ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  第五章 父と等しい子イエス

                        ―― ヨハネ福音書 五章 ――


  第一節 ベトザタの池でのいやし

 

     12 ベトザタの池でのいやし (5章 1〜18節)

 1 この後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 2 エルサレムには羊門の近くに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる、五つの回廊のある貯水池がある。 3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちが大勢横たわっていた。[彼らは水が動くのを待っていた。 4 それは、時々主の使いが池に降りてきて水を動かすことがあり、水が動いたとき真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても癒されたからである。] 5 そこに三十八年間もずっと病気でいる人がいた。 6 イエスはその人が横たわっているのを見、また、もう長い間であることを知って、その人に「良くなりたいか」と言われた。 7 病人はイエスに答えて言った、「主よ、水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人がわたしより先に降りて行くのです」。 8 イエスは彼に言われた、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」。 9 すると直ちに、その人は良くなり、自分の床を担いで歩きだした。

 その日は安息日であった。 10 そこでユダヤ人たちはいやされた人に言った、「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」。 11 その人は彼らに答えた、「わたしをよくしてくださったその方が、『床を担いで歩け』とわたしに言われたのです」。 12 彼らはその人に問いただした、「お前に『担いで歩け』と言った人物は誰か」。 13 いやされた人はそれが誰であるか知らなかった。その場所には群衆がいて、イエスは立ち去られたからである。
 14 その後、イエスは神殿でその人を見つけ言われた、「見よ、あなたは良くなった。さらに悪いことが起こらないように、もう罪を犯さないようにしなさい」。 15 その人は行ってユダヤ人たちに、自分を良くしたのはイエスであると告げた。 16 そのためにユダヤ人たちはイエスを追及することになった。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 17 イエスは彼らにお答えになった、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くのである」。 18 このためにユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである。

 

ベトザタの池


  この後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(一節)
 ユダヤ人がエルサレムの神殿に詣でることを義務づけられている祭り(巡礼祭)は年に三回ありました。過越祭、五旬節、仮庵祭の三つです。ここで言われている「ユダヤ人の祭り」がどれであるかは特定されていません。四章の終わりでは、イエスはガリラヤのカナにおられるので、そこから祭りに参加するために「エルサレムに上られた」ことになります。
 もし写本の段階で五章と六章の入れ違いがあったという「錯簡」の仮説に従うならば、過越祭(六・四)の後になるので五旬節の祭り(過越祭から七週後、シナイにおける律法授与を記念する祭り)となります。

 エルサレムには羊門の近くに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる、五つの回廊のある貯水池がある。(二節)
 これから語る出来事の舞台が説明されます。「羊門」というのは、神殿の北東にある門で、犠牲の羊が通る門です。その門の近くにヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池(貯水池)があります。「ベトザタ」というのは「オリーヴの家」の意で、この貯水池があったエルサレム東北部の地名です。著者は古い伝承を用いるにあたって、それがヘブライ語(正確にはアラム語)での呼び方であることを、ギリシア語を用いる読者に向かって断っています。
 この貯水池は「五つの回廊のある貯水池」と説明されていますが、これが正確な描写であることが、一八六〇年代から一九五〇年代わたる三次の発掘で明らかになりました。この貯水池は南北97メートル、東西は北側で60メートル、南側で76メートルの台形をした大きな人工の貯水池で、中央にダムがあり南北二つの池に仕切られていたこと、そして四辺と中央のダムに計五つの回廊があったことが分かりました。五世紀にこの池の遺跡の上にキリスト教会が建てられています。

 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちが大勢横たわっていた。(三節前半)
 これも発掘により、当時この池では地域の病気癒しの祭儀(セラピスとかアスクレピウス祭儀)が行われていたことが知られています。この祭儀で癒されることを求めて、多くの病人や障害を負う人たちがこの池の回廊に集まってきたのでした。エルサレム神殿の近くでこのような異教的祭儀が行われたというのは驚きですが、形式化した伝統的な祭儀の周辺で、病気の癒しを求めて藁をもつかむ思いでいる民衆を集める宗教が活動することはどの時代にもあることです。

 [ 彼らは水が動くのを待っていた。それは、時々主の使いが池に降りてきて水を動かすことがあり、水が動いたとき真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても癒されたからである。] (三節後半〜四節)
 この部分は底本にはなく、欄外の異読で紹介されています。初期の信頼度の高い写本にはなく、ごく初期の翻訳にもないので、後期の写本の段階で挿入されたものと見られます。おそらく、回廊に多くの病人が横たわっていたことを説明する注として欄外に書き込まれていた文が、後期の写本の段階で本文に挿入されたのでしょう。現代の翻訳もほとんど本文に入れていません。しかし、七節が確定した本文にある以上、この部分が語っているような言い伝えなり信仰があったとしなければなりません。この部分を書いた人は、七節の病人の答えから、その前提となる言い伝えを構成し、それを異教的祭儀ではなく「主の使い」の治癒力に帰したのだと考えられます。稀に水が動くのを御使いが水浴びに降りてきた結果であるとし、御使いが水浴びをした後には病気を癒す力が残っていると信じられていたようです。そう信じて水に入った人が、これで癒されたと信じたことが病気の癒しをもたらしたというのはありうることです。

 

足の萎えた人が歩く

 そこに三十八年間もずっと病気でいる人がいた。(五節)
 ここでは何の病気であるかは語られていませんが、続く物語の内容から、この人は足が萎えた人であることが分かります。三十八年間もずっと足が萎えていたとすると、おそらくこの人は生まれてからの生涯をほとんど歩くことができず、人の世話になって生きてきたのでしょう。ベトザタの池の奇蹟の噂を聞き、床にのせられて池に連れてこられ、回廊に横たわって、水が動くのを待っていました。

 イエスはその人が横たわっているのを見、また、もう長い間であることを知って、その人に「良くなりたいか」と言われた。(六節)
 イエスは「その人が横たわっている」という病気の現状を見られただけでなく、それが「もう長い間であることを知って」と過去をも見通して、イエスの方から語りかけられます。サマリア人の女の場合のように、イエスは病人の過去を透視しておられます。

 この人の場合、病人が訴えたのではなく、イエスが先に手を差し伸べられます。他に多くの病人がいたにもかかわらず、なぜこの病人に声をかけられたのか、理由は説明できません。神の栄光を現すために、「三十八年間もずっと病気」でいて治癒が不可能に見えるこの人を、イエスがとくに選ばれたという他はありません。内容が似ているのでよく比較されるマルコ福音書二章の足の萎えた人のいやしの記事では、その人をのせた床をつり降ろした人たちの「信仰を見て」、その人をいやされたとありますが、ここではいっさいそのような理由は語られていません。まったく一方的にイエスが選び、ことを運び、神の栄光を現されます。

 イエスはその人に「良くなりたいか」と言われます。イエスはいやしを与えるとき、相手によってはいやされたいという本人の意志を確かめられる場合があります(マルコ一〇・五一など)。マルコ福音書一章の重い皮膚病の人は、「もしあなたが(いやすことを)意志されますならば」と、自分の癒しをイエスの意志に委ねますが、それに対してイエスが「わたしは意志する」と答えておられます。ここでは、イエスが病人の意志を尋ねられます。
 その問いに直接答えず、自分がどれほど強く良くなることを願っているかは当然として、この病人はその願いを実現できない事情を訴えます。

 病人はイエスに答えて言った、「主よ、水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人がわたしより先に降りて行くのです」。(七節)
 この言葉から、この病人が自分で歩くことができない人、すなわち足の萎えた人であることがわかります。この人は自分を池に入れてくれる付添の人もいないので、水が動くのを見たとき何とか池に入ろうとして這うように池に向かうのでしょうが、先に他の人が入ってしまい、いつも機会を失っているのです。当時の治癒祭儀でも、その祭儀の要求に応えることができる状況の有利な人と、それもできない不利な人がいました。現代の医療でも、先進の治療を受けることができる有利な条件の人と、それにあずかることができない不利な状況の人がいます。イエスは、もっとも恵まれない状況にあるこの病人に声をかけることによって、神の救いの働きがまったく人間の側の条件とか状況を問題にしないことを示されます。

