ルカ福音書講解 7


    第七章 苦しみを受ける人の子

                           ― ルカ福音書 九章(一〜五〇節) ―



はじめに

 前章(第六章 ガリラヤ巡回伝道の進展)で、イエスが十二人の使徒と女性弟子の一団を引き連れてガリラヤの町や村を巡り歩き、「神の国」を宣べ伝える活動を進められたことを見ました。イエスがなされる病気をいやし悪霊を追い出すなどの力ある業により、イエスの名声はガリラヤに響き渡りました。民衆も弟子たちも、人の思いと力を超えるイエスの驚くべき奇蹟と権威ある教えの言葉に接して、「いったい、この方はどなたなのだろう」という驚きと問いを発せざるをえませんでした。

 イエスのガリラヤでの働きは、イエスを慕い求める男たちが五千人も荒野に集まったという出来事で頂点に達します。同時にその出来事を転機として、イエスはもはやガリラヤの民衆の間を歩くのではなく、エルサレムに向かって旅立たれることになります。ルカの構成では、福音書九章はガリラヤでの働きを語る第一部を締めくくり、エルサレムへの旅を描く第二部を準備する転換の章となります。本章はこの重要な転換の時期を扱うことになり、「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いをめぐり、イエスと弟子との対話、苦しみを受ける人の子の奥義の啓示、山上の変容による神の子の栄光の啓示など、重要な出来事が取り扱われます。

 

 49 十二人を派遣する(9章1〜6節)

弟子たちによるガリラヤ伝道の仕上げ

 マルコ(五・二一〜六・一三)では、会堂長の娘の生き返りと出血の止まらない女性のいやしの記事の後に、故郷のナザレの人たちから拒否される記事がきて、その後に十二人の派遣が語られています。会堂長の娘のことまで比較的忠実にマルコの順序に従ってきたルカは、ここから大きくマルコの順序から離れ、独自の仕方でガリラヤでの活動を締めくくる部分を構成しています(九・一〜五〇)。

 ルカはナザレでの拒否をガリラヤ伝道の冒頭(四・一六〜三〇)に置いているので、それは飛ばして、会堂長の娘の生き返りの記事から直ちに十二人の派遣へと物語を続けます。イエスが十二人を選ばれたのは、自分の側におらせて、御自身の「神の国」の告知と病人をいやす働きを目撃させて、その証人とし、また同じ働きを続けるための訓練とするためでした。今やイエスはガリラヤで十分その働きをなして、いよいよ弟子たちを同じ働きのために送り出されます。弟子たちの派遣は、イエスのガリラヤ伝道の最後の局面となっています。イエスは、御自身が回りきれなかったところに弟子たちを派遣して、ガリラヤでの働きを遺漏のないものにしようとしておられるかのようです。

 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。(九・一〜二)

 イエスは、弟子たちにご自分と同じ働きをさせるために、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり」ます(九・一)。その上で、弟子たちを「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わ」されます(九・二)。この二つの働き、「神の国を宣べ伝える」ことと「病人をいやす」ことは、まさにイエスがされていた働きそのものです(マタイ四・二三、九・三五)。ガリラヤの各地に派遣するにあたって、イエスは弟子たちに次のように訓示されます。

 「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。(九・三)

 マルコ(六・七〜九)の記事と較べると、二人を組にして派遣されたというユダヤ教の証人規定が背景にある記事がないことと、旅の装備としてマルコでは許されていた野獣を追い払う杖も持つことが禁じられ、足にからみつく害虫から身を守る履き物についての言及がないなど、マルコでは具体的な旅が問題にされていたのに対して、ルカでは伝承されていく過程で、この実際的な訓戒が使命の緊急性を示す理念的な言葉となっていったと考えられます。ルカは、イエスの派遣の言葉を文字通り実践したパレスチナ・ユダヤ人の巡回伝道者の働きの場面からは、地理的にも時間的にも遙かに遠い状況で著作しています。このイエスの語録伝承にある派遣の言葉も、資料への忠実さから保存されて伝えられていますが、それが実際的な訓戒ではなくなり、理念的な表現になるのは避けられません。
 イエスはさらにこう言われます。

 「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」。(九・四〜五)

 ここはほとんどマルコ(六・一〇〜一一)の記事と同じです。弟子たちを家に迎え入れ、その使信を受け入れる者には平安(終末的な救いと祝福)が約束されますが、拒む者には裁きがあるのみです。彼らとはもはや何の関わりもなく、彼らの終末的命運に何の責任もないことを示すために、「足についた埃を払い落とす」という象徴行為をして、次の町や村に急ぐように訓示されます。

