ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  ぶどうの木とその枝

                           ―― ヨハネ福音書 一五章 ――


  50 ぶどうの木と枝の比喩   (15章 1 〜 8節)

    1 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。 2 わたしについている枝で、実を結ばないものはみな、父がこれを取り除く。実を結ぶ枝はみな、さらに多くの実を結ばせるために、父がこれを手入れされる。 3 わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ。 4 わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる。枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ、自分から実と結ぶことはできないように、あなたたちもわたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことはできない。 5 わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの内にとどまる者は、わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである。 6 もしわたしの内にとどまっていない人があれば、その人は枝のように外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう。 7 あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているならば、望むものは何でも求めなさい。そうすれば、あなたたちになされることになる。 8 このことによってわたしの父は栄光をお受けになり、あなたたちは多くの実を結び、わたしの弟子となるのである」。


一五章〜一七章について

 最後の夜、食事の席での訓話はいったん一四章で終わり、「さあ、立て。ここから出ていこう」(一四・三一)という言葉で締め括られています。この言葉は一八章一節に自然に続きます。福音書の原著は、一四章から一八章に続いていたと考えられます。その間にある一五〜一七章は、いったん成立した原著に後で挿入された部分と見られます。その挿入が編集者によってなされたのか、また原著者自身によってなされたのか、その過程は議論されていて確定は困難です。しかし、それがヨハネ共同体の中で形成されて現在の形になったことは確実ですから、この全体を「ヨハネ福音書」の「訣別遺訓」として聴かなければなりません。表現に微妙な違いが見られますが、この部分は一四章の約束を詳しく展開した内容になっています。

 

まことのぶどうの木

 この「わたしはぶどうの木である」という宣言は、本来「あなたたちは枝である」と対句を構成して、復活者イエスと弟子たちとの命のつながりを指し示すたとえです(五節前半参照)。枝は木につながっていなければ実を結ぶことはできません。木から切り離された枝は枯れます。この命の事実を根底にして、ぶどうの木のたとえは語られています。

 ここでは、ぶどうの木に「まことの」という形容詞がついています。これは、ヨハネ特愛の用語である「真理《アレーセイア》」の形容詞形ですが、この福音書では「真理《アレーセイア》」は象徴とか影が指し示す「本体(リアリティー)」という意味で用いられていることから、この形容詞は「わたし」すなわち復活者イエスこそが象徴としてのぶどうの木が指し示している本体である、という意味で用いられていると言えます。

 しかしそれだけでなく、世には自分こそは自分につながる者に命を与える根幹あるいは根源であると主張する多くの神々や宗教的人物や事象がありますが、この形容詞は、それらを偽りとして、復活者イエスこそが唯一の真の命の源であると主張していることになります。一〇章の羊飼いのたとえにおける「良い」という形容詞も同じ働きをしています。

 事実、この時代のヘレニズム世界には(とくにグノーシス伝承に)、ぶどうの木の比喩を用いて、自分こそがまことの命を与える幹であると主張する象徴説話があったようです。また、旧約の預言書や黙示文書にも神と民の繋がりをぶどうの木の象徴で語るところは多くありますが(たとえばイザヤ五・一以下、エレミヤ二・二一、エゼキエル一五・一以下、ラテン語エズラ記五・二三)、ヨハネはその伝統的表現法を復活者イエスに集中することによって、他の「わたしがぶどうの木」という主張に対抗しています。

 ただここでは、「わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である」という基本的な比喩に、それを正しいつながり方を説くための説話とするために、「わたしの父は栽培者である」という文が加えられ(一節後半)、ぶどうの木を手入れする「栽培者」が登場して、次節以下でやや寓喩的な手法を用いた説話になります。

 

木につながっている枝

 「わたしについている枝で、実を結ばないものはみな、父がこれを取り除く。実を結ぶ枝はみな、さらに多くの実を結ばせるために、父がこれを手入れされる」。(二節)
 果樹の栽培者は、実を結ばない枝は木全体の成長に妨げになるだけですからこれを取り除き、実を結ぶ枝はさらに多くのよい実を結ばせるために、わき芽をつんだりして手入れします。この剪定作業は園芸の基本作業です。この園芸の基本原則を比喩として用いて、著者は共同体の成員に、復活者イエスに正しくつながっているように説き勧めます。

 「わたしについている枝」は、直訳では「わたしにある枝」ですが、イエスを信じる者の共同体に属する者たちを指しています。その中には、木に実際に正しくつながっている枝とつながっていない枝があります。より正確に言うと、御霊によって復活者イエスに現実につながっている者と、形では共同体の成員ではあるが、御霊による復活者イエスとのつながりを持っていない者です。パウロはこの区別を、「キリストの御霊を持たない者は、キリストに属していません」という言葉で表現しています(ローマ八・九)。

 この区別は、各人がその歩みの中に結ぶ実によって明らかになります。「実」と言えば、わたしたちはパウロがガラテヤ書五章(二二節)で「御霊の実」と呼んだ愛、喜び、平和、寛容などを思い浮かべますが、ヨハネがどれだけパウロの言う「実」を意識していたかは分かりません。「実を結ぶ」ことを主題とするこの段落の表現を見ると、ヨハネはパウロとは少し違った内容で「実」を考えているようにも見受けられます。しかし、パウロもヨハネも、御霊によって復活者イエスに結びつく者は、その実際の人生に御霊の命にふさわしい現実的な結果をもつはずだという確信は共通しています。

 わたし自身は、御霊の実とは「信仰と愛と希望」であると受けとめています。御霊がわたしたちの中に働いてくださるとき、今までになかった新しい人間の在り方・生き方が始まります。それは、人間存在の三つの次元に即して現れます。すなわち、神とのかかわりという垂直の次元では、神を父としてその慈愛を信頼して生きる生き方(それがここで言う信仰です)、隣人とのかかわりという水平次元では愛、それも敵をも愛する絶対無条件の愛、時間の中にいる存在としては死を超える復活の希望として現れます。

 このような実をつけている枝(成員)は、ますます豊かに実を結ばせるために、栽培者である父が手入れをされます。その手入れはしばしば、わたしたちには人生の苦難と感じられます。父は人生の苦難を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い患いや欲望をそぎ落として、わたしたちがよりいっそう強くキリストに結びつき、より豊かに御霊の実を結ぶように導いてくださいます。

