マタイによるメシア・イエスの物語 

  終章 マタイ福音書の位置

     





はじめに

  誕生物語から始まるマタイの「メシア・イエスの物語」を読み進めて、その物語のクライマックスをなす十字架の死、埋葬、復活の最終場面まで来ました。終わりまで読み終えて、最後にこの物語全体のもつ意義を考察して、それをもって「マタイ福音書」講解の終章とします。
  

  

  T 物語としてのマタイ福音書


聖書の最終章

 序章で見たように、マタイの集会はもともと「語録福音書Q」を生み出した流れの中に立つユダヤ人キリスト者の集会でした。そのマタイが、物語福音書であるマルコ福音書を受け入れ、マルコ福音書を枠組みとして用いて新しい福音書を書いたのは、異邦人伝道に乗り出さざるをえない状況に促されたからでしたが、それ以上にラビ(ユダヤ教律法学者)あるいはラビ的素養のある学者としての著者マタイの体質から来る面が強いと考えられます。  旧約聖書の本体は物語にあります。天地創造から始まり、父祖たちの選び、エジプトからの救出、王国の成立と崩壊に至る壮大な歴史物語が旧約聖書の本体を構成し、その中に祭儀や法律、詩歌や知恵書が組み込まれています。聖書は、イスラエルの民の中に起こった出来事を物語るという形で、神の救済の働きやその意志の啓示を伝えるのです。
 
 マタイ福音書は新約聖書の諸書の中で、旧約聖書の体質をもっとも強く保持している文書の一つであると思います。著者マタイは、旧約聖書がしてきたことをしようとしているのです。すなわち、イスラエルの中に起こった出来事を物語ることによって、神の救済の働きと神の意志を宣言しようとするのです。その「イスラエルの中に起こった出来事」とは、イエスの出現、働き、十字架の死と復活の出来事に他なりません。しかもマタイはこのイエスの出来事を、神が終わりの日にイスラエルに送られると約束しておられたメシアの出来事として物語るのです。この福音書では、イエスの出来事はすべて、「(聖書に)書かれていることが成就するためである」という句で意義づけられます。マタイはこのメシアとしてのイエスの物語を聖書の最終章として書き加えるのです。
 
 マタイが自分のイエス物語を聖書の物語の延長上に置き、その最終章を書いていると自覚していたことは、最初の系図の部分(一・一〜一七)にすでによく現れています。マタイがその著作の冒頭に、アブラハムからダビデを経てイエスに至る系図を掲げたとき、彼は系図の一人ひとりの名が担っているイスラエルの歴史と彼らにかかわる聖書の物語を思い浮かべていたことでしょう。そして最後に「メシアと呼ばれるイエス」の名をあげ、「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからメシアまでが十四代である」と書いて、イエスこそイスラエルの歴史の中で約束されていたメシアであり、時満ちて現れてイスラエルの歴史を完成する方であると宣言します。その上で、誕生から十字架上の死と復活に至るイエスの出来事を物語るのです。マタイはイエス物語を「メシア・イエスの物語」として書くのです。

 マタイはイエスを信じるユダヤ人の共同体に向かってこの福音書を書いています。彼自身もその共同体もギリシア語を話すユダヤ人であるので、彼はギリシア語でその福音書を書いています。その中で用いられているギリシア語《クリストス》は、旧約聖書の「メシア」の訳語であって、内容は旧約聖書での用例から理解しなければなりません。それで、この系図と誕生の次第に四回(一章一、一六、一七、一八節)用いられている《クリストス》は、メシアとしてのイエスの称号として用いられているのですから、旧約聖書の用語である「メシア」という語で読む方が、マタイの言おうとしていることを正確に理解できると考えられます。最新の標準的な英訳聖書NRSVも四箇所すべてを「メシア」と読み、一章一節と一八節では「メシア・イエス」と呼んでいます。「キリスト」という日本語は内容が拡大していますから、この場合に用いるとマタイの意図が曖昧になる恐れがあります。なお、一六章一六節の《クリストス》の訳語の問題については、その箇所の講解を参照してください。

語録福音書の組み入れ

 マタイは、このイエスの出来事を物語るにさいして、先に書かれてすでに流布している物語福音書のマルコ福音書を枠組みとして用います。しかし、そのまま用いるのではなく、自分の立場から必要と考えられる変更を加えて用います。いわば、マタイはマルコ福音書の改訂版を出すのです。そのさい、はじめにイエスの誕生物語を置き、最後に復活されたイエスの顕現物語を置いて、イエス物語をさらに完全な形に整えます。
 
 しかし、マタイがマルコに加えた変更の最大のものは、自分たちがこれまで奉じてきた「イエスの語録」を組み入れたことです。序章で見たように、そして講解全体の中で確認したように、マタイの共同体はもともと「語録福音書Q」を奉じるユダヤ人信徒の群れであったと見られ、その体質を色濃く残しています。それで、当然のことながら、マタイはマルコを用いてイエス物語を書くにあたって、自分たちが保持してきた「語録福音書Q」にあるイエスの語録を組み込んでいきます。それは、旧約聖書がイスラエルの歴史物語の中に祭儀や法律を組み込んでいったのと同じです。
 
 聖書学者マタイは、「語録福音書Q」の個々の語録を自分の構想に従って新しく組み合わせ、さらに自分の聖書知識を縦横に活用して付け加え、マタイ独自の形に編集します。彼の編集の跡は、「山上の説教」にもっともよく表れています。とくにその冒頭の「幸いの言葉」は、その講解のさいに詳しく見たように、マタイの編集の手法をよく示しており、マタイの信仰上の立場を明らかに見せています。
 
 マタイはイエスの語録を物語の中に組み込むにあたって、それを五つのグループにまとめて、物語の中に配置しました。その結果、イエスの働きを物語る部分とイエスの説話をまとめた部分が交互に配置され、物語と説話の組み合わせが五組できて、誕生物語と受難物語の間に置かれる、という形で全体が構成されることになりました。説話集によって分けられた五つの物語部分も、それぞれの主題をもって緊密に結ばれた内容になっています。このように物語全体を壮大な構成にまとめるマタイの構想力は、驚嘆すべきものがあります。この講解も、この構成に従って章分けして進めてきました。マタイ福音書の構成と区分の仕方については、様々な理論が提案されていますが、この五つの説話集の配置に従うのがもっとも素直な区分法になると考えます。
 
 マタイがマルコの物語にイエスの語録を組み入れて新しい福音書を書いたことの意義はきわめて大きいものがあります。まずその貢献は、マルコにはない貴重なイエスの言葉が伝えられたことからも明かです。「貧しい者は幸いだ」とか「敵を愛しなさい」というようなイエスの言葉や「主の祈り」がないキリスト教は考えられません。マルコではなくマタイが教会の第一の福音書として正典(新約聖書)の冒頭に置かれて尊重されたのも理由があります。
 
