マタイによる福音書 16

主の祈り (二)

 ― 御国の福音(15) ―





 御心が行われますように


わたしの意志ではなく

「父よ、あなたの意志が行われますように!」

 イエスはこの祈りによって生涯を貫かれたかたです。これはイエスの祈りです。この祈りは「語録資料Q」にはなく、マタイがここに加えたものかもしれませんが、これがイエスの祈りであることは間違いありません。イエスが生涯を決するもっとも切迫した場面で最後に祈られた祈りがこの祈りであったことを、どの福音書もみな伝えています。イエスはゲッセマネの園で、人間としてもっとも深い苦悩の中で、「この杯をわたしから取りのけてください」と切に祈りながらも、最後には「しかし、わたしが欲することではなく、あなたが欲したもうことが行われますように」と祈って、父の御意志にご自分の命を捧げられるのです。

 そもそも人間は、自分の意志でことを行うところに、その人の人格とか自己が成立します。他人の意志を行って生きているのであれば、その人の人格とか自己はどこにあるのでしょうか。もし、他人の意志を行うことが力で強制された場合は奴隷です。奴隷は主人の意志を行う以外に生きる道はありません。奴隷には自分の意志を持つことは許されていなのです。こうして、奴隷は人間としての尊厳とか人格が否定されるのです。奴隷制度はなくても、力による支配関係があるところでは、大なり小なり自分の意志が否定され他者の意志を行うように強制されます。そこには自分の意志で生きる自由を奪われた者の反発があり、人格間の分裂が生じます。

 しかし、人は自ら進んで他者の意志を行おうとする場合があります。それは、相手を尊敬し、信頼し、愛している場合です。恋人の場合もそうでしょう。自分が無となって、相手の人格の中に自分を見出すことが、真に自分を生かすことだとして、進んで相手の意志を行おうとする場合です。この場合は、一見否定されたように見える自己は、相手の人格の中に生かされているのです。そこには人格間の合一があります。

 イエスは子として父を敬い、信頼し、愛するゆえに、父の意志だけを行おうとされるのです。イエスは自己を空しくして、御自身を父に明け渡されるのです。これがイエスにおける「無」です。「無」とは、自分とか存在が無であると悟る認識の問題ではなく、もはや自分の意志を行おうとせず、父の意志だけを行おうとする意志の問題です。イエスがこのような「無」の境地に生きられたからこそ、「わたしと父とは一つである」という人格の一体性が実現するのです。

愛の実現

「父よ、あなたの意志が行われますように!」。

 イエスはご自身が命を懸けて祈られたこの祈りを教え、弟子たちもこの祈りに生きるように求められます。では、「父の意志」とは何でしょうか。それはどうして知りうるのでしょうか。神の意志を行おうとする熱意では、ユダヤ教徒も負けてはいません。ただ、ユダヤ教では、神の意志は「律法」に啓示されているとし、律法を行うことを神と民との繋がりの土台にしようとしたこと(律法主義)に根本的な間違いがあったのです。それに対してイエスは、恩恵が神と人との関わりの土台であって、律法を行うことができない「貧しい者」も父の恩恵によって無条件に子として受け入れらているのだと宣べ伝えられたのです。

 では、恩恵によって子とされた者にとって、「父の意志」はなにでしょうか。イエスはそれを一言で喝破されました。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。

(ルカ六・三六)

 父の無条件絶対の愛から出る恩恵の場に生きる者は、その父の愛をもって生きるように求められているのです。父の愛は、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ雨を降らせるという、相手の資格に絶した無条件の質のものですから、その愛に生きる者は、自分によくしてくれる相手だけでなく、自分を迫害する者、自分の敵でさえ愛するように求められるのです(マタイ五・四四、ルカ六・二七)。

 当時のユダヤ教は数百もある律法を、力を尽くして主を愛することと、自分のように隣人を愛することの二つにまとめていました。イエスもそれを認めて、その二つを一つの戒めとしてもっとも重要な戒めとされます(マルコ一二・二八〜三四)。しかし、イエスの場合、「隣人」は同じ民族や宗教の仲間という枠を超えて、すべて人間である者に及びます(ルカ一〇・二五〜三七)。それは、イエスが生きておられる父の愛が、敵をも愛する無条件絶対の愛だからです。

