教師」であると信じる信仰の次元に留まっていては、イエスがおられる霊的現実に入っていくことはできません。この対話の導入部をなしている前の段落(二・二三〜二五)で見たように、「しるし」を見て信じた人たちに、イエスはご自分をお委せになりませんでした。そのような次元の信仰では、イエスとの間に決定的な溝が残ったままです。イエスは「しるし」を見て信じるニコデモに、「しるし」が指し示している霊的現実に入る道を説かれます(三節以下)。

 イエスはニコデモに答えて言われます、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(三節)。
 
  「新しく」と訳した語《アノーセン》は「上から」という意味もあります。五節との並行関係からすると、イエスは「上から」という意味で使っておられるのでしょうが、ニコデモは「新しく」、「もう一度」の意味にとって、イエスの言葉を誤解します。彼の誤解を説明するために、この節では「新しく」と訳しておきます。「上より」と訳すと、ニコデモの誤解による対話の余地がなくなるからです。
 
  ここに「神の国を見る」という表現が出てきます。共観福音書ではイエスの宣教の主題として数多く用いられている「神の国」は、ヨハネ福音書ではここと五節に出てくるだけで、他では用いられていません。おそらく著者はここで、この表現を含む伝承をそのまま用いているのでしょう。ヨハネ福音書の関心は終末的な「神の国」ではなく、現在の霊的現実である「永遠のいのち」です。「神の国を見る」は、「神の国」または「神の支配」と呼ばれる霊的現実を体験的に知ることであって、五節の「神の国に入る」と同じと見てよいでしょう。著者にとっては、両方とも永遠の命の現実に入ることを指しています。
 
  「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」、すなわち、「人は新しく生まれなければ、永遠のいのちを受け継ぐことはできない」のです。これはこの福音書の基本的な使信です。ユダヤ教でも「神の国に入る」あるいは「永遠のいのちを受け継ぐ」ことは最終目標とされていました。純粋で熱心なユダヤ教徒の青年はイエスに、「善い師よ、永遠のいのちを受け継ぐには、何を為すべきでしょうか」と尋ねています(マルコ一〇・一七)。ヨハネ福音書は、ニコデモにユダヤ教を代表させて、ユダヤ教に向かって、永遠のいのちを受け継ぐには「何をなすべきか」を問うのではなく、「新しく、上より生まれる」必要があることを告知し、新しく生まれるための道を説くのです。

霊から生まれる

 ファリサイ派の教師であるニコデモは、「神のもとから来られた教師」であると認めたイエスから、律法の理解や満たし方について新しい教えを期待していたのでしょう。ところが突然、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの答えを聞いて、その意外さに驚き、こう口走ります。

 「人間は年老いてから、どうして生まれることができるでしょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれてくるというようなことができるのでしょうか」(四節)。
 
 ニコデモはイエスの言葉《アノーセン》を「新しく」と理解して、イエスは「もう一度」《デウテロン》(二度目を意味するギリシア語)肉体が生まれることを語っておられるのだと誤解するのです。年老いていてもいなくても、人間が「もう一度母親の胎内に入って生まれてくる」というようなことはありえません。それはあまりにも分かりきったことですが、そんなことがあるのかと思わず問い返しているところに、ニコデモの驚きと狼狽ぶりが出ています。
 
 ヨハネ福音書では、イエスが霊の次元のことを語っておられるのに、それを聴いた人間が霊の次元を理解できず、あくまで地上の体験の範囲内で理解しようとして見当違いの質問をするという場面がしばしば出てきますが、ここもその典型的な一例です。ニコデモの見当違いを正すために、イエスは「新しく生まれる」ということの意味を説明されます。
 
 「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」(五節)。
 
 イエスが「新しく生まれなければ」と言われたのは、「もう一度母親の胎内に入って生まれてくる」のではなく、「水と霊から生まれる」ことなのです。イエスは、この意味で「上から《アノーセン》」生まれることを語られたのですが、ニコデモには理解できませんでした。それで、イエスが「上から《アノーセン》」生まれることの中身を、「水と霊から生まれる」ことだと語り直されます。
 
 「水と霊から生まれる」という表現は、バプテスマを受けて聖霊の賜物にあずかる体験を指していると見られます。しかし、水は霊の象徴であって、実質的には霊だけが人を新しく生まれさせる力であることは、同じ事実を語る六節と八節で水は触れられることなく、「霊から生まれる」ことだけが語られていることからも分かります。
 
 ヨハネ福音書は復活者キリストを「聖霊によってバプテスマする方」として宣べ伝えています。水でバプテスマを授けた洗礼者ヨハネに、「水でバプテスマするようにわたしを遣わされたその方が、わたしに言われた。『御霊が降って、ある人の上に留まるのを見たら、その人こそ聖霊によってバプテスマする方である』。わたしは見たので、この方こそ神の子であると証ししたのである」(一・三三〜三四)と証言させることによって、ヨハネ福音書は水のバプテスマが聖霊によるバプテスマの準備であり象徴であることを強調するのです。実質的に、人を「上から生まれさせる」のは、水ではなく聖霊なのです。

 ヨハネ福音書が、水のバプテスマと対比して聖霊のバプテスマを強調していることについては、『天旅』二〇〇三年4号21頁「聖霊によってバプテスマする方」の項を参照してください。 

 今ここで、その聖霊によるバプテスマ、すなわち復活者キリストが信じる者に与えてくださる聖霊によって、それを受ける者の身に起こる出来事が語られることになります。
 
 「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である」(六節)。
 
 まず、霊と肉の次元の違いが対比されます。「肉から生まれるものは肉である」というのは、肉体から生まれるものは肉体にすぎないという意味も含んでいますが、それだけでなく、人間の側の行為や努力で生み出される結果は人間性の限界を超えることができないこと、すなわち時間や死に限界づけられた、はかないもの、無常なものにすぎないことを意味しています。

 このように「肉」《サルクス》が生まれながらの人間本性を指す用例は、パウロに圧倒的に多く、共観福音書ではごく僅かですが、ヨハネ福音書ではかなり出てきます。 

 それに対して「霊から生まれるものは霊である」、すなわち神の御霊によって人間の内に生まれる現実こそ、死に定められた人間性に限界づけられないで、神とかかわりを持ち、永遠性を宿す霊的現実でありうるのです。
 
 ここで注意すべきことは、肉(人間本性)と対立するものとして語られる「霊」《プニューマ》は、人間に属するものではない霊、すなわち神の霊を指していることです。霊と肉の対立は、著者の思想的特徴である二元論の一つの現れですが、人間の内的霊的な面と外的物質的な面というギリシャ思想の二元論ではなく、神的本質を担う御霊と生まれながらの人間本性の対立というパウロ的な二元論と同質のものです。この福音書が「霊から生まれる」と言うとき、それは神の御霊によって人間の内に生じる新しい霊の次元を指しています。けっして人間の内面的精神的活動の結果を指しているのではありません。

 単数形の「霊」《プニューマ》に定冠詞をつけて神の御霊を指す用法は、パウロに特徴的な用法ですが、ヨハネ福音書も同じく定冠詞をつけた単数形で《プニューマ》という語を用いています。ただ、「水と霊」というような対句の場合や、「霊である」というような述語の場合は定冠詞はついていません。 

 イエスの言葉を理解しかねて戸惑うニコデモに、イエスはさらに「霊から生まれる」という事態を比喩で説明されます。
  
 「あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしがあなたに言ったことを驚いてはならない。風は欲するままに吹く。あなたはその音を聞くが、風がどこから来てどこへ行くのか知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(七〜八節)。
  