 「わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ。わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」。(三節〜四節前半)
 イエスはご自分に従う弟子たちに、「わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ」と言われます。これは、弟子たちは(地上の)イエスの諸々の教えの言葉に従うことによって、神に受け入れられる清い生き方をするようになっているという意味ではありません。もしそうだとしたら、イエスはわたしたちの罪のために死ぬ必要はなかったはずです。「わたしがあなたたちに語った言葉」というのは、十字架の死と復活を含むイエスの出来事全体が意味されています。ここの「言葉」は単数形です。これは、現在ヨハネ共同体が復活者イエスから聴いている「御言葉《ホ・ロゴス》」です。その御言葉に自分を投げ入れ委ねることによって、わたしたちは「清い」者、すなわち神に所属する者とされているのです。「十字架の言葉」によってわたしたちは贖われ、神のもの(清い者)とされたのです。

 このように十字架された復活者イエスを神の言葉として聴いて、その言葉によって神に所属する者となった共同体の成員に向かって、ヨハネはその方の「内にとどまる」ように説き勧めます。三節と四節の間に「だから」という意味の語は用いられていませんが、意味の流れから言うと、あなたたちは清い者とされているのだから、あなたを清い者としてくださっている方の「内にとどまる」ように、とつながります。清い者でなければ、その方の「内にとどまる」ことはできません。三節は四節の勧告が成り立つ前提です。

 ヨハネは《メノー》(とどまる)という動詞をよく用います。全新約聖書の一一八回の用例の内、ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)に半数以上の六七回も出てきます。ヨハネが《エン》(の中に)という前置詞を用いて「わたしの内にとどまる」と言うとき、それはパウロが《エン・クリストー》(キリストにあって)と言うのと同じで、御霊による復活者キリストとの結びつきを指しています。「わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」という勧告と約束は、ヨハネ共同体が追い求めた《エン・クリストー》の境地を表現しています。「そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」というのは、信仰によってキリストにつながっている者の内に復活者イエス・キリストが御霊によって生きていてくださるというパウロのキリスト体験と同じ消息が、ヨハネ的な表現で語られていることになります。「わたしはキリストの内に、キリストはわたしの内に」という境地がキリスト信仰の究極の姿です。

 

実を結ぶ枝

 「枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ、自分から実と結ぶことはできないように、あなたたちもわたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの内にとどまる者は、わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである」。(四節後半〜五節)

 「内にとどまる」という動詞は本来人格間の交わりについて用いられる動詞ですが、ヨハネはそれをあえて木と枝の「つながり」を示すのに用いて、「枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ」と語り、比喩に現実感を与えています。

 枝がぶどうの木から離れていれば当然実を結ぶことはありません。そのように、わたしたちも復活者イエス、すなわちキリストの内にとどまっていなければ、その人生にキリストに属する者としての実をあげることはできません。ここまで来てはじめて、「わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である」という、ぶどうの木を比喩として用いた本来の比較点が出てきます。復活者イエス、すなわち霊なるキリストが樹木であり、わたしたち共同体の成員ひとりひとりは樹木に連なる枝です。

 パウロはこのキリストと各成員の関係を人体の比喩で語りました(コリントT一二・一二以下)。パウロの場合、各成員の賜物や働きが違っていても、各成員は同じ体の肢体であるのだから、同じ体につながる者として一致を保つようにという点に勧告の重点がありました。しかし、肢体は体から切り離されると死んでしまい働きができなくなるという点では、ぶどうの木とその枝との関係と同じです。ヨハネの比喩はこの点に集中しています。枝は木につながっていることによってはじめて実を結ぶことができるのです。

 先に、「わたしの内にとどまっていなさい」という勧告の後に、「そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」という約束が続いていました。ここではさらに、「わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである」と、その約束がもたらす結果が語られます。キリストが内にとどまってくださるのは、その人の意識の問題ではなく、その人の実際の歩みにキリストの恵みの働きが現れるためです。このようにキリストが内にとどまって働いてくださるとき、わたしたちはパウロと共にこう言うことになるでしょう。

 「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは(他のすべての使徒よりずっと)多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントT一五・一〇)。

 「もしわたしの内にとどまっていない人があれば、その人は枝のように外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう」。(六節)
 形だけで共同体に連なっていても、ここでヨハネが言う意味で「まことのぶどうの木」である復活者イエスの内にとどまっていない者は、御霊の実を結ぶことはなく、その人生は生まれながらの人間本性から出てくるものだけとなり、神に喜ばれることはできません。それは神の裁きに耐えず、結局は「外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう」、すなわち永遠の視点からは無価値なものとして滅びてしまうのです。「木はその実によって知られる(判断される)」のです。

 この節の表現は洗礼者ヨハネの言葉を思い起こさせます。洗礼者ヨハネは、神の民であることを誇るイスラエルに向かって、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と叫びました(マタイ三・一〇)。そのように著者ヨハネは、キリストに属することを表明する民に向かって、復活者イエスの内にとどまることなく、実を結ばない枝は切り取られ、外に投げ出され、火に投げ入れられるのだと警告します。この節は改めて、ヨハネ共同体が洗礼者ヨハネの弟子たちの小さいグループから始まったことを思い起こさせます。

 

望むものは何でも

 「あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているならば、望むものは何でも求めなさい。そうすれば、あなたたちになされることになる」。(七節)
 先にイエスは地上に残していく弟子たちにこう約束されました。「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしを信じる者は、わたしがしているのと同じわざをする。いや、これよりも大きなわざをするようになる。わたしが父のもとに行くからである。また、あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする。父が子によって栄光をお受けになるためである。あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」(一四・一二〜一四)。それと同じことが、ここではぶどうの木と枝の比喩の中で、「信じる」の代わりに「内にとどまる」という表現を用いて語られています。そして、わたしたちが復活者イエスの「内にとどまる」ことが、「わたしの言葉があなたたちの内にとどまっている」ことと一つにされて、前節の「内にとどまらず、実を結ばない」者と対比されています。