 父の御心がこのような愛に生きることだとしても、わたしたち人間はその愛を実現することができるのでしょうか。わたしたちは、自分を無条件に愛するときのような無条件絶対性をもって、いかなる隣人をも、敵でさえも愛するということはできません。人間の本性は自己中心、自己追求です。ここに神と人間の本性的な断絶と対立があります。もし人間がこのような絶対の愛に生きることができるとすれば、それは神の御霊を受けて、その御霊に生きるときだけです。

 父の無条件絶対の愛は御霊によってはじめて実現するという消息は、使徒パウロが繰り返し書簡で語っています。わたしのために死なれたキリストを信じることによって、わたしは十字架されたキリストに結ばれて死に、十字架の場で聖霊を受けます。その御霊によって子とされて「アッバ、父よ」と祈り、御霊に導かれて生きるとき、御霊がわたしたちの人生に結ぶ実が「愛《アガペー》」なのです。あの父の無条件絶対性をもつ愛なのです。

 この御霊の愛がわたしたちの内に始まったとしても、わたしたち自身はなお生まれながらの人間本性の中にいます。自己の意志を行うことだけを追求する本性(これをパウロは「肉」と呼んでいます)がなくなってしまったのではありません。わたしたちは御霊に導かれることによって初めて肉を克服し、父の愛に生きることができるようになり、「天の父の子となる」のです。

天におけるように地にも
 「父よ、あなたの名があがめられますよう。
  あなたの支配が来ますように。
  あなたの意志が行われますように」。

 わたしたちが聖霊によって「アッバ、父よ」と叫ぶとき、その中にこの三つの祈りが一体となって含まれています。この三つの祈りは、実は一つの祈りの三つの側面なのです。それは、聖霊がもたらす信仰と希望と愛が祈りの形で発現した姿です。

 先に見たように、「あなたの名があがめられますように」という祈りにおいて、祈る者は自分の誠実とか立派さは投げ捨てて、ひたすらキリストにおいて啓示された父の名、すなわち父の無条件絶対の慈愛と信実に自分を委ねているのです。この祈りは「絶信の信」の現れです。

 「あなたの支配が来ますように」という祈りは、聖霊によって神の支配をこの身に体験している者が、その神の支配の終局的な顕現を待ち望む祈りです。それはキリストの来臨を待ち望む祈りと重なり、死者の復活の希望に生きる者の祈りです。これはキリストにある者の「希望」の表現です。

 「あなたの意志がおこなわれますように」という祈りは、父の究極の意志としての愛の実現を祈り求め、そのために自分を捧げていく者の祈りです。聖霊によって父の愛を注がれている者は、そう祈らないではおれないのです。
 
この一体としての三つの祈りに、「天におけるように地においても」という句が続きます。これは三つの祈り全体にかかる句です。「天におけるように地においても、あなたの名があがめられ、あなたの支配が到来し、あなたの意志が行われますように」という意味です。

 協会訳(口語訳)はこの句を最後の祈りだけにかかるものとして、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と訳しています。これは文語訳以来の伝統で、日本の教会にすっかり定着しています。しかし、ギリシャ語原文では、この句は三つの祈りの最後に置かれていますので、三つの祈り全体にかかるとも、直前の「あなたの意志が行われますように」との祈りだけにかかるとも理解できます。英語などではギリシャ語の順序通りに三つの祈りの最後において、どちらにとるかは読者の理解に委ねることができますが、日本語ではどちらかに決めて訳さなければなりません。わたしは三つの祈りが一体であることからして、この句は三つの祈り全体にかかるものと理解すべきであると思います。
 日本語聖書の訳者は、このような場合、最後の文だけにかけて理解する傾向があります。たとえば、ロマ書一四章一七節の「聖霊による」は直前の「喜び」だけにかけて訳されています(文語訳、口語訳、岩波版青野訳)。しかし、この場合、「聖霊による」は先行する「義と平和と喜び」全体にかけて理解すべきです。新共同訳はそう訳しています。
 「主の祈り」の場合、新共同訳は「天におけるように地の上にも」という句を、三つの祈りの最後におくことで、この句が三つの祈り全体にかかるという理解を可能にしています(とくに声を出して唱えるときには)。しかし、句読点の使い方を見ると、訳者はやはりこの句を最後の祈りだけにかけていることを示しています(この事情は岩波版佐藤訳も同じ)。「語録資料Q」にない第三の祈りはマタイが加えたものとされていますので、同じくマタイの付加であるこの句が第三の祈りだけにかかるものとされたのだと思われます。そうであるとしても、「カデシュ」の祈りにおいて、第一と第二の祈りについて「地の上にも」という意味は十分強調されていますから、マタイが三つの祈りにしてその後にこの句を加えたとき、この句が三つの祈り全体を意識して加えられたと推察することは十分可能です。
 マタイがどう意識していたかとか、テキストの伝承がどうであったかは、最後には問題ではありません。わたしたちがどういう内容をこめて「主の祈り」を祈るかが問題です。わたしはこの「天におけるように地にも」という句を、三つ祈り全体にかけて祈っています。

