ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  ガリラヤでの復活顕現

                           ―― ヨハネ福音書 二一章 ――


  69 ティベリアス湖での顕現  (21章 1〜14節)

 1 その後、イエスはティベリアスの海辺で、再び弟子たちに御自身を現された。それは、このように現されたのである。 2 シモン・ペトロ、ディデュモスと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに他の弟子たち二人が一緒にいた。 3 シモン・ペトロが彼らに、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちもお前と一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も獲れなかった。 4 ところが、すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちは、それがイエスであることが分からなかった。 5 そこで、イエスは彼らに言われる、「子たちよ、何か食べるものはないのか」。彼らは、「ありません」と答えた。 6 イエスは彼らに言われた、「舟の右側に網を投げなさい。そうすれば獲れる」。そこで、彼らが網を投げると、魚が多くて、網を引き上げることができなかった。 7 イエスが愛しておられたあの弟子がペトロに言う、「主だ」。シモン・ペトロは、「主だ」と聞くと、裸だったので上着をまとって、湖に飛び込んだ。 8 他の弟子たちは、魚を入れた網を引いて、舟で戻ってきた。陸地から遠くなく、二百ペキスほどしか離れていなかったからである。
 9 さて、陸地に上ってみると、炭火が用意されていて、その上に魚が置いてあり、パンもあるのを、彼らは見る。 10 イエスは彼らに言われる、「今取ってきた魚の中から何匹か持ってきなさい」。 11 そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。そんなに多かったが、網は裂けていなかった。 12 イエスは彼らに言われる、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちはだれも、「あなたは誰ですか」と、あえて問いただそうとはしなかった。主であることが分かっていたからである。 13 イエスは来て、パンを取り、彼らに与えられる。そして、魚も同じようにされる。 14 イエスが死者の中から起こされて、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目になる。

 

補遺としての二一章

 福音書本体は二〇・三〇〜三一の「結び」の言葉で正式に締めくくられています。その後に続く二一章は、後で加えられた付加部分であると見られます。この章が編集者による別系統の伝承に基づく後の付加であることは、以下の事実からも確実です。

 1  福音書本体では復活されたイエスの顕現はエルサレムに限られています。弟子たちがガリラヤへ帰ったことはいっさい触れられていません。ところが本章では、弟子たちは当然のようにガリラヤにいることになっています。

 2  本体では全然出てこない「ゼベダイの子たち」が弟子の中にあげられています。

   本体の最後(二〇・二九)で、もはや復活者の顕現は信仰に必要ではないと宣言されているにもかかわらず、その宣言を無効にするかのように再び顕現物語が繰り返されています。

   弟子たちはすでに聖霊を受けて派遣されているのに(二〇・二一〜二三)、ここではガリラヤで漁師をしています。
   本体部分にはない「パルーシア」(来臨)が明確に言及されています(二一・二二〜二三)。

 6  福音書の著者を「主が愛された弟子」とした上で(二一・二四)、この弟子が死なないという噂を否定する書き方をしています。これは、この著者とされるこの弟子が死んだ後に書かれたことを示しています。

 以上の諸点から、本章は福音書がいったん完成してから、後で編集者の手によって「補遺」として付け加えられたものと見られます。このような補遺が付け加えられたのは、共観福音書に見られる顕現伝承との調整を図り、同時にそれをペトロと主が愛された弟子の最後を語る後日物語の舞台にするためであったのでしょう。

 

ガリラヤでの復活者イエスの顕現

 この段落(二一章一〜一四節)は、ルカ五・一〜一一の記事と並行しています。研究者たちは、ヨハネ福音書二一章の方が元の伝承に近い形をとどめているのではないかと見ています。本来は復活者イエスの顕現を伝える顕現物語であったが、ルカがそれをイエスのガリラヤ宣教の時期の出来事として用いたと見られます。ルカは復活者の顕現をエルサレムとその近郊に限っているので(ルカでは復活者イエスは弟子たちにエルサレムから離れないように命じておられます)、この伝承を用いるとすれば、ガリラヤ宣教の時期の出来事として伝えなければならなかったという事情があります。顕現伝承をイエスの地上の働きの物語に組み込むことは、すでにマルコ福音書から始まっています。両者(本章とルカ五章)の比較は、必要に応じて講解の中で行うことになります。

 その後、イエスはティベリアスの海辺で、再び弟子たちに御自身を現された。それは、このように現されたのである。(一節)
 「ティベリアスの海」はガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖を「ティベリアスの海」と呼ぶ(この呼称については六・一の注を参照)のは、新約聖書ではヨハネ福音書の2回だけです(ここと六・一)。六・一では「ガリラヤの海、すなわちティベリアスの海」となっていますが、これは元の「ガリラヤの海」に、後の時代の編集者が自分の時代の異邦人読者のために付け加えた説明であると見られます。二一章では、編集者は自分の時代の異邦人読者だけを対象にしているので、「ティベリアスの海」だけで済ますことができたと考えられます。