 しかし、マタイの貢献は、マルコにないものを補ったことだけではなく、イエスの語録を福音の場に置いたことにあります。これは序章で強調したことですが、全体を読み終えて改めてその意義の重要性を感じています。イエスの語録は、それが「語録福音書Q」の中に止まっている限り、その言葉に従って新しい生き方をするようにと呼びかける教師の呼びかけにすぎません。ところが、それがマルコ福音書という物語福音書の枠の中に組み入れられることによって、福音の場に置かれることになったのです。マルコ福音書は、(これも序章で見たように、また『マルコ福音書講解』で詳しく論じたように)復活者キリストであるイエスがわたしたちのために死んでくださったという福音を告知する文書です。イエスの語録は、この福音の場に置かれることによって、明白に「恩恵の支配」を告知する言葉となり、神の恩恵の言葉としての響きを発するようになります。もちろん、イエスの言葉は本来恩恵の言葉ですが、それが「語録福音書Q」の中にとどまっている限り、倫理的要求とか生き方の知恵、あるいはユダヤ教黙示思想の表現として受け取られる傾向があります。ところが、その言葉がいったん十字架の福音の場に置かれると、明確に父の絶対無条件の恩恵を語る言葉としての響きを発するようになるのです。たとえば、「山上の説教」も福音の場で受け取られるとき、もはや倫理的要求とか知恵の教師が与える処世上の格言ではなく、絶対無条件の恩恵によってわたしたちを子として受け入れてくださる父の、溢れるような恩恵の言葉となるのです。このように、イエスの語録を福音の場に置いたことがマタイの最大の貢献である、とわたしは見ています。

マタイによるマルコの改訂

 「語録福音書Q」を組み入れただけでなく、その他の細かい点でもマタイはマルコを改訂しています。この講解では、マルコと共通の部分は『マルコ福音書講解』に委ね、マタイの特色を理解するために、マタイがマルコを変えている仕方に注目してきました。マタイは、イエスの教え(言葉)に重点を置くためか、マルコの奇跡物語の情景描写を短く簡単にする傾向があります。また、マルコが地上のイエスの出来事を物語ることによって復活者キリストを告知しようとする福音書の二重性を構成するために用いた「弟子たちの無理解」という動機はマタイにはなくて、マタイ福音書では弟子たちはイエスの教えと奥義をよく理解している者として描かれています。弟子たちは、現在のマタイの集会を構成する信徒たちの原型として描かれているからです。

 福音書の二重構造と弟子たちの無理解の動機については、拙著『マルコ福音書講解U』の92「マルコ福音書の二重構造」を参照してください。を参照してください。

 マタイがマルコを改訂する必要があると感じた最大の理由は、マルコが異邦人伝道の場で成立した福音書であるのに対して、マタイはユダヤ人信徒の共同体の中でユダヤ人のために書いているという環境の違いであろうと考えられます。著者マタイは、聖書に精通したユダヤ教律法学者(またはその素養のあるユダヤ人)として、たとえば十字架の日付の表現(二六・一七)や祭司の名前(一二・三)など、マルコに時々見られるユダヤ教に関する不正確な表現を訂正しています。このような視点からの変更でもっとも重要なものは、ユダヤ教律法に対する見方の変更です。
 
 マタイは、マルコ福音書に「語録福音書Q」を組み入れるにあたって、ユダヤ教律法に対する自分の立場を宣言します。それは、「山上の説教」の本体部分ともいうべき「対立命題」の前に置かれた導入部(五・一七〜二〇)でなされています。この部分はほとんどマタイの筆になるものですが、そこでマタイは、自分の立場をイエスの言葉で宣言しています。
 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。(五・一七)
 
 マタイ自身も、マタイがこの福音書によって語りかける読者も、ユダヤ教律法の永遠の有効性を露疑うことのないユダヤ人(ユダヤ教徒)です。そのようなユダヤ教徒の共同体に語りかけて、そのユダヤ教律法の場で「御国の福音」を確立するためには、ユダヤ教律法の有効性を否定することはできません。そのことは「山上の説教」で強調されていましたが、マルコの物語を継承するさいにも、この立場からマタイはマルコの物語を改訂していきます。
 
 弟子たちが手を洗わないで食事をしたことをファリサイ派の人たちが批判したとき、イエスは「すべて口から入るものは、腹を通って外に出されるだけである。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これが人を汚すのである」とお答えになっています。このイエスの答えを伝えるのは、マタイもマルコと同じですが、「イエスはこう言って、すべての食物を清いとされた」という、このお言葉に対するマルコの解説をマタイは削除して、代わりに「しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」と加えて結論としています。マルコの解説によれば、清い食物と汚れた食物を区別する「トーラー」(レビ記一一章)は廃棄されたことになります。おそらく「トーラー」の永遠の有効性に何の疑問ももたず、ユダヤ教食物規定を守っていたマタイのユダヤ人共同体にとっては受け入れがたい解説であるので、マタイはこれを削除して、手を洗うか洗わないかという実行細則「ハラカ」の問題にするのです(一五・一〜二〇)。
 
 安息日に関しても、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」というマルコにある革命的な語録をマタイは削除して、あくまで律法解釈の問題にしています(一二・一〜八)。
 
 また、断食に関する論争の場面で、マルコが「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と書いているところを、マタイは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができようか」(九・一五)と書き換えています。マルコではキリスト信徒の群れはユダヤ教徒のように断食はしなくなっていたことが論争の前提になっていますが、マタイはその共同体がユダヤ教の慣例に従ってなお断食を行っているという状況(六・一六〜一八参照)で書いているので、「断食する」という行動ではなく、「悲しむ」という心情の問題に変えて、断食しているという行動と両立できるようにしているのです。
 
 その他、たとえば大祭司による裁判の場面で、「お前は神の子、メシアなのか」という訊問に対して、マルコではイエスは《エゴー・エイミ》という神の自己宣言の定式をもって答えておられますが、マタイはその言葉を削除して、「それを言ったのは、あなたの方だ」という言葉にしています(二六・六四)。律法学者としてのマタイは、地上の人であるイエスがそのような神の宣言句を用いられたとすることはできなかったのでしょう。
 
 このような変更点をとらえて、マタイはマルコの福音を台なしにしたと論じる解釈者もいます。たしかに、ユダヤ教律法から自由な場で福音を提示しているマルコの立場から見ますと、マタイは後退しています。しかし、マタイは福音を台なしにしているとは、わたしは決して考えません。マタイはユダヤ教の場で、福音の根本原理である「恩恵の支配」をしっかりと確保し、告知しています。この講解全体、とくに「山上の説教」の講解で、わたしはこのことを強く印象づけられました。マルコは異邦人伝道の場で、イエスに現された「恩恵の支配」を宣べ伝えることができました。それに対してマタイは、ユダヤ教律法の順守を当然のこととしてしるユダヤ人信徒共同体に向かって、そして同じく律法に立って敵対するユダヤ教会堂に向かって書いているのです。その律法の場で、イエスに現された新しい神の支配の原理である「恩恵の支配」を確立するために戦っているのです。「トーラー」(ユダヤ教)という「古いもの」の中で、恩恵の支配という「新しいもの」を確立しようとして格闘しているのです。マタイがイエスの言葉として、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(一三・五二)という言葉を引用するとき、それは自分の仕事のことを言っているのだと、わたしには聞こえます。

 

  U マタイ福音書の位置

 

