マタイによる福音書 17

ただ神の国を求めよ

 ― 御国の福音(16) ―





はじめに

 「幸いの言葉」を中心とする導入の部分(五・一〜一六)に続いて、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義、すなわち天の国における義」という主要部分(五・一七〜六・一八)を書き終え、マタイは後半部に筆を進めます。この「御国の福音」の後半部では、イエスに従おうとする弟子にとって大切な心構えについて、様々な主題が取り上げられますが、最初にこの世での生活に対する心構え、とくに富についての心構えを説く部分が大きなブロック(六・一九〜三四)をなしていると思われます。

 この部分にはルカと共通する言葉が多くありますが、順序はルカと違っています。ということは、このブロックの大部分は「語録資料Q」の素材を、マタイが彼の意図に従って編集し配置したと見ることができます。

 神と富


地上の宝と天の宝

「あなたがたは地上に宝を集めてはならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に集めなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」。

(六・一九〜二一 一部私訳)

 《セーサウロス》を新共同訳は「富」と訳しているが、この語は本来「集められた(貴重な)品物」を指しており(ここでも用いられているこの語の動詞形は「集める」の意)、土地や家屋、家畜や穀物というような資産(ルカ一二・一三〜二一)ではない。また、虫や錆や盗人の被害の対象になるのは、高価な衣類や香料、貴金属や宝石などであるので、協会訳のように「宝」と訳す方が適切と考えられる。さらに、二四節で一般的な用語として「富」を用いるのであれば、区別して訳語を用いる方がよい。

 ここで、地上に集められ蓄えられた宝と天に集められ蓄えられた宝が対照されています。高価な衣類や香料、貴金属や宝石など、地上に蓄えられた宝は、虫や錆が品物をダメにし、盗人が家に侵入して盗んでいくというように、いづれは無価値になるのに対して、天に蓄えられた宝は、そのような被害にあうことなく、いつまでも価値あるものとして残るという対照が強調されます。

 ここで「宝」というのは、わたしたちが価値あるものとして追求する対象を指す象徴と理解できます。この言葉で、何を価値あるものとして追求するのか、という人生の基本的な問いが突きつけられているのです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉(先の「偽善者」が追い求めた人からの賞賛)とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。マタイは後に、「何よりもまず追い求める」べきものを、「神の国と神の義」と表現しています(六・三三)。マタイにとって、何よりもまず追い求めるべきものは、主要部(五・一七〜六・一八)で提示した「天の国の義」です。この義こそ、「天に集められた宝」に他なりません。

 ルカはこの「天に宝を集めなさい」という御言葉を、少し違った文脈で用いています。遺産の問題をお願いした人の言葉をきっかけに、イエスはある金持ちをたとえとして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かなにならない者」の愚かさを語られます(ルカ一二・一三〜二一)。続いて「空の鳥、野の花」を指して、ひたすら神の国を求めるならば、必要なものは添えて与えられるという約束が語られます(ルカ一二・二二〜三二)。その後にこう続きます。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ一二・三三〜三四)。この文脈からしますと、ルカは地上の財産を売り払って施しをすることが「富を天に積む」ことであり、「神の前に豊かになる」ことだとしている、と言えます。地上の富の問題に関しては、ルカはマタイよりも具体的に考えているようです。

 ここで誤解してはならないことは、この言葉は決して、世間での活動を無価値として、霊的な価値だけを追求するために、この世から離れて修道院的な生活をするように勧めているものではありません。わたしたちは社会の一員として生産活動をはじめこの世の仕事に携わらなければなりません。ただ、その時、何を価値あるものとして追求するのかという心の在り方、心の姿勢が問われているのです。そのことが段落最後の言葉でこう表現されています。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」。

 もしわたしたちが社会活動において地上の富や地位や名誉を価値あるものとして追い求めているならば、わたしたちの心も地に縛り付けられて、地上の出来事に一喜一憂し、世の中の変化に従って高揚したり落胆したりします。そして、「地上の宝」が最後にはダメになるように、地に縛り付けられた心は、結局は地と共に滅びます。自分の身体も地の一部ですから、身体の死と共にすべての価値は無に帰します。それに対して、もしわたしたちが地上の人生と活動において、自分の欲望充足のために富を求めるのではなく、支配欲のために地位を求めるのでもなく、また、虚栄のために名誉を求めるのではなく、ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に集める」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになるでしょう。

