マタイによるメシア・イエスの物語 

第5章 弟 子 の 派 遣

     ー マタイ福音書 一〇章 ー





はじめに

 第二ブロックの物語部分(八〜九章)で、民をいやしながらガリラヤを巡回して「御国の福音」を宣べ伝えられるイエスの働きを物語ったところで、その中に弟子たちがイエスに従うように召された物語も織り込まれていました。その弟子たちが、イエスに代わってイエスの働きを進めるために派遣されることになります。そのさいに弟子たちに与えられた訓戒が一〇章にまとめられています(厳密には一一章一節も含む)。それが「派遣説教」です。

 「派遣説教」は「十二人」の弟子を派遣するさいの訓戒という形をとっていますが、イエスが弟子を派遣するにさしいして実際に与えられた訓戒を伝えている部分(一〇・五〜一五)と、マタイが様々な機会に語られたイエスの語録をまとめて、福音の宣教に乗り出そうとしている自分の共同体への訓戒を構成している部分(一〇・一六〜四二)とがあります。この区分はそれほど厳密ではありませんが、二つの部分の背景になっている状況は、イエスの時代とマタイの時代の、違った状況が透けて見えています。


収穫は多い

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。(九・三五〜三八)

 マタイは、イエスがガリラヤでなされた働きを、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(九・三五)という、ガリラヤ宣教活動のはじめに用いた(四・二三)のと同じ表現で締め括ります。そして、その活動の中で「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(九・三六)イエスが、同じ癒しの働きをさらに広い範囲に及ぼすために弟子を派遣される記事が続きます。こうして、この段落は先行する部分(八〜九章)とこれから語ろうとする部分(一〇章)を結びつけています。

 弟子の派遣は、民に対するイエスの憐れみ(それはイエスを通して示される神の憐れみ)の表現であるだけではなく、迫っている神の国にその民を召集するという終末的な意義をもつ出来事でもあるのです。そのことが「収穫」という終末を象徴する聖書的用語で語られます(九・三七〜三八)。マタイが「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエスの言葉を伝えるとき、これから宣教に乗り出そうとしている諸民族の大きな世界を前にして、マタイは働き手である自分たちの群の小さい姿を実感していたのかもしれません。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う」祈りは、マタイの集会の祈りであり、また世々のキリストの民の祈りでもあります。そして、この祈りに一身を捧げた多くのイエスの弟子たちによって、福音は全世界に宣べ伝えられたのでした。


十二使徒の派遣

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。(一〇・一〜一五)

 こうしてイエスは「十二人」の弟子を派遣されます。この「十二人」は後に「使徒」と呼ばれる特別の地位を占めるようになり、マタイもこの名称を遡ってここで用いていますが(一〇・二)、ここでは宣教に派遣される弟子の原型として登場します。

 「十二人」については「マルコ福音書講解 17」で一応解説していますのでここでは省略します。ただ、マタイ福音書だけペトロに「第一に」という序列がつき(一六章一七〜一九節参照)、マタイに「徴税人」という職業名がついていることを付記しておきます。

 この「十二人」の派遣の記事(一〇・一〜一五)は、その内容からして、イエスが地上におられたときの弟子たちの活動と、死の直後の弟子たちのガリラヤでの宣教活動(いわゆるQ宗団)の姿を色濃く反映している見ることができます。その特色を数点あげておきます。
 
 まず第一に、弟子たちの活動は、悪霊を追い出し病人を癒すというカリスマ的な働きが前面に出ています。イエスは弟子を派遣するにあたり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」に「汚れた霊に対する権能をお授けにな」り(一〇・一)、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます(一〇・八)。これはまさにイエスがなしておられたことであり、弟子たちはイエスの名によって(イエスからの使者として)同じことをするように派遣されるのです。
 
 第二に、宣べ伝えるべき使信については、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とだけ言われています(一〇・七)。イエスが派遣にさいして弟子たちに授けた権能については、汚れた霊に対する権能だけが言及されていて(一〇・一)、イエスの教えを伝えることについては触れられていないことが目立ちます。マタイは後にイエスの教えを「山上の説教」としてまとめ、その教えを守ることを復活の主の命令としている(二八・一八〜二〇)ことを考えると、イエスの時代とその直後では、弟子たちの宣教は、洗礼者ヨハネと同じく、終末審判の切迫の使信であったという対照が目立ちます。イエスの福音は「恩恵の支配」の告知であるという点で洗礼者ヨハネとは違う面が出てきますが、同時に洗礼者ヨハネの継承者として終末審判の切迫を告知するという面も最後まで貫かれていたと見られます。弟子たちの使信が終末審判の切迫であったことは、この使者と使信を受け入れない者たちに対して「裁きの日にはこの町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」(一〇・一五)と語られていることからもうかがうことができます。弟子たちはイエスと共に「神の支配(審判)が迫っている」と宣べ伝え、イエスの死と復活の後ではそれを「人の子」の来臨という形で宣べ伝えたのです。
 
