マタイによる福音書 15

主の祈り(一)

 ― 御国の福音(14) ―





 前置きとテキスト


マタイの文脈

 マタイは、施しと祈りと断食というユダヤ教の宗教的実践を否定せず継承しながら、それを隠れたところでするように求めて、三つの対立勧告にまとめました。その中で祈りについては、イエスの弟子はこのように祈りなさいという具体的な内容を組み入れます(六・七〜一五)。

 まず前置きとして次のように言います。

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。

(七〜八節)

 マタイは三つの対立勧告において、イエスを信じないユダヤ人たち、とくにファリサイ派の人たちや律法学者を念頭に置いて、彼らを「偽善者たち」と呼んでイエスの弟子と対比しました。それに対してここでは、イエスの弟子の祈りは「異邦人」の祈りと対比されます。

 異邦人は祈るとき、多神教の世界ですから神々は多くいて、しかも一人の神が多くの名をもっている場合があるのですから、どの神にどのような呼称で呼びかけるかは、祈りが有効であるために重要な問題であったのです。それで、一つでも神の名を落とさないように、多くの名を羅列して祈ったのです。

 神の名をくどくどと繰り返すことは、ユダヤ教の会堂でもその傾向がありました。会堂で祈られる「シェモネ・エスレ」(十八祈願)は次のように始まります。

 「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、……助け主、救い主、そして楯なる王よ。……アブラハムの楯よ」(山本書店『原典新約時代史』より)
 このように異教世界でもユダヤ教でも神の名を多く羅列する祈りに対して、イエスは端的に「アッバ(父よ)!」と呼びかけて祈り、そう祈るように弟子に教えられるのです。

 また、普通人間の祈りは、自分の生活上の必要が満たされることを求めて、それが満たされるまで祈るものです。その上に、「言葉数が多ければ(あるいは回数が多ければ)、聞き入れられると思い込んでいる」ので、同じことを繰り返し「くどくどと」祈ることになるのです。ところが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」から、イエスの弟子の祈りは自分の生活上の必要が満たされることをくどくどと祈るのではなくて、「だから、こう祈りなさい」(九節)と「主の祈り」が続きます。

 「語録資料」に伝えられている「主の祈り」をこのような位置(あるいは文脈)に置いたのはマタイです(ルカは別の文脈に置いています)。くどくどと言葉数の多い祈りは「異邦人」の祈りであるとして、また、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである」ことを前置きとして(七〜八節)、「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と書いたのはマタイです。この文では「あなたがた」が強調されています。「異邦人」ではない「あなたがた」、必要を知りたもう父の配慮の下にある「あなたがた」はこう祈りなさい、というのです。この文脈は、マタイが「主の祈り」をどう理解しているか、また読者にどう理解して欲しいと願っているか、を知る上で重要な要素です。

 この文脈がどのような意味を持つかは、個々の祈りについてはそれぞれの祈りを扱うさいに触れることにしますが、全体としては二つの点が意義深いと思われます。一つは、言葉数の多い「異邦人」の祈りに対して、「主の祈り」はきわめて短く、簡潔であることです。一般に既成の組織的な宗教教団では、祈りは祭儀と一緒になって複雑な体系をなし、祭司階級だけがその秘密を独占し、一般信徒は祭司の祈りに仲介されて神々との関わりに入ることができるだけでした。ところが、「主の祈り」は短くて簡明ですから、誰でも理解して祈ることができます。教団の土台になる祈りがこの短い「主の祈り」一つだけであることは、イエスを信じて従う者たちの群においては、ひとり一人が祈りによって直接神との関わりに入ることができ、特別の祭司階級を必要としないことを意味します。

