ヨハネ福音書 翻訳と講解 

  イエスの十字架上の死と埋葬

                           ―― ヨハネ福音書 一九章 ――



  61 ピラトによる死刑判決  (19章 1節〜16節前半)

 1 そこで、この時にピラトはイエスを引き取り、鞭打たせた。 2 兵士たちは茨で冠を編み、イエスの頭にかぶらせ、紫の服をまとわせた。 3 そして、そばにまで来て、「ユダヤ人たちの王様、万歳」と言い、イエスを平手で打った。
 4 ピラトは再び外に出て来て、彼らに言う、「見よ、あの男をあなたたちのところに引き出そう。わたしが彼の中に何の咎も見いださないことを、お前たちが知るようになるためである」。 5 そこで、イエスが茨の冠をかぶり、紫の服をまとって出て来られた。ピラトは彼らに言う、「見よ、この人だ」。 6 すると、祭司長たちや下役たちは、イエスを見て、叫んで言った、「十字架につけろ。十字架につけろ」。ピラトは彼らに言う、「お前たちが彼を引き取って、十字架につけるがよい。わたしは彼に何の咎も見いださないのだから」。 7 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は死ななければなりません。彼は自分を神の子としたからです」。
 8 ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れ、 9 再び官邸の中に入って、イエスに言う、「お前はどこから来たのか」。ところが、イエスは彼に答えを返されなかった。 10 そこでピラトはイエスに言う、「わたしに答えないのか。わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限もあることを知らないのか」。 11 イエスはお答えになった、「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権限もない。それゆえに、わたしをあなたに引き渡した者には、いっそう大きな罪がある」。 12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと務めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んで言った、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。自分を王とする者はみな、皇帝に逆らうのだ」。
 13 ピラトはこれらの言葉を聞くと、イエスを外に引き出し、ヘブライ語ではガッバタ、すなわち「敷石」と呼ばれる場所に入り、裁判の席に着いた。 14 その日は過越の準備の日で、時刻は第六時の頃であった。そして、ピラトはユダヤ人たちに言う、「見よ、お前たちの王だ」。 15 そこで彼らは叫んだ、「片づけてしまえ。片づけてしまえ。奴を十字架につけろ」。ピラトは彼らに言う、「お前たちの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、皇帝の他に王はありません」。 16a そこでこの時、ピラトはイエスを十字架につけるために彼らに引き渡した。

 

兵士たちよる鞭打ちと侮辱

 そこで、この時にピラトはイエスを引き取り、鞭打たせた。(一節)
 ここは、官邸内でイエスとピラトが一対一で対話した後、「ピラトは再びユダヤ人たちの前に出て来て言う」(一八・三八)という前章の場面の続きです。イエスに何の咎も見出せないピラトは、イエスを釈放しようとして、祭りに一人の囚人を釈放するという慣例を持ち出しますが、イエスではなくバラバをという群衆の叫びに押し切られます(一八・三九〜四〇)。そこで、ピラトは鞭打たせるためにイエスを兵士たちに引き渡します。共観福音書では、鞭打ちは死刑判決後ですが(マルコ一五・一五)、ヨハネ福音書では裁判の途中に行われたことになります。正式の判決の前に鞭打ちがなされたことは問題が残りますが、ピラトは鞭打ちで済まそうとした可能性もあります。

 兵士たちは茨で冠を編み、イエスの頭にかぶらせ、紫の服をまとわせた。そして、そばにまで来て、「ユダヤ人たちの王様、万歳」と言い、イエスを平手で打った。(二〜三節)
 イエスに対する兵士たちの侮辱を伝える記事は、共観福音書の記述(マルコ一五・一六〜二〇)と較べると、兵士たちがイエスに着せた衣装や茨の冠は同じです。「紫の服」は、おそらく兵士の深紅色のマントでしょう。ただ、イエスを侮辱する行為は、共観福音書が「葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」としているのに対して、ヨハネ福音書は「平手で打った」と簡潔にしています。
 兵士たちが「ユダヤ人たちの王様、万歳」と言って拝む真似をしたのは、こんな惨めな男を王としているユダヤ人は何と見下げた民であることかと、ローマ人のユダヤ人に対する日頃鬱積している侮辱の感情をぶっつけたのでしょう。

 

見よ、この人だ

 ピラトは再び外に出て来て、彼らに言う、「見よ、あの男をあなたたちのところに引き出そう。わたしが彼の中に何の咎も見いださないことを、お前たちが知るようになるためである」。 そこで、イエスが茨の冠をかぶり、紫の服をまとって出て来られた。ピラトは彼らに言う、「見よ、この人だ」。(四〜五節)
 ここでピラトがイエスをユダヤ人の前に引き出す意図が示されています。おそらくピラトは、王を象徴する衣装を着せられながら、鞭打たれて血を流しているイエスの滑稽で惨めな姿を見せて、このような無力な人物がローマの権力に反抗する革命家でありえないことをユダヤ人たちに納得させようとしたのでしょう。ピラトの意図や感情を正確に推察することはできませんが、世界を支配するローマ帝国を代表するピラトが、「茨の冠をかぶり、紫の服をまとって出て来られた」イエスを指さして、「見よ、この人だ」と言った事実は、象徴として深い意味をもっています。それで、この光景は繰り返し名画家によって描かれ、後世の人々にこの光景の意味を考えさせ、「見よ、この人だ」という言葉に促されて、茨の冠をかぶせられて十字架の上に死なれた「この人」を見させることになりました。「この人」こそ、この世のものではない、終末的な恩恵の王国を支配する王です。わたしたちはいつまでも「この人」を見続けていきます。

 すると、祭司長たちや下役たちは、イエスを見て、叫んで言った、「十字架につけろ。十字架につけろ」。ピラトは彼らに言う、「お前たちが彼を引き取って、十字架につけるがよい。わたしは彼に何の咎も見いださないのだから」。(六節)
 六節後半では、「お前たち」と「わたし」の対比が強調されています。わたしは死刑の理由を見いださないのであるから、お前たちが処理せよ、とピラトは主張しています。ただ、ユダヤ人には死刑を執行する権限はないのですから(その上十字架刑はユダヤ人の処刑方法ではありません)、ピラトはユダヤ人にできないことを求めることで、問題の決着を図ったことになります。これは、自分はこの問題に関わらないというピラトの意志表示でしょう。マタイでは裁判の席で手を洗うことで、この意思表示をしています(マタイ二七・二四)。イエスの処刑はローマの権力によるものでなく、ユダヤ人に責任があるだという護教的意図、すなわちイエスを信じることはローマも無実と認めている方を信じているのだという、ローマ社会に対する弁明的な意図が、ヨハネ福音書にもあると見られます。

 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は死ななければなりません。彼は自分を神の子としたからです」。(七節)
 ユダヤ教においては、人間を神とすることは最大の涜神として処刑の対象になります(レビ記二四・一六)。ヨハネ共同体はイエスを神の子であると告知し、ヨハネ福音書のイエスは繰り返し、自分が神の子であることを主張されています。この主張がユダヤ教会堂との最大の争点であり、ほとんど唯一の争点でした。ユダヤ人(ユダヤ教徒)たちがこの主張のゆえにイエスを殺そうとしたことは、この福音書に繰り返し現れます(五・一八、一〇・三〇〜三三など)。

 ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れ、再び官邸の中に入って、イエスに言う、「お前はどこから来たのか」。ところが、イエスは彼に答えを返されなかった。(八〜九節)
 ユダヤ人の宗教に無関心なピラトが、「この男は自分を神の子としたのだから、死ななければならない」と主張するユダヤ人の言葉を聞いて「ますます恐れ」たのは、この問題に対するユダヤ人の激情を放置すれば争乱になりかねないと恐れたのでしょう。

 ピラトはイエスに「お前はどこから来たのか」と訊ねます。自分を神とする者としてユダヤ人から訴えられているこの人物は、いったいどのような出自の人物かをいぶかったのでしょう。イエスがどこから来られた方であるかは、イエスと敵対者との間の最大の争点でした(八・一四など)。最後にピラトがこの疑問を口にします。イエスはこの問にもはや答えられません。

 そこでピラトはイエスに言う、「わたしに答えないのか。わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限もあることを知らないのか」。イエスはお答えになった、「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権限もない。それゆえに、わたしをあなたに引き渡した者には、いっそう大きな罪がある」。(一〇〜一一節)
 答えられないイエスに対してピラトは、答えによっては釈放することも十字架につけることもできる権限をもつ者であることを振りかざして答えを迫ります。それに対してイエスは、「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権限もない」とお答えになります。ピラトは自分にイエスを釈放するか処刑するかを決める権限があると考えていますが、それは違うとイエスは言われます。今、イエスに関わる神の計画が実現するために、ピラトはその道具として、神からそのような権限を与えられて、このような立場にいるだけです。ですから、神から遣わされた方を殺すという罪は、そのような道具であるピラトにイエスを引き渡した者にあることになります。ここのイエスの発言は、イエスを殺した責任は、ローマ側よりもユダヤ人の側の方が大きいと考えているヨハネ共同体、あるいはエクレーシアの思いを反映しています。

 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと務めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んで言った、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。自分を王とする者はみな、皇帝に逆らうのだ」。(一二節)
 ピラトは繰り返しイエスを無罪と宣言しています(一八・三八、一九・四、一九・六)。どの福音書にも、ローマ側はイエスを無罪と認めている、すなわちイエスを信じる信仰はローマ帝国にとって危険なものではないと主張する護教的傾向があります。このようなピラトの姿勢に対して、どうしてもイエスを取り除きたいユダヤ教指導層は最後の切り札を出します。自分を王とする者を赦すことは、皇帝に逆らう者を認めることであり、もはや皇帝の支配を擁護する「皇帝の友」ではなくなる、と脅迫します。
 帝政期のローマでは、「皇帝の友」と呼ばれなくなることは政治的生命を断たれることを意味し、やがては失脚し、自殺を強いられることもありました。この言葉を用いたユダヤ人の脅迫が、イエスを釈放しようとするピラトにとどめを刺します。

 ピラトはこれらの言葉を聞くと、イエスを外に引き出し、ヘブライ語ではガッバタ、すなわち「敷石」と呼ばれる場所に入り、裁判の席に着いた。(一三節)
 ピラトはユダヤ人の脅迫に屈します。この「敷石」と呼ばれる場所」は、神殿域の北西部の角にある「アントニアの砦(塔)」の敷石が敷き詰められた中庭を指すと見られています。祭りの期間中は、都の治安を確保するために、総督はこのアントニアの砦に滞在しました。

 このような言葉を聞いて、ピラトは他に方法がないことを悟り、決意します。再度イエスを官邸から外に引き出して、判決を言い渡すために「裁判の席に着き」、公式の裁判を開きます。

 その日は過越の準備の日で、時刻は第六時の頃であった。そして、ピラトはユダヤ人たちに言う、「見よ、お前たちの王だ」。 (一四節)
 ヨハネ福音書は、ピラトによるイエスの裁判を「過越の準備の日」としています。日没から始まる翌日の過越祭の食事のために、準備の日である過越祭前日の午後に過越の羊が屠られます。ヨハネ福音書では、この裁判の直後の午後に処刑されたイエスは、神殿で過越の羊が屠られている時刻に十字架につけられたことになります。これは、過越の食事を済ませてから逮捕・裁判・十字架刑が起こったとする共観福音書の日付と一日食い違います。どちらが歴史的に正確であるのかについては議論が続いていて、決着していません。

 「第六時」は正午にあたります。判決が正午近くであれば、十字架につけられた時刻は午後になります。これは、マルコ(一五・二五)が午前九時に十字架につけられたとしているのと食い違います。マタイとルカは、十字架につけられた時刻は伝えていませんが、しばらく時間が経ってから「昼の十二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた」というマルコの文をそのまま用いているので、十字架につけられたのは午前ということになります。こうして、イエスが十字架につけられた時刻が、共観福音書では午前、ヨハネ福音書では午後と食い違っています。

 裁判の場にイエスを引き出したピラトは、ユダヤ人たちに向かって、「見よ、お前たちの王だ」と言って、ユダヤ人たちの出方をうかがいます。するとユダヤ人たちは叫びます。

 そこで彼らは叫んだ、「片づけてしまえ。片づけてしまえ。奴を十字架につけろ」。ピラトは彼らに言う、「お前たちの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、皇帝の他に王はありません」。(一五節)
 ユダヤ人たちの叫んだ動詞の原意は、「運び去る」、「取り除く」という意味です。ここでは「取り除け」、「片づけてしまえ」という叫びであり、「生かしておくな、殺してしまえ」という意味を含んでいます。ユダヤ人たちは「奴を十字架につけろ」と叫んで、ローマ総督にイエスのローマ式の処刑を要求します。

 ピラトはユダヤ人たちに、「お前たちの王を、わたしが十字架につけるのか」と言います。いつもであれば、ローマに抵抗して捕えられた愛国の志士を処刑する総督は、ユダヤ人たちの憎しみを受けます。先にユダヤ人たちは、そのような志士の一人バラバの釈放を願いました。今は逆にユダヤ人自身が、ユダヤ人の王を自称してローマに反逆した者としてイエスの処刑を求めています。ピラトにとっては、理解しがたいことだったでしょう。しかし、総督に対する訴えでは、王であると自称してローマに反逆を企てる者としていますが、ユダヤ人の内部では、自分たちの宗教(ユダヤ教)の存立を脅かす危険人物であるので、どうしても取り除きたいのです。

 このようなユダヤ教指導層の断固として決意が、ピラトにイエスを訴え出た祭司長たちの言葉となります。「わたしたちには、皇帝の他に王はありません」。本来ならばヤハウェだけを王として崇めるべきイスラエルの民の指導者が、自分たちの宗教の根底を揺るがす者を取り除きたい一心で、「皇帝の他に王はない」というローマ側の主張に、自分たちの方から進んで全面的に屈服します。

 そこでこの時、ピラトはイエスを十字架につけるために彼らに引き渡した。(一六節前半)
 ここまでの対話はピラトと祭司長たちの間でなされているので、ここの「彼らに引き渡した」の「彼ら」は祭司長たちを指すことになります。しかし、一六節後半の「彼らは引き取った」と、一八節の「彼らはイエスを十字架につけた」の「彼ら」は祭司長たちではありえません。一六節後半と一八節の「彼ら」は、十字架刑を執行するローマの兵士たちとしなければなりません。一六節の前半と後半で状況が変わり、ここで段落が分かれ、この節の後半から新しい段落が始まるとしなければなりません。著者(または編集者)は「彼ら」(複数の代名詞と三人称複数を主語とする動詞)を、「人々」というくらいの意味で、比較的無雑作に用いていると見なければなりません。

