マタイによるメシア・イエスの物語 

第12章 メシア・イエスの受難と復活

     ー マタイ福音書 二六〜二八章 ー





はじめに

 誕生物語(一〜二章)で始まったマタイのメシア・イエスの物語は、メシアの地上での働きを語る長大な部分(三〜二五章)を終えて、ついにその方の死と復活を物語るクライマックスに達します。このイエスの十字架の死と復活の事実があるからこそ、それまでに語られたイエスの物語がメシア・イエスの物語としての意義をもつことになるのです。その意味で、このイエスの受難・復活の物語(二六〜二八章)は、これまでの物語の終幕をなすだけでなく、物語全体に神の福音としての質を与える根底となっているのであり、実は物語の出発点であるのです。
 
 イエスの生涯の最終局面を物語るにさいして、マタイは基本的にマルコの受難物語を引き継いでいます。しかし、マルコがその受難物語を空の墓の報告で終えているのを不十分として、マタイは復活されたイエスが弟子たちに顕現された物語を加えています(二八章)。マルコでは「受難物語」でしたが、マタイでは「受難・復活物語」となっています。この点が最大の相違点ですが、詳細に比べると、受難の部分でもマタイはマルコの受難物語にかなりの改変を加えています。この違いは、マタイが置かれていた状況によるものであり、またマタイの固有の思想(神学)の現れでもあります。ここでも、マルコとの違いに留意して、マタイの物語の概要を追いながら、マタイ福音書の特質を明らかにするように努めたいと思います。

 イエスの受難と死を語り伝える「受難物語」がどのように形成され、流布し、福音書記者たちの手元にまで届いたのかという受難物語伝承史の問題、またそれぞれの福音書記者がその伝承をどのように用いたのかという編集史的な問題は複雑で、まだ十分解明されていません。マタイの場合、マタイがマルコ福音書を利用したことは確実ですが、マルコ以外に受難と復活顕現についての伝承をもっていたことも十分推定できます。とくに、マタイが立っている「語録資料Q」の伝統と受難物語伝承の関係は不明な点が多く、将来の解明を待たなければならないと考えられます。現在のところ、「語録資料Q」を生み出した信仰運動は受難物語伝承を持っていなかったとされていますが、事実はそれほど単純ではないのではないかとわたしは考えています。ここでは伝承史の詳細に立ち入ることはできませんので、おもにマルコとの比較を通してマタイが告知する福音の特質を追求することに限定します。

 

  最後の夜


四回目の受難予告

 マタイは、イエスの働きを物語る本体部分の最後に置いた長大な終末説教(二四〜二五章)を、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」という、他の語録集成を締め括るさいに用いたのと同じ表現で締め括ります(二六・一)。そして、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(二六・二)という、マタイだけにある四回目の受難予告の言葉で受難物語を始めます。このマタイ固有の四回目の受難予告によって、はじめて受難が過越祭と関連づけられます。マルコ(一四・一)ではただ日付の表示であった部分が、マタイではイエスの受難予告の言葉にされているのです。この言葉によって、イエスの死が過越の成就であることをイエスご自身が宣言されていることになります。
 
 マタイの物語では、幕の背後で主役のイエスがこれから起こる出来事の意義を宣言される声が聞こえてから、幕が開いて、祭司長たちの謀議という舞台の上で出来事が進展し始めます(二六・三〜四)。これは、イエスこそ出来事の全体を前もって知ってコントロールしておられる方であることを示唆しているのです。彼らは「計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談」します。イエスがエルサレムにいる過越祭の期間中に逮捕しなければならないのですが、祭りの行事のただ中では回りの民衆が騒ぎを起こして暴動になる危険があるので、何とか「ひそかにイエスを捕らえて殺そう」と謀議をこらすのです(二六・五)。この「ひそかに捕らえる」方法について、ユダが舞台に登場するのです(二六・一四)。

 祭司長たちの「ひそかに捕らえる」謀議の内容については、マルコ福音書講解の段落78「イエスを殺す計画」を参照してください。

ベタニアでの葬りの準備

 ユダが登場する前に、マタイはマルコの順序に従い、イエスがベタニアで香油の注ぎを受けられた記事を置きます(二六・六〜一三)。記事の内容もほぼマルコと同じです。この記事の意義については、すでに「マルコ福音書講解」の79「ベタニアでの油注ぎ」の項で詳しく論じていますので、ここでは重複を避けるために省略して、この機会にこの出来事についての四つの福音書の扱い方の違いについて簡単に触れておきます。
 
 一人の女性がイエスに高価な香油を注いでイエスを信じ慕う真情を吐露したという出来事は、初期の教団に広く伝承されていたと見られます。その伝承をどのように自分の福音書の中に組み入れて用いるかは、それぞれの福音書によってかなり違ってきています。四つの福音書には、主要な三つの型が認められます。第一はルカの型、第二はマルコ・マタイの型、第三はヨハネの型です。
 
 ルカ(七・三六〜五〇)は、この出来事をイエスのガリラヤ宣教の時期に置き、イエスが罪深い女の罪を赦された美しい物語に仕上げています。したがって、ルカの記事にはイエスの葬り準備という意味はありません。この女性の名前は伝えられていませんが、敬虔なユダヤ教徒であれば触れることができないはずの「罪深い女(汚れた女)」であるという記事から、売春婦のような職業の女性だとされてきました。そして、「七つの悪霊を追い出していただいた女性」という伝承(マルコ一六・九、ルカ八・二)から、この女性はマグダラのマリアであると推定され、マグダラのマリアが売春婦であったという伝承が形成されるきっかけになりました。実は、マグダラのマリアが売春婦であったという伝承は、グノーシス主義に対抗するために正統派の教会が意図的に形成した伝承で、かなり後の時代のものです。すなわち、グノーシス主義の諸文書では、マグダラのマリアはもっともイエスの身近にいた女性で、イエスから特別の啓示を与えられていたとされ、ペトロにまさる使徒であるとされていました。それで、女性の聖職者を認めない正統派の教会は、マグダラのマリアの権威を貶めるために、彼女が売春婦であったという伝承を造り上げるのですが、そのさいこのルカ福音書の記事が利用されることになります。しかし、ルカの記事からこの女性を特定することはできません。
 
 ルカはマルコを知っているはずですから、この出来事を受難の前に置いたマルコに従わないで、あえてガリラヤ宣教の時期に置いたのは、かなり確実な根拠または理由があったからだと推察されます。むしろ、この女性の伝承を受難の前において、イエスの葬りの備えとしての意義をもたせたのはマルコであると考えられます。この女性の名前が伝えられていないことも同じです。マタイはマルコに忠実に従っています。強いて違いを捜すと、この女性の行為を憤慨して文句を言った人たちが、マルコでは「ある人たち」とされているのをマタイは「弟子たち」とし、マルコの「三百デナリオン以上に売って」を「高く売って」と価格を省略している程度です。
 
 ヨハネもマルコ・マタイと同じく、この出来事を受難の前に置いて、イエスの葬りの準備としての意味をもたせています。しかし、物語の内容はかなり違っています。これがベタニアで起こったことは同じですが、マルコ・マタイでは「イエスがらい病人シモンの家におられたとき」のことですが、ヨハネではマルタ、マリア、ラザロの三人の家になっています(無理をすれば、シモンの家にこの三人が来ていたと解釈できないこともありませんが、やはりヨハネの記事はこの三人の家での出来事であると見るのが自然です)。マルコ・マタイでは、香油はイエスの頭に注がれますが、ヨハネでは香油はイエスの足に塗られ、髪の毛で拭われます。この点ではヨハネはルカに近い描写になっています。また、文句を言ったのはヨハネではイスカリオテのユダであると特定され、ユダの裏切りの行為と関連づけられています。何よりも大きな違いは、ルカとマルコ・マタイの両方では女性の名前は伝えられていなかったのに対して、ヨハネではラザロの姉妹マリアであるとこの女性が特定されていることです。
 
 こうして比較して見ますと、一つの伝承が四つの福音書でいかに違った用いられ方をされいるかがわかります。その中で、マタイはかなりマルコを忠実に継承して、他とは違う独自のマルコ・マタイ型の伝承を形成していることが目立ちます。このような比較は、それぞれの記事から信仰上の意味を汲み取ることとは別ですが、四福音書の使信の特色を理解するのに役立ちますので、一つの典型的な場合として取り上げた次第です。

ユダの裏切り

 ベタニアでの「葬りの備え」の物語に続いて、ユダの裏切りの行為が語られます(二六・一四〜一六)。マルコ福音書講解(段落80「ユダの裏切り」)でも述べたとおり、ユダについてはわからないことが多く、彼の裏切りの行為は謎に包まれています。とくにユダがなぜイエスを祭司長たちに引き渡したのか、その動機がさまざまに推察されています。マルコ(一四・一一)もすでにそれが金銭目当ての行為であったことを示唆していますが、ユダの申し出に対して祭司長たちが銀貨を与えることを約束したのであって、ユダの申し出そのものの動機は明確に示されていません。それに対してマタイは、はっきりとユダの裏切りは初めから金銭目的であったと断定して書いています。イエスが選ばれた十二人の弟子の中から裏切り者が出た事実は、初期の教団にとっては重荷であったので、ユダをなるべく卑しい人物にする傾向がありますが、マタイはこの傾向をマルコより一段と進めたことになります。
 
 銀貨三十枚の報酬を目の前に置かれたユダは(原文は「約束した」ではなく「置いた」)、イエスを引き渡す「良い機会」を狙います。これは、イエスがエルサレムにいる過越祭の期間中に、しかも暴動を避けるために群衆がいないところで「ひそかに」逮捕する機会を狙ったのです。「銀貨三十枚」という報酬の額は、ゼカリヤ書一一章で預言者が、ほふられることに定められた羊の群の羊飼いとなった報酬として受け取り、神の命令により神殿の鋳物師に投げ与えた金額です(一二節)。この金額は、後でユダの自殺についてのマタイ特有の記事(二七・三〜一〇)にも出てきますが、これは出エジプト記(二一・三二)で定められている過失で死亡した奴隷一人の賠償金額から来ていると見られます。ユダの裏切りと自殺に関するマタイ特有の書き方は、謎に満ちたユダの裏切りの出来事を、マタイが旧約聖書の預言句によって構成している様子がうかがわれます。
 

過越の食事の日付

 マタイの物語もいよいよ最後の晩餐の記事(二六・一七〜三〇)に入ります。ここでもマタイは基本的にはマルコに従っていますが、多少の変更を加えているところにマタイの特色が出ています。ここでも、それぞれの出来事の信仰的な意義は「マルコ福音書講解」のそれぞれの段落の解説に委ねて、マタイの物語の特色を見ていくことにします。
 
 まず、この晩餐が行われた日付について、マルコ(一四・二)が「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」としているのを、マタイ(二六・一七)は「除酵祭の第一日」だけにしています。「除酵祭の第一日」というのはニサンの月(現行暦では三月から四月にかけての一ヶ月)の一五日です。ユダヤ暦の一日は日没から始まりますから、その夜に行われる過越の食事のための小羊は、日没前、すなわち前日の一四日の昼に屠られることになります。マルコが小羊が屠られる日(一四日)と過越の食事が行われる日(一五日)を同じ日としたのは、朝から一日が始まるギリシア人やローマ人の日の数え方(われわれも同じ)に従って見ているからです。ところが、ユダヤ人に向かって書いているマタイはこのような不正確な書き方はできません。正確にユダヤ暦に従う以上は、「過越の小羊が屠られる日」は「除酵祭の第一日」の前日になるわけですから、マタイはこの句を省略します。
 
 そうするとユダヤ暦の「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日は、イエスの最後の日となります。その日が始まる夜に過越の食事、ゲッセマネでの逮捕、大祭司の予審があり、夜が明けてから最高法院での判決、ピラトの裁判、十字架刑、埋葬という出来事がすべて起こった一日となります。

 このイエスの死の日付については共観福音書は一致しています。ところが、ヨハネ福音書ではイエスが死なれたのは、過越の小羊がほふられる「過越祭の準備の日」、すなわちニサンの月の十四日とされています(ヨハネ一八・二八、一九・一四)。ヨハネ福音書によれば、イエスはまさに神殿で過越の小羊がほふられている時に死なれたことになります。この一日の食い違いの問題はいまだに解決されていません。しかし、どちらにしてもこの食事のときのイエスの言葉は過越祭の背景で理解されなければならない点では同じです。詳しくは「マルコ福音書講解」の段落81「最後の晩餐」を参照してください。


過越の食事の準備

 過越の食事を準備する場面(二六・一七〜一九)では、マルコ(一四・一二〜一七)は、弟子たちを使いに出すとき、都に入ると水がめを運んでいる男に出会うから、その男について行くように指示されたとしています。この指示は、イエスが出来事を事前に予知されていたとも、予め打ち合わせがしてあったとも受け取れますが、マタイははっきりと事前に打ち合わせがしてあったとして物語を進めています。マタイ(一八節)では「都のあの人」と言われれば、それが誰であるかは弟子たちも分かることが前提されています。イエスはエルサレムで過越のときに死ぬことが神の定めであると受けとめて、その日に向かってすべてを運んでいかれるのです。この時、イエスは「わたしの時が近づいた」と言っておられます。この言葉は、イエスの覚悟をよく示しています。イエスは自分の死が神の救いの業が成し遂げられる時であると受けとめ、それを「わたしの時」と呼んで、その時に向かって歩まれるのです。ゲッセマネで逮捕されるときも「時が近づいた」(二六・四五)と言っておられます(マルコ一四・四一では「時が来た」)。

