復活の福音 6

復活の体

コリントの信徒への手紙I 第15章35〜44a節



 35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 38 神は、御心のままに、それに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 44a つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです。



 どんな体で

「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」。

(三五節)

 ここで死者の復活を信じるにさいしての最大の難問が取り上げられます。死者が復活すると言っても、いったい「どんなふうに」復活するのか、想像がつきません。霊魂不滅ではなく復活である以上、何らかの「体」を備えた生命の形態でしょうが、「どんな体で」生きるようになるのか、見当もつきません。この体が土の中で朽ち果てたり、火に焼かれて灰になったりした後、他の形の体があるとは信じられません。人類はこの体以外の形は経験したことがないのですから、理解できず信じられないのは当然です。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と問わないではおれません。

 しかしここでは、この問が死者の復活を否定するための問となっているので、パウロはそれを一部の者の問として引用しています。コリントの信徒の中の「ある人々」が「死者の復活などない」と言っていました。そういう人々は、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と問いかけて、それに対する解答が考えられないことを、死者の復活を否定する根拠の一つにしていたのでしょう。現代ではほとんどすべての人が、この問を死者の復活を信じない理由の表現としていると言えます。

 このように、この問をもって死者の復活を否定する理由にしている人たちに対して、パウロは「愚かな人だ」と決めつけて(次節)、明快な答を与えます。死者の復活の使信に直面した人間が当然発せざるをえない問も、キリストの復活に基づいて聖霊の働きの中で明確に宣べ伝えられている場で、死者の復活を否定するために発せられる時は、「愚かな」問となるのです。

 この問に対するパウロの回答は、「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」(四四節前半)という一句に尽きるのですが、そのことを理解させるために、パウロは自然と聖書に対する彼の深い洞察を傾けて、懇切に説明します(三六〜四九節)。この箇所はパウロの神学を理解する上できわめて重要な箇所であると思います。

 パウロはまず植物とか動物とか天体という自然界の事象を取り上げて説明した後(三六〜四一節)、「死者の復活もこれと同じです」と言って、これらの自然界の事象との類比《アナロギア》によって死者の復活を語り、「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」という結論に至ります(四二〜四四節前半)。自然界というのは神が創造された世界のことですから、パウロは神の初めの創造との類比《アナロギア》によって、死者の復活という終末の出来事を語っているわけです。自然界が神の創造の業によって存在するように、死者の復活という終末的事態も、初めの創造に対応する終わりの創造の業と理解されているのです。

 自然界との類比、すなわち初めの創造との類比から「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」という復活の奥義を提示した後、パウロはこの「自然の命の体」と「霊の体」という二種類の体をとる人間の存在様式を、アダムとキリストとの対比で根拠づけます(四四節後半〜四九節)。ここでアダムは初めの創造によって存在する自然の人間を代表し、キリストは終りの創造によって現れる終末的な人間を代表しています。すなわち、アダムとキリストの対比は全聖書の救済史のもっとも基本的な枠組みを形成しているのです。その救済史の基本的枠組みによって、「霊の体に復活する」ことが根拠づけられるのです。

 こうしてこの箇所(三六〜四九節)で、「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」という復活の使信が、まず自然界との類比から説明され、さらに聖書の救済史によって根拠づけられて提示されることになります。

 種粒に与えられる体

「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。

(三六〜三八節)

 死んだあと別の体をもって復活することは考えられないとして死者の復活を否定する者は、自然の中に書き込まれている初歩の教科書も読みとることができない「愚かな人だ」と一蹴されます。死んでこの体が朽ち果てた後、人間は別の体をもって復活するという福音の約束は、植物というもっとも身近な自然の中にも明確に読みとることができるではないか、とパウロは反問します。種を蒔くとき、その種が土の中で朽ちて死ななければ、その種の中にある生命は本来の姿を現すことはできません。たとえば、麦を収穫しようとすれば、麦の本体を地に植えるのではなく、「ただの種粒」を地に蒔きます。その種粒が地中で朽ちて死んだ後、その種から麦の本体が出てきて実をつけるにいたります。この種蒔きと収穫というもっとも身近な経験が、死者の復活の真理を語っているのです。