 イエスは彼に言われた、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」。 すると直ちに、その人は良くなり、自分の床を担いで歩きだした。(八節〜九節前半)
 驚くべきことが起こります。イエスが「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられます。この命令自体が驚くべきことです。三十八年間もずっと病気で歩くことができない人に向かって、「起きあがりなさい」と命じることができるのは、その人を起きあがらせる力、すなわち神の力をもつ人だけです。その命令に従って、その病人が起きあがると、そこに神の力が働き、起きあがることができるのです。イエスの言葉に従い、イエスの言葉だけに頼って起きあがろうとする行動に、その人の信仰が現れています。そして、その信仰が神の力の働く場となるのです。この人は「直ちに良くなり、自分の床を担いで歩きだし」ます。

 ところで、この「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」というイエスの言葉は、マルコ二・一一の言葉とほぼ同じです。このことは、ヨハネ福音書のベトザタの池でのいやしの物語と、マルコ福音書二章の足の萎えた人のいやしの物語が、同じ出来事がまったく違った形で伝えられ構成された結果ではないかと推察させます。あるいは、足の萎えた人をいやされたイエスの言葉が違った環境で伝承される過程で、その言葉を核として違った物語が構成されたと推定することもできます。もちろん、状況は全然違いますし、物語の内容も違うので、同じような性質のいやしの出来事がそれぞれ別にエルサレムとガリラヤであったと考えることも十分可能です。

 しかしここでは、同じイエスの言葉によって起こった同じような性質のいやしの出来事に対する意義づけが、ヨハネとマルコで違っていることが注目されます。とくに罪との関連で、マルコはいやしを信仰によって罪が赦されていることのしるしとしていますが、ヨハネではそれを前提にしながらも、「もう罪を犯してはいけない」(五・一四)という勧告にしています。マルコはこの奇跡を人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることのしるしとしていますが、以下に見るように、ヨハネはこれを安息日問題としています。

 

安息日のいやし

 その日は安息日であった。(九節後半)
 ここから一八節までは、ベトザタの池での奇跡物語に加えられた著者ヨハネの意義づけです。イエスは繰り返し安息日に病人をいやされたと考えられますが、安息日問題でイエスとユダヤ人が決定的に対立した出来事とされるのは、共観福音書では手の萎えた人のいやしであり(マルコ三・一〜六とその並行記事)、ヨハネ福音書ではこの足の萎えた人のいやしです。

 そこでユダヤ人たちはいやされた人に言った、「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」。(一〇節)
 安息日には、一定の距離内であれば「歩く」ことは許されていますが、「床を担ぐ」ことは許されていません。ユダヤ教においては、「安息日には仕事をしてはならない」という律法がラビたちによって具体的に適用され、どのような行動が仕事をすることになるかが細かく規定されていました。「床を担ぐ」ことは安息日には許されない仕事であるとされていたのです。

 ここでユダヤ人たち(ユダヤ教を代表する律法学者たち)は、イエスが安息日に病人をいやされたことを問題にしていません。一六節では安息日に病人をいやした行為自体が問題にされますが、ここではまず「床を担ぐ」という安息日に禁じられている行為をするように命じたことが、律法違反を扇動すると問題視されています。

 その人は彼らに答えた、「わたしをよくしてくださったその方が、『床を担いで歩け』とわたしに言われたのです」。(一一節)
 この段落で繰り返し用いられている「歩く」《ペリパトー》という動詞は、「歩き回る」という意味合いの動詞です。イエスは、「床を担ぐ」ことがユダヤ教の安息日律法で禁止されている行為であることを十分承知しておられるはずです。「床を担いで歩き回れ」というのは、律法違反とされている行為を人々の前でやって見せよということであり、イエスがユダヤ教律法学者たちに挑戦されていることをうかがわせます。共観福音書の手の萎えた人のいやしの記事(マルコ三・一〜六)にも同じようなイエスの姿勢が見られます。

 マルコ福音書二章(一一節)では、イエスは「立ち上がり、床をとって家に帰りなさい」と命じておられますが、ヨハネ福音書では「家に帰りなさい」はなくて、「歩き回りなさい」と命じておられ、マルコにはない挑戦的な姿勢が出てきています。これは、対立するユダヤ教会堂の律法主義に対して、ヨハネ共同体がイエスによって律法から自由にされた境地を証言しようとする姿勢が反映しているのでしょう。

  彼らはその人に問いただした、「お前に『担いで歩け』と言った人物は誰か」。(一二節)
 ユダヤ人たちは、律法違反の行為をするように教唆した人物を捜し出し処罰するために問いただします。イスラエルの民に律法に違反するように教える教師の罪は重いものです。ラビ文書(サンヘドリン11)では、そのようなことをする教師は異端・背神の教師として死刑と規定されています(申命記一三章参照)。

 いやされた人はそれが誰であるか知らなかった。その場所には群衆がいて、イエスは立ち去られたからである。(一三節)
 イエスはその病人をいやすとすぐに群衆の中に姿を隠されたので、いやされた人は自分をいやした方が誰であるかを知らないままでした。

 その後、イエスは神殿でその人を見つけ言われた、「見よ、あなたは良くなった。さらに悪いことが起こらないように、もう罪を犯さないようにしなさい」。 (一四節)
 当時のユダヤ教では、病気や身体的障害は罪の結果であると考えられていました(九・二参照)。一四節のイエスの言葉は、この考えを前提にして、「あなたは良くなったのだから、すなわち、罪が赦されたのだから、これからは罪を犯さないように。せっかく罪を赦されたのに、また罪を犯すと、前よりも悪いことが起こるから」と言っていることになります。姦通の現場で捕らえられた女に対しても同じような言葉が語られています(八・一一)。この言葉は、生まれながら目の見えない人についてこの福音書が語る言葉、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(九・三)と矛盾します。こちらの言葉が示しているように、福音はユダヤ教の応報思想を克服しています。恩恵が支配する場では、病気は罪の結果ではありません。もとの伝承ではおそらく九節前半から一六節に続いており、本節(一四節)の言葉は、足の萎えた人のいやしの奇跡物語がユダヤ教の圏内で伝承されていく過程で加えられたものではないかと推察されます。マルコ福音書二章の記事には、このような言葉はありません。

 その人は行ってユダヤ人たちに、自分を良くしたのはイエスであると告げた。(一五節)
 いやされ時は、イエスはすぐに群衆の間に身を隠されたので、いやした人がイエスであると分かりませんでした。後でイエスと会って、萎えた足をいやされた人は、それがイエスであると知り、行って、「お前に『担いで歩け』と言った人物は誰か」というユダヤ人たちの質問に答えます。ユダヤ人たち(ユダヤ教会堂の指導層)を恐れていたのでしょう。

 そのためにユダヤ人たちはイエスを追及することになった。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。(一六節)
 「そのために」、すなわち、安息日律法を破り、またそうすることをそそのかすようなことを命じたのはイエスであることが分かったので、ユダヤ教指導者たちはイエスを追及することになります。もともと「イエスが安息日にこのようなこと(病人をいやすこと)をしておられた」(動詞は過去に繰り返して行われたことを指す形)のを知っているユダヤ人たちは、ここで一気にイエスに詰め寄ります。

 「追及する」と訳した動詞は、「迫害する」という意味も含んでいますが(新共同訳を始め多くの現代語訳がこの意味に訳しています)、本来は「追いかける、追求する、追及する」という意味の動詞です。ここでは、イエスが安息日律法を破り、また破るように教唆する行為を「追及・詰問する」段階です。一七節の「お答えになった」という動詞の前提としても、「迫害した」より「追及した」の方が適切でしょう。
 ユダヤ人たちの追及・詰問に対して、イエスはお答えになります。

 イエスは彼らにお答えになった、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くのである」。(一七節)
 イエスが安息日に病人をいやすなどの働きをされる理由が、共観福音書と異なることが注目されます。マルコ福音書(二・二七〜二八)では、イエスは「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。このように、人の子は安息日にもまた主なのである」と言っておられます。共観福音書では、安息日律法に代表されるユダヤ教律法の本質が問題とされ、人間が主人であるのだから、安息日の律法規定を細かく順守することよりも、人間の必要に応じて行動することが、本来の神の御心であると主張されています。