 もう一つは、この文脈は「主の祈り」が人間の祈りの方向を変えていることを明らかにしている点です。普通、人は自分のことを祈り求めます。わたしの必要、わたしの安全、わたしの名誉などを祈り求めます。ところがマタイは、願う前から必要を知りたもう父の配慮の下に置くことで、この祈りがもはや自分の必要を祈り求めるものではなくて、神のために祈り求める祈りであることを明らかにしています。そのことは、前半の三つの祈りがみな「あなたの」ことについて祈っていることで明かですが、後半の三つの「わたしたち」のことを祈る祈りも、もはや自分の生活上の必要を祈り求めるものではなく(パンの祈りについては後で詳しく触れます)、神との関わりにおける自分の在り方について祈り求めていることが分かります。

「主の祈り」のテキスト

 「主の祈り」はマタイ福音書とルカ福音書に少し異なる二つの本文が伝えられています。マタイが伝えるテキストの意義を理解するために、ルカのテキストを並べて掲げておきます(両方とも新共同訳)。

マタイ福音書(六章九〜一三節)

 天におられるわたしたちの父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 御心が行われますように、
   天におけるように地の上にも。
 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 わたしたちの負い目を赦してください、
   わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

ルカ福音書(一一章二〜四節)

 父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
   わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

 マタイもルカも共に「語録資料Q」を用いていると考えられます。一見して明らかなように、マタイの方がルカよりも長くなっています。ルカにない部分はマタイが付け加えたと推定されます。ただ、付加部分がマタイの筆によるものか、それともマタイ以前にすでに教会で用いられていたのかは争われています(EKK注解は後者の蓋然性が高いとしています)。おそらく、マタイのテキストもルカのテキストも著者の個人的な編集の結果ではなく、マタイの方はユダヤ人の集会で、ルカの方は異邦人の集会で実際に祈られていた形に由来するのでしょう(エレミアス)。

 二つのテキストを比較して、構成はルカの方が「語録資料Q」の形に忠実であるが、用語はマタイの方が「語録資料Q」の表現に忠実であるとする見方が、現在研究者の間で一般的です。その代表例としてクロッペンボルグの「Q資料」の復元を引用しておきます(引用はクロッペンボルグ他著・新免貢訳『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局より)。

 父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を《今日》与えてください。
 わたしたちの《負い目》を赦してください、
   わたしたちも自分に負い目のある人を《赦しました》ように。
 わたしたちを試みにあわせないでください。

 構成は短いルカの形が用いられています。しかし、用語では《 》の部分にマタイの形が用いられています。マタイとルカで用語や動詞の時制が異なる場合、著者はマタイの方を「語録資料Q」に忠実として採用しているわけです。この三箇所のうち、二箇所はそれぞれの祈りの解説のところで触れることにして、ここでは「負い目」の箇所について、マタイの方が元の形であると判断される根拠を見ておきましょう。

 イエスの言葉は最初ユダヤ人信徒によってアラム語で伝承されましたが、「語録資料Q」という文書にまとめられた段階ではギリシャ語で書かれていたと推定されています。「主の祈り」も最初はイエスが用いられたアラム語で伝承されていたと見られます。ここで「負い目」と訳されているギリシャ語は「借金」という意味だけの語です。ところが、このギリシャ語訳の元にあるアラム語は、「借金」と「罪」という両方の意味をもっています。それで、アラム語が理解されるユダヤ人信徒の間で成立したマタイ福音書は、「語録資料Q」の「借金」というギリシャ語をそのまま用いても「罪」を指していることが十分理解される状況でした。ところが、ルカはギリシャ語だけを用いている異邦人に向かって書いていますので、「借金」が「罪」の象徴であることを示すために、一度は「罪」というギリシャ語を使わなければならなかったのでしょう。マタイは「語録資料Q」の用語を変える必要はなかったのに対して、ルカには必要があったと見られます。

 「アッバ、父よ」


イエスの祈り

 弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったとき、イエスは「祈るときには、こう言いなさい」と言って、まず「父よ」という呼びかけを教えられます(ルカ一一・一〜二)。イエスは自分が祈っておられる祈りを弟子たちに教えられるのです。