 こうして、心の在り方とか心の姿勢が問題となったところで、その問題が別の譬に引き継がれます。

体のともし火

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。

(六・二二〜二三)

 先の宝と心の関係に続いて、目と体の関係をたとえとして、「内なる光」が人間存在にとって重要であることを語る段落が置かれます。目は体にとって灯火の役目を果たしています。灯火が暗い室内を照らし出して明るくするように、目は人が明るいところで行動できるようにします。目が病んで見えなければ、人は明るい室内にいても暗闇にいるようで、その体は行動できません。このような状況が「全身が暗い」と表現されます。目が健康でよく見えるときは、自分がどこにいるのか、どこに何があるのか見えますから、体は自由に行動できます。このとき暗闇は感じません。このような状況が「全身が明るい」と言われます。

 このように、「内なる光」が輝いていれば、目が健康でよく見える時に全身が明るいように、わたしたちの全存在は明るいところにいることになります。わたしたちは自分がどこにいるのか、どこに何があるのかを認識して、安心して歩むことができます。しかし、「内なる光」が消えれば、目が見えない人が全身を暗いと感じるように、わたしたちは自分がどこにいてどこに向かっているのか分からず、不安の暗闇に陥ります。それは、目が見えないときに感じる体の暗さよりも、はるかに深刻な暗闇になります。
 体にとって目が暗闇を照らすともし火であるように、人間の全存在を明るく照らし出すのは「内なる光」、すなわち霊の目です。この霊眼が濁っているならば、わたしたちの全存在は暗闇に陥り、自分がどこにいて、どこに向かっているのか分からなくなります。霊眼が澄んでいれば、わたしたちの全存在が明るく、目的地に向かって道を間違いなく歩くことができます。こうして、ここでも心の在り方が問題にされていることになります。

 「ともし火のたとえ」の扱い方は、三つの共観福音書で異なります。マルコでは「あかりが来るとき、それを升の下や寝台の下に置くことはない」という形で、「神の国のたとえ」の中に置かれ(マルコ四・二一〜二三)、「隠れているもので、あらわにならないものはない」という神の国顕現の原理を指し示すたとえとされています(『マルコ福音書23』の「あかりの譬」を参照)。マタイはこの言葉を「幸いの言葉」に続く導入部に置いて弟子の使命を語り(五・一五)、それとは別に、ここで「体のともし火」という形で「内なる光」のたとえとして弟子の心構えを説き勧めます。ルカでは、「升の下に置かれたともし火」と「体の灯火」が合わせられて、わたしたちが「内なる光」を消さないように勧めるたとえになっています(ルカ一一・三三〜三六)。

 この目のたとえで、「澄んでいる」とか「濁っている」と訳されている語は、「健全である」とか「病んでいる」という意味の語ですが、ここの文脈からすれば、「澄んでいる」とか「濁っている」という訳語は示唆的であると思われます。すなわち、追い求める対象に向かって、混じりけのない純一な心で対しているか、他のものにも心を向けて混じりけのある心で対しているかの違いを示しているからです。この目のたとえは、先行する宝のたとえと、後に続く神と富との二者択一の間にあって、選び取った対象に向かって混じりけのない純一な心、全存在的を傾けた心で対すべきことを説くたとえになっています。

二人の主人

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

(六・二四)

 「主人に仕える」というのは、当時の奴隷制社会において、奴隷が主人に仕える生活をたとえとして用いている表現です。奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりません。ある面では(または、ある時は)主人に従い、他の面では(または、他の時には)他の主人の命令に従うというような、「二人の主人に仕える」ことは奴隷には許されません。ここで、「愛する」とか「憎む」、また「親しむ」とか「軽んじる」というような感情を示す語が用いられています。本来、主人と奴隷の間に感情が入ることは許されません(憎んでいても従わなければならないのです)が、よい主人に恵まれれば、奴隷が心から主人を愛し親しみ、主人と対立する他の奴隷所有者を憎み軽んじることもありえます。その時、「主人に仕える」ことは完全になります。


 このように、奴隷が「主人に仕える」ことをたとえとして、人が「神とマモンに兼ね仕えることはできない」という命題が提示されます。これは「兼ね仕えるべきでない」という命令とか勧告ではなく、「それはできないことだ」という事実の提示です。それは、神とマモンは完全に対立し、相容れない原理だからです。