 それに対してヨハネ福音書では、もはや律法との関係は問題にされず、もっぱらイエスと父との一体関係が理由として上げられています。イエスは神を「わたしの父」と呼び、「わたしの父は今にいたるまで働いておられるのだから、わたしも働くのである」と言われます。イスラエルの神は、天の高みから地上を見下ろして休んでいる神ではなく、民の苦悩を見て、その叫びに応え、「降ってきて」民の中で働く神でした。イエスはこの神を「わたしの父」として、その方が「今にいたるまで働いておられる」と断言されます。イエスの時代にも民が苦しんでいることには変わりはありません。イエスの父は、その民の苦しみを見て、民を救うために「降ってきて、今も働いておられる」のです。イエスは、安息日に病人をいやす働きを、「だから、わたしも働くのである」と言って、「今にいたるまで働いておられる」父の働きであるとされるのです。ユダヤ人たちはこのイエスの言い方に、イエスが自分を神と一つにしておられる「涜神」(神を汚す罪)の臭いをかぎつけます。

 このためにユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである。(一八節)
 安息日を破るように扇動するだけでも死に値しました。その上さらに、イエスは「神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされた」という「涜神」、すなわち神を汚す大罪があるとされました。人間である自分を神と等しい者として神を汚し、律法違反を煽動するような異端・背教の教師を死刑にして取り除くことは、ユダヤ教においては宗教的な義務でした。ユダヤ教指導者たちがイエスを殺そうとしたのは、たんに自分たちを批判する敵を抹殺しようとしたとか、自分たちの権力維持のためだけではありません。背教の教師を取り除くことで、律法の神聖さを擁護しなければならないという、律法を代表する者としての義務感からも出ています。彼らはイエスを殺すことで、律法の神聖を保持し、神に仕えているのだという意識で行動しています。イエスは律法によって殺されたのです。

 共観福音書ではイエスが神を父と呼ばれたことは問題になっていません。ヨハネ福音書はイエスを神の受肉として告白するので、イエスが神を父と呼ばれたことを、イエスと父の一体性の表現として、ヨハネ共同体とユダヤ教会堂の最大の争点と位置づけます。ユダヤ教では(メシアも含めて)いかなる人間をも神とすることは最大の涜神とされます。それに対してヨハネ共同体は人間イエスを地上に現れた神と告白し、そう信じるように呼びかけます。それで、ヨハネ福音書においては、イエスが神を「わたしの父」と呼ばれたことも、イエスが「神と等しい者」であることの現れとして扱われることになります。

 ヨハネ共同体は、復活者イエスを神として礼拝するのです(二〇・二八)。ところが、ヨハネ福音書は地上のイエスの姿に重ねて復活者イエスを語るので、地上のイエスが自分を神と一つであると語られることになります。この重なりは共観福音書にもありますが(拙著『マルコ福音書講解』の終章92「マルコ福音書の二重構造」を参照)、共観福音書ではなお地上のイエスの言葉伝承がそのまま用いられているので、(最後の最高法院での裁判を別にして)イエスが自分を神と等しい者とされるような発言はありません。それに対して、ヨハネ福音書では初めから終わりまで、イエスが父と一体の子であることが主張され、以下の論争ではイエス自身がそれを主張され(一九〜三〇節)、それに対する証言(三一〜四七節)が主題となります。

 

 

 第二節 御子の権威

 

   13 御子の権威(5章 19〜30節)

 19 そこでイエスは答えて、彼らにこのように言われた。「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない。父がなさることは何でも、子も同じようにするのである。 20 父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである。そして、このようなことよりももっと大きな業を彼に見せるであろう。 それは、あなたがたが驚くことになるためである。21 父が死者たちを起こして命を与えるように、子もまた同じように自分の望む者たちに命を与えるからである。 22 父は誰をも裁かず、いっさいの裁きを子に委ねておられる。 23 それは、すべての人が父を敬うように、子を敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬わないのである。

 24 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている。

 25 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る。いや今がその時である。そして、聞いた者は生きる。 26 父がご自分の内に命を持っておられるように、子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされたからである。 27 そして、裁きを行う権能を子に与えた。彼は人の子だからである。28 このことを驚いてはならない。墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る。 29 その時には、善いことをした者たちは命の復活へと、悪いことをした者たちは裁きの復活へと出て来ることになる。30 わたしは自分からは何一つすることはできない。聞くとおりに裁く。そして、わたしの裁きは正しい。わたしの意志ではなく、わたしを遣わした方の意志を求めているからである」。


働きにおける父と子の一体性

そこでイエスは答えて、彼らにこのように言われた。(一九節前半)
 直前に批判者たちの質問はありませんが、先行する段落の安息日についてのユダヤ人たちの追及(一六節)に対しての答えとなっています。したがってこの段落は、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くのである」(一七節)という言葉の展開となり、イエスの子としての働きと、神と等しい栄光と権能を語る段落となっています。

 「彼ら(ユダヤ人たち)にこのように言われた」というときの動詞は、過去の継続的な動作または繰り返しを示す形です。この動詞形には、自分を神と等しい者とするとしてイエスを殺したユダヤ教団に対するヨハネ共同体の継続的な反論活動が反映していると見られます。ヨハネ共同体は、以下のような言葉で繰り返しユダヤ教会堂に反論してきたのでしょう。それは同時に世界に対して、イエスがどのような方であるのかを告知する言葉でもあります。著者はその言葉を地上のイエスがユダヤ人たちに語っておられる言葉として書き記すのです。

 このユダヤ人に対する反論、ひいては世界に対して御子としてのイエスを告知する言葉は、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」というヨハネ福音書特有の句で導入される三つのアーメン句で宣言され(一九節後半、二四節、二五節)、それに理由や意味を解説する言葉が加えられて、このキリスト論として重要な段落(五・一九〜三〇)が構成されます。。

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない。父がなさることは何でも、子も同じようにするのである」。(一九節後半)

 まず働きにおける父と子の一体性が語られます。この内容は直ちに「語録資料Q」に伝えられているイエスの語録を思い起こさせます。イエスはこう言われたと伝えられています。

    「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ一一・二七、ルカ一〇・二二)。
   
 この語録が、父と子イエスの一体性というヨハネ福音書の中心主題にあまりにもよく似ているので、「ヨハネ福音書の天空から落ちてきた隕石の観がある」と評した学者がいましたが、この語録はヨハネ福音書のように神とイエスの一体性を直接言い表しているのではなく、人間社会における父親と息子の関係を比喩として、イエスが御自身の立場を語っておられるものです。この語録は次のように訳すと原意に近いでしょう。

 「すべてのことが父からわたしに示されて任されています。父親の他に息子を理解する者はなく、息子と、息子が示してやろうと思う者の他は、父親を理解する者はいません」。

 父親が息子だけに秘伝の技術を伝え、本心を明かし、一切を息子に委ねるように、イエスは神から御旨の奥義とその働きを示され、地上でそれを伝え、成し遂げるように委ねられているのだと、(父子相伝の関係を比喩として)御自身の立場と使命を語っておられるのです。

 著者(またはヨハネ共同体)にもこの語録は知られていて、イエスがこの語録で言おうとされたことを、著者(またはヨハネ共同体)は自分の御子としてのイエス理解(告白)に組み込んで、独自の表現を与えたという可能性も考えられます。

 なぜイエスは安息日に病人をいやしたり、床を担いで歩き回るように命じるというような律法違反をするのかというユダヤ教側からの批判に対して、ヨハネ共同体は、イエスはその働きにおいて父と一体であるからだと答えるのです。その一体性は、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも(そのように)働くのである」というイエスの言葉に端的に表現されましたが、その一体性がここでさらに詳しく語り直されます。

 ヨハネ福音書のイエスは繰り返し、「わたしは自分から語り、ことを為しているのではない」と言っておられます。また、「わたしは自分から来たのではない。父がわたしを遣わされたのだ」と言っておられます。そのことが、ここでは働きの観点から、「子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない」と言われます。

 イエスは「何一つ自分ですることはできない」者とされます。すなわち、御自分を無であるとされています。それゆえに、イエスがされることは父がなさることだけです。父がなさることであれば、子であるイエスも同じことをされるのです。「父がなさることは何でも、子も同じようにするのである」。この文は、イエスがされていることは父が(神が)されていることであるという主張です。

