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第十一節 地の塩・世の光

弟子の覚悟

 「幸いの言葉」でイエスに従う「貧しい者」としての弟子の姿を描いたマタイは、イエスの弟子たる者の歩みを教える本論に入る前に、塩と燈火という二つのたとえを用いて、この世に生きる弟子の立場を描き、イエスの弟子としての道を歩み抜く覚悟を促します。とくに「幸いの言葉」の最後に置かれていた「義のために迫害される人々」の幸いの言葉(五・一〇〜一二)を受けて、弟子としての道を歩み抜く覚悟を促すのです。
 こうして、この部分(五・一三〜一六)は「幸いの言葉」の結びを形成すると共に、五章一七節から始まる本論への導入の一部を成します。

塩のたとえ

  あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(五章一三節)

 塩のたとえは共観福音書のすべてに出てきます。イエスの言葉を伝える「語録資料Q」には、次のような形で伝えられていたとされています。
 「塩はよいものだ。だが、塩味を失えば、どのようにしてもとの味に戻るのだ。土地のための肥料にもならない。捨てられるだけだ」。(バートン・マックー秦剛平訳ーによる)
 ここでもルカが比較的もとの形を忠実に伝えていると見られます。ただ、このたとえがどのような状況で語られたものであるかが全然わかりませんので、「塩気を失った塩」という比喩でイエスが何を指されたのか、決定することはできません。後の時代にあるラビが、「塩気を失った塩をどうすれば再び塩辛くすることができるか」という質問に対して、塩が辛さを失うことがないのと同様に、イスラエルがその優越した地位を失うことはないと答えたという記録があるとのことです。このことは、イスラエルではイエスの塩のたとえがイスラエルの裁きを語るたとえとして受け取られていたことを示唆しています。「捨てられるだけだ」という結論は、このたとえが厳しい審判のたとえであることを示しています。神の最終的な恩恵の到来に対して心をかたくなにするイスラエルは、「塩気を失った塩」が外に投げ捨てられるように、神の裁きを受けるぞと警告するために、イエスはこの塩のたとえを語られた可能性があります。
 塩と審判の関連を保持しているのはマルコ福音書です。マルコは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。・・・・・・・」(マルコ九・四三〜四八)という、地獄の火を語るイエスの厳しいお言葉に続けて、この塩のたとえを置いています。

 「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。(マルコ 九・四九〜五〇)

 「人はみな火で塩味をつけられる(未来形)」という文は、《ガル》で先行する「地獄の火」の段落と結ばれています。すなわち、人間はみな「火による審判」をくぐらなければならない(コリントT三・一三〜一五参照)のであるから、火による審判に耐えて命にあずかるためには、片手、片足、片目を切り捨てる覚悟の真剣さをもって生きなければならないというのです。
 火による審判を語るにさいして、ここでは「塩味をつけられる」という動詞が用いられていることが注目されます。火によって「焼き滅ぼされる」ではなくて、火によって「塩味をつけられる」というのは、この「火」が人を清めて神に受け入れられる者にするという意味で用いられていることを示唆しています。というのは、イスラエルの祭儀においては神への献げ物はいつも塩を加えられたという事実が、この用語の背景にあると考えられるからです。イスラエルの律法はこう命じています。

 「あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」。(レビ 二・一三)

 預言者において審判を象徴する「火」が、福音においては「聖霊」を指す象徴であることは、マルコ福音書が洗礼者ヨハネの「火によるバプテスマ」を「聖霊によるバプテスマ」に変えていることに端的に表れています。この観点から見ますと、「火で塩味をつけられる」というのは、聖霊によって清められて神の審判に耐えられる者とされることを意味していると理解できます。
 「塩味をつける」という動詞をきっかけにして、聖霊を指す象徴が「火」から「塩」に移っていきます。

 「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」。
(マルコ九・五〇)

