復活の福音 3

初穂キリスト

コリントの信徒への手紙I 第15章20〜22節



 20 しかし今や、キリストは眠りについた者たちの初穂として死者の中から復活されたのです。 21 死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです。 22 つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。



 初穂

「しかし今や、キリストは眠りについた者たちの初穂として死者の中から復活されたのです」。

(二〇節私訳)

 「しかし今や」、キリストは死者の中から復活されたのです。使徒パウロがこの「しかし今や」《ニュンニ・デ》という語を用いるとき、それは《アイオーン》(世、時代、世界時代)の決定的な転換の時が来たことを指しています。この句を軸にして新しい《アイオーン》を導き入れる扉が開かれるのです。キリストの十字架と復活の出来事は終末の《アイオーン》の到来なのです。今までの世とはまったく違った質の新しい世の到来なのです。ロマ書三章二一節でも、そのような重さをこめてこの句が用いられています。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。

 律法が支配していた時代は終り、律法とは関係なく信仰によって義が与えられる時代が来たのです。ここでは《アイオーン》の転換点としてキリストの復活に焦点が当てられています。

 今や、キリストは「眠りについた者たちの初穂として」復活されたのです。人が何と言おうと、キリストは事実復活してペトロに現れ、十二人に現れ、多くの兄弟たちに現れ、パウロ自身にも現れたのです。これは命をかけて証言できる確かな事実です。今や、このキリストの復活によって死者が復活する終末の《アイオーン》が到来したのです。キリストの復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではありません。それは死者(複数)が復活することを予め代表する出来事なのです。この関係をパウロは「初穂」という比喩を用いて表現するのです。

 この「初穂」《アパルケー》という語はもともと祭儀的性格の強い語です。日本の神事でも田畑の収穫の初穂を捧げて神々を祭ります。イスラエルのヤハウェ礼拝においても家畜の初子や畑の初物が捧げられました。初物を神に捧げるのは、収穫の全体を神に捧げて、神に属する聖なるものにしているのです。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそう」なのです(ロマ一一・一六)。捧げられた初物は全体を代表し、その中に全体を含んでいるのです。

 キリストは初穂として復活されたのです。すなわち、キリストの復活はキリストの身にだけ起こった孤立した出来事ではありません。創造者なる神が終りの日に成し遂げると語ってこられた死者たちの復活がいまキリストの身において起こったのです。初穂を神に捧げることは全収穫を捧げることであるように、キリストの復活は終末の死者の復活の開始であり、その中に死者の復活全体が含まれているのです。

 この「初穂」という一語によって、キリストの復活とわたしたちとの関係が見事に言い表されています。この章の初めで、パウロは自分が受けて伝えた「福音」を提示していました(三節b〜五節)。そこではキリストの十字架については、「わたしたちの罪のために」という句でわたしたちとの関係が明示されていました。ところが、キリストの復活についてはその事実が告知されているだけで、わたしたちとの関わりが明言されていませんでした。いまここで、それが明言されます。キリストは「わたしたちの初穂として」復活されたのです。パウロはこのこと、すなわちキリストの復活とわたしたちとの関わりを明らかにするために、この章(第十五章)全体を書いているのです。この章全体でパウロが主張していることを含めて福音を提示するならば、「福音」はこのようになります。

「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの初穂として三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

 キリストの十字架上の死はわたしたちの罪のためであること、キリストの復活はわたしたちの復活の初穂であること、そして、このキリストの十字架と復活の出来事は、神が聖書によって約束してこられた終末の救済の成就であること、これが「福音」の核心なのです。

 アダムとキリスト

「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」。

(二一節私訳)

 パウロはここで、キリストの復活とわたしたちとの関係、すなわち「キリストはわたしたちの初穂として復活された」という関係を根拠づけます(二一節の初めに先行する文を根拠づける《ガル》という語があります)。しかし、ここでパウロがその根拠づけに用いる論理は現代人には意表外のものです。この節はふつう「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と訳されます。しかし、ここでパウロが言っていることを直訳すると、この私訳のようになります。

「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」。

 ここでは「一人の」という句はついていません。ここで用いられている「人」という語《アントローポス》は単数形で、冠詞もついていません。この「人」という語を用いるとき、パウロはアダムとキリストを念頭においていることは次の節からも明らかですので、「一人の」という説明をつけることは誤りではありませんし、文を分かりやすくします。しかし、ここではロマ書五章でアダムとキリストが対比されている場合のように(そこでは「一人」が繰り返して用いられています)、「一人」対「多くの者」という関係が問題にされているのではなく、人間(人類)を代表する者の存在を根拠にして議論を進めているのですから、分かりにくい文になりますが、「人」だけにした方がかえって問題の所在を明らかにする意味でよいと思います。