宣教の諸潮流

 初期の福音宣教はけっして一様ではありませんでした。イエスが世を去られた後に、弟子たちが行った宣教活動にはさまざまな流れがあり、それぞれの流れは独自の様相を見せています。ここでそのすべてを詳しく論じることはできませんが、マタイ福音書の位置を確認するために必要な最小限度のものに触れておきます。
 
 マルコ・マタイ系の伝承を総合すると、弟子たちはみなイエスが逮捕されたとき逃げ去っていて、処刑の現場には居合わせず、ガリラヤに戻って漁師の仕事に携わっていましたが、そこで復活されたイエスの顕現を体験して、宣教への召しを受けています。ルカによると、弟子たちはイエスの指示に従って、エルサレムを離れることなく、エルサレムまたはその近郊で復活されたイエスに出会い、集まって一緒に祈り続けたところ、ペンテコステの日に約束されていた聖霊を受けて、イエスを復活者キリストと宣べ伝え始めます。ヨハネはエルサレムでの顕現(二〇章)を伝えると同時に、ガリラヤでの(七人の弟子たちへの)顕現も伝えています(二一章)。エルサレムに集まっていて、ペンテコステの日に宣教を開始したのは、ユダを除く「十二人」弟子団とイエスの母マリアとイエスの兄弟たちであった(使徒一・一三〜一四)のですから、ガリラヤに戻っていた弟子たちも、ペンテコステの日までにはエルサレムに来ていたことになります。
 
 こうして最初期の教団は、「十二人」とイエスの家族を中核とするユダヤ人信徒の共同体として発足します。彼らはみなアラム語を話すパレスチナ生まれのユダヤ人たちでした。ところが、初期の御霊の力に溢れた宣教によって、エルサレム在住の多数のディアスポラ・ユダヤ人が信仰に入ってきます。彼らはギリシア語を話すユダヤ人ですから、言語の違いから別の集会を形成するようになります。そして、彼らの律法に対する自由な態度が、周囲の律法に熱心なユダヤ教徒を刺激して激しい論争が起こり、ステファノが石打で殺されるという事件が起こります。この事件をきっかけにして始まった迫害によって、ギリシア語系ユダヤ人信徒はエルサレムから追われて各地に散らされ、行き先の地で復活者イエス・キリストの福音を宣べ伝えます。彼らの働きでシリア州の首都である大都市アンティオキアにも信徒の集会が成立するようになります。
 
 エルサレムに残った集会は、「十二人」とイエスの家族を中核とするアラム語系ユダヤ人信徒の集会ですが、四二年のヘロデ・アグリッパの迫害によって「十二人」の中のヤコブは殺され、ペトロは奇跡的に獄舎から救い出されてエルサレムを去ります(使徒一二章)。その後、イエスの兄弟である「義人」(律法の厳格な実行者)ヤコブがエルサレム教団の首座につき、エルサレム集会は律法順守に熱心な保守的な体質を強めていきます。
 
 ペトロはすでにサマリヤやカイサリアなどの地中海沿岸地方の諸都市で宣教活動を進めていましたが(使徒八〜一〇章)、この迫害によってエルサレムから脱出した後は、アンティオキアにまで来ています(ガラテヤ二・一一)。ペトロがアンティオキアをはじめパレスチナ以外の諸都市で活動するためにはギリシア語が必要ですが、ペトロがどの程度ギリシア語を話したかは分かりません。「マルコがペトロの通訳であった」という伝承があることからすると、ペトロはアラム語で話し、誰かがギリシア語に通訳するという形で進められたと推察されます。とにかく、ペトロはイエスに直接師事した弟子の中の一人ですから、彼が伝える「イエス伝承」は貴重な伝承として、この地域におけるペトロの権威は高まってきたと考えられます。
 
 パウロは律法に熱心なユダヤ教徒として、はじめはエルサレムのステファノ・グループを迫害する側でしたが、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇して回心し、イエスを復活者キリストと宣べ伝える者になります。しかも、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、イエス・キリストを信じることによって救われ神の民となると主張したので、異邦人は割礼を受けてユダヤ教律法を守らなければ救われないとする、ヤコブに率いられるエルサレム教団のユダヤ人集会と対立します。回心後長年アンティオキア集会で指導的な立場にあったパウロは、バルナバと一緒にエルサレムに上り、この問題を協議します(使徒一五章)。そのさい、すでに割礼なしのまま聖霊を受けた異邦人百人隊長コルネリオにバプテスマを授けていたペトロは(使徒一〇章)、両者を仲介する役割を果たします。
 
 その後、ペトロはアンティオキアに来て宣教を進めますが、ユダヤ人と異邦人との共同の食事の問題でパウロと対立します。はじめペトロはユダヤ教律法の食物規定を無視して異邦人と一緒に食事をしていましたが、厳格な律法順守を求めるヤコブのもとから来た使者の要求に屈して、異邦人との共同の食卓から身を引きます。パウロはこれを福音の真理からの逸脱と非難してペトロと対立しますが、バルナバに代表されるアンティオキア集会はペトロの側につきます(ガラテヤ二章)。パウロはアンティオキア集会から去り、独立で福音を宣べ伝える活動に入ります。パウロが去った後のアンティオキア集会は、ペトロの権威の下に歩むことになります。
 
 パウロとシルワノやテモテらの協力者の一行は、西に向かい、小アジア、ギリシアの主要な都市に福音を伝え、信じる者たちの集会を形成します。その諸集会は、割礼を受けていない異邦人信徒とユダヤ人信徒が混在する集会で、両者の交わりがいつも困難な問題を引き起こしていました。また、異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ人指導者からの妨害が絶えませんでした。それにもかかわらず、パウロがあらゆる困難に耐えて西の異邦世界に向かったのは、ローマ帝国の首都ローマに福音を確立し、ローマ帝国に福音を満たすという壮大なヴジョンを持っていたからでした。
 
 これがルカが伝えるところから描くことができる初期の宣教の主要な流れ(メイン・ストリーム)です。しかし、実際にはこれ以外にも多くの流れがありました。たとえば、「語録福音書Q」を生み出した宣教活動は、おそらくガリラヤから始まって北へ進み、パレスチナ・シリアの地域に拡大したと考えられます。この運動は、生前のイエスの言葉に従って新しい生き方を広めようとするユダヤ人の信仰運動です。この運動は、霊感を受けて主の言葉を預言する巡回伝道者と、彼らの教えに従って信仰生活をする定住の信徒たちの集会で成り立っていたようです。彼らの信仰は、エルサレムからアンティオキアへ進んだ主流の宣教活動とはかなり違った様相を示しています。最初期のエルサレムの教団で、復活されたイエスを「キリスト」または「キュリオス(主)」と告白し、そのキリストの十字架上の死を贖罪の出来事として宣べ伝える告知の定型(ケリュグマ)が出来上がっていました。この「福音」(ケリュグマ)の告知はアンティオキアで確立し、ヘレニズム世界に広く宣べ伝えられます。その運動の中心にはペトロがいます。そして、パウロもこの「ケリュグマ」を受け継いで、異邦世界に広めます(コリントT一五・一〜五)。ところが、「語録福音書Q」にはこの「ケリュグマ」がありません。この運動は、あくまで生前のイエスの言葉を拠り所としたユダヤ教の革新運動です。
 