 ガリラヤ湖畔で、またガリラヤ湖上で復活者イエスが弟子たちに御自身を現されたことは、広く最初期の共同体に語り伝えられていて、ヨハネ共同体もガリラヤでの顕現伝承に接していたはずです。それが福音書本体にないことを不十分または不適切と感じた編集者が、福音書完結後に、それをエルサレムでの顕現の後に続いて起こったこととして、「その後」という句で導入される一章を付け加えます。

 シモン・ペトロ、ディデュモスと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに他の弟子たち二人が一緒にいた。(二節)

 ガリラヤ湖畔で復活者イエスが御自身を現された弟子たちの名があげられています。これは、この出来事が実際に起こったことを印象づけ、伝承が具体的であることを示しています。彼らはイエス復活の証人です。

 最初にシモン・ペトロの名があげられています。ペトロが弟子団の筆頭にあげられるのは、最初期の伝承に定着していたようです。ヨハネ福音書は、この福音書の源流に立つ「イエスが愛された弟子」がペトロ以上に重要な証人であることを主張していますが、ペトロが弟子団の筆頭であるという共同体一般の伝承も承知しています。「シモン」というユダヤ名が用いられているのは、この伝承のパレスチナ起源を示しているのでしょう。

 次に「ディデュモスと呼ばれるトマス」が来ます。トマスは、共観福音書では名前が出てくるだけですが、ヨハネ福音書では重要な働きをしています。その働きと「ディデュモス」という呼び名の意味については、一一章一六節と二〇章二四節の講解および注記を参照してください。

 次に「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」の名があげられています。ナタナエルは一・四五〜五一に登場しています。そこでは、イエスから「まことのイスラエル人」と賞賛されていますが、その後本体部分には出てきません。ナタナエルは「十二人」に含まれていません。ここで彼の出身地がガリラヤのカナであることが明らかになります。エルサレムでの出来事に詳しく、ガリラヤでの出来事を伝えることの少ない著者が、カナの婚礼について詳しく語っているのは、ガリラヤのカナ出身のナタナエルとの親しい交わりがあったからだとも推察されます。

 「ゼベダイの子たち」、すなわちヤコブとヨハネの兄弟については、共観福音書ではその活動が詳しく伝えられているのに対して、ヨハネ福音書ではここで言及されるにすぎません。本体部分では一度も触れられていません。また、ヤコブとヨハネという名前もあげられていません。ヨハネの名をあげないのは意図的だとする見方もあります。

 最後に言及されている「他の弟子たち二人」に、そこに居合わせている「イエスが愛しておられたあの弟子」(七節)が含まれるのであれば、この段落に登場する弟子は七人となり、含まれないのであれば八人となります。二節はその場に居合わせた弟子をすべてあげていると見られるので、七人と見るのが妥当でしょう。この「二人」の中の他の一人が誰であるかは分かりません。一章三五節以下の「二人」からアンデレという推察もありえますが、確認はできません。

 エルサレム在住の「イエスが愛しておられたあの弟子」がガリラヤ湖畔にいることは、やや不自然な感じがしますが、イエスの十字架の後ガリラヤに戻っていたペトロたちに同行してガリラヤに行っていたと考えざるをえません。

 

 シモン・ペトロが彼らに、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちもお前と一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も獲れなかった。(三節)

 この節のシモン・ペトロは、弟子たちの中で主導的な立場にいることを示しています。彼が「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子は彼に同調しています。本体部では、復活されたイエスは聖霊の息を吹きかけて弟子たちを世に派遣しておられますが(二〇・二一〜二三)、ここでは弟子たちは漁師として働いています。これは、このガリラヤでの顕現伝承が本体部とは別の系統の伝承であることを示しています。

 ヨハネ福音書は、イエスの十字架の後弟子たちはエルサレムに残っていて、そこで復活されたイエスにお会いしたとしています。しかしこの補遺を加えることで、ヨハネ共同体が、弟子たちがイエスの十字架の後ガリラヤに戻って漁師の仕事をしており、そこで復活者イエスにお会いしたという、共観福音書系の伝承も知っていることを示しています。

 ペトロたちはガリラヤ湖のベテランの漁師です。その漁師たちが夜を徹して漁をしても「何も獲れなかった」のです。彼らはがっかりして岸に戻ってきたことでしょう。

 

湖畔での顕現

 ところが、すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちは、それがイエスであることが分からなかった。(四節)

 彼らが岸に戻ってきたころに夜が明けます。夜明けの頃に復活者イエスの顕現が起こったことは、共観福音書の墓に行った女性たちの場合も、ヨハネ福音書のマグダラのマリアの場合も同じです。暗闇が朝の光に追われて退くように、義の太陽である復活者キリストが罪と死の暗闇を追い払うように現れてくださいます。

 その夜明けの岸辺にイエスが立っておられるのですが、弟子たちには、誰かが立っていることは分かるのですが、それがイエスであることが分かりません。復活されたイエスが現れるとき、現れた方がイエスだと分からないことは、ほとんどの顕現物語に共通の型です。たとえば、湖上の顕現(マルコ六・四九)、マグダラのマリアへの顕現(二〇・一四)、エマオへの道での顕現(ルカ二四・一六)、パウロへの顕現(使徒九・五)など、復活者イエスの顕現に接した者がペトロやマグダラのマリアのように生前のイエスにごく身近な者でも、それがイエスであることが分からないのです。

