復活の福音 4

復活の順序

コリントの信徒への手紙I 第15章23〜28節



 23 ただ、各人はそれぞれの順序に従って復活するのです。初穂であるキリストが復活し、次いでキリストの来臨のときキリストに属する者たちが復活します。 24 それから終局となって、その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます。 25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで、支配されることになっているからです。 26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。



 復活の順序

「ただ、各人はそれぞれの順序に従って復活するのです。初穂であるキリストが復活し、次いでキリストの来臨のときキリストに属する者たちが復活します」。

(二三節私訳)

 この節には動詞がありません。しかし、この節は直前の二一〜二二節で提示した死者の復活に順序があることを述べているのは明かですから、「復活する」という動詞を補って訳すことによって、その意味をさらに明確にすることができます。

 ここで「順序」と訳した原語《タグマ》は、順序づけられたユニットないしグループを指す語です(それで軍事用語としては「軍団」という意味になります)。死者の復活においても、各人はそれぞれ、神が時の中に順序づけられたグループに従って復活することになる、とパウロは言っているのです。このような言明の背後には、時の流れの中でわれわれが体験する救済はすべて、究極の目的に向かって神が定められた段階ないし順序に従って起こるのだという旧約の救済史的信仰があります。

 死者の復活における第一の段階は、初穂であるキリストご自身の復活です。次に来る第二の段階は、キリストの来臨《パルーシア》にさいしてキリストに属する者たちの復活です。ここで、キリストの復活について、第一というような数字ではなく、「初穂」という救済史的意義の強い用語で順序が語られていることが注目されます。キリストの復活はたんに順序が先だというだけでなく、後に来るグループをあらかじめ代表し保証する復活であることが、ここでも明らかにされているのです。

 このようにパウロが死者の復活に「順序」があることを強調するのは、「死者の復活などない」と言って、復活信仰を空虚なものにしてしまっている人々を論駁するためであることは、本章全体の文脈から明かです。このパウロの論駁の仕方から逆に、コリントの集会で「死者の復活などない」と主張していた人々というのは、キリストを信じることによって自分の内面に生じた霊的再生の体験をもって死者の復活だと解釈して、「復活はもう起こった。自分たちは完成されている」と主張した人々(このような人々を現代の学者は「霊的熱狂主義者」と呼んでいます)であったこと、すくなくともそういう人々がいたことが推定されます。そういう人々に対してパウロは、死者の復活という終末的な出来事にも神が定められた順序があることを示し、いまは二つの復活の間の時であって、現在地上に生きる信徒はすでに初穂として復活されたキリストに結ばれることによって、将来の自分の復活を待ち望む立場にあることを明らかにするのです。「死者の復活」というのは、あくまで将来のことであることを改めて強調し、復活はもうすんだと主張して死者の復活を否定する人たちを論駁しているのです。ここで「将来」というのは、(ドイツ語の「ツークンフト」という語が示唆するように)まさに来たらんとするキリストの事態です。すなわち、キリストの到来、来臨《パルーシア》のことです。キリストが来られるとき、キリストに属する者たちは死の眠りから呼び覚まされて、もはや朽ちることのない体を着せられて栄光の中に現れます。これが「死者の復活」です。逆に、そのような死者の復活が起こることが、キリストの来臨《パルーシア》なのです。パウロにおいてはキリストの来臨《パルーシア》と死者の復活は同一の出来事の二つの呼び方なのです。キリストの来臨のとき何が起こるのか、黙示思想は力を込めて語ってきました。新約聖書の中でも、ヨハネ黙示録や共観福音書黙示録(マルコ福音書十三章と平行箇所)は、「これから起こるべきこと」について詳しく語っています。それに対して、パウロが語る将来はほとんど「死者の復活」だけと言えます。パウロはもはや黙示録的出来事の経過について語ることはほとんどありません。パウロの終末待望は「死者の復活」に集中していると言えます。

 パルーシアとテロス

「それから終局となって、その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます」。

(二四節私訳)

 この節冒頭の「それから」は、二三節の「次いで」に続いて、復活する者たちの第三の「順序」《タグマ》について語っているのではなく、キリストの来臨のときの死者の復活に続いて到来する最終的な完成の局面を語っているのです。パウロがここで用いている《テロス》という語は本来「終わり、結末、完成」というような意味の語で、ここでの文脈からすれば、神の救済史の「最終的な完成の局面」と理解すべきでしょう。その意味を込めて、ここでは「終局」と訳しておきました。新共同訳の「世の終わり」は、キリストの来臨も含む広い意味でも使われますので、《パルーシア》と区別される《テロス》の訳語としては適当でないと思います。