 



  62 十字架 (19章 16節後半〜30節)

 16b そこで、彼らはイエスを引き取った。 17 イエスは自ら十字架を担って、「頭蓋骨の場所」と呼ばれている所、ヘブライ語でゴルゴタという所へ出て行かれた。 18 その場所で彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人を、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側で十字架につけた。 19 ピラトは罪状書きを書いて十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」と書かれていた。 20 この罪状書きを多くのユダヤ人が読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからであり、また、それがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたからである。 21 そこで、ユダヤ人たちの祭司長たちはピラトに言った、「ユダヤ人たちの王と書かないで、この男は自分がユダヤ人たちの王であると言ったと書いてください」。 22 ピラトは答えた、「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」。
 23 こうして、兵士たちはイエスを十字架につけた時、彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした。下着も取ったが、その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった。 24 そこで、彼らは互いに言った、「これは裂かないで、誰のものにするか、くじで決めよう」。それは、「彼らはわたしの上着を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」とある聖書が成就するためであった。兵士たちは、まさにこのことをしたのである。
 25 ところで、イエスの十字架のそばには、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。 26 そこで、イエスは母と愛した弟子がそばに立っているのを見て、母に言われる、「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」。 27 それから、その弟子に言われる、「ごらんなさい。あなたの母です」。この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った。
 28 この後、イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知り、聖書が成就されるために、「わたしは渇く」と言われる。 29 酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。そこで彼らは、この酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに巻き付け、イエスの口元に差し出した。 30 この酸いぶどう酒を受けると、イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

ゴルゴダで十字架に

 そこで、彼らはイエスを引き取った。(一六節後半)
 前段の最後で触れたように、ここの「彼ら」は一八節の「彼らはイエスを十字架につけた」の「彼ら」と同じであり、十字架刑を執行するローマの兵卒としなければなりません。

 イエスは自ら十字架を担って、「頭蓋骨の場所」と呼ばれている所、ヘブライ語でゴルゴタという所へ出て行かれた。(一七節)
 十字架に処せられる死刑囚は、自分がかけられる十字架の横木を担って(あるいは引きずって)刑場まで歩かされました。縦木は刑場に用意されているのが普通であったとされています。イエスは、仲間による奪還を警戒するローマの兵士たちに厳重に取り囲まれて、エルサレムの狭い街路を引かれて行かれます。

 マルコは刑場として「ゴルゴタ」という地名を先にあげて、その後にギリシア語で「頭蓋骨」という意味であると訳をつけています。ヨハネは先に「頭蓋骨の場所」というギリシア語の呼び名をあげて、その後にヘブライ語(正確にはアラム語)の名称を付けています。小高い形が頭蓋骨に似ていることと、そこが処刑場としてよく用いられたので、そう呼ばれたのでしょう。後にウルガタ(ラテン語訳聖書)で、頭蓋骨を意味するラテン語「カルヴァリア」が用いられ、それが英語の「カルヴァリー」となります。この場所がどこであったかは確定できませんが、現在の聖墳墓教会がある場所とされています。

 ここで「出て行く」という動詞が用いられているのは、城門を通って町の外へ出て行くことを指しています。刑場は「都の近くにあった」(二〇節)、すなわち都の外にあったことになります。十字架刑は見せしめの刑ですから、人通りの多い街道に沿った場所が用いられました。

 このピラトの法廷とされるアントニアの砦からゴルゴダ(現在の聖墳墓教会)まで、イエスが十字架を担って歩かれた道は、「ウィア・ドロロサ」(悲しみの道)と呼ばれ、現在では巡礼者がイエスの苦難の道行きを偲ぶ場所になっています。マルコ(一六・二〇〜二二)やルカ(二三・二六〜三二)が、この道行きでの出来事を比較的詳しく描いているのと較べると、ヨハネの記事は簡潔です。

 その場所で彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人を、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側で十字架につけた。(一八節)
 ここで、この時の十字架刑の執行がイエス一人ではなく、他に二人の囚人の十字架刑が同時に執行されたことが述べられます。共観福音書では、この二人が「強盗」《レステース》と呼ばれていますが、これは単なる物取り強盗の類ではなく、バラバがそうであったように、ローマの支配に武装して反抗する革命家を、ローマ側がさげすんでそう呼んだものです。ヨハネ福音書は、この二人がどのような人物であるかには関心を持たず、淡々とイエスを中央にして三人が同時に十字架につけられた事実だけを報告します。

 イエスの十字架刑の描写は、共観福音書に比べると、ヨハネ福音書は二三の特殊な関心事を別にして、全体としては淡々と事実を伝えるだけで簡潔です。これは、ヨハネがエルサレムの住民であり、十字架刑の執行を目撃し、最後まで十字架の下にいた唯一の男性弟子であることを考えると、示唆的です。

 

イエスの罪状書き

 ピラトは罪状書きを書いて十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」と書かれていた。(一九節)
 処刑される者の罪状を書いた札が十字架の上部につけられました。それが「罪状書き」です。イエスの場合、その書き方は四福音書で少しずつ異なりますが、「ユダヤ人たちの王」は共通しています。この「罪状書き」は、判決を下したピラト自身が書きました。この「罪状書き」は、イエスがローマへの反逆罪で処刑されたことを公示しています。

 この罪状書きを多くのユダヤ人が読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからであり、また、それがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたからである。(二〇節)
 十字架刑は見せしめの刑ですから、都市の近くの人通りの多い街道に面した場所で行われました。有名な奴隷の反乱(スパルタルクスの反乱)のときには、ローマ周辺の街道の両側に幾千の十字架が立てられたと伝えられています。イエスの十字架は人通りの多い街道に面していましたから、多くのユダヤ人がこの「罪状書き」を読むことになります。

 罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三カ国語で書かれていたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。「ヘブライ語」とありますが、実際はパレスチナのユダヤ人の日常語であるアラム語であった可能性があります。ラテン語は支配者であるローマ人の言語であり、政治の世界での公用語です。ギリシア語は多くのユダヤ人、とくにディアスポラのユダヤ人の日常語でした。当時エルサレムはアラム語とギリシア語のバイリンガル(二カ国語)都市でした。このような言語状況から、罪状書きが三つの言語で書かれることになります。共観福音書には三カ国語で書かれていたことを示唆する記事はありませんが、否定する根拠もありませんので、事実であるとしてよいでしょう。

 なお、罪状書きが三カ国語で書かれていたという文は、「多くのユダヤ人が読んだ」理由を示す文の中に含めることもできるし、別にすることもできます。ここでは含めて訳しています。

 そこで、ユダヤ人たちの祭司長たちはピラトに言った、「ユダヤ人たちの王と書かないで、この男は自分がユダヤ人たちの王であると言ったと書いてください」。ピラトは答えた、「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」。(二一〜二二節)
 ピラトが書いた「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」という罪状書きの文言に、ユダヤ人の祭司長たちが抗議します。この文ではまるでイエスがユダヤ人の王であることが事実であるかのように聞こえるではないかという抗議です。「この男は自分がユダヤ人たちの王であると言った」、すなわち不遜にも自分で王を自称していた罪で処刑されたと明示するように要求します。
 それに対して、ピラトは「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」と言って、彼らの抗議を退けます。支配者であるわたしがそう書いたのだから、支配される側のお前たちは文句をつける立場ではない、という気持ちを示しているのでしょう。ここまでユダヤ人祭司長たちに強引に押し切られ、釈放しようとしたイエスを十字架刑にしなければならなくなった腹いせでしょうか、最後にピラトはユダヤ人祭司長たちに一矢を報います。

