マタイによる福音書 13

敵を愛しなさい

 ― 御国の福音(12) ―





 悪人に手向かうな

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。

(五・三八〜四二)

マタイの編集

 イエスの教えの言葉の中でもっとも強烈な印象を与える言葉は、「敵を愛せよ」という言葉です。弟子たちもこの言葉をイエスの教えの核心であると理解していたことは、この言葉がイエスの「言葉資料」の最初に置かれていることからも分かります。愛敵の言葉が「言葉資料」の最初に置かれていたことは、ルカ福音書で貧しい者への「幸いの言葉」の直後に「敵を愛しなさい」の段落(ルカ六・二七〜三六)が来ていることからも、十分推察できます。

 B・マックも『失われた福音書』において「Qの教本(オリジナル版)」を復元するさい、最初に貧しい者、飢えている者、泣いている者への三つの幸いの言葉を置き、その直後に敵を愛しなさいというルカの段落を続けています(邦訳一〇四頁)。

 ルカは「幸いの言葉」に続く段落を、「敵を愛しなさい」という言葉で始め(六・二七)、同じ「敵を愛しなさい」という言葉で結んでいます(六・三五)。そしてその間に、頬を打つ者にもう一つの頬を向けよとか、上着を奪う者に下着を与えよとか、何も当てにしないで貸しなさいというような言葉を置いています。ルカにとっては、このような具体的な教えはみな「敵を愛せよ」という教えの中に含まれているのです。おそらく「言葉資料Q」においてもそのような形で伝えられていたのでしょう。ところがマタイは、その愛敵の言葉を二つの「対立命題」に仕上げます。まず敵を愛する行為の消極面として、悪に対して悪をもって対抗することを禁じ(三八〜四二節)、次に敵を愛する行為の積極面として、悪に対して善をもって報いるように促します(四三〜四八節)。そして、それぞれの命令にユダヤ教徒にとって当然とされている言葉を対立させて対立命題の形に整え、イエスの教えの独自性を際だたせます。こうして、ルカにおいて(そしておそらくQ資料において)一つである愛敵の言葉は、マタイにおいては二つの対立命題の形をとり、ユダヤ教に対立するイエスの教えのクライマックスとして、対立命題集の最後に置かれることになります。

 マタイは、「語録資料Q」にある「頬を打つ者に他の頬をも向けよ」とか「上着を奪う者に下着をも与えよ」というきわめて印象的な具体的表現を、「悪人に手向かうな」という原理的な表現にまとめ、それに対立する古い戒めとして「目には目を、歯には歯を」というイスラエルの民に周知の法を置きます。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」というのは、旧約聖書の次のような箇所が考えられているのでしょう。

「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。

(レビ記二四・一九〜二〇、他に申命記一九・二一)

 人に傷害を与えた者は、与えた傷害と同じ傷害をもって罰せられるという法は、「同害報復法(レックス・タリオーニス)」と呼ばれ、古代社会に広く認められ行われていた法でした。イスラエルにおいても、ここに見たように、神の正義の要求として神の律法の中に取り入れられていたのでした。この法は本来、傷害を受けた者が相手に限度を超えた復讐をすることを制限するための法であったと言われています。傷害を受けた者は、レメクの場合に見られるように(創世記四・二三〜二四)、自尊の感情から、受けた傷害の何倍もの害を与えて復讐しがちです。原始社会において際限のない復讐の悲劇を避けるために行われた「同害報復」(タリオ)の慣行が、公の刑罰においても適用されたものが上記の法文です。

 この法の背後には、悪を受けた者は、その悪の範囲内という量的制限はありますが、相手に悪を報い返しても当然であるという考えがあります。それに対してイエスは、「しかし、わたしは言う。悪人に手向かってはならない」と言って、悪に対抗して相手に悪を行うことを全面的に禁じられます。「悪人に手向かってはならない」という言葉が、イエスから出た言葉か、あるいはマタイがイエスの言おうとされたことをまとめた言葉かは議論がありますが(ルカにはこの言葉はなく、語録資料にもなかったと考えられます)、以下の頬や下着についてのイエスの言葉から、イエスが言おうとされたことに間違いないと十分推論されます。

マタイの状況

 頬を打つ者や上着を奪う者についての言葉は、「悪人に手向かってはならない」という一般的原理的表現よりもはるかに劇的具体的で印象深く、イエスの語り方の独自性をよく示しています。マタイとルカとは同じイエスの言葉を伝えていますが、よく見ると微妙な違いがありますので、両者を比較してマタイの特色を見ておきましょう。ルカは次のように書いています。