 「マモン」と表記した原文の《マモーナス》というのは、アラム語の《マモーン(またはマモーナ)》を音写したギリシャ語です。アラム語の《マモーン》の由来はよく分かりませんが、ヘブライ語の《アーマーン》(確かな)と関連があるのではないかと見られています。アラム語では(「頼れるもの」という意味からでしょうか)「富」を指す語として用いられていました。ユダヤ教文献では、「不義のマモーン」という用例が多く、不正な手段で得られた富として断罪されています(ルカ一六・九、一一参照)。

 この言葉は「語録資料Q」から取られていると見られます(ルカ一六・一三が並行)。ここで「富」を意味する「マモン」は擬人化されて用いられ、人に仕えられることを要求する主人として、神と対抗しています。イエスは「富」を絶対的な価値として追求する生き方を、「マモンという偽りの神に仕える」こと、まことの神に仕えることと両立しないこととして、断固退けられるのです。

 では、「マモンに仕える」ことと対立する「神に仕える」とはどういう生き方でしょうか。経済活動を軽視したり放棄して、宗教活動に熱心に励むことでしょうか。そうではないと思います。「神に仕える」とは、具体的には、神が求めておられることを追求すること、すなわち隣人を愛すること、隣人に仕えることであると考えます。人間を人間として尊び、人間の尊厳に仕えることであると思います。「マモンに仕える」ことと「神に仕える」ことの対立は、具体的には、経済的価値を絶対的なものとして追求する生き方と、隣人を愛することによって人間の尊厳に仕える生き方の対立です。

 現代文明は経済的価値を神として拝み、その神マモンを拝むために人間の尊厳を犠牲として捧げてきました。イエスの言葉は、このような現代文明に対する痛烈な批判であり、これからの進路を指し示す指針です。経済的価値にかぎらず、人間の尊厳以外のものを絶対化し、究極の価値として追求する社会は厳しい審判を招くでしょう。政治も経済も、人間の尊厳、人格と人権の尊重に仕えることが、神の祝福を受ける道です。

 トマス福音書の語録四七(一〜二節)に並行する言葉が伝えられています。
 イエスが言った、「 一人の人が二頭の馬に乗り、二つの弓を引くことはできない。 一人の奴隷が二人の主人に兼ね仕えることはできない。あるいは、彼は一方を尊び、他方を侮辱するであろう」(荒井献訳)
 トマスでは「二人の主人」が誰であるかは特定されていません。トマス福音書のグノーシス主義的な傾向からすれば、おそらく「至高者(父)」と「創造神《デーミウールゴス》」が含意されているのでしょう。トマス伝承と比較しますと、イエスの初期の語録伝承では「二人の主人」を特定しない形であったのが、「語録資料Q」の段階で「神とマモン」と特定されるようになった可能性が推定されます。
 ルカは並行箇所で「召使い」《オイケテース》という語を用いています(ルカ一六・一三)。これは、「不正な管理人《オイコノモス》」のたとえの結びとしてこの語録を用いている結果でしょう。マタイでもルカでも「仕える」という動詞は、「奴隷《ドゥーロス》」の動詞形ですから、トマス伝承も考慮に入れますと、アラム語の伝承では「奴隷」という語であったと推定されます。

 思い悩むな


空の鳥・野の花

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。

(六・二五 a)

 ここまで、宝のたとえ、目のたとえ、二人の主人のたとえの三つのたとえによって、イエスは弟子たちに、神の前に富む者になることに心を集中するように求められました。その勧めの結びとして、「だから、言っておく」と前置きして、以下の「思い悩むな」という勧告が続きます。「思い悩むな」ということは、「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ことを裏側から勧めた言葉です。

 普通、人生の最大の関心事は「どうして生活していこうか」という問題です。イエスはそれを「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という具体的な問いの形で語られました。現代では、お金を出せば食べるもの、飲むもの、着るものは何でも手に入りますから、この問いは「どうしてお金を得ようか」という問題に帰着します。できるだけ楽に、生涯安定して、できるだけ高額の収入を得るためにはどうすればよいか。これが現代人の最大関心事です。そのために競争や闘争、非難や中傷、挫折や絶望など、現代生活は「思い悩む」ことが満ちています。このような仕組みの世の中で生きていくとき、「思い悩むな」と言っても、それは無理な注文だという感じがします。

 そのように思い悩まないではおれないわたしたちに、イエスは「空の鳥を見よ、野の花のことを思え」と呼びかけられるのです。わたしたちが「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ならば、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父が、必要なものを与えてくださるのだから、思い悩むことはないのだと、イエスは語りかけておられるのです。このように、この段落の根幹、あるいは本筋は明かです。
 しかし、マタイの文章にはこの根幹に二三の枝がついているようです。その第一は次の言葉です。