 ギリシア語の《プニューマ》は、息、風、気、霊というような意味で用いられる語です。初めの文(八節前半)では、「吹く」とか「その音を聞く」と語られていることから、この文の《プニューマ》は「風」を意味していることは明らかです。この風の姿を比喩として、「霊《プニューマ》から生まれる者」の姿が「それと同じである」と語られます(八節後半)。先の《アノーセン》の場合もそうでしたが、この福音書は同じ語がもっている二つの違った意味を巧みに組み合わせて、霊の世界の真理を語ります。
  
 この風の比喩で大切なことは、風は「欲するままに吹く」とか、「あなたは風がどこから来てどこへ行くのか知らない」と言われているように、人間は風をコントロールすることはできないという事実です。風があることは、「その音を聞く」ことで分かります。すなわち、御霊の働きがあることは、力ある業(奇跡)が現れたり、人間の在り方を変えるという事実によって知ることができます。しかし、その御霊の働きを人間の側からコンロールすることはできません。御霊は「欲するままに」働かれます。人間は、ひれ伏して、あるいは虚心に、その働きに身を委ねるだけです。
 
 では、どうすれば御霊の働きを身に受けることができるのでしょうか。この問題はすぐ後に取り上げられることになりますが、ここでは御霊の働きが、まったく人間の側の計らいとか努力を超えた、神の側から一方的に与えられる事態であることが指し示されています。

ヨハネ共同体の証言

 イエスはニコデモに、「新しく生まれる」とは、「もう一度母親の胎内に入って生まれてくる」ことではなく、「霊から生まれる」ことだと解説されましたが、ニコデモは「霊から生まれる」ということがますます分かりません。ニコデモはなお一層驚いてイエスに言います、「どうしてそのようなことが起こりえましょうか」(九節)。

 イエスは答えて彼に言われます、「あなたはイスラエルの教師でありながら、このようなことが分からないか」(一〇節)。神の民イスラエルの教師であるならば、神と人間との関わりについてのこの基本的な事態を理解して当然であるのに、それが分かっていないのはどうしたことかという非難です。
 
 ニコデモが「霊から生まれる」ということを理解できないのは当然です。実は、ニコデモが代表する当時のユダヤ教には、神の霊によって生まれることが神と人間の関係の土台であるという思想はありません。ユダヤ教でも神の霊の働きは重視されています。しかし、神の霊は昔モーセをはじめとする預言者たちに働き、彼らを通してイスラエルの民に語りかけられたが、その言葉は今は「トーラー」となって民に与えられているのだから、人間はこの「トーラー」(律法)を守り行うことで、神の民として神との関わりに生きることができるというのが、ユダヤ教の基本線です。もっとも、クムランのエッセネ派などごく一部の人たちには、終わりの時に神の霊によって民が再生することを待ち望む思想はありましたが、ユダヤ教全体としては、人間は「新しく生まれる」ことがなくても、そのままで律法を行い、神の民として生きることができるというのが基本的な確信です。

 エッセネ派の文書とされる「死海文書」には、人間本性の腐敗を語り(たとえば『宗規要覧』一一・九、『感謝の詩篇』四・三〇など)、神の霊による再生を語る箇所が僅かありますが(たとえば『宗規要覧』三・六〜九など)、それも厳格な律法順守の要求の中に埋没しているようです。 

 このようなユダヤ教会堂の民に向かって、ヨハネ福音書は「霊によって生まれる」のでなければ、神の国を見ることも入ることもできないのだと、神と人間の関係の基本を見直すように迫ります。それで、イエスがニコデモに語っておられる言葉が、いつのまにかヨハネ共同体がユダヤ教共同体に語りかける言葉と重なって語られることになります。
 
 「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(一一節)。
 
 「アーメン」で始まる部分は、イエスがニコデモに語っておられる言葉として、「わたしはあなたに言う」と単数形ですが、それに続く文は、「わたしたちは証ししている」とか、「あなたがたは受け入れない」と複数形になっています。これは、この福音書を生み出したヨハネ共同体の「わたしたち」が、論争相手のユダヤ教会堂の「あなたがた」に向かって語りかける言葉が、ニコデモに対するイエスの言葉の中に溶けこんだ結果です。
 
 著者はヨハネ共同体を代表して語ります。「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」。著者とその共同体は、イエス・キリストの出来事(イエスの地上の働き、十字架の死、復活の全体)を見て、その方を信じ受け入れ、そのキリストにあって神の御霊の働きを体験し、「霊によって生まれる」とはどういうことかを知っているのです。その「わたしたち」ヨハネ共同体が現に体験して「知っていること、見たこと」を証言しているのに、「あなたがた」ユダヤ人はユダヤ教の教理に反するからという理由で、わたしたちの証言を受け入れようとしない、と著者はユダヤ人の不信を嘆きます。

 著者がイエスの地上の働きの目撃証人であることについては、『もう一人の弟子の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。 

 著者はさらに続けます。「わたしがあなたがたに地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したとしても、どうして信じることができようか」(一二節)。
 
 語り手は再び「わたしが」と単数形になり、イエスとニコデモとの対話の形に戻っていますが、前節(一一節)で「わたしたちは」と本音が出て以来、語られる内容はヨハネ共同体の証言としての面が強く出てくるようになっています。イエスの言葉と共同体の福音証言の「継ぎ目のない重なり」が、この福音書の大きな特徴ですが、ここでも一〇節から始まるニコデモへのイエスの答えが、いつの間にか共同体の福音証言へと移行していくことになります。
 
 イエスは地上でユダヤ人に語りかけられました。地上の体験を比喩としながら、「神の国」のことを語られました。しかし、ユダヤ人はイエスの告知を受け入れませんでした。そうであれば、イエスが、またイエスを信じた者が直接「天上のこと」、すなわち「霊から生まれる」など霊界の現実を語ったとしても、どうして信じることができようか、と現在のユダヤ人の不信が嘆かれます。

天から降った人の子

 しかしここで、イエスこそ「天から降ってきた者、すなわち人の子」であり、「天上のこと」を地上の人間に語ることができる方である、とこの福音書の基本的な告知が出てきます。

 「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかに、天に昇った者はない」(一三節)。
 
 イエスは「天から降ってきた者」であるという告知が、この福音書の核心です。すでに序詩において、イエスは神と共におられた神のひとり子が肉体を取ってわたしたち人間の間に宿られた方である(一・一四)と謳ったこの福音書は、その全体を通して繰り返し、イエスが「父から(この世に)遣わされた方」、「父の元から来られた方」であることを強調してやみません。ここでは、イエスがそのような方であるから、イエスが語られる「天上のこと」は信じるべきであることが主張されています。
 
 ユダヤ教黙示思想では、エノクやエリヤは天に昇って、天界の奥義《ミュステーリオン》を授けられ、それを地上の者たちに伝えたとされていますが、ヨハネ福音書は、天から降ってきた「人の子」であるイエス以外にはそのような奥義を授けられている者はいないと主張することによって、ユダヤ教黙示思想を克服しようとします。
 
  ここで著者は、「天から降ってきた者」に、「すなわち人の子」という説明を付けます。著者はこの福音書で、「天から降ってきた者のほかに、天に昇った者はない」と言って、イエスを天から降ってきて天に帰る方として、その地上の働きを語っています。同時に、著者はイエスがご自分のことを「人の子」と呼ばれたという伝承を受け継いでいるので、この福音書におけるイエスは、天から降ってきて再び天に帰る「人の子」という姿をとることになります。
 