 第三に、終末の切迫から、それを告知する使者の働きも急を要することになります。使者は一カ所に留まることなく、次から次へと町や村を急いで回らなければなりません。そのために、旅の準備が十分できたら出発しようというのではなく、何も持たないでも行動できる身軽さが求められます。そこで「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と命じられ、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」から、行き先で父が備えてくださるものだけを当てにして、先を急ぐように求められます(一〇・九〜一〇)。とどまるべき家に関する指示(一〇・一一〜一三)も、巡回する伝道者と定住する信徒とで構成された最初期の宣教運動の姿をうかがわせます。
 
 第四に、弟子たちの働きはイスラエルに限定されています。イエスは派遣する弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じておられます(一〇・五〜六)。復活のイエスは弟子たちを「すべての民」(異邦の諸民族)に派遣されますが(二八・一九)、地上のイエスは弟子たちをイスラエルだけに派遣されるのです。それは、イエス御自身がイスラエルを悔い改めに導くことを使命としておられたからです(一五・二四参照)。地上のイエスがイスラエルだけを視野に入れておられたことは、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言っておられることからもうかがわれます(一〇・二三)。
 
 福音書執筆の時点で、マタイはユダヤ人会堂とは決裂して、これからは異邦人に福音を宣べ伝えていかなければならいと決意し、それを復活の主の命令として表現しています(二八・一九)。それにもかかわらず、宣教をイスラエル(ユダヤ人)だけに限るようなイエスの命令を保存して伝えているのは、イエス伝承(とくに自分たちのルーツである語録伝承)に対するマタイの忠実な態度によります。そのおかげで、わたしたちが福音書という宣教文書を透過して地上のイエスの実像に近づくことができるのです。
 
 十二人を派遣されるにさいしての説教(一〇・五〜一五)は、地上のイエスの実像(いわゆる「史的イエス」)を追求する上で重要です。イエスはここでご自分がしておられることを弟子たちに求めておられると考えられるからです。ここに描かれている弟子の姿は、まさに師イエスの姿でもあるのです。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(一〇・二四〜二五)という格言は、この事実を指す意味にも理解できます。この観点から見ると、もともとイエスとその弟子たちの運動は、ガリラヤのユダヤ人社会における、終末の切迫と悔い改めを訴える巡回のカリスマ的預言者運動であったと言えます(洗礼者ヨハネの運動との対比については後述)。

 「語録資料Q」の類型について(したがってそれを生み出した初期の宣教運動の性格について)、それが「賢者の言葉」であるのか、預言の言葉であるのか、論争があります。ここでその議論に立ち入ることはできませんが、この「派遣の説教」はイエスとその弟子たちの運動の性格を理解する上で重要な根拠であることを指摘しておきたいと思います。


迫害される弟子

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」。
 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。(一〇・一六〜二五)

 このように「語録資料Q」の伝承に忠実に、地上のイエスが「十二人」の弟子たちを宣教に派遣されるさいの状況を再現したマタイは、その「十二人」を原型として、今宣教に出ていこうとしている自分たちに対する主の説教を、「語録資料Q」やマルコ福音書の終末預言や独自資料を駆使して構成します(一〇・一六〜四二)。マタイはそれらの資料の中に、今自分たちを宣教に送り出される主の声を聴いて、それをまとめているのです。その部分は「見よ、わたし(強調)はあなたがたを遣わす」(一六節)という荘重な宣言で始まります。
 
 派遣される弟子に第一に求められるのは、迫害に対する覚悟です(一〇・一六〜二五)。イエスが弟子たちを世界に派遣されるのは、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」であるから、派遣される弟子は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と勧告されます。派遣する主に対して、また使命に対しては鳩のように素直でありながら、この世の策略からくる試練や誘惑に対しては、蛇のように賢明かつ機敏に対処しなさいという意味でしょう。この世はけっしてあなたがたの使信を素直に受け入れないで、敵意をもって対するのだから、「人々を警戒しなさい」と警告されます。
 