 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。(九・六)

 ルカは先に、イエスがガリラヤで巡回伝道活動を継続されたことを、「引き続き(私訳)、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」と書いていました(八・一)。今や、弟子たちがそれを引き継いで、ガリラヤの村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやす働きを進めていくことになります。こうして、神の支配が差し迫っているというイエスの使信は、病気のいやしや悪霊の追放という「しるし」を伴ってガリラヤ中に広く響き渡ることになります。


 50 ヘロデ、戸惑う(9章7〜9節)

洗礼者ヨハネとイエスに対するヘロデ

 このようにしてガリラヤに響き渡るイエスの名と不思議な出来事のうわさは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの耳に入ります。

 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。(九・七〜八

 このイエスについての民衆のささやきは、時代の終末的待望の雰囲気をよく示しています。すでに洗礼者ヨハネの出現とその告知は終末の切迫を強く響かせていました。そのヨハネが処刑された後、生き返って働いているのだという見方は、イエスが終末到来のしるしであるという見方を強めています。終わりの日の前にエリヤが現れるという待望は、この時代に広く行き渡っていました。また、マラキ以来絶えていた預言の霊の再来は、終わりの日のしるしでした。このような民衆のささやきは、イエスを終わりの日に遣わされると信じられていたメシアではないかという期待が行き渡っていたことを示しています。

 このようなイエスの出来事と民衆のメシア期待の声を伝え聞いた領主ヘロデは、不安に陥り、途方にくれます。もしイエスがメシアとして民衆を糾合して蜂起するならば、自分の支配権力は覆ります。ここでヘロデの心理状態を描く動詞は、自分を見失うほどの強い困惑を指す動詞です。
 マルコは十二人の派遣の記事の後に、ヘロデによる洗礼者ヨハネ処刑の詳しい記事を入れています(マルコ六・一七〜二九)。ルカはヨハネ処刑の経緯には触れず、それがすでに行われたことを、人々の「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」といううわさや、ヘロデ自身の「ヨハネなら、わたしが首をはねた」という独白で示唆するだけです。ヘロデは、洗礼者ヨハネの運動に自分の権力を脅かす危険を感じて、ヨハネを逮捕し処刑しました。今ヨハネの再来として、ヨハネ以上に民衆の終末待望を熱く燃え上がらせている人物が活動しています。ヘロデはこの人物に対して不安を覚えて、こう言います。

 「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」。(九・九b)

 弟子たちは、嵐に向かって命令し、風と波を静めたイエスに驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言いました(八・二五)。ヘロデは不安と困惑から同じ問いを発しました。イエスの側に立つ者も反対の立場に立つ者も等しく問わないではおれないこの問いこそ、福音書全体の主題であり、世界が直面する重い課題です。ルカの物語も、ペトロの告白で迎えるこの頂点(九・二〇)に向かって進んで行きます。

 ヘロデは、このうわさの主、すなわちイエスに会ってみたいと思います(九・九c)。この願いは、イエスが逮捕され、ピラトの裁判にかけられたとき、イエスがヘロデ統治下のガリラヤの民であることを知ったピラトが、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデにイエスを送ったときに実現します(二三・六〜一二)。四福音書の中で、イエスがヘロデの裁判を受けたことを伝えているのはルカだけです。おそらくルカは、ヘロデの宮廷に親しい人物(マナエン)を擁するアンティオキア共同体(使徒一三・一)から、このようなヘロデに関する独自の伝承を得たのでしょう。その出来事を準備する記事として、イエスに会いたいと思ったヘロデの願いを、この段階で入れています。

 

 51 五千人に食べ物を与える(9章10〜17節)

荒れ野の五千人

 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。(九・一〇)

 ガリラヤの各地に遣わされていた「使徒たち」は帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げます。イエスは彼らを連れ、自分たちだけで、民衆に気づかれないように、ひそかにベトサイダという町に退かれます。

 弟子たちの報告を聞かれたイエスは、彼らを連れて「ひそかに」寂しいところに退かれます。マルコは「人里離れた所に行った」と語っていますが、ルカは「ひそかに」と「退く」という表現で、イエスが群衆を避けて、弟子たちとだけで過ごす時をもとうとされたことを示唆しています。このような行動の動機として、マルコ(六・三一)は弟子たちを休ませるためとしていますが、もっと重大な動機と目的があったのではないかと推察されます。おそらくイエスは、弟子たちの報告を聞いて、ガリラヤでの働きの時期が終わりを迎え、いよいよエルサレムに上る時が近づいたことを悟り、それまでに弟子たちに御自身に関する奥義を伝えておく必要を感じて、弟子たちとだけで過ごすことができる寂しい場所に行こうとされたと考えられます。