 これは顕現体験(復活者イエスの顕現に接する体験)の性質からして当然です。復活者は神の栄光をもって現れておられます。「現れる」というのは、地上の人間に経験できる仕方で御自身を示されることですが、それは地上で五感(目で見たり耳で聞いたりする仕方)でイエスに接するのとは違います。今自分の前に栄光をもって現れている霊的人格が誰であるのか、分からないのは当然です。その方がイエスであると分かることが、顕現体験の核心です。

 それが分かるのは、復活者イエスからの語りかけとか、何らかの働きかけによります。この顕現の出来事では、漁師の仕事場という状況にふさわしい形で、現れた方がイエスであることが示されます。

 そこで、イエスは彼らに言われる、「子たちよ、何か食べるものはないのか」。彼らは、「ありません」と答えた。(五節)

 夜明けに湖岸に現れた方は、舟にいる者たちに向かって、「子たちよ、何か食べるものはないのか」と語りかけます。彼らは舟の中から、「ありません」と答えます。舟はまだ岸には着いていません。声は届く距離ですが、岸から少し離れたところにいます。

 イエスは彼らに言われた、「舟の右側に網を投げなさい。そうすれば獲れる」。そこで、彼らが網を投げると、魚が多くて、網を引き上げることができなかった。(六節)

 イエスは彼らに、「舟の右側に網を投げなさい」と言われます。ルカの並行箇所(五・四)では、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」となっています。漁の仕方、距離、魚の数など、ヨハネ福音書の方が描写が具体的であり、素朴な形で伝承の原型をとどめていると見られます。ルカは物語を分かりやすくする説明的な形にしています。

 弟子たちが、言われたとおりに舟の右側に網を投げると、「魚が多くて、網を引き上げることができなかった」ということが起こります。これは事実だけを報告する形ですが、ルカの並行箇所(五・六〜七)はいっそう劇的な場面に構成しています。

 イエスが愛しておられたあの弟子がペトロに言う、「主だ」。シモン・ペトロは、「主だ」と聞くと、裸だったので上着をまとって、湖に飛び込んだ。(七節)

 「イエスが愛しておられたあの弟子」は、ほとんどの場合ペトロとの組み合わせて出てくることが注目されます。しかも、この弟子の方がペテロよりもイエスの証人としてはより優れているということを主張する場合が多いようです。ここでも、自分たちに現れた方が主イエスであることを最初に認めるのは、ペトロではなく「イエスが愛しておられたあの弟子」です。ここでも、ペトロに対するこの弟子の優位が示唆されていることになります。

 ペテロは裸だったので上着をまとって、湖に飛び込みます。裸のままで尊い方の前に出ることはできないという意識からでしょうか。ルカ(五・八)では、ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言った、とされています。この「罪深い」は、わたしは罪多い人間ですという一般的な意味ではなく、直前にペトロが三度イエスを否認したことを指しています。三度までイエスを否認したことを、ペテロはイエスを裏切ったこととして強い自責の念におそわれ、イエスの足下にひれ伏します、

 ヨハネ福音書は、ペトロの意識まで立ち入りませんが、裸という姿でペトロの恥を示唆しているのでしょう。ペテロは、恥ずかしい自分を隠し、イエスの御前から逃れるためか、湖に飛び込みます。ヨハネ福音書もペテロの三度の否認を詳しく伝えています(一八・一五〜一八、二五〜二七)。そして、ペトロが三度までイエスを否認したことを前提して、イエスの三度までの「あなたはわたしを愛するか」という質問を含む記事(一五〜一九節)を続け、そのようなペテロがキリストの民の牧者として立てられたのは、一方的な主の恵みの結果であることを強調します。

 他の弟子たちは、魚を入れた網を引いて、舟で戻ってきた。陸地から遠くなく、二百ペキスほどしか離れていなかったからである。(八節)

 「他の弟子たちは舟で戻ってきた」のは、湖に飛び込み、泳いで陸に戻ってきたペテロと対照されています。ペテロ以外の六人の弟子たちは、多くの魚が入った網をそのまま舟で引いて、陸地に戻ります。重い網を引いたまま陸地に戻ることができたのは、「陸地から遠くなく、二百ペキスほどしか離れていなかったからである」と説明されます。二百ペキスは約90メートルの距離です(1ペキスは約45センチ、旧約聖書の1アンマに相当)。「陸から遠くなかったからである」という表現は、「ペトロは泳いで、他の弟子は網を引いたままの舟で」という先行内容全体を理由づけていると見られます。

 ルカ福音書(五・七)では、弟子たちがイエスの言葉通りに網を打つと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになり、「もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」とあります。ペテロはそれを見て、自分たちに語りかけた方がイエスであると悟ります。彼らは獲れたおびただしい魚を二そうの舟に積んで陸地に戻ってきます。ペテロも一緒に舟にいます。そして、陸地に着いて、イエスの足下にひれ伏します。