 聖書で「天」というとき、それは「空」のことではなく、地上の自然界・人間界に対して、霊的諸存在の世界を指しています。万物は「天にあるものと地にあるもの」に分けられます。このような天と地の理解においては、神や聖なる諸霊が住む「天」において神の名があがめられ、神の支配が確立し、神の意志が実現しているように、地の上の人間界でもそうなりますようにという祈りになります。

 このような天と地の理解は空間的であって、ギリシャ的世界観の枠組みの中にあります。しかし、ヘブライの世界は本来歴史的であって、つねに時の中で神の啓示が与えられ、神の救済の業が進められます(救済史)。聖書の世界では時間軸を欠くことはできません。それで、この「天におけるように地にも」という句も、時間軸上で理解されなければなりません。この句を時間軸上で理解して祈るとはどういうことか、ここでも以前発表しました『天におけるように地にもー「主の祈り」七講』から引用しておきます。

 人間は地上にいる。すなわち時間の中にいる。「地」とは時間の中の世界である。それに対して「天」とは時間を超えた世界、時間が果てる彼方である。そこでは時間の中で為されたすべての神の業が完成し、時間の中で与えられた啓示がすべて現実となって顕れている。神の名はあがめられ、神の支配は確立し、神の意志は完全に実現している。それは「終末」の事態である。そう理解すると、「天におけるように地においても」という祈りは、終末的現実が時間の中にいるわれわれの中に、今ここで実現しますように、という祈りになる。……「主の祈り」はその全体がきわめて強い終末論的な構造を持っている。すなわち、「神の国」と呼ばれる終末の現実を聖霊によって今自分の内に宿している故に、それが地上の歴史を支え、ついには完全な栄光のうちに顕れることを祈り求めないではおれないのである。「主の祈り」はこのように、イエスと共に、終末を宿す故に終末に向かって身を乗り出して生きている者たちの祈りである。

 終わりの日には、すなわち天においては、父への賛美だけになる。「父よ、あなたの名はあがめられました、あなたの支配は確立しました、あたたの意志は実現しました!」。われわれは地上にあって、終わりの日の栄光が今この身に、そして世界の歴史に実現するように祈るのである、「天におけるように地においても!」と。

 明日の糧を今日


パンとは何か

 「あなたの名、あなたの支配、あなたの意志」についての三つの祈りの後に、「わたしたち」のことを祈り求める三つの祈りが続きます。その祈りの最初に、パンを求める祈りが来ます。イエスが弟子たちに、「父よ、わたしたちにパンを与えてください」と祈るように教えられるとき、どのようなパンを意味しておられるのでしょうか。教会では普通このパンを生活に必要な食物としてのパンと理解して、「日ごとの食物を今日もお与えください」と祈ってきました。はたしてそうでしょうか。語義と文脈の面から吟味しましょう。

 まず第一に用語の意味から吟味します。《アルトス》(パン)という語は、生命を養うための食物一般を代表する語として、「食物」とか「糧」と訳してよいでしょう。問題は《アルトス》についている《エピウーシオス》という形容詞の意味です。この形容詞の元になる動詞として、意味の異なる二つの動詞が考えられ、語学上はどちらとも決められません。その一つは「存在するのに必要な」という意味を示唆し、もう一つの動詞からの派生とすれば、「明日の」とか「将来の」という意味になります。「日ごとの食物」という伝統的な理解は第一の意味を取っているわけです。

 ところが、この形容詞は「明日の」という意味に理解すべき強い根拠があります。当時の諸言語に精通していることでは古代教会の第一人者であり、アラム語圏のシリア・パレスチナでも活躍したヒエロニムスが、「ナザレ人福音書」の中では《エピウーシオス》にアラム語の《マハル》が当てられていると述べています。「ナザレ人福音書」というのは、ギリシャ語のマタイ福音書をアラム語で解説的に翻訳したもので、アラム語を用いるシリアのユダヤ人キリスト教徒の間で用いられていた福音書です。ギリシャ語の「主の祈り」をアラム語に翻訳するにさいして、翻訳者は当然自分が日頃唱えている祈りの言葉を用いたはずです。この事実から、イエスや弟子たちが語ったアラム語の伝承においては、この箇所は《マハル》(明日)という語が用いられていたと、十分推察できます。