 人間的なやりとりはともかく、結果は十字架されたイエスの上に「ユダヤ人の王」という標識が掲げられることになります。イエスは王であることを自称されませんでした。しかし結果として、神がイエスをユダヤ人の王としてお立てになったという真理を、ローマ人のピラトが世界に公示することになります。しかも、その告知は、ラテン語が代表するローマ帝国、すなわち当時の全政治世界と、ギリシア語が代表する当時の文化世界の全体、そしてヘブライ語が代表するイスラエルの宗教世界に向かってなされたのです。

 

イエスの衣を分ける兵士たち

 こうして、兵士たちはイエスを十字架につけた時、彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした。下着も取ったが、その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった。そこで、彼らは互いに言った、「これは裂かないで、誰のものにするか、くじで決めよう」。それは、「彼らはわたしの上着を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」とある聖書が成就するためであった。兵士たちは、まさにこのことをしたのである。(二三〜二四節)

 ここの「四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした」という記事から、イエスを取り囲んで警護して刑場まで連れて行き、十字架につけ、その前で監視し、その死を確認する任務に当たったローマの兵士は四人であったことが分かります。三人の受刑囚に四人づつと、それを警護する部隊が一人の百人隊長(マルコ一五・三九)に率いられたいたことになります。
 兵士たちは、イエスの手足を十字架に釘づけるという任務を果たします。ここには「十字架につける」という動詞だけで、それがどのような仕方でなされたのか(どの福音書にも)記述はありません。しかし、復活されたイエスが疑うトマスに手の傷痕を示しておられることから、釘を打ち付ける形で行われたことが分かります(二〇・二四〜二九)。

 囚人を十字架の木に釘づけるという残酷な作業をした後、兵士たちはイエスの衣服を奪い合います。当時の習慣では、十字架刑を執行する兵士たちは、受刑囚の衣服や持ち物を取ることを認められていたようです。まず「彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分と」します。続いて下着も取ろうとしますが、「その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった」ので、分けることができず、それを受け取る一人をくじで決めようとします。
 共観福音書では「くじ引きで上着を分けた」とあるだけですが、ヨハネ福音書は上着と下着を分けて、別々に詳しく扱っています。その上で、詩篇二二編一九節を(七十人訳ギリシア語聖書そのままで)引用します。ここの兵士の行動は、イエスの「上着を分け合い、衣服のことでくじを引いた」という詩篇の言葉を正確に成就する行動として描かれます。

 

イエスの母と愛弟子

 ところで、イエスの十字架のそばには、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。(二五節)

 イエスの母マリアが十字架のそばにいたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。並行するマルコ一四・四〇およびマタイ二七・五六との比較から、ここの「彼の母の姉妹」の名はサロメであり、「ゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)の母」と推察することも可能ですが(そうだとするとイエスとゼベダイの子らは従兄弟関係になります)、マルコとマタイの記事は「遠くから見守っていた」女性たちの名をあげているだけで、十字架のそばにいた女性を正確に伝えるものではないので、この並行関係は推定の根拠としては弱いと考えざるをえません。

 「クロパの妻マリア」は、直前の「彼の母の姉妹」と同格と読んで、「彼の母の姉妹であるクロパの妻マリア」とすることも文法上は可能ですが、そうすると「彼(イエス)の母」もマリアですから、二人の姉妹が同じ名前であることになり、これはありそうにないことです。「彼の母の姉妹」と「クロパの妻」は別人として、四人の女性が立っていたとしなければなりません。「クロパ」については、その名がここにあげられているだけで、詳しいことは分かりません。ルカ二四・一八の「クレオパ」(エマオへの途上で復活のイエスと出会った二人の弟子のうちの一人)と同一人物であるとする見方もあります。エウセビオスが引用する古代教会の伝承は、クロパをイエスの父ヨセフの兄弟とし、「主の兄弟ヤコブ」の次にエルサレム教会の主教となったシメオンの父としています。
 「マグダラのマリア」が最後に名をあげられています。共観福音書(マルコとマタイ)では最初にあげられています。復活されたイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったという伝承を強調しているこのヨハネ福音書(二〇・一一以下)が、最後にマグダラのマリアの名をあげていることが注目されます。

 そこで、イエスは母と愛した弟子がそばに立っているのを見て、母に言われる、「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」。それから、その弟子に言われる、「ごらんなさい。あなたの母です」。この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った。(二六〜二七節)
 弟子たちは皆、イエスが逮捕されたときに逃げ去っていました。十字架の場所まで来たのは四人の女性だけでしたが、その中に一人の男性弟子が入っています。反逆罪で処刑されるイエスの刑場に、壮年の男性弟子がついてくることは、奪還する意図がある仲間として警戒され逮捕される危険がありますから、その姿がないのは当然です。女性だけの中にこの男性の「(イエスが)愛した弟子」がいることは、どうして可能だったのでしょうか。

 これは、この「愛弟子」がまだ少年の年齢であったから、女性たちの中に交じってついて来ることができたのだと考えられます。このヨハネ福音書に登場する無名の「イエスが愛された弟子」(愛弟子と略称しています)は、現代の多くの註解者が弟子を理想化した象徴的な存在としているのに対して、わたしは実在の人物であると考えています。そして、この人物こそ、後にそのイエスについての証しを通して信じる者たちの共同体を形成し、この福音書を生み出す原動力となった人物であると見ています(二一・二四)。

 この愛弟子は、この時まだ十歳代半ばの少年であり、敬愛する師の最後を見届けるために、女性たちに交じって十字架の刑場までついて来ます。イエスは十字架の上から母とこの「愛弟子」がいるのを見て、母に「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言い、この弟子に「ごらんなさい。あなたの母です」と言って、母をこの弟子にお委ねになります。母には、わたしが亡き後はこの弟子を子として生涯を委ねなさいと言っておられます(ヨハネ福音書では、イエスは母に対しても、他の女性の場合と同じように「女よ」と呼びかけておられます)。この弟子には、これからはこの女性を母として世話するようにと、最後の苦しい息の中から母をお委ねになります。

 他の弟子たちはこれからイエスの仲間として追われる立場になり、危険な道を歩まなければなりません。それはイエスの兄弟たちも同じです。それに較べて、この「愛弟子」は大祭司の知り合いの家の者であり、母が安全にかくまわれるのに最適の人物になります。イエスは将来を見通して、この弟子に母をお委ねになります。

 「この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った」とありますが、もしこの「愛弟子」がエクレシアの象徴であるなら、この記事はイエスの母マリアが復活後の信徒の交わりに迎えられ、そこで保護を受けて生涯を送ったことを意味することになります。もし具体的な一人の人物を指すのであれば、この福音書を書いたか、あるいはその内容の起源となった人物(二一・二四)が、イエスの母と生涯を共にしたことで、ペトロたち十二人と並ぶかそれ以上に確実なイエス伝承の継承者であることを保証する記事になります。わたしは後者であると考えています。