 イエスがご自身の受難の時を「わたしの時」としておられたことは、ヨハネ福音書でとくに強調されていますが、それがヨハネの構想から出たヨハネ福音書だけのものではなく、すでにイエス伝承の中にあったことがマルコ・マタイの記事からわかります。すなわち、この「時」の理解はイエスご自身から出ていると見られます。

 イエスは世を去る前に弟子たちと過越の食事をすることを切望されました(ルカ二二・一五)。それは、過越祭の光の中で、御自分の死の意義を弟子たちに語っておくためです。このもっとも大切な言葉を語る場として、最後になる過越の食事を周到に用意して迎えられるのです。弟子たちはイエスの指示通りに準備します(一九節)。そして、「夕方になると」、すなわち日没後、いのちを狙う神殿当局者たちの目につかないように、ひそかに食事が準備された家に入り、「十二人と一緒に食事の席につかれた」のです(二〇節)。遺言ともいうべきもっとも大切な言葉を弟子たちに言い残す機会を、むざむざと敵対者に踏みにじらせるわけにはいきません。

 イエスが「都のあの人」と言われたエルサレム在住の支持者が誰であるか、その家がどこにあったのか、正確に特定することはできません。しかし、この最後の晩餐が行われた家が、イエスの復活後、信徒たちの集まる場所となり、エルサレムの原始教団が活動した場所となったと推察されます(使徒一・一二)。そして、その家は使徒言行録一二・一二の記事から、ヨハネ・マルコとその母マリアの家であるとされてきました。古代教会の伝承から、この家があった所に「最後の晩餐教会」が建てられたとされていますが、この教会は現在エルサレム南西部のシオン地区にあるので、この最後の晩餐が行われ、エルサレム原始教団が集まった家もこのシオン地区にあったと推察されます。このシオン地区には、「エッセネ門」の存在が示唆するように、エッセネ派の拠点もあり、エルサレム原始教団がエッセネ派から強い影響を受けたことが推察されることになります。


裏切りの予告

 この最後になる食事の席で、イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」という重大な発言をされます(二一節)。驚いた弟子たちが代わる代わる、「まさかわたしのことでは」と言い始めますが、イエスは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われます(二三節)。この「手で鉢に食べ物を浸した者」は単数形ですが、みながこうしているのですから、特定の人物を指していることにはなりません。「わたしと一緒に」食事をするというもっとも親しい内輪の者が裏切るということを語っておられることになります(詩編四一・一〇参照)。そして、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言って、裏切る者のために嘆かれます(二四節)。
 
 ここまではマタイはほぼマルコに従って物語を進めていますが、最後にマルコにない記事を加えています。マタイは、「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」と書いています(二五節)。このイエスの言葉「それはあなたの言ったことだ」は、最高法院での大祭司の審問に対して、またピラトの法廷でピラトの問いに対してイエスがなされた答えの言葉と同じ形ですです。

 この箇所と最高法院での大祭司への答え(マタイ二六・六四)では「言った」と過去形ですが、ピラトへの答え(マルコ一五・二と並行箇所)では「それを言うのはあなただ」と現在形です。しかし、「あなた」が強調された構文であることは共通しています。すなわち、それを言うのはわたしや他の者ではなく、あなた自身だという意味です。「マルコ福音書講解」で述べたように、イエスはピラトの法廷で、「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが訊ねたのに対して、「そう言うのはあなたの方だ」(マルコ一五・二私訳)と答えておられます。わたしがユダヤ人の王であると言っている(主張している)のではない、あなたがそう言って(主張して)わたしを処刑しようとしているのだ、と答えておられるのです。ピラトの法廷は公開で、弟子たちもこのイエスの言葉を聞いたのでしょう。裁判の場でイエスが発せられた唯一の言葉は大切に伝承されて、広く知られていたと考えられます。それでマタイは、弟子たちが直接見たのではない最高法院での裁判においても、イエスはこの言葉で大祭司の審問に答えられたとするのです。そしてマタイは、この表現をユダの場合にも用いるのです。

 「わたしが裏切り者でしょうか」というユダの問いかけに、「それを言った(決めた)のはあなたの方だ」と言って、イエスはそれをユダの側が決めた問題として、ユダに委ねられます。弟子の一人に裏切られて死ぬことを、神の定めとして受け入れておられる姿を、マタイはこの言葉で描くのです。そして、その裏切りの器として用いられるユダに対する深い憐れみから、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と嘆かれるのです。
 

主の晩餐

 すでに「一同が食事をしているとき」という句で食事が始まっていることを述べていながら(二一節)、マタイは(マルコと同じく)ユダの裏切りの記事の後で再び「一同が食事をしているとき」を繰り返します(二六節)。これは、二六〜二九節が初期の教団において、信徒の集まりの中心であった「主の晩餐」の場で繰り返し唱えられた、独立した重要な一段であるからです。イエスが弟子たちに最後に語られた重要な言葉、いわばイエスの遺言というべき言葉がここに伝えられているのです。
 
 ユダヤ教の過越の食事とこの記事でのイエスの振る舞いと言葉との関連、イエスの言葉の伝承の過程、この言葉の終末的な性格、さらに「マーシャール」(謎、象徴)としての意義など、信仰上重要な事柄は「マルコ福音書講解」の81「最後の晩餐」の項で詳しく解説しましたので、ここでは省略し、マタイの特色に焦点を合わせて、ごく簡単に物語を追うことにします。
 
 この「主の晩餐」の伝承でも、マタイはマルコに忠実に従っています。「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた」言葉は、「取って食べなさい。これはわたしの体である」となっています。マタイは、マルコの「取りなさい」に「食べなさい」を加えていますが、本体の「これはわたしの体である」という衝撃的な「謎の言葉」《マーシャール》は同じです。
 
 また、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた」さいの、「皆、この杯から飲みなさい。これはわたしの血である」という、ユダヤ人にはさらに衝撃的な言葉もそのまま伝えています。そして、その血を説明する「多くの人のために流される契約の(血)」という言葉も同じです。ところがマタイは(原文の語順では)最後に「罪の赦しのための」という句を加えています。ここの「罪」はユダヤ教の罪の用語に普通に見られる複数形であり、律法に違反する諸々の行為を指していると見られます。初期の教団のユダヤ人指導者たちが形成した福音の定式(たとえばコリントT一五・三〜五)に見られるように、イエス・キリストの死は「わたしたちの諸々の罪過のため」の死であるという理解がここにも見られます。
 
 この記事の存在から、マタイの共同体もその集会において「主の晩餐」を守っていたことが分かります。初期の信徒の共同体は、「主の晩餐」を礼拝の中心として集会をしていました。パンとぶどう酒を用いる共同の食事で、そのパンとぶどう酒が主イエスの死を記念するしるしであることが、この「主の晩餐」の段落の言葉が唱えられて指し示されたのです。このような「主の晩餐」のときに用いられたイエスの言葉の伝承が、新約聖書では少しずつ違った形で四カ所に伝えられています。その違いは、この伝承がそれぞれの共同体で用いられていく過程で生じたものと考えられますが、中核になるイエスの元の言葉は、パンについての「これはわたしの体である」と、ぶどう酒についての「これはわたしの血である」という《マーシャール》(謎の言葉)であると、わたしは見ています。

 「主の晩餐」の四つの伝承と、イエスの元の言葉についての考察は、「マルコ福音書講解」の81「最後の晩餐」を参照してください。なお、マタイがその流れを汲む「語録資料Q」には受難物語伝承が含まれていないとされていますが、そうすると「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の信仰運動には「主の晩餐」はなかったことになり、マタイの共同体が「主の晩餐」を行うようになったのは、マルコ福音書を受け入れたからか、それとも他の状況からか、解明されていない問題が残ります。本来知恵の運動とされる「語録資料Q」の流れから、「主の晩餐」という救済祭儀を行うマタイの共同体が生まれた過程は、初期の福音の展開史の解明にとって一つの課題となります。

 「主の晩餐」において、パンを食べることとぶどう酒を飲むことが、このイエスの言葉によって、主イエスの体を食べ、主イエスの血を飲むこととなるという衝撃的な内容になります。裂かれた体とか流された血は、ともに暴虐によってもたらされた死を意味し、イエスの十字架上の死を指しています。「主イエスの体を食べ、主イエスの血を飲む」とは、このイエスの死を自分のための死と受け止め、十字架されたイエスを主と告白し、主イエスに自分を委ねきり、主イエスと一体となることです。そこにキリスト・イエスの霊が注がれ、御霊による新しい生が始まるのです。
 
 この霊的な内容を受け取ることができず、この「主の晩餐」を、それにあずかることによって救いが保証される祭儀として理解する傾向が、ごく初期から出てきていたようです。福音が進展していったヘレニズム世界は、「密儀」が盛んな世界でした。「密儀」《ミュステーリオン》とは、準備ができた特別の資格のある者だけに許された秘密の儀式で、その儀式にあずかる者は永遠の生命とか救済を保証されるのです。ヘレニズム世界では、「主の晩餐」がこのような密儀の一つと理解される傾向は避けられなかったようです。
 
 すでに新約聖書の中で、このような「主の晩餐」の祭儀化を克服して霊的内容を回復しようとする努力が見られます。それがヨハネ福音書六章(とくに五二〜五九節)です。ヨハネ福音書の最後の食事の記事(一三〜一七章)には「主の晩餐」制定の記事はなく、イエスが弟子の足を洗われた後、イエスが世を去られた後、別の「同伴者」(聖霊)が来られて、弟子たちは聖霊という姿で一緒にいてくださる主イエスと一緒に歩むようになることが語られます。すなわち、その体を食べ、その血を飲むという言葉で指し示されていた復活者イエスとの合一が、聖霊による現実として詳しく展開されるのです。現代のわれわれも、「主の晩餐」を救いを保証する祭儀としてではなく、聖霊によって復活者イエスと結ばれて歩む日々の現実の「しるし」として受け止めて、それが指し示す聖霊の現実に生きなければならないと思います。
 

ペテロ離反の予告

 過越祭の規定に従い、「ハレル詩編」の後半(詩編一一五〜一一八編)を歌って食事を終え、一行は市街を出て、城壁の東側にあるキデロンの谷を通り、オリーヴ山に向かいます(二六・三〇)。律法の規定(申命記一六・六〜七)によれば、イスラエルの民は過越の食事をした夜はエルサレムで過ごさなければならないのです。当時、巡礼者の数が多く、城壁内の市街地だけでは泊まれないので、オリーヴ山西側斜面もエルサレムに含まれていたのです。イエスがオリーヴ山に向かわれたのは、律法の規定を守るためだけではなく、夜陰に乗じてエルサレムから離れることをせず、あえて祭司長たちの勢力が及ぶ地域に留まることで、苦しみから逃れようとされない覚悟を示すものです。
 
 オリーヴ山に向かう途中、イエスは、弟子たちが皆イエスにつまづくという預言をされます(二六・三一〜三二)。ご自分が歩もうとされる道を、まだ御霊を受けていない弟子たちは一緒に歩むことができないことを見通しておられるのです。それを「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」というゼカリヤ書(一三・七)の預言を引用する形で語られます。その上で、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と予告されます。エルサレムで処刑されたイエスにつまずき壊滅する弟子団が、復活されたイエスによってガリラヤで再建されることが予告されるのです。

 イエスがご自分の復活を予告されたとされる言葉が、ここ以外には三回の受難予告の言葉と変容の山を下りるときの言葉(マルコでは九・九)があります。しかし、イエスがご自分の復活を明確に予告されたかどうかは検討の必要があります。受難予告の言葉は、「人は人々の手に渡される」というイエスの《マーシャール》(謎の言葉)を核として、イエス復活後の教団が形成したものと推測されます(詳しくは「マルコ福音書講解」の48「死と復活の二度目の予告」の項を参照)。またマルコ九・九の言葉も「メシアの秘密」の動機からマルコによって形成された句である可能性があります。ここの予告も、ガリラヤへ逃げ帰っていた弟子たちがガリラヤで復活の主の顕現に接した体験を、イエスの予告の言葉として教団が形成した可能性を否定しきれません。もともと福音書はイエスが復活された方であることを宣べ伝えるために書かれた文書ですから、これをイエスの予告とする動機は十分にあることになります。しかし、これが復活後の教団の形成によるものであるとしても、逃走し壊滅した弟子団がガリラヤで復活の主の顕現に接して、まったく新しい質の弟子団として再建されたという事実の霊的意義とその重要性は変わりません。なお、マルコ・マタイ(及びヨハネの付加部分)が復活者の顕現をガリラヤとしているのに対して、ルカとヨハネはエルサレムとしていることは、最初期の教団形成の過程について複雑な問題を提起していますが、これは別の機会に譲ります。

 皆つまずくというイエスの予告に対して、ペテロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(三三節)と抗議します。大変な自信です。ペトロはイエスに対する自分の忠誠心にいささかの疑念ももっていません。どのような状況になっても、忠誠心を貫く力が自分にはあると確信しています。普通このような忠誠心とか確信の強さが信仰であるかのように考えられていますが、逆です。信仰とはこのような自信が崩壊して、人間の側の能力や資格が無になってしまう場において、神の恩恵によってはじめて成立するのです。人間の力ではイエスの道を歩むことはできないのです。
 
 このことをよくご存知のイエスは言われます、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(三四節)。ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(三五節)と、さらに勇ましい言葉で自分の決意を表明します。他の弟子たちも皆、同じように言います。しかし、ペトロも他の弟子たちも、そのような自信がいかに脆いものであるか、すぐに身をもって思い知ることになります。
 