 イエスと弟子たちがひそかに退いた先として、ルカだけがベトサイダという地名をあげています。もっともマルコも、五千人に食べ物をお与えになった出来事の後、弟子たちをベトサイダへ先に行かせ、後からイエスも湖の上を歩いて行かれたと伝えて、その地名をあげています(マルコ六・四五以下)。イエスが結局はベトサイダに行かれたという事実を、ルカはそれまでの経緯を省略して記述しています。

 ベトサイダは「アンデレとペトロの町(出身地)」であり(ヨハネ一・四四)、イエスがおもに活動されたカファルナウムなどガリラヤ湖西岸からすれば対岸になる湖の東北岸に位置します。イエスは弟子たちを連れてベトサイダの町に行かれたのではなく、その方面の「人里離れた所」(九・一二)に行かれたのです。

 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(九・一一)

 ところが、ひそかに行かれたにもかかわらず、群衆はそのことを知ってイエスの後を追います。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやす活動をされます。イエスは、この招かれざる客である群衆にも、彼らが「飼う者のない羊の群れ」であることを憐れまれて(マルコ六・三四)、懇切に神の恵みのことを語り、病人をいやされます。そのような働きを続けておられる間に、夕暮れが迫ってきます。

 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです」。しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。というのは、男が五千人ほどいたからである。(九・一二〜一四a)

 五千人というのは大変な数の群衆です。そのような大群衆が夜の荒れ野に放置されたら大混乱が起こることは目に見えています。弟子たちがイエスに群衆を解散させるように求めたことも当然です。その求めに対してイエスは、弟子たちが群衆に食べ物を与えるように指示されます。イエスは弟子たちがそんなに多くの食べ物を持ってきていないことは十分知っておられます。イエスは、信じる者たちの群れを養うことは弟子たちの責任であるが、それを成し遂げるのは自分の持ち物(能力)ではなく、神が為してくださることであると教えるために、そのように命じられたと考えるべきでしょう。

 イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。(九・一四b〜一七)

 ここで一体何が起こったのか、これは通常の人間の理解を超えています。「イエスは・・・裂いて弟子たちに渡し」と「すべての人が食べて満腹した」との間には、理解することも記述することもできない深い淵があります。この記事の意義を理解するには、この出来事を目撃して証言した人たち(使徒たち)や、このような物語を語り伝えた人たち(キリスト信仰共同体の人たち)や、それを福音書に書き記した人たち(ここではルカ)の信仰への共感から理解するしかありません。このような記事に直面するわたしたち一人ひとりが自分の信仰の問題として受け取ることが求められます。以下にわたしの個人的な理解を述べておきます。

「パンの奇跡」は何を指し示すのか

 まず荒れ野に男が五千人も集まったという事実から出発しましょう。マルコ(六・四四)の「男五千人」に、マタイ(一四・二一)は「女と子供を別にして」という句をつけて、その群衆が女子供を含む一般の民衆であるという印象を与えていますが、ルカはマルコの通り「男五千人」としています。ヨハネ(六・一、五)は「大勢の群衆」だけで数字はありません。マタイにはその群衆を女と子供を含む一般民衆とする動機がありますから、事実はマルコとルカが伝えているように「男五千人」と見るべきでしょう。「人里離れた」荒れ野に女と子供を含む五千人以上の群衆が集合することは考えにくいことです。

 この事実を当時のガリラヤの状況を背景として見ると、重大な意味が浮かび上がります。当時のガリラヤは、先に「ガリラヤの歴史と社会」で見たように、六年の「ガリラヤのユダ」の蜂起以来、メシア運動が盛んになってきていました。これは、ガリラヤのユダが説く律法への熱意から、異教ローマの支配を覆してユダヤ教律法が支配するユダヤ人国家の樹立を目指す運動です。その運動は、ローマに対する武力闘争も辞さず、霊的カリスマの豊かな預言者的人物が現れると、その人物をメシア(約束されたイスラエルの解放者)として戴き、全ユダヤ人を糾合して反ローマの全面的な抵抗運動に発展する可能性を孕んでいます。これは、ローマの後ろ盾によって権力を保持している領主ヘロデにとっては脅威です。事実ヘロデは、洗礼者ヨハネの運動がそのようなメシア運動になることを恐れて、彼を処刑したのでした。