 ここでパウロがギリシャ語で《アントローポス》(人)と言うとき、その背後にヘブライ語聖書の《アーダーム》があることは明らかです。《アーダーム》は本来個人名ではなく、「人」とか「人間」という意味の名詞であって、創世記冒頭の三章ではこの語を用いて人間の創造と堕落が物語られているわけです。創世記冒頭のアダムの物語は人間の現実存在の姿を語るものです。その物語においてアダムは人間(人類)を代表する者として行動しているのです。このような聖書理解を背景にして見るとき、この節の《アントロポース》というギリシャ語を《アーダーム》というヘブライ語に戻して訳すと、パウロがここで言おうとしていることが少しはっきりしてきます(以下、ヘブライ語の《アーダーム》は通例の日本語訳に従って「アダム」と表記します)。

 パウロはこう言っているのです。「死がアダムによって来たのだから、死者の復活もアダムによって来るのです」。最初のアダムは創世記のアダムを指しており、後のアダムはキリストを指していることは、すぐに続く次節からも明かです。そして、四五節ではキリストのことをはっきりと「最後のアダム」と呼んでいます。パウロはキリストを「アダム」と見ているわけです。ここでパウロが「アダム」というとき、それは人類を代表する立場の存在という意味です。創世記のアダムと福音が告知するキリストは、その意味で共に「アダム」なのです。創世記のアダムは現在の人間、この古い《アイオーン》の人間を代表し、キリストは終末時の人間、来るべき新しい《アイオーン》の人間を代表するのです。

 キリストを終末時の人間を代表する存在として理解するキリスト信仰は、パウロが突然思いついたのではありません。現在の人間のあり方をアダムに代表させて語る聖書(旧約聖書)によって準備されてきたのです。聖書を信じ、聖書に養われ、聖書によって神の前における人間を理解してきたイスラエルの信仰が、キリストの十字架と復活の出来事を終末時の人間のあり方を世界にもたらす出来事と理解することを可能にしたのです。聖書はアダムの物語によって、死に支配されている現在の人間の姿を、神から離反した罪の結果であると語りつづけてきました。その聖書によって自分の現実、すなわち罪と死に支配されている現実を理解してきた者が、福音を信じて聖霊を受け、聖霊によってキリストと合わせられ、十字架の贖罪にあずかり、復活されたキリストと共に生かされていることを体験したとき、自分にこの新しい現実をもたらしたキリストの出来事をアダムの物語に対応する終末の出来事と理解せざるをえないのです。ここに聖書が「型」《テュポス》として語ってきことの本体が、聖霊によって実現しているのです(ロマ五・一四)。

 このように「死がアダム(人)によって来たのだから、死者の復活もアダム(人)によって来るのです」。

「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです」。

(二二節私訳)

 前節では死も死者の復活も共に「アダム(人)」から来るという共通面が強調されていましたが、ここでは初めのアダムによってもたらされたものと、終りのアダムによってもたらされたものとの違いが強調されます。それはまったく正反対のものなのです。それで、ここでは二人のアダム(人)はそれぞれ固有の名で呼ばれています。すなわち、初めのアダムは創世記で用いられている人物名の「アダム」、終りのアダムは福音が用いている「キリスト」という名で呼ばれます(この節のアダムとキリストには定冠詞がついています)。

 前節で「人」の前に用いられていた前置詞は《ディア》(によって、を通して)でしたが、この節のアダムとキリストの前に用いられている前置詞は《エン》です。これは英語の「イン」に相当するギリシャ語の前置詞であって、パウロが《エン・クリストウ》という形で、わたしたちとキリストの結び付きを表すのに繰り返し用いています。新共同訳がこれを「キリストに結ばれて」と訳しているように、この《エン》は人がキリストと結ばれていること、言い換えればキリストに属する者であることを表現しています。ここではそれを「キリストにあって」と訳しております。ここでこの《エン》という語を用いて、人間の二つのあり方が表現されています。一つは「アダムにあって」、すなわちアダムに属する人間のあり方と、もう一つは「キリストにあって」、すなわちキリストに属する人間のあり方です。

 現在の人間は、生まれながらの自然のままではみなアダムに属しています。言い換えれば、わたしたち自然のままの人間のあり方をアダムが代表しているのです。アダムは聖書でわたしたち現実の人間すべてを代表する者として描かれています。わたしたち現実の人間が例外なく死ぬことが、アダムの物語として語られています。すなわち、アダムが神に背いた結果死ぬことになったと語られていますが、それはわたしたち人間の現実のことなのです。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のです。

 それと同じように、「キリストにあってすべての人が生かされる」のです。わたしたちが信仰によってキリストと結びつき、キリストに属する者とされるならば、死者の中から復活されたキリストの生命によって生かされることになり、キリストが復活されたように復活にいたるのです。