 使徒言行録によりますと、イエスが復活し昇天された後、母マリアは自分の子供たち(すなわちイエスの兄弟たち)と一緒に、ペトロをはじめとする十一人の弟子たちと同じ家で祈っています(使徒一・一四)。ペンテコステ以後、イエスの兄弟たちはエルサレムに住んで、「主の兄弟ヤコブ」を中心にエルサレム共同体の指導部を形成しています。その中に母マリアもいることは推察できますが、その後のユダヤ戦争の嵐の中でエルサレム共同体は弾圧され、62年にはヤコブも殺され、エルサレムの信徒はペレアに脱出します。おそらく、これよりも早い時期にこの「愛弟子」が母マリアを連れて危険なエルサレムを去り、安全な場所にかくまったのではないかと推察されます。もっと早い時期と見るのは、イエスの十字架の時には五〇歳前後と見なければならないマリアが、遠くの都市に旅することができる年齢からすると、40年代を推定しなければならないからです。

 古代の伝承は、その避難先をエフェソとしています。エフェソは多くの民族や宗教が混在する寛容なヘレニズム大都市であり、ユダヤ人も多く住み、たしかに避難先として適切です。エフェソにはマリアが晩年を過ごしたと伝えられる家を記念する小さい教会堂があり、今も毎年八月一五日にマリアを記念する祭りが行われています。この「愛弟子」がその証しの働きを通して形成した信徒の共同体がエフェソにあり、その共同体が生み出した福音書が「ヨハネ福音書」として流布していたことは、直後の時代の教父たちが証言しています。この「愛弟子」がヨハネという名で知られるようになり、後に彼を記念する「聖ヨハネ教会」がエフェソに建てられます。

 この十字架の前の母マリアと「愛弟子」の記事は、この弟子とマリアの深い結びつきを知っているヨハネ共同体が、その師(ヨハネ)から聞いている事実に基づいて、それを主御自身からの委託として物語ったものであると考えられます。

 

すべてが成し遂げられた

 この後、イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知り、聖書が成就されるために、「わたしは渇く」と言われる。(二八節)
 「聖書が成就されるために」という句は、先行する文にかけて、「聖書が成就するために(必要な)すべてのことが成し遂げられたことを知って」と訳すことも可能です(岩波版)。ここでは(多くの英訳や独訳およびほとんどの日本語訳と同じく)以下に語られるイエスが酸いぶどう酒をお受けになったことを、詩篇(六九・二二、二二・一六、六三・二など)の成就として描いていると理解して訳しています。この解釈は、イエスの身に起こったことが最後の最後まで聖書の正確な成就であったことを強調することになります。

 酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。そこで彼らは、この酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに巻き付け、イエスの口元に差し出した。(二九節)
 「酸いぶどう酒」は、共観福音書でも同じ用語《オクソス》で描かれています(マルコ一五・三六、マタイ二七・四八、ルカ二三・三六)。これは、ローマ兵が元気をつけるために用いた水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物とされていますが、ヨハネ福音書ではそれが器に満たしてそばに置いてあったことになっています。十字架執行にさいして囚人に与えるためにローマ側が用意していたことも考えられます。

 この酸いぶどう酒を受けると、イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(三〇節)
 ヨハネ福音書は「この酸いぶどう酒を受けると」と明記していますが、共観福音書ではこの酸いぶどう酒をお受けになったことは言及されないで(むしろお受けにならなかった印象を与える書き方です)、大声を出して息を引き取られたとなっています。
 息を引き取る直前のイエスの言葉については、四福音書は違っています。マルコとマタイは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたと伝え、ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と伝えています。マルコとマタイの叫びは、罪なき神の子が人間の罪を負って神の裁きに服する苦悩を伝え、ルカの言葉は神の意志に従って死ぬ殉教者の信頼の叫びを伝えています。
 ヨハネ福音書は「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取られたと伝えています。この叫びは、「イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知って」(二八節)、最後の最後に発せられた言葉です。イエスは、十字架の上で自分がなすべき業がすべて成し遂げられて終わったことを見ておられます。

 「息を引き取られた」と訳している句の直訳は、「霊を引き渡された」です。マルコとルカは「息を引き取る」という動詞を用いていますが、マタイは「息(霊)を止める」という表現を用いています。ギリシア語では息と霊は同じ語であるので、マルコの「息を引き取る」という日常的な用語が、ヨハネでは「霊を引き渡す」という霊的表現になっています。ルカはそれを、「わたしの霊を御手に委ねます」という、イエスの言葉で表現していることになります。

 

  63 イエスの埋葬 (19章 31〜42節)

 31 その日は準備の日であり、その時の安息日は大祭の日であったので、安息日にからだを十字架上に残さないため、ユダヤ人たちはピラトに彼らの脚を砕いて、からだを取り除くように求めた。 32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との脚を砕いた。 33 ところが、イエスのところに来てみると、すでに死んでおられるのを見て、その脚を砕くことはしなかった。 34 ところが、兵士の一人がイエスの脇腹を槍で刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。 35 それを目撃した者が証をしてきた。彼の証は真実であり、その者は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたたちもまた信じるようになるためである。 36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は砕かれることがないであろう」とある聖書が成就するためであった。 37 また、聖書は別の所で、「彼らは自分たちが刺した者を見つめることになる」と言っている。
 38 ところで、これらのことの後、アリマタヤ出身のヨセフが、イエスのからだを取り降ろしたいとピラトに願い出た。ヨセフはイエスの弟子であったが、ユダヤ人たちを恐れて隠していたのであった。そこで、ピラトは許可した。 39 以前夜中にイエスのもとに来たことがあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラほど携えて、やって来た。 40 彼らはイエスのからだを引き取って、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包んだ。 41 イエスが十字架につけれらた所には園があり、その園にはまだ誰も葬られたことがない新しい墓があった。 42 ユダヤ人の準備の日であり、その墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 

遺体の取り降ろし

 その日は準備の日であり、その時の安息日は大祭の日であったので、安息日にからだを十字架上に残さないため、ユダヤ人たちはピラトに彼らの脚を砕いて、からだを取り除くように求めた。(三一節)
 イエスが十字架上に死なれたのは「準備の日」でした。「準備の日」というのは、安息日とか大祭の前日で、祭儀のための準備をする日のことです。ところが、「その時の安息日は大祭の日であった」とありますが、ここでの「大祭の日」は過越祭の日を指します。過越祭の日付はニサンの月の一四日と決まっていますから、その年はたまたまその大祭の日が安息日になっていたことになります。イエスが十字架につけられたのは(ヨハネ福音書では)過越の小羊がほふられる「過越の準備の日」であり(一八・二八参照)、それが金曜日の午後になり、その日没から土曜日の安息日が始まることになります。

 律法(申命記二一・二二〜二三)は、木にかけられた者の死体はその日のうちに(すなわち日没までに)埋めるように命じています。この規定は安息日とか祭日とは関係ありませんが、とくにこの場合は日没から始まる翌日が安息日であり、かつ大祭であったので、聖なる土地を死体で汚さないために、この律法規定を守ることが重視されました。それでユダヤ人たちはピラトに「(十字架から)からだを取り除くように」求めます。

     マルコは死なれた後のイエスのからだについては「遺体」《プトーマ》という別の用語を使っているのに対して、ヨハネはずっと「からだ」《ソーマ》を使っています。それで、訳でも「遺体」を避けて、「からだ」を用いています。原文では複数形の「からだ」で、「残る」という述語動詞は三人称単数形であるので、著者はおもにイエスのからだのことを念頭に置いて書いているとも考えられますが、すぐ後に「彼らの脚」とあることから、やはり三人のからだと理解すべきでありと考えられます。英訳などは複数形にしています。

