マタイによる福音書 4

地を継ぐ者

 ― 御国の福音(3) ―





 義に飢え渇く者


マタイにおける「義」

 前講において、マタイが資料として用いた「イエスの語録集Q」と比較することによって、マタイ版の「幸いの言葉」の特色を見てきました。その中でイエスの本来のお言葉にもっとも近いと考えられる三つの幸いの言葉(三、四、六節)にも、マタイ特有の編集が加えられていることを見ました。今回はその中で、「飢えている人たちは幸いである」というイエスのお言葉が、マタイでは「義に飢え渇く人々は幸いである」となっている点を取り上げてみたいと思います。

 「義」〈ディカイオシュネー〉という用語は、マタイでは出てくる回数はそれほど多くはありませんが(計七回)、マタイの宣教では重要な位置を占めています。とくにマタイがまとめあげた「御国の福音」(五〜七章)では、中心に位置しており、七回の中五回までがここに出できます。その中でも重要なのは五章二〇節でしょう。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。

 マタイは、ここで宣べ伝えられている「天の国」に入る者、すなわち神の終末的な支配にあずかり、救済の約束に与る者は、その義が「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさるものでなければならないと宣言しているのです(この節は語録資料Qにはなく、マタイの編集句であることが一般に認められています)。そして、その義が律法学者やファリサイ派の義にまさるとはどういうことか、以下に続く六つのいわゆる「対立命題」(五・二一〜四八)で説明していくのです。それは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、ファリサイ派などユダヤ教一般の律法の要求以上に、完全に神の御旨を行うことを求めています。その内容については、その箇所の講解で詳しく触れることになりますが、ここでの用法から、マタイのいう「義」とは人間の行為とか在り方に関わるものであることが分かります。

 さらに、六章一節で「自分の義〈ディカイオシュネー〉を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」(協会訳)と言って、その後に具体的な例として、施しと祈りと断食という宗教的行為について述べています。ここでの「義」は明らかに人間が行う行為です。新共同訳はここの〈ディカイオシュネー〉を、以下の文脈を考慮してでしょう、「善行」と訳しています。このような用法からも、マタイが〈ディカイオシュネー〉と言うとき、それは律法の永遠の有効性を前提にして(五・一八)、その律法を内面化しファリサイ派以上に完全に実現する人間の行為とか在り方を指していることが理解できます。

 「義」という用語をマタイはこのような意味で用いているとなりますと、六章三二節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というときの「神の義」も、「神の前に通用する人間の正しい行為とか在り方」という意味であると理解せざるをえません。パウロが「神の義は福音の中に啓示された」という時の「神の義」という意味に理解することは、とうていできません。また、この箇所にかぎって、マタイが「天の国」と言い換えないで、「神の国」という表現を用いていることが注目されます。おそらく、「神の義」という表現と並行句にするために、資料として用いた「イエスの語録集Q」の表現をそのまま採用したのでしょう。あるいは、Qの「神の国」という表現に触発されて、「神の義」というマタイには珍しい表現を用いたのかもしれません。

 以上にあげた三箇所と「幸いの言葉」の中の二箇所(六節と一〇節)が、マタイがまとめた「御国の福音」の中で「義」が用いられている五箇所です。ところでこの五箇所は、語録集Qにはない節(五・一〇、五・二〇、六・一)であるか、マタイが「義」という表現を書き加えた節(五・六、六・三二)です。こうして見ると、「御国の福音」に出てくる「義」はみな、語録集Qにはなくて、マタイが書き加えたものであることが分かります。このことから、マタイがいかに強く「義」にこだわっていたかがうかがわれます。

律法に対する熱心

 このような「義」に対するマタイの強い希求の姿勢を見ますと、イエスの「飢えている者は幸いである」というお言葉を、マタイが「義に飢え渇いている者」と解釈したことは、当然なこととして理解できます。さらに、マタイの理解する「義」、すなわち、律法の永遠の有効性を前提にして、その律法を内面にまで尖鋭化して完全に実現することは、イエスの弟子となったユダヤ人には、全身全霊で慕い求める目標になることも、理解できます。マタイは、イエスの「飢えている者は幸いである」というお言葉を、このような義を慕い求めるユダヤ人の弟子たちに、彼らの義への希求が満たされることを約束する言葉にするのです。