 死者を生かす神

 ここでキリストに属する者の姿が、「復活する」という表現でなく、「生かされる」という語を用いて語られています。死も復活も共に人によって来ると言った前節との並行関係からするならば、ここでアダムに属する人間が死ぬことと対比して、キリストに属する人間は「復活する」と言われることが期待されるところです。ところが、パウロは「生かされる」という動詞を用いています。

 ここで用いられている「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、人を主語とする自動詞の「生きる」《ゼイン》と違って、神を主語とする他動詞であって、神(またはその霊)が人を死の状態から生かすという終末的な意味で用いられる動詞であり、「復活させる」《エゲイレイン》と同じ意味です。神は「死者を生かす神」とも呼ばれ(ロマ四・一七)、「死者を復活させる神」とも呼ばれます(コリントII一・九)。この「生かす」と「復活させる」という二つの動詞は同意語として、組み合わせて用いられることもあります。たとえば、「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロマ八・一一)とか、「父が死者を復活させて命をお与えになる《ゾーオポイエイン》ように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(ヨハネ五・二一)と用いられています。いま扱っているコリント書簡の箇所でも、二一節で「人によって死者の復活が来る」と言われたのと同じことが、この二二節では「キリストにあって生かされる」と表現されているのです。このように《ゾーオポイエイン》(生かす、命を与える)という動詞が終末的な復活を意味することは、後でパウロがキリストを「命を与える霊」(四五節)と呼んでいることの意味を理解するうえで重要になります。

 このように、「生かされる」は死者の復活を指しているのですから、それは将来の出来事です。当然、この動詞は未来形で使われています。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のはすでに起こっている現実ですから過去形で語られていますが、「キリストにあってすべての人が生かされることになる」のは未来形で語られるのです。

 生命の現在と将来

 本章は死者の復活を否定する人たちに対して、キリストの復活が終末時の死者の復活を初穂として含んでいることを論証しようとして書かれているのですから、ここで用いられている「生かす」とか「命を与える」という動詞が「復活させる」と同じであることを明らかにすれば、それでよいわけです。しかし、「復活」という用語は本来終末時の出来事を指すのですから、どうしても未来の意味に限定される傾向があります。それに対して「生かす」とか「命を与える」という表現自体は、現在のことも含むことができる幅の広さがありますから、ここですこし本題からそれますが、この用語を手がかりにしてキリストにあって賜る現在の生命と将来の復活の関係について、新約聖書が語るところを聴きたいと思います。

 福音がそこから生まれてきた母胎はユダヤ教、とくにパリサイ派ユダヤ教です。また、非主流のエッセネ派も深い関わりがあると推察されています。いずれにせよ、福音を生み出す母胎となったユダヤ教では、「永遠の生命」とは来るべき世において神から賜る生命であって、それは未来の出来事であります。その未来の生命にあずかるために現在律法を守り行う生活をしなければならないのです。「(将来)永遠の命を受け継ぐには、(現在)何をすればよいでしょうか」(マルコ一〇・一七)という問いは、ユダヤ教の基本的な問いなのです。そして、来るべき世で賜る永遠の命は復活という形で与えられることが信じられていました。ユダヤ人には体のない霊魂だけの永生というようなものは考えられないからです。このように、ユダヤ教では「永遠の命」と「復活」は重なっていて、共に来るべき世で与えられる将来の救済の出来事であったのです。

 福音がはじめユダヤ人たちに宣べ伝えられたとき、それは永遠の命を受け継ぐ、すなわち復活にあずかるのは、律法を守り行うことによるのではなく、イエス・キリストを信じることによるのだ、というユダヤ人にはまったく革命的な使信であったのです。しかし、イエス・キリストを信じることによって与えられる救済は、なお来るべき世における生命であり、将来の復活であったのです(マルコ一〇・二九参照)。救済の土台として律法が否定され、かわりに信仰が置かれたことは、ユダヤ教の根本原理を覆す革命であったのですが、それはなお、永遠の命を将来の出来事と見るユダヤ教の枠組みを超えることはなかったのです。

 このユダヤ教の基本的な枠組みをも超えて、永遠の命を現在の出来事として最初に明らかに示したのは使徒パウロでした。パウロにとって永遠の命は将来与えられることを待ち望むだけのものではなかったのです。それは今すでにキリストにあって賜っており、聖霊によって生きている現実なのです。わたしたちはいま現に来るべき世の命を生きているのです。このことはパウロの手紙の全体に響きわたっています。キリスト信仰とはキリストに結ばれてこの生まれながらの古い自分が死に、キリストから賜る別種の新しい命に生きることなのです。死者の中から復活したキリストの命を生きることなのです(ガラテヤ二・一九〜二〇、ロマ六・四、六・一一など)。