 

ゲッセマネ

 過越の夜をエルサレムで過ごすために、イエスは弟子たちと一緒にオリーヴ山の西側山麓にある「ゲッセマネ」と呼ばれる園に入られます。イエスはベタニアからエルサレムに通われる途中、しばしば弟子たちとここに集まり祈っておられたのです(ヨハネ一八・二)。このゲッセマネでの最後の祈りについても、マタイ(二六・三六〜四六)はほぼマルコ(一四・三二〜四二)をそのまま引き継いでいますが、わずかに変更を加えています。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて園の奥に入り祈られるのですが、マタイは「ペトロおよびゼベダイの子二人」としています。おそらく、この変更はペトロの名だけをあげて、ペトロの権威を高めるためでしょう。また、イエスの苦悶の表情を伝えるのに、マルコが「ひどく恐れてもだえ始め」としているところを、「悲しみもだえ始め」とやや表現をやわらげています。そして、二度目の祈りについて、マルコが「同じ言葉で祈られた」としているところを、マタイは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、やや詳しくその内容を解説的に付け加えています。マルコは「時が来た」としているのに、マタイは「時が近づいた」としています(マタイがほぼマルコを踏襲しているのに対し、ルカはマルコのゲッセマネの記事をはるかに簡略にしています)。
 
 このような僅かの変更があるとしても、ゲッセマネにおけるイエスの祈りが垣間見させる霊的秘義の理解には影響はありません。イエスがなぜこのように「悲しみもだえ始め」られたのか、イエスが「わたしから取り去ってください」と切に祈られた「杯」とは何か、ここで何が起こっているのか、このような霊的秘義についてはすでに「マルコ福音書講解」の83「ゲッセマネの祈り」の項で詳しく論じています(以下はその要約です)。「キリストはわたしたちの罪のために死に」という出来事が、ここで始まっているのです。「杯」は神の審判の象徴です。罪に対する神の怒りが満たされた杯です。父と親しい交わりに生きてこられた子である方が、父から怒りの杯を突きつけられておられるのです。イエスがこの杯を飲み干す以外の救いの道があるならば、取り去っていただくことを切に願わないではおれない杯です。この突きつけられた杯を前にして、子であるイエスは「ひどく恐れもだえ始め」られるのです。十字架刑の肉体の苦しみを恐れておられるのではなく、神の裁きを受けることに苦悩しておられるのです。本来罪にあるわたしたちが受けるべき苦しみを、罪のないイエスが苦しんでおられるのです。そして、人を救うためにこの苦しみを愛するひとり子に課しておられる父も、息子イサクを供え物として捧げようとしたアブラハムの苦悩のように、御子と一緒に苦しんでおられるのです。
 
 

イエスの逮捕

 「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」(二六・四七)。ユダは祭司長たちに、イエスを群衆のいないところで「ひそかに捕らえる」ことができる「秘密の祈りの場所」を通報し、自ら案内して来たのです。祭司長たちと長老たち、すなわち最高法院の中枢部は、弟子たちの抵抗を恐れて、武装した群衆を一緒に派遣します。この点でマタイはマルコと同じですが、ヨハネ福音書(一八・一二)は「千人隊長に率いられた一隊の兵士(ローマの正規軍)とユダヤ人の下役たち(神殿警備の武装警官)」が出動して、イエスを逮捕したと伝えています。わたしはヨハネ福音書の記事の方が事実に近いと考えています(理由は「マルコ福音書講解」の84「イエスの逮捕」を参照してください)。
 
 「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた」(二六・四八)とあるのも、イエスをよく知っているユダヤ人の群衆よりも、イエスと面識のないローマの隊長への合図とする方が理解しやすくなります。こうしてユダは、師に対する敬愛の接吻をもってイエスを裏切る行為を実行するのです。ユダが接吻したとき、イエスは「友よ、何のためにここに来ているのか」(二六・五〇直訳)と言われたと、マタイはマルコにはないイエスの言葉を入れています。ユダが裏切るまさにその場面でなお「友よ」と呼びかけておられることが印象的です。
 
 「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」(二六・五一)という事件が起こります。剣を抜いたのは弟子の一人ではなく、「イエスと一緒にいた者の一人」としているのもマルコと同じです。その者が誰であるかは分かりませんが、マルコ・マタイは(そしてルカも)それが弟子以外の者であることを言おうとしています(ヨハネ福音書はペトロであるとしています)。そのときイエスは言われます、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(二六・五二)。マタイは、マルコにはないこの重要な言葉をこの場面で用いて伝えてくれています。実際にイエスがこの場面でこの言葉を語られたことは十分ありえることです。しかし、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉は、イエスが普段語っておられた言葉であって、それをマタイがこの場面での「剣をさやに納めなさい」という言葉(これはヨハネ福音書にもあります)に続けた可能性も否定できません。
 
 イエスの時代の状況を考えますと、イエスが弟子たちに普段から「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉を語っておられた可能性が高いと、わたしは見ています。イエスの時代にはゼーロータイ(熱心党)の運動がだんだん盛んになってきており、剣を取って戦い、武力で異教徒の支配を覆し、「神の支配」を実現するのだという熱心が高揚していました。それに対して、イエスが説かれた道は、「山上の説教」に典型的に現れているように、力ずくの道とは正反対の「敵を愛する」道であったのです。この力に頼る道を戒めるために、イエスはこの格言(マーシャール)的な言葉を用いられたのではないかと、わたしは推察しています。

 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という語録は、ルカに並行箇所がないために、「語録資料Q」の語録一覧表には含まれていません。しかし、内容からすると「語録資料Q」にあってもおかしくない言葉であって、ルカが何らかの理由でこの語録を用いなかった可能性を考えてもよいのではないかと思います。

 マタイはさらにマルコにない言葉を加えます。イエスは言われます、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(二六・五三〜五四)。イエスが全然抵抗することもなく逮捕されたのは、逮捕しに来た群衆を撃退する力がイエスにないからではなく、逮捕され苦しみを受けることが聖書に書かれている父の御旨であるから、イエスが自発的に父の御旨に身を委ねられたのだというのです。ここにも、イエスの身に起こったことはすべて聖書に預言されていたことの成就であるというマタイの強調が出ています。このことは、すぐ後(五六節)でマルコ(一四・四九後半)の言葉をほぼそのまま引き継ぎながら語られるのですが、それが成り行きでそうなったのではなく、イエスの自発的な意志によるものであることを、マタイはこの言葉を加えて強調するのです。
 
 イエスは逮捕しに来た群衆に言われます、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(二六・五五〜五六)。ここで「強盗」と訳されている語《レステース》は、当時では反ローマの武装革命家を指す用語であり、バラバやイエスと一緒に十字架にかけられた二人もこう呼ばれていました。この一週間、イエスは逃げ隠れていたのではなく、公然と神殿に座って民衆に教えていたのに逮捕せず(民衆の暴動を恐れて逮捕できなかったのです)、いま夜陰の中でひそかに、しかも武装反乱勢力を鎮圧するための軍隊のような規模で逮捕しに来たのか、とイエスは彼らの陰険な意図を指摘されます。しかし、「預言者たちの書いたことが実現するため」に、彼らの手にご自身を委ねられます。
 
 「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(五六節後半)。つい先ほど「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、同じようにイエスに従う決意を表明した他の弟子たちも皆、「イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。ユダだけでなく、ペトロも他の弟子も皆、イエスを裏切ったのです。ここでイエスの弟子団は崩壊したのです。
 
 

  最高法院での裁判

 

大祭司の審問

 逮捕されたイエスは直ちに裁判にかけらることになります。イエスの裁判の実際の過程と内容を正確に復元することは、裁判の記録も残されていませんし、当時の法制史的状況も十分に分かっていないので、不可能であるとされています。イエスの裁判に関する福音書の記事は、裁判の公式記録とかそれに基づく報告ではなく、あくまでイエスに関する教団の信仰伝承を素材として、福音を宣べ伝えるために書かれた物語です。この事実を念頭において、この裁判の記事からも福音を聴き取るように努めなければなりません。
 
 イエスの裁判で確かなことは、イエスはユダヤ最高法院の宗教裁判とローマ総督ピラトの法廷との二つの裁判を受け、最終的にローマの法律によって死刑判決を受け、ローマの支配への反乱を企てる者として処刑されたことです。この裁判の物語においても、マタイは基本的にはマルコに従っています。この二つの裁判の間にペトロの否認の記事を入れていることでは、マタイはマルコと同じですが、マルコにはないユダの自殺の記事を入れている点で大きく違っています。二つの裁判とペトロの否認については、すでに「マルコ福音書講解」で詳しく扱っていますので、ここではマルコと違うマタイの特色に注目しながら、物語のあらすじを追っていきます。
 
 逮捕されたイエスは、直ちに「大祭司カイアファのところへ」連れて行かれます(二六・五七)。マルコは「カイアファ」という大祭司の名をあげていませんが、マタイはイエスを殺そうとする謀議の主導者として、はじめから大祭司の名を上げています(二六・三)。イエスが最初に連れて行かれたのは、最高法院(サンヘドリン)の議場ではなく、大祭司カイアファの私邸でした。これは、大祭司による予審法廷であると見られます。最高法院の規定によれば、正式の法廷は夜間に開くことができませんでした。また、正式の最高法院法廷が異端審問を受け付けるには予審が必要とされていました。マルコは緊急に招集された議員による予審法廷と夜が明けてからの全員による正式法廷を区別して、正式法廷を「最高法院全体」と呼んでいます(マルコ一五・一)。マタイではこの区別があいまいです(二六・五九)。福音書は裁判の正確な報告ではなく、神の民イスラエル全体が民を代表する大祭司の人格において、神が遣わされたイエスと公式に対面し、イエスを断罪したという宗教的事実を告知するのです。そのことによって、当時のユダヤ教の体制そのものが断罪されることになるのです。
 
 大祭司の審問について、偽証が行われたこと、その中で神殿を打ち壊すというイエスの発言がいちばん問題とされたこと、証言が合わず、イエスを断罪する証拠が得られなかったこと、イエスは黙して何も語られなかったこと、それで大祭司が直接イエスに「お前は神の子、メシアなのか」と尋問したことでは、マタイはほぼマルコに従っています(二六・五九〜六三)。ところが、大祭司の尋問に対するイエスの答えでは、マタイはマルコにかなり重大な変更を加えています。
 
 マルコでは、大祭司の問いにイエスは「わたしはある」と答えておられます。あの神的臨在を告知する《エゴー・エイミ》という定式が用いられているのです。ところが、マタイではその言葉はなく、かわりに「それを言ったのはあなただ」(六四節前半の私訳)となっています。この表現は、先にも触れたように、本来イエスがピラトの尋問に対して答えられた言葉です(二七・一一)。マタイはその言葉を、大祭司の尋問に対するイエスの答えの言葉として用いるのです。マタイは同じ言葉をすでにユダの問いかけに対するイエスの答えとして用いています(二六・二五)。マタイがそのように変更した理由は、わたしは次のように考えます。マタイは《エゴー・エイミ》という表現を湖上の顕現の箇所で用いていますから、この表現をあまりにも神聖であるとして使用を避けたとも考えられません。おそらく、湖上の顕現は復活者の顕現物語ですから用いることができるが、裁判の場ではイエスはあくまで地上の人間として裁かれているので、人間がこの神的臨在を告知する言葉を使ったとすることはできない、とマタイが考えたからであろうと考えます。
 
 マタイは《エゴー・エイミ》の代わりに「それを言ったのはあなただ」というイエスの言葉を置いています。この言葉はもともとピラトの尋問に対してイエスが答えられた言葉を、この場所にもってきたものです(動詞の時制は違いますが)。イエスは大祭司にこう答えておられるのです。「わたしが神の子メシアであるというのは、わたしが言ったことではなく、あなたがそう言って、わたしを神を汚す者と断罪しようとしているのだ」。イエスは地上の生涯において、自分が神の子であるとか、メシアであるとは公に主張されませんでした。福音書においてイエスをメシアとして、また神の子として告知しているのは、イエス復活後の教団がその告知をイエスの地上の働きの中に重ねているからです(「マルコ福音書講解U」の92「マルコ福音書の二重構造」を参照)。マルコは復活者の顕現定式である《エゴー・エイミ》を大祭司の裁判に持ち込んでいますが、マタイはそれを不適切として避けたのかもしれません。もしイエスがこの言葉を使われたのであれば、大祭司は直ちにそれを涜神として断罪することができたでしょう。マルコではそうなっています。ところが、厳格なユダヤ教律法学者として、マタイは人間イエスがそのような自分を神とする発言をされたとすることはできなかったのでしょう。
 
 続いてイエスが語られたとされる言葉(これは明らかにダニエル書の引用ですが)、「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(六四節後半)においても、イエスはここでは直接自分をその「人の子」としておられるのではないので(他の第三者を指す言葉とも理解できます)、これをもってイエスを涜神の罪に定めることはできないはずです。この言葉を自分を指して用いているとしたのは大祭司の方です。こうして、イエスを涜神の罪に定めるのです。マタイはイエスの断罪を、大祭司の側の策略であると強調するのです。このようにして、マタイはこの場においても、イエスが神の子メシアであるという福音の告知を否定することなく、イエスへの断罪を根拠のない断罪とし、大祭司の側の策略として描くのです。
 
 イエスの答えを聞いた大祭司が、強引にこれを冒涜と決めつけて衣を裂いたこと、居合わせた全員が死刑だと判断したこと、イエスの顔に唾を吐きかけ、誰かを当てられない偽預言者として侮辱したこと(二六・六五〜六八)は、マルコの通りです。