  イエスが「人の子」という呼称を用いられたという同じ伝承を受け継ぎながら、共観福音書とヨハネ福音書とでは、その「人の子」を描く描き方が決定的に違います。共観福音書では、イエスがご自分を指すのに用いられたり、「受難する人の子」という新しい内容も入ってきていますが、なお終末論的な黙示思想的「人の子」像が保持されています。すなわち、将来地上の大いなる患難の後、宇宙的な破局を経て、雲に乗って天から現れて、神の支配をもたらす終末的な審判者であり救済者としての「人の子」です。それに対して、ヨハネ福音書ではそのような黙示思想的な待望ではなく、「人の子」はすでに世に来ておられる方として語られています。

 ヨハネ福音書の「天から降ってきた者、すなわち人の子」というキリスト論について、その大要は拙著『キリスト信仰の諸相』で、「ヨハネのキリスト証言」を扱った64〜74頁を参照してください。 

 このように、この福音書が「人の子」というユダヤ教黙示思想の用語を(ここだけでなくこの後も繰り返し)使用している事実は、この福音書のユダヤ教的背景が極めて強いことを示しています。すでにパウロは、異邦世界に福音を宣べ伝えるさい、ユダヤ教徒以外には理解できない「人の子」という黙示思想的用語を使わなくなっています。ヨハネ福音書がパウロ以後に異邦人環境で成立しているにもかかわらず、このようなユダヤ教独特の用語を使うのは、著者が直接イエスの「人の子」発言を聞いていた可能性や、著者の祭司階級の出身という強いユダヤ教背景、著者とその共同体が受け継いでいるイエス伝承、ヨハネ共同体での福音伝承の担い手がおもにユダヤ人であること、論争相手としてユダヤ教会堂が強く意識されているなどの理由が考えられます。「人の子」句だけではなく、他にもこの福音書のユダヤ教的背景を示す事実は多くあります。この福音書は異邦人にも語りかけようとしていますが、極めて濃くユダヤ教文書としての色彩を留めています。
 
 ヨハネ福音書では、「人の子」はすでに「天から降ってきた者」であり、やがて「天に昇る者」なのです。地上におられる「人の子」の立場からすれば、「天に昇る」のは将来のことですが、すでにキリストの出来事の全体を見ている著者の立場からすれば、「人の子」はすでに「天から降ってきた」だけでなく、すでに「天に昇った」と完了形で語られることになります(一三節)。この「天に昇る」ことが次節(一四節)で「人の子は上げられる」という形で、その出来事の意味内容が語られることになります。

上げられる人の子

 イエスはニコデモに語られます。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」(一四節)。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げた」のは、イスラエルの民がエジプトから救い出された後、四十年間荒野を旅した物語の中に出てくる出来事です。それは「トーラー」(モーセ五書)に記されていて(民数記二一・四〜九)、ユダヤ人であれば誰でもよく知っている物語です。その物語を知っていることを当然として前提しているところにも、この福音書のユダヤ教的背景がうかがえます。
 
 イスラエルの民はモーセに率いられて奴隷の家エジプトから脱出しました。しかし、荒野の旅の苦労に耐えかねて、神とモーセに逆らい、モーセを非難します。それで主が炎の蛇を民の中に送られたので、その蛇にかまれて多くの者が死にます。モーセが民のために執り成しをしたところ、主はモーセに「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」と言われます。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げます。この蛇を見上げた者は助かったという物語です。
 
 この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」出来事をモデルにして、「そのように人の子も上げられなければならない」と、イエスは語られます。これは、天から降ってきた「人の子」であるイエスが、十字架につけられて地上高く「掲げられ」、その苦しみを経て天に「昇る」ことが、「上げられる」という一つの動詞で描かれているのです。ここにも、一つの語に二つの意味を含ませて用いるこの福音書の特徴が出ています。ヨハネ福音書は十字架と復活というキリストの決定的な出来事を「上げられる」という一つの動詞で描くのです(他に八・二八、一二・三二〜三四)。「上げられた人の子」は、パウロが言う「十字架にされた姿の(復活者)キリスト」(コリントT二・二、ガラテヤ三・一)のヨハネ的表現です。
 
 この「上げられる」という動詞に「でなければならない」という語(ギリシア語では《デイ》)がついています。この語はユダヤ教、とくにユダヤ教黙示思想において、神の御旨とか御計画の実現が必然であることを語るときに用いられる用語です。神の御計画は実現しなければならないのです。その語が福音においては、イエスが約束されたメシアとして聖書の預言を成就する方であること、とくに十字架の苦難が必然であることを語るときに用いられます。聖書に預言されているように、人の子は多くの苦しみを受け「なければならない」のです(マルコ八・三一、ルカ二四・七)。
 
 たしかにこの用語の使用は、イエスの十字架の死を預言の成就と解釈した初期の教団から出ているのでしょう(ヘブライ語やアラム語には《デイ》に相当する語はないということです)。しかし、イエスご自身もイザヤ書五三章などの預言の中にご自分の使命を見ておられたことは十分ありうることですから、教団が福音を語るときに、イエスの言葉としてこの語を用いたとしても、それは理由のあることと受け取ることができます。
 


永遠の命を得るために

 このように「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」のは何のためなのか、その出来事の目的が語られます。

 「それは、彼を信じる者がすべて永遠の命をもつようになるためである」(一五節)。
 
 ヨハネ福音書は、他の福音書と比べると、イエスの十字架の意義を語ることが少ないように見られます。イエスを復活者キリストと宣べ伝える福音宣教は、その最初期からイエスの十字架の死を「わたしたちの罪のため」と意義づけ(コリントT一五・三)、終わりの日に神によって立てられた「贖罪所」であると告知してきました(ローマ三・二五)。それを受けて、共観福音書はイエスの十字架をイザヤ書五三章の成就とし、「人の子が来たのは、多くの人の身代金として自分の命を与えるためである」という言葉をイエスの言葉として伝え(マルコ一〇・四五)、また、最後の晩餐の席で過越祭を背景として、イエスご自身が十字架の死を罪の贖いとして、また新しい契約の血であると語られたと伝えています(マタイ二六・二八)。
 
 ところが、ヨハネ福音書にはこのような記事はなく、洗礼者ヨハネの「神の小羊」という証言が示唆する以外には、イエスの十字架の死がわたしたちの贖罪のための死であると語られることはほとんどありません。その中で、ここの「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」という一句が、イエスの死が贖罪のための死であることを指し示す重要な箇所になります。
 
 モーセは青銅で蛇を造り、それを竿の先につけて高く掲げました。青銅は、聖書では神の裁きを象徴しています。「青銅の額」(イザヤ四八・四)をもって神に逆らう民に向かって、「頭上の天は青銅となり」雨を降らせず(申命記二八・二三)、「青銅のような地」は作物を実らせない(レビ記二六・一九)と審判が告知されます。