 さらに、「トマス福音書」を残した別の宣教運動もあり、これはシリアから東の地域に拡大したようです。シリア東部のエデッサを中心地とする初期の宣教運動は、使徒トマスを権威と仰ぎ、東方に活動を進めます。後の時代に書かれた「トマス行伝」は、使徒トマスがインドまで伝道したと伝えています。この流れの中から生まれたと見られる「トマス福音書」は、イエスの語録を集めたものですが、ややグノーシス主義的な傾向を示しています。
 
 また、パレスチナ・シリア地域には、洗礼者ヨハネの影響を強く残し、使徒ヨハネからの伝承を受け継ぐと見られる「ヨハネ宗団」も活躍しており、この宗団は(後にエフェソに移住したとも推察されますが)特異な性格の福音書「ヨハネ福音書」を生み出します。
 
 南に向かった流れもありました。エジプトにはアレキサンドリアというヘレニズム世界最大の文化都市があります。ここには大きなユダヤ人共同体があり、七十人訳ギリシア語聖書を成立させたり、フィロンという当時の最大のユダヤ教哲学者を生み出していました。エルサレムとの交流も密接で、ごく初期に福音が伝えられています。パウロと親交があったアポロはアレキサンドリアの出身であり、「ヘブライ人への手紙」のようなヘレニズム思想とユダヤ教の融合を示す文書の著者として想定するのにふさわしい人物です。
 
 この他、すぐ後の時代に成立した諸文書から、フィリポやアンデレやマグダラのマリアなどを権威とする信仰運動があったことが推測されます。これらの潮流にはグノーシス主義の傾向を示すものが多くあります。このように、初期の宣教運動はけっしてルカが伝える一筋だけの流れではなく、実に多様な流れがあり、多彩な性格と様相を示しています。

 初期の宣教活動には実に多くの流れがあり、そこから傾向の異なる多様な文書が生み出されていたことは、「聖書外典偽典」(教文館)のY・Z「新約外典」と別巻「補遺U」や、「ナグ・ハマディ文書」T〜W巻(岩波書店)に見ることができます。また、H・ケスター「新しい新約聖書概説」(新地書房)も、正典以外の諸文書を広く視野に入れて、初期の宣教の諸潮流を跡づけています。

エルサレム神殿崩壊後の情勢

 六六年に始まったユダヤ戦争と七〇年のエルサレムの陥落と神殿の崩壊は、福音の宣教運動にも大きな影響を及ぼし、一つの転機となります。エルサレム教団の指導者「義人」ヤコブはすでに(六二年)殉教していました。エルサレム教団は、霊感を受けて語る預言者に促されて、開戦直前のエルサレムを逃れて、ヨルダン東岸のペラに移っています。こうして、エルサレム教団は影響力を失い、ユダヤ教の枠内に硬く留まっていた保守的なアラム語系のユダヤ人教団はやがて歴史の舞台から消えて行きます。
 
 このユダヤ戦争の戦場となったパレスチナの地を逃れて、多くのユダヤ人が各地に散りましたが、その中で北へ逃れたユダヤ人たちがシリア、とくにその中心都市アンティオキアに移住し、彼らだけの集会を形成したと考えられます。「マタイ福音書」の著者は、パレスチナで「語録福音書Q」の伝統の中で活動し、シリアに逃れてきたユダヤ人集会の指導的な立場の人物である可能性が高いと考えられます。
 
 エルサレム神殿の崩壊は、神殿祭儀に依存しているサドカイ派を没落させ、ユダヤ戦争に参戦したエッセネ派も壊滅的な打撃を受け(六八年にクムラン破壊)、七〇年以後のユダヤ教はファリサイ派の律法学者たちの指導の下に再建の歩みを始めます。神殿と最高法院なき後、彼らはヤムニヤに学院を設け、そこから各地のユダヤ教会堂を指導するという形でユダヤ教の存続を図ります。その時、神殿崩壊という悲劇の原因になったということで黙示思想を厳しく排除し、律法のより厳格な順守を求めるようになります。そして、黙示思想的傾向が強く、異邦人と接触して律法違反の生活をしていると疑われたイエスを信じるユダヤ人たちは、「ナザレ派」の異端として厳しく弾圧され、ついに(おそらく八〇年代)「会堂から追放する」という決議がなされます。こうして、イエスを信じるユダヤ人は、この頃ユダヤ教会堂と決定的に別れて、別の宗団としての立場で歩むようになります。
 
 しかし、これはあくまでユダヤ教内部の問題です。すでに福音は異邦人の間に宣べ伝えられて、ヘレニズム世界の諸都市におもに異邦人から成る集会が形成されていました。エルサレム神殿の崩壊はユダヤ教では大事件ですが、それらの異邦人集会はあまり影響を受けることなく、ユダヤ教とは別の教団として活動を続けます。とくに、パウロの活躍により割礼なしの福音が確立されていたので、異邦人信徒は割礼を受けてユダヤ教徒になることなく、キリスト信徒として歩むことができたのです。

 エルサレム神殿の崩壊というユダヤ教の大事件が、ディアスポラのユダヤ人の間でそれほど大きな衝撃を与えた形跡がないことが、最近研究者の関心を呼んでいます。

マタイ福音書の歴史的位置

 以上のスケッチで、マタイ福音書の歴史上の位置がほぼ定められます。「歴史上の位置」というのは、マタイ福音書がいつ頃どこで、どのような歴史的状況の中で成立したか、したがって福音の展開の歴史の中でどのような位置を占めるかという問題です。本論の講解で詳しく見たように、マタイはマルコ福音書をイエス物語の枠組みとして用い、「語録福音書Q」やその他の資料に伝えられているイエスの語録を主題別に編集した独自の説話集を五つ形成してマルコの物語の中に組み込み、一貫した構想(プロット)をもつメシア・イエスの物語を書き上げました。その書き方には、ユダヤ人信徒の共同体が母胎であるユダヤ教会堂から閉め出されて、厳しく対立している状況がうかがわれます。そして、ペトロの権威を強調している書き方などを含めて、総合的に内容を考察すると、この福音書の歴史上の位置をほぼ次のように見定めることができます。

 マタイ福音書は、七〇年のエルサレム陥落の少し後の時期に、もともとパレスチナで「語録福音書Q」を生み出す運動の中にいたユダヤ人信徒の群れが、北方シリアのどこか(恐らくアンティオキア)に逃れて形成した集会の中で、その集会が対立するユダヤ教会堂から厳しい弾圧を受けるようになり、ユダヤ人への伝道を断念して異邦世界に活路を求めようとした時に成立したと見られます。
 
 マタイ福音書の歴史上の位置を考察する上で、もう一つ重要な事実は、この福音書がギリシア語で書かれているということです。この福音書がユダヤ人の間で成立したということから、もともとヘブライ語で書かれたのであるが、それが後にギリシア語に翻訳されたのだという見方が、古代教会以来なされてきました。しかし現在では、用語などの厳密な分析から、ヘブライ語から翻訳されたのではなく、初めからギリシア語で書かれた福音書であることが確認されています。むしろ、アラム語の「ナザレ人福音書」などは、このギリシア語のマタイ福音書をアラム語圏のユダヤ人に紹介するためにアラム語に翻訳編集されたものだとされています。