 ここで「ただの種粒」と訳されている語は、もともとは「裸の種粒」という意味の語です。パウロはコリントの信徒への手紙II五章一〜五節で復活のことを語っていますが、その中で「裸」という語は、人が死んで地上の体が無くなった状態を指すのに用いられています(三節)。そこでは、死者の復活は「地上の住みかを脱ぎ捨て」「天から与えられる住みかを上に着る」ことと表現されています。住みかを脱ぐとか着るというのは、建物と着物のたとえが混在していて奇妙な表現ですが、人が死んで地上の体を失い、復活によって新しい別の体を与えられることを指していることは分かります。そのさい、地上の体を脱ぎ捨てまま、新しい体を与えられない状態を「裸」と言っているわけです。それで、新しい体を与えられる復活の希望は、「わたしたちは裸のままではおりません」と表現されるのです。霊魂は死後も不滅であっても、新しい体を上に着ないままの状態は、裸でいるように嫌悪すべき姿だというわけです。

 このような用法と比べると、ここでは種粒は「裸」ではなく、「後でできる体」とは別ですが一つの体をもって蒔かれるのですから、「裸の種粒」ではなく「ただの種粒」と訳すほうが正しいことになります。また、四二〜四三節との対応を厳密に考えると、種粒は裸ではなく一つの体をもって蒔かれるものでなければなりません。ただ、使徒はここで後でできる本来の体がまだ着せられていないという意味で、種粒の状態を「裸」と見ていた可能性はあります。いずれにせよ、「裸」という用語を用いていることは、「わたしたちは裸のままではおりません」という、復活の希望に対するもう一つの表現を思い起こさせるので、やや詳しく語意に立ち入ったわけです。

 ここで留意すべきことは、地中に朽ちる種から麦の本体が出てくることを、パウロは単なる自然の経過としてはいないことです。パウロは、それを創造者である神の意志に基づく創造の業であるとしています。「神が体をお与えになります」というとき、その「神」は創造者です。創造者がその「御心のままに」、朽ち果てた種に体を与え、一つ一つの種にそれぞれその種類に応じた体を創造してお与えになるのです。パウロは、「蒔くものは、死ななければ命を得ない」という自然界の事象を、創世記一章の創造の秩序に属することとして語っているのです。

 従って、後でパウロが「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、……自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」(四二〜四四節a)と言うとき、死者の復活という終末の出来事を、初めの創造との対比で語っていることが分かります。すなわち、死者の復活は初めの創造に対応する終わりの創造として理解されているのです。神は創造者として、御心のままにそれに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体を創造してお与えになるように、終わりの時には、ご自身の子らに、もはや朽ちることのない新しい体を創造して与えられるのです。

 このように、復活信仰は創造信仰を完成します。死者の復活は終わりの日の創造です。それは神の創造の御業の目標であり最終段階です。復活は創造の冠です。イスラエルの長い歴史の中で創造の信仰が形成されたのは、この復活信仰を準備するためであったと言えます。

 体の輝き

「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」。

(三九〜四一節)

 死んで初めて本来の体を現す種粒のたとえによって、死後にこの地上の体とは別の体が備えられていることを語った後、使徒は、わたしたちが今地上で体験している体とは違った種類の体があることを、動物と天体の事象を用いて語ります。

 まず動物の「肉」にも違いがあることが取り上げられます。ここで「肉」《サルクス》というのは、パウロが人間の救済を語るとき、霊と対立する人間の本性、神の定めに従うことができない生まれながらの人間本性を指すのに用いている「肉」ではありません。「獣の肉、鳥の肉、魚の肉」という表現が示しているように、ここでは体を持って現れる地上の生命形態全般を指す用語です。獣は地上を走り、鳥は空を飛び、魚は水の中を泳ぐために、それぞれ違った体を与えられています。人間の体は他の動物と同じ点も多くありますが、手を自由に用いて物を造ったり、言葉を用いるための器官を与えられているという点で、他の動物とは違います。このように、同じ動物でも体をもって発現する生命形態にはさまざまな違いがあります。

