マタイによる福音書 14

隠されたところで

 ― 御国の福音(13) ―





 隠れたところで


三つの対立勧告

 マタイにとって「神の支配」(マタイはそれを「天の国」と呼んでいます)は義の王国、すなわち義なる者だけが入ることが許される王国です。しかも、その義は律法学者やファリサイ派の人々の義の程度では駄目で、それにまさる義でなければならないのです。マタイははっきり宣言します。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。

(五・二〇)

 そして、イエスと共に「天の国」に入るのに必要な義を、律法学者やファリサイ派の人々の義と対照して、まず六つの「対立命題」の形で述べます(五・二一〜四八)。ここで扱われた義は、おもに社会的な関係における「義」、すなわち人との関わりの中でイエスの弟子が示すべき正しい生き方のことでした。

 マタイはそれに続いて、宗教的な関係における「義」、すなわち神との関わりの中で営まれる生活でイエスの弟子が示すべき正しい在り方を扱います。マタイは、当時のユダヤ教で敬虔な業の典型として重視されていた施し、祈り、断食の三つを取り上げます(六章一〜一八節)。ここでもまず、全体を貫く基本的な原理が宣言されます。

「見てもらおうとして、自分の義を人の前で行うことのないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。

(六・一 一部私訳)

 新共同訳はこの節の《ディカイオシュネー》を「善行」と訳していますが、この訳語では、施し、祈り、断食を扱うこの部分(六・一〜一八)が、先行する六つの「対立命題」と並んで、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」を扱っているという、主題の一貫性が曖昧になります。ここは協会訳のように「義」と訳す方が、マタイの論旨を理解するのに適切です。

 このように前置きした上で、マタイは施し、祈り、断食という代表的な敬虔のわざについて、人の目に目立つようにしないことを、ユダヤ教での仕方と対比して勧告します。それぞれの勧告の構成は共通しています。

 まず「偽善者」の人目につくやり方が(やや誇張して)印象深く語られ、「はっきりあなたがたに言っておく。彼らはすでに報いを受けている」という同じ言葉で結ばれます。次いで、彼らと対照的に、イエスの弟子は人目につかないように行うべきことが、具体的な表現で勧告され、「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という、同じ約束の言葉で結ばれます。

 この共通の構成は、祈りについての部分においては、「主の祈り」に関連する教え(六・七〜一五)が加えられていることで破られています。この部分を除くと、三つの勧告はきわめて明確な共通の構成と主題を見せています。それで、今回は「主の祈り」に関する部分を外して、三つの勧告の共通の主題に集中し、「主の祈り」に関する部分については(その重要性も考慮して)次回に別に扱うことにします。

 三つの勧告は、先の六つの「対立命題」と同じく、ユダヤ教の宗教的実践と対比して、イエスの弟子が行うべき宗教的実践の在り方を勧告しています。先の六つの「対立命題」が、状況や報酬には言及しないで、断言的に「あなたがたは……しなさい」と命じていたのに対して、ここの三つの勧告は、「そうすれば、父は報いてくださる」と条件付きで報償を約束して勧めていますので、先の「対立命題」とは一応区別して、仮に「対立勧告」と呼んでおきます。先の六つの「対立命題」もここの三つの「対立勧告」も共に、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」を主題としていることで一貫しています。

 ただ、この三つの「対立勧告」では、「会堂で」という表現が用いられていることからも明らかなように、マタイはユダヤ教の「律法学者やファリサイ派の人々」を念頭に置いていますが、彼らを「偽善者」と呼んでいます(彼らの偽善は二三章でまとめて断罪されています)。「偽善者」というのは、一般に悪しき本心を隠して、人目には善いことをしているように見せかける人のことです。それで、この三つの勧告は、ユダヤ教との対立という狭い意味だけでなく、イエスの弟子たちの施しや祈りや断食がうわべを飾る見せかけのものにならないように、すなわち偽善に陥らないようという、広い意味で受け取ることもできます。