 この箇所の「それから」を、死者の復活の第三の段階を導き入れる語と理解して、また、《テロス》を「残余の者たち」の意味にとって、ここでキリストに属する者以外の死者が裁きのために復活することが語られているとする解釈がありますが、これは特殊な黙示思想的時間表を前提にして、パウロが言っていないことをテキストに読み込むことになります。この解釈は言語的にも、また、パウロの終末思想の性格からしても、無理だと考えられます。では、キリストの来臨《パルーシア》の時の死者の復活と「最終的な完成の局面《テロス》」との時間的関係はどうなるのでしょうか。キリストの来臨《パルーシア》が同時に終局《テロス》なのでしょうか。この理解は、「それから」という語を時間的前後関係を示す語として厳密に理解する限り、無理となります。それとも、「それから」という語が示しているように、《パルーシア》の何年か後に、または何千年か後に《テロス》が来るのでしょうか。そうだとすれば、《パルーシア》と《テロス》の間にはどんなことが起こるのでしょうか。この問に対して、教会はさまざまな解答を提出してきました。たとえば、すでに新約聖書の中でヨハネ黙示録(二〇・一〜六)には、キリストが復活した聖徒たちと共に一千年の間地上を支配し、その後に最後の審判と完成が来るという「千年王国」が説かれています。そして、この「千年王国」について、二千年の教会史の中でじつにさまざまな説が提出され、論争が行われてきました。

 しかし、このように《パルーシア》と《テロス》の時間的関係を問う問い自体が意味がないのです。キリストの来臨《パルーシア》とその内容である死者の復活という事柄自体、すでに時の流れを超えた次元の出来事です。そして当然、「救済史の最終的完成の局面」《テロス》も時を超えています。このように時の枠組みを超えた事柄について時間的前後関係を問うこと自体、意味がありません。時間の枠の中にいるわれわれにとって、《パルーシア》も《テロス》も共に時の彼方に待ち望む「終末」的事態であって、その前後関係や、その間の出来事を論じることはできません。ですから、本節の「それから」は、時間の前後関係を示すのではなく、論理的関係を示す語と理解すべきです。すなわち、キリストの来臨時の死者の復活があって初めて、救済史の最終的完成がありうる、という関係です。

 この《テロス》、すなわち「救済史の最終的完成の局面」は、「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます」という表現で語られます。ここで「すべての権力《アルケー》、すべての権威《エクスーシア》や勢力《デュナミス》」が、神の支配に反抗する勢力として語られています。これには当時のヘレニズム世界の宗教思想が背景にあるので、すこし説明が要るようです。ヘレニズム世界では、人間が住んでいる世界ないし宇宙《コスモス》は天界の霊的な諸力、天使的な諸力が階層をなして支配していると考えられていました。地上の国家権力や支配権力もその一つの表現と考えられていたのです(コリントI二・六、八、ロマ一三・三参照)。このような霊的諸力がこの三つの名で呼ばれ、とくに「権力《アルケー》と権威《エクスーシア》」という組み合わせがよく用いられました。

 このような世界の見方と表現は、すでにヘレニズム化政策に対抗して戦ったダニエル書に出てきます(ダニエル七・一四、二七)。パウロもこの手紙の読者もヘレニズム世界で育ち生活している人々ですから、キリストの福音を語るときも、キリストをこのような《コスモス》の支配霊に対する完全な勝利者として示し(本節)、人間の救済をこのような諸霊の支配からの解放として語る(ロマ八・三八)のも自然なことです。この手紙よりかなり後に書かれたとされるコロサイ書やエペソ書では、このような世界観を背景にした語り方がさらに多くなります(コロサイ一・一六、二・一五、エペソ一・二一、二・二、三・一〇、六・一二)。

 「その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」とありますが、これは、その時キリストと「すべての権力、すべての権威や勢力」との一大決戦が行われて、キリストが勝利して彼らの支配を滅ぼされるという意味ではなく、次節の内容からしても、キリストがすでにその十字架と復活によって始められた反神的諸力の克服の業がこの段階で「すべて」完成し、その完成した支配を「父である神に引き渡される」ことになると理解すべきでしょう。

