マタイによる福音書 18

恩恵の座への招き

 ― 御国の福音(17) ―





 裁きと恩恵


人を裁くな

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようになるためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。

(七・一〜二)

 人間社会は裁きがなければ成り立ちません。人間社会が成り立つためには正義に基づく秩序が必要であり、その秩序を破る者または行為は排除されなければなりません。社会の秩序は道徳とか法律という規範によって表現され、それを破る行為は社会的非難や裁判によって排除されます。人間が人間を裁くことなしには、人間社会は成り立たないのです。

 ところが、イエスは「人を裁くな」と断言されます。これは過激な言葉です。もしすべて人を裁くことが禁じられたら、どうして人間社会は成り立つでしょうか。いったい、イエスはどういう意味で「人を裁くな」と言っておられるのでしょうか。
 国家の裁判制度とか教会法による裁判と両立させるために、このイエスの言葉は個人の日常生活について語られたものであるというような、適用範囲を限定する解釈がよく行われますが、これは解釈者の側の都合とか状況を解釈原理に持ち込んでいるので、納得できるものではありません。

 「人を裁くな」という断言的な命令の意味は、その命令と一体で語られている「あなたがたも裁かれないようになるためである」という後置文によって解釈されます。後置文の「裁かれない」という受動態は、「神が裁かない」という能動態の言い換え(イエスに特徴的な表現法)です。したがって、イエスはこう言っておられると理解できます。
 「神があなたがたを裁くことがないように、あなたがたも人を裁いてはならない」。
 当時のユダヤ人の間では、イエスにおいてもマタイにおいても、「神が裁く」というのは終わりの日における神の裁きを意味していました。それでこのイエスのお言葉は、終わりの日に神があなたがたを断罪することがないようになるために、あなたがたはいま人を裁かないでいなさい、という意味になります。この理解から次の二点が明らかになります。

 まず、「裁くな」という命令文の「裁く」は、後置文の「裁く」と同じ意味に理解されます。すなわち、ここで問題とされている「裁く」というのは、国家制度としての裁判とか日常生活の行為の善悪の議論が問題とされているのではなく、神の前に罪人であると断罪すること、また、そう断罪して交わりを拒否することです。「裁くな」をこのような意味に理解すべきことは、ルカの並行箇所(六・三七)で、この「人を裁くな」のお言葉を解釈するかのように、直後に次のように語られていることからも支持されるでしょう。
 「人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることはない」。

 次に、「裁かない」を肯定文で表現すれば、「赦す」ということになります。「人を裁くな」ということは、「人を赦せ」と同じことです。事実、ルカ福音書の並行箇所では、この「人を裁くな」のお言葉の直後に、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という言葉が来ます(ルカ六・三七)。「赦す」というのは、自分になされた悪を赦すだけでなく、自分の物差しで他人を測り、違いを批判し、相手を拒否するのではなく、自分と違う相手をあるがままに認めて受け入れることです。そうすると、この「人を裁くな」というお言葉は、「主の祈り」の中の「わたたしたちの負い目を赦してください」の祈りと同じことを言っていることが分かります(「主の祈り」の当該箇所を参照)。

 マタイ七・一とルカ六・三七を比較した場合、ルカが「語録資料Q」に付け加えたと見るより、マタイが省略したと見る方が自然です。マタイは「赦しなさい」というお言葉を、すでに「主の祈り」の付加的な勧め(六・一四〜一五)で用いているので、重複を避けて省略したと見ることができるからです。

 ルカ福音書では、この「人を裁くな」のお言葉は、「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」というお言葉の直後に置かれ、一息に語られています(ルカ六・三六〜三七)。すなわち、ルカでは「人を裁くな」は「慈愛深い者となれ」の一部なのです。イエスのお言葉を伝えた「語録資料Q」では、このような形で伝えられていたと見られます(ここでも、マタイよりもルカの方が「語録資料Q」の順序に忠実であることは、ほとんどのQの研究者の意見が一致しています)。