 そのさい、彼らは「彼らの脚を砕いて」からだを取り下ろすように求めています。これは、受刑者が仮死状態や気絶から息を吹き返して逃走することを防ぐために、脚の骨を砕いて歩けなくすることが、十字架刑の習慣であったからです。脚を砕くことは死を早めるためであったとする説もありますが、槍で脇腹を突くことに較べると、脚を砕くことが死を早める効果は疑問です。いずれにしても、祭司長たちは三人の脚を砕いて早急に死体を取り下ろすように、ピラトに願い出ます。ピラトは、ユダヤ人たちとの不要の摩擦を避けるためか、これを認めます。

 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との脚を砕いた。ところが、イエスのところに来てみると、すでに死んでおられるのを見て、その脚を砕くことはしなかった。(三二〜三三節)
 イエスの他の二人にはこのように兵士たちが脚を砕きましたが、イエスはすでに息絶えておられましたので、脚の骨を砕くことはしませんでした。共観福音書には、二人の受刑者の脚を砕く記事はありません。

 ところが、兵士の一人がイエスの脇腹を槍で刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。(三四節)
 脚を砕く代わりに、受刑者の死を確実にするため、「兵士の一人がイエスの脇腹を槍で刺し」ます。イエスは、(ヨハネ福音書では)正午以後に十字架につけられ、夕方の前に死なれたので、十字架の上で苦しまれたのは三時間か四時間程度になります。これは、十字架刑においては、例外的に短い時間です。このように、ピラトが不審に思うほど短時間で死なれたので、このような死を確実にするための処置がとられたのでしょう。この記事も共観福音書にはありません。

 槍で脇腹を刺した結果血が流れ出たことは自然に理解できますが、水が流れ出たことはやや異様です。この「血と水」の組み合わせは、(順序は違いますが)ヨハネの第一の手紙(五・六〜八)で強調されており、福音書のこの部分(三四節後半と三五節)は後の編集者(おそらく第一の手紙の著者)による挿入であるとする注解者が多いようです。第一の手紙では、「水と血」は、バプテスマと聖餐を象徴し、救済の手段であるので、十字架の死が救済をもたらす出来事であることを象徴するために、編集者がこの記事を加えた可能性があります。

 それを目撃した者が証をしてきた。彼の証は真実であり、その者は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたたちもまた信じるようになるためである。 (三五節)
 「イエスが愛された弟子」がこの福音書の情報源とされているので(二一・二四)、この目撃者もこの弟子と見なければなりません。他の弟子たちは十字架の場所にいませんでしたが、この弟子だけはそこにいたとされています(一九・二五〜二六)。
 十字架上のイエスの脇腹から血と水が流れ出たことを書き記した著者(あるいは編集者)は、この記事が信用できるものであることを強調するために、その場に居合わせてその事実を目撃した者が、そのことを繰り返し証言し続けてきたことを付け加えます(「証をしてきた」は現在完了形です)。その目撃者は今までずっとその証言を続けてきており、わたしたち(この福音書を生み出したヨハネ共同体)はその証言を聴いてきて、その証言が真実であることを知っているとします(二一・二四)。ここではさらに、「その者」(その目撃者)自身が、「真実を語っていることを知っている」とされ、その目撃者の信頼性が保証されます。

 ここの「その者」は、「目撃した者」とは別の人物を指すと見て、「あの方は、彼(目撃者)が真実を語っていることを知っている」と理解する説もあります。その場合、「あの方」はイエスを指すことになります。これは洗礼と聖餐という二つのサクラメントが、愛弟子とイエスの二重の権威によって保証されていることを語るためだとされます(NTDのシュルツ)。

 このように、この記事が目撃者の真実な証言によるものであることを強調したのは、「あなたたちもまた信じるようになるため」であると、その意図が説明されます。この「あなたたち」は、ヨハネ共同体でイエスのことを聴いている人たち、この福音書の読者たちを指していると見られます。このような人たちがイエスの十字架の死の意義を理解して受け入れるようになるために、著者はこの目撃者の証言の真実なることを特記して強調します。

 これらのことが起こったのは、「彼の骨は砕かれることがないであろう」とある聖書が成就するためであった。また、聖書は別の所で、「彼らは自分たちが刺した者を見つめることになる」と言っている。(三六〜三七節)
 この記事は本来三三節〜三四節前半に続いています。兵士たちがイエスの脚を砕かなかったことと、イエスの脇腹を槍で刺したという事実が、聖書の成就であることを確認するために、それを預言する聖書の箇所が二カ所引用されます。

 「彼の骨は砕かれることがないであろう」は、詩編三四・二一の引用です。七十人訳ギリシャ語聖書では、少し違った表現で三三・二一にあります。なお、出エジプト記一二・四六に、過越の小羊について、「その骨は折られないであろう」(直訳)とあります。ヨハネは、過越の羊が屠られる時刻に十字架につけられたイエスこそ、過越祭の成就であるとしているので、過越の羊の骨についての律法が成就したとしていることになります。

 「聖書は別の所で」というのは、ゼカリヤ一二・一〇に、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」とあるのを指しています。ヨハネ黙示録一・七にもこの預言が響いていますが、そこでは「雲に乗って」来臨される方について語られています。それに対してヨハネ福音書では、そのような黙示思想的な関連はなく、イエスの遺体が槍で刺されたことが、この預言の成就であるとして引用されています。

 

イエスの埋葬

 ところで、これらのことの後、アリマタヤ出身のヨセフが、イエスのからだを取り降ろしたいとピラトに願い出た。ヨセフはイエスの弟子であったが、ユダヤ人たちを恐れて隠していたのであった。そこで、ピラトは許可した。(三八節)
 アリマタヤはエルサレムから北西へ40キロほどにある地中海近くの町です。マルコ(一五・四三)はヨセフを「アリマタヤ出身の名望ある議員」としていますが、ヨハネは彼の身分には触れず、出身地だけをあげています。しかし、ピラトに直接願い出ることができる立場の人物であるので、マルコが伝える通り「議員」であることは間違いないでしょう。最高法院を構成する祭司長、長老、律法学者の三つの階級の中の、地域を代表する「長老」階級の議員であったと見られます。

 ヨセフやニコデモなどのように、最高法院の議員の中にも「隠れた弟子」がいました(一二・四二〜四三参照)。この福音書の著者自身も「大祭司の知り合い」(一八・一五)としてエルサレムの上流祭司階級の出身である可能性があります。しかし、著者は別にして、これら議員など上層階級の者は、イエスを信じていても、「ユダヤ人を恐れて」、すなわちユダヤ教指導層や会堂勢力のユダヤ人からの異端追及を恐れて、イエスに対する信仰を言い表すことなく、その信仰を内心に隠していました。

 しかし、ヨセフがイエスの遺体の取り下ろしと埋葬をピラトに願い出たことは、勇気のいる行動です。これまではユダヤ人を恐れてイエスへの信仰を隠していましたが、この時に及んで、自分が異端者としてユダヤ教から追放されたイエスの仲間であることを公然と表明する行動に踏み切ります。この時、ヨセフの内面に神の働きかけがあったとしなければなりません。

 ピラトはこのヨセフの願いを許可します。これは、すでに安息日が始まる日没までに遺体を取り下ろしたいと願い出た祭司長たちの願いを認めたのですから、とくに拒否する理由はなかったはずです。