 塩が食物に味をつけ、腐敗を防ぐ「良いもの」であるように、聖霊は人間にとって最高の「良いもの」です。人間の腐敗を防ぎ、神の命と栄光にあずからせる神の力です。しかし、「もし塩がバカになったら(直訳)」他の何をもってしても塩味を取り戻すことができないように、聖霊の働きが無効になったら、人間のいかなる難行苦行をもってしても、聖霊の働きの代わりをすることはできないのです。だから、「自分自身の内に塩を持つ」こと、すなわち、つねに聖霊の導きに従うことによって、内に聖霊を宿しつづけることがもっとも大切なことになるのです。それは一人一人の責任です。しかし、「互いに平和に過ごす」ことによって、交わりの中に聖霊の内住を確保することも重要な助けです。
 このようにマルコにおいては、塩が聖霊の象徴として用いられているので、塩味を失った塩が外に「投げ捨てられる」という句はありません。この点でマルコは「語録資料Q」と違っています。マルコが「語録資料Q」を知っていてこのような使い方をしたのか、または別の語録伝承を用いたのかは分かりませんが、イエスが語られた塩のたとえが福音書記者によって様々に用いられた様子がうかがわれます。

地の塩としての弟子

 ルカ福音書は塩のたとえを別の文脈に置いています。イエスに従おうとする弟子は、自分の持ち物を一切捨て、十字架を背負ってついて行く覚悟がなければならないことを語る二つのたとえ(塔を建てようとする人のたとえと敵を迎え撃つ王のたとえ)の直後に塩のたとえが置かれています(ルカ一四・二五〜三五)。この文脈からすると、塩気を失った塩というのは、自分の命まで含めて、一切を捨ててイエスに従う覚悟のない弟子を指すことになります。
 イエスをキリストと言い表し、イエスの弟子のように振舞いながら、自分に都合のよい限度内でしかイエスに従っていない人がいます。そのような人は、結局自分のことを求めているだけで、自分を捨ててイエスに従う者ではありません。そのような弟子は塩気を失った塩で、世界のただ中で進められる神のよき業のために何の役にも立たず、神の支配の外に投げ捨てられるだけです。イエスの道は十字架の道です。イエスに従おうとする弟子は、イエスと共に十字架の道を歩む覚悟が求められるのです。
 このような覚悟をもって従うことを求められると、わたしたちは皆たじろぎます。そのようにイエスに従うことは到底できないと後ずさりします。そうです、それは誰にもできません。それができるのは、神の恩恵がわたしたちを圧倒するときだけです。キリストがわたしのために死んでくださった。その十字架の場に溢れる神の絶対無条件の恩恵にひれ伏すときに、イエスと共に十字架の道を歩むことが可能になるのです。イエスの教えを親しく聞いていた弟子たちも、イエスの十字架を前にして、みなイエスを見捨てて逃げ去りました。イエス・キリストの十字架を通して恵みの御霊を受けてはじめて、弟子たちは死に至るまでイエスに従うことができるようになったのです。
 ここでボンヘッファーがその名著『キリストに従う』で掲げた命題が思い起こされます。彼が掲げた「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」という命題は、イエスに従うことを抜きにして、観念的な信仰義認の教説に安住する、当時のドイツのルター派教会を厳しく批判するものです。赦しの恵みを信じることがイエスに従うことを可能にするのは真理です。しかし、実際にイエスに従う歩みをしなければ、恵みの教説は人間の罪の現状をそのまま是認する前提、彼のいう「安価な恵み」、偽りの恵みに陥ります。イエスが告知される恵みは、人がそれを得るために喜んで持ち物を全部売り払う畑に隠された宝、人を十字架の道に招く「高価な恵み」なのです。恵みを信じることも、イエスに従うことも、それが人間の側の態度や行為として理解される限り、「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」という命題は、堂々めぐりに陥り実現できません。この命題の前半と後半が同時に実現するのは、恵みが十字架の場で聖霊の力によりわたしたちを捕え圧倒するときだけです。
 マタイも塩のたとえを弟子の在り方を語るたとえとして用います。ルカが「語録資料Q」の言葉をほぼそのまま用いながら、「塔を建てる人のたとえ」と「敵を迎え撃つ王のたとえ」の直後に置くことによって弟子の覚悟を語るたとえであることを示唆しているのに対して、マタイは「あなたがたは地の塩である」という言葉を先に置いて、塩のたとえが弟子の心構えを説くものであることを明確にしています。
 マタイはイエスが告知された「御国の福音」をまとめるにあたって、まず最初に八つの「幸いの言葉」を置きました。そこで、神の国を受け継ぐ幸いな者は「貧しい者」であり、彼らはこの世界では苦しみを受ける小さな群れであることが語られました。その苦しみを受ける「貧しい者」たちに呼びかけるのです、「イエスの弟子としてこの世界で苦しみを受けているあなたがたこそ、この世界の腐敗を止め、神に献げられるにふさわしくする塩の役割を果たす者である」。「あなたがたは地の塩である」というときの「地」は、次の灯火のたとえで「世の光」と言われるときの「世」とほぼ同じく、この世界を指すと見てよいでしょう。
 マタイでは塩が弟子を指すことが初めから明らかにされていますから、「塩が塩気をなくす」というのは、弟子がイエスの弟子である質をなくすことを意味していることはすぐ理解できます。ルカの場合「塩気」は一切を捨てる覚悟を示唆していましたが、マタイの場合はもっと広く、「山上の説教」でイエスが説かれる教えを実行することを指していると見られます。この教えを行わない者は、塩気をなくした塩のように、何の役にも立たず、捨てられるだけだと警告するのです。マタイは塩のたとえを、これから語られるイエスの教えを真剣に聴いて実行するように促す前置きとしているのです。