 イエスは実際に飢えている人々をイメージして「飢えている人たちは幸いである」と語られたと考えられますが、マタイはそれを義を慕い求めている人と理解するので、慕い求めることを表現する言葉も「飢え渇く」となっています。これは、詩編など旧約の敬虔においては、神を慕い求める魂の姿は「渇く」というメタファーで語られることが圧倒的に多いので、自然に「渇く」が付け加えられて、「飢え渇く」という句になったと見ることができます。

 「その人たちは満たされる(未来形)」という約束はどのような形で実現するのか、幸いの言葉は何も述べていません。義に到達することを求めて努力すれば必ず実現するという励ましなのか、努力する者には神の助けがあり、神の助けにより義が完成すると約束しているのか、終わりの時に神の賜物として義が与えられると待望しているのか、様々に理解することができます。どのように理解しても、「義」の内容が人間の行為とか在り方である以上、この幸いの言葉は全体として、義を追求することに熱心であれ、と励まし訓戒する性格の言葉となります。この解釈は、マタイ版の「幸いの言葉」が全体として知恵の訓戒・勧告の傾向を示していることと一致します。また、マタイが「御国の福音」において義の内容について多くの言葉を用いて説いている事実からも支持されます。

 ここで問題が起こります。義の実現を慕い求めなさいという勧告がストレートに、律法に従った行いと生活をすることに熱心でありなさい、という意味に理解されますと、ファリサイ派と変わらない、いやファリサイ派以上に頑迷な律法主義に陥る危険があります。新約聖書の時代のユダヤ教は、律法の実行にきわめて熱心でした。「熱心」は時代の合言葉でした。各派は律法への「熱心」を競っていました。その中で、「あなたがたの義がファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入ることはできない」と説くマタイの立場は、ユダヤ教イエス派に、他のどの派よりも律法の成就に熱心であれと励ますものである、と受け取られる可能性があります。実際、ユダヤ人信徒の中には、とくにパレスチナのユダヤ人信徒には、そういう意味で律法に熱心な人たちも多くいたのです。そういうユダヤ人信徒はマタイの立場に、わが意を得たりと共鳴したことでしょう。そういうユダヤ人がガラテヤ書に出てくるパウロの批判者となるのです。そこから、「ガラテヤの異端者たちはマタイ福音書の最も近い親族である。……マタイがパウロの敵対者たちの側に属したであろうことは、原則として妥当する」(U・ルツ)という判断も出てくるのです。

 では、マタイは律法の説教者なのでしょうか。ユダヤ教律法の内面化と徹底的な実行を説く律法学者なのでしょうか。そう受け取ることができる一面があることは事実です。しかし、マタイにはさらに重要な別の一面があります。それは、マタイが、イエスの宣べ伝えられた恩恵の支配の福音を理解し、保持し、伝えているという面です。それは、恩恵の支配を告知するイエスの言葉や働きを語る伝承を保存し伝えているだけでなく、福音書全体の構成において恩恵の支配の福音を説いているという事実です。

福音の場で聴く

 ここで、このマタイ福音書講解シリーズの最初に説明しました「マタイ福音書成立の意義」を思い起こしていただきたいのです。そこで見ましたように、マタイ福音書は、マタイの教会の固有の伝承であるイエスの語録集、いわゆる「語録福音書Q」を、キリストの十字架・復活の福音を物語るマルコ福音書の枠の中に取り入れて構成されたものでした。そうして成立したマタイ福音書の最大の意義は、語録集に伝えられたイエスの言葉を「福音」の場に置いたことであることを明らかにしました。わたしたちはマタイと共に、イエスのお言葉を「福音」の場で聴かなければならないのです。

 その時代のユダヤ人信徒がどのように理解したかとは別に、ときには著者の意図を超えて、わたしたちは著者が伝えるイエスの言葉を、「福音」の場で理解し受け止めなければならないのです。「福音の場で」というのは、「キリストにあって(エン・クリスト)」ということです。わたしたちのために死に、三日目に復活されたキリストに結ばれて生きる者、このキリストにおいて到来している終末的な神の恩恵の支配に与っている者として聴くということです。