ペトロの否認

 イエスが大祭司カイアファの審問を受けておられるとき、その屋敷の中庭ではペトロが人々に問いつめられてイエスを否認するという出来事が起こります(二六・六九〜七五)。この記事においてもマタイはほとんどマルコをそのまま踏襲しています。おもな違いは、マルコでは一人の女中がペトロに「あなたもあのナザレ人イエスと一緒にいた」と言ったとしているところを、マタイは「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」としている点(六九節)、また、マルコでは居合わせた人たちが「確かにお前はあの連中の仲間だ。お前もガリラヤ出だから」と言ったとしているところを、マタイは「言葉遣いでそれ(ガリラヤ出身であること)が分かる」と説明を加えている点です(七三節)。マタイは、ペトロの言葉遣いのガリラヤなまりから、ペトロがガリラヤのイエスの仲間であることが分かったとしています。エルサレムの正統ユダヤ教徒から見れば、最近ガリラヤでイエスによって起こされた新しい信仰運動は異端の疑いのある胡散臭いものでした。祭りでエルサレムに来ているガリラヤ人はイエスの仲間として、疑いの目で見られたのです。
 
 つい先ほど、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(二六・三五)と言ったばかりのペトロが、鶏が鳴く前に三度までイエスを知らないと言ってしまい、イエスの予告の言葉を思い出して、「外に出て激しく泣いた」のです。マルコが「打ち砕かれて泣き続けた」(私訳)としているところを、マタイは「激しく」という語を加えて、ペトロの砕かれた姿を強調しています(ルカも同じ)。このペトロの姿に、信仰とは何かがよく示されています。人間の決意や意志の力でイエスに従うことは不可能です。それが出来ないことを身をもって知り、生まれながらの人間の力が打ち砕かれたところに、恩恵として上から与えられる神の力、聖霊の働きによって、信仰は成立するのです。

 この時のペトロの姿が、わたしが「絶信の信」と呼んでいる信仰の消息を物語ることについては、すでに『マルコ福音書講解U』の段落86「ペトロの否認」の講解で詳しく述べていますので、それを参照してください。

 マタイ福音書においては、このペトロの否認の記事が含まれていること自体の意義が重要です。すでに見ましたように(一六・一七〜一九)、マタイ福音書は、イエスをキリストと信じ告白する者たちの教団におけるペトロの権威を重視して、ペトロを使徒団の首座においています。そのペトロがこのようにイエスを否認して裏切ったのです。マタイの宗団からすれば全信徒の指導者の首座にある人物が、主イエスを裏切ったのです。ペトロの行為は、主イエスを見捨てるという点でユダの裏切りと同じです。普通、宗教教団はその指導者の人間的弱点を隠すものです。ところが、ペトロを使徒の首座におくマタイ福音書は、そのペトロの裏切りの行為をありのまま伝えるのです。
 
 おそらくペトロ自身が、自分のしたことをしばしば涙ながらに語ったのでしょう。このように主を否認して裏切った自分に、復活されたイエスが現れて、ペトロを復活者イエス・キリストの証人として立てて遣わされたことを、主の恩恵として繰り返し証言したのでしょう。ルカ福音書五章(一〜一一節)の記事はこのペトロの体験を核としている、とわたしは見ています。すなわち、イエスの十字架刑の後、ガリラヤに逃げ帰って漁をしていたペトロに復活されたイエスが顕現されます。その時ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っています。この言葉は、直前にイエスを否認して裏切ったことの罪深さを指しているはずです。復活されたイエスは、裏切ったペトロを赦し、「人間をとる漁師」として召し、復活の証人として、そして裏切った者を赦して受け入れる恩恵の証人として世界に派遣されるのです。
 
 マタイ福音書が使徒の首座に置くペトロの裏切りの記事を載せているのは、この物語がペトロ自身の口から出て、広く信徒の間に語り伝えられて知られており、マルコ福音書にも記録されているので、これを削ることはできなかったという事情もあるかもしれません。しかし、何よりもこのペトロの体験こそ人間の弱さと、その弱さを受け入れ克服する主の恩恵の力を証言し、恩恵の場に成立する信仰の消息を具体的に伝える物語として、すなわち福音の本質を語る重要な物語として、マタイは積極的に自分の福音書に書きとどめたと思われます。
 
 

ユダの自殺

 大祭司カイアファの屋敷で予審尋問を行い、イエスを涜神の罪で死罪と認めた議員たちは、夜が明けて正式の最高法院法廷を開くことができるようになると、ただちに正式法廷を開廷してイエスの死罪を議決します。そして、「イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに引き渡した」のです(二七・一〜二)。死刑の判決を下しておきながら、被告をローマ総督ピラトに引き渡したのは、当時最高法院には死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督に死刑を執行してもらうためです。

 二七・一の「相談した」は「議決した」という内容であると理解すべきことについて、また死刑執行権については、『マルコ福音書講解』の87「ピラトの法廷」を参照してください。

 マルコではここから直ちにピラトの裁判の記事が続きますが、マタイはその前にユダの自殺の記事(二七・三〜一〇)を入れます。これは他の三福音書にはないマタイ独自の記事です。イエスが選ばれた十二人の弟子たちの中からイエスを引き渡す者が出たという悲劇をも、マタイは聖書の預言を正確に成就する出来事として描き、イエスが聖書を成就するメシアであることをここでも強調するのです。この段落には、聖書に精通していて、イエスの出来事を聖書の預言の言葉によって見事に構成する、マタイの律法学者としての力量がよく示されています。
 
 最高法院でイエスに有罪の判決が下り死刑と決まったことを知ったユダは後悔し、すでに手にしていた銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返しに行きます。そして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言ったとされます(二七・三〜四)。この記事から、ユダはイエスを死に追いやるつもりななく、あれだけの神の力を持ちながら、民を糾合してローマに対する戦いに立ち上がらないイエスの態度に失望し、イエスを窮地に追い込むことで、自分が考えるメシア的な使命にイエスが立ち上がることを期待したのだが、期待に反してイエスはやすやすと捕らわれ、死刑の判決を受けたことで、自分がしたことの誤りに気づき、後悔したのだと想像する説が出てきます。この説は「イスカリオテのユダ」という名を「シカリ派のユダ」と見て、ユダを熱心党《ゼーロータイ》的な思想の人物とする説と通じています。しかし、この説はあくまで想像の域を出ません。ここのユダの言葉はユダの行為に対する教団の価値判断であって、ユダが実際にそういう意味で「後悔した」という判断の根拠にすることはできません。
 
 ユダがイエスを裏切った動機は、金銭欲からという福音書の説明も含めて、決定的な根拠はなく、不可解だという他はありません。ヨハネ福音書(一三・二、一三・二七)のように、「サタンが彼の中に入った」と言うほかはないのでしょう。しかし、動機は不明でも、その結果は、どの福音書も主張しているように、メシアがその使命を果たすために神が定められた道での出来事であることには変わりありません。マタイはとくにそれを精密に示してみせるのです。
 
 ユダは銀貨三十枚を返そうとします。すなわち、イエスを銀貨三十枚で売り渡した取引をないものとしようとするのです。しかし、時すでに遅く、イエスの死刑は確定しています。祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ(協会訳では「自分で始末することだ」)」と言って、銀貨を突っ返します。それで、「ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」とされます(二七・五)。ユダは自分で銀貨を始末するだけでなく、このような取り返しのつかない誤りを犯した自分自身を自殺によって始末するのです。

 ユダの最後がどうであったかは分かりません。しかし、主を裏切ったユダの最後は悲惨であったという伝承はあったようです。彼の最後は悲惨でなければならないという思いの中で伝承されたのでしょうから、誇張も伴ったと考えられます。ユダの最後についてはルカも伝えています(使徒言行録一・一六〜一九)。それによりますと、ユダはイエスを裏切って得た報酬で土地を買いましたが、「その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」となっています。さらに、「このことがエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は『血の土地』と呼ばれるようになった」とされています。マタイでは、以下に見るように、この土地は違った経路で「血の畑」とよばれるようになったと説明されています。ユダの最後に関する伝承が、様々な形で伝えられていたことがうかがわれます。

 ユダが神殿に投げ込んだ銀貨を、祭司長たちは拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言って、その銀貨で「陶器職人の畑」を買い取り、外国人の墓地にします(六〜七節)。マタイが福音書を書いた時代(おそらく八十年代)には、エルサレム近郊に「血の畑」と呼ばれる土地があることは知れ渡っていたのでしょう。マタイは、その畑がこのように「罪のない人の血を流すことによって買い取られた土地」だから、そう呼ばれるようになったのだと説明します(八節)。その上で、この出来事全体が預言者エレミヤの言葉の実現だとするのです(九節前半)。
 
 ところが、マタイがエレミヤの預言として引用している言葉(九節後半〜一〇節)は、その通りの言葉としてはエレミヤ記にはありません。祭司長たちがユダに報酬として与えた金額「銀三十枚」はゼカリア書一二章一二〜一三節の言葉から来ています(前号の「ユダの裏切り」の項を参照)。そして、その中にある「鋳物師」と訳されているヘブライ語の単語が「陶器師」という意味もあることから、「陶器師」のところで主の言葉を聴いたことで有名な預言者エレミヤの体験(エレミヤ一八・二〜三)と、エレミヤが獄中で主の言葉を聴いて親戚(陶器師とは関係なし)の土地を買った物語(エレミヤ三二・六〜一五)をかなり自由に結びつけて、マタイがこのユダの物語を構成したと考えられます。

 ゼカリア書一二章一二〜一三節の預言に、「わたしは銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた」(新共同訳)とありますが、「鋳物師」では意味が通じないとして、シリア語訳ペシッタやアラム語タルグムでは、発音がほとんど同じの「賽銭箱」と読み替えています。協会訳はここを「さいせん箱」と訳しています。マタイは元のヘブライ語に「陶器師」という意味もあることを手がかりにして(新改訳が「陶器師」と訳しているのはマタイの引用を理解しやすくするためか)、ゼカリア書の預言とエレミヤ記の記事を、やや強引に結びつけたと考えられます。


  ピラトの裁判

 

ピラトの尋問

 最高法院がイエスに死罪の判決を下して、死刑を執行してもらうためにイエスを縛ってローマ総督ピラトに引き渡した場面まで語ったところで、ユダの自殺の記事を入れたマタイは、ピラトによるイエスの尋問の場面(二七・一一〜一四)を再開します。ピラトの法廷の場面は、基本的にはマルコと同じです。
 
 ピラトの尋問は、「お前がユダヤ人の王なのか」という問いです。大祭司らがピラトに訴え出た訴因はとくに報告されていませんが、ピラトの質問から見て、イエスはメシアを自称して、ローマに対する反逆を扇動する者であると訴えたことが分かります。ルカ(二三・二)はピラトへの訴えの内容を、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めることを禁じ、また、自分が王たるメシアであると言っていることが分かりました」と伝えています。最高法院は、神を汚す者という宗教的な理由で死刑に定めたのですが、宗教的な問題でローマの法廷に訴えることはできないので、反ローマ運動の扇動という政治的理由で訴えて処刑を求めたのです。
 
 おそらく、ピラトのこの問いには驚きと侮蔑が混じっているのでしょう。ユダヤ人の権力者たちがローマへの反逆を企てる危険人物として引き渡した人物は、逮捕に向かった部隊に何の抵抗もせず捕らえられ、僅かの追従者たちにも見放されて、縛られた姿で立っている三十歳代の普通のユダヤ人です。おそらく、ピラトのもとにはイエスがナザレの大工であり、、最近僅かの弟子を引き連れてガリラヤの各地で新しい教えを説いて回り、貧しい民衆の帰依を得ていたカリスマ的な宗教指導者であるという情報は届いていたことでしょう。ユダヤ人の宗教熱心に手を焼いていたピラトは、このような一介の大工をメシアとしてかついで騒ぎを起こすユダヤ人を侮蔑して、「またか」という思いでこの質問を発したのでしょう。
 
 ピラトの尋問に対して、イエスはただ一言、「そう言うのはあなたの方だ」(私訳)と答えられます。裁判の場でイエスは沈黙を押し通されますが、イエスが法廷で発せられたただ一つの言葉がこれです。イエスがユダヤ人の王であると言う(主張する)のは、イエス自身ではなく(イエスご自身は公にメシアであると主張されたことはありません)、イエスをピラトに訴えたユダヤ人であり、それを受けてイエスをローマへの反逆者として処刑しようとしているピラトの方です。イエスはすでにご自身の受難が神の定めによるものであることを受け入れておられます。そして、今ピラトがイエスの処刑を実行する立場にある神の道具であることも認めておられるのです。ローマに対する反逆者を意味する「ユダヤ人の王」という称号を、ピラトが処刑の理由として言い張ること(ヨハネ一九・一九〜二二)、そう言い張らざるをえないことも見抜いておられるのです。法廷でイエスが発せられたこの唯一の言葉は大切に伝承されて、四つの福音書すべてに記録され伝えられています。
 
 この後も祭司長たちはイエスの宣教活動での些細な言動を捉えて、イエスが民衆の反ローマ感情を扇動するいかに危険な人物であるかを言い立てます。しかし、イエスはもはや一言も答えようとはされません。「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と、抗弁を促すピラトに対してもイエスは沈黙を通されます。おそらくピラトは、自分を死に追い込もうとする激流の中で、このように泰然と黙することができる人物の威厳と神秘に打たれて、畏怖を覚えたことでしょう。
 
 