 イエスは祈るときはいつも「アッバ!」と呼びかけておられました。イエスが祈られた《アッバ》というアラム語を直接伝えているのは、マルコ福音書一四章三六節のゲッセマネの祈りの一箇所だけです。そこでは、《アッバ》というアラム語と《ホ・パテール》(父)というギリシャ語が並んで出てきます。ところで、この「アッバ、父よ」という表現はパウロ書簡(ガラテヤ書四章六節とロマ書八章一五節)にも用いられていて、ギリシャ語を話す初期の教団の祈りで《アッバ》というアラム語の呼びかけが用いられていたことを示しています。弟子たちはイエスの「アッバ!」という祈りをいつも耳にし、そう祈るように教えられていたので、ギリシャ語世界に福音を宣べ伝えたときも、自分たちの祈りに刻印された《アッバ》というアラム語の祈りを、主イエスの祈りとしてそのまま伝えたのでしょう。この事実は、間接的にイエスが《アッバ》という呼びかけで祈られたことを証言しています。

 《アッバ》というアラム語はもともと幼児語でしたが、イエスの時代までに成人した子が父親を呼ぶ言葉にもなっていました。ですから、イエスが幼児語で呼びかけられたと考えるのは間違いです。しかし、おもに親しい家族の間で用いられる呼びかけの言葉ですから、イエスがこの言葉で祈られたことは、当時のユダヤ教の祈りと比べると、イエスの祈りの世界がきわめてユニークなものであったことを示しています。

 このように、イエスが神を「アッバ!」と呼び、子としての親しい交わりに生きられたのは、イエスが神の御霊に満たされておられたからです。イエスの聖霊体験は、共観福音書が描くところによりますと、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたという形で伝えられています(マルコ一・九〜一一とその並行箇所)。しかし、イエスの聖霊体験をこのような一回の出来事として描くのは、聖霊によって「アッバ、父よ」と祈り、それによって神の子とされていることを体験した初期の教団(ガラテヤ四・六、ロマ八・一五)が、自分たちの体験をイエスに投影し、それを旧約聖書の成就として物語った結果であると見られます。イエスの聖霊体験の内容はわたしたちが推察したり想像したりすることができない深いものでしょう。しかし、その体験からイエスの「父」の啓示と「神の国」の宣教が出ているのですから、わたしたちが聖霊によって歩む中でイエスの言葉を追体験する程度に応じて理解することができるはずです。

 イエスはヨハネからバプテスマをお受けになった後、しばらくユダヤでヨハネと同じようにバプテスマ運動を進めておられたようです(ヨハネ福音書三・二二、三・二六、四・一)。その期間に、イエスは神の御霊の働きを深く受けて、周囲のユダヤ人がユダヤ教では達し得ない神との交わりの独自の境地に入っていかれたのだと、わたしは考えます。そして、神の御霊によってイエスから発する力と知恵に圧倒されたヨハネの弟子たちの一部が、弟子としてイエスに従うようになります(ヨハネ福音書一章)。この時すでに、イエスはバプテスマのヨハネをも含め、ユダヤ教律法をはるかに超える霊の境地に入っておられたと見られます。

 ヨハネが領主のヘロデ・アンティパスに捕らえられて投獄されたのを機に、イエスはユダヤを去ってガリラヤに行き、イエス独自の宣教を開始されます(マルコ一・一四)。その時、イエスはもはやバプテスマを授けることはなく、ユダヤ教律法では罪人として排斥されている取税人や遊女をも仲間として受け入れて、ユダヤ教律法とはまったく異なる原理に立つ交わりを形成されます。その原理が「恩恵の支配」であり、それは「父の慈愛」から出てくるものです。イエスは御霊によって親しい交わりに入られた神を「父」と呼び、子としての信頼に生きられました。イエスの宣教は初めから、イエスが御霊によって体験しておられる「父」の慈愛を宣べ伝えるものとなるのです(マタイ一一・二七)。それで、イエスの言葉を伝える福音書は、何の説明もなく当然のように、イエスが「父」という表象で神のことを語り、「わたしの父」、「わたしたちの父」、「あなたがたの父」という言葉を用いて教えられたことを伝えるのです。マタイもその「御国の福音」(五〜七章)において初めからそうすることになります。