 この箇所(六・一〜一八)では、「主の祈り」を別にして、マタイが「語録資料Q」を用いていないことが目立ちます。マタイは、序論で見ましたように、「語録資料Q」を奉じる流れにいる指導的なユダヤ人キリスト教学者であり、彼の「御国の福音」(マタイ五〜七章)はおもに「語録資料Q」の素材をもって構成されています。ところが、この箇所ではマタイは「語録資料Q」を用いていません。それで、この箇所の素材がどのような伝承とか資料に由来しているのか、議論が絶えません。このようなマタイ特有の素材については、その由来を確定することはきわめて難しいことでしょう。問題は、この箇所の言葉がどこまでイエスに遡りうるかです。たしかに、編集と構成はマタイによるものです。しかし、「語録資料Q」に属していないからといって、イエスの言葉ではないと断定できません。「右の手のすることを左の手に知らすな」とか、「頭に油をつけ、顔を洗え」というような言葉使いは、霊的な事柄を具体的な表象で端的に語り出されるイエスの語り方を思い起こさせます。要は、マタイが理解し伝えたイエスの教えの精神を、どれだけ忠実に現在の状況に生かすかが問題です。

施しについて

「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。

(六・二〜四)

 施しとか喜捨はどの宗教でも、たんに貧者や困窮者に対する親切な援助の行為としてではなく、その宗教の信心とか敬虔の表現として重視されています。「施し」というのは、教団への制度的献金(ユダヤ教では収入の十分の一を献げました)ではなく、金品や資産を貧しい人たちに自発的に与える行為です。この「施し」は、仏教用語の「喜捨」が示しているように、喜んで(自発的に)自分を捨てて他者に仕える心の表現として、ユダヤ教でも、神に喜ばれる敬虔の業とされ、神から祝福を受け、自分の救になる根拠とさえされていました(イザヤ五八・六〜一二、箴言一一・四〜六、一八〜一九、その他タルムード「サバト」一五一などラビ文献)。

 箴言(一一・四〜六、一八〜一九)で「慈善」と訳されている語は、ヘブライ語聖書では《ツェデカー》で、ふつう「義」と訳される語です。ギリシャ語訳旧約聖書では、この「義」《ツェデカー》が、しばしば「憐れみ」を意味するギリシャ語で訳され、「憐れみを行う」という表現が慈善とか施しの意味で用いられました。このような用語法から、マタイが「施し」を「義を行う」こととして扱うユダヤ教的背景が理解できます。

 律法学者やファリサイ派の人々が施しをするときに、「会堂や街角で自分の前でラッパを吹き鳴らす」というようなことは、実際にはなかったようです。しかし、会堂などで公に約束されたり、高額の場合はラビの横に座ることが許されるなどの栄誉を受けることはあったようです。「ラッパを吹き鳴らす」というのは、何かを公に告知するために人々を集める行動です。ここでは、施しを人目に目立つようにしようとする彼らの意図を、劇的に表現するために用いられています。
 自分の施しを人に見られるように行う者は、人からの誉れという「報いを既に受けている」のです。「あの人は信心深い立派な人だ」という評判を得るという形で、社会で報いを既に受けているのです。ということは、神から受ける報いはないことを意味しています。

 それに対して、イエスの弟子は施しをするときに、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のです。この格言的な表現は、すぐ後に続く「あなたの施しを人目につかせないためである」という言葉が説明しているように、自分の体の一部のように身近な人にも知らせるな、という意味に理解してよいでしょう。ここの文脈では、自分が憐れみを行っているのだという意識すら持たないで行え、という心情にまで立ち入って解釈する必要はないでしょう。しかし、わたしたちが無条件の恩恵の場に生きる者であるという姿を徹底していけば、特に「施しをしているのだ」とか「義を行っているのだ」という意識なく、自分を捨てて他者に奉仕することが、自然に流れ出ることになります。そのとき、「右の手のすることを左の手に知らせない」という言葉は、自分が自分の価値や功績を知ろうとしない自己否定の姿とか「無」の立場を表現する句になるでしょう。「こうして、恩恵の場に徹することによって、マタイが報償思想を前提にして語る勧告以上に深く、イエスのお心に近い生き方をすることになると思います。

 このように、人に見られないで隠れた形で施しをすれば、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のです。神が「隠れたことを見ておられる神」であることは、ダビデに油を注いだときサムエルが「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上一六・七)と言ったとき以来、代々の預言者に教えられてイスラエルはよく知っていました。それにもかかわらず、当時のユダヤ教が、とくにその代表者ともいうべき律法学者やファリサイ派の人々が、人の目に目立つような形で敬虔の業(具体的には律法遵守の行為)の熱心さを競うようになっていたことを、イエスは厳しく批判されるのです。