 父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである。(二〇節前半)
 そして、そのようにイエスが父のなさるのと同じことをしておられる理由が、「父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである」と述べられます。「語録資料Q」に伝えられているイエスの語録では、「すべてがわたしに委ねられた(引き渡された)」となっていますが、ここでは「見せる」になっています。父なる神は子であるイエスを愛して、御自分がなさることをすべてイエスに見せられるので、イエスは父がなされるのと同じようになさるのです。イエスの働きは父の働きであることが明確に主張されています。

 なお、ここの「愛して」は、新約聖書特有の《アガパーン》ではなく、肉親の間の情愛を語るときに用いられる《フィレイン》が用いられています。この用語にも人間社会における父親と息子の親愛関係が比喩として用いられていることがうかがわれます。ヨハネはその比喩をこの段落(五・一九〜三〇)で、子であるイエスと父である神との一体性を告知する講話に展開することになります。この箇所(一九節後半と二〇節前半)は、三〇節と共に、この段落を囲む枠となっています。

 

命を与える子の働き

 そして、このようなことよりももっと大きな業を彼に見せるであろう。 それは、あなたがたが驚くことになるためである。(二〇節後半)
 今イエスが足の萎えた人を立ち上がらせるような驚くべき業をしておられるのは、父がなさることを見て、子であるイエスが同じことをしておられるのですが、「このようなことよりももっと大きな業」を子であるイエスに見せることになるであろう(動詞は未来形)と言われます。これは、それを見せて同じことを行わせることになるであろう、という意味を含んでいます。そして、イエスがそれを行われるとき、それを見て「あなたがたが驚くことになる」であろうと予告されます。すでに足の萎えた人が立ち上がって歩くことが驚きですが、さらに大きな驚くべきことが起こるというのです。その「もっと大きな業」の内容、それを見て「あなたがたが驚くことになる」理由が次節で述べられます。

 父が死者たちを起こして命を与えるように、子もまた同じように自分の望む者たちに命を与えるからである。(二一節)
 「起こす」《エゲイレイン》は復活させることを意味する動詞です。イエスが復活されたこともこの動詞で語られています。「命を与える」《ゾーオポイエイン》も、命を創り出す、死んでいる者を生かす、すなわち復活させるという意味で用いられる動詞です。この二つの動詞は同意語として組み合わせて用いられることが多くあります。ここはその代表的な場合です(他にローマ八・一一、コリントT一五・二一〜二二)。

 神が死者たちを復活させることは、当時のユダヤ教(ファリサイ派)の信条でした。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、終わりの日に神が死者たちを復活させることを信じていました(一一・二四)。そのことは共通の信仰として前提されています。ここで「あなたがた(ユダヤ人)が驚くことになる」のは、「子もまた同じように・・・・命を与える」からです。「死者たちを起こして命を与える」という神が終わりの日にされる業を、子であるイエスが同じようにするという主張です。イエスが子として、神にだけ属する「命を与える」という権能を行使する、神と等しい方であることを、この福音書は告知しています。これはユダヤ人には驚きを通り越したショックであり、許すことができない涜神です。イエスがこのような権能をもつことのしるしとして死んだラザロを生き返らせたとき、ユダヤ教指導層はイエスを殺害することを最終的に決意したのでした(一一・五三)。

 たしかに、地上の一人の人間にすぎない者が、「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」というようなことを言ったら、それは狂気かサタン的な涜神でしょう。しかし、ヨハネ福音書のイエスには、復活されたイエスが重なっています。この福音書は復活されたイエスを父と一つである子として告知し、その方を神として拝むのです。ここで「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」と語っておられるのは、復活者イエス・キリストです。死者の中から復活された方として、イエス・キリストは「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)となっておられます(コリントI一五・四五)。パウロが告白したこの現実を、ヨハネは「子が命を与える(復活させる)」と表現するのです。

 このように、命を与えるのは復活者イエス・キリストですから、命を与えられるのは当然この方に属する者だけです。この方を信じて告白する者だけです。そのことがここでは、子が「自分の望む者たち」に命を与えると表現されます。

 ユダヤ教では、律法を順守するユダヤ人はみな終わりの日の死者たちの復活にあずかるとされていました。それに対して、子であるイエスは「自分の望む者たちに」命を与える、すなわち復活させます。もはやユダヤ人である(ユダヤ教徒である)から復活にあずかるのではなく、子であるイエスが復活させるかさせないかを決めるのです。もはやモーセ律法を順守することは復活にあずかることの根拠ではなく、復活者イエス・キリストに属するかどうかがその根拠になります。その復活させるかどうかの決定が「裁き」という用語で次節に取り上げられます。

 父は誰をも裁かず、いっさいの裁きを子に委ねておられる。(二二節)
 ユダヤ教においては(そして他の一神教においても同じく)、誰に栄光を与え、誰を断罪するか、すなわち裁くことは神の権能です。イエスの父は、自らはこの神としての権能を行使しないで、子であるイエスに委ねたとされます。子は神の権能を行使するのです。子は「自分の望む者たちに命を与える」ことによって、この裁きの権能を行使するのです。

 それは、すべての人が父を敬うように、子を敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬わないのである。(二三節)
 子であるイエスがこのような権能、すなわち誰に命を与え誰に与えないかを決定する権能を与えられたのは、すべての人が神を敬うのと同じ仕方で子であるイエスを敬うようになるためです。神を敬うことは礼拝ですから、イエスを神として礼拝することになります。この礼拝はイエスが復活者キリストと信じられるときに成立することになります(二〇・二八)。復活者である子は父と栄光を等しくします。ヨハネ共同体は、復活者イエス・キリストを神と重ねて礼拝する共同体であり、ヨハネ福音書は復活者イエス・キリストを神として拝むように世界に呼びかける福音書です。

 「子を敬わない者」、すなわち、イエスを神の子と信じないで、父を敬うように敬わない者は、イエスを子として、すなわち御自身を地上で代表する者として遣わした父を敬わないことになります。使者を敬わない者は、その使者を派遣した者を敬わないのです。

死から命に移っている

 先に「命を与える」《ゾーオポイエイン》は、「起こす」《エゲイレイン》と組み合わされて父の終末的な働きとされ、子である復活者イエスが「同じように」働かれることが述べられていました(二一節)。そのさい子の働きについては「起こす」《エゲイレイン》は用いられないで、「命を与える」《ゾーオポイエイン》だけが用いられていました。それは、父の働きについては終末時の死者の復活が語られているのに対して、子の「望む者たちに命を与える」働きについては、著者は現在の出来事として語ろうとしているので、「命を与える」《ゾーオポイエイン》の方が適切な動詞であったからです。眠っている者を「起こす」とか、死者を「復活させる」という動詞《エゲイレイン》は、どうしても終末的な出来事を指す場合に限定されます。それに対して、「命を与える」《ゾーオポイエイン》の方は意味が広く、現在の霊的な出来事を語るのにも用いることができるからです。復活者イエス・キリストは現在「望む者たちに命を与える」働きをされているのです。
 ここまで父と子の働きにおける一体性を語り、子としての復活者イエス・キリストが父の働きを現在行っておられることを語ってきた著者は、ここで「命を与える」子の働きを、結論として二つの荘重なアーメン句で宣言します。それが二四節のアーメン句と二五節のアーメン句です。

 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている。(二四節)
 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者」というのは、イエスが神から遣わされた方であること、したがってイエスが語られる言葉は神の言葉であると信じる者のことです。そのように信じて、イエスの言葉を聞く者は、現在すでに永遠の命を持っているのです。「持っている」は現在形です。

 ここでは聴くことと信じることは一体です。パウロが信じる姿勢で福音の言葉を聴くことが直ちに聖霊をもたらしたと語っている(ガラテヤ三・二)のと同じことが、「永遠の命を持っている」という形で語られているのです。

 ユダヤ教では、また周囲の一般のキリスト教世界では、「永遠の命」とは「来るべき世《アイオーン》」において与えられる命でした。それは未来のことでした。それに対して、ヨハネ福音書は「永遠の命」とは未来のことではなく、神から遣わされたイエスの言葉を聞く現在において起こる出来事であるとするのです。