 ヘブライ語原語説はパピアスの証言を誤解した結果だと見られます。ヒエラポリスのパピアスは二世紀前半という早い時期に、彼の「証言」の中で「マタイはヘブライの《ディアレクトス》で語録を整えた」と書いています。これは、マタイが語録伝承をヘブライ的叙述法で整えたという意味であるのが、オリゲネス以降「ヘブライ語」で書いたと誤解されて伝えられ、古代教会の伝統的理解となります。

 マタイ福音書がギリシア語で書かれているという事実は、この福音書がギリシア語を用いるユダヤ人共同体において成立したことを示しています。先に見たように、当時のユダヤ人にはアラム語を用いるユダヤ人(おもにパレスチナ生まれのユダヤ人)とギリシア語を用いるユダヤ人(ディアスポラ・ユダヤ人と一部のパレスチナ・ユダヤ人)があり、イエスを信じるユダヤ人もこの二つのグループに分かれていました。そして、この二つのグループがかなり違った歩みをするようになることも、先に見たとおりです。
 
 マタイ福音書の母体となったユダヤ人共同体は、もともとガリラヤなどパレスチナで活動して「語録福音書Q」を生み出したユダヤ人の運動から出た共同体と見られますから、アラム語を用いたユダヤ人もいたことは十分ありえますが、その信仰の結実である「語録福音書Q」はギリシア語で書かれています。すなわち、この運動も全体としてはギリシア語圏ユダヤ人の運動として展開したことになります。
 
 その上、マタイが物語の枠として受け入れたマルコ福音書もギリシア語で書かれています。序章で見たように、マルコ福音書は復活者キリストの十字架を贖罪の出来事として宣べ伝えるケリュグマ伝承を枠組みとして、ペトロが伝えるイエス伝承を素材として物語る形で、ギリシア語圏の異邦人たちに福音を告知する書でした。ギリシア語で書かれたこのマルコ福音書を用い、七十人訳ギリシア語聖書を権威として引用し、ギリシア語の「語録福音書Q」を自分の本来の伝統とするマタイの共同体は、ギリシア語圏のユダヤ人の共同体であり、その福音書がギリシア語で書かれるのは当然です。
 
 マタイ福音書がユダヤ人共同体の中で、ユダヤ人のために書かれた福音書であっても、それがギリシア語で書かれた結果、ギリシャ語を共通語とするヘレニズム世界の異邦人伝道においてもそのまま通用する福音書になりました。こうして、ギリシア語で書かれたマタイ福音書は、ユダヤ教の伝統を異邦人世界に引き継いでいくための重要な接点となります。事実、この福音書は旧約聖書の伝統をもっとも豊かに継承する文書として正統派諸教会で尊重され(このことの意義は後述)、新約聖書正典が結集されるときには第一の位置に置かれることになります。そして、その後のキリスト教の歴史において、キリスト教の性格を決定するもっとも基礎的な文書になるのです。

マタイ福音書の神学的位置

 このような歴史的位置をもつマタイ福音書は、その思想内容からすると初期の福音の展開においてどのような位置を占めるのでしょうか。この問題はきわめて複雑な内容をはらんでいますので、簡単に答えることはできません。それでここでは、新約聖書の各文書の思想内容(神学)が福音の展開において占める位置を測る一つの物差しを提案して、その物差しで測ったマタイ福音書の神学的位置を考察することにします。
 
 初期の福音宣教を担ったのは、ほとんどがユダヤ人(すなわちユダヤ教徒)でした。したがって、新約聖書のほとんどの文書はユダヤ人(または異邦人であってもユダヤ教に深く関わっている準ユダヤ人)によって書かれたものです。それで、その著者なり文書がユダヤ教に対してどのような態度をとっているか、いわばユダヤ教との距離が、その文書の位置を示す重要な指標になります。もちろん、新約聖書の各文書はキリストの福音を提示するために書かれたものですから、キリストをどのような方として理解し告知するか(キリスト論)が、その神学の基本的内容です。ただここでは、そのキリストの提示の仕方において、各文書がその母胎であるユダヤ教に対してどのような姿勢の中でしているかを検討することによって、各文書の福音展開史における位置を定める参考にしたいのです。
 
 イエスをキリストと宣べ伝える宣教活動は、はじめはユダヤ教内部の運動として始まりました。それが福音がもつ内的必然とユダヤ教からの圧迫という外からの要因によって、異邦人にも宣べ伝えられるようになり、徐々にユダヤ教とは別の信仰である面が強くなり、最終的にはユダヤ教と対立する別の宗教としてヘレニズム世界に確立します。

 この過程を図解すれば、次の三段階になります。
   (1)福音宣教を示す円が完全にユダヤ教の円内にある段階。
   (2)福音宣教を示す円がユダヤ教の円の外に出ようとして激しく移動している段階。
  一部はすでにユダヤ教の円の外にはみ出しているが、全部が出てしまっているのではない段階。二つの円は一部重なっている。
   (3)キリストの民を示す円がユダヤ教の円の外に出てしまって、二つの円が離れている段階。
 
 アラム語系のエルサレム原始教団、ヤコブと彼の一派、「語録福音書Q」の運動などは(1)の段階。信徒はすべてユダヤ教徒。ユダヤ戦争以前のパレスチナはこの段階。
 おもにパレスチナ以外の地域でユダヤ戦争以前に、異邦人信徒も含むようになった宣教活動、たとえばアンティオキア集会とかパウロの宣教は(2)の段階。この段階で、ユダヤ教の外に出ようとする動きを担ったのはおもにギリシア語系のユダヤ人で、アラム語系のユダヤ人はユダヤ教の枠内に留まっている。信徒はユダヤ教徒と異教徒(異邦人)が混在している。パウロ七書簡はこの段階の証言。
 エルサレム神殿崩壊以後、ユダヤ教側がイエスを信じるユダヤ人を会堂から追放し、キリスト信徒側も明確にユダヤ教とは別の宗団としての立場で活動したのが(3)の段階。この段階では、アラム語系ユダヤ人のキリスト教は消滅に向かっており、キリストの民には(ギリシア語系の)ユダヤ人信徒も含まれているが、異邦人信徒が大勢を占めるようになる。宣教活動の中心はなお(ギリシア語系の)ユダヤ人が担っているが、徐々に異邦人指導者が台頭してくる。ユダヤ教との関係は対立関係だけになっている。マタイ福音書やヨハネ福音書、ヨハネ黙示録(ギリシア語系ユダヤ人)、ルカ文書、コロサイ・エフェソ書(異邦人?)はこの段階の証言。

 その過程で新約聖書の各文書が生み出されることになるのです。ところが、その過程で新しい信仰を示すために生み出された文書は、「新約聖書」に納められている文書だけではありません。それ以外に実に多くの文書が生み出されています。その過程で生み出された多くの文書の中で特定の内容と傾向のものが選ばれて正典となり、「新約聖書」となったのです。それで、初期の福音展開史におけるマタイ福音書の位置を定めるためには、新約正典以外の文書も視野に入れて考察しなければならないことになります。
 