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。

(ルカ六・二九〜三〇)

 ルカはただ「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」と書いていますが、マタイは右と左の区別を加えて、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」としています。人を平手打ちする場合、普通は利き腕の右手で打ちます。その時、相手の右の頬を打つには手の甲で打たなければなりません。ユダヤ人社会では手の甲で打たれることはひどい侮辱を意味していました。ユダヤ人読者には、「右の頬を打たれる」とは痛みよりも侮辱を受けることが問題でした。それに対して「左の頬をも向けなさい」というのは、その侮辱に対して侮辱をもって報いることなく、侮辱を甘受せよということです。

 また、ルカは「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と書いています。これは強盗が衣服を強奪する状況です。その場合、まず上着から剥ぎ取ります。上着を力づくで奪う者に、力づくで対抗してはならない、抵抗せず下着をも取らせなさいというのです。それに対してマタイの表現は訴訟の場面です。法廷で下着を差し押さえられた者は、「上着を質にとってはならない」という法を根拠に抵抗することなく、上着をも差し出しなさいというのです。

 イスラエルの貧しい人々にとって上着は唯一の夜具でもありました。それでモーセ律法は次のように規定しています。
 「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに帰さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」(出エジプト記二二・二五〜二六)。

 さらにマタイは、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」という、ルカにない一文を加えています(一ミリオンは約一・五キロの距離)。「強いる」というのはローマの支配下にあるユダヤ人の状況を背景にしています。ローマの軍隊や官憲はユダヤ人に随時に物資の運送などの強制労働を課するこができました。もし権力者が物を運ぶなど一ミリオンの道のりを行くことを強制したら、強いる者と一緒に進んで二ミリオン行きなさいというのです。

 こうして比較してみると、ルカがいつどこでも起こりうる一般的な状況を描いているのに対して、マタイはマタイの時代のユダヤ人社会の状況を背景にして書いていることが分かります。この一段の言葉を、イエスが語られた三〇年代からマタイがその福音書に書き記した八〇年代までの約五〇年間のユダヤ人の歴史の中に置いてみますと、その重要性がさらに明らかになります。この五〇年間はユダヤ人のローマに対する抵抗運動が燃え上がった動乱の時期でした。その動乱は七〇年のエルサレム陥落によって破滅的な結末を迎えますが、その後も混乱は続き、二世紀始めの第二次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)に至ります。この時期にはユダヤ人社会はだんだんと、ローマの支配を武力をもって覆すことが律法に忠実なユダヤ人の使命であるとする「ゼーロータイ(熱心党)」のイデオロギーに傾いて行きます。もっとも敬虔な一派とされていたエッセネ派もローマに対する武装蜂起に巻き込まれて行きます。そのような流れの中で、イエスの弟子たちの群れは、この一段に伝えられている言葉を担って、まったく異なった非暴力の道を歩むことになります。その結果、イエスの弟子たちはユダヤ人社会で孤立し、「ゼーロータイ」の一派が実権を握った時期(エルサレム陥落直前の時期)には厳しく弾圧されることになります。この時期のユダヤ人にとって、イエスの言葉に従い非暴力・無抵抗の道を歩むことは、イエスの弟子の確かなしるしであり、命がけの道であったのです。

求める者には与えよ

 最後にルカもマタイもこの一段を「求める者には与えなさい」という言葉でまとめています。ただルカは、それを「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」という表現で、強奪する者に対する状況で描き、マタイは「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と、貸借という法律関係で表現しています。これは、ルカとマタイにそれぞれ先に出てきた強盗の場面と訴訟の場面が続いているからでしょう。

 「求める者には与えなさい」という言葉で、イエスが無条件・無制約に与えることを求められるのは、イエスが「だれでも、求める者は与えられる」(マタイ七・八)という無条件の恩恵の世界に生きておられるからです。イエスの父は、だれでも求める者には資格や価値を問わないで、無条件・無制約に良いものを与えてくださる方です。そのような無条件の恩恵の世界に生きる者は、求める者には無条件で与えることが当然である場にいるのです。