 最後の敵

「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで、支配されることになっているからです」。

(二五節私訳)

 前節の「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」が、キリストに関わる神の定めによって根拠づけられます。この節の初めに、「せざるをえない《デイ》という語がありますが、聖書ではこの語は必ずそうならざるをえない神の定めを表現する語です。神が終末的救済者としてお立てになったキリストは、その使命と権能からして、その支配が「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」貫かれるように定められているのです。そのような定めを教団は旧約聖書の中に見出して、キリストの支配の完全さを根拠づけたのでした。その代表的な例は詩編一一〇編です。そこではこう宣べられています。

「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」。

(詩編一一〇編一節)

 復活して神の右に上げられたキリストは、この「主の御言葉」によって、「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」支配するように、神によって定められているのです。

 十字架・復活によって始まったキリストの支配は、なお神の支配に敵対するさまざまな霊的力が働くこの世《アイオーン》の中で、それらの力の支配を打ち破りつつ、完成に向かって進められてゆきます。そして、そのキリストの支配は「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」、すなわち「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」にいたるまで、必ず到達するのです。それが神の定めだからです。

「最後の敵として、死が滅ぼされます」。

(二六節)

 このようにキリストが滅ぼされる神への敵対的支配力の最後のものが死です。キリストが最後の敵である死を滅ぼされるとき、「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」というキリストの業は完了し、キリストが支配を父なる神に引き渡される「終局」が来るのです。

 「死が滅ぼされる」とは「死者の復活」にほかなりません。死者が復活するとき、死が滅ぼされるのです。死者が死者でいるかぎり、死が支配しています。死者が復活するときはじめて、死が滅ぼされて、神の命が完全に顕現するのです。

 わたしたちが地上でいかに内面的に高い境地に達していても、この朽ちるべき身体が死ぬとき、わたしたちは死者の仲間に入ります。わたしたちは地上でキリストの救いの力にあずかり、病気の力から解放されたり、内面の不安や苦悩から救われたり、罪の支配から逃れて清い生活をするようになったとしても、この朽ちる身体の中にいるかぎり、身体を含む全存在が救われたとは言えません。わたしたちがこの身体の中で体験する救いは、なお部分的で一時的です。死者の国にいるかぎり、最後の敵である死から解放されたとは言えません。死者が復活するとき、最後の敵である死が滅ぼされて、救いが完成し、死よりも大いなる方としての神の栄光が顕現するのです。

 ここで「終局」の出来事として語られる「死が滅ぼされる」ことは、キリストの来臨時の死者の復活とは別の次の段階のことであるという理解がありますが、そうではないと思います。先に述べたように、キリストの来臨も「終局」も共に時間の枠を超えた事態であって、両者を時間の前後関係で区別することは意味がありません。パウロが「最後の敵として、死が滅ぼされます」と言ったとき、本章全体で語っている「死者の復活」が念頭にあったのだ、とわたしは確信しています。たしかに本章で語られている「死者の復活」は、キリストに属する者たちの復活です。ではそれ以外の人間の復活はどうなるのかという問いは、ここには場所を持っていません。福音において死者の復活は、「キリストにあって」という場においてだけ語られることができるからです。

「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

(二七〜二八節)

 最後には死も滅ぼされるという前節の言明が、詩編(八・七)の引用で根拠づけられます。詩編一一〇編にはなかった「すべて」が含まれることで、最後には死さえもキリストの足の下に服従させられることを根拠づける聖句として引用されたのでしょう。

 そして、「神は服従させた」という表現をキーワードにして、キリストが「父である神に支配を引き渡される」という「終局」の出来事が、聖書解釈の形で説明されます。ここの議論の運びには、現代のわれわれから見るとやや強引な感じを受けますが、当時のパリサイ派聖書学者には普通のことだったのでしょう。詩編八編は本来、創造の秩序において人間がすべての被造物を支配するように定められたことを歌った詩編ですが、その中の「人の子」(五節)がメシア的に解釈されて、キリストの支配を賛美する詩編とされたものと考えられます。それで二八節ではキリストが「御子」と呼ばれ、最終の局面では御子が御父から与えられた万物の支配権を御父に引き渡して、神の全救済史が完成すると語られることになります。神の救済史の全過程は、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ことです。キリストにおける死者の復活が成就することで、死という最後の敵に対しても神は勝利者として現れ、この最終的完成が実現するのです。


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