 わたしたちがキリストの内にとどまることと、キリストの言葉がわたしたちの内にとどまることが一つの事態であることは、先に「わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる」(四節)と語られていたことと同じです。「キリストの言葉」というのはキリストという言葉であり、四節の「わたし」とここの「わたしの言葉」は、わたしたちの内にとどまり働いてくださる同じ主体を指しています。

 もしわたしたちがこのようにキリストと合わせられて一つになって生きているのであれば、わたしたちが望むものは、わたしたちの内に働いておられるキリストご自身が望まれることとして、それをしてくださいます。先には「わたしがそれをする」(一四・一三)と明言されていましたが、ここではその働きをする主体は明示されず、「そうすれば、あなたたちになされることになる」と、(受動態を用いて)結果だけが語られます。

 「このことによってわたしの父は栄光をお受けになり、あなたたちは多くの実を結び、わたしの弟子となるのである」。(八節)
 「このことによって」、すなわち、直前の節(七節)にあるように、わたしたちがイエスの内にとどまり、イエスの言葉が内にとどまっているので、求めることが与えられるというつながりが現実となっていることによって、父はイエスの父として崇められることになります。このように求めるものが与えられるのは、イエスに結びつく者が多くの実を結ぶようになるためであり、それによってイエスのまことの弟子となる、すなわち、イエスの業を現実に継承する者となるためです。

 


  51 互いに愛せよ(15章 9〜17節)

 9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した。わたしの愛の内にとどまっていなさい。 10 わたしがわたしの父の命令を守ってきたので、父の愛の内にとどまっているように、あなたたちがわたしの命令を守るならば、あなたたちはわたしの愛の内にとどまることになる。 11 わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたたちに語ってきた。12 わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
 13 人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない。 14 わたしが命じることをあなたたちが行っているならば、あなたたちはわたしの友である。 15 わたしはもうあなたたちを僕とは言わない。僕は主人が何をしているのかわからないからである。わたしはあなたたちを友と言った。わたしが父のもとで聞いたことすべてをあなたたちに知らせたからである。
 16 あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んで、あなたたちが行って実を結び、その実が残るように、あなたたちを立てた。それは、あなたたちがわたしの名によって父に求めることは何でも、父が与えてくださるようになるためである。 17 互いに愛し合いなさい。わたしはこのことをあなたたちに命じる」。

 

イエスの愛の内にとどまる

 もとの訣別訓話(一三〜一四章)にあった「あなたたちは互いに愛し合いなさい」という「新しい命令」(一三・三四)が、この拡張部分(一五〜一七章)で繰り返されます。ぶどうの木の比喩を含むこの大きな段落全体(一五・一〜一七)は、この「新しい命令」を詳しく展開するものとなっています。ヨハネの手紙に見られるように、とくに相互の愛を強調しなければならない状況がヨハネ共同体に発生して、このような追加的な勧告が加えられた可能性も考えられます。もしその「状況」がヨハネの手紙(T二・一九)が指し示している共同体の分裂の危機であるならば、ぶどうの木の比喩もイエスにある交わりの内にとどまるように説くことを眼目とする比喩であり、ここのお互いの愛を説く段落も、分裂の危機を克服しようとする説教となります。

 動機は何であれ、これがイエスの教えの核心であることは間違いありません。共観福音書では、「父が慈愛深いように、あなたたちも慈愛深いものであれ」と表現されていますが、互いの慈愛の根拠とされる父の慈愛を、ヨハネはイエスにおいて現された父の愛に具体化して、互いの愛の根拠としています。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した。わたしの愛の内にとどまっていなさい」。(九節)
 ヨハネはイエスの生涯を弟子たちへの愛の現れとし、この訣別訓話をイエスが最後まで弟子たちを愛されたからなされた訓話として伝えました(一三・一)。そして、その弟子たちに対するイエスの愛は、イエスが父から受けておられた愛の流出だとします。その上で、このイエスの愛の内にとどまることが、イエスの内にとどまることであり、弟子としてもっとも大切なことであると、以下の訓話でその内容を語ります。

 「わたしがわたしの父の命令を守ってきたので、父の愛の内にとどまっているように、あなたたちがわたしの命令を守るならば、あなたたちはわたしの愛の内にとどまることになる」。(一〇節)
 イエスは「わたしは父の命令を守ってきた」と言われます。動詞は現在完了形です。ヨハネはイエスの従順を完了した事実と見ています。イエスが父の命令を守ることによって、すなわちその全生涯をもって父が求められるところを果たすことによって、父の愛にとどまり、父との交わりにとどまられたのです。そして今も父の愛の内にとどまって生きておられます。そのように、弟子たちがイエスの命令を守るならば、弟子たちはイエスの愛の内にとどまることになり、復活者イエスとの命の交わりに生きることになります。

 「あなたたちはわたしの愛の内にとどまることになる」という文の動詞は未来形です。弟子たちがイエスの愛の内にとどまることになるかどうかは、弟子がこれからイエスの命令を守るかどうかにかかっています。そのイエスの命令とは、一二節に明記されている命令です。イエスが愛されたようにお互いに愛することです。一〇節と一二節は内容からすると一体として読まなければなりませんので、一一節より先に一二節を扱います。

 「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。(一二節)
 ここの「わたしの命令」は、一三章三四節の「新しい命令」と同じく単数形です。内容も同じです。ヨハネはこの命令をイエスの唯一究極の命令と受けとめています。一三章の場合と違う点は、ここではその命令を守ることがイエスの愛の内にとどまるようになることの前提とされていることです。しかし、ここで誤解してはならないのは、その命令を守ることはイエスの愛を受けるための条件ではないということです。父の愛は無条件絶対です。相手の価値とか資格を条件としないで注がれる慈愛です。イエスはこの父の無条件絶対の愛を受けて、それを周囲の「貧しい人たち」に注いでいかれました。イエスの愛は相手の価値とか資格に絶した無条件の愛、敵をも愛する愛です。