「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。

(六・二五 b)

 この言葉は「思い悩むな」という勧告の根拠として置かれているのでしょうが、命が食べ物よりも大切なものであることを確認することが、なぜ「思い悩む」ことをなくすのか、その理由がよく分かりません。強いて説明すれば、「何を食べようか、何を着ようかと、食物や衣服のことを思い悩むのは、命を保ち、体を保護するためではないか。ところが、その命と体は神が定められるものであって、人間が思い悩んだところで変えられるものではない。だから、食物と衣服のことで思い悩むのは愚かなことである」ということでしょうか。こう理解しても、他の解釈を試みても、先に見た本筋を乱します。ルツ(EKK)は、「(どの解釈も)脈絡を乱す。この部分は二次的な付加である」と断定しています(この言葉はルカにもありますから、二次的な付加だとすると、Qの段階で加えられたものと見られます)。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。

(六・二六)

 「思い悩むな」という勧告の根拠として、イエスは空の鳥を指さされます。もちろんこのお言葉は、わたしたち人間に「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」鳥のような生活、自然にあるものを採集して暮らす原始の生活に戻れと言っておられるのではありません。人間は種を蒔き、刈り入れ、倉に納める工夫を重ね、またそれを共同で行う努力を積んで、文明を形成してきました。イエスはそれを否定しておられるのではありません。イエスが指さしておられるのは、鳥ではなく、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」鳥を養ってくださっている「天の父」の配慮なのです。「あなたがたは鳥よりも価値あるものなのだから、父が配慮してくださらないことがあろうか。生活のことは、自分で思い悩むのではなく、父の配慮に委ねなさい」と言っておられるのです。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。

(六・二七)

 ここで再び本筋から離れる言葉が付け加えられています。思い悩むことの愚かさを語る格言的な言葉が加えられて、「思い悩むな」という勧めが補強されます。この言葉はわたしたちに、思い悩むことは一種の高慢となる場合があることを気づかせます。思い悩むことは、私たちの力で事態を変えることができることを前提にしています。定められた寿命を延ばすことができると考えることは、人間の分を超えた傲慢です。できもしないことを、ああしようか、こうしようかと思い悩んだり、先走って心配するのは愚かなことです。

 ギリシャ語原文では、「一《ペーキュス》」という長さを示す単位(約四五センチ)が用いられています。それで《ヘーリキア》を「身長」と解して(そういう用法も僅かながらあります)、「身長を一尺伸ばすことができようか」と訳される場合があります。しかし、《ヘーリキア》は本来「年齢、寿命」の意味ですから、ここはやはり「わずかでも寿命を延ばすことができようか」と訳す方が自然でしょう。いづれにしても、分を超えた思い悩みが愚かであることを語る格言となります。

「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」。

(六・二八〜三〇)

 本筋に戻って、空の鳥に続いて野の花が話題になります。ガリラヤ湖西岸のなだらかな丘陵に、イエスが「山上の垂訓」を語られたことを記念する美しい教会堂があります。イエスがそのようなガリラヤ湖を見晴らす場所で、湖を渡るおだやかな春の風の中で、あの「幸いの言葉」を語り、この「空の鳥、野の花」の言葉を語り出されたという情景を想像しますと、聖書に印刷されている言葉が、いま耳に響く肉声のように感じられてきます。春であれば、湖に下る緩やかな斜面の草地に、おそらくアネモネの可憐な花が咲き乱れていたのでしょう。イエスはその花を指して、その花が「どのように育つのか、注意して見なさい」と呼びかけられます。

 これは、野の花の育ち方をよく観察して自然科学的に描写することを求めているのではありません。「よく見なさい」と訳されている語は「よく考えなさい」という意味もあります。この言葉は、野の花がこのように育つことの意義をよく考えてみなさい、という呼びかけです。「働きもせず、紡ぎもしない」のに、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という事実の背後に何を見るのか、それが問われているのです。わたしたちは、野に咲き乱れる花を見て、ただ綺麗だなあと感心します。イエスはその事実の背後に、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」という、人の目にもつかないような小さいものに対する神の配慮を見ておられるのです。