 マタイは、「悪人に手向かうな」という言葉で始めたこの段落を、「求める者には与えよ」という積極的な命令で結びます。この結びは、「左の頬をも向けよ」とか「上着をも取らせよ」とか「二ミリオン行け」という、一見消極的な無抵抗の姿勢の背後に、だれに対しても溢れるように与えてやまない積極的な恩恵の世界の生き方があることを指し示しているのです。こうして、この結びの言葉は自然に次の「敵を愛せよ」の段落に導いて行きます。

 敵を愛しなさい

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

(五・四三〜四八)

隣人と敵

 マタイは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(四三節)と書いています。しかし、「隣人を愛し、敵を憎め」という一対の表現は旧約聖書にはありません。「隣人を愛しなさい」という戒めは、レビ記に明記されており、ラビたちもこれをもっとも大切な戒めとして重視していました。そこにはこう記されています。

 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(レビ記一九・一八)

 ここに出てくる「民」というのはイスラエルの民のことであり、この戒めの文脈からしても「隣人」というのはイスラエルの同胞のことが意味されていると言えます。たしかにまた、イスラエルは自分たちの間に寄留している異邦人にも愛を及ぼすことを知っていました(申命記一〇・一九など申命記に多数)。しかし、イスラエルに敵対する民や、イスラエルの中にあっても信仰深い者に敵対する傲慢な者たちに対しては敵意と憎しみを持つことが、敬虔な者にとって当然のこととされいました(詩編などに多数)。このような意味で「敵を憎む」ことは、みずから敬虔な者たちの共同体をもって任じるクムラン宗団の文書に典型的に表現されるようになります。クムラン宗団は共同体に加入する者に、「すべて光の子らを……愛し、すべての闇の子らを……憎むこと」を求めます(宗規要覧一・三〜四、九〜一〇)。マタイが「ファリサイ派の人々の義」を「隣人を愛し、敵を憎め」とまとめるとき、このクムランの戒律をユダヤ教倫理の典型として念頭に置いていた可能性も否定できません。

 それに対してイエスはこう言われます。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(四四節)。隣人を愛することにおいては同じですが、敵については、敵を憎むことを当然とするユダヤ教倫理と反対に、イエスは敵を愛することを求められます。むしろこう言うべきかもしれません。ユダヤ教では愛すべき隣人と憎むべき敵とを区別しましたが、イエスはその区別を廃し、敵をも愛すべき隣人の中に入れてしまわれたのです。

 イエスは、自分自身のように隣人を愛せよという戒めを、心を尽くし力を尽くして主なる神を愛することと一体の戒めとして、これを最重要の戒め、律法と預言者全体を成就する最高の戒めとされます(マタイ二二・三四〜四〇)。この点についてはイエスとラビたちは一致しています。ところが、「隣人」とは誰かという点で違ってきます。この違いについては、「善いサマリヤ人」のたとえ(ルカ一〇・二五〜三七)が印象深く語っています。

 ユダヤ教では「隣人」とはイスラエルの民の範囲内の人であり、信仰を同じくする共同体の仲間のことでした。それ以外の人たちのことは視野に入っていませんでした。イスラエルと宗教を共にしない異邦人や、イスラエルの中でも律法を知らない階層の人たち、敬虔な者を圧迫する傲慢な者たちは、関わりを持たないか、蔑視や敵意をもって対すべき相手でした。そのような「敵」に対する無視とか蔑視とか敵意は、神とその民(隣人)への愛の裏側として、むしろ神から求められているとされたのです。ファリサイ派や熱心党の人々は、律法への熱意の故に、異教徒の支配者や律法に無縁なユダヤ人を蔑視し憎み、時には殺意にまで至りました。

 それに対してイエスは、そういう人々をも「隣人」の中に入れてしまわれるのです。自分自身のように愛すべき隣人とされるのです。律法に熱心な義人たちから「罪人」と蔑視されている人々はもちろん、迫害を加えてくる異教徒や不信心な者たちまで含めてしまわれるのです。ここで「敵を愛しなさい」というときの「敵」とは、まず第一にこのような宗教上の敵対者が考えられていることは、「自分を迫害する者のために祈りなさい」という句が、「敵を愛しなさい」という句と一対になって用いられていることからも分かります。宗教的な敵意ほど妥協なく激しいものはありません。その敵に対して、呪いではなく祝福を祈ることは、敵を愛する愛、善をもって悪に報いる愛の最高の表現です。

