マタイによる福音書 3

幸いの言葉

 ― 御国の福音(2) ―





 視点と構成


はじめに

 イエスの「御国の福音」は、「幸いである」という宣言によって始まります。神の国を告げ知らせるイエスの福音の冒頭には、〈マカリオス〉(幸いな)という言葉が、壮大なドラマの開幕を告げ、新しい時代の到来を知らせるファンファーレのように、九回も続けて鳴り響いています。

 この「幸いである」という宣言が誰に向かって語られたものであるかは、前回に詳しく触れました。「貧しい人々は幸いである、神の国はそのような人たちのものである」というイエスの言葉を標題のようにして、おそらく様々な機会に語られたイエスの「幸いである」というお言葉を、マタイはまとめて「御国の福音」の冒頭に置くのです。
 まず、マタイ福音書五章にあるテキストを掲げておきます。講解で触れるさいの便宜上、それぞれの「幸い」の言葉に番号をつけておきます。(テキストは、三節の「心」を「霊」とした以外は、新共同訳をそのまま用います。)

 マタイのテキストの特色を理解するために、並行するルカのテキスト(六章二〇〜二六節)を続けてあげておきます。

マタイ福音書(五章三〜一二節)

一 霊の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである(三節)。
二 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる(四節)。
三 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ(五節)。
四 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる(六節)。
五 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける(七節)。
六 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る(八節)。
七 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる(九節)。
八 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである(一〇節)。
九 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである(一一節)。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである(一二節)。

ルカ福音書(六章二〇〜二六節)

 貧しい人々は幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
  あなたがたはもう慰めを受けている。
 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
  あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

マタイとルカの視点

 マタイとルカを比較すると、その違いからそれぞれの編集方針や視点が見えてきます。もちろん、「貧しい者」の幸いを宣言するという基本的な内容は同じですが、著作の状況と動機から、構成と用語には違いが出てきています。
 
 マタイの「幸い」の言葉でルカと共通しているのは、第一、第二、第四の言葉と、第九です。この四つの言葉は、マタイとルカが用いた共通の資料である「語録資料Q」ないしは「語録福音書Q」に含まれていたと見られますが、他はマタイとルカがそれぞれ固有の伝承から取り入れるなどして構成したと考えられます。
 
 共通している第一、第二、第四の言葉も、マタイとルカでは違いがあります。第一の言葉の「霊の」や、第四の言葉の「義に」はマタイ特有の解釈から出た付加であると認められます。また、ルカだけにある「今」という語も、マタイがQから削除したと考えるよりは、ルカが付け加えたと考える方が自然です。それで、おそらくQ文書には、次のような形で記録されていたと推定されています。

 貧しい人々は幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
 飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
 泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

 この形がイエスが語られた元のお言葉にもっとも近いのではないかと見られます。ただ、イエスは預言者的に「あなたがた」という二人称で語りかけられたのか、知恵の言葉では普通の「その人たち」という三人称で語られたのかは議論があります。

 マタイとルカの現在のテキストの形を、資料として用いたQの形と比較しますと、ルカは貧しい者と富める者との対比、さらに現在と来るべき時代とでの両者の立場の無条件の逆転を強調しています。それに対してマタイは、「慰められる」とか「満たされる」という第二句の動詞に未来形を用いることで、終末的な逆転という面を残してはいますが、全体の構成からすると、神の国に入ろうとする者の現在の在り方を教えようとする傾向が見られます。この視点の違いは、ルカがとくに異邦人を意識して外の人々に福音を伝えようとしているの対して、マタイはすでに洗礼を受けて教団に入っているユダヤ人に義の道を教えようとしている、という違いから来るものと考えられます。

 ルカが貧しい者と富める者について語っている言葉は、普通の社会生活を体験している者であれば誰でも理解できる言葉で語られていて、聖書の知識を前提にしていません。それに対してマタイでは、聖書の用語や考え方が前提となっていて、とくにマタイだけにある「幸い」の句では、詩編や預言書や知恵文学からの引用や構成が目立っています。この点からも、ルカが外の異邦人に語りかけようとしているのに対して、マタイは教団内のユダヤ人に語りかけていることが分かります。