バラバの釈放とイエスへの死刑判決

 ここまでのピラトの訊問とイエスの答えの記事については、マタイはマルコに従っていますが、ピラトがバラバを釈放してイエスに死刑の判決を下す部分(二七・一五〜二六)では、マタイはかなりマルコから離れて編集の手を加えています。共通の基本的な部分、すなわち祭りの度に囚人一人を特赦で釈放する慣行、バラバという人物、ピラトがイエスの無実を認めて釈放しようとしたこと、ねたみの動機、祭司長たちに扇動されて群衆がイエスの十字架刑を求めたことなどについて、とくにイエスが処刑されることになってバラバが釈放されたことの信仰的意義については、すでに『マルコ福音書講解』の87「ピラトの法廷」で詳しく述べていますので、それを見ていただくことにして、ここではマタイの記事の特色に重点をおいて見ていきます。
 
 ピラトは、イエスがローマへの反逆を扇動する者であるという確実な証拠を見出すことができないので、ユダヤ教最高法院からのイエス処刑の要求に困惑します。下手に扱えば自分の政治的将来に影響します。それで、最高法院の要求を拒否することなく、イエスを釈放する手段として、祭りのさいに囚人一人を釈放するという慣行を利用しようとします。ピラトは、民衆は当然イエスを釈放するように求めると考えていたのでしょう。それで、公開の法廷で、集まってきた人々に提案します。「あなたたちはどちらを釈放してほしいか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」(二七・一七)。この提案の理由については、マタイはマルコに従って、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」と説明しています(二七・一八)。
 
 マルコは「暴動のさい人殺しをして捕らえられていた暴徒の中に、バラバと呼ばれる男がいた」(マルコ一五・七私訳)と書いていますが、マタイは暴動とか暴徒という説明を略して、ただ「評判の囚人」としています(二七・一六)。ピラトの時代には熱心党によるローマに対する独立運動がだんだん過激になり、テロ事件も頻発していたので、「暴動のさい人殺しをして捕らえられていた暴徒」という具体的な説明は自然なことで、マルコはその説明を忠実に伝えています。ところが、マタイの時代は、すでにエルサレム神殿はローマ軍によって破壊され、ローマによる支配は一段と強化された時代ですから、暴動とか暴徒というような過激派を指す用語は使いにくかったのでしょう。
 
 ところで、マタイは「あなたたちはどちらを釈放してほしいか」という選択を、「バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と書いて(二七・一七)、たんに「バラバか、イエスか」というよりも、その選択の意義を劇的に表現しています。二人は同じ「イエス」という名であったのです。ピラトの問いは、「どちらのイエスを釈放してほしいか」という問いになります。これはマタイだけが伝えている事実です。ユダヤ人の男性の名として「イエス」は珍しい名ではなかったので、二人が同名であることは十分ありうることです。「バラバ」というのは呼び名で、「バル・アッバ」(師父の子)という意味です。バラバは高名な律法教師の子で、反ローマ独立運動の指導者として民衆の間で人気の高い人物であったので、「バラバ」という呼び名で広く親しまれていたのだと思われます。

 バラバの本名がイエスであることを伝えているのはマタイだけであり、そのマタイの写本にも「バラバ・イエス」と書いているものは、それほど多くありません。それで、バラバの本名をイエスと見てよいのかどうかについては、ずっと議論が続いてきました。これはすでにオリゲネスも指摘している点ですが、本来イエスという本名が知られていたのであるが、暴徒に救い主と同じ名を用いるのを避けて、伝承とか写本の段階で落ちていったのではないかと考えられます。現在の底本はイエスを[ ]に入れて、「バラバ・イエス」という読み方に写本上の問題があることを示していますが、新共同訳はこの読み方を採用して訳しています。

 ここで、ローマ総督によってユダヤ民族に選択が迫られているのです。バラバ・イエスによって代表される武力闘争によって異教徒支配を覆し神の支配を実現しようとする路線を選ぶか、ナザレのイエスが宣べ伝えた恩恵の支配としての霊的・終末的神の支配を受け入れる道を選ぶのか、選びの民イスラエルに選択が迫られているのです。イスラエルはバラバを選ぶことによって破滅への道を進むことになるのです。
 
 ここでマタイは、マルコにはない(そして他のどの福音書にもない)独自の記事を挿入します。ピラトが裁判の席に着いているとき、ピラトの妻が使いを送って、「あの義人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と言ってきたのです(二七・一九)。誕生物語によく用いられているように(一章二〇、二章一二、一三、一九、二二節)、マタイは夢を神からの啓示の手段として重視していますので(新約聖書で夢という語が出てくるのは、使徒言行録二章のヨエル書の引用を別にして、マタイ福音書だけです)、ここでもピラトの妻の夢でイエスが義人であることを強調するのです。
 
 「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」というピラトの問いかけに、裁判の席に居合わせた祭司長たちや長老たちに扇動されて、群衆は「バラバを」と叫びます。公開の裁判の席で、祭司長たちが群衆をどのように「説得した」(新共同訳)のか分かりませんが、おそらく群衆の先頭になって真っ先に「バラバを」と叫んだのでしょう。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」という問いかけに、群衆は「十字架につけろ」と叫びます(二七・二〇〜二二)。十字架刑はユダヤ教の処刑法ではなく、ローマが反逆する属州民に科す処刑法です。ここでユダヤ人群衆がイエスを異教の支配者に引き渡しているのです。
 
 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたのか」と言って、無実の人間を処刑することをためらいますが、ますます激しく「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に押し切られます(二七・二三)。ここまでは、マルコと同じですが、マタイは次にマタイだけの独自の記事を入れます。ピラトは騒動になることを恐れて群衆の声に屈しますが、そのさい群衆の前で水で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言います。ピラトは、イエス処刑は自分の責任ではない、ユダヤ人自身の問題だとするのです。それに対して、ユダヤ人の群衆はこぞって、「その血の責任は我々と子孫にある」と答えます(二七・二四〜二五)。ユダヤ人は民族全体としてイエス処刑の責任を引き受けたというのです。「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために(処刑を執行する兵士たちに)引き渡した」のです(二七・二六)。
 
 この中で、マタイだけにある二四〜二五節、とくに二五節の「その血の責任は我々と子孫にある」という記事は、その後のユダヤ人の歴史に重大な影響を及ぼしました。どの福音書もイエスの処刑については、ローマの責任を軽くしてユダヤ教側の責任を重く描く傾向があります。これは、ローマが支配する社会でイエスの福音を宣べ伝えるにさいして、イエスはローマの支配者も無罪であることを認めており、イエスを信じる信仰はローマ社会に危険なものではないと弁証するための護教的動機から出ています。ローマの責任を軽くする分、ユダヤ教側の責任を重くすることになります。マタイはこの傾向を徹底しています。ピラトは水で手を洗うという象徴的な行為をもって、自分はイエスの処刑について責任がないことを公に宣言し、イエス処刑はユダヤ人の中の問題だと宣言します。すなわち、イエスの処刑はローマには責任はなく、ユダヤ人に責任があり、ユダヤ人自身が「その血の責任は我々と子孫にある」と叫んでその責任を認めている、とマタイは書くのです。
 
 この「その血の責任は我々と子孫にある」という言葉が新約聖書にあるため、その後の歴史においてキリスト教会がユダヤ人を迫害することが正当化されました。ユダヤ人は神の子であるイエス・キリストを殺した民であるから、子々孫々にいたるまでその責任を追及されるべきであるという考えが、この言葉によって根拠づけられてきました。しかし、この言葉は、ユダヤ教会堂と厳しい対決の状況にあるマタイの共同体が、その時代のユダヤ教に向かって投げつけた断罪の言葉であるという点を見落としてはなりません。先に(第10章の中の「マタイの反ユダヤ教論争」の項で)見ましたように、マタイの論争と断罪はユダヤ教内部の論争なのです。イエスをメシア・キリストと信じるマタイのユダヤ人共同体と、彼らを異端として迫害する当時のファリサイ派ユダヤ教会堂との論争なのです。マタイがその責任を求めるのは、ユダヤ人全体ではなく、イエスを拒否したユダヤ教最高法院やファリサイ派会堂なのです。彼らはエルサレム神殿の破壊、ユダヤ人の追放というような厳しい審判を受けました。しかし、神はマタイの共同体をはじめ、多くのイエスを信じるユダヤ人を残されて、最後にはユダヤ人を救われます。パウロがローマ書九〜一一章で述べていますように、ユダヤ人は最後まで救済史の中心にいます。この言葉を根拠にして、キリスト教徒がユダヤ人をユダヤ人であるからといって迫害するのは、甚だしい聖書の読み違えです。
 
 

  十字架につけられるメシア

 

ゴルゴタへの道

 マタイによるメシア・イエスの物語もいよいよ最後の局面を迎えます。イエスの十字架上の死と三日目の復活です。この物語において、イエスの十字架上の死については、マタイはほぼマルコに従っていますが、復活の物語においてはかなりマルコと違っています。今回も、マルコと重なっている部分は「マルコ福音書講解」に委ねて、マタイの物語の特色に重点を置きながら、マタイによるメシア・イエスの物語の結末をなす部分を見ていくことにします。

 十字架刑の歴史とその実際の処刑方法などについては、『マルコ福音書講解』88「十字架」を参照してください。

 ローマ総督ピラトは、群衆の前で手を洗ってイエスの死に責任はないと表明しながら、「鞭打ってから十字架につけるために」イエスを処刑役の兵士たちに引き渡します(二七・二六)。ローマの兵士たちは、総督官邸の中庭に連れて行き、十字架刑で処刑される囚人を扱う通例通りに、イエスを激しく鞭打ち、徹底的になぶりものにします。そのさい、イエスは「ユダヤ人の王」を僭称するローマへの叛徒として処刑されるので、イエスを王に見立てて侮辱するという行為が加わります。兵士たちは「イエスの着ている物をはぎとり、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って侮辱」します。さらに「唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩き続け」ます(二七・二七〜三〇)。この箇所はほとんどマルコと同じです。強いて違いを捜すと、マルコが「紫の服を着せ」としているところを、マタイは「赤い外套を着せ」としているぐらいです。これはどちらもローマの兵士が用いる深紅色のマントを指しているのでしょう。一言も発せず黙って侮辱を受けておられるイエスの姿を語るとき、マタイは「(わたしは)打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さず、嘲りと唾を受けた」というイザヤ(五〇・六)の預言を思い浮かべていたことでしょう。
 
 兵士たちはイエスを存分になぶりものにして侮辱した後、「外套を脱がせ、元の服を着せ、十字架につけるために(イエスを)引いて」行きます(二七・三一)。死刑囚は、兵士に四方を囲まれ、罪状書きの札を首つるされ、自分がつけられる十字架の横木を背負って刑場まで歩かされます。夜を徹しての裁判と、直前の激しい鞭打ちのため、極度に衰弱しておられたのでしょう、イエスは途中で倒れます。そのとき「シモンという名前のキレネ人に出会ったので、(兵士たちは彼に)イエスの十字架を無理に担がせ」ます(二七・三二)。このシモンというキレネ(キュレネまたはクレネとも呼ばれるユダヤ人居住者が多い北アフリカの大都市)出身のユダヤ人は、おそらく過越祭のためにエルサレムに巡礼に来ていたのでしょう。マルコは「アレキサンドルとルフォスの父シモン」と二人の息子の名を上げていますが、マタイは息子の名を省略しています。マルコが福音書を書いた地域と時代には、二人の息子は教団の中でよく知られた人物だったので、この伝承の確かさを示すために名を上げたのでしょう。しかし、マタイの地域と時代には知られていないので、息子の名を上げる意味はなくなっていたと考えられます。
 
 こうして、イエスは処刑の場所である「ゴルゴタというところ、すなわち『されこうべの場所』」に着きます(二七・三三)。当時の処刑は、見せしめにするため街道沿いの目立つ場所で行われました。エルサレムの城門を出た街道沿いに頭蓋骨のような形をした小高い丘があって、そこで十字架刑がよく行われたのでしょう。イエスはその「ゴルゴタ」で十字架につけられます。

 ピラトの裁判が行われたとされるアントニア要塞跡と、ゴルゴタの地に建てられたとされる聖墳墓教会を結ぶ街路が「ウィア・ドロロサ」(ラテン語で悲しみの道)と呼ばれ、現在巡礼者がイエスの受難を偲ぶ場所になっていること、またゴルゴタの位置については、『マルコ福音書講解』88「十字架」を参照してください。


十字架刑

 処刑の場所であるゴルゴタに着いたとき、執行役の兵士たちはイエスに「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで飲もうとはされなかった」(二七・三四)と、マタイは伝えています(マルコでは「イエスはお受けにならなかった」)。そして、兵士たちがイエスの手を横木に釘付けにし、その横木を縦木に沿って引き上げて固定し、イエスの足首を縦木に釘付けるという残酷な作業を、「彼らはイエスを十字架につけると」という(分詞形の)ごく短い句で述べて、「くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた」(二七・三五〜三六)と、彼らの行動を描きます。囚人の衣服を刑吏が取るのはローマの習慣であったようですが、すでにマルコ(あるいはマルコが用いた受難物語伝承)はこれをほとんど詩編(七十人訳ギリシャ語聖書の詩編二二・一八)の言葉をそのまま用いて描いています。マタイもすこし短い形で詩編の言葉を用いて描き、イエスの十字架が聖書の預言通りに起こっていることを強調します。
 