 隠れてなされる施しは、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」のです。その報いは、人から受ける報いのように、目に見える形で来るのではなく、わたしたちの存在の見えない次元、すなわち霊の次元に与えられます。それは「隠れたところにおられる父」が「隠されたわたし」に与えてくださる報いです。そして、この報いこそ、わたしたちの内にあって生きる喜び、存在する喜びとなって、根底から生を支え、豊かにする力となるのです。

 最近、「ボランティア」ということがよく言われるようになりました。ボランティア活動に携わる人たちが、「人を助ける活動を通して、自分が生きる喜びを見出すことができた。本当に助けられたのは自分の方です」と言われるのをよく聞きます。「ボランティア」というのは報酬なしで自発的になされる(金品ではなく自分の能力を捧げて行われる)奉仕活動のことですから、ボランティア精神に徹して行われる奉仕は、社会的な報酬は伴わない分、「隠れたところにおられる父」から報いを受けているのです。どの宗教に属する者であれ、そのような人はイエスの精神に近く生きている人だと言えます。

祈りについて

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

(六・五〜六)

 祈りは信仰生活の生命線です。祈りなくしては信仰生活は成り立ちません。もし祈りが偽りに陥るならば、信仰も空虚なものになるでしょう。その意味で、ここに言われていることは重大です。
 祈りとは本来神への語りかけです。しかし、わたしたちにとっては、祈りは自分の願望を神の前に羅列することではなく、神からの語りかけを待つ場であり、神からの語りかけを受けて、それに応答する場です。その意味で、神とわたしたちの魂の対話です。

 ところが、信仰のもっとも内面的な営みである祈りが、人に見せびらかす行為になっている場合があります。ここでは実例として、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々の祈りが取り上げられます。彼らは会堂や大通りの角で「立って祈りたがる」と言われています。会堂では、皆が座っている中で「立って祈る」人は目立ちます。「大通りの角に立って祈る」というのは、ユダヤ教では祈りの時間が決まっていたので、ちょうどその時刻に大通りにいるようにして、人通りの多い街角で立ち止まって祈ったのです。これも人目に目立つためです。このように、「偽善者」の祈りは神の目ではなく人の目を意識しての祈りであり、人から信心深い人物という評判を得たいからだというのです。

 これはキリスト教会でも同じです。自分の信仰を見せびらかすような長い祈り、人に説教するような祈り、他人をあてこするような祈りがなされます。このような祈りは、神に語りかけるのではなく、人に向かってなされた語りかけにすぎず、神から何も受けることはありません。

 このような「偽善者」の祈りに対して、イエスの弟子は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧められます。ここで「奥まった部屋」と訳されているギリシャ語は、農家によくある住居から離れた納屋を指す語です。住居では誰かが一緒にいるから、離れた納屋に入り、戸を閉めて、一人きりになって祈りなさい、という勧めです。なにも納屋でなくてもよいのです。「自分(だけ)の部屋に入り」、人の目を遮断するように「戸を閉めて」、一人きりになって祈れ、ということです。

 こうして、自分を人目から隠すことによって、「隠れたところにおられる父」に祈ることが具体的に実現します。「隠れたところにおられる父」と「隠されたわたし」の対話という祈りの本来の場が成立します。それはイエスの祈りの姿でした。祭司が神殿で犠牲を捧げて祈り、律法学者が会堂で立って祈っているとき、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」のです(ルカ五・一六)。わたしたちも、「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」のです。

 そのような祈りの場では、ここで「あなたの父」と言われているように、神は「わたしの父」となり、この父と隠されたわたしとの間に、「あなた・わたし」の対話が始まります。そのような祈りの場で「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ものは、「隠されたわたし」を豊かにするもの、すなわち、信仰と愛と希望、平安と喜びと勇気というような霊の次元の賜物です。

 もちろん、一人きりになって祈れというこの勧めは、信仰を共にする者たちと一緒に祈ることを妨げるものではありません。共同の祈りは、一本の薪より数本の薪の方がよく燃えるように、互いに助け合って祈りを熱くします。しかし、共同の祈りの場でも、ひとり一人の祈りは「隠れたところにおられる父」にひとり対して祈る祈りでなければならず、そのような祈りの生活が土台として背後になければなりません。

 マタイが構成した「御国の福音」(五〜七章)、とくにこの三つの勧告(六・一〜一九)で、神は当然のように「父」と呼ばれています。しかし、これは当たり前のことではなく、イエスから始まった新しい神との関わりを示す重要な指標です。神を「父」と呼ぶことはまさに、イエスの「御国の福音」の重要な内容そのものであるのです。このことの意義については、次回の「主の祈り」の講解のさいに、改めて詳しく触れることにします。