 パウロが、そしてまたわたしたちが、永遠の命を将来に待ち望む出来事でなく、いま生きている現実だとすることができるのは、十字架・復活のキリストを聖霊によって現在の事実として体験しているからです。その体験によって、十字架・復活のキリストにおいて来るべき世が到来していることを見ているからです。ユダヤ教が将来に待ち望んでいる終末がキリストにおいてすでに来ているのです。将来与えられるものとして待ち望まれていた永遠の命が、キリストにおいて現に来ているのです。

 こうして、黙示思想に深く影響された当時のユダヤ教の二つの《アイオーン》の枠組みを、パウロははっきりと突き破って、永遠の命を現在のものとしているのです。しかし、パウロが永遠の命について語るところをよく見ますと、それを将来のこととして語っているところも多くあります。永遠の命は将来神から与えられる賜物であり、信仰生活の目標です(ロマ六・二二〜二三)。「キリストと共に生きる」という動詞は未来形で語られます(ロマ六・八)。このように、パウロが命について語るとき、現在形と未来形が微妙に入り交じっているのです。

 これは、パウロが当時のユダヤ教の二つの《アイオーン》思想の枠組みを突き破っていると同時に、旧約聖書の救済史の啓示そのものは確固として保持しているからです。聖書(旧約)によれば、神はイスラエルの歴史の中で救済の業を進め、ご自身を啓示してこられました。そして、終末時に決定的で最終的な救済の業を成し遂げてくださると約束されています。福音はこの救済史の啓示を前提にして、時が満ち、イエス・キリストの十字架と復活においてこの終末的な救済の業が成し遂げられたと告知するのです。終末はキリストにおいてすでに到来しているのです。しかし、それを受け取るわたしたちがなお時間の中にいる限り、最終的な完成はなお将来に待ち望まれるのです。救済史はなお将来を持っているのです。福音においては、「現在すでに」と「なお将来に」という二つの面は不可分の一体なのです。イエスの「神の国」の宣教にもこの二つの面がありました。パウロが永遠の命について語るときも、この現在と将来の二つの面が同時に語られるのです。

 ところで、この永遠の命を復活という「具体的」な相で語るときには(永遠の命が体を備えた形で現れるのが復活です)、未来形で語らざるをえません。わたしたちすべての人間はなお時間の中にあり、死ぬべき体をもって生きているのですから、もはや朽ちることのない体で生きるようになることは将来の神の業として待ち望むことになるからです。神はキリストを復活させて、ご自身の民を死者の復活という形で完成されることを示されたのです。死者の復活こそ救済史の最終目標です。死者の復活を否定することは、救済史を否定することであり、救済史を内容とする聖書を否定することになるのです。パウロが死者の復活を否定する者たちを厳しく批判するのは、それが福音の根底である(旧約)聖書を否定することになるからです。

 パウロが永遠の命について語るさいの現在と将来の二つの面のうち、命がすでに来ているという現在の面を徹底させたのがヨハネ福音書です。ヨハネ福音書はその全体を通じて、信じる者はすでに命を得ていると宣言しています(たとえば五・二四、六・四七)。事の性質上将来のことにならざるをえない復活も、現在の命の現実の中に吸収しようとする傾向があります(一一・二四〜二六)。しかし、そのヨハネ福音書さえも、信じる者がすでに命を持っていることを宣言した直後に、終わりの日の復活を語らざるをえないのです(六・四〇など)。このように終わりの日の死者の復活を語るテキストは本来のヨハネ福音書にはなく、後の編集者の加筆であるとする説があります。そうだとしても、そのような加筆がなければ教団に受け入れられないところが重要です。もしそれを加筆として除去することが死者の復活の信仰を否定することを意味しているのであれば、それは聖書の救済史を否定することであり、福音を福音でないものにすることだと本章でパウロが厳しく批判している誤りになるのです。

 このように、キリストにあって現在賜っている命と将来の復活は不可分の一体です。キリストと結ばれてキリストの命に生きるようになれば、将来の復活はもう待ち望む必要はなくなるのでしょうか。決してそうではありません。逆です。現在キリストの命を生きる現実体験が深くなるほど、将来の死者の復活にあずかる希望も確かなものになってゆくのです。わたしたちに命を与える聖霊は、キリストを死者の中から復活させた方の霊だからです(ロマ八・一〇〜一一)。また、いま現実に復活者キリストの命に生きるのでなければ、聖書の救済史が与える将来の死者の復活の約束も観念的な言葉だけのものになり、わたしたちの希望もユダヤ教黙示思想とたいして変わらない非現実的な思想体系になってしまうことでしょう。

 キリストにあって賜る永遠の命とは、復活にいたらざるをえない質の命だと言うことができます。それはキリストの十字架に合わせられて古い自分が死ぬところに現れてくる新しい命です。このように将来の復活に向かって現在生きる命、これが「キリストにあって生かされることになる」と言われるときの命の質だということになります。


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