市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第16講

第十節 「幸いの言葉」への結び

イエスからマタイへ

 今回は、「幸いの言葉」の講解にあたって、「イエスの語録集Q」に加えられたマタイの編集の跡をやや詳しく見てきました。「語録集Q」というのは共観福音書(マルコとマタイとルカ)のテキストの比較から推定される仮説上の文書ですが、その存在は確実であることと、その基本的な内容について、研究者の間でほぼ意見の一致が見られます。それによりますと、序説の部分で述べましたように、「幸いの言葉」は語録集では次のような形であったと見られます。

 貧しい人々は幸いである、
  神の国はあなた方のものである。
 飢えている人々はさいわいである、
  あなたがたは満たされる。
 泣いている人々は幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

 この語録は、「語録集Q」の中でも最古層に属し、イエスが語られた元の言葉をかなり忠実に伝えていることが認められています。この語録と比べますと、マタイの「幸いの言葉」は拡大されており、用語が変えられたり、独自の言葉が加えられたりして、マタイの編集の手がかなり入っていることが認められます。その編集の仕方にマタイ独自の立場や視点が表れています。イエスの言葉からマタイのテキストに至る間に、どのような力が働いたのか、この変化をもたらした力の質や方向を確認することは、マタイ福音書の理解にとってだけでなく、イエスの福音の本来の姿を復元するためにも重要な作業だと思われます。この作業は、「幸いの言葉」だけでなくマタイ福音書全体の分析が必要ですが、今回は「幸いの言葉」の中でマタイの編集の手を確認することで、その作業の準備の一端を果たしたわけです。
 このような作業をすることは、こうして復元されたイエスの言葉だけが価値あるもので、マタイの手が加えられた編集部分は無価値なものとして放棄されなければならないと主張しているのではありません。マタイ福音書は、マタイの共同体の状況においてイエスの福音がとらざるをえなかった必然的な形であり、固有の意義と価値があります。このような作業をすることは、イエスの福音からマタイ福音書の形成に至る過程で働いたさまざまな力の質や方向をすこしでも明らかにして、福音の進展におけるダイナミックス(力動関係、力学)を理解したいからです。そのダイナミックスを理解することによって、現在のわたしたちの福音理解と福音宣教の実践の道しるべとしたいからです。
 「文字は殺し、霊は生かす」と使徒パウロは言っています。たとえ聖書に書かれている言葉であっても、その文字をただおうむ返しに唱えたり、またその文字を分析して意味を解明したり、さらにまた、その文字を戒律として実行しようとしても、その言葉を生みだした生命そのものに到達することはできません。聖書に対する「文字どおり主義」は、内なる霊の躍動に外から枠をはめることによって、生命を殺す結果になってしまいます。わたしたちは聖書の文字の背後にある、その言葉を生みだした生命の力動に参与したいのです。
 イエスご自身も使徒たちも、「文字どおり主義」のユダヤ教を超えて、それぞれが置かれている現実の中で御霊の言葉を語り出していきました。わたしたちも、使徒たちがそうであったように、「キリスト・イエスにある生命の御霊の法」に従って生き、そこから現在の状況にふさわしい新しい言葉を語り出していきたいのです。そのさい、新約聖書を生みだした御霊の力動の現実が規準となり指針となります。今回イエスからマタイへ至る「幸いの言葉」の変遷を分析したのも、わたしたちの規準となり指針となるべき新約聖書内の御霊の力動をすこしでも正確に理解したかったからです。これからも、マタイ福音書をこの原則に従って「解釈」することを努めていくつもりです。

恩恵の逆説

 さて、もう一度、さきに掲げました語録集の元のイエスの「幸いの言葉」に戻ります。この形で「幸いの言葉」を聴きますと、まず何よりもその逆説の鋭さに圧倒されます。イエスの言葉は、まるで「不幸な者は幸福だ」と言っているようです。このような逆説はどこから出てくるのでしょうか。
 マタイは、この講解で見てきましたように、「幸いの言葉」を一連の倫理的・内面的訓戒とすることで、本来のイエスの言葉がもつ逆説の鋭さをすっかり鈍くしてしまっています。しかし、その中にも保持されている逆説の一面を聞き逃すことはできません。
 ルカはこの逆説を黙示思想的な逆転の期待で説明しています。「今」のこの《アイオーン》では「貧しい者」は飢えて泣き悲しみ迫害されているが、やがて到来する《新しいアイオーン》では、今の時代に力を持って満腹し、高笑いして驕り高ぶっている「富める者」が低くされて、「貧しい者」が神の国の祝福にあずかるようになる、という逆転の期待です。イエスの「幸いの言葉」がルカ福音書ではこのような形で伝えられたという事実は、初期のキリスト教会の一部(おそらくルカ福音書成立の基盤となった小アジア、ギリシア地域の共同体)に、このような黙示思想的期待が強くあったことを示唆しています。
 しかし、元のイエスの「幸いの言葉」には黙示思想的な響きはありません。たしかに、「神の支配」という用語や、「満たされる」とか「笑う」という動詞が未来形であることなど、祝福が将来のものであることを示唆する表現があることは事実です。しかし、イエスの言葉の核心は、逆説の鋭さにあります。この逆説の内容は、「貧しい人々」という表現の意味と、「貧しい人々」に与えられた父との交わりというイエスの宣教活動全体から理解しなければなりません。最初に第一の「幸いの言葉」の講解で述べましたように、イエスの福音の核心は「恩恵の支配」の告知なのです。
 「恩恵」とは、人間の側の資格や価値とは無関係に、交わりに受け入れ、よいものを与えてくださる神の愛の姿勢や働きを指します。神の律法をどれだけ守ったかが神の救いや祝福を受ける資格とされていたユダヤ教の中で、「恩恵」だけが人を神の民とするのだという「恩恵の支配」の告知は、激しい反対を引き起こしたのも当然です。「恩恵」が支配する場では、ユダヤ教での価値の物差しが逆転します。律法を順守することができないので「罪人(つみびと)」と呼ばれていた人々(イエスは彼らを「貧しい人々」と呼ばれます)こそ、恩恵に頼らざるをえない人々であって、「恩恵の支配」すなわち「神の支配」を受け入れる最初の人々であり、「神の国はあなたがたのものである」という祝福を受けるのです。それに対して、律法を守っていると自負する「義人」たちは、「罪人(つみびと)」たちと同列に扱われることを拒み、恩恵を拒否するので、「神の国」に入ることができないのです。親鸞が「悪人正機」を唱える千年以上も前に、その真理がイエスのこの逆説によって告知されたのです。「幸いの言葉」の逆説は、「恩恵の支配」の告知がとらざるをえない表現なのです。