 「慈愛深い者であれ」というお言葉は、慈愛深い父を模範として、そのように慈愛深い者であれという命令ではなく、父の無条件の恩恵の場に生かされていることを根拠にして、その恩恵の場に留まるようにという勧めでした。同じように、この「裁くな」というお言葉も、命令ではなく、恩恵の場に留まるようにという勧めです。父はあなたがたを裁きの原理によってではなく、恩恵の原理によって扱い、無条件に受け入れてくださっているのであるから、あなたがたも人を裁かず、人を赦し無条件に受け入れることによって、父の恩恵の場に留まりなさいという勧めです。それが「裁かれないようになるため」ということの意味です。

 世界は神の裁きという土台の上に成立し、人間社会は裁判によって正義と秩序が保たれます。その中で、イエスは恩恵という別の原理によって成立する場があることを端的に語り出されるのです。「人を裁くな」という言葉は、裁きの原理によって成り立っている社会を否定するような過激な響きをもっています。しかし、それはイエスが生きておられる恩恵の場に入り、そこに生きるようにという招きなのです。

同じ秤で

 「裁くな」という命令文と、「そうすれば、あなたがたも裁かれないようになる」という結果(一節)を結びつける理由として、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」という原理があげられます(二節には「〜からである」という理由を示す小辞があります)。これは正義の原理そのものです。売るときの秤と買うときの秤を変えることは、不正義の典型です。正義はいつも同じ秤を用いることを要求します。そのように、もしわたしたちが人を裁くならば、その裁きと同じ規準で裁く者も裁かれなければなりません。マタイは「同じ秤で」というたとえを、同じ規準で裁かれるということを語るたとえとして用いています。

 ところが、ルカの並行箇所を見ると、「同じ秤で」というたとえが違った場面で用いられています。ルカは「人を裁くな、罪に定めるな、赦しなさい」(六・三七)の後に、「人は自分の裁く裁きで裁かれる」という言葉を出さず、代わりに「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」という言葉を置き、その後に「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という「秤のたとえ」をもってきます(六・三八)。すなわち、ルカでは「同じ秤で」という原理は、同じ裁きで裁かれるという原理のたとえではなく、与えるさいの気前の良さを語るたとえになっています。

 マタイでは「裁くな」という消極的な面が問題となっていましたが、ルカでは「与えなさい」という積極的な面で「同じ秤で」の原理が用いられているのです。あるいは、ルカは「裁くな」と「与えなさい」の両方を貫く原理として「同じ秤で」のたとえを用いたのかもしれません(その場合には「同じ裁きで」の方は用いることができません)。ルカの「そうすれば、あなたがたにも与えられる」という受動態は、「人々が与える」ではなく、「神が与えてくださる」という意味です。わたしたちが「ただで(無代価・無条件で)受けたのだから、ただで(無代価・無条件で)与える」という恩恵の場に生きるならば、神は「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れて」くださるという、恩恵の世界の豊かさを語っているのです。

 『天旅』巻頭言「同じ秤で」を参照。なお、マルコ福音書(四・二四)も「同じ秤」のたとえを使っていますが、まったく違った場面で用いています。マルコでは「神の国」のたとえを聴く態度について用いられ、たとえを悟る者にはますます「神の国」の奥義が与えられることのたとえになっています。マルコがQを知っていたのか、別の伝承によるのかは決定できません。


おが屑と丸太

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。

(七・三〜五)

 「人を裁くな」という勧めが、裁く者の愚かさを誇張するたとえで、裏側から印象深く具体的に例示されます。人を裁く者は、自分の目にある丸太に気づかないで、他人の目にあるおが屑を取ってあげようと言う人のように、まったく愚かなことをしていると言うのです。このたとえはたんに、他人の欠点はよく見えるのに、自分の欠点は気がつきにくいものだという、人間的な知恵を表現する格言ではありません。「おが屑と丸太」という誇張された対比が指し示すのは、枝葉末節の問題と根本的な問題の対比です。ある規範(新約聖書の世界ではモーセ律法というユダヤ教の定め)に合致するかどうかという規準で個々の行為を裁くのは、自分を正しい者とし、裁く立場に置いているのです。それは、自分が恩恵によって(すなわち神の赦しによって)存在している者であり、裁く立場にいる者ではないのだという根本的な立場に気がついていないことを示しています。