 このように、ヨハネ福音書とルカ福音書とでは出来事の描写が違っていますが、これは出来事は同じでも、それが語り伝えられる伝承の過程で変化し、さらにその伝承を用いて福音書を書いた(または編集した)著者の意図によって、特定の形を与えられた結果です。わたしたちはその違いに目を奪われることなく、起こった出来事自体とその証言の重さに注目すべきです。

復活者イエスとの会食

 さて、陸地に上ってみると、炭火が用意されていて、その上に魚が置いてあり、パンもあるのを、彼らは見る。(九節)

 「彼ら」は、舟で戻ってきた他の弟子と、泳いで陸地に着いたペテロの全員を指します。彼らが陸地に上ってみると、「炭火が用意されていて、その上に魚が置いてあり、パンもある」のを見ます。この光景は不思議です。彼らが見ているのは事実なのでしょうか、それとも幻なのでしょうか。彼らは陸地に着いたばかりです。魚もパンもあるはずがありません。福音書は、誰がそれを用意したのかは全然語らず、ただそういうものがあるのを「彼らは見る」とだけ語ります。彼らは奇跡を見ているのです。

 「彼らは見る」の動詞は現在形です。以下、動詞は現在形と過去形が入り交じって用いられています。現場に居合わせている感じで物語が進みます。

 イエスは彼らに言われる、「今取ってきた魚の中から何匹か持ってきなさい」。(一〇節)

 すでに炭火の上には魚があるのに、イエスは彼らに「今取ってきた魚の中から何匹か持ってきなさい」と言われます。これは、弟子たちにいま起こっていることの意義を教えるためです。さらに正確に言うと、(この補遺の部分を書いた)著者がこの出来事の意義を語るために、伝承を展開して見せます。

 そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。そんなに多かったが、網は裂けていなかった。(一一節)

 ルカ(五・七)では漁師仲間数人が網を引き上げています。ここではペテロが一人で網を陸に引き上げています。元の伝承において、これはペトロが全世界的な共同体の統括者であることを指し示すための象徴的物語であったのでしょう。舟は一般的に教会を象徴します。湖に飛び込んだペトロが、再び舟に乗り込み一人で網を引き上げるのは、イエスを否認したペトロが主に立てられて教会の土台の岩となったという主流教会の伝承(マタイ一六・一八)の線上にあります。

 「百五十三匹」という数については、これは象徴的な意味を含むとして、古来さまざまな解釈が行われていて、確定は困難です。たとえば、これは地中海にいるとされる魚の種類の総数であり、この出来事は世界の民族のすべてが救いの網に入れられることを象徴するという解釈があります。地中海の魚が一五三種類であったこと、またはそう考えられていたことを示す文献的根拠はありませんが、そう解釈することは、この顕現物語で、ペトロが「人間をとる漁師」に召されたことからして(ルカ五・一〇)、順当な象徴理解でしょう。

 ルカ(五・六)では、魚の多さを強調するために「網が破れそうになった」と言われていますが、ここでは網が破れなかったことが強調されています。これは、様々な民を含むようになっても、教会の一致が破れないことを象徴するのでしょう。ここに用いられている「破れる」という動詞の名詞形が《スキマ》(教会の分裂を指すのに用いられる語)です。

 イエスは彼らに言われる、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちはだれも、「あなたは誰ですか」と、あえて問いただそうとはしなかった。主であることが分かっていたからである。(一二節)

 弟子たちは獲ってきた魚を炭火の上に置いたのかどうか、そのような具体的な行動には触れることなく、福音書はこの出来事の霊的内容を直截に語ります。今や弟子たちは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と呼びかける方が誰であるかが分かっています。地上の誰かに会っているのではなく、神的な威厳と栄光をもって立つ方の前で、畏怖の中で言葉を失い、立ちすくんでいます。もはや誰も「あなたは誰ですか」と質問の言葉を発する者はいません。

 イエスは来て、パンを取り、彼らに与えられる。そして、魚も同じようにされる。(一三節)

 「イエスは来て」という表現には、「主の食卓」で唱えられる祈りの言葉が入ってきていると考えられます。復活者イエスが食卓に来られて、弟子たちにパンと魚を与えられる。自分たちは復活者イエスと食事を共にしているのだという共同体の体験が、この節の表現の背後にあります。

 弟子たち(=使徒たち)は、イエスが復活されたことを宣べ伝えるとき、自分たちが復活者イエスと食事を共にしたことを、重要な根拠として語りました(使徒一〇・四〇〜四一、なおルカ二四・三〇、三六〜四三を参照)。食事を共にすることは、人格的交わりの具体的表現です。それが、今自分たちは復活者イエスと食事を共にしているのだという「主の食卓」における霊的体験の中で伝承される過程で、イエスが五つのパンと二匹の魚で多くの人々に食物を与えられたという物語(六・一〜一五)に形成されたと考えられます。

 イエスが死者の中から起こされて、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目になる。(一四節)