 もちろん「敵」とは宗教上の敵対者だけではありません。人生においては深刻な利害の対立から、また歴史においては激しい民族とか階級の対立から、個人的に、また集団的に敵と遭遇しなければならない状況が多々あります。そのような敵と対するとき、イエスの弟子には「敵を愛しなさい」という言葉が聞こえてくるのです。 では、そのように敵をも愛すべき隣人として受け入れる力はどこから来るのでしょうか。人間の本性からすれば不可能なことをさせる原動力はどこにあるのでしょうか。それが以下の箇所で述べられます。

絶対愛

「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。

(四五節)

 敵を愛すること、すなわち仲間か敵かの区別なく、いかなる相手をも隣人として愛することを求める根拠として、イエスは「天の父」がそのように人を愛する方であるという事実を語り出されます。この「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ……」というお言葉は、伝えられているイエスのお言葉の中でも最も印象深い言葉の一つです。ルカはこの箇所に相当するところで次のように書いています。

「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。

(ルカ六・三五)

 ルカが一般的な表現を用いているのに対して、マタイの表現はきわめて具体的で、聴く者に強く訴えます。イエスがいつも聴く者の日常生活の体験に密着した表現を用いて語られたことを考えると、この句に関してはマタイの方がルカよりもイエスの元々の言葉に近いと推定せざるをえません。

 太陽が昇り雨が降るという同じ日常的な現象を見ていても、イエスはそれを父の絶対の愛のしるしとされます。それは、イエスが父の絶対的な恩恵の次元に生きておられるからです。ここで「絶対」というのは、以前にも触れましたように(「天旅」九六年二号六頁以下)、「対者(相手)に絶する(制約されない、関わりなく)」という意味で用いています。すなわち「相手の価値や資格に無関係に」という意味です。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるように、ある人が神に対して義人であろうが罪人であろうが、人間の側の価値や資格に無関係に愛を注ぎ、救いに至る力を与えてくださるというのです。

 ここで人間が、ギリシャ人にもどの民族にも通用する一般的な「善い者」と「悪い者」とに分けられているだけでなく、「正しい者」と「正しくない者」とに分けられていることにも注目しておきましょう。「正しい」《ディカイオス》というのは、マタイが「御国の福音」の中心に置いている「義」《ディカイオシュネー》の形容詞形です。ユダヤ人マタイにとって「義」とは律法にかなった生活ですから、「正しい者にも正しくない者にも」というのは、律法にかなった生活をしている者にも、律法と無縁な生活をしている者(ユダヤ人社会で「罪人」と呼ばれていた人々)にも、神の愛は同じように注がれ、同じように救いが提供されているということを意味することになります。イエスがどのような言葉遣いをされたのかを確定することは困難ですが、マタイはこの言葉によって、ユダヤ人に向かって(パウロと同じく)「律法とは無関係に」、ただ神の恩恵によって与えられる救いを告知していることになります。 恵みとか恩恵とか恩寵というのは、神の愛がその対象である人間の価値とか資格に無関係に注がれて働く相を指します。恩恵は愛と別物ではありません。生命そのものであり源泉である愛から発して、受ける資格のない対象に向かって働いている姿の愛を恩恵と言います。ヨハネが愛を語り、パウロが恵みを強調するとしても、両者は同じ事態を語っているのです。イエスは愛とか恵みという用語を用いられることは多くありませんが、この節のような印象深い言葉で神の愛の質、すなわち恩恵の絶対性・無条件性を語られるのです。

 このように、父が相手に絶して愛を注がれる方であるから、その恩恵によって生かされる者は、父と同じように相手の価値に無関係に愛せざるをえないのです。父と同じ絶対愛に生きる者にしてはじめて、父と同じ質の愛、同じ質の命に生きる者、すなわち天の父の「子」と呼ばれることができるのです。この間の消息をイエスは、「敵を愛しなさい。敵を愛することが父の子となることである」と、端的な表現で語られるのです。敵を愛することこそ、父の無条件絶対の愛の典型的な表現だからです。

人間の愛の相対性

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。

(四六〜四七節)

 神の愛の絶対性を際だたせるために、すぐに続いて、人間の愛がいかに相対的なものであるかが語られます。ここで「相対」というのは、「対者(相手)に相応して」という意味で用いています。普通人間は、相手が自分に対してどのよう価値があるかに応じて相手に対します。自分を愛してくれる者は愛し、自分を憎む者は憎みます。自分の仲間には挨拶して連帯を確認しますが、敵対者には挨拶もせず、一切の関わりを拒否します。このように人間の愛はふつう相手の出方に応じた形をとります。すなわち、人間の愛は質は相対的であると言えます。