灯火のたとえ

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(五章一四〜一六)

 マタイは続いて、「あなたがたは世の光である」という呼びかけを置きます。「光」のイメージは、すぐ後の「山の上の町」よりも、その次に置かれている「ともし火」のたとえから来ていますので、先に「ともし火のたとえ」を取り上げます。
 「ともし火のたとえ」も三つの共観福音書すべてに出てきます。しかし、このたとえをイエスがどのような状況で語られたのかを確定できませんので、イエスがこのたとえで何を語ろうとされたのかを正確に理解することは困難です。
 マルコ福音書は示唆深い用語でこのたとえを伝えています。

「ともし火が来るのは、升の下や寝台の下に置かれるためだろうか。燭台の上に置かれるためではないか」。(マルコ四・二一直訳)

 「ともし火が来る」というのは不自然ですので、協会訳も新共同訳も「ともし火を持ってくる」と訳しています。人がともし火を持ってくるとしているわけです。しかし、原文はともし火が主語です。「ともし火が来る」という表現は、イエスがしばしば「わたしが来たのは」とか「人の子が来たのは」という表現を用いておられることを思い起こさせます。また、マルコではこのたとえは神の国のたとえ集の中に置かれ、弟子とはまったく無関係に、「隠されているもので現れないものはなく、秘密にされているもので明るみに出ないものはない」という原理を語るためのたとえとして用いられています。そうすると、イエスは御自身の中に到来している神の国の現実をともし火にたとえて、このように言っておられるのではないかと考えられます。
 「光がすでに到来して輝いている。どうしてすぐにますをかぶせて消してしまうことができようか。どうして寝台の下に置いてその光を隠すことができようか。誰かが力ずくで消そうとしたり隠そうとしても、ひとたび到来したこの光は必ず現れ、明らかになってくるのである」。
 そうだとすると、このたとえが語られた状況としては、弟子や周囲の人々から危険を警告され身を隠すように忠告されたような時が、ふさわしい状況として考えられます(ルカ一三・三一参照)。そのような警告や忠告にもかかわらず、イエスは内に到来している光を消したり隠したりすることなく、身を挺してその光を輝かし世を照らされるのです。
 このように、マルコ福音書ではたとえで指し示されている光の到来が、ヨハネ福音書では明白な言葉で宣言されるに至るのです。