 マルコ(一五・二五)には「イエスを十字架につけたのは、朝の九時であった」という文がありますが、マタイは(そしてルカも)この時刻の表現を省略しています。ヨハネ福音書(一九・一四)によると、ピラトの判決は正午ごろですから、イエスが十字架につけられたのは正午よりも後になります。イエスはその日の夕方までには(マルコでは午後三時に)絶命しておられるのですから、ピラトが不審に思うほど短時間で絶命されたことになります(マルコ一五・四四)。ピラトの不審からすると、正午より後に十字架につけられたとするヨハネ福音書の伝承の方が正しい可能性があります。マタイはこの伝承を知っていて、マルコの時刻を採用しなかったのかもしれません。

 マタイとルカの両方がマルコの「朝の九時」という時刻の表現を省略しているのですから、「マルコ福音書講解」(著作ではUの291頁)の一五章二五節についての文を訂正しなければなりません。「マルコを初め共観福音書が午前九時とする」を「マルコが午前九時とする」と、また、「共観福音書では六時間ほどになる」を「マルコでは六時間ほどになる」と訂正します。ただし、マタイとルカがヨハネの伝承にある「正午より後」という時刻を採用しているわけではありません。マタイもルカも、十字架につけられてからある程度の時間が経った後、「昼の一二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた」というマルコ(一五・三五)の時刻にそのまま従っています(二七・四五)。したがって、マタイとルカはイエスが十字架につけられた時刻を正午より前にしていることになります。

 処刑者の頭より上の縦木に、処刑の理由を示す「罪状札」が打ちつけられます。その罪状札には「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていたとマタイは伝えています(二七・三七、なおマルコでは「ユダヤ人の王」だけ、ルカは「これはユダヤ人の王」としています)。これは、イエスが「ユダヤ人の王」であると称してローマへの反逆を企てた叛徒として処刑されたことを公示するものです。ヨハネ福音書(一九・二〇)は、この「ユダヤ人の王」という罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと伝えています。マタイにはこの記事はありませんが、これを否定する記事もありません。ヘブライ語は神の選民ユダヤ人の宗教言語、ラテン語は世界の政治的支配者であるローマ人の公用語、ギリシア語は当時の文化世界の共通語でした。メシア・キリストであるイエスの死は、この三つの世界が重なるところで起こった出来事です。この三つの世界はそれぞれ、十字架の上に死なれたイエスこそが自分たちの世界のまことの王であることを知らなければならないのです。処刑の理由としてピラト自身が書いたこの「罪状書き」(ヨハネ一九・二二)は、逆説的にイエスの十字架の世界史的意義を告知しているのです。
 
 ここで初めて「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた」(二七・三八)ことが出てきます。「強盗」というのは、先に見たように、たんなる物取り強盗の類ではなく、ローマへの武力反抗を試みる叛徒です。ローマ人は属州民(被支配民族)や奴隷の叛徒を数人まとめて十字架刑で処刑する習慣があったようです。十字架刑は見せしめのため人通りの多い街道沿いの処刑場で行われたので、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながら、イエスをののしった」(二七・三九)のです。「頭を振りながら」という表現には、詩編二二編八節が響いています。ここでも受難物語伝承が、イエスの出来事は旧約聖書の預言を成就するものであるという視点で形成され、語り伝えられていたことがうかがわれます。
 
 彼らは「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言ってイエスをののしります(二七・四〇)。そして同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒にイエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(二七・四一〜四三)と言います。この侮辱の言葉は、イスラエルの王であり神の子であるメシアは異教の支配者を撃ち破り、イスラエルを解放する者でなければならない、異教の支配者に処刑されるような者はメシアではない、というユダヤ教神学から出ています。「神に頼っている神の子であるなら、神に救ってもらえ」という言葉は詩編二二編九節を響かせています。この「お前が神の子ならば」という語りかけは、荒野の誘惑のときのサタンの言葉を思い起こさせます。イエスはすでにゲッセマで、神の十二軍団を送っていただいて受難を免れるという誘惑を退けて、十字架の苦しみを父の御心として受け入れておられます。同じ誘惑をサタンは祭司長たちの口を通して最後の瞬間まで続けるのです。
 
 イエスは、十字架の上で言葉には言い表せない苦痛に耐えながら、この侮辱をお受けになります。マタイはとくに「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」がこのように侮辱したと書いています。実際の処刑の現場に、このような階層の人たちがどれほど居合わせたのかは分かりませんが、マタイはこのように書いて、イスラエルを代表する人たち(最高法院を構成する人たち)がイエスを侮辱したことを強調するのです。これは、現在マタイの宗団と対立するユダヤ教会堂が「十字架につけられたメシア・イエス」を侮辱し続けている姿勢を、彼らの代表者の姿で語っているのです。
 
 彼らは「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と言っています。この言葉は、「十字架につけられたメシア」はユダヤ人には最大のつまずきであることを物語っています。イエスは実際には十字架から降りることなく、十字架の上で絶命されます。このイエスを福音は救済者キリストとして宣べ伝えるのです。イエスは、神の御旨に従い、十字架から降りないで死なれたからこそ、罪人を救う救済者となられたのです。ところが、イエスをキリストとする者の中でも、「十字架につけれたキリスト」をつまずきとする人たちは、十字架上に死んだのはキリストではなく仮の姿で現れた者に過ぎないとして(仮現論)、なんとかキリストを十字架から降ろそうとするのです。これは「十字架につけられた神の子」をののしった祭司長たちの立場と変わらないことになります。
 
 さらに、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(二七・四四)と伝えられています。この「強盗たち」もローマへの反逆の罪で処刑されることになった過激派ユダヤ人であったのでしょう。志破れて処刑されることになった無念さから、イエスのように神の力に満ちた指導者が反ローマ運動に立ち上がらず、むざむざと十字架上に処刑されるようになったことをののしったと思われます。彼らも「同じように」、十字架から降りて見せてこそ神の子メシアであるにふさわしいと考えているのです。

 ルカ福音書(二三・三九〜四三)はここを、二人の中の一人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対して、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われた、という劇的な場面にしています。この場面については別著『キリスト信仰の諸相』の第四部「希望の諸相」第二講を参照してください。


イエスの死

 このように十字架につけられたイエスが絶命されるところを、マタイは基本的にはマルコに従って叙述を進めていきます。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(二七・四五)のです。この全地をおおう暗闇は、預言者たちが終わりの日に神が世界を裁かれるときに起こると預言していた暗闇です。それは世界に対する神の終末的な審判を象徴する暗闇です。預言者アモス(八・九)は、「その日が来ると、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」と主は言われる、と叫んでいます。この神の裁きの暗闇の中で、イエスは大声で叫ばれます、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と(二七・四六)。
 
 これは詩編二二編の冒頭の言葉です。マタイも(マルコと同じように)この聖書のヘブライ語をギリシア語で、「これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と説明しています(二七・四六)。イエスが最後にこのような神を恨む言葉と受け取られかねない言葉を発せられたことを弁護しようとして、様々な解釈が行われてきました。マルコを知っているはずのルカが、この言葉を発せられた記事を省略して、代わりに、イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取られたとしているのも、このような動機からだと見られます(ルカ二三・四四〜四六)。ルカはイエスの死を立派な殉教者の死として描くのです。
 
 また、この言葉は詩編二二編の冒頭の句であることから、イエスは最初の句を唱えることで詩編二二編全体を祈られたのだという説明がなされます。ユダヤでは文書などの全体を最初の一行で代表させる習慣がありました。たしかに、詩編二二編は人からも神からも見捨てられたという悲痛な叫びで始まっていますが、終わりには神への信頼と賛美になっています。それで、イエスは最初の句を唱えることで、詩編二二編全体が示している神への信頼を叫ぼうとされたのだという解釈です。しかし、この解釈はゲッセマネの祈りを無意味にします。イエスはゲッセマネで神の裁きという「怒りの杯」を突きつけられて苦悶されたのです(詳しくは『マルコ福音書講解』83「ゲッセマネの祈り」を参照)。いまその杯を十字架の上で、神の裁きの暗闇の中で飲み干しておられるのです。父と親しい交わりに生きてこられた子であるイエスが、いま人間の罪に対する神の裁きによって見捨てられた者として、地獄の苦悩を味わっておられるのです。父も子と共にあって苦しんでおられるのです。世を救うために愛する子を裁きに引き渡した父として苦しんでおられるのです。この御父と御子の苦しみこそ、背く人間に対する神の限りない愛の現れなのです(詳しくは『マルコ福音書講解』の当該箇所を参照)。
 
 ところで、マルコの「エロイ、エロイ」という神への呼びかけの言葉を、マタイは「エリ、エリ」と書き換えています。マルコは当時の日常語であったアラム語の発音で伝えていますが、マタイはそれを聖書のヘブライ語そのままを引用する形で書いているのです。おそらくマルコは十字架の傍でイエスの叫びを聴いた女性たちの伝えた言葉を語り伝えたアラム語の伝承を用いたのでしょう。マタイは日常聖書に親しんでいる学者として、聖書のヘブライ語の表現をそのまま用いたと見られますが、同時に周囲の者たちがこの叫び声をエリヤを呼んでいると聞き違えたという次節の記事との続き具合をよくするためであったことも考えられます。「エロイ」という発音ではエリヤの名との取り違えは不自然になるからです。
 
 当時ユダヤ人の間には、義人の苦難にさいしてエリヤが天から助けに来てくれるという信仰がありました。イエスの叫びをエリヤの助けを呼び求めているのだと取り違えた周囲の者たちの一人が、「走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけて、イエスに飲ませよう」とします(二七・四八)。マタイはここに詩編六九編二二節の成就を見ていたのでしょう。すると「他の者たち」が「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います(二七・四九)。ここはマルコと少し違います。マルコ(一五・三六)では、この言葉はイエスに酸いぶどう酒を飲ませようとした者が言ったことになっています。マルコでは、槍で突いたり足を折るなどして処刑を完了しようとした者たちを押し止めて、一人の者が「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言って、イエスをもう少し生かしておくために、気付け用に「酸いぶどう酒」を飲ませようとしたことになります(「酸いぶどう酒」《オクソス》というのは、ローマ兵が元気を回復するために用いた、水と酢と卵を混ぜ合わせた飲み物を指すと見られます)。マタイではイエスの叫びを聞いた一人の者が、死にいく者に与える最後の飲み物を与えようとしたのを、他の者たちが押し止めてこう言ったことになります。いずれにしても、イエスはこのぶどう酒を受けることなく、「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです(二七・五〇)。マルコは単純に「息絶えた」と書いていますが、マタイは「霊を注ぎ出された」、あるいは「霊を引き渡された」という表現を用いています。
 
 その時、「神殿の垂れ幕(聖所と至聖所を隔てる垂れ幕)が上から下まで真っ二つに裂け」ます。この点はマルコと同じですが、マタイはその後にマルコにはない記事を入れます。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(二七・五一〜五三)。「神殿の垂れ幕が裂けた」こと自体すでにエルサレム神殿で神を礼拝する時代が終わったことを象徴していますが(「マルコ福音書講解」の当該箇所参照)、マタイはさらに預言書や黙示思想文書で終末時に起こるとされていた出来事が起こったことを書き加えて、イエスの十字架上の死が終末の到来をもたらす出来事であることを強調するのです。
 
 神が裁きを成し遂げられる終わりの日には、地は震い動き(エレミヤ一〇・一〇など)、大地は裂け(イザヤ二四・一九など)、死者は生き返る(エゼキエル三七章)と、すでに預言者たちは語っていました。そして、さらに後の時代の黙示思想文書は、終わりの日には神に属する聖徒たちが死者の中から(墓の中から)復活することを待ち望んでいました(ダニエル一二・二、イザヤ二六・一九、ラテン語エズラ記七・三二、その他エチオピア語エノク書など)。当時の敬虔なユダヤ教徒は、終わりの日に死者が復活することを信じ、死者の復活が最初に起こるとされていた聖都エルサレムを望むオリーヴ山の山腹に墓を持つことを願ったのです。イエスの復活顕現を体験した最初の弟子たちは、イエスの復活によってこのような終わりの日が到来し、死者の復活が始まっていることを体験しているのだと理解し、確信したのです。マタイがここに書きとどめている章句(二七・五一〜五三)は、このもっとも初期の弟子たちの理解と確信の痕跡を保存していると見られます(エレミアス)。

 マタイだけにあるこの章句(二七・五一〜五三)は問題が多く議論が絶えません。「聖徒たち」とは誰を指すのか、ペトロT三・一九〜二〇に見られるようなキリストの陰府への降下との関連はどうか、など困難な問題があります。しかし、「眠りに入った聖徒たち」、「からだ」、「起こされる」、「(人々に)見られる、現れる」など、(コリントT一五章に見られるように)初期の教団が復活信仰を語るときに用いた用語が多く用いられていることは、この章句が初期の教団の復活信仰を響かせていることをうかがわせます。ただ「彼の復活の後」という句(「彼らの復活の後」と読む写本も僅かながらあります)は、イエスよりも先に復活した人たちがいるのは、イエスを最初の復活者(初穂)とする福音の告知に合わないので、修正のために後から加えられた句であると理解する方がよいでしょう。すなわち、たしかに聖徒たちは復活したのであるが、それはイエスの死の時ではなく、「彼(イエス)の復活の後」であったとするのです。

 マタイはイエスの死の場面を、「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(二七・五四)という一節で締め括ります。これは、マルコ(一五・三九)が「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」こう言ったとしているのと少し違います。マルコでは、百人隊長はあくまでイエスの姿だけを見てこう言ったのです。すなわち、異邦人の百人隊長は十字架上に死ぬもっとも卑しい姿のイエスに神の子として本質を認めたのです。マルコはこの告白を「神の子イエス・キリストの福音」の締め括りとしているのです。それに対してマタイでは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ」こう告白したとしています。マタイは、イエスの死にさいして起こったこのような終末的な出来事(五一〜五三節)をもって、イエスが神の子であることのしるしとするのです。そして、十字架上に死ぬイエスを神の子と信じるように世に呼びかけるのです。
 