 「隠れたところにおられる父」という表現は、ここでは祈りが人目に目立たない隠れたものになるために、祈りが向かうべき方向を指し示すためだけに用いられています。しかし、この表現は、聖書に親しんでいる者に、預言者イザヤの言葉を思い起こさせます。

「まことにあなたは御自分を隠される神 イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」。

(イザヤ四五・一五)

 この言葉は、捕囚期の預言者(第二イザヤ)が、神の民イスラエルの捕囚とか異教の支配者キュロスによる解放という理解しがたい歴史の謎に直面して、イスラエルの救い主なる神はいま歴史の暗闇の中に御自分を隠しておられると感じたところから出ています。ところが、この言葉は改革者ルターが、イザヤ書のこの箇所のラテン語訳「隠された神」(deus absconditus)を用いて、十字架の裁きという神の怒りの中に神の愛による救いが隠されているという形で福音の中心を語ったことにより、神学上きわめて重要な意味を持つようになりました。たしかに、神の救いの奥義は自然や歴史の中に見える形で顕わされてはいません。神は「御自分を隠される神」です。もしわたしたちがその隠された奥義を知ることができるとすれば、「あなた・わたし」の隠れた場での祈りにおいて、御霊の働きとして「隠されたわたし」に「隠れたことを見ておられる神が報いてくださる」以外にはないのです。これが、わたしたちが隠れたところで祈る必要がある最大の理由です。

断食について

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

(六・一六〜一八)

 この一段は、イエスの弟子たちが断食することを前提にして、断食の仕方について勧告しています。ところが、マルコ福音書(二・一八〜二二)によりますと、イエスの弟子たちはもはや断食をしないとされ、断食しない理由が問題になっています。この違いは福音書成立の事情の違いによります。マルコ福音書は七〇年のエルサレム神殿崩壊の少し前に成立したと考えられ、異邦人を多く含むキリスト教団はすでにユダヤ教の律法や習慣から離れて、独自の信仰生活を形成していました。それで、(洗礼者)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちが断食しているのに、イエスの弟子たちが断食しない理由が論争されたのです。

 当時のユダヤ教における断食とこの論争の意義については『マルコ福音書講解 13』を参照してください。

 それに対してマタイは、ユダヤ人の信仰運動の中で成立した「語録資料Q」の立場を基本にして、ユダヤ人信徒に語りかけています。それで、ユダヤ人としての敬虔の代表的な現れである断食も当然行うべきこととして扱い、その仕方がユダヤ教団と違うことを強調することになります。ところで、マタイ福音書はマルコ福音書を資料の一つとして用いていますので、マタイはマルコ福音書の断食論争をほぼそのまま用いていますが(マタイ九・一四〜一七)、ユダヤ人信徒の断食の習慣と調和させるために、マルコの記事に微妙な変更を加えています。

 マルコが「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と書いているところを、マタイは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができようか」と変えています。「断食する」を「悲しむ」という心情に変えることで、断食という実際の行動が成り立つ余地を残し、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」という言葉に、断食の実際の習慣を根拠づける解釈をする可能性を与えています。また、ヨハネの弟子たちの質問に、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに」と「よく」を加えることで、断食するかどうかではなく、断食の回数の問題のような印象を与えています。

 このように、マタイはイエスの弟子が断食することを当然とした上で、「偽善者」の断食との違いを強調します。「偽善者」の断食の目的は、自分が断食していることが人に見られて、社会で敬虔な者と認められることです。それで、自分が断食していることが目立つように「顔を見苦しくする」のです。実際に「顔を見苦しくする」ことがどの程度行われたかは分かりませんが、律法学者やファリサイ派の人たちが断食していることを誇りにしていたことは事実です。ファリサイ派の人たちは、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったといわれる週の第五日(木曜日)と下山したといわれる第二日(月曜日)の週二回の断食を守り、それを律法に忠実な生活として誇っていました(ルカ一八・一二)。彼らは人から評価されることによって、「すでに報いを受けている」ので、神から受ける報いはないのです。