御霊による「アッバ、父よ」

 イエスから「祈るときは、『父よ』と言いなさい」と教えられた弟子たちは、言葉遣いの上では、もはやユダヤ教の形式的な用語の羅列ではなく、イエスと同じく「父よ」と呼びかけて祈ったのでしょう。しかし、イエスと同じように内から自ずと発する「父よ」は、御霊を受けて、御霊によって祈るようになって初めて可能になるのです。わたしたちの本性的な在り方からは、イエスのような「父よ」は出てこないのです。

 わたしたちがキリストにあって受ける御霊こそ「子たる身分を授ける霊」であり、その御霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです(ロマ八・一四〜一六)。いやむしろ、御霊は「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」なのです(ガラテヤ四・六)。この御霊がわたしたちの内で「アッバ、父よ」と叫んで、この祈りが自分の内からの祈りとなることを可能にしてくださるのです。

 わたしたちがこのような御霊を受けるのは十字架の場においてです。キリストがわたしのために死なれたという十字架の事実の前に、自己主張をしてやまない自我が打ち砕かれるとき、御霊が働きを始められるのです。御霊が最初に与えてくださる祈りは、「父よ、わたしはあなたに対して背いていました」という悔い改めの祈りです。これが最初の「父よ」です。イエスが「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音一五章)で語られたあの悔い改めは、十字架の場で「(子としての)本心に立ち帰り」(これが「悔い改め」です)、聖霊によって祈り始めた人間の姿です。

 立ち帰ってきた放蕩息子は父親の懐に受け入れられ、子としての扱いを受けます。十字架にひれ伏す者には、「子たる身分を授ける霊」が与えられ、子としてすべてを父に委ねて生きる信頼の生が始まります(マタイ六・二五〜三四)。その中で、子としての祈りが始まるのです。それが「主の祈り」です。

天にいますわたしたちの父

 「語録資料」の端的な「父よ」に、マタイは「わたしたちの」という語を加えています。これは集会で一緒に祈るときの形を配慮したからでしょう。マタイはさらに「天にいます」という句を加えます。地上の父親と区別するためでもありますが、「天にいますわたしたちの父」という呼びかけは、当時ユダヤ教会堂で重要になりつつあった用語法を手本としているとされます(EKK注解)。ここにもマタイのユダヤ教との近親性がうかがえます。

 マタイの付加部分は礼拝での使用のために形を整えたという一面がありますが、それが御霊によって祈られるときには、深い霊的な意味を担うものとなりえます。その意味については、以前に書きましたものを引用しておきます。

 「アッバ」は本来「わたしの父」であるが、この「アッバ」を祈る者たちの交わりにおいては、「わたしたちの父」となる。わたしの父も、彼の父も同じ方であるから。そして、同じ父をもつ自覚がお互いを兄弟の交わりに導き入れる。……この「わたしたちの父よ!」が、人種、国籍、文化の差異を超えて広がる時、真の人類共同体が地上に出現する。終わりの日、神の約束が成就し、あがなわれた神の子たちの群れが地上に起こされる。彼らはイエスを先頭に、この祈りを共にする群れである。……

 わたしたちは地にあって、「天にいます父よ!」と祈る。父は天にいまし、わたしたちは地にいる。天は見えざる世界、時間を超えた永遠の霊界、移り行かざる次元である。地は見える世界、時の流れの中に流転する無常の世界である。地にあるわたしたちは、天にいます神を直接知ることはできない。しかし、キリストにあって聖霊により、「アッバ!」と全身を投入する時、天にいます父が地にあるわたしとかかわり、働いてくださる。祈りが天と地とを結ぶ。そこに人の思いを超えた不思議な世界が展開する。(『主の祈り4』