 このマタイの特殊な立場は、わたしたちが現在マタイの「幸いの言葉」をどのように理解し受け取るべきかを考えるさいに、心にとどめておくべき重要な点の一つであると思います。

マタイの構成

 マタイの「幸いの言葉」の構成を見ますと、第一から第八までが一連のまとまりをなし、第九は枠の外の特別の位置に置かれていることが、一見してすぐに分かります。第一から第八は、同じような詩形で語られいるだけでなく、最初と最後(三節と一〇節)に置かれた、「天の国はその人たちのものである」という同じ言葉で枠をはめられています。

 その八つの「幸いの言葉」は、前半の四つと後半の四つの二部に分けられます。このことは、キリスト教会の長い歴史の中でしばしば現れた解釈のように、前半の四つは神の国を受ける者の「在り方」、すなわち何も持っていないという窮乏と待望の姿が語られているのに対して、後半の四つは、神の恵みを受けた者が示す姿や行為が話題になっている、という内容の違いから説明されます。さらに、前半四つの言葉に用いられている「貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「飢え渇く者」という単語が、ギリシャ語ではみな同じ「パイ」の文字で始まるという事実も、マタイがかなり意識してこの四つの言葉を一まとまりとしていたことを窺わせます。

 預言と知恵


ルカ版の黙示思想的傾向

 ルカ版のテキストは「今」という語を加えることによって、現在の貧しさと将来の栄光の富との対照を強調しています。さらに、「今」満腹して笑っている富める人々が、将来悲しみ泣くようになる、という反対側の逆転を加えて、この貧しい者の終末的な栄光への逆転を際だたせています。そこには黙示思想的な傾向が見られます。ルカは本来黙示思想家ではありません。ここでも黙示録的な用語は用いず、日常的な用語だけしか使っていません。しかし、ルカの版の「幸いの言葉」は黙示思想の枠組みの中で動いています。

 黙示思想は厳しい二元的な対立の枠の中で救済を考える思想です。それは、捕囚以後のユダヤ教の中で、異教帝国の支配の下で抑圧に苦しみながら、律法に忠実に生きることによって神の救済の約束に与ることを目標にして苦闘した、「敬虔な人々」の間で発展した思想です。世界は、神に属し神の律法を守る義なる民と、この世の支配権をもち神に敵対する不義の民との二種類に峻別され、時代は今の世(アイオーン)と来るべき世という二つのアイオーンに分けられます。今の時代では不義なる民が支配して義人を苦しめているが、神が来たらせる将来の時代においては、不義なる民は神の裁きによって滅ぼされ、神に属する義人たちが苦難から救い出されて栄光を受ける、という思想です。

黙示文書における「幸いの言葉」

 黙示文書も、その主張を表現するのに、好んで「幸いの言葉」という形式を用いました。ダニエルに現れた御使いは、「待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである」(ダニエル一二・一二)と言っています。苦難の中で神の救いの約束を忍耐深く待ち望む者の幸いを説いているのです。

 終わりの日に関わる幻を見せられたエズラは、こう言っています。「主よ、前にも申しましたが、今また申します。今、あなたの定めを守って生きている人々は幸いです」(ラテン語エズラ記七・四五)。そしてさらに、神の隠された秘密を示された者の幸いを、こう述べています。「あなたは多くの人よりも幸いである。あなたはいと高き方のもとに呼ばれているが、これはごくわずかの人にしかないことである」(同一〇・五七)。

 エチオピヤ語エノク書は、「幸いなるかな、きみら義人たち選民よ。きみたちの分は栄光に満ちている」(五八・二)と、選ばれた義人たちを祝福し、他方、義人たちに敵対する者たちについては、「わざわいなるかな、不義を行い、いつわりのことばをほめそやすきみたちは。きみたちは滅び、救いも幸福も得られない」(九九・一)と断罪しています(エノク書の引用は村岡崇光訳から)。

新約聖書における黙示思想

 ダニエル書以来、ユダヤ教世界には多くの黙示文書が生み出されました。それらの文書は細かい点では相違がありますが、基本的にはこのような二元的な対立の枠組みで救済を待ち望んでいる点では共通しています。初期のキリスト教会もユダヤ教からこのような黙示思想を受け継いで、将来の救済を宣べ伝えました。ヨハネ黙示録はユダヤ教黙示録の直系ですし、ヨハネ黙示録を除いても、新約聖書にはマルコ福音書十三章などに見られるように、黙示思想が深く染み込んでいます。