 「偽善者よ」という語りかけは、このたとえがもともと論争相手のファリサイ派に投げかけられたものであることを示唆しています。モーセ律法の規定に合っているかどうかで些細な行為の是非を議論しているファリサイ派に対して、そのような議論をする立場そのものが根本的に間違っていることを、恩恵の場に生きる立場から明らかにしているのです。
 同時に、「兄弟」という語が繰り返し用いられているのは、このたとえがマタイの教団においても、互いに批判しあうことを戒めるために用いられたと見ることもできます。キリスト教会も、自分の目にある丸太に気づかず、兄弟の目にあるおが屑ばかり気にするという偽善に陥りがちです。自分が赦されて存在しているのだという根本的な認識を忘れて、兄弟の些細な行為や思想を批判して裁く(断罪する)という過ちを犯します。心すべきことです。

 では、「おが屑」は取り除かなくてもよいのでしょうか。そうではありません。このたとえも、「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と、最後はおが屑を取り除く仕方で締め括られています。すなわち、「兄弟の目からおが屑を取り除く」ためには、「まず自分の目から丸太を取り除け」と言うのです。自分が徹底的に恩恵の場に生きるようになると、今までおが屑でないものをおが屑と誤認して、兄弟を批判し痛めつけていたことがなくなります。兄弟に対する自分の批判や軽蔑こそ、恩恵の場にふさわしくない「おが屑」であることが見えてきて、それが無くなります。こうしてお互いが赦しによっ無条件に受け入れあうことによって、「おが屑」のない世界が実現するのです。そこでは、父の恩恵だけが「はっきり見えるようになって」、おが屑が交わりを妨げることがなくなるのです。

 ルカ福音書ではこの「おが屑と丸太」のたとえ(六・四一〜四二)は、「裁くな」のお言葉(六・三七〜三八)の直後には置かれず、間に「盲人の道案内」と「師と弟子」ののたとえ(六・三九〜四〇)が入ってきます。ルカでは「裁くな」の勧告は「与えよ」という勧告で対照されて一段が完結しています。それで、「イエスはまた、たとえを話された」という語で別の段落が始まり、「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という新しい主題が導入されて、その例示として「おが屑と丸太」のたとえが置かれていると見ることができます(その場合、「師と弟子」のたとえは「おが屑と丸太」のたとえと直接にはつながりません)。マタイは盲人のたとえと弟子のたとえをまったく別の文脈に置いています(一五・一四と一〇・二四〜二五)。


豚に真珠

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」。

(七・六)

 これはマタイだけにあるたとえで、このたとえの意味とここに置かれている意義は理解困難です。しかし、まず用語と文意から検討してみましょう。

 ユダヤ人の間では犬と豚は不潔な動物として忌み嫌われていました。旧約聖書では、犬は(ハイエナや狼と同列に)危険で汚らわしい動物として扱われ(僅かの例外はありますが)、愚行を繰り返す愚か者(箴言二六・一一)、信仰に背く冒涜者(詩編五九)、神から見捨てられた者(イザヤ三四・一三、エレミヤ五〇・三九)を象徴する動物とされています。豚は、祭儀規定で食べることも死骸に触れることも禁じられる「汚れた動物」とされ(レビ一一・七、申命記一四・八 新共同訳では「いのしし」)、ラビたちはその名を口にすることも汚らわしいとして言い換え、しばしば「汚れた異邦人」の象徴として用いられています。その大部分がユダヤ人によって書かれた新約聖書でも、このようなユダヤ人の伝統を受け継いで、犬と豚は汚れた動物として扱われ、しばしば背教者や異端者を象徴する動物として登場します(フィリピ三・二、ペトロII二・二二、黙示録二二・一五)。

 「神聖なもの」というのは、祭壇に捧げられる犠牲の肉を指しています。「真珠」は当時もっとも高価な宝物でした。犬と豚を用いたこの格言は、尊いものをその値打ちの分からない者に軽々しく与えるな、という一般的な処世の知恵ではなく、ここでは神の真理をその価値を理解せず求めようともしない部外者に与えるな、という宗教的な意味で用いられていることは理解できます。問題は、ここで犬とか豚で象徴されているのはどのような人たちかという問題です。