 「死者の中から起こされる」は、イエスの復活を語る定型的な表現です。このガリラヤ湖での復活者イエスの顕現を、編集者は「三度目」と数えます。ということは、編集者は本体部分(二〇章)の顕現を二度と数えていることになります。すなわち、マグダラのマリアへの個人的顕現は別にして、「弟子たち」への顕現は週の初めの日(二〇・一九)と八日目(二〇・二六)の二回とし、これを三度目の顕現としていることになります。それが何度であろうと、復活者イエスの顕現に接したという体験が、弟子たちの福音宣教の起点になります。


  70 ペトロと愛弟子 (21章 15〜25節)

 15 ところで、彼らが食事をした時、イエスはシモン・ペトロに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの者たち以上にわたしを愛するか」。ペトロは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスが言われる、「わたしの小羊たちを養いなさい」。 16 イエスはまた、二度目にシモンに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。シモンは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを牧しなさい」。 17 三度目にイエスは彼に言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。イエスが三度まで「わたしを愛するか」と言われたので、ペトロは悲しくなり、イエスに言う、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、わたしがあなたを愛していることを知っておられます」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを養いなさい。 18 アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。あなたが若かったときには、あなたは自分の帯を締めて、自分が望むままに歩き回っていた。しかし、年をとると、あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」。 19 イエスがこのように言われたのは、彼がどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示すためであった。このように話してから、イエスは彼に言われる、「わたしに従って来なさい」。
 20 ペトロが振り向くと、イエスが愛しておられたあの弟子が従って来るのが見えた。この弟子は、食事のときイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者はだれですか」と言った弟子である。 21 この人を見て、ペトロはイエスに言う、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。 22 イエスは彼に言われる、「わたしが来るときまで、彼が生きていることをわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあろうか。あなたはわたしに従って来なさい」。 23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼が死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きていることを、もしわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあるか」と言われたのである。
 24 以上のことを証した者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証が真実であることを知っている。 25 イエスがなさったことは、ほかにも多くある。その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう、とわたしは思う。

 

ペトロへの委託

 ところで、彼らが食事をした時、イエスはシモン・ペトロに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの者たち以上にわたしを愛するか」。(一五節前半)

 弟子たちは、自分たちと食事をしておられる方がこの世の方ではなく異次元の存在であることを知っており、語るべき言葉を失って、深い畏怖の念の中で食事をしたのでしょう。その沈黙を破って、その方から声がかかります。

 その方は、「ヨハネの子シモンよ」と、ペテロに呼びかけられます。イエスがシモンに「ペトロ」という呼び名をつけられた記事(一・四二)では、「ヨハネの子シモン」というユダヤ人社会でのフルネームが出てきますが、それ以外で新約聖書にこのフルネームが出てくるのはここ(二一・一五〜一七)の三回だけです。

  ここでシモン・ペトロが、「ペトロ」というギリシア語のニックネームを用いないで、「ヨハネの子シモン」というヘブライ語のフルネームで呼ばれていることの意味が問題になります。これはおそらく、マタイ福音書(一六・一六〜一九)で彼がキリストの民《エクレーシア》の土台となることが「ペトロ」という名で意義づけられたいたのに対して、ヨハネ福音書は別の根拠で彼の立場を説明しようとしたからだと考えられます。すなわち、マタイのように「ペトロ」というギリシア語の呼び名が示唆する「岩」としてではなく、ヨハネ福音書(一〇章)が語る「良き羊飼い」の継承者として意義づけるために、「ペトロ」という名を避けて、牧畜に親しんでいるユダヤ人社会の呼び名を用いたと見られます。

 イエスはシモンに、「あなたはこの者たち以上にわたしを愛するか」と問われます。原文は「これらのこと以上にわたしを愛するか」とも読めますが、やはりここは「この者たち以上に」と他の人物と比較していると理解して訳しています。他の者たちよりも大きな使命を委ねるにあたって、イエスはシモンにより強い覚悟を求められます。「より多くわたしを愛するか」という問いは、より一層強いイエスへの献身の覚悟を促す問いかけです。

 ペトロは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスが言われる、「わたしの小羊たちを養いなさい」。(一五節後半)

 ペトロは最後の食事の席で、あなたのためなら命を捨てます」と決意を述べています(一三・三七)。ところがそのすぐ後で、そのような人は知らないと三度までイエスを否認します。自分の決意とか勇気が何の役にも立たないことを思い知ったペトロは、ここでは自分の思いを言い立てることはせず、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、イエスの側の理解と自分への扱いに委ねます。この姿勢は、イエスと自分の関わりの根拠を自分の側に求めず、ただイエスの側に委ねる姿勢を示しています。ペトロのイエスとの関わり方は、三度の否認と顕現体験を境として、コペルニクス的転換をなしています。

 このペトロにイエスは、「わたしの小羊たちを養いなさい」と、ご自分の民をお委ねになります。信じる者たちと指導者を羊の群れと羊飼いのイメージで語ることは、牧畜を生業とするイスラエルでは自然なことであり、旧約の信仰者や預言者たちもこの比喩を多く用いています(詩編二三編、イザヤ四〇・一一、エゼキエル三四章など)。ヨハネ福音書も一〇章でイエスを「良い羊飼い」という比喩で語っています。以下、「わたしの群れ(羊の群れ)」とか「牧する」という牧畜用語を用いて、ペトロへの委任が語られます。