 「ユダヤ教との距離」という物差しを見やすくするために、その距離がもっとも短い立場ともっとも遠い立場をあげると、(新約聖書の範囲内では)ヤコブとパウロになるでしょう。主の兄弟ヤコブは、律法熱心な周囲のユダヤ教徒から「義人」と呼ばれるほど、律法を厳格に順守する人物で、ペトロがエルサレムを去ってからはエルサレム教団の首座にあって、エルサレム教団の性格を決定することになります。彼の影響下にあるユダヤ人信徒たちのある者は、異邦人がイエス・キリストを信じたのであれば、その異邦人は割礼を受けてモーセ律法を順守するユダヤ教徒にならなければ救われないと主張します。すなわち、キリスト信仰もあくまでユダヤ教の中のことでなければならないとするのです。彼らの場合、キリストはユダヤ教徒のメシアであり、彼らのユダヤ教との距離はゼロです。ヤコブ自身がそうであったかどうかは問題が残りますが、そのようなユダヤ人の側にいたことは事実です。
 
 それに対して、もっとも遠い位置にいるのがパウロです。パウロは、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異邦人(異教徒)のままでキリストを信じて救われるとしました。「キリストは律法(ユダヤ教)の終わりとなられた」(ローマ一〇・四)のです。パウロのキリストは律法(ユダヤ教)の外にいますキリストです。このような主張は、ユダヤ教を否定するものとして熱心なユダヤ教徒から憎まれ、命を狙われます。また、ユダヤ教との距離がゼロであるユダヤ人信徒からも激しい非難と妨害を受けることになります。

 新約聖書の各文書のユダヤ人著者は、自分の宗教を「ユダヤ教」と呼ぶことはほとんどありません。例外的にパウロがそう呼んでいる箇所が二回あるくらいです(ガラテヤ一・一三、一四)。彼らは自分たちの宗教である「ユダヤ教」をいつも「トーラー」(ギリシア語では《ノモス》、日本語では「律法」)と呼んでいます。新約聖書を読むとき、多くの場合「律法」という用語はユダヤ教全体を指していることに留意しなければなりません。

 ペトロは中間にいます。コルネリオの場合に見られるように、ペトロは異邦人コルネリオに割礼を施すことなく、バプテスマを授けてキリストの民として受け入れています。そして、異邦人信徒に割礼を求めるべきかどうかが問題になったエルサレム会議で、パウロの立場を擁護しています(使徒言行録一五章)。しかしアンティオキアでは、異邦人も食物に関するユダヤ教律法を守ることを要求するような態度を示して、パウロからその矛盾を厳しく追及されています(ガラテヤ二章)。その後、ペトロはイエスの筆頭の直弟子としての権威をもってローマまで宣教の範囲を広げています。ペトロの宣教はパウロが活躍した地域と重なっていますが、割礼なしの福音を異邦人世界に宣べ伝えるパウロを批判し、彼の宣教を妨害した者たちの中にペトロが含まれるかどうかは確定できません。とにかく、ペトロはヤコブとパウロの間で、一貫した姿勢を貫くことができなかったようです。
 
 このような物差しで測ったとき、マタイはどのような位置にあるのでしょうか。これまで、マタイとヤコブ、マタイとペトロ、とくにマタイとパウロの関わり方が様々に理解され議論されてきました。この問題を考えるときに留意すべきことは、マタイは七〇年のエルサレム陥落からかなり経った時期に福音書を書いているという事実です。ヤコブもペトロもパウロもみな六〇年代に殉教しています。そして、先に見たように、エルサレム神殿の崩壊以後はユダヤ教とユダヤ人キリスト教教団をめぐる情勢は大きく変わり、キリスト信徒は完全にユダヤ教の枠の外に出てしまっており、キリスト教諸集会では異邦人信徒が主流になる時代が始まっています。
 
 このような状況でマタイが福音書を書いたとき、ユダヤ教との距離という物差しでは、「ユダヤ教の外にある」という場所はもう決定しています。それ以外の場所にいることはできません。しかも、マタイはユダヤ教律法学者としての体質を抜きがたく受け継いでいる人物であり、「語録福音書Q」を生み出したユダヤ人の(すなわちユダヤ教の枠の中での)宣教運動の伝統を継承する立場にいます。この状況が「マタイ福音書」を生み出すのです。
 
 マタイの律法学者的な体質から、マタイを義人ヤコブと同じ系列におく議論がありますが、マタイとヤコブは律法に忠実であるという点では同じ体質かもしれませんが、置かれている立場や状況が全然違いますから、同列に並べて比較することはできません。ヤコブはユダヤ教の中で、他のユダヤ教徒以上に厳格に律法を順守すればよいのですが、マタイはユダヤ教の外にあって、ユダヤ教と対峙しながら、異教徒を受け入れている立場で、ユダヤ教を完成する神学を主張しなければならないのです。ヤコブの思想を証言する文書はないので(新約聖書の中の「ヤコブ書」は主の兄弟のヤコブの著作とは考えられません)、ヤコブとマタイを直接比べることはできませんが、マタイがもはや割礼を主張しないという一事をとっても、またこの福音書に律法の細則にとらわれない立場が多く表明されていることからも、マタイはヤコブから遙かに遠い場所にいることが分かります。
 
 マタイはパウロに対してどのような態度をとったのか、正確に描くことはできません。マタイの時代には、割礼なしの福音はすでに確立し、割礼のない異邦人がキリストの民の主流になっていました。異邦人に割礼を受けさせるべきかどうかという問題は、もう過去のものであり、マタイが「パウロの論敵」の陣営にいたかどうかは問題になりません。マタイは当然のこととして割礼を求めることなく、異邦人を受け入れ、異邦人への宣教を目指しています(二八・一九)。ただ、70年以後西方で主流を形成しつつあるパウロ系集会の信仰の質に対して、マタイがどう向かい合ったかは分かりません。マタイがパウロ書簡を知っていたかどうかも分かりません。しかし、パウロが激しく律法による義を否定してユダヤ教の外に飛び出していたのと比べますと、マタイはその律法学者的な体質を色濃く保持していて、律法への忠誠を明らかに示しているので、パウロとは対照的な位置にいると言うことはできます。
 
 ところでパウロも、彼の信仰による義の主張によって律法(ユダヤ教)を否定するのではなく成就するのだと言っています。事実、パウロは彼の福音によってユダヤ教の遺産を異邦世界に広く伝えたという面があります。一見ユダヤ教を否定しいるかのような主張によって、かえってユダヤ教の核心部分を伝えているという意味で、わたしはパウロとユダヤ教のつながりを「逆接」と呼んでいます。否定することで成就するという逆説的な接続の仕方という意味です。それに対して、マタイとユダヤ教は「順接」と言えます。逆説を含まない順当な接続という意味です。信仰は律法を廃止するのではなく成就するのだと正面から主張して(五・一七)、信仰が律法を満たすということの真意を説く立場です。このように、たしかにその言説に表れている限りでは、パウロとマタイは遠いところにいますが、マタイがすでにパウロによって確立された異邦人キリスト教の場にいることから、事実上はそれほど離れていないと言えます。
 