 第一の解釈は、犬とか豚は異邦人を指すという解釈です。これはユダヤ人の間ではもっとも普通の用法でした。福音という尊い真理を異邦人に軽々しく与えてはならない。そのようなことをすると、福音の価値が分からない異邦人は、それを命がけで主張する者を、自分たちと違う価値観を押しつける者として、憎んで迫害することになる、という理解です。もしこの言葉がそのような意味を担う言葉として伝承されたとすれば、それはQ集団のように、ユダヤ人の信仰運動の中で形成されたものでしょう。この解釈は、最終的には異邦人伝道を志向するマタイの立場(二八・一九)とは相容れませんが、異邦人伝道を禁じている語録伝承(一〇・五〜六)を、伝承に対する忠実さの故に保存しているマタイの姿勢からすれば、不可能ではありません。しかし、この解釈は、この言葉がこの位置に置かれている意味を説明することができません。

 第二の解釈は、犬とか豚はイエスを迫害し、マタイの教団と対立するユダヤ教会堂のユダヤ人を指すとする解釈です。たしかに、マタイは敵対するユダヤ人会堂を「偽善者」と呼んで激しく攻撃しています(二三章)。しかし、もしユダヤ人であるマタイが同胞ユダヤ人を「犬や豚」と呼んだとすれば、それは不信のユダヤ人を奴隷女の子とたとえたパウロ(ガラテヤ四・二一〜二五)以上に、激しいユダヤ教に対する絶縁状になります。保守的な律法学者マタイには考えにくい態度です。なお福音宣教をユダヤ人だけに限ろうとする語録(一〇・五〜六)を保存している事実とも両立しません。また、ここに置かれた理由も説明できません。この解釈は無理だと考えられます。

 第三に、この言葉がここに置かれた文脈からする解釈があります。マタイは「人を裁くな」という語録の後に「おが屑と丸太」のたとえを置いています(七・一〜五)。そこで「兄弟」という語が何回も用いられていることから、マタイはこのたとえを教団内のお互いの批判を戒める意味も含ませていると考えられます。しかし、教団の内部で指導者の訓戒をどうしても聞き入れない頑迷な者にまで、無条件の赦しという尊い真理を投げ与えてはならないと言っていると解釈できます。このような状況が実際にあったことは、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」というマタイの教会規定(一八・一五〜一七)からもうかがえます。そのように、ユダヤ人の信徒集団で「異邦人か徴税人と同様にみなされた人」が、ここで犬と豚によって象徴されているとするのです。「人を裁くな」という無条件の恩恵の世界を告知するイエスの語録に、教会指導という実際的な立場から制限を設けるために、マタイが「豚に真珠」の諺を使用したことは考えられます。しかし、この解釈も、後半の「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」という言葉とうまく繋がりません。

 この言葉が置かれている位置については、トマス福音書との比較が参考になります。トマス福音書では、「聖なるものを犬にやるな。…真珠を豚に投げてやるな。……」という語録九三は、「捜せ、そうすれば見出すであろう。……」という語録九二と、「捜す者は、見出すであろう。[また、門をたたく者は、]開けてもらえるであろう」という語録九四との間に置かれています。この事実は、「語録資料Q」という形にまとめられる以前には、「豚に真珠」の語録が「捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そすれば開けてもらえるであろう」という語録と一団になって伝承されていたことを示唆しています。Qの段階では、「求めよ。捜せ。門をたたけ」とまとめられていますが、なおその前後に「豚と真珠」の語録が置かれていたので、マタイは「求めよ」(七・七〜一一)の語録の前に、この「豚と真珠」の語録を置いた可能性があります。その場合、「豚と真珠」の語録は、直前の「裁くな」ではなく、直後の「求めよ」との関連で解釈されなければなりません。しかし、この文脈での解釈もきわめて困難です。

 ルツ(EKK)もこの言葉については、様々な解釈を検討した後、「起源も意味も文脈も解明できない。……私は、この言葉をそもそもマタイの文脈において解釈しないという案をあえて提案したい。マタイは保守的な著者であった。この言葉が彼のQ手本にあったものだから、彼は伝承に対する忠実心からそれを採用したのである」と述べています。Qにこの言葉があったとすると、ルカはそれを採用しなかったことになります。この言葉が異邦人伝道を否定する意味に解釈される可能性が大きいことを考えると、ルカが採用しなかった理由は理解できます。

