第二節 ペトロと愛弟子
15 ところで、彼らが食事をした時、イエスはシモン・ペトロに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの者たち以上にわたしを愛するか」。ペトロは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスが言われる、「わたしの小羊たちを養いなさい」。 16 イエスはまた、二度目にシモンに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。シモンは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを牧しなさい」。 17 三度目にイエスは彼に言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。イエスが三度まで「わたしを愛するか」と言われたので、ペトロは悲しくなり、イエスに言う、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、わたしがあなたを愛していることを知っておられます」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを養いなさい。 18 アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。あなたが若かったときには、あなたは自分の帯を締めて、自分が望むままに歩き回っていた。しかし、年をとると、あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」。 19 イエスがこのように言われたのは、彼がどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示すためであった。このように話してから、イエスは彼に言われる、「わたしに従って来なさい」。
20 ペトロが振り向くと、イエスが愛しておられたあの弟子が従って来るのが見えた。この弟子は、食事のときイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者はだれですか」と言った弟子である。 21 この人を見て、ペトロはイエスに言う、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。 22 イエスは彼に言われる、「わたしが来るときまで、彼が生きていることをわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあろうか。あなたはわたしに従って来なさい」。 23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼が死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きていることを、もしわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあるか」と言われたのである。
24 以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 25 イエスがなさったことは、ほかにも多くある。その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう、とわたしは思う。
ペトロへの委託
ところで、彼らが食事をした時、イエスはシモン・ペトロに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの者たち以上にわたしを愛するか」。(一五節前半)
弟子たちは、自分たちと食事をしておられる方がこの世の方ではなく異次元の存在であることを知っており、語るべき言葉を失って、深い畏怖の念の中で食事をしたのでしょう。その沈黙を破って、その方から声がかかります。マタイ(一六・一七)の「シモン・バルヨナ」の「バルヨナ」は、「ヨハネの子」のアラム語短縮形と見られます(「バル」は「ベン(息子)」というヘブライ語に相当するアラム語です)。
ここでシモン・ペトロが、「ペトロ」というギリシア語のニックネームを用いないで、「ヨハネの子シモン」というヘブライ語のフルネームで呼ばれていることの意味が問題になります。これはおそらく、マタイ福音書(一六・一六〜一九)で彼がキリストの民《エクレーシア》の土台となることが「ペトロ」という名で意義づけられたいたのに対して、ヨハネ福音書は別の根拠で彼の立場を説明しようとしたからだと考えられます。すなわち、マタイのように「ペトロ」というギリシア語の呼び名が示唆する「岩」としてではなく、ヨハネ福音書(一〇章)が語る「良き羊飼い」の継承者として意義づけるために、「ペトロ」という名を避けて、牧畜に親しんでいるユダヤ人社会の呼び名を用いたと見られます。ペトロは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスが言われる、「わたしの小羊たちを養いなさい」。(一五節後半)
ペトロは最後の食事の席で、あなたのためなら命を捨てます」と決意を述べています(一三・三七)。ところがそのすぐ後で、そのような人は知らないと三度までイエスを否認します。自分の決意とか勇気が何の役にも立たないことを思い知ったペトロは、ここでは自分の思いを言い立てることはせず、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、イエスの側の理解と自分への扱いに委ねます。この姿勢は、イエスと自分の関わりの根拠を自分の側に求めず、ただイエスの側に委ねる姿勢を示しています。ペトロのイエスとの関わり方は、三度の否認と顕現体験を境として、コペルニクス的転換をなしています。イエスはまた、二度目にシモンに言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。シモンは言う、「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを牧しなさい」。(一六節)
「わたしを愛するか」という質問を、イエスは三回繰り返しておられますが、「愛する」というところで、初めの二回は動詞《アガパオー》が用いられ、三回目は《フィレオー》が用いられています。ここでは両者は厳密に区別されないで用いられていると見てよいでしょう。三度目にイエスは彼に言われる、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。イエスが三度まで「わたしを愛するか」と言われたので、ペトロは悲しくなり、イエスに言う、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなた は、わたしがあなたを愛していることを知っておられます」。イエスは彼に言われる、「わたしの群れを養いなさい。(一七節)