 マタイは、このような相対的な愛は「徴税人」や「異邦人」でも実行していることで、そのような質の愛を示したからと言って、何も特別に神に喜ばれるとか、イエスの弟子となるとか、天の父の子となることはないと明言します。ここで「徴税人」や「異邦人」という用語が、天の国と無縁な人々の指すのに用いられている事実は、この福音書の著者と読者がユダヤ人社会の常識に深く埋没していることを示しています。マタイはイエスの弟子として父の子となる者に、「ファリサイ派の人々の義にまさる」義を求めましたが(五・二〇)、そのファリサイ派の人々の義にも及ばない「徴税人」や「異邦人」と同じことをしていて、どうして天の国に入ることができようかという、ユダヤ人独自の論理と表現がここに用いられています。ルカは異邦人世界に福音を語りかける書として、このようなユダヤ人社会独特の表現は避けて、「罪人」と書いています(ルカ六・三二〜三四)。徴税人や遊女を無条件で神の国に招き入れられたイエスが、この節のような表現で語られたとは考えられませんので、この節の表現はユダヤ人律法学者的な体質のマタイの編集(またはマタイ以前のユダヤ人共同体の伝承)によるものと推定せざるをえません。

父が完全であられるように

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

(四八節)

 ここで、マタイの対立命題集は頂点に達します。この節は、四三節から始まった「敵を愛しなさい」という段落のまとめであるだけでなく、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(五・二〇)という序言で始まった対立命題集全体の結論となっています。

 まず、四三節以下の「敵を愛しなさい」という段落の文脈からすれば、敵を愛する根拠として父の愛の絶対性があげられ、それに対して人間の愛の相対性が対照された後、あなたがたの愛は相対的なものであってはならず、父の愛のように絶対的なものでなければならないと続くことになります。したがって、ここでマタイが「あなたがも完全な者《テレイオス》となりなさい」と言うとき、《テレイオス》(完全)とは愛の絶対・無条件性を意味していることになります。すなわち、あなたがたが隣人を愛するとき、相手が敵だから悪をもって対抗するというように、あなたがたの愛から出る善行に、相手によっては悪が混じるというようなことはあってはならない、あなたがたはいかなる場合にも無条件に愛によって善を為さなければならない、という意味になります。

 ところで、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉が、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」の頂点として、対立命題集の最後に置かれていることから、この節は同時に対立命題集全体の結論となります。イエスの弟子には、「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさって、「天の父が完全であられるように完全な者」になることが求められることになります。ところで、マタイはここで「完全」という語を用いていますが、この節に相当する箇所でルカは次のように言っています。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。

(ルカ六・三六)

 イエスがどのような言葉遣いをされたのか確定できませんが、文脈からするとおそらくルカが伝えている「憐れみ深い」という語の方が原意に近いと考えられます。そこに《テレイオス》(完全)という語を用いたのは、対立命題集全体の結論としてふさわしい語を置こうとしたマタイの編集の結果であると見てよいでしょう。しかし、「憐れみ深い者であれ」というイエスの言葉を無視できないので、マタイはそれを「幸いの言葉」の一つとして組み込んで保存したと推定できます(この間の消息については先に「天旅」九六年2号五頁以下で触れましたので、ここでは簡単にしておきます)。

 マタイが結論となるお言葉の中に「完全な者」という語を用いたことは、その後のキリスト教の歴史に重大な影響を及ぼしました。この語は本来の文脈から切り離されて、対立命題集に述べられたイエスの戒めを完璧に守ること、そうすることで神のように完全になることを意味すると理解され、イエスに従おうとする者たちに大きな圧力と秘かな苦悩をもたらしました。いったい誰が神のように完全になれるでしょうか。真剣に努力すればするほど、神の完全からほど遠いことが自覚されます。それで、この戒めは聖職者だけに求められているものであるとか、様々な解釈が施され、事実上棚上げにされてきたという面があります。

 マタイはもう一箇所で《テレイオス》を用いています。それは、永遠の命にいたる道を尋ねた富める青年に対するイエスの答の中に出てきます。
 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(一九・二一)