 では、福音の場で聴くとき、「義に飢え渇く者」の幸いの言葉はどういう意味になるのでしょうか。まず、福音において「義」とは、神と人とのあるべき関わりの姿のことですが、その関わりは人間が正しい行為を積み重ねて築き上げるものではなく、神が創り与えてくださるものであるという理解が、福音の「義」の理解の根底にあります。パウロが「神の義」という時の「義」は、まさにそのような神からの救いの働きとしての義なのです。「義」をそういうものと理解しますと、その「義」は自分の側にはないのですから、神からの恵みの賜物として慕い求めないではおれないわけです。「義」をこのように理解しますと、「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされるからである」という言葉は、きわめて福音的な響きを発する言葉になります。

 「義に飢え渇く者」というのは、自分の側には神に受け入れられる資格としての義がないこと、いや、ありえないことを知っているので、神からの賜物として義を慕い求めないではおれない者を指します。これは「貧しい者、霊において貧しい者」の姿に他なりません。このように義に関して、すなわち神との関わりにおいて、自分を無の場に置く者は、その義への渇望は必ず「満たされる」ことになるのです。満たしてくださるのは神です。神の終末的な救済の御業が満たしてくださるのです。

 この義への飢え渇きはどこで満たされるのでしょうか。それは十字架の場においてです。復活によって栄光の主として立てられた方が、わたしの罪のために十字架につけられて死なれたという現実を、ひれ伏して受け取る時です。十字架の前にひれ伏すとき、十字架の場に働く神の霊が、わたしたちの内に神の贖罪の奥義を啓示し、刻み込んでくださるのです。その時、わたしたちの魂はわたしたちの思いをはるかに超える神の御業、すなわち、罪人を義とする神の終末的な救済の働きを体験するのです。こうして、わたしたちの義への飢え渇きは、十字架の場において、御霊の現実により、「満たされる」のです。

 わたしたちは地上で肉体をもって生きている限り、主から離れていることも知っています(コリントII五・六)。そのため、主と完全に一つになることを待望し、神を慕い求める渇きは絶えることはありません。しかし、キリストにあって義の賜物を受けていることにより、その渇望が満たされるという確かな希望をもって生きることができます。その幸いを感謝しないではおれません。

 「義に飢え渇く者」について、このような理解はマタイの意図を超えているかもしれません。しかし、イエスの語録をマルコ福音書の枠の中に組み入れたマタイの構想の延長線上にあると考えられます。新約聖書全体が提示する福音の場では、この幸いの言葉はこのように理解せざるをえません。逆にもし、わたしたちがこの言葉を、著者マタイの意図の範囲内で、当時のユダヤ人信徒たちが受け取ったように、律法への熱心を勧める言葉として受け取るならば、折角マタイが伝えようとした一面である恩恵の福音を覆い隠してしまう危険があります。そして、この福音書のこのような文字どおりの受け取り方が、教会の歴史の中で新しい形の律法主義を生み出していったのも事実なのです。

 地を継ぐ者


柔和な者

 マタイは「語録集Q」から受け取った三つの幸いの言葉の中に、マタイ独自の言葉を挿入しています。

 「柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ」。

(五節)

 この句は七十人訳ギリシャ語聖書の詩編三七編の中の一句「柔和な人々は地を継ぐ」(一一節)という表現をそのまま用いています。この詩編三七編は典型的な知恵の詩編で、信仰生活上の実践的な訓戒を集めた箴言集のような詩編です。このような詩編から引用しているところにも、マタイ版の「幸いの言葉」の知恵文学的な傾向がうかがわれます。

 「柔和な」という形容詞はマタイ特愛の用語の一つです。この形容詞は新約聖書には四回用いられていますが、その中三回までマタイ福音書に出てきます。この箇所の他では、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(一一・二九)というお言葉と、イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになった時に、ゼカリヤの預言の成就として、イエスが「柔和な」方として描かれているところです(二一・六)。

 マタイが「柔和な」という語を用いるとき、どのような意味で用いていたかは、イエスの時代からマタイが福音書を書いた時代までのユダヤ人社会の背景の中で見ると、その特徴がよく浮かび上がってきます。

 この時期のパレスチナのユダヤ人社会は、ゼーロータイ(熱心党)の運動がだんだんと浸透し、神の支配をもたらすためには神の民が立ち上がり、武力を用いてでも異教徒であるローマの支配を覆さなければならないという気風が強くなっていました。その結果、ユダヤ戦争が起こり、七〇年にはエルサレムと神殿がローマ軍によって破壊されるという悲劇を招きます。