 引用した申命記とレビ記の箇所は、協会訳は「青銅」、新共同訳は「赤銅」となっています。 

 「蛇」は人間を苦しめる霊的諸力の象徴です。神に背く人間には「炎の蛇」あるいは「火の蛇」が送り込まれ、その蛇にかまれて人間は苦しみ、死に至ります。「炎の蛇」は生きて活動する敵対的な霊力を象徴しています。その蛇が神の裁きによって死んでいる姿が「青銅の蛇」で象徴されているのです。荒野で青銅の蛇を仰ぎ見た人たちが助かったように、今十字架につけられた復活者キリストの中に、人を死に至らせる罪、自分の罪が裁かれていることを見る者は救われるのです。これは、使徒パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神は罪となさいました」(コリントU五・二一)と語ったことを、ヨハネ福音書はその独自の象徴言語を用いて語っているのです。

 「青銅の蛇」は民数記の中で物語られているだけでなく、実際にエルサレム神殿の中に置かれていて、「ネフシュタン」と呼ばれて病気の癒しなどを求める民衆の信仰を集めていたようです。ヒゼキヤ王がこれを偶像礼拝として破壊しますが(列王記下一八・四)、その後もこの伝承は救いの象徴と理解され(知恵の書一六・五〜七)、その理解はヨハネ福音書にも受け継がれて用いられることになります。 

 主が荒野で上げられた蛇を仰ぎ見た者を救われたように、今、神は「上げられた人の子」、すなわち復活者キリストの十字架を贖罪の場としてお立てになり、このキリストにある贖罪によって、信じてこの方に合わせられる者を救われるのです。そして、ヨハネ福音書は、救われることを「永遠の命を得る」と表現します。モーセが旗竿の先に掲げた蛇を仰ぎ見た者は「命を得た」と書かれているように(民数記二一・九)、「彼を信じる者はすべて永遠の命をもつようになる」のです(一五節)。この地上の命が死を免れて助かるのではなく、地上の命とは別種の、死んでも死なない命、「死んでも生きる、決して死ぬことはない」(一一・二五〜二六)と言われる命、「永遠の命」を得るのです。
 
 この「永遠の命」がヨハネ福音書の主題ですが、この形ではここに始めて登場します。この福音書は、わたしたちが生まれながらに生きている命を《プシューケー》と呼び、それと区別して神の御霊によって与えられる新しい命を「永遠の命」と呼びますが、「永遠の」という句をつけないでたんに「命」《ゾーエー》と呼ぶ場合も数多くあります。すでに序詩で「《ゾーエー》こそ人々の光である」と謳われており(一・四)、最後でこの福音書が書かれた目的を語るところでも「《ゾーエー》を受けるため」と用いられています(二〇・三一)。
 
 しかし、この「命」の始まりを語るニコデモとの対話においては、その命が生まれながらの命《プシューケー》とは違うことを強調するために、丁寧な「永遠の命」という形が用いられ、すぐ後に続く福音の核心を語る重要な文(三・一六)においても、この「永遠の命」という形が繰り返して用いられます。「新しく生まれる」とは、生まれながらに持っている命とは別種の「永遠の命」がわたしたちの中に生き始めることを指しています。
 
 「永遠の命」とは、ユダヤ教、とくにユダヤ教黙示思想において、本来「来るべき世」において受ける命を指していました。来るべき世において、神の民に約束されている命を受け継いで、栄光にあずかるためにはどうすればよいか、これがユダヤ教の中心問題でした。イエスに、「善い師よ、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた青年の問いは(マルコ一〇・一七)、当時のユダヤ教の根本問題を代弁しています。パウロは、生まれながらの命とは別種の、聖霊による新しい命の質を明確に自覚して語っていますが、そのさい「永遠の命」という形を用いることは少なく(「永遠の命」という句はパウロ七書簡で僅か五例)、その形を用いるときは、ユダヤ教本来の「来るべき世における命」という意味合いが残っています(たとえばローマ六・二三)。
 
 キリストにあって神から賜り、現在わたしたちが生きている新しい命を「永遠の命」と呼び、それを福音の中心主題としたのはヨハネ福音書です。イエスは「神の国」を宣べ伝え、パウロは「霊なるキリスト」を告知しました。ヨハネになって「永遠の命」が福音の主題となります。そしてこの主題が、その後のキリスト教の性格を決定する重要な要素となります。

 ヨハネ福音書が「永遠の命」を主題とする福音書であることについては、拙著『神の信に生きる』の第W部「永遠の命への道」にあるヨハネ福音書に関する三回の講話を参照してください。 



神はそのひとり子を与えた

 ところで、一〇節から始まるニコデモへのイエスの答えはどこで終わるのでしょうか。イエスの言葉が始まるところにつけられたカギ括弧は、どこで閉じられるのでしょうか。写本にはいっさい句読点や引用符などは用いられていませんから、一〇節から始まるイエスの言葉をどこまで続くと見るかは、解釈と翻訳の問題となります。事実、各種の翻訳を見ますと、その終わり方は様々です。その中で、一五節で終わると見るもの(たとえば文語訳、協会訳)と、二一節まで続くと見るもの(たとえば新共同訳)が大勢を占めています。底本は一三節の終わりに大きな区切りを置いて、一四節から二一節までをひとまとまりとして続けています。

 先に見たように、一〇節でニコデモに対するイエスの言葉として始まりながら、一一節では「わたしたち」(ヨハネ共同体)が「あなたがた」(ユダヤ教会堂)に語りかける言葉になっていました。一六〜二一節では、もはや「わたしはあなたに言う」も「わたしたちはあながたがたに言う」もなく、御子を信じることが救いであると、もっぱら三人称を用いた文体で救いが告知されています。ニコデモに対するイエスの言葉は、一一〜一五節を経て、一六節以下では世に対する著者の福音告知の言葉に移行していると見られます。しかし、すでに一三〜一五節も一六節以下と密接に結びついており、一一節以降どこでイエスの言葉が終わって著者の福音告知の言葉に移っているのか、決定することは困難です。
 
 私訳では一応一五節でカギ括弧を閉じていますが、先にも触れたように、イエスの言葉と著者の福音告知の言葉との「継ぎ目のない重なり」がこの福音書の特色です。ニコデモに対するイエスの答えを伝える著者の筆は、いつの間にかヨハネ共同体がユダヤ教会堂に、ひいてはこの世に語りかける福音告知の言葉に移行していきます。そして、一六節で著者の福音告知の核心を語る言葉、そして新約聖書の中でもっとも有名な言葉となって噴出します。
 
 「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった。それは、すべて彼を信じる者が滅びることなく、永遠の命をもつようになるためである」(一六節)。
 
 イエスはニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」(一四節)と言われました。これは、聖書をよく知っており、黙示思想に親しんでいるユダヤ人には意味をなしますが、ユダヤ教徒ではない異邦人には何のことか分かりません。著者は、この一四節の言葉が指している十字架・復活のキリストの出来事を、「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった」出来事として、その意義を広く異邦世界に告げ知らせます。

 「神はそのひとり子を与えた」という語り方は、イエスの言葉とするよりは著者の世に対する告知の言葉と見る方が自然ですので、少なくとも一六節からは著者の福音告知の言葉に移っていると見てよいでしょう。 

 神が御子を「与えた《ディドーミ》」という表現は、新約聖書の中では珍しい表現です。「わたしのためにご自身を献げられた《パラ・ディドーミ》神の子」(ガラテヤ二・二〇)や、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された《パラ・ディドーミ》方」(ローマ八・三二)というような表現に見られるように、神が御子を万人の贖いのための死に「引き渡された」《パラ・ディドーミ》ことを指しています。アブラハムがその子イサクを祭壇に捧げた創世記(二二章)の記事が背景にあると見られます。