 イエスが十字架につけられて死なれたとき、その場所に弟子たちはいませんでした。ゲッセマネでイエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです(二六・五六)。そこにいてイエスの最後を見届けたのは女性たちだけでした。マタイは「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」(二七・五五)と伝えています。この女性たちは、イエスがガリラヤで活動しておられたとき、「自分の持ち物を出し合って、(イエスと弟子たちの)一行に奉仕していた」(ルカ八・二〜三)女性たちです。イエスの宣教活動も裏でこのような女性たちの奉仕に支えられていたのです。彼女らは、イエスが意を決してエルサレムに上られるとき、愛の直感から悲劇を予感して最後までイエスに従おうとしてついてきました。男性の弟子たちがエルサレムでは栄光の座に座ることだけを考えていたのに対して、女性たちはイエスの死の苦しみを共にしようとしてついてきたのです。この対照は、ベタニアで香油を注いだ女性の記事によく出ています。
 
 続いてマタイは「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(二七・五六)と三人の女性の名をあげています。この三人の中の二人は後に、イエスが葬られた墓の場所を見届け(二七・六一)、週の初めの日の朝に墓を見に行って、墓が空であることを見つけた最初の証人となるので(二八・一)、イエスの復活証言においてきわめて重要な位置を占めることになります。とくにマグダラのマリアは、復活されたイエスが最初に姿を現された人物として重要で(マルコ一六・九、ヨハネ二〇・一一〜一八)、どの場面でもいつも最初に名が上げられています。

 この三人の女性は初期の教団で著名な女性であったのでしょう。マグダラのマリアについては拙著『マルコ福音書講解U』の90「マルコ福音書の結び」330頁以下を参照してください。「ヤコブとヨセフの母マリア」は、ヨハネ(一九・二五)との比較から、クロパの妻マリアであると推定されます。「ゼベダイの子らの母」は、「十二人」の中の「ゼベダイの子ら」であるヤコブとヨハネの母ということで、教団にはよく知られていたと考えられます。マルコ(一五・四〇)があげている三人の女性の名との比較から、この「ゼベダイの子らの母」の名はサロメであったと推定されます。このサロメはトマス福音書を含む(グノーシス系の)新約外典によく出てきます。また、ヨハネ福音書(一九・二五)だけがイエスの母マリアがそこに居たことを伝えていますが、そこに母マリアと一緒にいた「(イエスの)母の姉妹」は、マタイのこの箇所と突き合わせると「ゼベダイの子らの母」に相当するので、イエスと「ゼベダイの子ら」(ヤコブとヨハネ)は従兄弟にあたることになります。

 

  メシア・イエスの復活

 

埋葬

 このように、イエスは十字架の上で絶命されます。その時すでに日没が近い夕方になっています。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」(マルコ一五・四二)、日没までに急いで遺体を十字架から取り降ろして埋葬しなければなりません。日没とともに安息日が始まると、このような作業は安息日律法で禁止されているのでできなくなり、「木にかけられた死体は、かならずその日のうちに埋めなければならない」(申命記二一・二二〜二三)という律法を守れなくなるからです。マタイはこの日が「準備の日、すなわち安息日の前日」であることをここでは明言してませんが、後(二七・六二)で間接的に説明しています。
 
 弟子たちはみな逃げ去って誰もいません。その場に居た女性たちはどうしたらよいのか途方にくれたのではないかと想像されます。その時、「アリマタヤ出身のヨセフという人」が現れて、イエスの遺体をユダヤ教の慣例に従って丁重に埋葬します(二七・五七〜六〇)。このヨセフの行動は、福音の宣教において重要な意味を持つことになるので、四つの福音書はみな詳しく報告しています。もしヨセフがイエスの遺体を墓に埋葬しなければ、当時の律法規定からすると、イエスの遺体は犯罪者墓地に放棄されたかもしれず、「空の墓」という復活証言はありえなかったことになるからです。
 
 マルコを初め他の福音書はヨセフをアリマタヤ出身の「名望ある議員」であるとしていますが、マタイは「議員」という身分を省略し、ただ「金持ち」という説明だけをつけています。議員であってもなくても、「金持ち」として地方の有力者である者にとって、「ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるように願い出る」ことは、勇気のいる行動です。イエスはユダヤ教の最高法院で異端として死刑の判決を受け、ローマ総督によって反逆の罪で処刑された人物です。そのイエスの遺体を引き取って葬ることは、自分もイエスの仲間と見られる危険があります。それまで「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ一九・三八)ヨセフは、ここにきて意を決してイエスの仲間であることを公に言い表す行動に出るのです。ヨセフは、このとき「ユダヤ人たちを恐れて」逃げ去った弟子たちよりも、信仰では勝ります。また、まだ復活の報知もない時に十字架につけられたイエスを言い表すことにおいて、われわれの信仰に勝ります。マルコとルカはヨセフのことを「神の国を待ち望んでいた」という、やや漠然とした表現で描いていますが、マタイははっきりと「この人もイエスの弟子であった」と言って、弟子としてのヨセフの行動を賞賛するのです。
 
 「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去」ります(二七・五九〜六〇)。イエスの遺体を葬った墓がヨセフの墓(ヨセフが自分のために用意しておいた墓)であったことを伝えているのはマタイだけです。他の福音書はみな、たまたまそこにあった新しい墓にイエスの遺体を納めたという印象を与える書き方をしています。エルサレムから(北西へ)四〇キロも離れた地中海近くの町アリマタヤの人であるヨセフがエルサレムに墓地を用意していることは考えにくいので、他の福音書の記事の方が自然に感じられますが、当時の裕福なユダヤ人がエルサレム近郊に墓地を持つことを願ったという事実(前述)を考慮しますと、それがヨセフが自分のために用意した墓であったこともありえます。それがヨセフの墓であったかどうかは、復活証言としての「空の墓」にとって重要ではありません。いずれにしても、それが「新しい墓」であったことが重要です。「新しい墓」ではなく、すでに使用された墓であれば、その墓をイエスの復活証言とするためには、そこに残っている遺骨がイエスのものでないことを証明しなければならなくなるからです。
 
 「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(二七・六一)とあるのは、この二人が「イエスの遺体を納めた場所を見とどけた」(マルコ一五・四七)という意味です。後に墓が空であったことが復活証言として重要な意味をもつことになりますが、その空の墓が間違いなくイエスの遺体を納めた墓であることを確認する証人として、二人のマリアの名がここに置かれています。そして、この二人のマリアが自分たちの見とどけたこの墓に週の初めの日に行って(二八・一)、その墓が空であることを見つけるのです。
 
 

墓を見張る番兵

 マルコでは(ルカとヨハネでも)この後すぐに、物語は「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」女性たちが墓に行って、イエスの遺体を納めた墓が空になっているのを見つけることになります。ところが、マタイはここに他の福音書にはない独自の記事(二七・六二〜六六)を入れます。祭司長たちとファリサイ派の人々がピラトに番兵を置いて墓を見張るように要求したというのです。この記事は、イエスは復活して墓は空であったという弟子たちの宣教に対抗するために、弟子たちが遺体を盗んだのだという噂を反対者たちが言いふらしたという記事(二八・一一〜一五)と一体で、マタイだけにある特殊な伝承です。その噂についてはその記事のところで触れることにしますが、ここでは番兵を置いたという事実だけに着目します。
 
 「明くる日」というのは、イエスが絶命されたのは「準備の日」(金曜日)の日没が迫る頃でしたから、安息日(土曜日)ということになります。その日のことについて、マタイは「安息日に」と言わないで、「すなわち準備の日の翌日」という奇妙な説明を加えています(六二節)。安息日にユダヤ教の聖職者が異教徒ピラトの官邸に入ることはありえない(ヨハネ一八・二八参照)という考えから、この伝承を用いるに際して、マタイが「安息日」という語を避けて不自然な説明を入れたのかもしれません。
 
 祭司長たちと「ファリサイ派の人たち」がピラトに番兵を置くように要求した理由も不自然です。イエスが生前に御自分の受難を予告されたとき、復活の予告が含まれていたとしても、それはごく限られた弟子たちだけになされたのであり、しかも誰にも語るなという厳しい命令を伴っていたので、祭司長たちや律法学者たちが復活の予告を聞いたことはまずありえません。しかも「三日目まで見張るように」という期限は、イエスが三日目に復活されたという初期の宣教に対抗するために創られた物語であることを強く示唆しています。「ファリサイ派の人たち」の関与が強調されているのも、マタイの時代に対立していたユダヤ教会堂がファリサイ派ユダヤ教であったことから出ていると見られます。「人を惑わすあの者(あのいかさま師)」という言い方も、復活者イエスを拒否したファリサイ派会堂がイエスに投げつけた罵声です。この番兵に関する記事全体は、弟子たちがイエスの遺体を盗んで復活の宣伝をしているという反対者たちの噂に対抗するために、それが金で買収された番兵による作り話であるとする、教団側の(やや不器用に形成された)伝承をマタイが用いたものと見られます。
 
 祭司長たちの要求に対してピラトが言った言葉は、「あなたたちには番兵がいるのだから」(新共同訳)と「番兵を出してやるから」(新改訳、NTD)の二つの解釈があります。前者はユダヤ教側の神殿警備の警官を指し、後者はピラト配下のローマ兵士を指すことになります。後者の解釈は、番兵を出すことをピラトに願い出たという事実(自分たちの警備ではできないと考えて)と、この番兵たちがピラトの配下であることを示唆する二八章一四節の言葉に合わせるためであると考えられます。
 
 祭司長たちは兵士たちと一緒に墓に行って、ヨセフが墓の入り口をふさぐために転がしておいた大きな石(二七・六〇)に封印をして、番兵に墓を見張らせます。
 
 

空の墓

 「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」、女性たちが墓が空であるのを見出すという基本的内容はマルコと同じですが、マタイの「週の初めの日の明け方」の物語(二八・一〜八)はマルコとはかなり違っています。マルコでは三人の女性が墓に行きますが、マタイではサロメが抜けて、「マグダラのマリアともう一人のマリア(ヤコブの母マリア)」となっています。そして、マルコにあった遺体に香料を塗るという目的には触れられていません(二八・一)。
 
 マルコでは女性たちが墓に行くと石はすでに転がしてあったのですが、マタイでは「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(二八・二〜四)と、その情景が詳しく描写されます。「大きな地震」は終末の到来を告げる黙示思想的象徴(二七・五一参照)で、イエスの復活が終末の出来事であることを指し示しています。そしてさらに、石を転がしてその上に座った「主の天使」の姿が「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と、終末の出来事にふさわしい黙示文学的な用語で描かれます(二四・二七や黙示録八・五などの稲妻、黙示録四・四などの白い衣を参照)。この世のものでない威厳と栄光をまとった天使の出現に、「番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」のです。この点も、マルコの墓の中で女性たちに現れて語りかけた「白い長い衣を着た若者」とは違います。マルコ(一五・八)では、女性たちがこの天的な出現に恐れをなして、「震え上がり、正気を失った」のですが、マタイでは番兵たちがこうなって、女性たちは「恐れながらも大いに喜び」、報告のために墓を立ち去ることになります(二八・八)。
 
 主の天使は二人の女性に言います、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」(二八・五〜七)。この天使の言葉は、マルコが伝える白い衣の若者の言葉とほぼ同じです。天使はイエスの遺体を置いた場所を指して、「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と告知します。そして、マルコにはない「あの方は死者(複数形)の中から復活された」という言葉で、イエスの復活の意義が念を押すように付け加えられます。これは、イエスの復活を「死者たちの復活」の開始であると理解した初期の宣教の反映です(二七・五一〜五三の講解を参照)。
 
 天使の出現を見た女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです(二八・八)。この点は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」で終わるマルコ(一六・八)とは違います。マタイはマルコの結末を受け入れないで、復活されたイエスの顕現の物語を加えて、自分の「メシア・イエスの物語」を完結したものにしようとします。
 
 復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはこの二人の女性、すなわち「マグダラのマリアともう一人のマリア」です。復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはマグダラのマリアであるという伝承はかなり広く知られていたようで、マルコの終わり方を不自然として付加された「結び」の部分にも用いられています(『マルコ福音書講解U』330頁以下を参照)。また、ヨハネ福音書(二〇・一一〜一八)はマグダラのマリアへの顕現を詳しい物語にして、復活証言の最初に置いています。マタイはここまでの物語の流れに従って、「マグダラのマリアともう一人のマリア」と二人にしています。
 
 マタイの顕現物語は素朴に、報告するために走っていく女性たちに復活されたイエスが姿を現されたことを伝えています。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(二八・九)。ヨハネ(二〇・一七)では、復活のイエスはマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい(または「わたしに触らないように」)。まだ、父のもとへ上っていないのだから」と言っておられます。ヨハネの方は、復活者イエスは地上の人間が触れることができない次元の異なる世界からの顕現であるという本来の顕現体験の反映が残っていると考えられます。マタイでは二人が足を抱くことを押し止めないで、言葉をかけておられます。これは顕現体験をできるだけ身体的な行動をもって具体的に描こうとする後期の傾向(ルカの顕現物語を参照)を示しているのかもしれません。
 