このイエスの問いかけとペトロの答えは三度繰り返されます。この「三度」は、ペトロが三度までイエスを否認したことに対応していると見られます。イエスは、三度まで否認したペトロに、同じ回数だけイエスへの愛を告白させて立ち直らせ、他の弟子よりもイエスに身近な弟子として、ご自分の民《エクレーシア》の指導を委ねられます。ペトロ殉教の予告
アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。あなたが若かったときには、あなたは自分の帯を締めて、自分が望むままに歩き回っていた。しかし、年をとると、あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」。(一八節)
ここで、「アーメン」を繰り返すこの福音書独特の荘重な形式で、ペトロの将来を予告するイエスの言葉が導入されます。「自分の帯を締め」は、他人の世話にならず、自分で自分の身の回りのことをすることで、次の「他の人があなたの帯を締め」と対句になっています。ここのイエスのお言葉は、若いときは他人の世話になることなく、自分の思いに従って歩めるが、年をとると他人の世話になり、自分の思い通りにはならなくなるという意味の諺の表現が背後にあると見られます。イエスがこのように言われたのは、彼がどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示すためであった。このように話してから、イエスは彼に言われる、「わたしに従って来なさい」。(一九節)
ヨハネ福音書は、イエスの十字架の死は子が神の栄光を現す出来事としています(一三・三二など)。ペトロもその殉教の死によって神の栄光を現すとされます。イエスは、ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかをお示しになった上で、「わたしに従って来なさい」と言われます。ここでの「わたしに従って来なさい」は、最初に弟子として召された時の言葉と違って、イエスはすでに十字架の死を遂げておられます。そのイエスが「わたしに従って来なさい」と言われるとき、それはイエスと同じく神の栄光のために命を捧げる覚悟を求めておられることになります。「愛弟子」の最後
ペトロが振り向くと、イエスが愛しておられたあの弟子が従って来るのが見えた。この弟子は、食事のときイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者はだれですか」と言った弟子である。この人を見て、ペトロはイエスに言う、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。(二〇〜二一節)
イエスの厳粛なお言葉に対してペトロがどう応えたのかは書かれていません。この補遺を書いた編集者にとって、ペトロの殉教はすでに起こった事実であり、改めてこの時のペトロの態度を描く必要を感じなかったのでしょう。むしろ、ペトロの殉教の死と対比して、自分たちの共同体の指導者である「イエスが愛しておられたあの弟子」の最後を語ることになります。この「イエスが愛しておられたあの弟子」については、拙著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。
ペトロが召された後、「この人はどうなるのか」はヨハネ共同体だけでなく、周囲の人たちの関心事となったことでしょう。その関心を、著者はペトロのイエスへの質問という形で取り上げます。そして、その弟子に関わる主の御心を、ペトロに対するイエスの答えの言葉として語ります。イエスは彼に言われる、「わたしが来るときまで、彼が生きていることをわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあろうか。あなたはわたしに従って来なさい」。(二二節)
「生きている」と訳した原語ば、ヨハネ福音書特愛の「とどまる」という意味の動詞です。死なないで地上にとどまることを意味するので、ここでは「生きている」と訳しています。ヨハネ福音書とヨハネ書簡の成立事情と両者の関係については、別著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』で詳しく見ることになります。
それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼が死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きていることを、もしわたしが望んだとしても、それがあなたと何の関わりがあるか」と言われたのである。(二三節)
最初期の教団では、死なないで主の《パルーシア》を迎える者がいる、すなわち自分たちの世代に主の来臨があるという待望が燃えていたことは、パウロ書簡からもうかがえます(テサロニケT4章、コリントT一五・五一)。とくにマルコ福音書(九・一)に伝えられているイエスの語録には、「よく言っておくが、ここに立っている者たちのうちに、神の国が力をもって来るのを見るまで、死を味わない者がいる」(私訳)とあります。ヨハネ共同体とヨハネ黙示録の関係については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』183頁「第一節 ヨハネ黙示録の成立」、とくにその中の
187頁「ヨハネ黙示録とヨハネ共同体」の項を参照してください。
むすび
以上のことを証した者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証が真実であることを知っている。(二四節)
最後に、この福音書の著者がこの「イエスが愛された弟子」であることが明言されます。「以上のこと」とは、この補遺の部分の内容だけではなく、この福音書全体の内容を指すことは当然です。この弟子と長年働きを共にした人物が、この福音書全体を書いた者が「この弟子である」と証言します。イエスがなさったことは、ほかにも多くある。その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう、とわたしは思う。(二五節)
最後の「わたしは思う」の「わたし」は、この補遺の部分を書き加えた編集者です。編集者は、この福音書に書きとどめられているイエスの働きと教えの言葉は、「イエスがなさったこと」のごく一部であって、そのすべてを書き尽くすことはできないことを強調します。そのことを強調するために、「その一つ一つが書きしるされるならば、世界もそれが書かれた書物を収めきれないであろう」と、古代の著作によく見られる誇張した表現を用います。この言葉をもって、イエスが世界にもたらされたものが、表現し尽くせない、伝え尽くせない豊かなものであることを語って結びとします。補遺の意図
福音書は明らかに二〇章で終わっています。二一章は後に書き加えられた「補遺」であることは、先に本章の初めに見たとおりです。では、これを書き加えた編集者は、なぜ、何のためにこの補遺を書き加えたのでしょうか。どういう事情が、この補遺を加える必要を感じさせたのでしょうか。