 復活によって神の子と立てられた方が、地上で十字架刑により死なれたのは何故か、その意義を明らかにして世に告げ知らせることは、最初期の教団にとって最大の課題でした。教団はイエスの言葉と聖霊に導かれ、聖書に従って、この出来事を「わたしたちの罪のため」の贖いの死と理解し、そう宣べ伝えました。そして、すでにパウロにおいて、その贖いの供え物としてのイエスの死が神の愛の表現であることが自覚されていました(ローマ五・八、八・三一〜三九)。ヨハネになると、キリストの十字架は贖罪としての意義よりも神の愛の啓示としての意義が前面に出てくることになります。
 
 「人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」(一五・一三)。命という自分にとって最も価値あるものを犠牲にして友のために尽くすこと、たしかにこれほど大きな愛はありません。ヨハネはイエスの死にこのような愛を見ています。しかし、親にとっては自分の命よりも子供の命の方が大事です。ましてその子が「ひとり子」である場合はなおさらです。ヨハネは、このような人間の間の愛の姿を下敷きにして、イエス・キリストの十字架を神が御自身にとって何よりも大切な「ひとり子」イエスを、世の救いのために死に引き渡された出来事、すなわち神の世に対する愛の出来事として描きます。
 
 「ひとり子」の命を犠牲にする苦悩は、すでに創世記(二二章)にアブラハムがその子イサクを犠牲として捧げる物語に描かれていました。「神はそのひとり子をお与えになった」という一文は、十字架の出来事におけるイエスご自身の苦しみ(それはゲッセマネの祈りの情景に描かれています)だけでなく、イエスを遣わされた父なる神の苦しみを垣間見させます。復活によって神の子と立てられたイエスの十字架上の死は、人間の言語では表現できない神の愛の秘義です。この秘義は、講解によって解き明かされるものではなく、聖霊によって信じる者の心に注がれる体験(ローマ五・五)を通し、一人ひとりが生涯の歩みの中で悟るべき課題です。

神は世を愛された

 ところで、「世」とは、この福音書では神に背を向け、神に敵対する人間世界の総体です。「神が世を愛された」というのは、神が自分に敵対する者たちを愛されたということです。すでにパウロは、「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです」(ローマ五・八)と言っています。このことを、ヨハネは「世」という用語を用いて語っているのです。自分を愛する者を愛するのではなく、自分に敵対する者を愛するところに、神の愛の質が表されています。すなわち、イエスが取税人や遊女をそのまま受け入れた愛されたように、神はその愛を受ける資格のない者たちを、無条件で愛されるのです。神の愛が無条件・絶対であることが「神は世を愛して」の一句に込められています。

 神がこのように無条件絶対の愛をもって世を愛し、そのひとり子をお与えになったなったのは何のためか。「それは、すべて彼を信じる者が滅びることなく、永遠の命をもつようになるためである」のです。
 
 先に一五節の講解で、「永遠の命」こそこの福音書の主題であること、またこの福音書において「永遠の命」とはどういう質の命を指しているのかについて触れました。一四〜一五節で、ユダヤ教を代表するニコデモに、荒野で上げられた蛇という聖書の出来事を予型として語られたことが、この一六節で「世」という語を用いて、著者ヨハネが世界に向かって語る福音として、語り直されています。
 
 「滅びる」というのは、永遠の命を得ることができず、永遠に神から切り離された状態に陥ることを意味します。自分自身を失う、あるいは「自分の命を失う」(マルコ八・三六)の別表現と言ってもよいでしょう。この一六節の宣言を出発点として、次の一七節以下で、神が御子を世に遣わされたことの意義が説かれます。

ヨハネ福音書における「裁き」

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(一七節)。

 共観福音書には、終わりの日に神が「人の子」を遣わして世界を裁くという黙示思想的な面が残っていますが、ヨハネ福音書には黙示思想的な終末審判の思想はなく、御子の派遣は「世が救われるため」だけになります。黙示思想では終わりに日に現れると待ち望まれている「人の子」は、ヨハネ福音書ではすでに世に来られ、「上げられて」その働きを完成されたのです。その出来事は、「すべて彼を信じる者が滅びることなく、永遠の命をもつようになるため」、すなわち「世が救われるため」です。
 
 「御子を信じる者は裁かれることなく、信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の御名を信じなかったからである」(一八節)。
 
 この御子を信じる者は永遠の命を与えられ、神との交わりに入っているのですから、もはや神からの断絶を意味する「裁き」はありません。それに対して、神との交わりに入るための唯一の道として神が世に遣わされた「ひとり子」を信じない者は、神との交わりに入ることを自分から拒否したのですから、そのことがすでに神からの断絶、すなわち「裁き」なのです。
 
 「裁く」を意味するギリシア語《クリノー》は、本来「分ける」という意味の動詞です。パウロ書簡や共観福音書では、裁きはなお将来のこととして扱われている面もありますが、ヨハネ福音書では、裁きは御子を信じるか信じないかによって、人が光に属する者か闇に属する者かに「分けられる」という現在の出来事として扱われています。
 
 神が御子を世に遣わされたのに、その御子を信じないで、「信じない者はすでに裁かれている」と言われるようになるのはなぜか、続いてその理由が述べられます。
 
 「人々は自分の行いが悪いので、光が世に来たのに、光よりも闇を愛した。それがすなわち裁きである」(一九節)。
 
 イエスは「光」として世に来られました(一・四〜九、八・一二、一二・三五、一二・四六など)。ところが、「人々は自分の行いが悪いので、光よりも闇を愛した」のです。世がイエスを信じないで闇の中に留まっているのは、自らそれを求めてそうしているのです。この場合の「愛した」は「執着した」という意味になります。このように、闇を愛し、自ら求めて闇の中に留まっていることが、その人たちに対する神の審判です。彼らは、自分が「光よりも闇を愛した」ことによって闇に属する者の側に「分けられている」、すなわち「裁かれている」のです。ヨハネ福音書では、神の審判は将来終わりの日に行われるものではなく、現在すでに始まっています。
 
 「悪を行う者は光を憎み、自分の行いが明るみに出ないように、光のもとに来ない。真理を行う者は、自分の行いが神によってなされたものであることが明らかになるように、光のもとに来る」(二〇〜二一節)。
 
 ここで注意すべきことは、「行いが悪い」とか「悪を行う者」というときの「悪」は道徳的な善悪の「悪」とか、律法の基準から見た「不義」というような意味ではないということです。もし道徳的な悪とか律法に反する不義を行う者は光であるイエスのもとに来ないのであれば、それは取税人や遊女のような人たちがイエスのもとに来て、イエスが彼らを受け入れられた事実と矛盾します。
 
 ここでは、「悪を行う者」は「真理を行う者」と対照され、両者の光に対する態度が、並行する構文で描かれています。両者の対比は、倫理的な善悪の対比ではなく、むしろ「虚偽を行う者」と「真理を行う者」という著者独自の対比で用いられていると見られます。すなわち、実在の根底と関わりなく、見える世界との関わりだけの表面的な生き方をする者と、霊的なリアリティーに根ざした生き方をする者の対比です。「行い」《エルガ》とは個々の行為ではなく、生き方の全体を指しています。
 