 《エピウーシオス》の意味については、EDNT(新約聖書解釈辞典)は二つの意味を併記するだけで決定していません。TDNT(キッテルの新約聖書神学辞典)は「明日の」という意味を退け、この語を時ではなく量を指示するものとして、「わたしたちが必要とする(量の)パン」と理解しています。新共同訳も採用しているこの理解は、旧約聖書のマナの物語を想起させ、説得的です。しかし、「ナザレ人福音書」のアラム語訳を根拠として「明日の」と理解すべきであるというエレミアス(新約聖書神学I)の主張は、学界にも受け入れられてきているようで、最新のEKK新約聖書註解(ルツ)も「明日のための」という訳を提案しています。なお、ナザレ人福音書の当該箇所については、教文館『聖書外典偽典別巻・補遺II』二六頁の第五断片を見てください。

 さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の意味について次のように書いています。「明日という意味の《マハル》によって、ここの意味は、われわれの明日、つまり未来のパンを今日われわれにお与えくださいということになる」。《マハル》は字義の上では「明日」ですが、広く「未来・将来」を指す語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語です。彼は「主の祈り」のパンを、生活に必要な食物としてのパンではなく、終末時のパン、すなわち終末的な生命に必要なパンと理解していたのでした。パンをこのように終末論的に理解することは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようです。なお、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ローマカトリック教会公認のヴルガータ)では、ここは panemsupersubstantialem(超実体的なパン)となっています。

 『ディダケー』によりますと、初期の教会では「主の祈り」は信徒の最も基本的な祈りとして集会の度ごとに祈られていました。集会の中心は「主の食事」であって、パンとぶどう酒による共同の食事をもって、復活された主の臨在と十字架の死による贖い、そして栄光の来臨を言い表したのでした。その信仰告白の場で「主の祈り」が唱えられたのです。「主の食事」での感謝が、食物としてのパンとぶどう酒が与えられていることへの感謝ではなく、パンとぶどう酒が指し示しているキリストへの讃美と感謝であることは明かですから、そこで祈られるパンも、霊的な糧としてのキリストを指していたと理解できます。ヒエロニムスの「超物質的なパン」という訳語も、こうした古代教会一般の理解を反映しているのでしょう。古代教会の典礼を「主の祈り」解釈の根拠にすることはできませんが、少なくともこの解釈が新奇なものでなく、古代教会以来の伝統的なものであることを示す意味はあると考えられます。
 カトリック教会の霊的・比喩的解釈に対抗して、宗教改革は聖書の文字通りの解釈を主張したので、このパンの祈りも宗教改革以来文字通りに物質的なパンを指すと解釈されるようになりました(ツウィングリは霊的解釈に留まりました)。しかし、次の祈りの「負債・借金」は明らかに罪の象徴的表現ですから、パンを文字通りの解釈に限定することはできないはずです。

 第二にこの祈りが置かれている文脈から吟味します。先に見たように、マタイは「主の祈り」を「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい」という前置きで導入し、「主の祈り」のすぐ後に感動的な「空の鳥、野の花」の説話(六・二五〜三四)を置いています。この文脈は「主の祈り」を、生活上の必要に思い煩うことなく、ひたすら霊的・終末的現実でてある神の国を祈り求めて生きる者の祈りとしています。この文脈は「パン」を、生活に必要なパンとしてではなく、「明日のパン」、すなわち来るべき神の国における命のための糧と理解するように求めています。

 ルカの文脈では、イエスは「主の祈り」(一一章一〜四節)を教えられた後、「夜中の来訪者のたとえ」を語り(五〜八節)、そのたとえの結論として「求めよ、そうすれば与えられる」というお言葉を与えておられます(九〜一三節)。ルカは五〜一三節を直後に置くことで、「主の祈り」を解説しているわけです。その解説は、「絶えず祈れ」という一般的な祈りの勧めと理解するよりは、「夜中の来訪者」がパンを求めていることから、とくに「主の祈り」の中のパンの祈りに関する解説と理解すべきであると考えられます。するとこの解説は、友人の求めであっても起きて与えるのを断る無精な主人でも、しきりに願うので起き上がって友人が必要とするパンを与えるとすれば、まして天の父は求めて止まない者に聖霊をくださらないことがあろうか、という意味になります。ルカは「主の祈り」の中のパンを聖霊を指すものと理解しているわけです。