 この無条件絶対の愛を、共観福音書は「慈愛深い」(ルカ)とか、「完全な」(マタイ)という用語で伝えました。パウロはこのような質の神の愛を「恩恵」《カリス》という語を用いて語りました。ヨハネはこれをもっぱら「愛」《アガペー》という用語で語ります。
 父の無条件絶対の愛をもってイエスはわたしたちを愛してくださっているのです。わたしたちはその愛を受けています。だから、イエスはその愛を受けているわたしたちに、同じように無条件絶対の愛をもって互いに愛し合うように求められるのです。それが、この「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」という命令の内容です。もしわたしたちがこの命令を守らず、相手を裁き、退け、自分を尊しとするならば、わたしたちは恩恵の場にとどまることはできないのです。そのように父の命の質と反する者は、父の恩恵の支配の場から脱落せざるをえません。その消息は、マタイ福音書(一八章)の「王と決算する家臣のたとえ」に描かれています。

 王から払いきれない借金を赦された家臣が、僅かの金を貸した同僚に厳しく返済を迫り、訴えて牢に入れます。それを知った王は赦された家臣に、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、その家臣が返済するまで牢に入れます。仲間を憐れまない家臣は、王の憐れみの場にとどまることはできないのです。仲間を裁く者は、自分を裁きの場に置くのです(マタイ七・一〜二)。このように、互いに無条件に愛する愛に生きない者は、無条件絶対の父の愛、イエスの愛の場にとどまることはできません。

 「わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたたちに語ってきた」。(一一節)
 このようにイエスの命令を守ることによってイエスの愛の内にとどまるようにと説く勧告の中に、割り込むようにその勧告を語る目的が入れられています。そのように説き勧めるのは、「あなたたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であるというのです。しかも、その喜びはわたしたちがこの世で味わう喜びではなく、「わたしの喜び」、すなわちイエスが天から受けて内に溢れさせておられる喜びです。それは聖霊による喜びです(ルカ一〇・二一)。

 イエスの愛の内にとどまる者は、イエスの内にとどまり、イエスの内に溢れる喜びに満たされるようになります。パウロは喜びを聖霊の実として語りましたが(ガラテヤ五・二二)、ヨハネはイエスの喜びが内に溢れることとして語ります。いずれにしても喜びは信仰生活の基調です。喜びのない信仰はどこか不自然なところがあります。

 普通喜びは悲しみの反対とされます。しかし、悲しみの反対の喜びは、何か望ましいものを得た時の感情です。何かあるべきものを失った感情が悲しみであるのと反対です。しかし、喜びにはそれとは違った種類(違った次元)の喜びがあります。それは悲しみの反対の喜びではなく、寂しさとか空しさの反対としての喜び、生の充実とか存在の充満というような人間の在り方です。悲しみの反対としての喜びは何か対象に関わっていますが、この喜びは外の対象に関わることなく、自分の内から溢れてくる喜びです。ですから、何かを失って悲しんでいる時でも、この内から溢れる喜びはありえます。悲しみの中で喜ぶということが起こりえます。苦しみの中で喜ぶということが起こります。それが信仰の喜びであり、イエスが「わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満ちあふれるようになる」と言われたことの実現です。

 

友と僕

 「人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」。(一三節)
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛した」というイエスの言葉を伝えるとき、ヨハネはイエスが自分たちのために死んでくださったという事実と、その事実の中にこそイエスの愛が現れていることを語らないではおれません。

 イエスの十字架上の死は、宣教のごく当初から「わたしたちの(諸々の)罪過のため」と理解され、ユダヤ教の祭儀的な用語で解釈され、宣べ伝えられていました(コリントT一五・三〜五)。このような宣教の中で共観福音書には、イエスは人間の罪過を贖うための犠牲として「(死に)引き渡された」という語り方で形成された伝承が伝えられることになります(マルコ九・三一、一〇・三三)。

 その中でパウロは、イエスの死を「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と告白しています(ガラテヤ二・二〇)。イエスの死は「死に引き渡された」という受動態ではなく、イエス御自身が愛のゆえに「身を献げられた」という能動態で語られるようになります。これは、御霊による復活者イエスとの交わりの中で、パウロが自分に対するイエスの働きかけと愛を深く実感していたからだと考えられます。

 ヨハネはこのパウロの延長上にいます。ヨハネはイエスの死を「死に引き渡された」と受動態で語ることはなく、いつも「命を捨てる」という動詞を用いて、イエスが進んで(能動的に)身を委ねられた道であるとしています(一〇・一一〜一八参照)。

 一般的に言って、「人が友のために自分の命を捨てる」のは、愛の究極の姿であるとして、「これより大きな愛はない」と言えます。ヨハネはこの一般的な命題をイエスの死に適用して、イエスは友のために自分の命を捨てられたのだとし、弟子たちをイエスの「友」の立場に置きます。そして、イエスの友であるということは何を意味するのかを、以下の節で明らかにします。

 「わたしが命じることをあなたたちが行っているならば、あなたたちはわたしの友である。わたしはもうあなたたちを僕とは言わない。僕は主人が何をしているのかわからないからである。わたしはあなたたちを友と言った。わたしが父のもとで聞いたことすべてをあなたたちに知らせたからである」。(一四〜一五節)
 ここで「友である」ことは僕と対照されています。旧約聖書ではアブラハムが「神の友」と呼ばれ(イザヤ四一・八)、ユダヤ教でもモーセや預言者たちが神の友と呼ばれていますが(知恵の書七・二七など)、原始キリスト教はこの呼び方を受け継いでいません。ヨハネが弟子を「イエスの友」と呼ぶのは、新約聖書では例外的な呼び方です。グノーシス的な世界では、知識を得た者が啓示者の友人と呼ばれることが多いようで、ヨハネの呼び方はグノーシスの伝統から来ていると言われています。

 「わたしが命じることをあなたたちが行っているならば」、すなわち、イエスが愛された愛をもって互いに愛し合っているならば、わたしたちはイエスの愛の内にとどまることになり、復活者イエスとの交わりの中に生きることになります。そのように、イエスとの交わりに生きる姿が「友」という語で表現されます。イエスとの命の交わりに生きる者はもはや、主人の意図や気持ちを理解することなくただ命令に従って行動する奴隷とか従僕ではなく、お互いに思いを理解して、その理解によって共に生きる「友」となっているのです。イエスはそのような弟子を「わたしの友」と呼ばれます。