 ここで、復活者イエスはペトロに、イエスを信じる者たちの指導を委ねられます。これは、ヨハネ共同体も、ペトロは直弟子たちの筆頭として、イエスから信徒集団の指導を委ねられた立場にいることを認めていることを示しています。本体部分では、ペトロよりも「イエスが愛された弟子」の方が重視されていましたが、この補遺(二一章)では、ヨハネ共同体独自の表現の仕方で、そのようなペトロの立場が承認されています。

 イエスはまた、二度目にシモンに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。シモンは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを牧しなさい」。(一六節)

 「わたしを愛するか」という質問を、イエスは三回繰り返しておられますが、「愛する」というところで、初めの二回は動詞《アガパオー》が用いられ、三回目は《フィレオー》が用いられています。ここでは両者は厳密に区別されないで用いられていると見てよいでしょう。

 三度目にイエスは彼に言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。イエスが三度まで「わたしを愛するか」と言われたので、ペトロは悲しくなり、イエスに言う、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、わたしがあなたを愛していることを知っておられます」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを養いなさい。(一七節)

 このイエスの問いかけとペトロの答えは三度繰り返されます。この「三度」は、ペトロが三度までイエスを否認したことに対応していると見られます。イエスは、三度まで否認したペトロに、同じ回数だけイエスへの愛を告白させて立ち直らせ、他の弟子よりもイエスに身近な弟子として、ご自分の民《エクレーシア》の指導を委ねられます。

 三度の繰り返しは、その動作とか事柄が徹底的になされたことを象徴しています。三度まで主を否認したペトロが、いま主の民の牧者として立てられているのは、主の徹底的な恩恵の働きの結果であることが、この物語によって語られています。ヨハネ共同体は、すぐ後に見るように、「イエスが愛された弟子」の証言の重要性を主張していますが、この記事によって、主の民全体に対するペトロの特別な地位も認めています。

 

ペトロ殉教の予告

 アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。あなたが若かったときには、あなたは自分の帯を締めて、自分が望むままに歩き回っていた。しかし、年をとると、あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」。(一八節)

 ここで、「アーメン」を繰り返すこの福音書独特の荘重な形式で、ペトロの将来を予告するイエスの言葉が導入されます。「自分の帯を締め」は、他人の世話にならず、自分で自分の身の回りのことをすることで、次の「他の人があなたの帯を締め」と対句になっています。ここのイエスのお言葉は、若いときは他人の世話になることなく、自分の思いに従って歩めるが、年をとると他人の世話になり、自分の思い通りにはならなくなるという意味の諺の表現が背後にあると見られます。

 他人に帯を締めてもらうときには両手を広げます。この当然の動作が、ペトロが両手を広げて十字架につけられたことを示唆するために、本来の諺の文言にとくに書き加えられた可能性があります。この補遺を書いた編集者はペトロの殉教の死を知っています。伝承によれば、ペトロは主と同じ姿で十字架につけられるのは畏れ多いとして、逆向けに(頭を下にして)十字架につけられたとされています。ペトロが十字架につけられて殉教したという伝承を知っている著者が、それはイエスが予告しておられたところだとして、それを伝える記事を、自分たちの師である「イエスが愛しておられた弟子」の最後についてイエスが語られたことを伝える機縁とします。

 イエスがこのように言われたのは、彼がどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示すためであった。このように話してから、イエスは彼に言われる、「わたしに従って来なさい」。(一九節)

 ヨハネ福音書は、イエスの十字架の死は子が神の栄光を現す出来事としています(一三・三二など)。ペトロもその殉教の死によって神の栄光を現すとされます。イエスは、ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかをお示しになった上で、「わたしに従って来なさい」と言われます。ここでの「わたしに従って来なさい」は、最初に弟子として召された時の言葉と違って、イエスはすでに十字架の死を遂げておられます。そのイエスが「わたしに従って来なさい」と言われるとき、それはイエスと同じく神の栄光のために命を捧げる覚悟を求めておられることになります。

 

「愛弟子」の最後

 ペトロが振り向くと、イエスが愛しておられたあの弟子が従って来るのが見えた。この弟子は、食事のときイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者はだれですか」と言った弟子である。この人を見て、ペトロはイエスに言う、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。(二〇〜二一節)

 イエスの厳粛なお言葉に対してペトロがどう応えたのかは書かれていません。この補遺を書いた編集者にとって、ペトロの殉教はすでに起こった事実であり、改めてこの時のペトロの態度を描く必要を感じなかったのでしょう。むしろ、ペトロの殉教の死と対比して、自分たちの共同体の指導者である「イエスが愛しておられたあの弟子」の最後を語ることになります。

 ここで「あの弟子」とは、最後の食事の席でイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者はだれですか」と言った弟子(一三・二三〜二六)であると確認されます。「ペトロが振り向くと、あの弟子が従って来るのが見えた」という記述は、この対話がもはや食事の場ではなく、ペトロがイエスに従って歩いている時、「あの弟子」もイエスとペトロの後についてくるのが見えたという、途上の出来事とされています。