 マタイが資料として用いたマルコには「完全」の語はありませんから、この語がここに用いられているのはマタイの筆によるものと見られます。マタイがここに「完全」を用いた結果、この箇所は後世、完全なイエスの弟子であることを志す者は無所有の修道院的な生活をすべきであるという理念を生むことになります。
 また、異性に対する欲求そのものを罪悪視する解釈(天旅九六年3号参照)から、完全な生活をするためには異性といっさい関わりのない生活に徹すべきであるという、独身の修道院的生涯が理想化されることになります。こうして、「完全」は修道院的な生活をする聖職者のものとなり、一般社会に生きる信徒には空疎な標語となります。このように「完全」を律法的・道徳的に完璧な生活をすることと理解することは、聖職者と一般信徒を区別する二重倫理を生み出す結果になります。

 この節の「完全」は、二重倫理に陥らないためにも、やはり「敵を愛しなさい」の段落の文脈で理解し、愛の絶対性・無条件性を求めるものと受け取るべきでしょう。その上で、愛敵の段落全体を対立命題集の頂点として位置づけることが、対立命題集の構成の理解として適切ではないかと思います。

御霊による成就

 こうして、マタイの手によって構成された「対立命題」という形の背後に、「敵を愛しなさい」というイエスのユニークな一言が貫き響いているのが聴こえてきます。敵を愛する愛は、決して人間の倫理が到達した高みではなく、イエスがそこに生き、告知された神の恩恵の支配の表現なのです。

 「敵を愛しなさい」というイエスの言葉を倫理的な教えと受け取りますと、解決困難な問題に直面することになります。キリスト教会はこのお言葉に様々な解釈を施して、困難を解決しようとしてきました。その歴史を辿ることはできませんが、ここでは問題点を二つに絞って、わたしたちはこのお言葉を実践的にはどのように受け止めればよいのかを見ておきたいと思います。

 第一の問題点は、敵を愛することは人間の本性からして不可能なことではないかという点です。もともと実行不可能なことを求める倫理は、実際には倫理として成り立たないのではないかという疑問です。たしかに、「敵を愛しなさい」という言葉を人々に実行を要求する一般原理として受け取りますと、これは実行不可能なことを要求する倫理という矛盾に陥ります。

 この困難を解決するために様々な提案がなされてきましたが、その中の一つの有力な説に、この要求は神の支配が近づいているという終末的な宣教の枠内で求められる特殊な倫理であるという説明があります。すぐに神の国が到来するのだから、その栄光に与ることを願えば、地上の富や名誉を惜しみなく放棄しても、神が求められるようにすべての人を差別なく愛することはできるではないかという考えです。たしかに、イエスは神の支配の接近を宣べ伝えられました。しかし、同じように神の支配の接近を告知した運動が当時多くありましたが、その多くは「敵を憎め」という標語を掲げたのです。ですから、イエスが敵を愛することを求められたのは、神の支配が近いからという動機で説明できません。敵を愛する原動力は別のところに求めなくてはなりません。それは、これまで何回も触れましたように、イエスが宣べ伝えられた神の支配とは恩恵の支配だからです。

 「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者であれ」とイエスが言われるとき、「父が慈愛深いように」は、わたしたちの慈愛深い生き方の目標とか模範ではありません。これは、「父が慈愛深いのだから」という意味、すなわち、わたしたちが慈愛深く生きる根拠なのです。父は、わたしたちが敵であったときにわたしたちを愛して、わたしたちの救いのために御子を与えてくださったのです(ロマ五・一〇)。そして、その神の愛が聖霊によってわたしたちの心に注がれるとき(ロマ五・五)、わたしたちは無条件・絶対の愛の場に生かされていることを知るのです。そのような質の愛がわたしたちの生きる場であることを体験するのです。

 そのような恩恵の場に生きる者であることを自覚しても、なお人間の本性がわたしたちを相対的な愛の限界に引き留めるのを感じます。どのような状況でも敵を愛することができるだろうかと危惧します。その問題を克服する道を示唆するイエスのお言葉があります。イエスは、敵を愛することの典型的な場合として、「迫害する者のために祈れ」と言われました。果たして迫害されたとき、迫害者のために祈ることができるだろうかと心配しなくてもよいと、イエスは言われます。

「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。

(マルコ一三・一一)

 「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ」、「総督や王の前に立たされ」るとき、はたして自分は立派に証を立てることができるだろうか、迫害する者を呪わないで祝福を祈ることができるだろうか、と取り越し苦労はするなというのです。そのときには、あなたがたの内にいます聖霊が言うべきことを教え、語り出してくださるのです。