 弟子たちがもはや僕ではなく、「友」としてイエスと同じ次元に生きるようになると言われるのは、イエスが「父のもとで(あるいは、父から)聞いたことすべて」を弟子たちに知らせたからであるとされます。ここでは、イエスは天から来て、天の知識を啓示し伝える者として、世の救済者です。パウロが救済を奴隷状態からの「解放」として描くのに対して、ヨハネは救済を「啓示」(霊知の伝達)とその理解に根拠づける傾向があります。この傾向が、ヨハネ福音書をグノーシス主義者たちに親しまれる福音書としたのでしょう。

 「あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んで、あなたたちが行って実を結び、その実が残るように、あなたたちを立てた。それは、あなたたちがわたしの名によって父に求めることは何でも、父が与えてくださるようになるためである」。(一六節)
 この場面では、イエスは「十二人」(実際にはユダを除く十一人)と「イエスが愛された弟子」に向かって語っておられます。ヨハネ福音書は、共観福音書のようにイエスが十二人を選ばれた時の記事はありませんが、「十二人」弟子団の存在は前提にしています(六・六七、六・七〇〜七一、二〇・二四)。しかしここでは、イエスと十二人の関係ではなく、イエスと弟子の関係の原理が問題になっています。したがって、特定の役目に「任命した」(新共同訳)というのは適切ではありません。

 ユダヤ教では、弟子がラビを選んで入門し、その教えを継承しました。しかし、イエスと弟子の関係は違います。イエスが十二人をお選びなり、従ってくるように召されたのです。わたしたちがイエスの弟子であるのは、自分の選択とか決意、忠誠とか従順などの結果ではなく、イエスが選ばれた結果であると自覚しそう言い表すのは、わたしたちが恩恵の場に生きている者であることの一表現です。わたしたちがイエスの弟子であるのは、わたしたちの側に根拠があるのではなく、ただひたすらイエスがわたしたちを選ばれたからであるとしか言えません。わたしたちがイエスの弟子である根拠は、徹頭徹尾イエスの側だけにあります。これはパウロが「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントT一五・一〇)と言っているのと同じです。恵みと選びは同じ事態の告白です。

 イエスは目的無く弟子を選ばれたのではありません。ここでイエスはわたしたちを選ばれた目的を明示されます。そのさい、ぶどうの木の比喩が引き続いて用いられます。それは、わたしたちが「行って実を結び、その実が残る」ためです。わたしたちが地上の歩みの中で、その命の質を具体的に現わし、その結果が歴史の中に残るためです。

 わたしたち選ばれた枝は、選んでくださった主につながっていなければ、実を結ぶことはできません。ぶどうの木の比喩では、「実」とは何かは説明されず、各自の理解に委ねられていました。弟子としての働きの結果形成される交わり(エクレシア)と理解することも、各自の生涯の中に形成される信仰と愛と希望という聖霊の実と理解することも許されるでしょう。もし「あなたたちが行って」を宣教に出かけて行くことを指していると理解するならば、「実」は宣教活動の実、すなわち宣教活動の結果形成される集会を指すことになります。

 イエスがわたしたちを選ばれた目的がさらに重ねて語られます。イエスがわたしたちを選ばれたのは、わたしたちがイエスの名によって父に求めることは何でも父が与えてくださり、そのことによってイエスの名によって父があがめられるようになるためです。このことはすでに一四章(一三〜一四)の同じ約束の言葉では明示されていましたが、ここでは含意されています。また、一四章では「わたし(イエス)がする」と言われていたのに対して、ここでは「彼(父)が与えてくださる」となっています。ヨハネ福音書では、父がされることと、(復活の)イエスがされることが重なっています。

 「互いに愛し合いなさい。わたしはこのことをあなたたちに命じる」。(一七節)
 もともとの「訣別遺訓」(一三〜一四章)の中心主題であった「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令が、それを拡張部分でぶどうの木の比喩を用いて繰り返すこの段落(一五・一〜一七)の最後に置かれて、段落が締め括られます。


  52 世の憎悪( 15章 18〜25節 )

 18 「もし世があなたたちを憎むならば、あなたたちよりも先にわたしを憎んできたことを知っておくがよい。 19 もしあなたたちが世に属する者であったなら、世は自分のものを愛したであろう。ところが、あなたたちは世に属する者ではない。わたしがあなたたちを世から選び出したのである。そのために世はあなたたちを憎むのである。 20 『僕は主人にまさるものではない』と、わたしがあなたたちに言った言葉を覚えていなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたたちをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたたちの言葉をも守るであろう。 21 しかし、人々は、わたしの名のゆえに、このようなことをすべてあなたたちに向かってするようになる。わたしを遣わされた方を知らないからである。 22 わたしが来て、彼らに語らなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、彼らには自分の罪について弁解の余地はない。 23 わたしを憎む者は、わたしの父を憎むのである。 24 他の誰もしなかったわざをわたしがしなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、それを見て、わたしもわたしの父も憎んだのである。 25 しかし、彼らの律法の中に書かれている、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』という言葉は満たされなければならない」。


ユダヤ教会堂との対立

 「もし世があなたたちを憎むならば、あなたたちよりも先にわたしを憎んできたことを知っておくがよい」。(一八節)
 ぶどうの木の比喩を用いて、復活者イエスと弟子の一体性、および共同体の愛による一体性を説いた後、それと対照してイエスを信じる者の共同体と「世」との対立が取り上げられます。ヨハネ共同体は今対立する外部の勢力から激しい憎悪を受けています。著者はその勢力を「世」と呼んで、彼の共同体に彼らの憎悪に立ち向かう覚悟を促します。

 「世」を形成する原理(自己追求と功績の原理)は、イエスの原理(自己放棄と恩恵の原理)に敵対し、自分の存立を否定する者としてイエスを憎みます。ここで具体的には、律法主義に立つユダヤ教世界が恩恵の支配を告知するイエスを憎んだことを指しています。イエスの十字架の死はこの憎悪と敵意の結果です。イエスを憎んだのは、異教世界ではなく、ユダヤ教世界です。この段落の「世」とか「彼ら」は、ユダヤ教世界とユダヤ人を指しています。イエスと弟子たちに対する「世の憎悪」を取り上げるこの段落は、イエスを信じるユダヤ人を会堂から追放しようとする動きが一段と強くなってきた状況(九章参照)が背景となっていると推察されます(一六・二の講解を参照)。