 パンの祈りをこのような文脈に置いたのは福音書記者マタイとかルカであって、イエスと弟子たちの状況では、今日の生存に必要なパンを父に求める祈りであったという議論もあります。しかし、この祈りは、何も携えないで巡回して「神の国」を宣べ伝えるように送り出された弟子たちの特別な状況(ルカ一〇・四〜九)を反映するものではないとの指摘もあります(ルツ)。いずれにしてもこの場合、「放浪のラディカリズム」という特別の状況による解釈に限定することは適当でないと考えられ、新約聖書(福音書)が置いている文脈で解釈するのが、現在のわたしたちにとって適切であると思われます。

ただ聖霊を求めて

 このように語義と文脈からする解釈以上に、「主の祈り」全体の性格からする解釈が重要です。そして、「主の祈り」全体は、イエスの「神の国」宣教の枠組みの中で理解されなければなりません。「主の祈り」は、すでに前半の三つの祈りで見ましたように、終末論的な性格を強くもっていました。それは、イエスの「神の国」宣教が、独自の構造をもつものですが、終末的な性格のものであったからです。イエスの「神の国」は、当時のユダヤ教黙示思想と違い、ただ未来に神の支配の実現を待つ望むのではなく、聖霊によってすでにイエスの中に到来しているゆえに、その現実に生きながらその顕現を強く迫られて待つという構造をもっていました。イエスの宣教においては、終末が現在の中にあり、そのために終末が力あるリアルな未来になっているのです。

 このような構造の中で生きる者には、「明日のパンを今日お与えください」という祈りは、最も切実で基本的な祈りです。「明日のパン」あるいは「明日のためのパン」とは、終末時の命を養うパン、すなわち聖霊です。その聖霊を「今日」、今この現実の生活の中にいただき、聖霊によって生きるのでなければ、終末の生命も栄光もないのです。今日そのパンをいただかなければ明日はないのです。これはわたしたちにとって最も切実な祈りとなります。

 マタイでは「今日」とあるところが、ルカでは「毎日」となっています。それに応じて動詞形も、マタイではアオリスト形ですが、ルカでは現在形が用いられていて、動作の繰り返しが含意されています。おそらく、マタイが「語録資料Q」の緊迫した終末待望の語法をそのまま伝えているのに対して、ルカは主の「パルーシア」(来臨)が遠い未来に感じられるようになった時代に、歴史の中を歩む「教会の時(日々)」を前提にして書いていますので、「今日」を「毎日」に変えたのだと考えられます。わたしたちは、マタイの「明日のパンを今日お与えください」という祈りを、歴史の中で日々祈るという形で、ルカの表現をも生かす結果になると思います。

 負債と赦し


決算の日

「父よ、わたしたちの負債を赦してください、
  わたしたちも、わたしたちに負債のある者を
  赦しましたように」

 「負債」は決算を前提としています。決算の時、負債の責任が問われます。そして、いま決算の時が迫っているのです。

 人間は自分で存在しているのではありません。わたしを存在させている方がおられるのです。その方から「どのように生きたか」と問われるならば、それに答えなければならない立場にあるのです。この「答えなければならない立場」のことを「責任」と言います。英語でもドイツ語でも「責任」という語はそういう意味の語です。

 人間は神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」をたとえとして語っておられます。主人の財産の運営を委ねられた者は「会計報告(決算書)」を主人に提出しなければなりません(ルカ一六・二)。「神の支配」は王がその家臣と決算するようなものです(マタイ一八・二三)。財産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきて僕たちと「決算をする」のです(マタイ二五・一九)。神の支配が到来する時は、神がすべての人と決算をされる日です。その日、各人は生涯における行為だけでなく、言葉や心の思いまで神の前に「決算書を提出する」ことになります(マタイ一二・三六)。

 決算の時は迫っています。二重の意味で迫っています。第一に、神が全世界を裁かれる日が迫っているからです。稲妻がひらめき渡るように、その日は思いもかけない時に突如世界に臨むのです(マタイ二四・二七、ルカ一七・二四)。第二に、わたしがいつ死ぬかもわからないからです。明日かもしれないという意味で、わたしが生涯の決算をする日が迫っています。