 ここでマタイは、この世からの迫害が「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」というユダヤ教内部での迫害だけでなく、「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」と言って、異邦の諸民族の中での迫害も視野に入れています(一〇・一七〜一八)。このことは、マタイがもはや、その働きの対象がイスラエルに限定されていたイエスの時代ではなく、異邦の諸民族に福音を宣べ伝えるべく遣わされている自分たちの時代の視点で書いていることを示しています。
 
 この段落(一〇・一六〜二三)は、マルコ福音書の「小黙示録」の一部(マルコ一三・九〜一三)をそのまま引用し、前後にマタイ独自の語録(一六節と二三節)をつけて構成されています。この事実はマタイが、マルコと同じく、自分たちの宣教活動を終末時の苦難を担うものと意義づけていることを示しています(その意義については「マルコ福音書講解 73」を参照)。
 
 神の終末審判が行われる前に、悔い改めの告知が全世界に宣べ伝えられ、神の恵みの証がすべての民の前に立てられなければならないのです。イエスの弟子たちが迫害されて法廷に立たされるのは、その証のためです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(一九〜二〇節)。イエスの名のゆえに苦難を受ける場こそ、神の霊がもっとも力強く働くのです。迫害の場は、神が世界に証を立てられる場であり、弟子はその聖霊の器となるのです。
 
 また、終末時に世界を襲う災害や患難の中で、とくに自然の人間関係の崩壊が迫害との関連で取り上げられ、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで(すなわち、死に至るまで)耐え忍ぶ者は救われる」(二一〜二二節)と言われます。
 
 最後の「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」(二三節)という言葉は、わたしたちを再び地上のイエスが「十二人」を派遣される状況に引き戻します。前述のように、地上のイエスはイスラエルだけを視野にいれておられたので、神の支配の到来が切迫していることを「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに人の子は来る」と表現されたわけです。マタイはこの語録をここに置くことで、五節から始まる「十二人」への派遣説教をここまで続かせいることになります。しかし同時に、マルコ福音書の終末預言をそのまま引用することによって、異邦諸民族に福音が伝えられている復活以後のマルコやマタイの状況に身を置いて書いています。ここにも福音書の二重性が露呈しています。すなわち、地上のイエスを語る伝承を用いて復活者キリストの福音を告知するという二重性です(福音書の二重性については「マルコ福音書講解 92」を参照)。
 
 おそらくマタイは、自分たちの状況はイエスの時代と違ってきていることを十分自覚していたと考えられます。それでもなお、現状と矛盾するような言葉もあえて伝えているのは、イエスの弟子として師の精神を継承することがもっとも重要だとして、師の姿をできるだけ忠実に伝えようとしたからだと考えられます。そのことをマタイは、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(一〇・二四〜二五a)という語録で表現します。この言葉に、イエスに対するマタイの思いが凝縮しているように、わたしは感じます。
 
 この語録は、ルカ福音書(六・四〇)では、弟子は師に習い、師を目標として修業すべきであるという意味で用いられており、ヨハネ福音書(一三・一六〜一七)でも同じ意味で出てきます。ところが、マタイはこの語録を、師が迫害されたのだから弟子も迫害を覚悟すべきであるという意味で用います。その意味で用いられていることは、すぐ後に「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」(一〇・二五b)という言葉が続いていることから明かです。ヨハネ福音書にもこの意味で用いている箇所(一五・二〇)があります。
 
 マタイはイエスが十字架につけられて殺された事実を知っています。このイエスの弟子として生きる者は、師と同じ最後をも覚悟すべきことを暗に求めているのです。その上で、「恐れるな」という次の段落が続くのです。


恐れず言い表せ

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
 体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。(一〇・二六〜三一)

 それで、続く「人々を恐れてはならない」と説き勧める段落(一〇・二六〜三一)の中心は、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(二八節)という言葉にあります。
 
 ここで「体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども」というのはイエスの弟子を迫害する人間たちを指すことは明かですが、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる者」とは、新共同訳もそうしているように、神を指すと理解するのが順当でしょう。後に続く言葉(二九〜三一節)もそう理解するように促しています。二羽一アサリオン(現在の生活実感では五百円硬貨一枚くらい)で売られている雀さえ、神の許しがなければその一羽が地に落ちる(死ぬ)こともないのだから、たくさんの雀よりはるかにまさっているあなたがたの生死は、「あなたがたの父」がどれほど深い関心をもって見守っておられることであろうか。あなたがたの父は「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数える」ほどすべてを知っておられるのだから、その方に自分の生死を委ねるように、と説き勧めます。