 このペトロと「あの弟子」の前後関係は、イエスによって最初に共同体全体の牧者として立てられたペトロと、ペトロの活動から少し遅れてイエスの証人として活躍した「あの弟子」の関係を指し示しています。ペトロはイエスとほぼ同じ年代か、少し若い年代と推察され、イエスに召されたときは三〇歳代、六〇年代前半に殉教したときは六〇歳代と見られます。それに対して「あの弟子」は、一〇歳代半ばで弟子となり、その若さのために十二使徒の中には入りませんでしたが、「イエスが愛された弟子」として、イエスの身近にいました。このような年代の差から、ペトロの殉教後もかなりの期間、この弟子は証言活動を続けることになります。おそらく、ペトロが殉教した六〇年代前半に、この弟子はエフェソに移住して活動し、エフェソ周辺に彼の証言を拠り所とする共同体(ヨハネ共同体)を形成したと考えられます。

 ペトロが召された後、「この人はどうなるのか」はヨハネ共同体だけでなく、周囲の人たちの関心事となったことでしょう。その関心を、著者はペトロのイエスへの質問という形で取り上げます。そして、その弟子に関わる主の御心を、ペトロに対するイエスの答えの言葉として語ります。

 イエスは彼に言われる、「わたしが来るときまで、彼が生きていることをわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあろうか。あなたはわたしに従って来なさい」。(二二節)

 「生きている」と訳した原語ば、ヨハネ福音書特愛の「とどまる」という意味の動詞です。死なないで地上にとどまることを意味するので、ここでは「生きている」と訳しています。

 イエスはそれぞれの弟子に、その弟子でなければ果たせない使命を与えておられます。ペトロには、民の牧者としての使命を果たした後、イエスと同じような姿で神の栄光を現す道を備えられました。それに対して、ペトロの後に活動を続ける「あの弟子」には別の道を用意しておられます。それがたとえイエスの来臨《パルーシア》の時まで、地上にとどまってその役割を果たすことであったとしても、それはペトロには関係のないことです。「あの弟子」のことを決めるのは、ペトロではなく主イエスです。ペトロには自分に与えられた使命を果たすことだけを求めて言われます。「あなた(強調されています)は、彼のことに関わらず、わたしに従って来なさい」。

 ここで「わたしが来るとき」、すなわち「キリストの来臨」《パルーシア》が言及されています。ヨハネ福音書は、その二〇章までの本体部分で主の「来臨」《パルーシア》に言及することはありません。この補遺の部分で始めて言及されます。それで、この補遺を加えた編集者と、「御子が現れるとき」に言及する「ヨハネの手紙T」(三・二)の著者との関係が問題になります。これだけで両者が同一人物であるとすることはできませんが、そうであることを示唆する材料の一つではあります。

 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼が死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きていることを、もしわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあるか」と言われたのである。(二三節)

 最初期の教団では、死なないで主の《パルーシア》を迎える者がいる、すなわち自分たちの世代に主の来臨があるという待望が燃えていたことは、パウロ書簡からもうかがえます(テサロニケT4章、コリントT一五・五一)。とくにマルコ福音書(九・一)に伝えられているイエスの語録には、「よく言っておくが、ここに立っている者たちのうちに、神の国が力をもって来るのを見るまで、死を味わない者がいる」(私訳)とあります。

 この言葉を聞いたペトロを初め多くの弟子たちはほとんど世を去りました。それ以後の時代では、ペトロたちよりも一世代若い「イエスが愛しておられたあの弟子」だけが地上にとどまって証言を続けています。この弟子こそ、イエスが言われた「神の国が力をもって来るのを見るまで死を味わない者」ではなかろうかという思いが「兄弟たちの間に」、すなわちヨハネ共同体に起こり、それがイエスが来られるまでは「この弟子は死なない」という噂になって広まっていたようです。

 その噂は、イエスはこの弟子が《パルーシア》の時まで地上にとどまることを望んでおられるのだ、という形で語り伝えられていました。ところが、この弟子もかなり高齢になって世を去りました。この補遺を書き加えた編集者は、師である「愛弟子」の死を知っています。兄弟たちの間に広まっているこの噂を、主の言葉を誤解した根拠のないものとして訂正し、「イエスは彼が死なないと言われたのではない」と断言します。著者は、イエスの言葉の真意を説明するこの一段を書き加え、彼の死が信仰の動揺にならないように配慮しています。

 このような噂が広まっていた事実は、ヨハネ共同体にも差し迫った「主の来臨」《パルーシア》待望があったことを指し示しています。ヨハネ福音書は、救いとか永遠の命を将来の《パルーシア》の時に待ち望むのではなく、現に来ていることを強調してきました。しかし、この「補遺」の存在は、ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体にも、周囲の一般の共同体と同じく、《パルーシア》待望の底流があったことをうかがわせます。このことは、ヨハネ黙示録との関係で興味深い事実です。

 

むすび

 以上のことを証した者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証が真実であることを知っている。(二四節)

 最後に、この福音書の著者がこの「イエスが愛された弟子」であることが明言されます。「以上のこと」とは、この補遺の部分の内容だけではなく、この福音書全体の内容を指すことは当然です。この弟子と長年働きを共にした人物が、この福音書全体を書いた者が「この弟子である」と証言します。