 わたしは自分の決算書が厖大な赤字であることを知っています。返済不能です。ところが、自分の負債は自分で返すことができると考えている人々がいます。ファリサイ派の人たちはそう考えました。多くの宗教もそう教えます。そのような人たちは「罪」が何であるかを知らないのです。彼らは罪を個々の行為の次元で見ています。神の戒めにかなう行為は義であり、違反する行為は罪であるから、罪の行為を少なくし、もしあっても義の行為を多くして、それで清算すれば神に受け入れられる決算書を出すことができると考えるのです。しかし、罪とは人間の行為で清算できるようなものではありません。それは人間の在り方そのものです。

 人間は傲慢にも自ら存在しているものとし、自分を存在させている方を不要とし、魂の奥底でその方を憎んでいるのです。人間は本性的にこのような在り方をしているので、道徳とか宗教の規範にかなう行為も、神の恩恵を不要とし、戒めを守れない他者を蔑むという傲慢を増し加えるだけになります。この傲慢こそ、神がもっとも忌み嫌われる罪なのです。

 イエスは、戒めを守る行為によって「義とされる」のではないことを教えるために、つぎのようなたとえを語られました。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

(ルカ一八・一〇〜一四)

 決算において「義とされる」のは、戒めにかなう行為を何一つ上げることをせず、ただ神の憐れみに自分を委ねた徴税人なのです。人が神を父として交わりをもつことができるのは、神が無条件に罪を赦してくださる場、恩恵の場だけです。イエスが「わたしたちの負債を赦してください」と祈るように教えられるのは、決算の日を目前にして、わたしたちが神に義とされる唯一の場である恩恵の場に自分を置くように教えておられるのです。

恩恵の場での祈り

 ところで、この「わたしたちの負債を赦してください」という祈りには、「わたしたちも自分に負債のある者を赦しましたように」という句が続きます。この句は、わたしたちがこの世で実際に他人を赦したことを、自分が(決算の時に)赦されるための条件にしているように見えます。はたしてそうでしょうか。この句は何を意味するのでしょうか。

 わたしたちの当惑を見越しているかのように、マタイは「主の祈り」の直後に、念を押すようにこの句についての解説を付け加えます。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。

(一四〜一五節)

 このお言葉はルカにはありませんから、おそらく「語録資料Q」には含まれていなかったのでしょう。しかし、これと同じお言葉がマルコにあります。マルコは「主の祈り」は伝えていませんが、祈りについてイエスが教えられたことを次のようにまとめています。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。[もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない]」。

(マルコ一一・二四〜二六 [ ]内は一部写本の異読)

 このまとめは、祈りについてのイエスの教えでは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じることと、人を赦すことによって父から赦される場で祈ることの二点が、もっとも重要なこととして弟子たちに印象づけられていたことを示しています。

 宗教とは祈りです。祈りによって神と関わる人間の営みです。祈りが成り立つためには、神と人とのよい関係がなければなりません。それで、多くの宗教は神に受け入れられように戒律を守って清い者になるように求めたり、献げ物をして神に喜ばれるように求めます。それに対して、イエスは自分の清さとか献げ物は一切求められません。ただ、神の赦しだけが神と人との関わりを可能にするのです。イエスは、神の赦しの場で祈ることができるように、人を赦すことだけを求められるのです。

 ここに上げたお言葉はみな、まずわたしたちが人を赦すことによって初めて父の赦しを受けられるような印象を与えます。しかし、事実は逆です。父が先にわたしたちを赦し受け入れてくださっているから、わたしたちも赦すことができるのです。繰り返し見ましたように、イエスが宣べ伝えられた「神の支配」とは「恩恵の支配」のことです。父はその愛のゆえに、背く者も無条件に赦して受け入れてくださっているのです。その上で、「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者でありなさい」と、わたしたちも隣人を無条件で受け入れて愛することを求められるのです。「赦す」というのは、このような敵を愛する愛の具体的な姿なのです。恩恵の場に生きる者、すなわち、赦されて生きる者は、他者をも赦して生きるほかはないのです。もしわたしたちが人を赦さないならば、わたしたちは自ら神の恩恵の支配を否定することになるのです。自分で自分を恩恵の場から追い出すのです。

 この消息をイエスは「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ一八・二一〜三五)で実に適確に語られました。自分と妻子と全資産を売っても返済できない厖大な負債のある家来が哀願するので、王は彼を憐れみ、負債を免じてやりした。ところが、その家来は僅かの金額を貸している仲間に出会い、彼に負債を返すように要求し、その仲間が赦しを乞うのを聞き入れず、彼を訴え獄に入れたのです。この家来は先に王の赦しを受けているのです。だから仲間を赦すべきなのです。ところが、仲間を赦さなかったことによって、王の憐れみの場から自分を追い出してしまったのです。