 神がこのように小さいものを配慮してくだっているのであれば、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と続きます。「父の配慮があなたがたに及ばないことが、どうしてあろうか」ということです。それだのに、わたしたちは「何を着ようか」と衣服のことを思い悩み、生活のことを思い悩んでいます。このようなわたしたちの現状を、父の配慮を信じない者として、イエスは「信仰の薄い者たちよ」と嘆かれるのです。この言い方は、不信仰を断罪するのではなく、「そんな信仰の薄いことでどうするのか。空の鳥、野の花を見て、父の配慮を信じる者となり、思い悩みを捨てよ」という励ましの呼びかけとして聴くべきです。

 「信仰」にはさまざまな相がありますが、ここでの「信仰」とは、父の配慮への信頼を指しています。しかし、これも霊なる父との交わりという信仰の根源的現実が現れた一つの姿に他なりません。マタイが五章から七章にまとめた「御国の福音」は、父の無条件の恩恵によって子とされた者が、父への無条件の信頼によって生きる姿を描いています。それはイエスの姿であり、キリストにあって御霊に導かれて生きる者の姿であるのです。

 この「空の鳥、野の花」の言葉は、改めてイエスの霊眼の深さを思い起こさせます。わたしたちは先に、イエスが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五・四五)と言われるのを聞きました。父との深い交わりの中に生きておられるイエスは、太陽や雨、鳥や花など、自然界のどの現象を見ても、その背後に父の恩恵や配慮を見ておられるのです。そして、わたしたちをこのような父との交わりの境地に生きるように招いておられるのです。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

(六・三一〜三三)

 「空の鳥、野の花」の言葉を受けて、再度「思い悩むな」という勧めが繰り返されます。このように繰り返されているのを聞きますと、昔イスラエルの民がエジプトから救い出されて約束の地に向かって荒野を旅したとき、食べ物や水がないことに繰り返し不平を言ってつぶやき、モーセを困らせたという物語を思い起こします。「思い悩む」ここと「つぶやく」ことは少し違いますが、生活上の必要が満たされるかどうかについて不安をもち、神の慈愛と配慮に委ねきることができない態度であることは共通しています。モーセに率いられた民は、この不信仰のために荒野で滅びました。イエスに従う民は、父への信頼でモーセの民に勝るものでなければならないのです。

 ここで、食べ物や衣服など生活に必要なものが、「異邦人が切に求めているもの」と規定されています。この言葉はルカの並行箇所にもあり、「語録資料Q」から来ていると見られます。このような表現は(五・四七も含め)、「語録資料Q」を生みだした信仰運動がユダヤ人の間の運動として進められていた結果、イエスの言葉伝承の中に入ってきたものと考えられます。

 「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」から、わたしたちがこれらのものをどうして得ようかと思い悩むことなく、「何よりもまず、すなわち、こころを専一にして、神の国と神の義を求める」ならば、「これらのものはみな加えて与えられる」と約束されます。この「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」という言葉こそ、先の宝、目、主人の三つのたとえと、この空の鳥・野の花を含むこのブロック全体(六・一九〜三四)の結論です。

 ルカの並行箇所(一二・三一)と比べますと、マタイの文ではルカにない「神の義」という句があることが目立ちます。「語録資料Q」では「何よりもまず、神の国(神の支配)を求めなさい」とあるのを、マタイが「神の義」を付け加えて伝えたと見ることができます。

 ルカは、「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」という言葉の後に、「小さな群よ、恐れるな。神の国を与えることは父の意志なのだ」(一二・三二私訳)を続けています。ルカの文脈では、この世からの圧力や迫害に耐えながら神の国だけを目指して歩むイエスの民に、この地上の必要は心配しないで、まさにその神の国を与えることを約束された父の配慮に委ねるように、励ます言葉になります。

 それに対して、マタイは「神の国」と並んで「神の義」を付け加えることによって、求めるべき「神の国」を限定しています。「神の国と神の義」の「と」《カイ》は、ここでは二つのものを対等に並べる接続詞ではなく、「すなわち」の意味です。マタイにおいては「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他ならないのです。そして、「神の義」とは「神に受け入れられる義」、すなわち主要部で説いた「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」、「それによって天の国に入ることができる義」なのです(五・二〇)。イエスの弟子たる者は、食物や衣服など地上の生活に必要なものについて思い悩むことなく、ひたすらこのような義を追い求めるように励まされるのです。

