第五節 恩恵と報償
このように、施しと祈りと断食という宗教的実践について、それが隠れたところで行われなければならないことが強調されました。この三つの勧告を、伝承素材を編集してこのような形に構成したのはマタイですが、「隠れたところにおられる父」との関わりに生きるようにという核になる思想はイエスのものです。言葉遣いはマタイのものですが、語りかける方はイエス御自身です。イエスはわたしたちに、人の前で自己を誇る「偽善者」ではなく、「隠れたことを見ておられる父」の前で自己を否定した場に生きるように求めておられるのです。「報い」とか「報酬」という名詞と「報いる」という動詞の使用は、パウロについては、ローマ二・六、コリントT三・八、コリントU五・一〇を見てください。イエスの場合、「語録資料Q」にも少数ありますが(ルカ六・二三、六・三五、一〇・七)、圧倒的にマタイに多く出てきます(名詞は全新約聖書二九回中マタイに一〇回、動詞は全新約聖書四八回中マタイに一八回)。マタイが強くユダヤ教の報償思想に立っていることをうかがわせます。
神が各人にその人の行いや生き方にふさわしい報いを与えることを、聖書は神の「裁き」と呼んでいます。神が支配されるとは、神の「裁き」が貫かれることです。神の支配は「裁き」を土台にしなければ成り立ちません。わたしたちは神の裁きの場にいるのですから、神から離反する罪が真剣な問題になります。罪の報酬は死だからです。罪の支配の下にいるわたしたちを救うために神はキリストの救いを備えてくださいましたが、裁きの場における救いだからこそ、「キリストはわたしたちのために死なれた」という十字架が必要だったのです。無条件で受け入れるという恩恵が裁きの場に実現するために十字架が必要だったのです。十字架は裁きの場における恩恵の啓示です。十字架のキリストにおいて、わたしたち裁きの場では死ななければならない者が、恩恵により無代価で義とされ、命に入れられるのです。「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」。(ルカ六・三五)
人から報われなかった分、神からの報いがあるのです。「いと高き方の子となる」という報い、その方の命に生きるという最大の報いがあるのです。イエスに従うことで理由のない苦しみを受けるとき、その分「天では大きな報いがある」のです(ルカ六・二三)。