 このように、自分が父の恩恵の場にいる者であることを自覚する者には、「わたしたちも自分に負債のある者を赦しましたように」という句は、自分が父から赦しを受けるための条件ではなく、自分が父の恩恵の場に留まっていること、その場にしか生きられない者であることの告白となります。もしこの句を付けることができないのであれば、「わたしの負債を赦してください」という祈りは、誰もが持つ単なる願望となり、たしかな根拠は何もないものになります。この句こそ、恩恵の場に生きるイエスの弟子の祈りの独自性を示すものです。

 そして、いまキリストにある者は、十字架の場でこの祈りを祈ります。キリストの十字架によって無条件に赦されているという恩恵の場に生きる者として、人を赦すことによって恩恵の場にとどまり、来るべき決算の時にも恩恵によって(すなわち、赦されることによって)栄光に与ることができるように待ち望んでいます。この祈りにも、終末が現在に突入してきているというイエスの「神の国」独自の終末論、そして「キリストにある」という場の独特の終末論の姿がよく現されています。

 なお、マタイは「わたしたちも赦しましたように」と、動詞の時制はすでに行われた動作を示すアオリスト形を用いているのに対して、ルカは「赦しますから」と現在形を用いています。この形では、「わたしたちも赦しておりますから」という意味になり、また「(これから)赦していきますから」という意味にもなりますので、マタイの断定的な表現がもつ緊張を和らげる結果になります。表現は理解しやすい方に変えられる傾向があるという原則からしますと、マタイの方が「語録資料Q」の元の形を保持しているのではないかと推定されます。

 目を覚まして


試練と誘惑


「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。 

 新共同訳が「誘惑」と訳している語《ペイラスモス》は、もともと「(人を)テストする」という意味の語で、肯定的な意味ではその人の信仰が本物であるかどうかを試して鍛えるという「試練」の意味と、否定的な意味では信仰を捨てて誤った道に引き込もうとする「誘惑」という意味の両面があります。

 イエスの生涯は始めから終わりまで《ペイラスモス》にさらされていました。イエスが直面された誘惑は荒野の四十日だけではありません。王としようとする民衆の声、しるしを求めるファリサイ派の人たち、受難の道を諫める弟子の忠告など、イエスは使命からそらせようとする誘惑にたえずさらされおられました。その最後の、おそらく最大のものはゲッセマネでしょう。そこでイエスは父の御心に委ねきる祈りによって、誘惑に打ち勝ち、試練を乗り切られます。そして、眠り込んでしまっている弟子たちに、「誘惑《ペイラスモス》に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ一四・三八)と励まされます。

 わたしたちの人生も《ペイラスモス》の連続です。人生に苦難は避けられません。人生の苦難はわたしたちには信仰を貫くための苦しい試練となり、人生の幸運や快楽も信仰を捨てさせる誘惑ともなります。この祈りは、そのような試練や誘惑が来ないように祈っているのではありません。信仰の生涯に《ペイラスモス》が来ることは避けられません。この祈りは《ペイラスモス》に「引き込まれないように」(直訳)祈っているのです。誘惑に負けて信仰を失うことがないように、父の助けを祈り求めているのです。「誘惑に陥らないように」祈っているのです。新共同訳の「誘惑に遭わせないで(ください)」は、「誘惑に陥らないようにして(ください)」と変えなければなりません(マルコ一四・三八と同じく)。

終末の苦難の中で

 「わたしたちが誘惑に陥らないようにしてください」という祈りは、わたしたちの日常の信仰生活において真剣な祈りです。その中には人生の様々な種類の苦難の中での祈りが含まれます。しかし、この祈りは何よりもまず終末に直面して生きるキリスト者の祈りとして重要です。イエスの「神の国」宣教が終末的な側面をもつ以上、そしてわたしたちも「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りに生きている以上、この祈りも終末的な迫りを背景として理解されなければなりません。

 昔預言者たちも、神の大いなる栄光が顕れる前には地に患難が臨むと預言し、イエスも「人の子」の来臨の前には多くの誘惑、迫害、苦難が来ることを語られました(マルコ一三章など)。それは「産みの苦しみ」です。このような終わりの日の苦難は、神の民にとって試練であり誘惑です。その試練に耐えることができず、誘惑に負けて信仰を失うことのないように、わたしたち弱い人間は父に助けを祈り求めないではおれないのです。