 以前夜中にイエスのもとに来たことがあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラほど携えて、やって来た。(三九節)
 ニコデモも議員です。彼は以前、夜中にイエスを訪れ、神の国に入ることについてイエスと問答をしています(三・一〜二)。ニコデモは、ヨハネ福音書ではすでに、この夜中の問答(三・一〜一〇)と、イエスの訴追を始めるには本人から事情を聴く必要があると最高法院で弁論している場面(七・五〇〜五二)と二回登場しています。ここは三回目の登場になります。

 ニコデモは「没薬と沈香を混ぜたもの百リトラ」をもってやって来ます。ユダヤ人の埋葬では、遺体を安置する横穴に香料を添える習慣がありました。その習慣に従って、埋葬する横穴墓地に添えるために、百リトラもの香料を持ってきます。「リトラ」は重さの単位で約三二六グラムですから、百リトラは約三三キログラムになります。ニコデモがこのような高価な香料を大量に持ってきたことは、ニコデモが富裕な議員であることを示していますが、同時にイエスに対する秘めた熱い思いをも示していることになります。

 彼らはイエスのからだを引き取って、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包んだ。(四〇節)

 当時の「ユダヤ人の埋葬の習慣」では、先ず遺体を亜麻布でくるみ、人が立って入れるほどの横穴式の墓室に安置します。遺体の側に、死臭を防ぐための香料を置きます。数日の服喪の後、遺体を墓室の壁面に水平に掘られた小さい横穴に入れて、その入り口を塞ぎ、一年ないし二年経って遺体が腐食して骨だけになった段階で、その骨を石灰石でできた小さい骨箱に移し、その骨箱に故人の名前や墓碑を刻んで、そのための場所に安置します。エルサレムの近郊には、このような骨箱を安置する場所が数カ所あったようです(詳しくは次章で)。

     この名前や墓碑を刻んだ骨箱の発掘調査は、当時の社会の様子を知るための貴重な考古学資料となっています。

 ここの「彼ら」には、ヨセフとニコデモが含まれますが、その他に誰がいたかは特定されていません。十字架の側にいた五人、すなわち、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアと愛弟子の五人(二五〜二六節)は、当然含まれるでしょう。彼らは「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」イエスの遺体を丁重に葬ります。

 マルコ(一六・一)では、香料はイエス(の遺体)に「塗る」ためとありますが、ヨハネの「香料を添えて」という表現の方が正確でしょう。三三キログラムの香料は、一遺体に塗るには量が多すぎます。香料は遺体の防腐処理ではなく、そばに置いて死臭を防ぐためのものであったと見られます。もちろん、遺体を亜麻布で包むときにも香料を用いたことは、十分ありえます。

 イエスが十字架につけれらた所には園があり、その園にはまだ誰も葬られたことがない新しい墓があった。(四一節)
 マタイ(二七・六〇)だけが、その墓がヨセフのものであったことを伝えています。他の福音書は(ヨハネ福音書を含めて)たまたま近くにあった墓としています。遠く離れたアリマタヤの人がエルサレムに墓を持つことは不自然だとする見方もありますが、当時敬虔で資産のあるユダヤ人は聖都エルサレムに墓を持つことを憧れていたので、ヨセフがエルサレム近郊に墓を持っていた可能性は十分にあります。しかし、だれの墓であるかはこの物語では重要ではなく、その墓が「まだ誰も葬られたことのない新しい墓」であることが重要です。そうでなければ、イエス復活の告知において、墓が空であったことにならず、その墓にある遺骨がイエスのものでないことを証明しなければならなくなるからです。

 ユダヤ人の準備の日であり、その墓が近かったので、そこにイエスを納めた。(四二節)
 「準備の日」については、三一節の講解を参照してください。安息日であり大祭の日である翌日が始まる日没までに、遺体を墓に安置しなければなりません。それで、近くにあった「まだ誰も葬られたことがない新しい墓」に、急いでイエスの遺体を納めます。「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」とか「ユダヤ人の準備の日であったので」とか、この福音書には異邦人に、それがユダヤ人の習慣であることを説明する句がよく用いられています。


  ヨハネ福音書の受難物語

共観福音書との比較

 ヨハネ福音書は一八章と一九章で、逮捕から裁判を経て十字架の処刑に至るまでのイエスの受難を物語っています。このヨハネ福音書の受難物語は、マルコを代表とする共観福音書の受難物語と較べますと、その内容と順序は基本的に同じです。イエスは過越祭のときに逮捕され、ユダヤ教側の裁判を経て、ローマ総督ピラトに引き渡され、ピラトの法廷での死刑判決によって、ローマ式の十字架刑によって処刑されたという内容と順序は変わりません。しかし、かなり重要な点で相違もあります。その違いについては、それぞれの場面の講解のところで触れておきましたが、ここで主要な相違点をまとめておきます。
 逮捕の場面では、共観福音書がユダヤ教側の神殿警備員や群衆が逮捕に来ていると描いているのに対して、ヨハネ福音書は千人隊長に率いられるローマの正規軍も出動していることを伝えています(一七・一二)。

 ユダヤ教側の裁判については、共観福音書は逮捕されたイエスをまず「大祭司カイアファ」のところに連れて行き、大祭司による尋問の後、夜明けとともに最高法院の法廷を開き、死刑の決定を下したとしています。それに対して、ヨハネ福音書ではアンナスの屋敷に連れて行かれ、アンナスの尋問を受けています。その年の大祭司はカイアファですが、彼の舅のアンナスが大祭司としてイエスを尋問しています。そして、アンナスからカイアファのもとに送られ、最高法院の裁判の記事はなく、直ちにピラトに引き渡されています(一八・二四、二八)。

 ピラトの法廷では、イエスがローマの支配に反逆したことが訴因となっていること、ピラトは祭りの特例に従って釈放しようとしたが民衆はバラバの釈放を求めたこと、またピラトは無罪を認めていたのにユダヤ教指導者の圧力に屈して死刑判決を下したことなどは、共観福音書とヨハネ福音書に共通です。ピラトの「お前はユダヤ人の王か」という尋問に対してイエスは「あなたがそう言う」と答えられた裁判の核心部分は同じですが、ヨハネ福音書は共観福音書にはないイエスとピラトとの個人的な対話を挿入しています。

 共観福音書では十字架の現場には誰もいず、数人の女性が遠くから見守っているだけですが、ヨハネ福音書では十字架の下に四人の女性と愛弟子がいます。十字架の上でのイエスの最後の言葉は、共観福音書(マルコとマタイ)では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という悲痛な叫びですが(ルカは変えています)、ヨハネ福音書では「成し遂げられた」という勝利の宣言になっています。

 日時の点でも共観福音書とヨハネ福音書は食い違っています。すでに詳しく見たように、共観福音書は逮捕から十字架上の死に至る出来事はすべて過越祭の当日(ニサンの月の一五日)に起こったこととしていますが、ヨハネ福音書はそれを過越祭の準備の日(ニサンの月の一四日)とし、過越の小羊が殺されるその日の午後にイエスは死なれたとします。この一日の食い違いはいまだに解決していません。