 「地獄」《ゲヘナ》については、「マルコ福音書講解 52」の九章四三〜四八節の講解を参照してください。

 ところで、この「恐れるな」という言葉(二八〜三一節)は、「明るみで言いなさい」という言葉(二六〜二七節)と「人々の前でわたしを言い表しなさい」という言葉(三二〜三三節)で前後を囲まれています。すなわち、この一段(二六〜三三節)は、派遣される弟子たちに「恐れずに言い表せ」と説いているのです。「言い表す」ことこそ、弟子の使命であるのです。

 新共同訳は三二〜三三節を別の段落に区切っていますが、二六〜三三節は一つの主題を扱う一つの段落と見るべきでしょう。NTDや岩波版佐藤訳もそうしています。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(二六節)という言葉は、マルコでは現在隠された形で到来している「神の国」はかならず顕わな現実になるという終末論的な文脈で用いられています(「マルコ福音書講解」の四章の講解を参照)。もともとイエスがこの《マーシャール》(比喩、謎、格言)を用いられたのはこの意味であったと考えられますが、マタイはそれをまったく違った文脈で用います。すなわち、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(二七節)という、隠れたところで秘かにイエスから弟子に伝えられた「神の国」の奥義を人々の前で公に宣べ伝えよという宣教命令の前置きとして用いています。なお、ルカ(一二・一〜二)はこの二つの言葉を、偽善を戒めるというまた違った文脈、違った意味で用いています。こうして死をも恐れることなく言い表すことを求められているのは、イエスを言い表すことです。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。(一〇・三二〜三三)

 新共同訳は「認める、告白する、言い表す」《ホモロゲオー》という動詞を「自分をその仲間であると言い表す」と説明的に訳し、「拒む」という動詞も「知らないと言う」と解説的に訳しています。「わたしも言い表す」と「わたしも知らないと言う」は未来形で、終末審判が語られています。「だれでも人々の前で言い表す者」は直接法(事実を語る形)の動詞であるのに対して、「知らないと言う者」は接続法の形(事実でないことを仮定して語る形)になっています。マタイは、イエスを拒むようなことはないはずだが、もし拒むようなことがあれば、という気持ちで書いたのでしょう。なお、マタイでは「わたしも言い表す」となっていますが、マルコとルカの並行箇所では「人の子も言い表す」となっており、これが元の形であると考えられます。二三節の「人の子は来る」も含め、マタイにおける「人の子」の扱い方については、別の機会にまとめて取り扱う予定です。

 迫害され命を脅かされるような状況で、死をも恐れずイエスを告白する者はイエスと共に神の国に受け入れられ永遠のいのちに至り、迫害に屈してイエスを拒む者は父と共におられるイエスから拒まれて神の国に入ることができないと、励ましと警告が与えられているのです。
 
 地上のイエスが十二人を派遣されたときは、「神の支配が迫っている」という告知を信じるかどうかが問われていました。ところが、ここではイエスを受け入れるかどうかだけが問われています。また、地上のイエスによる派遣の場合には、使信の拒否はあっても使者に対する迫害は言及されていませんでした。ところが、ここではイエスを告白する者に対する命を脅かすような迫害が前提されています。状況がすっかり変わっていることがうかがわれます。マタイが福音書を書いたときには、まさにイエスを受け入れるか拒むかという一点が、命がけで争われていたのでした。
 
 ここではまだイエスを認めるか否認するかだけが問題になっています。イエスをどのような方として告白するのかということは問題になっていません。実はそれが最大の問題なのですが、マタイの物語ではその問題は一六章になってはじめて取り上げられるので、ここではまだイエスを認めるかどうかという形で物語られることになります。


平和でなく剣を

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
  人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
  こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。

(一〇・三四〜三九)

 イエスを告白する者と否認する者は、終わりの日に神の前で峻別されるだけでなく、地上でも激しく対立し敵対せざるをえません。その敵対関係をイエスは「剣」という象徴で語られます。
 
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。(一〇・三四)。
 
 マタイはこの「わたしは敵対させるために来たのである」という言葉に、預言者ミカ(七・六)の「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。(こうして、)自分の家族の者が敵となる」という言葉を続けて、イエスが来られたことによって起こる対立が家族の絆をも超えるものであることを語る文を構成します(一〇・三五〜三六)。
 