 また、ユダヤ教や周囲の一般のキリスト教では、人はすべてやがて世界に臨む神の終末審判を受けて、永遠の死か永遠の命に定められると考えられていましたが、それに対してこの福音書は、そのような終末の審判を待つまでもなく、神から遣わされたイエスを信じてイエスの言葉を聞く者は、現在すでに死から命に移っているのだと宣言します。

 そうすると、この死は人生を終わらせる死ではなく、現在人間が陥っている霊的状況としての死であることが分かります。この死と対立する命も、死後の命ではなく、現在生きている生まれながらの命とは別種の命を指すことになります。三章で「新しく生まれる」とか「上から生まれる」と言われていたことが、ここでは「死から命に移る」と表現されます。

 同じことが違う表現を用いて次のアーメン句で繰り返されます。

 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る。いや今がその時である。そして、聞いた者は生きる。(二五節)
 「死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る」というのは、典型的な黙示思想の確信です。終わりの日には、神は御自身の裁きを執行する方(その方は人の子とか神の子と呼ばれる)を天から派遣して、地上に生きている者もすでに死んでいる者もすべてみ前に呼び出して裁きの言葉を宣言されると信じられていました。周囲のキリスト教世界にも残るこのような黙示思想的な将来待望に対して、この福音書は「いや今がその時である」と宣言するのです。この言葉こそ、この福音書の特色をもっとも鋭く表現する言葉です。この福音書は、新約聖書のすべての文書の中で、終末的将来待望をもっとも徹底的に現在化しています(この問題は後で項を改めて取り上げます)。

 終わりの日を待つまでもなく、今現在、死んでいる者が神の子の声を聞いているのです。イエスは神から遣わされた「子」です。すなわち「神の子」です。そのイエスが語る言葉を聞くことは、「神の子の声を聞く時が来る」として将来に待ち望んだ出来事をすでに今体験しているのです。そのように、イエスの言葉を神の子の声として聞くとき、「聞いた者は生きる」ことになります。復活者イエス・キリストこそ、終わりの日に出現して命を与える「神の子」だからです。先に「永遠の命を持っている」と言われたことが、ここでは「生きる」という一つの動詞で表現されます。この「生きる」は未来形ですが、この未来形は終わりの日の出来事を指しているのではなく、現在の地上の出来事として、神の子の声を聞くときには「(永遠の命に)生きることになる」という意味で用いられています。

 この二つのアーメン句で宣言されたこと、すなわちイエスを神の子と信じる者が現在すでに永遠の命に生きるようになる理由が述べられます。

 父がご自分の内に命を持っておられるように、子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされたからである。(二六節)
 この段落では、まず働きにおける父と子との一体性が語られ、次いで子が父と同じ権能を持つことが宣言されました。続いて、子がそのように父と同じ働きをされ、また同じ権能をもっておられることが、命の質における父と子の一体性によって理由づけされます。子は父と同じ質の命《ゾーエー》をもっておられるので、その命を今「望む者たちに」与えることができるのです。

 「父が子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされた」のは、本来は復活によってです。十字架上に死なれたイエスは、死者の中からの復活によって神の子として立てられ(ローマ一・四)、自らの内に命を持ち、彼に結ばれる者に「命を与える霊」(コリントI一五・四五)となられたのです。しかし、この福音書は復活者イエス・キリストを万物に先在する御子とし、同時に地上のイエスと重ねて描くので、もはや父がいつ子に命をお与えになったかは問題にならなくなっています。この福音書のイエスは、子として永遠に父と同じ質の命に生きておられ、御自分に属する者にその命を与える方なのです。

 

「人の子」による裁き

 ところで続く三節(二七〜二九節)で、終末を徹底的に現在化しているこの福音書に、突然黙示思想的な終末待望の言葉が入ってきます。

 そして、裁きを行う権能を子に与えた。彼は人の子だからである。(二七節)
 まず、父は子に御自分と同質の命をお与えになった(二六節)だけでなく、「裁きを行う権能」をも子にお与えになったことが宣言されます。そして、その理由が「彼は人の子だからである」と続きます。(二七節)。この理由を示す文で、「彼」は直前の「子に与えた」の「子」を指していますから、この文は「子は人の子だからである」となります。この文が「父は子に裁きを行う権能を与えた」の理由になるのは、「人の子」が本来終末時に神の世界審判を執行する人物の称号であるからです。

 このような意味内容をもつ「人の子」称号を用いて、「父は子に裁きを行う権能を与えた」ことの理由とすることができるのは、ユダヤ教黙示思想が理解されている世界でのことです。すなわち、この箇所(二七〜二九節)は、この福音書がユダヤ人読者を(少なくともおもな)対象として含んでいることを示しています。この福音書は異邦人世界において成立したと見られますが、福音書を生み出したヨハネ共同体にはユダヤ人が多くおり(ヨハネ共同体は本来ユダヤ人の共同体であると考えられます)、またヨハネ共同体が厳しく対立して反論する相手はユダヤ教会堂であることから、ユダヤ人である著者の論争の中にユダヤ教黙示思想からの根拠づけが自然に入ってくるものと考えられます。

 著者は、イエスが「人の子」であるという伝承を受け継いでおり、ここでそれを用いていると見られます。イエスが御自分を「人の子」であるとされた語録は、共観福音書に多く保存されて伝えられていますが、ヨハネ共同体もそれを知っており、ここでは共観福音書と同じく、「人の子」を終末的審判者の称号として用いて、子であるイエスが「裁きを行う権能」与えられた方であることを理由づけています。

 このことを驚いてはならない。墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る。(二八節)
 「このこと」は以下(二八〜二九節)に述べることを指しています。この箇所は、二五節が言明していることを、(ヨハネらしからぬ)きわめて黙示思想的色彩の濃い表現で語り直しています。そのため、二七節が三〇節に自然に続くこともあって、この箇所は最終編集者が後で加えたものであるという見方もあります。しかし、(先に見たように)著者ヨハネがユダヤ人読者を相手に古いユダヤ教伝承をそのまま用いたと見ることもできます。ヨハネ共同体は、信じる者は現在すでに命を持っているという現在終末論の立場に立ちつつ、二一節が示すように(また後に六章で詳しく扱うように)終末時の死者の復活をも受け入れている面があります。

 「墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る」は、二五節の「死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る」と並行しています。二五節では、死の領域にいる者たち、すなわち霊的な意味で死んでいる者たちが神の子であるイエスの言葉を聞いて生きるようになることを語っているので、「いや今がその時である」と言って、その時がすでに来ていると言明しました。しかし、ここでは神が「人の子」によって生ける者と死せる者すべてを裁かれる終末の審判が語られているので、当然「今がその時である」という句はありません。

 その時には、善いことをした者たちは命の復活へと、悪いことをした者たちは裁きの復活へと出て来ることになる。(二九節)
 「命の復活へ」と「裁きの復活へ」というのは直訳ですが、「復活して命に至るために」、「復活して裁きに至るために」と意訳することもできます。この二重の復活の思想は、ダニエル一二章二節から始まり、その後のユダヤ教黙示思想において展開されたものです。すなわち、神の終末的な審判の時、義人(神の律法に従った者たち)は復活して永遠の命に至り、罪人(神の支配に反抗し義人を迫害した者たち)は復活して永遠の苦悩に定められるとされていました。原始パレスチナ教団は、このような黙示思想の枠組みでイエス・キリストによる救済を考えていました。

 「出て来ることになる」という表現は、二八節の「墓にいる者たち」について語られているのですから、「墓から出て来る」ことを意味します(ヨハネ黙示録二〇・一三参照)。原始パレスチナ教団で、死者たちの復活が「墓から出て来る」という素朴なイメージで語られていたことは、マタイ福音書(二七・五二〜五三)が伝える伝承にも見られます。

 「その時」、すなわち終末時の審判において、復活して命に至るのは「善いことをした者たち」であり、復活して裁きに至るのは「悪いことをした者たち」であるとされていることが注目されます。イエスを信じるかどうかではなく、善いことをしたとか悪いことをしたというような一般的な表現で語られているのは、これがキリストの福音の言葉ではなく、ユダヤ教黙示思想の伝承であることを示しています。もっとも「善いこと」を神が遣わされたイエスを信じること、「悪いこと」をそのイエスを拒否することとすれば、福音の言葉とすることも不可能ではありませんが、それでもなおここに語られているような二重の復活の思想は福音的ではありません。