 御名が崇められますように


「カデシュ」との関係

 「主の祈り」の前半は、「語録資料Q」に伝えられている形を直訳すると次のようになります。

 「父よ、あなたの名が聖とされますように、あなたの支配が来ますように」

 この祈りをアラム語でイエスから教えられた弟子たち、また、この祈りをアラム語で祈り伝承した最初期のユダヤ人信徒たちの状況に身をおいて考察しますと、彼らはこの祈りがユダヤ教徒としてシナゴーグで祈り続けてきた「カデシュ」の祈りに他ならないことに直ちに気づいたはずです。シナゴーグではアラム語の説教の後に、「カデシュ」と呼ばれるアラム語の祈りが唱えられました。その最古の形は次のようなもであったとされています(エレミアス)。

「彼(神)の大いなる名が称えられ、聖とされんことを、
   彼がその意志によって創った世界において。
 彼の王国が支配するように、
   汝らの生涯、汝らの日々、
   イスラエルのすべての家の生涯の間、
   速やかに来たって。
 彼の大いなる名が永遠から永遠に称えられんことを。
   そして、汝らはアーメンと言え」

 「カデシュ」は、神が王座について支配され、その聖性が顕わとなり讃美されるときが速やかに来るようにという祈りです。これは終末の到来を祈り求める祈りです。終末的な神の支配が到来することは、当時のユダヤ教全体が熱烈に祈り求めていたのです。イエスもユダヤ人の弟子たちも、この「カデシュ」の祈りを当然のこととして、神の支配が到来することを祈り求めてきたのです。ただ、イエスの場合は「神の支配」の内容が独自のものであるので、同じ言葉で祈っていても、その祈りの中身は違ってきます。その違いは、後半の「わたしたち」に関する祈りでも指し示されていますが、イエスの「神の国」宣教の全体から理解されなければなりません。以下、個々の祈りについて、今わたしたちが「キリストにあって」という場で祈るとき、その内容がどのようなものになるのかを見ていきましょう。

 個々の祈りについて、キリストにある者としてはどのような意味で祈るのかは、以前出しました拙著『天におけるように地にも―「主の祈り」七講』で詳しく書きましたので、そちらを見ていただくことにして、今回はその要点を簡単に述べるにとどめます。

神の名

 名はことの本質を現す言葉です。神の名とは、神がどのような方であるかを示す言葉の総体です。人間は神の本質を知ることはできませんから、神が御自身を顕わしてくださる範囲内で、わたしたちは神の名を知ることができるのです。「啓示」とは、神が御自身の名を人間に現される出来事であると言えます。
 昔は、神はモーセを初めとする預言者たちによって、御自身の名をイスラエルに啓示されました。神はモーセに燃える柴の中から「ヤハウェ」という御名を顕わし、モーセを通してイスラエルに、「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記二〇・二)と名のられました。さらに後に、シナイ山でモーセに現れて、「ヤハウェ、ヤハウェ、憐れみ深く恵みに富む神、……罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにおかず……」と「御名を宣言された」のです(出エジプト記三四・四〜七)。
 イスラエルはその歴史の栄光と苦難の中で、契約(約束)の言葉を守られるヤハウェの信実と、咎を赦し価値なき民を慈しまれるヤハウェの慈愛こそ、自分たちの存在の根拠であることを体験してきました。それでイスラエルの讃美は、詩編に見られるように、自分たちの神ヤハウェの信実と慈愛への讃美に貫かれるようになります。詩編はイスラエルの祈りです。その祈りはヤハウェの御名への讃美です。自分ではなく、ヤハウェの名だけに依り頼むこと、それがイスラエルの信仰です。