 前者(悪を行う者、虚偽に生きる者)は、自分の生き方が虚偽である(リアリティーがない)ことが暴かれないように、自分の存在が空虚であり無意味であることが明白にならないように、自分の実相を照らし出す光のもとに来ようとはしません。それに対して後者(真理を行う者)は、「真理を行う」ことは自分の力でできることではなく、神が内にあって働いてくださる結果であることを知っており、その事実が明らかになるように、それによって神の栄光が現れるために、人間の真実を照らし出す光のもとに来て、光の中に留まることを願います。
 
 こうして、世の光として来られたイエスが、彼を信じるか拒否するかによって、地上の人々を光に属する者たちと闇に属する者たちに分けられるのです。これが裁きです。ヨハネ福音書では、神の裁きは将来のことではなく、現に今地上で始まっています。


  8 イエスと洗礼者ヨハネ (3章 22〜36節)

 22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に来て、彼らと共にその地に留まり、バプテスマを授けておられた。 23 ヨハネもまたサリムの近くのアイノンにいて、バプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々がやって来て、バプテスマを受けていた。 24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
 25 さて、ヨハネの弟子たちの中から、清めのことについて一人のユダヤ人との間に論争が起こった。 26 彼らはヨハネのもとに来て、彼に言った、「ラビ、ヨルダン川の向こうであなたと一緒にいた人、あなたが証しされた人、あの人がバプテスマを授けていて、皆があの人のところに行っています」。 27 ヨハネは答えて言った、「人間は、天から与えられているのでなければ、何一つ受けることはできない。 28 自分はメシアではなく、その方の前に遣わされた者であると、わたしが言っていたことは、あなたがた自身が証ししてくれている。 29 花嫁を迎えるのは花婿である。花婿の友人は立って耳を傾け、花婿の声によって喜びに喜ぶ。わたしのこの喜びは満たされている。 30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。
 31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来る方は、[すべてのものの上におられる。] 32 見てきたこと、聞いたことを証ししておられるが、その方の証をだれも受け入れない。 33 その方の証を受け入れる者は、神が真実であることを確証したのである。 34 神が遣わされた方は、神の言葉を語る。神が御霊を限りなく与えておられるからである。 35 御父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお委ねになった。 36 御子を信じる者は、永遠の命をもっている。だが、御子に従わない者は、命を見ることなく、神の怒りがその上に留まる。

イエスのバプテスマ活動

 「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に来て、彼らと共にその地に留まり、バプテスマを授けておられた」(二二節)。

 イエスは過越祭の間エルサレムにとどまり、病人を癒すなどのしるしを行われました(二・二三)。その活動の期間中のある夜に、ニコデモとの対話が行われました。「その後」、すなわち過越祭でのエルサレムでの活動の後(過越祭の期間中はユダヤ人はエルサレムにとどまるように律法に定められていました)、イエスはエルサレムを去って、「弟子たちとユダヤの地に来て、彼らと共にその地に留まり、バプテスマを授け」る活動をされます。「ユダヤの地」は、ガリラヤやサマリアとは区別されるパレスチナ南部の地域で、エルサレムがその中心都市になります。イエスは弟子たちを連れて、エルサレムからヨルダン川に下って行き、そこで人々にバプテスマを授ける活動をされます。
 
 イエスが「バプテスマを授けておられた」という証言(ここだけでなく四・一にもあります)は、共観福音書にはなく、ヨハネ福音書だけが伝えている重要な伝承です。後で(四・二)、おそらく福音書の編集者が、バプテスマを授けたのはイエス自身ではなく弟子たちであったという訂正記事を挿入していますが、この段落の記事は明らかにイエス自身がバプテスマを授けておられた事実を伝えており、そのような訂正を入れる余地はありません。この事実は、イエスの宣教活動も初期(ヨハネが投獄されるまでの時期)においては、洗礼者ヨハネと同じく、審判の切迫を訴え、悔い改めを迫る終末的な宣教であったことを物語っています。マタイも、イエスの宣教を、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、洗礼者ヨハネの宣教とまったく同じ言葉で要約して、そのことを示唆しています(マタイ三・二と四・一七)。イエスの宣教運動が洗礼者ヨハネのバプテスマ運動から始まることは広く認められていますが、それはイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになったという事実だけでなく、イエスが初期においては洗礼者ヨハネと同じ使信をもってバプテスマ活動をされていたという事実を含むものであることを忘れてはならないと思います。

 イエスが洗礼者ヨハネと同じ使信を携えてバプテスマ活動をされ、そこから「神の国」宣教の活動を始められた事実は、「語録資料Q」の性格(終末的預言か知恵の格言か)を考える際に考慮すべき重要な要素であると考えられます。 

 ところが、洗礼者ヨハネが投獄された後、ガリラヤで宣教を始められてからは、イエスはバプテスマを授けることなく、バプテスマについて語られることもありません。イエスの「神の国」の宣教は、洗礼者ヨハネとは別の原理または次元のものとなっています。この事実は、ユダヤの地でバプテスマ活動をしておられた時期に、何か決定的な霊的体験をされたことを示唆しています。イエスに聖霊が降ったという記事と荒野での試みの記事は、この決定的体験を核として形成された記事であると推定されます。ガリラヤでのイエスの宣教は、この決定的体験によって、洗礼者ヨハネとは違ったものになります。なお、この決定的体験は、ヨハネ福音書ではすでに一章において前提されているので、イエスは洗礼者ヨハネが投獄されるまでかなりの期間、洗礼者ヨハネと並行してバプテスマ活動をされたことになります。
 
 マルコ福音書とマルコに従う共観福音書は、イエスがバプテスマ活動をされたことをいっさい伝えていません。洗礼者ヨハネが投獄された後、イエスがガリラヤに退いて、もはやバプテスマを授けられなくなった時期とガリラヤでの出来事だけを伝えています(エルサレム上京は最後の受難のための一回に限られます)。それは、マルコの神学と意図に基づく再構成であって、ヨハネ福音書が伝えるイエスの姿の方が、事実に近いのではないかと考えられます。

清めに関する論争

 洗礼者ヨハネも投獄されるまでは、別の場所でバプテスマ活動を続けていました。
 「ヨハネもまたサリムの近くのアイノンにいて、バプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々がやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」。(二三〜二四節)

 「サリムの近くのアイノン」とはどこか、現在この地を特定することはできません。「アイノン」はセム系言語で泉を意味する語から派生した地名であると言われています。この「サリム」は、サマリヤのナーブルスの東にある町とする説(オールブライト)もありますが、後の伝承(エウセビウス)はベテシャン(スキュトポリス)南12キロの地としています。前者はサマリヤの山中になりますが、後者はヨルダン渓谷(死海よりもややガリラヤ湖寄り)にあり、バプテスマ活動の場所としては適切です。どちらも、イエスがバプテスマを授けておられた「ユダヤの地」からは遠く離れています。 

 イエスは「ユダヤの地」でバプテスマを授け、洗礼者ヨハネはそこから離れた「サリムの近くのアイノン」でバプテスマを授ける活動を続けます。ここに一種の競合関係が生じることになります。二六節でその競合関係が直接取り上げられることになりますが、その前に解釈困難な節が入って来ます。
 
 「さて、ヨハネの弟子たちの中から、清めのことについて一人のユダヤ人との間に論争が起こった」。(二五節)
 