 ルカの「幸いの言葉」は、本来のイエスの「幸いの言葉」が黙示思想的な方向に展開した一つの例と見ることができます。たしかに、ルカにおいてはもはや律法に忠実であるか否かが民を二分する原理にはなっていません。異教の人々にも分かりやすい「貧しい者」と「富める者」という日常的な表現で二分されています。しかし、現実のこの世で飢えて泣いている貧しい人々、窮迫して神に縋るほか道がない者たちが、来るべき世で栄光を受け、それに対して、この世で満足し笑っている「富める者」、権力を握り驕り高ぶっている者たちが破滅するという宣言は、まさしく黙示思想そのものです。

 黙示文学では普通、ダニエルとかエノク、エズラというような昔の聖徒の名を使って後代の著者が語るという偽名性と、幻や譬など象徴的な表現が多く用いられるという特徴があります。ルカのテキストにはこういう特徴はありませんから、これを黙示文学の一種と見ることは適切ではないかもしれません。正確に言えば、黙示思想の底流をなしている終末的な預言の精神の表現であると言えます。

 語録集Qは、その成立過程はともかく、現在の形を全体として見ると、こういう終末的な預言の精神に貫かれています。Qがイエスの語録集の冒頭に掲げる「幸いの言葉」は、イエスがこういう預言者的な精神から発せられたものとして載せられていると見ることができます。それをルカが、「今」という語を加え、さらに富める者の不幸を対比させて、将来の逆転を強調したと見ることができます。

マタイの知恵文学的傾向

 それに対して、マタイの「幸いの言葉」は、やや異なる視点からまとめられているようです。たしかに、マタイにも来るべき世での救済を待ち望むという終末的な側面があります。それは、「慰められる」とか「満たされる」という動詞が未来形であることや、「地を受け継ぐ」という終末的な救済を指す表現(これについては後述)が用いられていることからも分かります。しかしマタイは、ルカのように黙示思想的な逆転を強調することはありません。むしろ、「幸いである」と語りかけられている「貧しい者」は、この世でどのような在り方をすべきであるか、を教えようとする姿勢が前面に出てきます。
 もともとユダヤ教における「幸いの言葉」という類型は、そのような訓戒または勧告の意味で用いられることが多かったのです。たとえば詩編は冒頭に次のような「幸いの言葉」を置いています(一編一〜二節)。

「いかに幸いなことか、
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
 罪ある者の道にとどまらず、
 傲慢な者と共に座らず、
 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」

 これはイスラエルの民に、このような歩みをするように訓戒し勧告している言葉であることは明かです。この他にも知恵文学には勧告し訓戒するための「幸いの言葉」が多く見られます。

 旧約聖書に現れる「幸いの言葉」は、大部分知恵文学の中に出てきます。それは、「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は」(箴言三・一三)と、知恵を賛美する形で、知恵を追求することを勧め、「子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」(箴言八・三二)と、「諭しに従う」ように訓戒します。

 イエスが語られた「幸いの言葉」は、たしかにユダヤ教の知恵文学の勧告・訓戒のための「幸いの言葉」の形式を取っています。しかし、本来のイエスの「幸いの言葉」は勧告・訓戒の言葉ではありません。「泣いている者は幸いである」という言葉は勧告にはなりえません。「飢えている者は幸いである」は訓戒ではありえません。

 ところが、マタイは「義に飢え渇いている者」というように「義に」を加えることによって、これを勧告ないし訓戒の言葉にしている、あるいは、そう受け取ることができるようにしているのです。マタイが語りかけているユダヤ人にとって、義といえば律法の遵守を指すと受け取る可能性があります。その場合、「義に飢え渇く者」とは、律法を完全に遵守実行することを、飢え渇いている者のように熱心に追い求める者という意味に理解されます。そうするならば、その熱意は神の助けにより、あるいは終末の完成の時に、「満たされるであろう」と約束されることになります。こうして、この「幸いの言葉」は、律法を遵守して神に義と認められることを熱心に追求するようにという勧告の言葉になるのです。(この句の別の理解の仕方については次講で触れることにします。)