 「もしあなたたちが世に属する者であったなら、世は自分のものを愛したであろう。ところが、あなたたちは世に属する者ではない。わたしがあなたたちを世から選び出したのである。そのために世はあなたたちを憎むのである」。(一九節)
 「世に属する者」の原文は「世からの者」です。ここでは具体的には、ユダヤ教の中にいる者を指しています。もしあなたたちがユダヤ教の中にいるのであれば、ユダヤ人はあなたたちを身内として愛したはずだということです。ところが、イエスの弟子たちは今やユダヤ教団に属する者ではありません。イエスが選んでユダヤ教の枠の外へ連れ出されたのです。だから、ユダヤ人たちは自分たちと敵対する陣営に行った弟子たちを憎むことになります。

 「『僕は主人にまさるものではない』と、わたしがあなたたちに言った言葉を覚えていなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたたちをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたたちの言葉をも守るであろう」。(二〇節)
 「僕は主人にまさるものではない」という語録は、ルカ(六・四〇)で「弟子は師にまさるものではない」という形で用いられています。マタイ(一〇・二四)では、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」と、ルカの形とここのヨハネの形が合わせられた形で用いられています。ただ、この格言的な語録が用いられる文脈は、ルカでは「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と続くのに対して、マタイでは師であるイエスが迫害されたのだから弟子も迫害されるのは当然だという、迫害の文脈で用いられています。ヨハネはここでマタイと同じく、迫害の文脈でこの語録を用いています。しかし、一三・一六ではルカに近い意味(師は弟子の模範という意味)で用いられています。一つの語録が、初期の宣教の様々な流れの中で、違った意味を担っていた様子がうかがわれます。

 続いて、主人と僕・師と弟子の関係を迫害の文脈で語る語録が反対側から見られます。『僕は主人にまさるものではない』のですから、もし人々が主人であり師であるイエスの言葉を受け入れて守ったのであれば、イエスの僕であり弟子である者たちの(イエスを証言する)言葉をも受け入れて守るはずです。

 「しかし、人々は、わたしの名のゆえに、このようなことをすべてあなたたちに向かってするようになる。わたしを遣わされた方を知らないからである」。(二一節)
 ところが実際は、彼らはイエスの言葉を受け入れず、イエスを憎んだのですから、その僕であり弟子である者をも憎むことになります。彼らは「イエスの名のゆえに」、すなわち彼らがイエスの弟子であるという事実のゆえに憎むことになります。その憎しみのゆえに、彼らユダヤ人たちは「このようなことをすべて」イエスの弟子たちに向かってするようになると予告されます。「このようなことすべて」とは何を指すのか、具体的に指示されていませんが、著者の念頭には、すぐ後で語られる「彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう」(一六・二)という状況があったと推察されます。ヨハネ共同体のユダヤ人は、すでに会堂において異端扱いをされ、様々ないやがらせ(審問や鞭打ちなど)を受けていたと考えられます。

 ユダヤ人がイエスの弟子たちに「このようなことすべて」をするのは、イエスが神から遣わされた方であることを信ぜず、イエスを遣わされた父を知らないからです。この主題はこの福音書全体を通して繰り返されています。

 

ユダヤ人の罪

 「わたしが来て、彼らに語らなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、彼らには自分の罪について弁解の余地はない。わたしを憎む者は、わたしの父を憎むのである」。(二二〜二三節)
 この箇所(二二〜二四節)の「罪」は単数形です。それは迫害などの個々の行動ではなく、父を憎むという根源的な罪です。イエスが父から遣わされた方としてユダヤ人の中に現れ、父を啓示する働きをされたのでなければ、彼らはイエスを憎み、そのことによって父を憎むという罪を現わさなくても済んだでしょう。「しかし今は」と言うとき、ヨハネはユダヤ人がイエスを殺してしまった今はという意味で語っていると考えられます。これほど明確にイエスを憎むことを顕わにしてしまった今は、イエスを遣わされた父を憎んでいるという自分の根源的な罪を弁解する余地はありません。

 「他の誰もしなかったわざをわたしがしなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、それを見て、わたしもわたしの父も憎んだのである」。(二四節)
 イエスが父から遣わされた方として父を啓示する働きをされたことが、先には「語る」という働きで取り上げられていましたが(二二節)、ここでは「他の誰もしなかったわざをわたしがした」という働きで取り上げられます。これは福音書前半(二〜一二章)の「しるしの書」が伝えるイエスの力ある業(奇蹟)を指しています。この福音書は、イエスの力ある多くの業の中で代表的な「他の誰もしなかったわざ」を選んで伝え、このイエスの驚くべき働きを「しるし」として、イエスが父から遣わされた方であることを信じるように求めます。

 ところが、ユダヤ人たちはイエスのなされた「しるし」を見ていながら、イエスを信じないで、イエスを「魔術師」とか「詐欺師」と呼んで拒否し、イエスを訴えて死に至らしめます。このようにイエスを殺してしまった「今は」、父を憎んだという彼らの罪は明白です。「彼らはわたしもわたしの父も憎んだ」と断定せざるをえません。

 「しかし、彼らの律法の中に書かれている、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』という言葉は満たされなければならない」。(二五節)
 ここに引用されている「彼らはゆえなくわたしを憎んだ」という言葉は、詩篇六九編五節からの引用です(他にも詩編三五・一九、一〇九・三などにも同じような表現があります)。詩篇では、ダビデあるいは主にすがる敬虔な者が、理由もなく周囲の者から憎まれて追われる苦しみを訴えていますが、ヨハネ共同体はその言葉を、ユダヤ人たちがイエスを理由無く憎んだことを預言する言葉として引用します。このように聖書の言葉を本来の文脈から離れて自分の主張の論拠として引用することは、当時のユダヤ教内の論争では普通のことでした。

 ここでこの詩篇の言葉が「彼らの律法の中に書かれている言葉」として引用されている事実が注目されます。この引用はユダヤ教の聖典である旧約聖書の詩篇からのものですから、「彼らの」というのはユダヤ人を指しています。この事実から、この段落の「彼ら」がユダヤ人を指しており、ヨハネ共同体と対立する「世」はユダヤ教会堂勢力であることが確認されます。