 この語録が前後の文脈から切り離されて、状況に従っていかに自由に解釈されたかは、マタイから少し後に同じシリアで成立したと見られる『十二使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓(ディダケー)』という文書が、実例を提供しています。『ディダケー』では、「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、だれもあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである」(九・五 佐竹訳)とあります。
 ヘレニズム世界では、秘かに伝えられる救済の教えと儀式を外部の者に洩らしてはならないという密儀宗教が盛んでしたが、この「豚に真珠」の語録は、福音(とくに聖餐)を密儀宗教的に取り扱う人たちに格好のテキストとなったようです。もちろん、福音を密儀とすることは、福音の本質に反することです。


 恵みの座


求めなさい

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるからである」。

(七・七〜八 一部私訳)

 マタイ福音書の五章から七章は、一般に「山上の垂訓」と呼ばれ、キリスト教道徳の教本のように扱われています。しかし、これは道徳の教本ではなく、恩恵の支配の告知であること、すなわち、これがイエスの「神の支配」の告知、「御国の福音」であることは、繰り返し述べてきました。その本体と見られる部分(五・一七〜七・一二)の最後で、マタイは人を裁かないことで恩恵の場に留まるように勧め(七・一〜五)、その後にさらに、恩恵の場で大胆に父に祈り求めるように招くイエスの語録を置きます(七・七〜一一)。

 イエスの語録伝承で、人を赦すことと祈りとが一対として語られていたことは、マルコが祈りについてのイエスの教えを要約している記事(マルコ一一・二五)からもうかがえます。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(七節)というイエスの言葉は有名で、キリスト教の外の世界でもよく引用されます。その時この聖書の言葉は、どのような困難に直面しても、状況がどのように難しくても、断念することなく熱心に追求するならば、必ず目標に達することができるという激励の意味で用いられています。しかし、そのような意味であれば、イエスでなくても誰でも言えることであって、これが「福音」であるとは言えません。イエスの言葉の凄いところは、八節にあります。八節は《ガル》という理由とか根拠を示す小辞で七節に続いています。この結びつきは重要ですので、八節には「からである」という理由を示す語をつけて訳しておきました。

 イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と断言されるのは、イエスが「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という世界に生きておられるからです。この「だれでも」求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは凄い宣言です。いったいどうして、このようなことが断言できるのでしょうか。

 わたしたちの体験はこれと反対です。この世では何を求めても、それを受けるには資格とか条件が厳しく要求されます。この世で地位を求めても資格や学歴が求められ、よい大学の門に入るためには厳しい入学試験に合格しなければなりません。ある分野で成功を求めても生まれつきの才能とか健康が条件となります。努力したからといって、「だれでも」求めるものを得るというわけにはいきません。

 ところが、イエスは「だれでも」、すなわち、何の資格がない者でも、求める者は受けるという世界に生き、そのような世界を告知されるです。それは神の恩恵の世界です。恩恵が支配する場では、人は神から、何の資格がなくても、無条件に受けることができるのです。神が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられるのです。神と人とは本来そのような無条件・絶対(相手の価値に絶した関係という意味)の関係でつながっているのだというが、イエスの告知です。イエスは人とこのような関わりにある神を「父」と呼ばれるのです。父は子を無条件に愛して、良いものを与えるからです。

恩恵の父

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。

(七・九〜一一)

 イエスはこの無条件・絶対の神の恩恵を、人間の親をモデルにして語られます。親は子に無条件で与えることは、すでに語られました。ここでは何を与えるのかが話題になっています。

 イエスは「あなたがたは悪い者でありながら」と前置きした上で、「自分の子供には良い物を与えることを知っている」と語られます。イエスは人間が本性的に自己中心であり、自分のために求めるばかりで、自分を犠牲にして他者に与えるようなことはしない者であることをよく知っておられ、そのような本性の人間を「悪い者」と呼んでおられるのです。そのような自己中心の人間も、自分の子供に対しては、自分を犠牲にしてでも良い物を与えようとします。親の立場に立つとき、人間は本性的な自己中心性を克服しているのです。