 マタイのいう「神の義」について、またパウロのいう「神の義」との関係については、『マタイによる福音書4』の「義に飢え渇く者」を参照してください。なお、マタイがここで「天の国」と言い換えないで、「語録資料Q」の「神の国」という表現をそのまま用いていることが目立ちます。おそらくこれは、「神の義」という句を用いるにさいして、並行表現として用いたからでしょう。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。

(六・三四)

 最後にもう一度本筋から離れた格言が置かれて、「思い悩むな」という勧告の段落を締め括ります。たしかにこの格言は、明日の心配が絶えない現実の生活者にとって、慰めに満ちた知恵です。しかしこの節は、明日のことは分からないということを根拠にして、明日のことまで思い悩むなと説いています。これは、もっとも小さいものにまで及んでいる父の配慮を根拠にして「思い悩むな」と説く「空の鳥・野の花」の言葉とは、直接には続きません。マタイが「思い悩むな」と説く段落の締めくくりとして、日頃親しいんでいる知恵の言葉を置いたと見ることができます。どちらが先か知りませんが、当時のユダヤ教のラビの言葉として、次のような言葉が伝えられています。
 「明日のことを心配するな。その日に何が起こるか、お前には分からないからである。あるいはお前は明日生きていないかもしれない。そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる」(「サンヘドリン」一〇〇)。

 こうして、Qまたはマタイの編集の過程で加えられたと見られる句(二五節後半、二七節全体、三二節前半、三三節の「神の義」、三四節全体)を括弧に入れて読むと、イエスが「空の鳥・野の花」を指さして語られたお言葉が、比較的もとのお言葉に近い形で読めると考えられます。

思い悩みのない生

 この「空の鳥・野の花」のお言葉は、もともと誰に向かって、あるいはどのような状況で語られたものでしょうか。まず、イエスが弟子たちを何も持たずに宣教に送り出されたとき(マタイ一〇・五〜一五、ルカ一〇。一〜一二)、弟子たちが食べる物や着る物を得るために仕事に就いたりして心を煩わすことなく、「神の国」の宣教に専心するように求められた言葉であるとする見方があります。この弟子の派遣の言葉は、「語録資料Q」を生みだした信仰運動など、パレスチナにおいてイエスを信じるユダヤ人の運動の中で、各地を巡回してイエスの言葉を伝え、「神の国」を説いた巡回宣教者の状況を反映していると言われています。たしかに、そのように定住して職業をもつことなく、各地を巡回して宣教する弟子たちにとって、この言葉は貴重な励ましの言葉であったはずです。

 エレミアスは、(「思い悩む」とか「思い煩う」と訳される)動詞《メリムナオー》は、「心配して考える」ということではなく「心配して働く」という意味であり、ここの言葉は「衣食のため(のお金を稼ぐため)にあくせく働くな。必要なものは父が与えてくださる」ということである、と述べています。そして、これは労働一般を禁じているのではなく、宣教者が二足のわらじをはく労働を禁じているのだと説明してます。しかし、この動詞の用法から見る限り、この場合に限って「心配して働く」という意味に限定することは根拠がなく、この解釈は無理ではないかと思います。

 次に、この言葉は宣教に派遣された弟子たちという特別の人たちに語られたのではなく、イエスを信じる者すべてに語られた言葉であるが、「神の国」が迫っているという状況で、この世の生活のことに思い悩むことがないようにという勧告であるという理解があります。イエスの「神の国」宣教が終末的な性格のものであったことを考えますと、そういう解釈を退けることはできませんが、この「空の鳥・野の花」の言葉自体には、終末待望との関連を示唆するものはありません。

 イエスが、「思い悩むな」と説かれる根拠として、蒔くことも刈ることもしない空の鳥を天の父が養ってくださっていること、また、働きもせず紡ぎもしない野の花を父が装ってくださっている事実を指し示しておられること、すなわち、小さい者に対する創造者の配慮を根拠としておられることを見ますと、やはりここは、人間は創造者を父として信頼すれば、このように生活の思い煩いから解放されて生きることができるのだと説く言葉であると理解することができます。たしかに、宣教に派遣された者という特定の人たち、あるいは、終末が迫っているという特定の状況に対して語られたという理解を否定する根拠もありませんが、そのような特定の状況に限定する必要もありません。地上の生活に苦労する人間一般に、自分を存在させている方を父として知り、その方の慈愛から出る配慮に委ねることによって、思い悩むことない生を生きるようにという招きであると聴くことができます。ただ、その思い悩みのない生は、心を「神の国」という価値に集中する生の裏側であることを忘れてはなりません。


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