 イエスは終わりの日の苦難のことを語られたとき、最後に「目を覚ましていなさい」と警告されました(マルコ一三・三二〜三七)。「目を覚ましている」とは、「今の時をわきまえている」こと、すなわち、今は神の支配が迫っている終わりの時であることを自覚していることです。世界の進歩や繁栄の幻想の中で、また日常生活の安逸の中で、眠り込まないことです。霊が眠りに陥ると、人は霊の次元に無感覚になります。その無感覚の一つの現れが、終末の現実感がなくなることです。誘惑する者はわたしたちを眠りに陥らせようと働いているのです。
 
 ところで、この祈りの後半の句「悪い者から救ってください」はルカにはなく、マタイが加えたものと見られます。「悪い者」と訳されている名詞は、ここでは所有格で用いられているので同形となり、男性名詞か中性名詞が確定できません。男性名詞だとすると、「悪い者」すなわちサタンを指すことになり、中性名詞だとすると抽象的な「悪」または「悪い状況」という意味になります。イエスの宣教または聖書全体の背景からすると、すべての試練や誘惑の背後には悪の霊の存在が前提されているので、(新共同訳もそうしているように)「悪い者」と理解してよいでしょう。

 霊なる神との関わりが現実的になればなるほど、神に敵対する霊の働きも現実的になります。神の霊によって生きる神の子が直面する戦いは、血肉に対するものではなく、天上にいる悪の霊に対するものです。サタンの策略に対抗して立ちうるためには、神の武具を身につけ、神の力によらなければなりませんが、何よりも大切なことは、いつも目を覚ましていて御霊によって祈ることです(エフェソ六・一〇〜一八)。

 今は「邪悪な日」です。栄光の日が迫れば迫るほど、「悪い者」の働きも激しくなり、神の民は多くの試練・誘惑にさらされることになります。しかし、恐れることはありません。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントI一〇・一三)。

神の子の祈り

 こうして、「主の祈り」は本来きわめて強い終末の迫りの場での祈りです。前半三つの祈りは、父の御名が崇められ、その支配が実現し、父の意志が完全に行われる終わりの日の到来を祈り求め、その成就のために自分の身を投げ出しているのです。後半三つの祈りは、その日を目前にして、その日に自分を生かす糧を今日いただいて、今日一日をその命で生きるように祈り求めないではおられないのです。また、その日に負債を赦されて栄光にあずかることができるように、今赦しの場に身を置いて祈らないではおられないのです。そして、その日の前に臨む大きな試練の火の中で信仰を全うすることができるように、父に助けを祈り求めないではおられないのです。

 しかし、この祈りを日々祈り生涯を貫くとき、この祈りはキリストにあって生きる者の実存の告白となります。キリストにある者は、この祈りを生涯貫くことで、イエスの弟子として生きるのです。キリストにある者は、十字架の場で聖霊を受け、神の子とされています(ロマ八・一四〜一六)。御霊によって、父との親しい交わりに生きられたイエスと共に、わたしたちも「アッバ、父よ」と叫んで、この身を父に委ね、この祈りを生きるのです。これは子とされた者の祈りです。「主の祈り」は神の子の祈りです。

 この「神の子の祈り」は世に向かって、人間の魂の方向が根本的に間違っていることを示しています。人間は自分の手の業の栄光、自分の力の支配、自分の意志と願望の実現ばかりを求めていますが、それが根本的に逆転して、自分ではなく、自分を存在させている方の栄光と支配と意志の実現を求めなければならないのです。そのとき人間は人間として本来あるべき方向に向かっているのです。

 さらに、この「神の子の祈り」は人間がいる場所が根本的に間違っていることを示しています。世界は創造者の裁きという終末に直面しているのに、時《カイロス》を見分けることができず、自分たちの時がいつまでも続くかのように錯覚し、恩恵の場に来ようとしていません。人間は自分の知恵と力で自分の問題を解決することはできず、恩恵の場で賜る神の霊の知恵と力で、お互いに愛し合うことによってのみ将来を持ちうるのです。

 世界の危機的な状況において、イエスが教えられ、キリストにある小さい群が祈るこの祈りが、暗夜の燈火のように、人間の根本的な問題がどこにあるのかを示し、どの方向に解決があるのか、進むべき方向を照らし出しているのです。


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