 この場合が示唆するように、ある状況で敵を愛するという人間本性を超えた言葉や行為は、その時に働いてくださる聖霊の業として実現するのです。そのように行動するのは「あなたがたではなく、聖霊である」のです。そうであれば、わたしたちは「敵を愛しなさい」という原則は実行できるかどうか心配する必要はないのです。恩恵の場にひれ伏し、つねに聖霊に導かれる歩みを心がければよいのです。どのような形で敵を愛することが実現するかは、その状況ごとに聖霊が働いて実現してくださるのです。
 第二の問題点は、敵を愛すること、とくにその中に含まれる「悪い者に手向かうな」という生き方は、正義の要求と衝突するのではないかという問題です。悪い者が不正義を押しつけてくるとき、それに抵抗しないで屈服することは、悪や不義を助長し、不正義に協力することにならないかという疑問です。実際、ケルソスのような批判者は、愛敵の教えは悪を助長するとしてキリスト教を非難したのです。

 この問題は、初期にキリスト教徒が社会の少数派で、いつも迫害される側であり、社会の秩序とか正義の維持に責任を持たなくてもすむ間は、深刻な問題にはなりませんでした。愛敵は迫害される側の個人的良心の問題に留まりました。しかし、コンスタンティヌスの回心以後、キリスト者が社会の正義の維持に責任を持たなければならない立場に立ったとき、「悪い者に手向かうな」とは言っておれなくなりました。悪い者には抵抗し、悪い者の働きを封じ込め、悪い者を処罰しなければなりません。 それで、「敵を愛しなさい」とか「悪い者に手向かうな」という教えは、公の立場にいる者にではなく個人(私人)の立場の者に与えられた教えであるという説明が出てきます。しかし、イエスの言葉は端的であって、社会的に異なる立場にいる人々を区別していません。どのような立場にある者にも、イエスは「敵を愛しなさい」と求められます。では、社会体制の形成に各人が責任を持たなければならない現代民主主義社会において、キリスト者はどのような形で、「悪に手向かうな」という愛敵の教えと悪(不正義)の克服とを両立させて実現することができるのでしょうか。

 この問題に対する解決も、やはり聖霊の働きに求めなければなりません。パウロは、キリストにある者に与えられる聖霊がもたらす善い実の中で愛《アガペー》が最高のものであるとして(コリントI一三章)、その中で愛《アガペー》の働きを次のように描いています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

(コリントI一三・四〜七)

 ここで「愛」を主語として、愛の働きが十三の動詞で描かれています。始めの二つと終わりの四つは肯定形の動詞ですが、中の九つの動詞は(最後の「喜ぶ」の他は)みな否定形です。否定されているものは、ねたみ、自慢、高ぶり、非礼、利己心、いただち、恨み、不義です。ここに挙げられているものは、人間性の中に巣くう悪のカタログです。聖霊による愛は、このような悪を否定し人間性の中から駆逐する力であることを示しています。

 それに対して始めの二つと終わりの四つの動詞は、みな肯定形で、相手の人間に対する態度を描いていると見ることができます。相手がどのような姿勢であろうと(敵対的であろうとも)、聖霊の愛は忍耐強く、情け深く対します。どのような状況であっても、相手を「包み込み、信じ抜き、望み抜き、担い抜きます」(七節私訳)。

 こうして見ますと、この一段は、相手に対する無条件・絶対の愛の中に、悪に対する拒否を包み込んでいる構造をとっていることが分かります。聖霊の愛は、自分と相手の中にある悪を否定し駆逐しながら、敵対する相手をも包み込み、共に救済と栄光に到ることを求めさせる力です。イエスの愛敵の教えに触発されたとされるガンジーやキングの運動も、このような原理に立っていたと理解できます。この聖霊の愛によって、「罪を憎んで人を憎まず」という格言が、深い意味で実現します。

 聖霊の愛は内的な力であって、外面的な行為規範ではありません。キリストにある者は聖霊によって、私的な問題でも公的な問題でも、悪に直面する状況で人を無条件に愛する力と知恵を与えられるでしょう。ここでも、それをなすのは「あなたがたではなく、聖霊である」と言えます。こうして、イエスの「敵を愛しなさい」という端的な言葉は、キリストにあって聖霊の力を受けることで実現する可能性を得ることになります。


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