 たしかに、ユダヤ教黙示思想を強く引き継いでいるヨハネ黙示録には、そのような二重の復活を語っていると理解できる箇所もありますが(黙示録二〇・一一〜一五)、パウロが死者の復活について語っているところからすると、死者の復活の希望はあくまで個々のキリストにある者の御霊による生き方の中で主体的に受け取られるべき希望の内容であって、黙示思想におけるように、すべての人間が終わりの時に復活して二分されるようような客観的な出来事ではありません。

 ヨハネ福音書は、神の子であるイエスの言葉を聴いている者はすでに永遠の命を持っているという現在終末論の立場を基本にしながら、この箇所(二七〜二九節)のような黙示思想的な終末待望を語る言葉も含んでいます。この福音書の複雑な編集過程を考えると、このような黙示思想的な箇所を編集者による挿入であるとする見方も否定することはできませんが、わたしたちにとって重要なことはその編集過程を分析することではなく、(このような黙示思想的な箇所を含む)現形の福音書を生み出したヨハネ共同体の信仰の質を理解することです。先に述べたように、この福音書は、なお黙示思想的終末待望を強く残している原始キリスト教の諸文書の中で、その終末待望をもっとも徹底的に現在化している特異な文書ですが、それでもなおユダヤ教会堂との論争の場にあって、ユダヤ教黙示思想独特のイメージと概念を用いて論争せざるをえなかったのだと理解できます。このような箇所があるからといって、この福音書の現在終末論の基本的立場が修正される必要はありません。ヨハネ共同体は、このような黙示思想的用語も駆使してユダヤ教会堂と論争しつつ、自分たちは現在すでに復活者イエスにあって終末的な命を生きているのだという独自の現在終末論を、内外に証言するのです。

 最後に、「人の子」としてイエスの裁きが公正な裁きであることが、イエスが子であることを根拠にして確言されて、この段落が締めくくられます。

 わたしは自分からは何一つすることはできない。聞くとおりに裁く。そして、わたしの裁きは正しい。わたしの意志ではなく、わたしを遣わした方の意志を求めているからである。(三〇節)
 イエスは子として、父が見せてくださること以外のことは、自分からは何一つすることができないと語っておられます(一九節)。そのことがここでもう一度繰り返されて、イエスは裁く権能を委ねられた者(二二節)として裁くときも、自分の判断とか意志で裁くのではなく、自分を遣わされた父の意志を求めて、父の裁きを聞いて、父が裁かれる通りに裁くので、その裁きが正しいことが保証されます。

 イエスが自分の意志ではなく、自分を遣わした方の意志を求めておられることは、共観福音書の伝承にも多く伝えられています。主の祈りの「父よ、あなたの意志が行われますように」という祈りは本来イエス自身の祈りであり、また、ゲッセマネでの祈り(マルコ一四・三六)も、この祈りがイエスの生涯を貫いていたことを示しています。そのことを、ヨハネはこのような形で明らかにしていることになります。

 このように、イエスは父から遣わされた方として、自分から何一つなすのではなく、ただ父から示されたことだけを行われる方であるという文に前後を囲い込まれて、この段落(一九〜三〇節)は、イエスがそのような方として父の権能を委ねられて行使される子であることを、内外に(共同体の人たちおよび敵対する者たちや世界に)宣言する内容になっています。

 


第三節 イエスについての証し

 

    14  イエスについての証し(5章31〜47節)

 31 「もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。 32 わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。 33 ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。 34 だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。 35 彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。

 36 だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。 37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。 38 また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。39 聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。 40 それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 41 わたしは、人からの誉れは受けない。42 しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。 43 わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。 44 お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。

 45 わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたちが望みをかけてきたモーセである。 46 あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。 47 だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか」。

 


証人としての洗礼者ヨハネ

 先行する段落(五・一九〜三〇)では、イエス自身が自分のことを「父から遣わされた子である」と証ししておられます。それに対してユダヤ人からは、「あなたは自分について証しをしている。だから、あなたの証しは真実ではない」(八・一三)という批判が出ることを前提にして、その批判に応えるためにこの段落が始まります。

 もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。(三一節)
 人が自分自身について立てる証言は信用できないとするのが、ラビのユダヤ教における原則です。イエス(ひいてはヨハネ共同体)もそれを認めます。その上で別の証人を登場させます。

 わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。(三二節)
 「わたしについて証しをする者は他にあり」というその「他の者」(単数形)が洗礼者ヨハネを指していることは、後に続く三三〜三四節から明らかです。この福音書(とくに前半)では、洗礼者ヨハネが最大の証人です。彼はこの証言のために神から遣わされたとされます(一・六〜八)。
 ここまでにすでに洗礼者ヨハネはイエスについて度々証言してきました(一・一八〜三四、三・二二〜三六)。洗礼者ヨハネがイエスについて語る証言が真実であることを、イエスの言葉の形で、ヨハネ共同体はユダヤ人に主張します。共観福音書は、イエスが御自分の権威が問題にされたとき、洗礼者ヨハネの権威を認めるかどうかと迫る形で応答された神殿での問答(マルコ一一・二七〜三三とその並行箇所)を伝えています。ヨハネ福音書はその神殿での問答を伝えていませんが、その代わりこのような形で、洗礼者ヨハネの権威を認めて、イエスを信ずべきことを主張するのです。

 ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。(三三節)
 この文では「あなたたち」が強調されています。著者ヨハネはイエスの権威を認めないユダヤ人たちに対して論争しています。あなたたち自身がヨハネのもとに人を遣わして、ヨハネの証言を求めたではないか(一・一九)。彼の証言をあなたたちはよく知っているはずだというのです。その洗礼者ヨハネは、自分はメシアではなく、自分の後に来る方が「世の罪を負う神の子羊」であり、「聖霊によってバプテスマする方」であると、「真理のために」証言したではないか(一・二〇〜三四)。あなたたちは彼がイエスについてなした「真理のための」証言を受け入れるべきではないか、と迫ります。

 だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。(三四節)
 イエスの言葉が真理であることは、人間の証言を得て初めて成立するのではありません。すぐ後(三六節以下)に語られるように、神ご自身が証ししてくださるのです。しかし、洗礼者ヨハネの権威を認めているユダヤ人たちが、ヨハネの証言によってイエスを信じるようになるために、本来は人間の証しは必要ではないのだが、あえてヨハネの証言をあげておく、と著者はユダヤ人に語りかけます。

 彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。(三五節)
 イエスが常に輝く「世の光」であるのに対して、ヨハネはしばらくは「燃えて輝く」が、いずれは消えていく(松明(たいまつ)のような)「燈火(ともしび)」とされています。洗礼者ヨハネが霊感を受けて、終末的な審判の切迫を告知している短い宣教活動の期間中、多くのユダヤ人はヨハネこそメシアではないかと期待し、イスラエルの復興を夢見て、期待の高揚を経験しました。洗礼者ヨハネの活動を見たユダヤ人の体験を、このような「しばらくの間燃えて輝くともしび」にたとえて、洗礼者ヨハネの証言は後に来る復活者イエス・キリストの証言であることをユダヤ人に思い起こさせます。
 このように、子としてのイエスの権威については本来は人からの証しは必要はないとしながらも、洗礼者ヨハネの権威を認めているユダヤ人たち(とくに洗礼者ヨハネをメシアとして仰いでいるユダヤ人たちの集団)に対して、彼の証言を思い起こさせた後、著者はイエスに関しては本来の証しである父御自身の証しを取り上げます。

 

父御自身の証し

 だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。(三六節)
 ヨハネ福音書は繰り返し、病気を癒し悪霊を追い出すなどのイエスの働き(奇跡)を、イエスが神から遣わされた方であることの「しるし」として指し示しています。その「しるし」がここでは「証し」として、それを見た者がイエスを信じるべき根拠とされます。この福音書は、「しるしを見て信じる」だけでは不十分としながらも(二・二三〜二五)、イエスがなされる業が、イエスを信じるために与えられた「しるし」であるという意義を強調します(一四・一一)。