 それに、十字架刑の時刻も違います。イエスが十字架につけられた時刻は、共観福音書では午前九時(マルコ一五・二五、ただしマタイとルカでは時刻なしの午前)ですが、ヨハネ福音書では(ピラトの判決が正午ごろですから)正午過ぎになります。イエスは午後三時頃に絶命しておれますから、イエスが十字架上で苦しまれたのは、マルコでは六時間ほど、ヨハネでは三時間足らずということになります。マルコ(一五・四四)はピラトがイエスの早い死を不審に思ったと伝えていますが、ピラトの不審はヨハネの場合はさらに適切です。

 埋葬については、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取って、近くにあった墓に丁重に葬ったという基本的な内容は同じで、重要な相違はありません。

 このように見ると、共観福音書とヨハネ福音書とではイエスの受難についてかなり重要な点で相違があることが分かります。では、歴史的事実としてはどちらが正しいのかとなると、決定することはきわめて困難です。歴史的事実としてはマルコ福音書が優先される場合が多いようですが、エルサレムでの出来事に関しては、ヨハネ福音書の方が正確である場合が多いようです。このような違いが出てくる伝承上の経過を研究することが盛んですが、わたしたちにとってはこのような歴史的事実の相違よりも、イエスの受難を描く視点の違いの方が重要です。この視点の違いについて、以下に触れておきます。

 

イエスの受難の理由

 大祭司を頂点とする祭司長たちや最高法院が形成するユダヤ教指導層が、イエスの宣教を否定して、イエスを取り除くためにローマ総督に引き渡したのですが、ではなぜ彼らがイエスを拒否し憎んだのかという受難の理由になると、共観福音書とヨハネ福音書では微妙に違いが見られます。

 マルコ(一一・一八)は、イエスが神殿で過激な行動をして指導層を批判されたのが、彼らがイエスを殺そうとした直接の動機だとしています(ルカも同じ)。しかし、ヨハネは神殿での行動を初期に置いていますから、これが直接の動機とはなりません。その行動のためにイエスのガリラヤでの活動に対していつもエルサレムからの監視団がつくようになり、イエスの言動が彼らの知るところとなって、律法違反の教師、背教を唆す異端の教師という疑いを強めていくことになります。そして、ラザロを生き返らせたという最大の業がエルサレムの近くで行われたとき、民衆への影響と騒乱を恐れたことが、ヨハネ福音書ではイエス殺害の直接の動機とされます。

 安息日律法を公然と破るように(彼らには)見えるイエスの言動がイエスへの疑いを強める原因となったことは、共観福音書もヨハネ福音書も同じです。しかし、共観福音書では、イエスの「神の支配」の宣教が実は「恩恵の支配」の宣教であって、「律法の支配」というユダヤ教の原理と対立したことが強調されています。それは、イエスが律法を守れない「罪人」と食卓を共にして仲間とされたことに典型的に示されています。ところが、ヨハネ福音書にはこのようなイエスの言動は伝えられず、イエスと「ユダヤ人」(ユダヤ教指導層を指す)との対立は、もっぱらイエスとは誰か、どういう身分の者かという点に集中しています。

 この問題については、共観福音書では最高法院での裁判で、大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という質問に、イエスが「エゴー・エイミ」と答えて、神からの者であるという身分を証言されたという記事が(マルコに)あるだけです。この答えを聞いて、大祭司は衣を裂いて、これを神への冒涜とし、死刑の判決を下します。それに対してヨハネ福音書は、「ユダヤ人」との論争において、イエスは繰り返しこの「エゴー・エイミ」を宣言して、御自身が神から遣わされた者であると宣言しておられます。これを聴いた「ユダヤ人」はイエスを石打にしようとします。すでに公の論争で十分取り上げたためか、最後の大祭司による尋問では、この問題はもはや触れられていません。

 このように較べてみると、共観福音書では、イエスはイスラエルの民に律法違反を唆す異端の教師として訴えられ、死刑の判決を下されたという面が前面に出ていますが、ヨハネ福音書は、イエスは自分を神とするという冒涜の罪で死に値するとされたと主張していることになります。共観福音書で見るかぎり、地上のイエスは自分がメシアであるとか神の子であると公に宣言しておられません。それが事実であると考えられます。それに対してヨハネ福音書は、復活者イエスを神と等しい方と告白するヨハネ共同体と、それを神への冒涜として反対するユダヤ教会堂勢力との激しい論争に支配されています。そのためにイエスを語るこの福音書の記事は、この問題に圧倒されて、イエスの死の理由も自分を神とする冒涜の罪に集中する結果になったと見られます。

 

イエスの受難の意義

 受難の理由よりも重要なのは、イエスの十字架の死の意義をどう理解しているか、受難の意義についての相違です。最初期の宣教において、自分たちが救済者キリストとして宣べ伝えるイエスが十字架刑という屈辱の死を遂げた事実をどう理解し意義づけるかが緊急の課題でした。イエスの弟子はみなユダヤ人でしたから、その出来事を聖書(旧約聖書)の成就と受けとめ、イザヤ書五三章を代表とするメシア受難の預言が実現したものと理解しました。それで、最初期の宣教(ケリュグマ)は、「キリストは聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と宣べ伝えたのです(コリントT一五・三)。

 ここで十字架上に死んだ方がイエスではなくキリストと言われています。復活して神からキリストと立てられた方が十字架上に死なれたのは「わたしたちの罪のため」とされ、それによってわたしたちの罪が赦される「贖罪」の出来事とされました。この理解はパウロにも受け継がれていますが、パウロは一歩進めて、わたしたちがキリストの死に合わせられて死ぬことによって、復活されたキリストの命に生きるようになるためだとしています。

 共観福音書は、基本的には最初期のケリュグマの線でイエスの受難を意義づけています。すなわち、イエスの十字架上の死は「わたしたちの罪のため」であるという意義づけです。そのことは、最後の晩餐の席でイエスが語られた言葉に典型的に示されています。マルコとルカの「多くの人のために流されるわたしの血」という表現もイザヤ書五三章を指していますが、マタイはそれに「罪が赦されるように」という句を添えて明示しています。共観福音書は、このような理解と視点でイエスの受難を物語っていきます。イエスは「わたしたちの罪を担って」死なれるのです。それに、極めて聖書的な「血による契約」という視点が加わっています。

 それに対して、ヨハネ福音書には贖罪とか契約という視点はありません。ヨハネ福音書のイエスは、その働きの最初から、御自身が死なれる時を「わたしの時」と呼んで、それを「わたしが上げられる時」と語っておられます。十字架にかけられて地から上げられることと、復活して天に上げられることが重なって「上げられる」と表現されます。そして、それは「栄光を受ける時」となります。

 イエスはその時に向かって進んでいかれます。共観福音書では、「引き渡される、苦しみを受ける」と、受難はいつも受動態で語られますが、ヨハネ福音書のイエスはいつも自ら進んで受難の道を歩まれますので、能動態で語られることになります。そしてついにその時が来たとき、イエスは「成し遂げられた」と、使命の完了を宣言してその生涯を終えられます。
 ヨハネ福音書において、イエスの死は、最初に「世の罪を負う神の小羊」という伝統的な贖罪信仰を宣言しているにもかかわらず、全体として見ると、地上に父を啓示するために来られた御子が、地上での使命を終えて天の父のもとに帰られる出来事として描かれています。十字架と復活は一体となって、啓示者の天への帰還の出来事となります。ヨハネ福音書はグノーシス文書ではありませんが、こういう点が後世のグノーシス主義と相通じるものがあり、グノーシス主義者特愛の福音書となったと考えられます。


     前章に戻る  次章に進む  

      目次に戻る 総目次に戻る