 しかし、「証した者」という表現が並記されていることから、また、「書いた」という動詞には「書かせた」という使役の用法もあることから、この弟子がすべてを書いたと受け取る必要はなく、この弟子がイエスの出来事と言葉の証人として語ったことを、他の人が書いた可能性も残されることになります。この福音書の著者と成立の事情については複雑な問題があり、別に取り扱わなければなりません(別著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』で取り扱います)。

 この弟子の証が真実であることを「わたしたちは知っている」とありますが、この「わたしたち」は、この「イエスが愛された弟子」の証言を聴いてイエスの弟子となった者たち、すなわちヨハネ共同体を指します。彼らが「イエスが愛された弟子」の証言を真実とし、書きとどめて編集し、福音書として世に出したのです。ヨハネ福音書は、ヨハネ共同体が世界に遺した遺産です。
 この節の証言は、ヨハネ福音書の成立に関して、直接の後継者によってなされた最も古い証言として、きわめて重要です。ヨハネ福音書の成立に関する議論は、この証言から出発することになります。

 イエスがなさったことは、ほかにも多くある。その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう、とわたしは思う。(二五節)

 最後の「わたしは思う」の「わたし」は、この補遺の部分を書き加えた編集者です。編集者は、この福音書に書きとどめられているイエスの働きと教えの言葉は、「イエスがなさったこと」のごく一部であって、そのすべてを書き尽くすことはできないことを強調します。そのことを強調するために、「その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう」と、古代の著作によく見られる誇張した表現を用います。この言葉をもって、イエスが世界にもたらされたものが、表現し尽くせない、伝え尽くせない豊かなものであることを語って結びとします。


補遺の意図

 福音書は明らかに二〇章で終わっています。二一章は後に書き加えられた「補遺」であることは、先に本章の初めに見たとおりです。では、これを書き加えた編集者は、なぜ、何のためにこの補遺を書き加えたのでしょうか。どういう事情が、この補遺を加える必要を感じさせたのでしょうか。

 この補遺での主要な登場人物は(復活者イエスを別にすれば)ペトロです。前半では、ペトロを代表とする弟子たちへのガリラヤでの顕現が語られています。後半では、ペトロの最後と、ヨハネ共同体の創設者である「愛弟子」の最後がペトロとの関係で語られています。このようにペトロを前面に出して語るのは、ペトロについてはごく僅かしか語らず、しかもペトロに対する「愛弟子」の優位を示唆する形で語る本体部分と較べると目立ちます。

 この事実は、「愛弟子」が世を去ってから時が経ち、独自の歩みを続けてきたヨハネ共同体も、ペトロを代表とする周辺の主流共同体との関係を再検討し、調整しなければならない状況になってきたことを示唆しているのではないかと考えられます。

 この福音書を生み出した母体であるヨハネ共同体は、福音書の本体部分では「愛弟子」をいつもペトロと一組で登場させ、しかもペトロよりも主に身近な弟子として描き、自分たちの信仰の源流がペトロに較べて勝るとも劣ることのないイエスの弟子、イエスの出来事の目撃証人の証言に基づいていることを主張してきました。しかし、今やペトロも「愛弟子」も世を去り、ヨハネ共同体はもはやペトロに代表される周囲の一般の共同体との違いを強調して独自の歩みを続けることよりも、周囲のキリストの民と協調して、不信仰の世界と戦い、健全な信仰の確立に努めなければならないと感じるようになっていたのではないかと推察されます。

 そのために、ガリラヤで復活されたイエスがペトロたちに現れたという、広く知られていた伝承を取り入れて、自分たちが(ペトロたちへの顕現伝承に立つ)周囲の一般の共同体と同じ土台に立つものであることを印象づけ、周囲の共同体からも受け入れられ、自分たちの間でもペトロの権威が正当に認められるようにしようとしたのではないかと考えられます。

 また、三つのヨハネ書簡、とくに第一書簡に見られるように、ヨハネ共同体も分裂の危機を経験していました。分裂して出て行く者たちの信仰を間違ったものとして批判し、「愛弟子」の伝統に忠実に従うことを標榜して共同体をまとめようとした人たちが、そのために周囲の一般の共同体との一致を必要としたという事情もあったのかもしれません。

 正確なことは分かりませんが、この「補遺」全体は、「愛弟子」亡き後、ヨハネ共同体がペトロを代表とする周囲の一般の共同体と協調する方向に向かおうとしていることを印象づけます。周囲の共同体と主の来臨の待望を共にしながら(これは本体部分の傾向とは違ってきています)、「愛弟子」がその時まで死なないという噂は根拠のないものとして否定しつつも、彼の証言は(ペトロと関係なく)そのときまで「とどまる」ことを主張して、この共同体の独自の存在意義を確保しようとしています。

 ヨハネ共同体も、二世紀には周囲の主流の共同体に溶けこんでいったようです。しかし、ヨハネ福音書を生み出して、キリストの福音の展開に決定的な貢献をしたことが、この共同体の存在意義の最大のものであると言えます。


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