 結局マタイは、ヤコブとパウロの間にいたペトロにもっとも近いのでしょう。おそらくマタイはシリアのどこかでこの福音書を書いていると考えられますが、シリアではペトロの権威が確立しており、マタイの時代のシリアでは、すでに殉教したペトロが使徒の中の筆頭者であり、キリストの民の礎石として尊ばれていたようです。マタイは律法(ユダヤ教)に対する立場から、ペトロを自分にもっとも近い使徒と感じ、ペトロを権威と仰ぐ福音書を書きます(一六・一八)。すぐ後に見るように、マタイ福音書が尊ばれて新約聖書の中の第一の書とされたため、マタイが権威とするペトロが古代教会において使徒の首座を占めるようになり、その後の教会史に巨大な影響を及ぼすことになります。

正典第一の地位

 このようにマタイ福音書は、マルコ福音書を基本的な枠組みとして受け入れることによって、復活者キリストの十字架上の死を神による贖罪の出来事として告知するケリュグマ伝承と、ペトロから伝えられたイエス伝承を継承し、さらにその中に「語録福音書Q」の伝承とマタイ独自の伝承を組み込むことによって、初期の主要な伝承すべてを総合する文書になっています。その上、ラビ的素養のある学者としてマタイは旧約聖書に精通し、旧約聖書の伝承を駆使して、メシア・イエスの物語を聖書の最終章として書き上げる能力を発揮しています。このように、旧約聖書と初期の主要な福音伝承のすべてを総合するマタイの構想力は驚嘆すべきものがあります。彼のこの構想力の産物として、マタイ福音書は実に偉大な風格を備えた堂々とした福音書になっています。古代教会の指導者たちが、このようなマタイ福音書を尊重し、正典を結集したとき、これを第一の福音書としたことは十分理解できます。
 
 さらに、マタイ福音書が正典の四福音書の第一に置かれたことは、古代教会のグノーシス主義に対する戦いの結果であるという一面があると考えられます。二世紀から四世紀にかけての古代教会の形成期に、教会の中にグノーシス主義的な信仰が盛んになってきます。使徒的な信仰を擁護しようとする教会指導者(教父)たちは、グノーシス主義を使徒的信仰から逸脱するものとして、これを批判糾弾して戦わなければなりませんでした。この戦いの中で新約聖書正典が結集されるのです。
 
 グノーシス主義の内容は複雑で、その概略を描くことすらも困難ですが、ここではマタイ福音書の位置を考察する上で必要な一面だけを取り上げます。グノーシス主義は、イエスが啓示された父なる霊神を最高神として、イエスから受ける霊的知識(グノーシス)によって無知の暗闇から目覚めて魂の父なる神に帰還することを救済とするので、旧約聖書の創造神はこの魂の牢獄である物質世界を造った下位の神(デーミウールゴス)として卑しめられます。それで、旧約聖書は全面的に排除されるか、裏返しに解釈される(創世記の蛇は人間に知恵を与えて邪悪な創造神から救い出す力と解釈される)などして、否定されることになります。
 
 二世紀中葉に活動したマルキオンの流れを汲む教会は勢力を強め、キリスト教会の半数近くがマルキオン派になったと言われています。マルキオンをグノーシス主義者とするのは問題が残りますが、彼が旧約聖書を否定した点においては、グノーシス主義の陣営に属します。彼は自分の教会の信仰基準として独自の聖書を造ります。それはパウロの十書簡(現行聖書のパウロ書簡から牧会書簡を除いた十書簡)と(自分流に改変した)ルカ福音書から成り立っています。この「マルキオン聖書」が、グノーシス主義に反対して使徒的信仰の確立を目指す教父たちに、正統な信仰の基準としての正典を結集する必要を痛感させることになります。
 
 二世紀末に活躍した教父の一人エイレナイオスは、このマルキオンだけでなく当時のグノーシス主義者たちを批判して「異端反駁論」という書を書きますが、その中で福音書は四つでなければならないことを論じ、現在新約聖書に含まれる四福音書を正統な使徒的信仰の基準とします。二世紀末に成立したと見られる「ムラトリ正典目録」でも、この四福音書が上げられていますが、そこではマタイ福音書が第一に置かれ、第二にマルコ、第三にルカ、第四にヨハネという現行の順序が現れています。
 
 マタイ福音書が正典の第一に置かれたのは、マルコとルカが使徒の弟子であるのに対して、この福音書が使徒マタイ自身によって書かれたと受け取られていた(正典の基準は使徒性)からという面がありますが、それと共に、この福音書がもっとも明白に旧約聖書の権威を継承し、(前述したように)旧約聖書の延長上の書として書かれているからだと考えられます。正統派の教会は旧約聖書を信仰の基準として受け入れていましたから、旧約聖書を否定するグノーシス主義派に対抗する上で、マタイ福音書はもっとも力強い援軍であったのです。マルコ福音書以上に多くの伝承を総合しているという点では、ルカもマタイと変わりませんが、ルカはマルキオンに利用されたことからも分かるように、旧約聖書とのつながりではマタイよりも弱くなります。ヨハネ福音書は初めからグノーシス主義との親近性を疑われて(事実後の時代にはグノーシス主義者たちの特愛の福音書になります)、(地域によっては)正典として受け入れるのにためらいがあったようです。それで、使徒ヨハネの作とされながらも、最後に置かれることになったようです。

 

  V 現代におけるマタイ福音書

 

マタイ福音書のユダヤ教的要素

 こうして、正典の第一の位置を占めることになったマタイ福音書は、その後のキリスト教の歴史において、他のどの文書よりも巨大な影響を及ぼすことになります。キリスト教といえばマタイ福音書を思い起こすほどです。それには理由があることは、以上に見てきたことからも理解できます。その影響のすべてをここで見ることはできませんが、最後に、現代の福音宣教においてこの福音書が占める位置と意義に、ごく簡単に触れておきます。

 マタイ福音書の特色は、そのユダヤ教的体質にあります。ここで見たように、マタイ福音書はすでにユダヤ教の外に出ている場で書かれていますが、その性格はユダヤ教的な体質を多分に保持しています。著者がユダヤ教律法学者(少なくともその素養のある学者的人物)であり、対象がユダヤ人信徒の共同体であり、主要な論争相手がユダヤ教会堂である以上、この福音書のユダヤ教的体質は当然です。
 
 現代世界にキリストの福音を宣べ伝える活動においてマタイ福音書を用いるときは、この福音書のユダヤ教的体質を十分考慮に入れなければなりません。たしかにマタイ福音書はイエスの貴重な言葉を伝えており、しかもそれを「恩恵の支配」というイエスの宣教の根本原理をよく理解した上で、壮大な構想の文書の形で伝えています。わたしたちは、マタイ福音書が伝えるイエスの「恩恵の支配」の福音をひれ伏して受け取らなければなりません。しかし、それだからといって、そのユダヤ教的体質をそのまま絶対化して受け入れる必要はありません。正典だからそのまま全部受け入れるという姿勢は問題です。
 