 このように御自身の名をイスラエルに啓示された神は、その民に「わたしの聖なる名を汚してはならない」と求められました(レビ二二・三二)。ところが、イスラエルは契約に背き、偶像を拝み血を流して、ヤハウェの「聖なる名を汚した」から、諸国に追い散らされることになります(エゼキエル三六・一六〜二一)。そのイスラエルに対して、神は「清い水」聖霊を注いで清めることによって、「わが大いなる名を聖なるものとする」と約束されます(エゼキエル三六・二二〜二八)。このように、「御名が聖なるものとされる」ことは、本来終末が到来するときに、神御自身が実現される事態であるのです。

 イエスの第一の祈りは、「父よ、あなたの名が聖とされますように」という祈りでした。この祈りによって、イエスは神の名が聖とされる終末の時を待望されるだけでなく、御自分の存在を父の名が聖とされるために捧げられるのです。父の慈愛と信実と力が顕わされ伝えられるために、生涯を捧げられるのです。そして、最後に十字架の死に御自身を引き渡されるのも、「父よ、御名があがめられますように」という祈りの表現なのです(ヨハネ一二・二七〜二八)。

主イエス・キリストの名

 この十字架にかけられたイエスを復活させることによって、神は最終的に御名を啓示されたのです。復活者キリストがわたしたちの罪のために死なれたことによって、「主イエス・キリスト」という御名は、「罪から贖い(罪の支配から解放し)、死者を復活させる者」としての神を啓示する名となるのです。この「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(ロマ一〇・一三)。

 「主の名を呼び求める」とは、御名が啓示する神に自分を完全に委ねることです。「主イエス・キリスト」という御名は、まず第一に、「ひとり子を賜うほどに世を愛する神」を顕わし、罪の中にいるわたしを無条件で赦し受け入れてくださっている神を示しています。この御名が啓示する神の前に、もはや自分の価値や功績を主張することなく、その方の絶対無条件の恩恵に自分の存在を委ねるわたしたちの在り方を「信仰」というのです。「信仰」とは自分を放棄して御名を呼び求めることなのです。

 さらに、この御名は神の絶対的な信実を啓示しています。神はすでにイスラエルの歴史の中で、御自分の言葉を必ず成らせるという信実を示してこられましたが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、最終的にその信実を示されました。神の言葉は死にすら妨げられることなく必ず成就するのです。自分の確信とか信念とか忠実とか、総じて「自分の信仰」と思っているものを放棄して、この神の絶対の信実に自分を委ねる行為が「信仰」です。自分の信仰にすら絶して、神の信実だけに委ねる在り方を、わたしは「絶信の信」と呼んでいます。「主の名を呼び求める」とか「あなたの名が聖とされますように」という祈りは、この神の絶対の信実に存在を委ねることなのです。

 こうして、「父よ、あなたの名が崇められますように」という第一の祈りは、キリストにあるわたしたちにとっては、自己に絶して、主イエス・キリストの御名に啓示された父の絶対の慈愛と信実に自分を委ねる信仰の告白になるのです。

 御国が来ますように


神の支配の到来

 イエスは「父よ、あなたの支配が到来しますように」という祈りに生き抜かれました。この祈りは、先に「カデシュ」の祈りとの関連で見ましたように、本来終末の到来を待ち望む祈りであったのです。しかしイエスの場合は、「神の支配」の内容が当時のユダヤ教で待望されていた「神の支配」と異なるため、イエスの弟子がこの祈りに生きることの意味は独自のものとなります。

 当時のユダヤ教にはサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、ゼーロータイ(熱心党)などさまざまな流れがありましたが、モーセ律法遵守の熱意と、神の支配の実現を祈ることでは共通していました。民衆の間では、熱烈な祈りに応えて神がその支配を実現してくださるという終末待望が燃えていました。そのような時にバプテスマのヨハネが出現して、神の支配が切迫していることを宣べ伝えたき、イスラエル全土から人々が続々とヨルダン川に来てバプテスマを受け、神の支配の出現に備えたのでした。この事実は当時の終末待望の熱気をよく示しています。