 ルカと共通していないマタイ独自の「幸いの言葉」には、勧告の意味あいの強いものが見られます。「柔和な者」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」というような表現は、こういう在り方をすれば、これこれの祝福を受けるであろうという約束を伴う、勧告ないし訓戒としての意味あいで用いられていると理解することができます。

 こうして、マタイがまとめた「幸いの言葉」は、イエスの本来の「幸いの言葉」が、信徒の現在の在り方についての勧告ないし訓戒の方向に展開した例であると見ることができます。そして事実、キリスト教会の歴史においては、マタイが一歩踏み出した方向に進み、このような勧告としての解釈が主流を占めるようになるのです。

 では、イエスが語られた「幸いの言葉」は、もともとどういう意味なのでしょうか。それは終末的な預言でしょうか。知恵の訓戒でしょうか。もう一度、イエスの元のお言葉と見ることができるテキストに戻って、考察しましょう。

 恩恵の支配


イエスの言葉の特徴

 先にマタイとルカの二つのテキストを比較したところで見ましたように、Q文書にはおそらく次のような形でイエスのお言葉が伝えられていたと推定されます。

 貧しい人々は幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
 飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
 泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

 この形はイエスが語られたお言葉をかなり忠実に伝えていると見ることができます。イエスはこのような言葉で、回りに集まってきた民衆に語りかけられたのです。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という宣言が、当時のユダヤ教の敬虔にとっていかに革命的なものであるかは、前講で詳しく見ました。この第一の言葉は、「幸いの言葉」全体の表題のような位置を占めています。それだけでなく、イエスが語られた「御国の福音」の根本精神を表現する標語としての意味を持っています。

 それに続く「飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる」という言葉と、「泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」という言葉の二つは、第一の言葉を具体的な表現を用いて、さらに印象深く言い換えたものです。「飢えている人々」とか「泣いている人々」は「貧しい人々」の具体的な姿を描いている句ですし、それに対応して用いられている「満たされる」とか「笑うようになる」という句は、「神の国」が与えられることの幸いを感覚的な用語で表現しているわけです。このような表現は、多くの譬にもみられるように、民衆の日常の生活に即した具体的な表現を用いられたイエスの語り方にふさわしいものです。

 目の前で病人を癒し悪霊を追い出して、神の救いの力を示されたイエスの口から発せられる、「飢えている者は幸いである」とか、「泣いている者は幸いである」という逆説的な言葉は、聴く者の心にどのような大きな驚きと深い印象を与えたことかと思います。なぜ、飢えている者が幸いであり、泣いている者が幸いなのか。それは、貧しい者にこそ神の国が与えられるのだからです。飢えて泣いている貧しい者、自分のものを何も持っていない貧しい者こそが神の支配の現実に入ることができるからです。

将来と現在

 イエスの「幸いの言葉」は明らかに、勧告や訓戒ではありません。飢えることや泣くことを勧めることはありません。貧しい者であれ、と訓戒しているのでもありません。これはあくまでも事実の描写です。イエスは端的に貧しい人々の事実を描いておられるのです。飢えて泣いている貧しい人々は幸いである、と事実を宣言しておられるのです。

 ここで、「満たされる」とか「笑うようになる」という動詞が未来形であることに注意しなければなりません。それは、貧しい者に与えられる神の国が将来の現実であることを示しています。現在飢えて泣いている貧しい者は、やがて到来する将来の神の国において、満たされ笑うようになる、というのです。ルカはこの点を強調して、「飢えている」と「泣いている」に「今」という語を付けました。

 イエスの神の国の告知に将来の面があることは否定できません。イエスの宣教においても、神の国は将来の現実、すなわち「まさに来らんとしている」現実なのです。しかしそれは、どうなるか分からない未来ではなく、現在と同じように確かな未来なのです。それは、聖霊によって現在すでにイエスの中に到来している将来なのです。そのように確かな将来であるゆえに、イエスは今飢えて泣いている貧しい者に、「神の国はあなたがたのものである」と宣言されるのです。