 そのような業は、イエスご自身の霊的能力によってなされる業ではなくて、「父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業」と言われています。子は父がなさることを見て同じことをされているのです。イエスがなさっている業は、人の業ではなく、父の業です。その業(働き)がとうてい人間にはできないものであることが、イエスが父から遣わされた方であることを証ししているのです。

 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。(三七節)
 ここで論争相手のユダヤ人に対して強烈な言葉が投げかけられます。自分たちこそまことの神を知っている世界で唯一の民であると自負するユダヤ人に対して、この福音書のイエス(ひいてはヨハネ共同体)は、「あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」と断言するのです。この節の動詞(証しをする、聴く、見る)はみな現在完了形で、現在までずっと続いてきた状況を描いています。それは、現在に至るまでのイスラエルの歴史を総括する宣言です。

 イスラエルはモーセをはじめとする預言者たちを通して神の声を聴き、その姿を目で見ることはないにしても、神の本質の啓示を受けてきた(霊的な意味で姿を見た)と確信してきました。それが「イエスを遣わした父」の声を聴いたのではなく、その本質の啓示を受けたのではないのであれば、「イエスを遣わした父」とイスラエルの神(旧約聖書の神)は別の神になります。これはグノーシス主義の主張です。グノーシス主義は、イエスを世界に遣わした愛の霊神と、物質世界を創造し、イスラエルをモーセ律法によって支配するヤハウェ神とは別の神であって、イエスは真の霊知を与えることによって、人間を半神に過ぎない旧約の神から救い出して、至高の霊神に帰らせる救済者であるとしたのです。このような理解を可能にする言葉があるので、この福音書は後のグノーシス主義者たちに好まれたのでしょう。

 しかしそうではなく、著者ヨハネは、「イエスを遣わした父」はイスラエルの神であるが、その神がイスラエルの歴史の中でイエスについて証しされたことを受け入れなかったと、ユダヤ人の不信仰を非難しているのです。イエスを遣わされた父は、すでにイスラエルの歴史の中で、やがてイスラエルに遣わすことになる子について証しをしてこられたのに、「あなたたち」すなわちユダヤ人は、子について証しされる「その方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」という不信のかたくなな姿勢を変えることなく、ついにその方が来られたとき、その方を拒否するに至ったのだと、ユダヤ人の不信仰を断罪します。

 イスラエルの神がやがて遣わす子について証しされたことは、以下に続く聖書に関する箇所(三九節)とモーセに関する箇所(四六節)で具体的に語られることになりますが、その前にイスラエルの不信仰に対する攻撃がさらに続きます。

 また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。(三八節)
 あなたたちユダヤ人は、イエスを遣わされた父の「声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」だけでなく、「その方のお言葉を自分の内に留めていない」と、著者はユダヤ人を非難します。

 ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、モーセ律法を熱心に学び、それを神の言葉として実行しようとしてきました。その歴史がこの言葉によって全面的に否定されます。ユダヤ人は熱心に神の言葉を追い求めましたが、神の言葉はユダヤ人たちの中に宿っていないとするのです。ユダヤ人はその目標に達しなかったのです。それは、「その方が遣わした者を信じないから」です。イエスを信じないかぎり、子について語ってこられた父の言葉を受け入れていないのですから、「その方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。また、その方のお言葉を自分の内に留めていない」ことになります。三七〜三八節は、イエスを信じないユダヤ教に対する過激な否定の宣言です。

 

聖書の証し

 聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。(三九節)
 こうして、イエスの父、すなわちイスラエルの神が、やがて遣わされる子について語ってこられたことが、聖書について具体的に取り上げられます。

 「あなたたち」、すなわちユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えている」人たちでした。ユダヤ教においては、律法(トーラー)を正しく理解して順守することが命に至る唯一の道ですから、律法を記した聖書こそその中に命を持っている書だと考えられていました。救いとか永遠の命を書物の中に求めるという性格は、捕囚後のユダヤ教において始まっていましたが、70年の神殿崩壊以後は、「書かれたもの」がさらに重要な信仰の拠り所になり、「書物の宗教」としての性格が一段と決定的になっていました。著者ヨハネはそのような段階のユダヤ教に向かって、「(あなたたちが命の拠り所としている)聖書はわたしについて証しをするものである」、すなわち聖書は御子イエス・キリストについて証言するもので、御子こそユダヤ教の本体であると主張するのです。

 イエスの出現、とくにその十字架の死と復活は聖書(旧約聖書)を成就する終末的な出来事であるという主張は、福音の第一項をなす重要な内容です。福音は、イエス・キリストの十字架の死と復活が聖書に預言され約束されていた終末の救いの出来事であると告知します(コリントT一五・三〜五、ローマ一・二)。この告知は、新約聖書の各文書の著者たちによってそれぞれの独自の形で強調されています。たとえば、マタイはイエスの生涯の出来事の一つ一つに「それは聖書が成就するためであった」という意味づけを与えています。ルカは復活のイエスの言葉として、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言っています(ルカ二四・四四)。そのことをヨハネは「聖書はわたしについて証しをするものである」という形で宣言するのです。

 こうして、イエスについて証しをするものとして、洗礼者ヨハネとイエスがされている力ある業(奇跡)に続いて、聖書があげられることになります。ところが、この聖書に対してもユダヤ人は正しい対応をしていないという非難が続きます。

 それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(四〇節)
 あなたたちがその中に命があると考えている聖書はわたしについて証しをする書であるのに、その聖書の本体であるわたしを受け入れようとしないのは間違いではないかというイエスの言葉(三九〜四〇節)は、イエスを父から遣わされた子であると信じないユダヤ人(ユダヤ教会堂)に対する著者ヨハネ(ヨハネ共同体)の論争です。

 もちろんこの論理は、聖書が御子イエス・キリストを証しする書であることを前提としてます。ところが、ユダヤ人たちがイエスを信じないのは、聖書がイエスが神の子であると証言していることを認めないからです。むしろ、イエスの言動は聖書の根本原理を否定するものとして、死に値すると判断したのです。ユダヤ教は、自分たちが理解する律法としての聖書を基準にしてイエスを判断したのです。それに対して、ヨハネ共同体(ひいてはイエスを信じる者たち)はイエスをキリストと信じる信仰を基準にして聖書を解釈するのです。ここに、聖書に対する態度の根本的な対立があります。

 聖書(旧約聖書)は、ヤハウェとの関わりの中で歩んだイスラエルの歴史の中から生み出された信仰の文書です。しかし、イエスやヨハネの時代のユダヤ教会堂においては、民の信仰と生活を外から律する戒めの体系になっていました。それに対して、ヨハネ共同体は自分たちが御霊によって体験して内に宿している復活者イエス・キリストの現実から聖書を解釈し、聖書の中に自分たちと同じ御霊の働きを認めて、聖書と対話したのです。このような外から人間の行為を律する戒めの言葉を(それが石の板に刻まれたものであれ羊皮紙にインクで書かれたものであれ)、パウロは「文字」と呼んで、「文字は殺し、霊は生かす」と喝破しましたが、ヨハネはそれをこのような聖書に関するユダヤ教との論争の形で表現するのです。

 この聖書に関する論争は、現代の聖書信仰についても重要な示唆を与えます。キリスト教会は聖書(旧約聖書と新約聖書)を神からの啓示の集成である正典とし、その中に永遠の命があるとして世界に提示しています。しかし、その文書の言葉を外から人間を律する基準とすると、パウロがユダヤ教について「文字は殺す」と言った事態が、そのままキリスト教においても起こります。キリスト教ファンダメンタリズム(根本主義)には、しばしばこのような傾向が見られます。ファンダメンタリズムは信徒に聖書の信仰内容を「文字通りに」言い表し、聖書の行為規定を「文字通りに」行わなければならないと要求します。しかし、御霊によるキリストの現実がないところでの外からの規制は、魂を圧迫し、霊的生命を圧殺する結果になります。