 二世紀初めに成立したとされる「十二使徒の教訓(ディダケー)」に、「あなたがたの断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第二日と第五日に断食するのだから、あなたがたは第四日(水曜日)と準備の日(金曜日)とに断食しなさい」(八・一)と書かれています。この文書は、イエスの弟子が断食することを当然として、ただファリサイ派の断食と日を変えることだけを要求し、その以上のことは何も書いていません。日を変えたから断食が偽善でなくなるわけはありませんので、もし日を変えればそれでよいとしているのであれば、この文書が考えている断食はファリサイ派と同じレヴェルであると言わざるをえません。

 それに対してイエスの弟子は、断食をするときには「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われます。これは、普段の生活をしているようにして、断食をしていることが目立たないようにするためです。これも、先の施しや祈りと同じく、断食が隠れたところでなされることによって、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ようになるためです。

 では「隠れたところでなされる断食」とはどのような断食でしょうか。断食というのは、旧約聖書と捕囚後のユダヤ教においては、もともと「懺悔」とか「悔い改め」を表現する行為でした。それに加えて、律法への献身とか祈りへの集中を示す断食も行われました。このような様々な断食に共通するものは、自己否定の表現としての意味でしょう。もし断食が自己否定の表現であるならば、断食をしていることが目立つように「顔を見苦しくする」行為は自己顕示であり、断食を誇る心は神の前に自分の価値や功績を主張することに他ならないのですから、断食とはまったく反対のことをしていることになります。食事を抜くことで自己否定の境地に達しようとすることは本末転倒です。

 「隠されたわたし」の内に自己否定が起こったとき、その自己否定こそ「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」隠された断食なのです。この自己否定は断食を含む苦行とか修行によって起こるものではありません。人間の自己は自らを否定することはできないのです。では、それがどうして起こりうるのか、マルコ福音書の断食論争が示唆しています。

 マルコ福音書のイエスは、弟子たちが断食しない理由を婚礼の譬を用いて語っておられます。

 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。

(マルコ二・一九〜二〇)

 「花婿が奪い取られる」というのは、花婿であるイエスが暴力的に奪い取られること、すなわちイエスの十字架の死を指しています。それで、このお言葉は、イエスが地上で一緒におられたときには弟子たちは断食しなかったが、イエスが死なれた後では断食するようになると解釈され、初期のキリスト教団の断食を説明するものだとされることもありました。しかし、この解釈は成り立ちません。そもそもこの断食論争の記事は、初期のキリスト教団が(一部のユダヤ人キリスト教集団を除いて)断食を廃したことで、ユダヤ教諸派と対立したことをイエスの言葉で根拠づけるためのものです。「花婿が一緒にいる」というのは、イエスが地上で弟子たちと一緒におられた時だけでなく、復活して今弟子たちと一緒にいてくださることを指しています。この記事の「今」が婚礼の時なのです。もしそれが地上のイエスだけを指し、十字架以後の教団が断食しているのであれば、このような論争の必要も意義もないのです。

 そうすると、「花婿が奪い取られる時」にイエスの弟子たちがする断食というのは、もはや形の上での断食はしない教団での「断食」ですから、内面的に理解する他ありません。復活者キリストとしてわたしと一緒にいてくださるイエスは、わたしのために十字架につけられて死んでくださったイエスです。そのイエス・キリストの十字架に合わせられて自分が死ぬとき、「断食」の本来の内容である自己否定が「隠されたわたし」において実現しているのです。これが「隠されたところでなされる断食」です。このような隠された場での自己否定に対して、すなわち十字架に合わせられて自分が死んでいる場においてはじめて、「隠れたことを見ておられる父が」聖霊という賜物を与えて「報いてくださる」のです。

 マタイのユダヤ人キリスト教集団では実際に断食が行われていたことが前提されています。その上で、マタイはその断食が人目に目立たないように、すなわち、断食が隠されたところで行われるように求めているのです。マタイの場合のように断食することを前提にしていても、マルコのように断食しないことを前提にしている場合と同じく、「隠されたところでなされる断食」は十字架のキリストに合わせられて自己が死ぬという以外には実現しません。

 このことは断食だけでなく、他の宗教的苦行とか修行についても同じです。苦行や修行もそれが人からの誉れを求めている限り、神から受けるものはありません。それが「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ものとなるためには、すなわち、御霊の賜物をより深く受けるものとなるためには、隠れたところでなされなければなりません。そして、隠れたところでなされる苦行とか修行が目指す「隠されたわたし」の自己否定は、わたしが十字架のキリストに合わせられて死ぬ他はありません。