 イエスに所属する者とイエスを拒む者は一緒に歩むことはできないのです。それは、イエスを告白するか否認するかが神の前に人を二分することの当然の結果です。神との関わりはあらゆる人間関係に優先するからです。イエスが普通の人間であるならば、これほどの僭越・傲慢はありません。イエスを一人の人間としか見ないユダヤ人たちは、このような主張をするイエスを憎み、ついには殺しました。この言葉は、イエスとはいったい誰かという問いを突きつけているのです。
 
 親子の情愛は人間を結びつけるもっとも強い絆です。しかし、イエスとの結びつきはそれよりも優先されなければならないのです。ここ(一〇・三二〜三三)で主張されているように、イエスとの結びつきが神との関わりを決定するのであれば、それはいかなる人間関係よりも優先されなければなりません。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(一〇・三七)と言われるのは当然になります。
 
 この要求は多くの場合、家族の絆を破壊するものとして、福音に対する激しい反発を招きました。しかし、宣教の場では、古い伝統的宗教の中に生きている家族から反対されたからといってイエスへの告白を放棄するようでは、信仰は成り立ちません。福音がこの要求をもっていなければ、福音が世界に広がることはありえなかったのです。家族が生きる伝統的な宗教の中で窒息し立ち枯れてしまわざるをえません。福音が世界のすべての人に、すなわち、どの宗教の人にも神のいのちを与える使信であるかぎり、福音は伝統宗教の世界に投じられた「剣」である他はないのです。
 
 最近の日本では、カルト的な宗教が青年を家族から引き離して隔離された世界へ引き込むことが多く、信仰と家族の関係が社会問題になっています。このような場合と、福音書の「自分の家族の者が敵となる」という言葉はどう違うのでしょうか。
 
 たしかに家族の絆よりも信仰を優先させる点では同じです。しかし、その信仰の質が違います。カルト的宗教では、信徒を家族から引き離して閉鎖された教団に閉じ込めます。教団は教祖や特殊な儀礼を絶対化しているので社会から隔離されており、その中に閉じ込められた信徒は家族からも社会からも隔離される結果になります。それに対して、福音は信じる者を血縁や伝統宗教の拘束から解放し、開かれた人間関係へと導き入れるのです。「開かれた人間関係」とは、人と人との結びつきがもはや特定の宗教・慣習とか国家・民族とか部族・氏族のような血縁というような枠の中に閉ざされないで、人間同士であるからというだけの根拠で形成される関係です。父の無条件の慈愛に基づく福音は、人を人として無条件に愛する力であるからです。福音が家族に投じられた「剣」であるのは、一人一人をこのような「開かれた人間関係」へと解き放つためです。
 
 したがって、この剣で解き放たれた個人は、家族や社会から隔離されるのではなく、別の原理で人間関係を形成すべく家族や社会の中に帰ってきます。家族や社会がその個人を受け入れる限り、家族や社会は新しい人間関係形成の原理を受け入れることになります。もしその家族や社会が伝統的な枠に固執して「開かれた人間関係」を拒否するならば、迫害が起こらざるをえませんが、それによって生じる苦しみは、この「開かれた人間関係」を生み出すための産みの苦しみとなるのです。
 
 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったペトロに、イエスはこう言っておられます。「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・二九〜三〇)。来るべき世で永遠の命を受け継ぐだけでなく、この世でも捨てた家族を百倍にされて受けることになるというのです。このお言葉は、ここで述べたように、いったん捨てた家族も社会も、「開かれた人間関係」という新しい原理で、以前にもまして豊かに受け取ることを指していると理解できます。
 
 しかし、宣教の最前線では迫害は避けられません。福音が剣として世を切り分けている場では、イエスを告白する者たちは、その対立から生じる軋轢の中で、苦しみを受ける側にならざるをえません。現実の勢力関係からではなく、原理上そうならざるをえないのです。イエスの弟子はイエスの無抵抗愛敵の原理に立つのに対して、イエスを否認するこの世は力による支配の原理に立っているからです。イエスは弟子たちに、御自身が歩まれた苦難の道を歩む覚悟を求められます。
 
 「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(一〇・三八〜三九)。
 
 マタイとその集会は、そして、世々のキリスト者は、イエスの弟子として師イエスが苦難の道を歩み、十字架の死をとげられたことを知っています。「弟子は師にまさるものではない」のです。「弟子は師のようになれば十分である」のです。イエスが十字架の死を通って復活の命に達しられたように、弟子も自分の十字架を担い、イエスの告白のために命を失うことを通して永遠の命に達するのです。これは、自己否定を通して真の生命に達するという宗教的真理の表現であるだけでなく、マタイの状況では文字通りの意味で語られていた言葉であることを見落としてはなりません。