 聖書は復活者イエス・キリストについて証言する文書です。聖書はあくまで、その本体である復活者イエス・キリストの現実から理解されなければなりません。そのためには、まず復活者イエス・キリストのもとに来て(というのは、この方に身を委ねることです)、御霊によってこの復活者キリストと結ばれて生きる現実がなければなりません。その現実の中で聖書と対話し、その個々の内容を解釈し、全体を復活者イエス・キリストの証言として理解するように努めなければなりません。このように、御霊によって生かされている現実がなければ、「聖書主義」は、ユダヤ教の聖書主義や律法主義と同じく、「文字は殺す」という結果を招きます。

 

人からの誉れと神からの誉れ

 ユダヤ人が子について証しをする聖書を持っていながら、子であるイエスを信じない理由を、著者はどこに誉れを求めるかという視点から論じます。以下の一段(四一〜四四節)は、誰からの誉れを求めるかで、その人物がどこから来たかが判別できるという主張をかかげています。

 わたしは、人からの誉れは受けない。(四一節)
イエスは人から遣わされたのではなく、また、この世から来られたのでもないので、「人からの誉れは受けない」と言われます。これは、イエスは人からの誉れを受ける必要はない、人からの誉れをイエスの証しとする必要はない、あなたたちユダヤ人の承認を必要としない、とヨハネ共同体がユダヤ人に言っているのです。

 しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。(四二節)
 冒頭の「しかし」は、人からの誉れを求めないイエスと、神への愛がないため人からの誉れだけを求めるユダヤ人とを対比しています。
 イエスはユダヤ人に認めてもらってはじめて子であるのではありませんが、ユダヤ人がイエスを子であると認めないのは、ユダヤ人の中に「神への愛がない」からだと、著者はユダヤ人を糾弾します。「わたしは知っている」は、実はヨハネ共同体がユダヤ教会堂に投げつける判断です。
 原文は「神の愛がない」ですが、文脈からして、「神から愛されていない」という意味ではなく、「神への愛がない」と理解すべきです。そうするとこれは、自分たちこそ神を愛し、熱心に律法を守ることでその愛を現していると自負するユダヤ人に対する激しい糾弾になります。著者がユダヤ人には神への愛がないと断定するのは、神が遣わされた子であるイエスを受け入れることで神からの誉れを求めようとはしないからです。そのことが次節で語られます。

 わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。(四三節)
 「名によって来る」は「遣わされる」の別表現です。イエスは父の名代として遣わされて、この世に来た方です。だから、イエスは自分を遣わした父の誉れだけを求め、自分には父からの誉れだけを求められます。イエスがそういう方であるのに、ユダヤ人はイエスを受け入れません。ユダヤ人は父を愛し敬っていないからだと、著者は断定します(四二節)。

 それに対して、「もし他の者が自分の名によって来るならば」、すなわち、神から遣わされるのではなく、自分の価値を拠り所にし、自分の主義思想を根拠にして人々に呼びかける人物が現れるならば、彼らはあなたたちと同じ立場に立つのであるから、あなたたちは彼らを理解し賞賛して「受け入れる」ことになろうと言われます。当時のヘレニズム世界では、様々な宗教的・哲学的立場の教師たちが自分の教えを説いて、人々の賞賛と帰依を得ていました。著者は、そのような種類の教師たちと比べて、イエスは父から遣わされた方であるので、人からの誉れとか賞賛を必要としない別種の方であることを強調します。

 お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。(四四節)
 自分の価値を根拠にして立つ者は、その価値に対する人からの承認と賞賛を求めます。彼らは神からの承認を必要としません。人間同士の間での賞賛とか誉れだけを求めている者たちは、神からの誉れを求めないのですから、神が遣わされた方を受け入れる必要がありません。著者は、ユダヤ人がイエスを信じないのは、彼らが人間からの誉れだけを求めているからだと診断します。

 

モーセの告発

 わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたちが望みをかけてきたモーセである。(四五節)
 イエスは、自分を信じないユダヤ人を神の前に告発して裁きを求めることはされません。イエスは民を裁くために来られた方ではなく、民を救うために来られたのです(三・一七)。ここの「告発する」は未来形です。最後の裁きの場で、ユダヤ人のイエスへの不信仰を告発するのは、イエスではなくモーセであるとされます。モーセといえば、イスラエルに神の契約と律法を与えて、イスラエルを神の民としたユダヤ教の最高の預言者です。ユダヤ人は、自分たちはモーセの弟子であるとし、モーセを自分たちが神の民であることの最終的な拠り所としていました。そのモーセが、神の裁きの場でイエスを信じないユダヤ人を告発するというのです。

 あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。(四六節)
 「彼はわたしについて書いた」というのは「モーセ五書」を指しています。ユダヤ教においては、《トーラー》と呼ばれる「モーセ五書」はみなモーセが書いたとされていました。その「モーセ五書」は子であるイエスについて証言しているのであるから、モーセを真に信じたのであれば、イエスを信じることになるし、逆にイエスを信じないことはモーセを信じないことになると、著者はイエスを信じない現在のユダヤ教会堂を告発しているのです。
 モーセを通して語ったイスラエルの神は、イエスを遣わした父であることが本節で明言されています。ヨハネは、モーセを通して語ったイスラエルの神とイエスを遣わした父とは別の神であるとするグノーシス主義者ではないことが明らかです。著者は、他のすべての新約聖書文書の著者たちと同じく、旧約聖書は福音の証人であるとの立場に立っています。

 だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか。(四七節)
 「彼が書いたこと」の原文は「彼の文字(複数形)」です。ユダヤ教においてモーセの著作とされる「トーラー」(モーセ五書)全体を指しています。「トーラー」は「聖書」の核であり、基礎となる部分ですから、この節でも先の「聖書はわたしについて証しするものである」という主張が繰り返されていることになります。

 著者は、現在のユダヤ教会堂がイエスの語られること(とくにこの段落でイエスが御自分について証ししておられること)を信じないのは、彼らがモーセが書いたことを信じていないからだとします。そのさい、「わたしの語ること」にヨハネ共同体の証言を重ねています。ユダヤ人たちがイエスについてのヨハネ共同体の証言を信じないのは、正しく「トーラー」を信じていないからであると、ユダヤ人の聖書理解の間違いを糾弾するのです。
 このイエスを信じないことはモーセを信じないことを意味するという著者の議論は、ユダヤ教に対する著者(ヨハネ共同体)の重大な挑戦です。モーセによって創始されたイスラエルの宗教を真に継承して完成しているのは、キリストとしてのイエスを信じる民であって、イエスを信じないで敵対する現在のユダヤ教会堂はモーセの宗教から脱落しており、モーセ自身がイエスを信じない現在のユダヤ人を告発すると、著者は主張するのです。

 
むすび ―― ヨハネ共同体とユダヤ教会堂との論争

 以上見てきましたように、ヨハネ福音書五章は、地上のイエスとその時代のユダヤ人との対話というよりは、復活者イエス・キリストを神として告白するヨハネ共同体と、たとえメシアであっても人間を神とすることを最大の涜神とするユダヤ教会堂との激しい論争を描いていることが分かります。もちろん、福音書はこの論争を通して、復活者イエス・キリストを神とする自分たちのキリスト告白を、世界に向かって告知しているのです。しかも、著者は自分たちのキリスト告白を地上のイエスに重ねて語ります。これが受肉信仰を形成することになります。
 復活者イエス・キリストをどのような方として理解し言い表すか、それをキリスト論と言いますが、新約聖書の内部でも、各文書のキリスト論は一様ではなく多様多彩です(その中の代表的のものについて、拙著『キリスト信仰の諸相』の第一部「キリストの諸相」を参照してください)。その中でヨハネ福音書は、復活者イエス・キリストを明確に神として告白することにおいて、他の文書に比べて際だっています。
 初期の福音宣教の多様な流れの中で、どのような事情で、ヨハネ共同体の中でこのような特異で高度なキリスト論が形成されるにいたったのか、その過程を探求することは興味深い課題です。また、こうして形成された高度なキリスト論をめぐる論争が、どのような状況に促されて、現在の福音書の形になったのかを探求することも、この福音書を理解する上で有益な仕事です。しかし、それはこの講解の範囲を超える課題ですので、機会があれば別に扱うことにして、ここでは五章の論争が、このような高度のキリスト論をめぐるヨハネ共同体とユダヤ教会堂の論争であることを指摘するにとどめます。
   



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