 親は自分の子供に少しでも良い物を与えようとします。「パンを欲しがる自分の子供に、石を与える」親はありません。「魚を欲しがるのに、蛇を与える」親はありません。本性的に悪い者である人間の親でもそうであるならば、「まして」寸分の悪もその中に留めない天の父が、その子に「良い物」をくださらないことがあろうか、とイエスは断言されるのです。親としての人間の体験をモデルにして、イエスは父の無条件・絶対の恩恵を指し示されるのです。

 ルカの並行記事(ルカ一一・九〜一三)では、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」となっています。パンの代わりの石がなく、卵の代わりのさそりが用いられています。両方とも、パンの形に似た石があること、また、身体を丸めたさそりが卵に似ていることを知っている当時の人たちへのたとえです。マタイの表現は、有益な物と無益な物の対照、ルカの表現は有益な物と危険な物との対照となりますが、この違いは文意にとってあまり差がないと思われます。むしろ、マタイとルカの文脈の違いが問題になります。
 ルカはこの並行記事を「主の祈り」(一一・一〜四)に続く「夜中にパンを求める友人」のたとえ(一一・五〜八)の後に置くことで、「求めなさい」の語録(一一・九〜一三)をとくに「主の祈り」の中のパンを求める祈りの説明としています。そして、全体の結論として「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」としています。

 マタイは(そしておそらくイエス御自身も)詩編の伝統(詩編三四・一一など多数)を受け継いで、神が祈り求める民に与えてくださるものを、「良い物」という一般的な用語で表現しました。それに対して、ルカは「良い物」を「聖霊」と解釈して、その内容を特定しています。これは、ルカの聖霊重視の姿勢の代表的な箇所の一つですが、ルカの解釈は、福音宣教開始後すでに半世紀以上を経て、自分たちの存立と歩みの源泉が聖霊であることを十分自覚してきた主の民の体験を反映していると見ることができます。

 父は祈り求める子に様々な形で「良い物」を与えてくださいます。健康や必要な物、家族や友人などよき隣人、心豊かに生きるための才能や技能など、わたしたちの祈りに応えて与えてくださいます。わたしたちは今享受しているそれらの「良い物」を父からの恵みの賜物として感謝して受けています。ところが、人生の現実では、わたしたちが「良い物」としているものが取り去られ、懸命に祈っても与えられないときがあります。いわゆる「聴かれざる祈り」の問題に、わたしたちはしばしば直面します。その時、わたしたちは「だれでも求める者は与えられる」という恩恵の支配について動揺します。しかし、恩恵の支配は揺るがないのです。父の約束は変わることがありません。このような場合、わたしたちは、自分が求める「良い物」が、父がわたしたちにとって「良い」とされるものと違っているのではないかと考えるべきです。

 子供がケーキを欲しがるときにはいつでもケーキを与える親はいません。時には、子供がいやがる苦い薬を与えなければならない場合もあります。子にとって真に「良い物」が何であるかを知っているのは、子ではなく親です。わたしたちが人生の苦難において父に祈り求めるとき、父は「良い物」を与えて助けてくださいます。しかし、その「良い物」がしばしばわたしたちが欲する「良い物」と違うのです。では、父が与えてくださる「良い物」とは何でしょうか。それは個々の状況によって異なります。しかし、どのような状況でも必ず与えられる「良い物」、究極の「良い物」は聖霊です。神ご自身の霊です。神の命であり愛である神の霊です。この霊によって、わたしたちはいかなる状況においても見えざる父に信頼し、敵対する人をも愛し、希望をもって苦難に耐える力を与えられ、父との交わりにある至高の喜びを得るのです。

 このように、マタイによって伝えられた「良い物」という(語録資料の)イエスの言葉の内容が、ルカによって「聖霊」を指すと明示され、イエスを信じる者に聖霊が与えられることが「父の約束」とされるに至ります(ルカ二四・四九、使徒一・四)。こうして、マタイ(七・七〜一一)の「求めなさい。そうすれば、与えられる」の語録は、ルカの解釈によって福音の基本的内容を告げる言葉となります。すなわち、イエス・キリストを信じて神に求める者はだれでも、まったく資格を問われず、無条件・無代価で神の御霊を与えられ、その御霊によって信仰と愛と希望という形に発現する新しい命、永遠の生命に生きるようになるのです。