 

  53 迫害の中での証し   ( 15章26節〜16章4節前半 )

 26 「わたしが父のみもとからあなたたちに遣わそうとしている同伴者、すなわち父のみもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しすることになる。 27 あなたたちもまた、初めからわたしと一緒にいるのだから、証をすることになる。
 16・1 あなたたちがつまずくことがないように、これらのことをあなたたちに話しておく。 2 彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう。 3 彼らは父もわたしも知らなかったので、このようなことをするようになるのである。4a しかし、これらのことを話したのは、 それらの事態が起こる時が来たとき、わたしが言っておいたそれらの事態をあなたたちが思い起こすためである」。

 

一五章の段落区分について

 ぶどうの木のたとえで始まる「訣別遺訓」の拡張部分は、一五章の前半(一〜一七節)で復活者イエスにつながっていることの重要性とお互いの間の愛による一致を説いた後、一八節から一転して、イエスの弟子たちに対する世の憎悪と迫害について語り始めます。この主題は一五章の末尾で終わらず、一六章の最初の数節にまで及んでいます。この主題は一六章四節の前半まで続いていると見られます。四節の後半から新しい主題が始まるとして、底本もここに区分を置いています。多くの翻訳も、四節後半から新しい段落が始まるとして、別の見出しをつけています。

 そうすると、一五章は大きく見ると、前半(一〜一七節)の共同体内部の御霊による結びつきを説く部分と、後半(一八節以下と一六章の数節)の外からの憎悪と迫害に対する心構えを説く部分の二つに区分されます。しかし、前半部分にも復活者イエスとのつながりを説く部分(一〜八節)と、お互いの間の愛を説く部分(九〜一七節)という小区分があったように、この私訳では、世の憎悪と迫害を語る後半においても、原理としての世の憎悪(一五章一八〜二五節)と具体的な迫害の状況(一五章二六節〜一六章四節前半)という小区分を認め、それぞれ「世の憎悪」と「迫害の中での証し」という別の段落としています。

 

《パラクレートス》の証言

 「わたしが父のみもとからあなたたちに遣わそうとしている同伴者、すなわち父のみもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しすることになる」。(二六節)
 この訳では《パラクレートス》というギリシア語を「同伴者」と訳していますが、《パラクレートス》は本来法廷で被告を弁護する弁護士を指す用語としてよく用いられる語です。共観福音書で地上のイエスが、将来聖霊が弟子たちを助けることを語られたのは、弟子たちが信仰のゆえに迫害されて法廷に引き出される場面で用いられただけです(マタイ一〇・二〇)。これが、聖霊を《パラクレートス》という法廷的な用語で指す伝承の起源となったのかもしれません。ヨハネ福音書の《パラクレートス》はさらに広い意味で用いられているので「同伴者」と訳していますが、ここでは法廷で被告を弁護するために証言する方という狭い意味で用いられています。しがって、このような特別の状況では「弁護者」と訳す方が適切となります。

 「同伴者」とは、イエスが去られた後、復活者イエスが父のもとから遣わしてくださる聖霊を指していますが、その聖霊はこの福音書では「真理の霊」と呼ばれています。聖霊は、イエスが父から遣わされた御子であるという事実―それが「真理」です―を啓示される霊であるからです。聖霊は、御子としてのイエスの本質と栄光を啓示し、それを受ける者をこの復活者イエスとの交わりという霊の現実(リアリティー)に導き入れる方として、「真理の霊」と呼ばれるのです。

 「あなたたちもまた、初めからわたしと一緒にいるのだから、証をすることになる」。(二七節)
 聖霊がイエスの栄光を証言されるとしても、その証言を実際にこの世の人たちに語るのは、弟子たちの言葉によります。また、弟子たちは「初めからイエスと一緒にいるのだから」、自分たちが見たり聞いたりしたイエスの事実を証言することによって、聖霊が証言する御子としてのイエスの栄光を、具体的な形で伝えることになります。この二重の証言、すなわち聖霊による復活者イエスの本質と栄光の証言と、地上のイエスの出来事を目撃した弟子たちの証言が、イエス伝承を用いて霊なるキリストの栄光を伝える「福音書」という特殊な文学類型を生み出す源泉となります。

 

ユダヤ教会堂からの迫害

 「あなたたちがつまずくことがないように、これらのことをあなたたちに話しておく。彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう」。(一六章一〜二節)
 すでに九章が、イエスをメシア・キリストと告白するユダヤ人を会堂から追放するという決議がなされていた状況(九・二二)を前提にしていますが、訣別遺訓にこの追加部分(一五〜一七章)を加えた著者または編集者も、あたらめてこの状況に直面する信徒たちに決意を促しています。ここの内容は、イエスを信じる者たちに対する世の憎悪と迫害を語るこの段落(一五・一八〜一六・四a)はユダヤ教内部の対立、憎悪、迫害を問題にしていることを示しています。共観福音書(たとえばマルコ一三・九)では、世からの迫害について「法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ」というユダヤ教内の迫害と、「長官(ローマ総督を指す)や王たちの前に立たせられ」という異教ローマ世界での迫害裁判の両方が視野に入ってきていますが(パウロは両方の裁判を受けています)、ヨハネ福音書ではもっぱらユダヤ教会堂との対立だけが問題になっています。

 ここで、イエスをキリストと告白する者を会堂の裁判にかけて鞭打ちしたり追放するだけでなく、殺すようになることが予告されます。ユダヤ人がユダヤ人キリスト教徒を殺すことは、すでにステファノ以来始まっており、十二人の一人であるヤコブの殺害(使徒七・五八〜六〇)、主の兄弟ヤコブの殺害(62年)などがあります。回心前のパウロも、律法への熱心のゆえにイエスを信じる者を迫害し、後に「わたしはこの道の者を迫害し、獄に投じ、殺すことさえした」と回想しています(使徒二二・四)。ヨハネ福音書の著者または編集者は、このような迫害を知っており、キリスト教徒に対する異端宣告と会堂からの追放決議以後、そのような迫害が公式のものとなって激しくなる状況に直面しています。