 イエスも「神の支配」を宣べ伝えることをご自分の使命としておられました(ルカ四・四三)。イエスは権威ある言葉で「神の支配」の現実を語り、多くのたとえを用いて「神の支配」のことを解き明かして、人々を「神の支配」に入るように招かれました。当時の状況では、イエスの活動に接した人たちが、イエスも終末的な神の支配が迫っていることを宣べ伝えているのだと理解したのも自然なことでした。たしかに、イエスの宣教にはその時代に向かって神の裁きが近いことを宣言する預言者的な一面があります。マタイもイエスの宣教を、終末の切迫を叫ぶバプテスマのヨハネの宣教と同じ言葉で要約しています(マタイ四・一七)。

 しかし、イエスの「神の支配」宣教には当時の終末待望と決定的に異なる面がありました。イエスは「神の支配」が到来していることを宣言されるのです。イエスは神の御霊を受けて宣教活動を始められたとき、イザヤの「主のめぐみの年」の預言が成就したことを宣言されました(ルカ四・一六〜三〇)。批判する者たちに対して、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の支配はすでにあなたがたのところに来たのである」と言われました(マタイ一二・二八)。「貧しい者は幸いである。神の支配はあなたがたのものである」という言葉を初め、イエスの言葉は到来した神の支配を語っています。イエスのたとえは神の支配が到来していることを指し示しています。時は満ち、花婿はすでに来ているのです。畑は色づき、収穫の時が来ています。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるときが来ているのです。

 イエスの中に来ている「神の支配」とは「恩恵の支配」です(『天旅』九七年一号「父の慈愛」参照)。律法の規準では「罪人」として排斥されるような者も、神は父の慈愛をもって無条件に受け入れててくださっているという「恩恵」を、イエスは宣べ伝え、取税人や遊女を仲間にするという行動で示されるのです。このような「恩恵の支配」を宣べ伝えるイエスを、律法遵守を神の民の規準として固執するファリサイ派の人たちは憎み、ついにはローマの支配者に引き渡して処刑してしまうのです。イエスの十字架の死は、「恩恵の支配」の宣教を貫くためにイエスが命を捧げられた出来事であり、義なる神が「恩恵の支配」を貫かれるために必要な贖罪の完成であったのです。十字架はイエスが命をかけて祈られた「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りであったのです。

主イエスよ、来たりたまえ

 イエスはご自分の中に「神の支配」が聖霊によって現実に来ているからこそ、「神の支配」を拒む世界の中で、「父よ、あなたの支配がきますように」と命をかけて祈られたのです。そのように、わたしたちも聖霊によって復活者キリストと共に生きているゆえに、「主イエスよ、来たりたまえ」と祈らざるをえないのです。

 神はイエスの十字架によって罪の支配を打ち砕き、イエスを復活させることによって死の支配を打ち破ってくださいました。「主イエス」とは復活者キリストとしてのイエスのことです。その「主イエス」が来てくださるとは、復活の現実が顕現すること、すなわち、死の支配を打ち破られた神の支配が顕現することです。わたしたちは、この死に定められた体の中にあって、死者の復活にあずかり、神の栄光にあずかる希望をもって呻いています(ロマ書八章)。その呻きが「主イエスよ、来たりたまえ」という祈りになるのです。

 主イエスは言われる、「見よ、わたしはすぐに来る」。その御約束に応えてわたしたちは祈ります、「主イエスよ、来たりたまえ!」。わたしたちキリストにある者においては、この祈りが「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りと重なり一つとなって、死の体の中で呻いている自分の救いの顕現を、そして全世界、全宇宙の完成を祈る祈りとなるのです。こうして、この祈りはわたしたちの希望の告白となるのです。


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