「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」。(ヨハネ 一・九)
 「わたしは光としてこの世にきた」。(ヨハネ一二・四六)  マタイとルカでは、「ともし火が来る」という不自然な表現はなくなり、「ともし火をともす」という常識的な表現になっています。これはマタイとルカの共通の資料となっている「語録資料Q」においてすでに、こういう表現になっていたと推定されます(しかし、このたとえのマタイ版とルカ版は、同一の文書資料を利用したとは考えにくいほど、用語と構文が違っています)。
 ルカはこのたとえを、マルコと同じく、「隠れているものであらわにならないものはない」という神の国の原理を指すたとえとして用いる(ルカ八・一七)と共に、弟子たちが内面の光を消さないように警告するたとえとして用いています(ルカ一一・三三〜三六)。それに対してマタイは、このたとえをもっぱら弟子に関わるものとし、弟子たちが立派な行いによって自分の光を人々の前に輝かすように求めるたとえとして、これから与えられるイエスの教えを実行するように促す序文の位置に置くのです。
 マタイはこう言おうとしているのです。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。ともし火は燭台の上に置くものだ。そうすれば、ともし火は家の中のものすべてを照らすようになる。そのように、あなたがたもこれから聴く言葉を実行して、世のすべての人々の前に光を輝かしなさい」。
 こうして見てくると、「塩のたとえ」にしても「ともし火のたとえ」にしても、状況から切り離されて伝えられたイエスの言葉が、それぞれの福音書記者によって、それぞれの福音提示の構想に従って、違った意味合いと働きを担うようになっていることが見えてきます。

山の上の町のたとえ

 自分たちの行いや在り方を隠すことなく人々の前に現すことのたとえとして、マタイは「ともし火のたとえ」の前に「山の上の町のたとえ」を置きます。このたとえは他の福音書にはなく、正典外の「トマス福音書」に出てきます。

 イエスが言った、「高い山の上に建てられ、固められた町は、落ちることもできないし、隠されることもできない」。(トマス福音書 語録三二 荒井献訳)  トマス福音書のたとえは、マタイのたとえと比べると、「高い」とか「建てられ、固められた」とか「落ちることもできない」が加えられていて、町の堅固さが強調されている印象を受けます。マタイとトマスのどちらの形が元の形であるのか議論がありますが、ここでは立ち入ることはできません。ただトマス福音書では、この語録に「ともし火のたとえ」(語録三三)がすぐに続いていることが注目されます。すなわち、この事実は「山の上の町のたとえ」と「ともし火のたとえ」を一対のたとえとして伝える語録伝承があったということを示しています。マタイが、「あなたがたは世の光である」と言った後、光と直接関係のない「山の上の町のたとえ」を「ともし火のたとえ」の先に置いたのは、マタイがこのような形の伝承を知っていたことを示唆しています。
 マタイにおいては、このたとえは山の上の町がすべての人々の目から隠れることはないことを語るだけで、「町」が何を指すかは重要ではありません。次の「ともし火のたとえ」と同じく、イエスの弟子はすべての人々の前に、イエスの言葉に従う生きざまを現していくようにという勧告を意味しています。

世の光としての弟子

 こうして見てきますと、もともとイエスがご自身のことについて語られたと考えられる「ともし火のたとえ」を、マタイは弟子の在り方についての勧告として用いていることが分かります。このたとえの適用の推移は意義深いものです。すなわち、イエスは光として世に来られ、その光を隠すことなく、身を挺して光を世に輝かされましたが、今は弟子が「世の光」として、イエスがなされた業を継承していくのです。ともし火を枡や寝台の下に置かず燭台の上に置くように、弟子たちは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と求められるのです。
 では、弟子が世に輝かす「光」とは何でしょうか。それは「父の栄光」です。そのことをマタイはイエスの言葉としてこう表現します。