 ユダヤ教には、ピネハス以来、律法(ユダヤ教という聖なる宗教)を汚す者を取り除く(殺す)ことは聖なる義務であり、神に仕えることだとする伝統があります(出エジプト記二五章参照)。律法に対する「熱心」がこの伝統を強め、マカベヤ戦争の時期と並んで、ユダヤ戦争前後の時期はこの「熱心」が燃えた時代でした。今ユダヤ教徒のこの「熱心」が、イエスを神とするキリスト教徒に向かい、「あなたたちを殺すことで、神に仕えていると思いこむ」時代が来ようとしている、と著者は警告するのです。この警告は、地上のイエスが語られた言葉の形をとっていますから未来形で語られていますが、著者と共同体はすでにそのような状況が始まっていることを体験しています。

 「彼らは父もわたしも知らなかったので、このようなことをするようになるのである」。(三節)
 このようにユダヤ教会堂がイエスを信じるユダヤ人を迫害し殺すのは、父から遣わされた方としてのイエスの栄光を理解しなかったからであり、したがってイエスが示された父の本質も理解しなかったからです。ここで著者はユダヤ教会堂を神を知らない集団であると断定しています。

 「しかし、これらのことを話したのは、 それらの事態が起こる時が来たとき、わたしが言っておいたそれらの事態をあなたたちが思い起こすためである」。(四節前半)
 イエスはご自身の体験から、律法主義に立つ(=ユダヤ教を絶対化している)ユダヤ教会堂勢力が、父から遣わされて父の恩恵の支配を告知する自分を憎んでいること、ついには殺すに至るであろうことを予告しておられました。そして、「弟子は師に勝らず」ですから、その憎しみは弟子たちにも及ぶことを予告して覚悟を促しておられました(マタイ一〇・二四)。ヨハネ共同体は今そのことが自分たちの身に起こっていることを体験し、イエスのお言葉を思い起こしています。ヨハネ共同体のユダヤ人信徒は、自分たちの信仰の母体であるユダヤ教会堂が自分たちを迫害し殺すことを、何か理解不可能な異常な事態ではなく、イエスが予告しておられたことであり、イエスが神から遣わされた方であることを示す「しるし」の一つとして受け止めています。

 

ヨハネ福音書における反ユダヤ教論争について

 ヨハネ福音書が「世」というとき、基本的にそれは自分たち信仰共同体と対立する原理で構成される世界一般を指しています。しかし、ここで見たように、もっとも尖鋭に対立する原理をもって自分たちを迫害するユダヤ教会堂を指す場合が多くあります。ヨハネ共同体にとって、ユダヤ教会堂は自分たちの信仰の母体であり、多くの共通点を持つ宗教団体であるだけに、彼らへの反論は激烈にならざるをえません。それで、ヨハネ福音書は自分たちと世との対立を、越えることができない淵を隔てた二つの世界として、二元論的な対立で描くことになります。

 マタイ福音書と同じく、ヨハネ福音書もユダヤ教会堂勢力と厳しく対立する状況で成立していますので、ユダヤ教とユダヤ人に対する判断と言葉が激烈になっています。マタイ福音書も、その二三章でファリサイ派のユダヤ人会堂勢力を「地獄の子ら」と断罪し、彼らの偽善を激しく攻撃しています。しかし、その箇所の講解で述べたように、このようなユダヤ教に対する断罪が新約聖書にあるからといって、新約聖書を正典とするキリスト教会がユダヤ教を永遠に断罪することは、筋違いの論理であり、聖書の読み違いです。

 このような双方の批判と断罪、すなわち、イエスを信じるユダヤ人に対するユダヤ教会堂からの死に値する異端者としての断罪と、信徒共同体からユダヤ教会堂を偽善者とか神を知らない者とする批判は、ユダヤ教内部の二つのグループの対立と相互の断罪です。したがって、その一つの立場からする相手への断罪をユダヤ人全体への断罪とすることは、論理的に間違っています。

 さらに、このような福音書のユダヤ教会堂への断罪をキリスト教の教義の一部とすることは、聖書の読み違いです。聖書の各文書、あるいはその各部分は、それが成立した歴史的状況を考慮して理解しなければなりません。それを無視して、文言だけを絶対化するのは原理主義的な(ファンダメタリズムの)誤りです。その歴史的状況の中で理解するならば、マタイやヨハネがユダヤ教会堂に対してこのような激しい断罪を語らざるをえなかった事情も理解できます。それは、その状況での信仰告白の必然です。しかし、もはやそのような状況にないわたしたちが、そのような批判と断罪を無批判に教義とすることは、地上の歴史の出来事を通して霊的真理を伝えようとする聖書の本質から外れた読み方になります。聖書の文言の機械的な絶対化は、人間の霊性を抑圧し、宗教を名目とした様々な惨禍を引き起こします。「文字は殺し、霊は生かす」のです。

    四節の「それらの事態が起こる時」と訳した箇所の原文は、「それらの時」または「彼らの時」の両方の理解が可能です。用いられている代名詞が中性複数形とも男性複数形とも理解できるので、両方の訳が可能です。ここでは中性複数形として、ここで話題になっている事態(会堂からの追放や異端者としての処刑)を指すと理解しています。

     この箇所の「思い起こす」という動詞の対象は、直前に用いられていた代名詞(「それら」または「彼ら」)と同じです。ここでは「彼らを思い起こすために」という意味ではありえないので、両方とも中性名詞と理解しなければなりません。すると、直後に続く《ホティ》で導かれる節は、「わたしがあなたたちに話したという事実」ではなく、「それら」の内容を説明する節になります。すなわち、「わたしが(あらかじめ)あなたたちに話しておいた内容」という意味になります。四節前半は読み方の異なる写本が数種類あり、確定が困難ですが、底本を直訳すると、「しかし、わたしはあなたたちに語った、それらの時が来るとき、あなたたちが思い起こすために、わたしがあなたたちに言ったそれらを」となります。読みやすくため、「わたしがこれらのことを話したのは、それらのことが起こったとき、わたしがあなたたちにそれらのことについて言っておいたことを、あなたたちが思い起こすためである」としてもよいでしょう(多くの英語訳はこう訳しています)。


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