 その貧しい人々の幸いを描くのに、イエスは「神の国」あるいは「神の支配」という、ユダヤ教特有の終末論的な用語を用いておられます。それは、「神の支配」という表現が、聴衆である当時のユダヤ人たちにとって、救済を語る共通の言語であったからです。当時のユダヤ人はみな、「神の支配」の到来を待ち望んでいました。「神の支配」が到来するとき、神の民を苦しめる悪しき権力は裁かれ、神に忠実な民は救われて栄光に入るのです。その時が近いことを、多くの預言者たちが告げていました。その中で代表的な人物が洗礼者ヨハネです。彼は「神の支配が近づいている」と叫び、その時に備えて、悔い改めてバプテスマを受けるように迫ったのです。

 イエスご自身もヨハネを神からの預言者と認めて、同じように「神の支配は近づいている」と宣べ伝えられたのでした。イエスの「神の国」宣教に、差し迫った未来のことを語っておられるという面があることは否定できません。それで、この「幸いの言葉」においても、救済が「神の国」という用語で語られるかぎり、「満たされるであろう」とか「笑うようになるであろう」という未来形が用いられるのです。

 しかし、イエスは時代の共通言語である「神の国」あるいは「神の支配」という終末論的用語を用いながらも、たんに未来のことを語っておられるのではありません。もし、ルカのテキストを未来に起こる黙示思想的な逆転という意味だけに理解するならば、それはイエスのお言葉の真意を受け取り損なうことになります。イエスは「神の支配」という終末論的な用語の中に、まったく新しい内容を盛り込んで用いておられるのです。そのイエス独自の新しい内容を聴きとることが、「幸いの言葉」解釈の眼目です。

恩恵の支配の告知

 では、イエスが「神の支配」という時代の共通の用語に盛り込まれた新しい内容とは何でしょうか。それは、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」というお言葉に凝縮されています。すでに前講で詳しく述べたように、このお言葉は「恩恵の支配」という新しい時代の到来を告知する、イエス独自の宣言なのです。人間の側の価値や資格を絶して、神が無条件に賜物として与えてくださる、神と人との新しい関わりの時代の到来を告げ知らせるのです。イエスにとって「神の支配」とは「恩恵の支配」に他ならないのです。

 神の「国」とか「支配」と訳されている語〈バシレイア〉は、「王の支配」を意味する語です。神が王として支配される現実を指す用語です。イスラエルは王国制度を体験して以来、ヤハウェを王として賛美することを始めました。詩編には、「ヤハウェは王となられた」という賛美と宣言が出てくるようになります。そして、バビロン捕囚を転機として、王としてのヤハウェは終末の時に現れる世界の支配者として待ち望まれるようになります。この時期の預言者は、終わりの日の救いを宣べ伝える者が「あなたの神は王となられた」と叫ぶ、と表現しています(イザヤ五二・七)。

 イエスの時代のユダヤ教において、「神の支配」は二重の意味をもっていました。神は現在律法によってイスラエルの民を王として支配しておられるが、終わりの日にはその律法によって世界の諸国民を裁き支配されるというのです。イエスは伝統的な神の〈バシレイア〉をいう表現を用いておられますが、その中身は違います。神はもはや王として律法によって支配されるのではなく、父として恩恵によって支配されるのです。イエスの「御国の福音」は、父の恩恵の支配を告げ知らせるのです。

結び

 イエスの「幸いの言葉」は、終末的預言とか知恵文学的訓戒というような既成の類型で理解することはできません。イエスの中に聖霊によって到来している「父」の恩恵の支配の現実が、イエスの口を通して溢れ出ているのです。それは、モーセを通して与えられた契約を超えるものであり、預言者たちが終わりの日に実現すると語った事態であるという意味で、終末的な事柄を語る言葉です。しかし、もはやそれは未来のことを語っているのではなく、現在の事実を告げ知らせているのです。それは、これまでの預言とか知恵というような既成の類型で理解することはできない性質の言葉です。それは「福音」という、まったく新しい類型の言葉として理解されなければなりません。イエスは啓示の山において「御国の福音」を語り出されているのです。イエスが語り出された「幸いの言葉」こそ、「御国の福音」の核心なのです。


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