イエスを受け入れる者

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。

(一〇・四〇〜四二)

 イエスは弟子たちを派遣するにあたって、最後に使者としての資格を確認されます。使者は派遣する者の名代です。すなわち、弟子たちはイエスの名代として、イエスを代理しているのです。それで、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる」ことになるのです。そして、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と続きます(一〇・四〇)。これはたいへんな宣言です。マタイは、イエスこそ神から遣わされた方であるから、イエスを受け入れることは神を受け入れること、イエスを拒むことは神を拒むことであると宣言しているのです。

 イエスが神から遣わされた方として地上に来られた今は、自分の人生に神を受け入れるのは、特定の宗教に入って特定の儀礼にあずかったり、深い知恵を獲得したり、高い道徳水準に達することによるのではなく、イエスを受け入れ、イエスと共に歩むことによるのです。そして、イエスを受け入れるのは、イエスが遣わされた使者を受け入れることでなされます。弟子の派遣は、神・イエス・使者・世界という派遣の系列を顕わにする出来事であり、派遣説教はそれが世界が神に連なるようになるための神の行為であることを明らかにしています。イエスの使者である「使徒」が(使者も使徒もギリシャ語では《アポストロス》)、信仰の成立にとってどのような位置を占めるのかがここで語られているのです。わたしたちは、イエスの使者である使徒たちの証言(それが新約聖書)によってイエスを受け入れ、イエスを受け入れることで神を受け入れているのです。
 
 イエスの使者を受け入れる者が受ける報いについて、次のように語られます。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(一〇・四一〜四二)。
 
 預言者と正しい者についての文はマタイ独自のもので、おそらくイエスの弟子を受け入れる者が受ける報いを説明するために、マタイが付け加えたものでしょう。「預言者と同じ報い」とか「正しい者と同じ報い」と繰り返されているのは、イエスの弟子を受け入れる者は「イエスの弟子と同じ報いを受ける」ことを言うためです。信じる者は使徒たちに賜っているのと同じ霊的現実に入っていけるのです。


三層の重なり

 マタイは「派遣説教」を「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」(一一・一)という文で結びます。指図は与えられましたが、弟子たちは宣教に出かけていません。イエスが方々の町で宣教されたと語られるだけです。これは「派遣説教」が特定の出来事を描くものではなく、宣教に派遣される者の心構え一般を説く「語録集」であることを示しています。

 この語録集には、ここで見てきたように、二つの層が重なっています。すなわち、イエスの時代の出来事を語る層と、マタイの時代の状況で語る層です。この二つの層の間には五十年ほどの歴史が横たわっており、二つの時代の状況はかなり違ってきています。しかし、マタイは、「弟子は師のようになれば、それで十分である」として、イエスだけを自分たちの従うべき原型とし、現在の状況の中でイエスだけに語らせようとします。五十年の歴史は透明になって、二つの層は重なり合います。違った状況から生じる相違はそのままに、その重なりからイエスとその弟子の姿が浮かび上がります。
 
 マタイとわたしたちの間には二千年に近いキリスト教の歴史が横たわり、状況もおおいに違ってきています。しかし、わたしたちもマタイがしたように、この二つの層の重なりである福音書にわたしたちの現在を重ね、その間に横たわる歴史を透過して、三層の重なりの中に師イエスの姿を見、弟子であるわたしたちの在り方を追求すべきです。三層を重ねるとは、三枚の透明のシートを重ねるようにすることですが、それぞれの時代の状況の違いから、三枚の画像ははみ出す部分が出てきます。しかし、重なる部分は本質的な姿を浮かび上がらせます。
 
 三枚の画像の重なる姿とは、宣教の最前線におけるイエスの弟子の姿です。そして、この最前線においてこそ福音の本質がもっとも濃厚かつ明瞭に現れてくるのです。わたしは若い頃、農学を専攻する信仰の友から「周縁効果」という譬を聞いたことを忘れることができません。溶液を濾紙に落とすと、溶液は円形に拡散していきますが、その周縁において濃度が高く活発であり、中心部は希薄になるということです。福音においても、迫害と戦う宣教の最前線において福音の質がもっとも明瞭に現れていると言えます。その意味で「派遣説教」は、「山上の説教」とは違う視点からですが、福音の本質を指し示す重要な語録集であると言えます。
 

 

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