 続いて、地上の生命が現れる体に違いがあるだけでなく、天上の生命が取る体にも違いがあることが語られます。まず、「しかし、天上の体と地上の体があります」と言って、体に違いがあることが、地上だけでなく、天上にまで広げられます。「天上の体」というのは、わたしたち現代人には分かりにくい表現ですが、当時の宇宙観では、天体は光の衣を着ている生命体と考えられていたのです。そして、「天上の体の輝きと地上の体の輝き」とが異なっていることが指摘されます。これは、「輝き」《ドクサ》という点では、天上の体は地上の体にはるかに勝っているということでしょう。地上の体は輝きを発していませんが、天上の体は自ら輝きを発しています。それだけでなく、「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」と言って、天上の体にも輝きの違いがあることが強調されます。このように、体の「輝き」《ドクサ》に違いがあることが強調されるのは、すぐに続いて(四三節)、この自然界の事実との類比で、「栄光」《ドクサ》の点で地上の体とは異なる復活の体のことを語るためです。

 自然の命の体と霊の体

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」。

(四二〜四四節a)

 植物や動物や天体という自然界の事象を観察した後、「死者の復活もこれと同じです」と言って、自然界との類比で死者の復活が語られます。基本的な類比は、蒔かれた種が地中で朽ち果てた後、別の体をもって現れるという現象から取られています。現在の人間存在は、種粒のように地上に「蒔かれた」ものと見られています。人間は地上に「蒔かれた」体が死んで朽ち果てた後、まったく別の体をもって「起こされる」のです。それが「復活する」ことです。ここでは人間存在が「蒔かれる」と「起こされる」という二つの受動態の動詞で語られます。両方とも神によって創造された存在としての人間の姿です。

 種粒と植物の本来の姿が全然違うように、人間も蒔かれた時の姿と起こされたときの姿がまったく別であることが、三組の形容詞の対比で描かれます。最初に「朽ちるもの」と「朽ちないもの」の対比が来ます。地上の人間は「朽ちるもの」です。地上の人間はだれも永遠に生き続けることはできません。かならず死にます。これは地上の人間の定めです。ところが人間はこの定めを自然のものとして受け取ることができず、なんとかしてこの定めから逃れようとして悪戦苦闘してきました。死は人間にとっていつも苦悩であり恐れでした。そのような人間に対して福音は、諦めて死の定めに従うように考えを変えるように説得するのではなく、死の彼方に「朽ちないもの」の世界があることを確証して、解決を与えるのです。神の御心にしたがって死から引き起こされるとき、人間は「朽ちないもの」にされるのです。その体はもはや、この地上の体のように病み、老い、朽ち果てることはありません。

 次に「卑しいもの」と「輝かしいもの」の対比が来ます。この「卑しいもの」は「輝かしいもの」《ドクサ》の反対の状態ですから、神の「栄光」《ドクサ》に欠ける状態、すなわち神の優れた質にあずかることがないために生じる悲惨な状態を指すと見てよいでしょう。現実の人間は罪のために神の栄光に達することができないのです(ロマ三・二三)。この体の中には罪の法則があり、わたしたちを神に背く力の支配の下にとりこにしています(ロマ七・二三)。そのため、わたしたち人間の現実はいかに悲惨な状態になっていることでしょうか。いくら平和を望んでも、地上には憎しみ、争い、流血が絶えません。建てるよりも壊すことに速く、強い者が弱い者を搾取する不正義は絶えず、いくら働いても貧窮から脱することができない地域が地を覆っています。このような地上の人間界の悲惨は、神の栄光にあずかることができないこの「卑しい」体と一体である人間本性から出てきます。この「惨めな人間」の原因となっている地上の体は「死の体」と呼ばれ、その体から救い出されることが呻きをもって切望されるのです(ロマ七・二四)。この呻きは、わたしたちが地上にあってこの卑しい体の中に生きるかぎり続くでしょうが、人間が「輝かしいもの」《ドクサ》に復活するとき完全に解決します。それが「神の栄光《ドクサ》にあずかる希望」なのです(ロマ五・二)。