 「一人のユダヤ人」とされている箇所は、「ユダヤ人たち」と複数形を用いている写本が、少数ながらあります。洗礼者ヨハネの弟子たちの中のある者が、「一人のユダヤ人」あるいは「ユダヤ人たち」と、清めのことについて論争したというのは、どういう事態であるのか、正確に確定するのは困難です。「清めのこと」というのは、この文脈ではバプテスマのことを指していると考えられます。水に浸される儀礼は罪や汚れを清める儀礼として意義づけられて行われていました(日本の禊ぎも同じです)。クムランのエッセネの人たちは日ごとに沐浴して清い者になることを目指しました。預言者は、終わりの日に神ご自身が清い水を注いで民を罪から清められると預言していました(エゼキエル三六・二五)。ヨハネのバプテスマは、このような終わりの日の清めの出来事であると受け取られていたと考えられます。
 
 ところが、イエスがバプテスマを授ける活動をされるようになったとき、すでに決定的な霊的体験をされていたイエスは、バプテスマに違った意義を与えて教えておられたのではないかと推察されます(文献上の根拠がないので推察にならざるをえません)。それで、イエスからバプテスマを受けた「一人のユダヤ人」あるいは複数の「ユダヤ人たち」が、バプテスマがもつ清めの意義について洗礼者ヨハネの弟子たちと論争する事態が起こったと見ると、次の節で洗礼者ヨハネの弟子がイエスのバプテスマ活動について訴えている理由が分かりやすくなります。

 「ユダヤ人」(単数形)を「イエス」、「ユダヤ人たち」を「イエスの者たち」と読む説があります。しかし、このように読み替えるには根拠が薄弱です。無理にこのように読まなくても、この「ユダヤ人」をイエスからバプテスマを受けたユダヤ人と理解すれば、この節の意味は十分理解できるものになります。 

 彼ら(清めのことで論争した洗礼者ヨハネの弟子たち)は、ヨハネのもとに来て、彼に言った、「ラビ、ヨルダン川の向こうであなたと一緒にいた人、あなたが証しされた人、あの人がバプテスマを授けていて、皆があの人のところに行っています」。(二六節)

 イエスはもともと洗礼者ヨハネと一緒にいた人、洗礼者ヨハネの仲間であった、いや洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた弟子の一人であったのに、今は洗礼者ヨハネから離れて別にバプテスマを授ける活動をしており、しかも洗礼者ヨハネとは違ったことを教えているのに、皆がイエスのところに行ってバプテスマを受けていますと訴えます。

 「皆があの人のところに行っています」と言われていますが、イエスがヨハネと並行してバプテスマ活動をされていたときすでに、そのカリスマ的な能力は現れていて(二・一一、二・二三)、評判は高くなり、ヨハネよりもイエスからバプテスマを受ける者が多かったようです(四・一)。ヨハネの弟子たちも多くイエスに従って行きました(一・三五以下)。
 
 洗礼者ヨハネの弟子たちの言葉は、たんに事実を報告するのではなく、このような事態は放置できないとして、洗礼者ヨハネが師としての権威をもって対処しなければならないのではないか、という訴えです。放置すれば、イスラエルの民は皆イエスのもとに行ってしまい、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた終末的清めのバプテスマはすたれてしまうのではないかと危惧したのでしょう。
 
 この弟子たちの訴えに対して洗礼者ヨハネは答えます。
 
 「人間は、天から与えられているのでなければ、何一つ受けることはできない。自分はメシアではなく、その方の前に遣わされた者であると、わたしが言っていたことは、あなたがた自身が証ししてくれている」。(二七〜二八節)
 
 ヨハネは、イエスの能力と資格が天から(すなわち神から)与えられたものであることを認めています(一・三三三四)。そして、先に公言したように(一・二〇)、自分はメシアではないことを重ねて明言し、このことについては弟子たち自身が洗礼者ヨハネの証言を聞いた証人であるとします。洗礼者ヨハネは、自分が「メシアではなく、その方の前に遣わされた者」であることが、「天から与えられている」立場だと認めます。そして、その立場をイスラエルの預言者たちがしばしば用いた結婚の比喩で語ります。
 
 「花嫁を迎えるのは花婿である。花婿の友人は立って耳を傾け、花婿の声によって喜びに喜ぶ。わたしのこの喜びは満たされている」(二九節)。
 
 預言者たちは、主とその民の関係をしばしば結婚の比喩で語りました(たとえばホセヤ二〜三章、イザヤ五四・五以下、エレミヤ三・八〜九、エゼキエル一六・七〜一四)。とくに終わりの日に神がその民を回復し栄光を与えられることが婚宴の比喩で語られました(イザヤ六一・一〇、六二・五など)。イエスもご自分の働きを、花婿が到着して婚礼が始まっているという比喩で意義づけておられます(マルコ二・一九)。洗礼者ヨハネもこの比喩を用いて、自分は花嫁を迎える花婿ではない(すなわちメシア・キリストではない)と証言しているのです。完成された神の民を花嫁として迎えるのは、キリストご自身だけです(エフェソ五・二一〜三三)。
 
 当時の婚礼には、花婿と花嫁の双方にそれぞれ「友人」が付き添い、二人の結婚を祝福しました。花嫁の友のことはマタイ福音書(二五・一〜一三)の「十人のおとめ」の比喩で用いられています。ここでは洗礼者ヨハネが自分を「花婿の友人」であるとします。婚礼のとき、花婿や花嫁の友人たちが婚礼の行列が到着するのを待ちこがれる様子(婚礼の行列が到着して婚礼が始まるのは夜になることが多かったようです)は、婚礼の比喩においてよく取り上げられていますが、ここでは洗礼者ヨハネが「メシアの前に遣わされた」花婿の友人として、花婿の到来を切に待ち望んでいたことが「立って耳を傾け」と語られ、ついに花婿たるメシアが到来したことを喜ぶ喜びが、「花婿の声によって喜びに喜ぶ」と表現されます。
 
 「わたしのこの喜び」とは、花婿の友人として、婚礼が始まったことを喜ぶ喜び、すなわちメシアがついに到来されたことを喜ぶ喜びです。その喜びが今や満たされたとすることによって、洗礼者ヨハネが証言しているイエスこそ、その待ち望まれてたメシアであると、この段落は宣言しているのです。
 
 洗礼者ヨハネは最後にこう言います。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(三〇節)。
 
 「あの方」とは、弟子たちが訴えたイエスのことです。洗礼者ヨハネは、メシア到来の前に道備えをする者としてその使命がいまや終わったことを知り、自分は舞台から退場するが、「あの方」は神の民を迎える花婿として、これからの神の働きを担う方となられると語ります。そして、この言葉を最後として、洗礼者ヨハネはこの福音書の舞台から消えてゆきます。これ以後、この福音書では洗礼者ヨハネのことを取り上げることはありません。共観福音書が詳しく伝えている洗礼者ヨハネの投獄や処刑(マルコ六・一四〜二九)のことも、ヨハネ福音書ではまったく出てきません。
 
 この一段(三・二二〜三〇)は、洗礼者ヨハネをメシアとする洗礼者教団と、イエスをメシア・キリストとする共同体(ここでは著者ヨハネの共同体)が対抗している状況を背景としています。ヨハネ共同体は、洗礼者ヨハネを自分たちと同じ戦線に立つ仲間と認めながらも(イエスはヨハネのバプテスマ運動を共にされ、そこから出られた方です)、洗礼者ヨハネとイエスは救済史上の立場が違うこと、すなわちイエスが花嫁を迎える花婿であり、洗礼者は花婿の友人であることを強調して、洗礼者ヨハネの宗団にイエスをメシアと信じるように呼びかけているのです。そして、それを洗礼者ヨハネ自身に語らせるという形でしています。