 イエスは女性たちに言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(二八・一〇)。先に天使によって語られたことが、ここで復活のイエス自身によって、ガリラヤに行くように改めて指示が与えられます。これはガリラヤでの弟子たちへの顕現を準備する指示となります。
 
 ここで復活されたイエスが弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることが注目されます。これまで師と弟子の関係であったのが、復活によって新しい関係に入ることが示唆されていることになります。復活されたイエスに従う弟子たちは、もはや教師の教えを守る弟子ではなく、復活者イエスといのちを共にして歩む兄弟となるのです。復活者イエスは、御霊を受けて生きるキリスト者の中で長兄となられるのです(ローマ八・二九)。ヨハネ福音書(二〇・一七)はこの復活者イエスの言葉の伝承をさらに詳しく展開して、こう伝えています。「わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ、わたしは上る』と」。
 
 

遺体が盗まれたという噂

 ところが一方、「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」ので、「祭司長たちは長老たちと集まって相談し」、対策を講じます。彼らは兵士たちに多額の金を与えて、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と言います。(二八・一一〜一四)。
 
 この物語もやや不自然な点があります。もしこの番兵が神殿警備の兵士であるならば、祭司長たちが総督を説得する必要はないわけです。もし彼らがピラト配下のローマ兵であるならば、彼らが総督に報告せず、祭司長たちのところに行ったことは不自然です。それにローマの軍律では警護を委ねられた囚人を逃がした兵士は自らの命をもって責任を取らされたのです(使徒言行録一二・一九、一六・二七参照)。金をもらって承知できるような買収工作ではないのです。
 
 しかし、「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした」結果、この話(弟子たちがイエスの遺体を盗んだという噂)は「今日に至るまで」、すなわちマタイがこの福音書を執筆している時まで、「ユダヤ人の間に広まっている」ことになったというのです(二八・一五)。マタイは「ユダヤ人の間に」という表現を用いて、イエスを復活者キリストと告白する自分たちの集会に対立するユダヤ教会堂を指しています。彼らはイエスは復活したという使信に対して、このような噂を広めて対抗したのだと、マタイは報告しています。しかし、この報告は物語としては、これまでに見たように、不自然なところがあり、初期の教団でやや不器用に形成された伝承であると見られます。
 
 この物語の意義は、物語の細部ではなく、このような噂が敵対する陣営にあったという報告にあります。イエスは復活したという教団の宣教に対して、それを拒否するユダヤ教会堂がこのような噂を広めて対抗したという事実は、ユダヤ教会堂側も墓が空であったという事実は認めざるをえなかったことを意味しています。イエス復活の宣教は十字架の七週間後(ペンテコステ)にはエルサレムで始まっているのですから、敵対者は(イエスの遺体をどこに葬ったかは知っているはずですから)墓を開いてイエスの遺体を示すことができれば、弟子たちのイエス復活の宣教を木っ端微塵に打ち砕くことができたはずです。このような噂を広めて対抗したという事実が、敵対者たちはイエスの遺体を示すことができなかった、すなわち墓が空であったことを認めざるをえなかったことを示しています。
 
 弟子たちは墓が空であるのを見たから、イエスの復活を信じて大胆に宣べ伝えたのではありません。空の墓を見た後も弟子たちはまだ恐れて隠れていたことが、ヨハネ福音書(二〇章)などに報告されています。弟子たちは復活されたイエスの顕現を体験し、聖霊を受けることによって(両者は同じです)、イエスの復活を大胆に宣べ伝えることができたのです。その聖霊による復活者イエスの告白の中で、墓が空であったという事実もイエス復活のしるしとして大胆に宣べ伝えるようになったのです。
 
 それに対して、敵対するユダヤ教会堂の陣営では、墓が空であった事実をこのような噂をでっち上げて説明したのです。同じ事実を、信仰は復活のしるしとし、不信仰は詐術とするのです。イエスの誕生についても、まだ夫のない女性からの誕生を、信仰は聖霊による受胎とし、不信仰は姦通やレイプの結果とするのです。マタイ福音書は、イエスの生涯の初めの誕生と、生涯の終わりの墓を、このように信仰と不信仰の対立の物語で囲い込むのです。
 
 

ガリラヤでの顕現

 マタイは、手元にあるマルコ福音書(一六・八)の終わり方を納得せず、自分が受けている復活者イエスの顕現を伝える伝承の一つを用いて、自分の福音書の結び(二八・一六〜二〇)とします。
 
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(二八・一六)。墓で天使も復活されたイエスも、弟子たちにガリラヤに行くように指示されますが、どの山に行くのかは指示されていません。生前の予告(二六・三二)のときに指示があった可能性を否定できませんが、山の指示は「山上での顕現」の伝承を用いるためのマタイの編集と見てよいでしょう。「山上での顕現」を伝える伝承が初期に広く流布していたことは、それがペトロの手紙U(二・一六〜一八)にも用いられていることからも分かります。この山がどの山であるのか詮索する必要はありません。山上の説教や山上の変容の場合のように、山はいつも啓示の場所であり、最後の啓示も山で起こるべきなのです。

 「山上での顕現」伝承と「山上の変容」の記事(マルコ九・二〜八と並行箇所)の関係については、拙著『マルコ福音書講解U』351頁以下を参照してください。

 弟子たちはガリラヤの山で、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」のです(二八・一七)。復活されたイエスの顕現に接するという未曾有の体験が、「イエスを見て」というごく日常的な表現で語られています。「ひれ伏した」という動詞は、「ひざまずいて礼拝する」という意味の動詞で、ユダヤ教では本来人間に向かって用いられる動詞ではありません。マタイはこの動詞をすでに湖上で顕現されたイエスに対して用いて(一四・三三)、この出来事が復活者イエスの顕現物語であることを示唆していました。ここでは明白に復活されたイエスに対して神的礼拝を捧げている姿が描かれます。「しかし、疑う者もいた」という記述は、イエス復活の知らせを聞いた後も、弟子たちが困惑し動揺していたという他の福音書に見られる伝承を要約するような形になっています。
 
 復活されたイエスは弟子たちに「近寄って来て」言われます、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・一八〜二〇)。
 
 マタイは、この言葉を自分たちが復活されたイエスから聞いた(そして現に聞いている)言葉として掲げ、自分の福音書の結びとします。この結びの言葉は、マタイ福音書の特色を実によく示しています。その内容と言葉遣いは、まさにマタイのものであり、これまでに書いてきたことの結論です。
 
 最初に、マタイがこの福音書で告げ知らせるイエスは、復活によって「天と地の一切の権能を授かっている」方であることが宣言されます。イエスが復活されたという告知は、イエスが神によって高く上げられて、万物を支配する方となられたという告知でした。そのことは、ユダヤ教世界には聖書的な表現で「神の右に座し」と語られ(二六・六四、ローマ八・三四)、あるいはヘレニズム世界に対しては「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてひざまずく名」、すなわち《キュリオス》(主)という名を与えられた(フィリピ二・一〇〜一一)と語られたのです。この告知を、マタイは「天において、また地上において、一切の権能を授かっている」と表現するのです。イエスは復活によって、霊的諸存在がいる天界においても、地上の人間世界においても、一切を支配する権能をもつ方となられたのです。
 
 イエスがそのような方になられたのだから、世界のすべての民はこの方の支配に服し従うようにならなければなりません。そのことが、いかにもマタイ的な表現で語られます。復活されたイエスが弟子たちに与えられる命令は、「すべての国民を弟子とせよ」です。「弟子」という言葉は、ユダヤ教のラビ的な体質のマタイにとって、イエスとわたしたちの関係のすべてを表現する用語です。「弟子とせよ」という命令の内容は、「わたしがあなたたち命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉で説明されています。マタイがこの福音書に書きとどめた、「山上の説教」に代表されるイエスの教えを守ることが「弟子となる」ことであり、復活者イエスの支配の下にある民となることです。このように、「諸国民に福音を宣べ伝えよ」(マルコ一六・一五)ではなく、「諸国民を弟子とせよ」という言い方に、序章において見たように、イエスの言葉に従う新しい生き方を目指したユダヤ人の信仰運動である「語録資料Q」の流れに属していると見られるマタイの体質がよく出ています。
 
 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(新共同訳)と言われている「すべての民」は、「すべての国民」とか「すべての異教徒たち」とも訳せます。ここに用いられている語は、ユダヤ教では「異教徒」を指す用語です。ここでマタイははっきりと、異邦人に向かって宣教することを、復活されたイエスの命令として受けとめているのです。マタイは、地上のイエスが御自分の活動をイスラエルの範囲に限られていたことや(一五・二四)、弟子たちにも「異邦人の道に行くな」と教えておられたことを(一〇・五)、率直に伝えています。ところが今や、復活されたイエスはもやイスラエルの民だけの教師ではなく、全世界の主となられたのですから、すべての国民を教え導く方にならなければなりません。これも序章で見たように、ユダヤ人の間の宣教運動であった「語録資料Q」の運動が行き詰まり、異邦世界に活路を見出さざるをえなくなったマタイ宗団の状況が反映しています。
 
 この「すべての国民を弟子とせよ」という命令に、「出て行って」、「バプテスマを授け」、「守ることを教えて」という三つの(分詞形の動詞による)説明が加えられています(分詞形の意味はそれぞれ、出て行くことによって、バプテスマを授けることによって、教えることによって、という意味の説明と理解できます)。「出て行って」という句には、どこからどこへ出て行くのかは言われていませんが、マタイの状況からすれば、ユダヤ教の世界から広く異教世界に出て行くことが指し示されていると見られます。
 
 次に「父と子と聖霊の名の中へ彼らをバプテスマして」(直訳)という句が来ます。「バプテスマする」というのは、ここでは「バプテスマ(洗礼)儀礼を行う」ことですから、「バプテスマ(洗礼)を授ける」と訳してよいでしょう。「〜の名の中へ」という表現は、その名で呼ばれる方に属する者になることを言い表すことを意味します。もともと初期のバプテスマは「イエスの名の中へ」(使徒言行録八・一六)、または「イエスの名によって」(使徒言行録二・三八)なされました。すなわち、イエスをキリストと信じて、イエスに属するものとなることを言い表す行為(儀礼)であったのです。ところが、マタイの教団と時代では、「父と子と聖霊の名の中へ」バプテスマする、すなわち「父と子と聖霊」に属する者となることを言い表す儀礼になっていたのです。この形の洗礼は、後の時代のキリスト教会で行われた洗礼の原型として、重要な意味をもつことになります。

 初期の福音宣教におけるバプテスマの起源とその形式の変遷、とくにマタイのバプテスマ定式については、いまだに多くの議論が行われており、この講解の中で扱うことはできませんので、別の機会に譲ります。

 なお、「すべての異教徒を弟子とせよ」という命令に加えられる説明が、「彼らに割礼を施し」ではなく「バプテスマを授け」であることが注目されます。マタイはけっして異教徒に割礼を施してユダヤ教徒に改宗させ、彼らに「モーセが命じたこと」(ユダヤ教律法)を守るように要求する(パウロに敵対したあの)「ユダヤ主義者」ではありません。そのようなユダヤ教への改宗運動は偽善者の働きとして厳しく断罪されています(二三・一五)。マタイの時代には、すでにエルサレム神殿もエルサレム原始教団もなくなっており、異邦人信徒に割礼を施すべきかどうかという問題も過去のものになっていました。マタイの状況では、イエスを信じる民はもはやユダヤ教の一部ではなく、ユダヤ教会堂とははっきりと別のものになっていました。マタイは、イエスの教えが(ユダヤ教律法を廃棄するのではなく完成するという形ですが)もはやユダヤ教律法を超えた別のものであるとして、イエスの「御国の福音」を宣べ伝えているのです(山上の説教、とくに「対立命題」の箇所の講解を参照)。したがってマタイにとって「バプテスマ」はあくまで、イエスの弟子として「イエスが命じられたことをすべて守る」ことを誓約する加入儀礼なのです。その部分が「わたしがあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えて」という三つ目の分詞形で説明されるのです。
 
 そして、この世界宣教の命令と委任は、最後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉で根拠づけられて、締め括られます。ここに用いられている「アイオーンの終わり(完成)」という表現はマタイだけに見られる特有のもので、二四章三節では「あなたが来られる時、すなわち世の終わりには」と、キリストの来臨《パルーシア》の時を指す表現として同格で用いられています(他に一三章三九、四〇、四九節)。「世の終わり」に至るすべての日々に、復活されたイエスが弟子たちと一緒にいてくださるという事実が、キリストの民が歴史の中に存立しうる根拠なのです。この聖霊によって与えられている事実は、とくにパウロによって詳しく描かれ、エクレシア存立の土台として強調されたのですが、パウロだけでなく新約聖書のどの流れにおいても、自分たちの唯一の拠り所として自覚され、それぞれ特有の形で言い表されています(たとえばヨハネ福音書の《パラクレートス》)。マタイの共同体も、この一つの事実に依り頼んで、未知の異教世界に乗り出し、歴史の中を歩み始めようとしているのです。この方こそ、荒波の中に沈むペトロを引き上げてくださる方です(一四・三〇〜三一)。現在のわたしたちも、福音によって生かされ、福音を世界に告知する委託を受けた者の共同体として、福音の本体である復活者イエスが一緒にいてくださるという現実だけを拠り所として、世の終わりまで歴史の中を歩むのです。
 
 マタイは最初の誕生物語で、イエスの出現を「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という名で指し示しました(二・二三)。今物語の最後において、復活者イエスがわたしたちといつまでも一緒にいてくださる事実を指し示して、自分の「メシア・イエスの物語」を「神共にいます」の句で囲い込み、締め括るのです。
 
 

 



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