恩恵と報償

 このように、施しと祈りと断食という宗教的実践について、それが隠れたところで行われなければならないことが強調されました。この三つの勧告を、伝承素材を編集してこのような形に構成したのはマタイですが、「隠れたところにおられる父」との関わりに生きるようにという核になる思想はイエスのものです。言葉遣いはマタイのものですが、語りかける方はイエス御自身です。イエスはわたしたちに、人の前で自己を誇る「偽善者」ではなく、「隠れたことを見ておられる父」の前で自己を否定した場に生きるように求めておられるのです。

 ところで、この三つの勧告はみな「父が報いてくださる」という言葉で結ばれています。このような神からの報償を期待する言葉は、受ける資格のない者によいものを与えてくださる父の恩恵の支配の中で、どのような位置を占めるのでしょうか。この講解で見てきましたように、イエスの「神の支配」宣教の核心は「恩恵の支配」でした。ところが、この三つの勧告は、施しや祈りや断食が隠れたところでなされるという正しい仕方でなされる場合は、父からの報いを受けると言っています。これは「報酬ではなく恩恵による」という福音の場でどのような意味を持つのでしょうか。

 神は各人にその人の在り方や行いにふさわしい報いを与えるというのがユダヤ教の基本的な確信です。ユダヤ教に限らず、そもそも神を信じるということは、自分の行いや生き方に相応した報いを与える方の前に責任があることを認めて生きることです。イエスもパウロも、神がこのように各人にふさわしい報いを与える方であることを当然のこととして語っておられます。

 「報い」とか「報酬」という名詞と「報いる」という動詞の使用は、パウロについては、ロマ二・六、コリントI三・八、コリントII五・一〇を見てください。イエスの場合、「語録資料Q」にも少数ありますが(ルカ六・二三、六・三五、一〇・七)、圧倒的にマタイに多く出てきます(名詞は全新約聖書二九回中マタイに一〇回、動詞は全新約聖書四八回中マタイに一八回)。マタイが強くユダヤ教の報償思想に立っていることをうかがわせます。

 神が各人にその人の行いや生き方にふさわしい報いを与えることを、聖書は神の「裁き」と呼んでいます。神が支配されるとは、神の「裁き」が貫かれることです。神の支配は「裁き」を土台にしなければ成り立ちません。わたしたちは神の裁きの場にいるのですから、神から離反する罪が真剣な問題になります。罪の報酬は死だからです。罪の支配の下にいるわたしたちを救うために神はキリストの救いを備えてくださいましたが、裁きの場における救いだからこそ、「キリストはわたしたちのために死なれた」という十字架が必要だったのです。無条件で受け入れるという恩恵が裁きの場に実現するために十字架が必要だったのです。十字架は裁きの場における恩恵の啓示です。十字架のキリストにおいて、わたしたち裁きの場では死ななければならない者が、恩恵により無代価で義とされ、命に入れられるのです。

 恩恵が現れたからといって裁きがなくなったのではありません。恩恵の場は裁きの場の外にあるわけではありません。裁きの場の中に恩恵の座が備えられたのです。裁きという基礎の場の中に、恩恵の座という特別の場が重なって開かれたのです。恩恵の下にいる者は、裁きの場の外に連れ出されたのではありません。神の報いが貫かれる裁きの場にいることには変わりがありません。ただ恩恵の下にいる者には、裁きはもはや断罪(罪の結果である死を宣告する審判)ではなく、恩恵に生きる生き方に対するよき報いを与えるという形で貫かれるのです。恩恵の場では裁きの方向が逆転するのです。
 恩恵の場に生きる者は、自分が資格がないのに無条件に父の慈愛を受けて生かされているのですから、人を愛するときにも相手の資格を問題にしたり、報いを条件にしたりしません。

「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」。

(ルカ六・三五)

 人から報われなかった分、神からの報いがあるのです。「いと高き方の子となる」という報い、その方の命に生きるという最大の報いがあるのです。イエスに従うことで理由のない苦しみを受けるとき、その分「天では大きな報いがある」のです(ルカ六・二三)。

 これが神の裁きが支配する場の大原則です。マタイが施しと祈りと断食について、人からの報いを求めないで隠れたところでするように勧告するのも、同じ精神です。人からの報いを求めない分、隠れたところで父からの報いを得ることになるのです。それは、無条件の恩恵の場に生きる者がする施し、祈り、断食の姿なのです。ここにも、イエスの「恩恵の支配」の告知が貫かれているのです。


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