「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
(五・一六)

 マタイが「あなたがたの立派な行い《タ・カラ・エルガ》」というとき、「行い」《タ・エルガ》はたしかに複数形ですが、これは個々の行為を指すよりは、ここでは行為の総体として人生の生き方全体を指すと理解すべきでしょう。それに付けられている形容詞《カロス》はもともとは「美しい」という意味の語ですが、新約聖書ではほとんど「良い、高貴な」と同じ意味で用いられています。《タ・カラ・エルガ》というのは「美しくて高貴な、立派な生き方」ということになると思います。「よい行い」という表現は、社会の規範にかなった道徳的な諸行為というふうに理解されがちですが、ここではもっと広く深く、内面まで含めた人生の総体としての生き方を指すと理解すべきです。
 マタイは次の一七節以下、この「山上の説教」全体に、イエスが教えられた「美しくて高貴な、立派な生き方」とはどのようなものであるのかをまとめています。それは、「殺すな、姦淫するな、離縁するな、偽証するな」という神の戒めが徹底的に深化・内面化されているだけでなく、「敵を愛せよ」という人間の倫理が思い浮かべもしなかった高みにまで達し、さらに善悪の範疇を超えて、生活の必要をいっさい神の配慮に委ねて生きる信頼の生活や、隠れて祈る祈りの生活まで含んでいます。その根底に、導入部の「幸いの言葉」で語られたように、神の無条件絶対の恩恵にひれ伏している姿があることを忘れてはなりません。
 このような生き方を説くにあたって、マタイは序文的な位置に置ているこの段落で、弟子の生き方を貫き、その根底にある秘密を示唆します。それは「神の子」としての生き方であるという事実です。ここで初めて「あなたがたの父」という句が出てきます。イエスの弟子は、イエスが「父」と呼んで親しく交わりに生きられたその神を自分の父として生きるのです。その方の子としての在り方、生き方を「山上の説教」は指し示しているのです。
 ここで語られる「美しくて高貴な、立派な生き方」は、子としてのわたしたちに父から恩恵によって与えられるものです。それはわたしたちが自分の立派さを世に誇るためのものではなく、それによって「父」の素晴らしさを世の人々に指し示すためであるのです。イエスの弟子は、イエスの言葉に従う生き方によって、イエスを遣わし、わたしたちを生かしている父の栄光を、世界に指し示すのです。
 このような任に誰が耐えることができようか、とわたしたちは感じます。たしかに、イエスの弟子をもって任じるキリスト教会は、その長い歴史の中で過ちを犯し、イエスが求めておられることと正反対のことを多くしてきました。しかし、その中にも、イエスの「山上の説教」を真剣に受け止め、あらゆる苦難の中でそれを生き抜くことによって、慈愛深い神がいますことを世界に実感させるような人物が、ごく少数ながら現れました。ときには、ガンジーのようにキリスト教会の外に、ここに伝えられたイエスの言葉によって世界を変えた人物も出ました。マタイはこのような形で「御国の福音」をまとめ、それを教会が保持したことで、人類の歴史に不滅の貢献をしたと言えます。
 世界の歴史にそびえるような偉大な人物でなくても、わたしたち一人一人が自分の置かれている場で、この「御国の福音」を生きるならば、この破れ器の中にも父の恩恵の光を宿し、「世の光」となり、「一隅を照らす」ことになるのです。
 こうして、「地の塩・世の光」の段落(五章一三〜一六節)は、「御国の福音」への導入になっている「幸いの言葉」の後を受けて、そこで描かれている「迫害されている貧しい者」である弟子が、この世界でどのような意義ないし使命をもって存在しているのかを示し、その使命を全うするために、これから語り出されるイエスの教えに従って生きるように促す前置きとしてここに置かれているわけです。