 そのような流れの中で、「敵を愛しなさい」とか、「悪人に手向かうな」というような精神に生きたイエスとその教団は、まったく特異な集団であったといえます。民族主義の宗教的熱気が高揚した時代に、ひたすら万民に対する無差別絶対の神の慈愛だけに信頼して、非暴力無抵抗の道を歩んだイエスとその民の姿を、マタイは「柔和な」という形容詞で描くのです。

地を受け継ぐ

 では、柔和な人々に約束されている「地を受け継ぐ」という幸いは、どのような意味でしょうか。

 ここに用いられている〈クレロノメオー〉という動詞は、〈クレロノミア〉(相続財産)を受け継ぐ、相続するという意味の動詞です。このギリシャ語とその背後にあるヘブライ語は、もちろん世俗的な遺産相続にも用いられる用語ですが、聖書では普通イスラエルが神の約束によってカナンの土地を与えられたことを指すのに用いられます。そして、バビロン捕囚を契機として、土地の約束は終末的に解釈されるようになり、ユダヤ教において、とくに黙示思想においては、終末的な救済と栄光にあずかることを指す用語になっていました。パウロもキリストにおける救済を語るときに、相続財産〈クレロノミア〉とか相続人〈クレロノモス〉とか相続する〈クレロノメオー〉という用語をよく用いています。

 マタイが「地を受け継ぐ」と言うとき、それは地上の領土の主権者となることを意味しているのでなく、終末的な神の支配にあずかることを意味していると理解すべきでしょう。それは、地上の領土を確保するという用法は新約聖書にはありませんし、マタイ自身もこの動詞を、「永遠の命を受け継ぐ」(一九・二九)とか、「御国を受け継ぐ」(二五・三四)という形で用いていることからも分かります。

 救済とか「神の支配」にあずかることを「地を受け継ぐ」と表現するところに、マタイも「天の国」、「神の支配」を将来に顕現する終末的な事態と見ていることが示されています。このような終末的な見方は、新約聖書全体の基本的な姿勢であって、この箇所はマタイもその基本的な姿勢の枠の中にいることを示しているにすぎません。ただ、マタイの場合は、「柔和な者は地を継ぐ」という知恵文学的な箴言を使用することによって、御国にあずかる希望をもって生きる民は「柔和な」者でなければならないという、勧告ないし訓戒とする傾向が見られることになります。

貧しい者と柔和な者

 ところで、先に見ましたように、本来イエスは「貧しい者」の幸いを語られ、貧しい者の具体的な描写として「泣いている者」、「飢えている者」という表現を並行して用いられたと見ることができますが、マタイがその中に「柔和な者」という句を入れた理由ないし動機について、もうすこし考察してみましょう。

 イエスを信じて従った人々の中で、この福音書の著者をはじめ、ユダヤ人たちは当然自分たちの祈りの書として『詩編』に親しんでいました。この『詩編』には、力ある者たちから苦しめられ、ただ神の助けを叫び求めるほかない「貧しい」人々の祈りが、実に多く出てきます(計四二節)。イエスの「貧しい人々は幸いである」というお言葉を聴いたユダヤ人は、まず何よりも『詩編』の中の「貧しい者」の姿を思い描いたはずです。

 ところで、「貧しい人々」はヘブライ語聖書では〈アナウィーム〉とか〈エビオーン〉という語で表現されていますが、七十人訳ギリシャ語聖書では本来「貧しい」という意味の〈プトーコス〉や〈ペネース〉を当てるだけでなく、その内容を汲んで別の用語で訳すことがあります。マタイが用いた詩編三七編一一節がその一例です。ここでは、ヘブライ語の〈アナウィーム〉(貧しい人々)が〈プラエイス〉(柔和な人々)というギリシャ語で訳されています。新共同訳はヘブライ語聖書からの翻訳ですから、「貧しい人は地を継ぐ」と訳していますが、ギリシャ語聖書では「柔和な者は地を継ぐ」となっているのです(協会訳はギリシャ語訳に従って「柔和な人たち」と訳しています)。

 マタイは聖書に詳しいユダヤ人学者として、ヘブライ語聖書にも深く通じていたはずです。彼はイエスの「貧しい者は幸いである」というお言葉を思いめぐらし、詩編の「貧しい者」の姿と祈りを思い起こしたと考えてよいでしょう。そして、ギリシャ語でこの福音書を書くとき、数多くある「貧しい者」の姿と祈りの中から三七編一一節の一句を選んで、イエスの語録集Qにある「幸いの言葉」に組み入れたところに、マタイの洞察の深さと信仰上の傾向がうかがわれます。