 新約聖書が正典であるというのは、新約聖書各書が示している霊的内容がわたしたちの信仰の霊的質の基準であるということであって、各文書の宗教的・文化的枠組みがわたしたちの生き方の絶対的な基準であるわけではありません。たとえば、マタイが断食を当然の習慣としているからと言って、わたしたちの信仰生活に断食がなければならないということにはなりません。もちろん断食してはいけないというわけではありませんし、断食にはするに値する価値があります。しかし、それは当時のユダヤ教の宗教的習慣であって、それをわたしたちの信仰に絶対必要な行為とすることはないのです。

ユダヤ教的要素の相対化

 この霊的内容と時代の宗教的・文化的枠組みの区別は往々にして困難なことがありますが、原理としては区別して扱わなければなりません。この問題を考えるさい、わたしはパウロがユダヤ教に対して取った態度が重要な示唆を与えていると思います。パウロは自分が体験したキリストの福音を宣べ伝えた結果、ユダヤ教を否定する者として、ユダヤ教徒と一部のユダヤ人キリスト教指導者から激しい非難を受けました。しかし、パウロはユダヤ教を否定したのではなく相対化したのです。パウロは、ユダヤ教は偽物の宗教だから廃棄せよとは言っていません。ユダヤ教は福音を生み出した母胎として他の宗教にはない特別の価値があります。パウロは、すでにユダヤ教徒である者はそのままユダヤ教の中にとどまっておればよいとしています。ただ、ユダヤ教徒でない者がキリストに結ばれて御霊の世界に生きるようになるのに、ユダヤ教に改宗しなくてもよいと主張したのです。キリストにある命の場では、ユダヤ教はあってもよいし無くてもよいのです。これがユダヤ教の相対化です。その価値を認めつつ、救い(人間の完成、いのちの充満)にとって絶対に必要なものではないと位置づけることが「相対化」です。

 宗教は自分を絶対化する傾向があります。むしろ、絶対化は宗教の本質かもしれません。この宗教でなければ人間は救われないとするのです。ですから、パウロがユダヤ教を相対化したとき、ユダヤ教を絶対とするユダヤ教徒から迫害されたのです。このことはキリスト教についても同じです。キリスト教が一つの宗教として世界に存在する限り、キリスト教は自分を絶対化します。すなわち、キリスト教こそ神に至る唯一の道であり、救いに至るにはキリスト教に入らなければならないと主張します。それは、具体的には「教会の外に救いなし」と表現されます。キリスト教会こそキリスト教が地上に形をとって現れたものだからです。しかし、キリストの絶対性の前では、キリスト教会もキリスト教も相対化されます。
 
 キリスト教を含む「宗教」の相対化は現代の重要な課題ですが、問題があまりにも大きいので、ここでは現代におけるマタイ福音書の位置という問題に限定します。現代世界に福音を確立しようとするさい、マタイ福音書がその中に保持し伝えているイエスの宣教の核心、すなわち「恩恵の支配」の福音はしっかりと全面的に受け止めて、それぞれの歴史的現実においてわたしたちが生きる土台としなければなりませんが、この福音書が体質的に継承しているユダヤ教の枠組みは相対化しなければなりません。
 
 ではマタイ福音書のどの部分が福音の核心を伝え、どの部分がユダヤ教の体質を示しているのかという問題は、テキスト解釈の問題であり、この講解はこの問題意識をもって進められてきました。講解にあたって、マタイの編集の手を跡づける作業をしたのも、その部分にユダヤ教の体質とか枠組みが出ていることが多いからです。個々のテキストについてその作業が十分に成功しているという保証はありませんが、その作業全体の過程で、イエスの福音の核心がどの方向にあるかを指し示すことはできたのではないかと考えています。それが指し示す方向には、「恩恵の支配」あるいは「恩恵の絶対性」という福音が見えています。
 
 このようにマタイ福音書をその核心において受け取るならば、その使信はパウロの福音と同じでであることが理解できます。パウロの「キリストの福音」もまさに「恩恵の絶対性」を根本原理としているからです。パウロはこのキリストにおける恩恵の絶対性を異教世界に宣べ伝えるために、ユダヤ教を明白に相対化する必要に迫られました。それに対してマタイは、先に見たような状況のために、ユダヤ教的な枠組みの中でこの「恩恵の支配」の福音を提示することになるのです。
 
 ところで、マタイ福音書の中のユダヤ教的な枠組みを相対化する作業は、キリスト教を相対化するという様相を帯びてきます。それは、キリスト教がユダヤ教を母胎として生まれ、多分にユダヤ教的要素を継承して形成されているからです。宗教学では、キリスト教がユダヤ教と一体と見られて「ユダヤ・キリスト教」と呼ばれることがあります。マタイ福音書を正典の第一に置いてその決定的な影響の下に形成されたキリスト教が、ユダヤ教的な要素を多分に持つことは自然の流れです。それで、マタイ福音書の中のユダヤ教的体質を相対化する課題は、キリスト教の中のユダヤ教的要素(大抵の場合キリスト教そのものであると自覚されている)を相対化することにつながってくるのです。
 
 ここで、ユダヤ教の枠組みを相対化するということは、旧約と新約の救済史構造を相対化する(なくてもよいとする)のと全然別であることに注意しなければなりません。マルキオンはキリスト教からユダヤ教的要素を排除するするために旧約聖書そのものを廃棄しましたが、それは誤りです。イスラエルの民の中に神が働かれた歴史があったから、イエス・キリストの福音がありえるのです。旧約聖書を放棄すること、すなわちイスラエルの歴史の救済史的意義を否定することは、福音の根を引き抜くことであって、キリストの福音を一種のグノーシス主義的(霊知主義的)な宗教にしてしまいます。
 
 ここで問題になっているのは、イエスの時代に出来上がっていた「ユダヤ教」と呼ばれる宗教体制です。この時代にイスラエルの中に、モーセ律法順守を根本原理とする祭儀と生活の体系が形成されていました。それは、周辺諸民族の諸宗教と対立して、「ユダヤ教」と呼ばれる一つの宗教になっていました。この「ユダヤ教」を相対化しなければならないのです。われわれユダヤ人以外の諸民族・諸文明はキリストの福音を受け取るさい、ユダヤ教を絶対的な価値の基準として受け入れる必要はないのです。
 
 マタイ福音書が壮麗で優れた福音書であるだけに、その中のユダヤ教的要素を相対化する作業は困難であり、きわめて慎重な配慮を要します。しかし、世界の諸民族・諸文明が密接に結びついて、一つの地球文明を形成しつつある現代においては、この優れた福音書を活かすには、この作業を避けることはできないと思います。この講解もささやかながらその作業を進めてきました。その作業の中に、イエスの「恩恵の支配」の福音を現代世界に確立する道が通じているはずです。

  最後にもう一度、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(一三・五二)というイエスの言葉を引用しておきます。先にそれはマタイが自分の仕事のことを言っているのだと書きましたが、今わたしたちはこのマタイ福音書に対して、同じことをしなければなりません。旧約聖書の伝統と初期の福音宣教の諸伝承を総合しているこの壮麗なマタイ福音書という蔵の中から、恩恵の絶対性という「新しいもの」とユダヤ教的体質という「古いもの」を取り出して、それぞれにふさわしい位置を与えること、それが現代の課題となります。


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