上から来られる方

 三一〜三六節の一段は、三章一六〜二一節の場合と同じく、二七節から始まっている洗礼者ヨハネの言葉の続きであるのか、または、洗礼者の言葉は三〇節で終わり、三一節からは著者ヨハネの福音告知が始まっているのか、決定することは困難です。内容からすると、この一段は洗礼者ヨハネの言葉とするより、この福音書の福音告知とする方がふさわしいと考えられます。ここでも、登場人物(ここでは洗礼者ヨハネ)の言葉から継ぎ目なく著者の福音告知の言葉へ移行するという、この福音書の特色が見られます。

なお、この部分をイエスの言葉として、三章の一二節と一三節の間に入れて読むべきであるという主張もあります。たしかに、その形も文意は通りますが、そうしなければならない理由は弱く、現在の位置のままで十分理解できます。 

 著者は、洗礼者ヨハネが「人間は、天から与えられているのでなければ、何一つ受けることはできない」(二七節)と言って、自分とイエスとの立場の違いを証言したことを引き取って、イエスが「上から来る方」あるいは「天から来る方」として、「天から与えられた」事柄を語る方であることを、改めて強調します。
 
 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来る方は、[すべてのものの上におられる。] 見てきたこと、聞いたことを証ししておられるが、その方の証をだれも受け入れない」(三一〜三二節)。
 
 この福音書は一貫してイエスを「上から来られる方」、「天から来られる方」として描きます。「上から来られる方」(ここに用いられている《アノーセン》は明らかに「上より」の意味)であるイエスは、洗礼者ヨハネを含め、どのような預言者や知者・学者をも超える方であることが主張されています。

 この箇所の「すべて」という語は、同形になるので男性か中性か決めることはできません。それで、「すべての者」とも「すべての物、万物」とも訳すことができます。それで、両方の意味をこめて「すべてのもの」と訳していますが、ここではイエスが他のすべての者にまさる啓示者であることが強調されていると理解してよいでしょう。 

 三一節後半の文は直訳すると、「地からの者は地からであり、地から語る」となります。この文は、前半の「上からの者」イエスと、イエス以外のすべての人物を対比しています。ここで「地から」は、「上から」すなわち「天から」と対置され、「天から」ではないことが強調されています。イエス以外の者は天から地に来た天界の啓示者ではない、イエス以外の者は地上で人間として体験した事柄の限度内で語るにすぎないと主張されていることになります。それに対して、「天から来る方(イエス)は、(天界で)見たこと、聞いたことを証ししておられる」のです。

 三一節後半の「天から来る方は」という句から三二節にかけての文は、写本の読みが乱れています。底本は直後の[すべてのものの上にある]を括弧に入れています。おそらく、この句はもともと、三二節の「見てきたこと、聞いたことを証ししておられる」の主語であり、直前の「地からの者は地から語る」と対比して、「天から来る方は、(天界で)見たこと、聞いたことを証ししておられる」と言っていたものと見られます。ところが写本の段階で、直前の「上から来られた方」の述語である「すべてのものの上にある」が入ってしまったと見ることができます。 

 イエスは天界で「見てきたこと、聞いたこと」を証しておられるのに、イスラエルの民は「だれも受け入れない」と、ユダヤ人の不信を著者は嘆いています。それは、イエスが天から来られた方であるという事実を、ユダヤ人が信じないからです。
 
 それに対して、イエスを天から来られた方と信じた者たち、すなわちヨハネ共同体の証言が対置されます。
 
 「その方の証を受け入れる者は、神が真実であることを確証したのである」。(三三節)
 
 「真実である」という語は、この福音書特愛の「真理」という名詞の形容詞形です。イエスを天から来られた方であると信じ、その方の証を受け入れた者たちは、イエスが語られた言葉が真理であること(言葉通りに現実であること)を体験し(身をもって理解し)、イエスを通してその言葉を語られた神が真実であることを知り、それを証言するのです。
 
 「確証した」の原語は、文書の内容を確認するために「証印を押す」という意味の動詞です。パウロ書簡では、信じた者に神が自分の者であることを確認される聖霊の証印を押されることを指しています(コリントU一・二二、エフェソ一・一三)。ヨハネ福音書では、信じた者が証印を押しています。すなわち、イエスを信じる者は、イエスこそ神がイスラエルの歴史の中で約束してこられた救いの成就であることを、身をもって体験し、証言するのです。
 
 その方の証を受け入れた者たち、すなわちヨハネ共同体は、自分の体験から次のように証言します。
 
 「神が遣わされた方は、神の言葉を語る。神が御霊を限りなく与えておられるからである」。(三四節)
 
 この福音書において、イエスは「天から来られた方」あるいは「天から降ってきた方」であるが、同じことが「神が遣わされた方」とか「神から遣わされた方」と表現されます。そして、「神が遣わされた方」は、使者として神の言葉を語ります。昔、主から遣わされた預言者たちは、「主はこう言われる」という形で主の言葉を伝えましたが、イエスは「わたしは言う」という形で、自分の言葉で直接神の言葉を語られます。
 
 イエスが神と一つなる方として直接神の言葉を語られるのは、神がイエスにご自身の霊を無制限に与えて、ご自身と完全な交わりの中に置いておられるからです。御霊による神とイエスの一体性は、次節で「御父と御子」の愛の交わりと表現され、神性における御父、御子、御霊の三位一体が、地上のイエスの姿に顕現しているとされることになります。
 
 「御父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお委ねになった」。(三五節)
 
 「御子」すなわち「神の子」という称号は本来復活者に対する称号です(ローマ一・四など)。ヨハネ福音書は、復活者キリストを地上のイエスの姿に重ねて物語るので、イエスに「御子」という称号が帰せられることになります。そして、「御子」を遣わされた神は、その方の父として「御父」と呼ばれます。新約聖書では、神は「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」です。このように、地上のイエスに「御子」という称号が帰せられるのは、イエスが神に向かっていつも「父よ」と祈っておられたことの帰結でもあります。
 
 「御子」は復活者として、高く上げられた方、神の右に座して万物を支配される方、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、その御名にひざまずく」方です。この地位は、パウロ書簡では《キュリオス》(主)と呼ばれていますが、ヨハネ福音書ではこのような意味での《キュリオス》の用例はごく稀で、大部分はイエスに対する日常的な呼びかけとして用いられています。イエスが《キュリオス》であることは、ヨハネ福音書では「その手にすべてをお委ねになった」という本節のような表現で語られることになります(他に五・二〇〜二三)。
 
 御子とはそのような方であるので、次のような結果が起こります。
 
 「御子を信じる者は、永遠の命をもっている。だが、御子に従わない者は、命を見ることなく、神の怒りがその上に留まる」。(三六節)
 
 「永遠の命をもっている」の「もっている」は現在形です。ヨハネ福音書は、救済が将来のことではなく、現在の事実であることを強調します。しかし後半の「命を見ることなく」の「見ることなく」は未来形です。今後とも、いつまでも命を見ることはないであろうという意味です。
 
 救いが現在の事実であるように、裁きも将来の事柄ではなく、現在の事実です。御子に従わない者は、現に御子に従っていないことによって「神の怒りがその上に留まっている」のです。御子が来られたことによって、すべての人は、御子を信じて永遠の命をもつ者と、御子に従わないで神の怒りを受けている者の二つの群れに分けられます。これが、この福音書における神の裁きです(三・一八〜一九)。
 

 

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