 まず、「地を継ぐ」という表現がユダヤ教においてすでに終末的な意味で用いられており、「御国を受け継ぐ」という「幸いの言葉」の主題にふさわしいことが、この詩編の言葉が選ばれた動機として考えられます。しかし、この詩編の句において「貧しい者」を指すのに「柔和な者」というギリシャ語が用いられていることが、マタイの意図にぴったりであったことが主な動機ではないかと思います。

 先にも見ましたように、「柔和な」という形容詞はほとんどマタイだけが用いている用語です。それを地上のイエスを描く形容詞として用いているのはマタイだけです。この事実は、イエスご自身にも、イエスに従う弟子にも、「柔和」が欠くことのできない資質として、マタイが重視していることを示しています。

 「柔和な者」というのは、ここで見たように、「貧しい者」の訳であるという翻訳の経緯が示していますように、「貧しい者」の在り方を描く表現の一つです。「貧しい者」は自分の側に価値あるものを何も持っていない者のことです。自分を支えるものも守るものも何もないので、ただ神の助けに縋るほかない者です。そのような「貧しい者」の在り方を、自分の力で自分の思いを貫く「富める者」、「力ある者」と対比して描くとき、「柔和な者」と語られるのです。

愛の柔和さ

 この「柔和な者」の姿は、時代の背景の中に置いて見ると、具体的な意味が見えてきます。先にも簡単に触れましたように、イエスからマタイの時代のユダヤ人には、律法を完全に実行して、神だけを王とする神の民となるためには、異教徒ローマ人の支配を覆すために武力をもって立ち上がらなければならないという、ゼーロータイの思想の影響が深まっていました。神が終末的な支配を実現してくださるためには、神の民が命がけで戦わなければならない、その時はじめて神が奇跡的な力をもって介入し、地上に支配を打ち立ててくださることができるのだ、という信念が広まっていました。その中で、「悪しき者に手向かうな」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」とか、「敵を愛しなさい」と説かれたイエス、またその教えに従って生きた弟子たちは、全く逆の道を行くことになったわけです。事実、ユダヤ戦争の末期にはゼーロータイ指導者が、武器をとって戦おうとしないイエスの弟子たちを弾圧処刑したと伝えられています。マタイは、このようなイエスと弟子たちの姿を「柔和な」という語で指して、神の国を継ぐ者は「柔和な者」でなければならないと説くのです。

 イエスがこのような非暴力無抵抗を説かれる背後には、父なる神の絶対無条件の恩恵の宣教があります。すでに「幸いの言葉」の講解で見ましたように、イエスが説かれた「御国の福音」の核心は、父なる神の無条件絶対の恩恵の支配の告知にあります。これをイエスご自身の言葉で要約すれば、「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」(ルカ六・三六)となります。人間がどれだけ神の定めを守っているか、どれだけ立派な生活をしているか、どのような集団に属しているか、どれだけの価値や資格があるか、いっさい無関係に、神はわたしたちを神の子として受け入れてくださるのです。これが神の恩恵であり慈愛です。人間はこの神の慈愛によって存在し生きるものですから、隣人に対しても同じ慈愛をもって生きなければならないのです。相手が自分に対してどのような関係にあるかに関わりなく、たとえ敵であっても、慈愛深くなければならないのです。

 この慈愛が「柔和さ」の源泉です。「柔和さ」は慈愛の一つの現れ方です。パウロも聖霊の実としての愛の諸相を語るとき、その中に「柔和」を上げています(ガラテヤ五・二二〜二三)。慈愛は力づくで自分の主張を押し通すことはありません。苦しみや損失を自分の方に引き受けてでも、相手のために祝福を祈ります。このような柔和さが、イエスと同じ霊によって生きる者たちの性格となります。

 激しい自己主張がぶっつかり合う世界で、このような「柔和な者」は損ばかりして、生きていけないではないかと危惧する思いが、わたしたちの心の中にあります。たしかに、一見そう見えます。しかし、長い目で見ますと、歴史を形成するのは愛のゆえに自己を捨てる人々の群れなのです。地に広がるのはライオンではなく羊の群れなのです。「地を受け継ぐ」のは「柔和な人たち」なのです。苦難の中で歴史を担い、最後に神の永遠の支配にあずかるのは「柔和な人たち」なのです。


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