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第五章 主の祈り

第一節 前置きとテキスト

マタイの文脈

 マタイは、施しと祈りと断食というユダヤ教の宗教的実践を否定せず継承しながら、それを隠れたところでするように求めて、三つの対立勧告にまとめました。その中で祈りについては、イエスの弟子はこのように祈りなさいという具体的な内容を組み入れます(六・七〜一五)。
 まず前置きとして次のように言います。

 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。(七〜八節)

 マタイは三つの対立勧告において、イエスを信じないユダヤ人たち、とくにファリサイ派の人たちや律法学者を念頭に置いて、彼らを「偽善者たち」と呼んでイエスの弟子と対比しました。それに対してここでは、イエスの弟子の祈りは「異邦人」の祈りと対比されます。
 異邦人は祈るとき、多神教の世界ですから神々は多くいて、しかも一人の神が多くの名をもっている場合があるのですから、どの神にどのような呼称で呼びかけるかは、祈りが有効であるために重要な問題であったのです。それで、一つでも神の名を落とさないように、多くの名を羅列して祈ったのです。
 神の名をくどくどと繰り返すことは、ユダヤ教の会堂でもその傾向がありました。会堂で祈られる「シェモネ・エスレ」(十八祈願)は次のように始まります。
 「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、・・・・助け主、救い主、そして楯なる王よ。・・・・アブラハムの楯よ」(山本書店『原典新約時代史』より)
 このように異教世界でもユダヤ教でも神の名を多く羅列する祈りに対して、イエスは端的に「アッバ(父よ)!」と呼びかけて祈り、そう祈るように弟子に教えられるのです。
 また、普通人間の祈りは、自分の生活上の必要が満たされることを求めて、それが満たされるまで祈るものです。その上に、「言葉数が多ければ(あるいは回数が多ければ)、聞き入れられると思い込んでいる」ので、同じことを繰り返し「くどくどと」祈ることになるのです。ところが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」から、イエスの弟子の祈りは自分の生活上の必要が満たされることをくどくどと祈るのではなくて、「だから、こう祈りなさい」(九節)と「主の祈り」が続きます。
 「語録資料」に伝えられている「主の祈り」をこのような位置(あるいは文脈)に置いたのはマタイです(ルカは別の文脈に置いています)。くどくどと言葉数の多い祈りは「異邦人」の祈りであるとして、また、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである」ことを前置きとして(七〜八節)、「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と書いたのはマタイです。この文では「あなたがた」が強調されています。「異邦人」ではない「あなたがた」、必要を知りたもう父の配慮の下にある「あなたがた」はこう祈りなさい、というのです。この文脈は、マタイが「主の祈り」をどう理解しているか、また読者にどう理解して欲しいと願っているか、を知る上で重要な要素です。
 この文脈がどのような意味を持つかは、個々の祈りについてはそれぞれの祈りを扱うさいに触れることにしますが、全体としては二つの点が意義深いと思われます。一つは、言葉数の多い「異邦人」の祈りに対して、「主の祈り」はきわめて短く、簡潔であることです。一般に既成の組織的な宗教教団では、祈りは祭儀と一緒になって複雑な体系をなし、祭司階級だけがその秘密を独占し、一般信徒は祭司の祈りに仲介されて神々との関わりに入ることができるだけでした。ところが、「主の祈り」は短くて簡明ですから、誰でも理解して祈ることができます。教団の土台になる祈りがこの短い「主の祈り」一つだけであることは、イエスを信じて従う者たちの群においては、ひとり一人が祈りによって直接神との関わりに入ることができ、特別の祭司階級を必要としないことを意味します。
 もう一つは、この文脈は「主の祈り」が人間の祈りの方向を変えていることを明らかにしている点です。普通、人は自分のことを祈り求めます。わたしの必要、わたしの安全、わたしの名誉などを祈り求めます。ところがマタイは、願う前から必要を知りたもう父の配慮の下に置くことで、この祈りがもはや自分の必要を祈り求めるものではなくて、神のために祈り求める祈りであることを明らかにしています。そのことは、前半の三つの祈りがみな「あなたの」ことについて祈っていることで明らかですが、後半の三つの「わたしたち」のことを祈る祈りも、もはや自分の生活上の必要を祈り求めるものではなく(パンの祈りについては後で触れます)、神との関わりにおける自分の在り方について祈り求めていることが分かります。

 以下、本章の「主の祈り」の講解は、前著『神の信に生きる』の第Y部「主の祈り」を要約したものです。「主の祈り」については、前著で詳しく講解していますので、それと重なることになりますが、「山上の説教」の講解で、その中心的な位置を占める「主の祈り」を省略することはできませんので、前著を要約する形でここに再録します。

「主の祈り」のテキスト

 「主の祈り」はマタイ福音書とルカ福音書に少し異なる二つの本文が伝えられています。マタイが伝えるテキストの意義を理解するために、ルカのテキストを並べて掲げておきます(両方とも新共同訳)。

 マタイ福音書(六章九〜一三節) 
  天におられるわたしたちの父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  御心が行われますように、
    天におけるように地の上にも。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
  わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

ルカ福音書(一一章二〜四節)
  父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
  わたしたちの罪を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
  わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

 マタイもルカも共に「語録資料Q」を用いていると考えられます。一見して明らかなように、マタイの方がルカよりも長くなっています。ルカにない部分はマタイが付け加えたと推定されます。ただ、付加部分がマタイの筆によるものか、それともマタイ以前にすでに共同体で用いられていたのかは争われています(EKK注解は後者の蓋然性が高いとしています)。おそらく、マタイのテキストもルカのテキストも著者の個人的な編集の結果ではなく、マタイの方はユダヤ人の集会で、ルカの方は異邦人の集会で実際に祈られていた形に由来するのでしょう(エレミアス)。
二つのテキストを比較して、構成はルカの方が「語録資料Q」の形に忠実であるが、用語はマタイの方が「語録資料Q」の表現に忠実であるとする見方が、現在研究者の間で一般的です。その代表例としてクロッペンボルグの「Q資料」の復元を引用しておきます(引用はクロッペンボルグ他著・新免貢訳『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局より)。

 父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
  わたしたちを試みにあわせないでください。

 構成は短いルカの形が用いられています。しかし、用語では傍線の部分にマタイの形が用いられています。マタイとルカで用語や動詞の時制が異なる場合、著者はマタイの方を「語録資料Q」に忠実として採用しているわけです。この三箇所のうち、二箇所はそれぞれの祈りの解説のところで触れることにして、ここでは「負い目」の箇所について、マタイの方が元の形であると判断される根拠を見ておきましょう。
 イエスの言葉は最初ユダヤ人信徒によってアラム語で伝承されましたが、「語録資料Q」という文書にまとめられた段階ではギリシア語で書かれていたと推定されています。「主の祈り」も最初はイエスが用いられたアラム語で伝承されていたと見られます。ここで「負い目」と訳されているギリシア語は「借金」という意味だけの語です。ところが、このギリシア語訳の元にあるアラム語は、「借金」と「罪」という両方の意味をもっています。それで、アラム語が理解されるユダヤ人信徒の間で成立したマタイ福音書は、「語録資料Q」の「借金」というギリシア語をそのまま用いても「罪」を指していることが十分理解される状況でした。ところが、ルカはギリシア語だけを用いている異邦人に向かって書いていますので、「借金」が「罪」の象徴であることを示すために、一度は「罪」というギリシア語を使わなければならなかったのでしょう。マタイは「語録資料Q」の用語を変える必要はなかったのに対して、ルカには必要があったと見られます。