 最後に「弱いもの」と「力強いもの」の対比が来ます。私たちの体は弱いものです。わずかの環境の変化や、ウィルスなどの外敵の侵入、その他さまざまな原因ですぐに病気になり、倒れ伏してしまいます。肉体だけでなく、脳の働きとしての精神も弱いものです。わずかのストレスや精神的衝撃に耐えられず、変調をきたし、病み果てる場合が多くあります。現代はとくに精神の病が多いようです。弱さは病気という形で現れるものだけではありません。内に強い意志や願いがあっても、それを成し遂げる気力や体力がないことを嘆かないわけにはいきません。この嘆きは年を重ねるにしたがって深くなります。いろいろな意味で、この体の中に生きる人間は「弱いもの」です。しかし、復活して新しい体で生きるときには、もはやこの弱さとそれを嘆く嘆きはなく、願うところはすべて成し遂げる力に満ち、病に倒れ伏すこともなく、いのちに溢れて存在し活動するでしょう。

 ここまで、地上の体と復活の体の性質が、三組の形容詞の対比で描かれてきましたが、最後にその体そのものの名があげられます。「つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」(四四節a)。「自然の命の体」というのは、いまわたしたちが生きているこの地上の体です。原語のギリシャ語では《ソーマ・プシュキコン》と呼ばれています。《ソーマ》(体)につけられている形容詞《プシュキコン》は、聖書では生まれながらの自然の生命を指す《プシュケー》の形容詞形です。口語訳聖書では「肉のからだ」と訳されていましたが、「肉」という語はパウロにおいてはふつう、神に従うことができない生まれながらの人間本性全体を指す《サルクス》に与えられている訳語ですから、あまり適切な訳語ではありません。各国語訳とも苦労しているところですが、新共同訳の「自然の命の体」は分かりやすい訳語だと思います。

 いまわたしたちが地上で生きているこの「自然の命の体」は、「朽ちる、卑しい、弱い体」ですが、復活のときに与えられる「朽ちることのない、輝かしい、強い体」は《ソーマ・プニュマティコン》と呼ばれます。《プニュマティコン》は《プニューマ》(霊)の形容詞形ですから、「霊の体」という訳語でよいわけですが、「霊の体」という表現はすこし分かりにくい点があるようです。ギリシャ人は霊と体を対立するもの、互いに相容れないものと考えていました。わたしたちにもどうしてもそういう考えがありますので、「霊の体」といわれますと、「空気の茶碗」といわれたような不自然さを感じてしまいます。「自然の命の体」に対応して「霊の命の体」とか、「自然的段階の体」に対して「霊的段階の体」と表現すれば、すこしは分かりやすくなるかもしれません。

 聖書では「霊」はけっして、体や心のように生まれながらの人間に自然に含まれている一部分ではありません。それは神から与えられる特別の賜物です。霊は本来人間に属するものではなく、神に属するものです。それで、生まれながらの命に生きている人間が「自然の人」《プシュキコス・アントローポス》と呼ばれるのに対して、神から賜った霊によって生かされている人が「霊の人」《ホ・プニュマティコス》と呼ばれるのです(コリントI二・一四〜一五)。この地上で生まれながらの自然の命に属する体が与えられているように、神からの霊が完全に現れる時には(それが復活です)、霊の命にふさわしい別の体が与えられるのです。それが「霊の命の体」です。

 「自然の命の体」がどのようなものであるかは、わたしたちはよく分かっています。では、「霊の命の体」とはどのような体でしょうか。それはわたしたちの理解を超え、想像を絶しています。なにしろ、復活されたイエスの他は、人類はまだ一度も「霊の命の体」を経験したことがないのですから、それを表現し説明する言葉も概念もありません。使徒もそれが「霊の命に属する体」だというだけで、それ以上のことは何も言っていません。強いて言うと、「イエスが復活されたように」わたしたちも復活すると言うほかありません。パウロはこう言っています。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケI四・一四)。ヨハネも言っています。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネの手紙I三・二)。イエスの復活は、終わりの時に死者の中から復活する者たちの原型であるということです。この意味でも、キリストはすべて眠っている者の初穂として復活されたといえます。

 「霊の命の体」が与えられることは神の新しい創造の業です。「自然の命の体」が初めの創造であるのに対して、「霊の命の体」が与えられるのは終わりの日の創造によります。まったく新しいものを造り出される神の創造の業ですから、わたしたちがその姿を想像することもできないのは当然です。しかし、パウロは続いて「霊の命の体」に復活することを、聖書が啓示する救済史の構造から根拠づけます。


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