黄金律

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。

(七・一二)

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という原則は、人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として、「黄金律」と呼ばれています。「黄金律」は古代インド思想にも、中国の儒教にも、古代ギリシャ文学にも出てきており、人類の知恵と言ってもよい世界的な広がりをもっています。ただ、新約聖書以外では圧倒的に、「人からされたくないことを、人にするな」という否定の形で述べたものが多いようです。

 新約聖書の直接の源流となったユダヤ教では、ヘレニズム時代のユダヤ教文献にはじめて黄金律が出てきます(七十人訳シラ書三一・一五、トビト書四・一五、アリステアスの手紙二〇七など)。これは、「自分自身のように」隣人を愛することを求めたモーセ律法(レビ一九・一八)がギリシャの知恵と合流して形成された結果でしょう。イエスの少し前の律法学者ヒレルは、一人の異邦人が片足で立っている間に全トーラーを教えるように頼んだとき、「お前にとって痛みとなるようなことは他人にしてはならない。これが律法の全体である。他はみなその解説である」と答えたという有名な言い伝えがあります。このように否定形で語られている黄金律をイエスが肯定形で語られたのは、父の慈愛に促されて愛を実践するように求めた文脈の中で用いられたからであり(ルカ六・三一)、意味深いことです。

 ここで問題になるのは、マタイ福音書において黄金律がこの位置に、このような形で置かれていることの意味です。黄金律はもともと「語録資料Q」では愛敵の教えの中に組み込まれていたと見られます(ルカ六・三一)。それをマタイがこの位置にもってきて、「これこそ律法と預言者である」という言葉を付け加えて、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(五・一七)という前置きと対応させて、主要部の締めくくりの言葉としたのです。

 まず、黄金律は「だから」という言葉で導入されていますが、この「だから」は先行するどの箇所、あるいはどの内容を指して用いられているのでしょうか。直前の「人を裁くな。求めるなら与えられる」という箇所には、意味がうまくつながりません。そうすると、締め括ろうとしている部分全体を指していると理解しなければならなくなります。五章二一節以下で説かれてきたことは、すべて律法を完成する生き方であるから、それを行うことが律法と預言者の要約である黄金律を満たすことになる、という意味で「だから」という語で黄金律が導入されていると理解することになります。

 そうすると、さらに難しい問題に直面することになります。イエスは敵をも愛する質の愛を説いておられます。ところが、黄金律は、イエスでなくても世界のいたるところで説かれたきわめて形式的・抽象的な行動原理です。そのような形式的原理は、イエスの説かれる恩恵の場における愛の生き方の要約としてふさわしいものであろうか、という疑問です。黄金律を実行すれば、それでイエスの求めておられる生き方になるのでしょうか。それはユダヤ教のレヴェル、あるいは一般的な倫理の次元に留まるのではないでしょうか。黄金律はむしろ「自分によくしてくれる者によくする」という相対の原理に基づくものではないでしょうか。黄金律を形式的原理とする限り、この疑問を解決することは困難です。

 マタイは「律法と預言者」を要約し成就するという思想を三箇所で述べています。すでに触れた五章一七節とここの七章一二節、それに二二章四〇節です。三番目の箇所では、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と並んで、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めをあげ、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と要約しています。このような並行関係からすると、マタイにおいては黄金律は無内容な形式原理ではなく、第一の戒め(シェマ)と一体となっている「隣人を自分のように愛する」という律法の変形として扱われていることが分かります。このように理解するとき、黄金律を実行することは律法と預言者を完成することだするマタイの主張は正当なものになります。そして、(先に本講解で触れたように)「自分のように」を「自分に対するときのように無条件で」と理解すれば、「隣人を自分のように愛する」ことは、父の無条件・絶対の慈愛をもって隣人を愛することになり、マタイが主要部、とくに対立命題(五・二一〜四八)で求めたことの成就となるのです。


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