 ヘロデはヨハネを処刑した後に、彼以上に民衆から広く慕われているカリスマ的な預言者の出現のうわさを聞き、不安にかられます(九・七〜八)。彼はその人物についての情報を懸命に集めたことでしょう。そしてその結果、ヘロデはその噂の主、イエスを殺す決意を固めます(一三・三一)。イエスはすでにガリラヤ中を巡り歩いて「神の国」の近いことを宣べ伝えておられます。また弟子たちを派遣して、御自身と同じカリスマ的なしるしをもって「神の国」の接近を告知されました(九・一〜六)。今やガリラヤ中にイエスの名は響き渡っています。もしイエスが招集の号令をかけられるならば、多くの人たちがはせ参じたことでしょう。

 イエスは号令を発するのではなく、弟子たちだけを連れて「ひそかに」荒れ野に退かれました。しかし、ガリラヤの民衆は待ちきれませんでした。「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」、「エリヤが現れたのだ」、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言って、イエスに対する期待は燃え上がっていました(九・七〜八、九・一八〜一九)。彼らはイエスが荒れ野に行かれたことを知って、今こそその時だとして後を追ったのではないかと考えられます。荒れ野こそ預言者が、そしてメシアが現れる場所です。もちろん、このようなメシア運動にはせ参じるのは男だけです。「人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」(マルコ六・四〇)のも軍隊組織を連想させます。

 このように見るのは全くの推察だけではありません。その出来事の時代に生きた福音書の著者の一人がそう見ているのです。ヨハネは次のように書いています。

 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ六・一四〜一五)

 ここの「イエスのなさったしるし」はパンを増やされた奇跡を指していますが、民衆はそれまでにもすでに十分イエスのしるしを見ています。そして、「この人こそ、世に来られる預言者である」との期待が燃え上がっています。荒れ野に退かれたイエスをこのように大勢の男が追ってきたのは、イエスを「王にするため」、すなわちイエスをメシアとして戴いてローマに対する抵抗運動ののろしを上げるためであったとこの福音書の著者は書いているのです。

 ところが、イエスは期待に燃える民衆を放置して、「ひとりでまた山に退かれた」のです。イエスはこのような「メシア」として世に来られたのではないのです。イエスは、神が自分に与えた使命は、このような地上の権力を用いる解放運動のためではないことを十分自覚しておられました。イエスを神の召しから引き離して、権力による地上の闘争へと誘う誘惑は、イエスの生涯を通してつきまといました。イエスがそのような誘惑と絶えず戦われたことは、「荒れ野の誘惑」の記事を初め、福音書のところどころに垣間見ることができます。ここでも民衆の期待の中にそのような誘惑を見て、イエスはそれを厳しく退け、ひとりで山に退かれます。

 集まった「男五千人」は失望落胆します。群衆だけでなく、それまでイエスにつき従ってきた弟子たちも失望します。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のです(ヨハネ六・六六)。このガリラヤの荒れ野での出来事は、イエスの活動の転機となります。イエスのガリラヤでの活動がその頂点に達したところで、イエスを「王にしようとした」ガリラヤの民衆から離れて、ひとりで受難の地エルサレムに向かわれます。この時イエスのもとから去らなかった十二人の弟子だけ(ヨハネ六・六八〜六九)を連れて旅立たれます。

 ほぼこのような出来事が、ガリラヤの荒れ野で起こったのではないかと推察されます。この出来事は、それを目撃した十二人の弟子たちを通して最初期の共同体に語り伝えられます。最初期の共同体は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食卓で、十字架につけられて死に、三日目に復活して高く上げられて主とされたイエスを礼拝する小さな集会を拠点として活動していました。その食卓では、「これはわたしの体、わたしの血である」という最後の晩餐のときのイエスの言葉が繰り返され、その言葉によってパンを裂き、ぶどう酒の杯を回していました。そのような集会で語り伝えられる荒れ野での出来事の物語が、この食卓の描写や言葉と重なるのは自然な成り行きです。

 この荒れ野での出来事を伝える記事を主の食卓における復活者イエスの現臨を語る記事として読むとき、そこで裂かれて分配されているのは、もはやパンと魚ではなくイエスご自身であることが分かります。イエスはすべての民のためにご自身を捧げ、あがないのための死という神のみ旨にご自分を渡されたのです。こうして民の罪のために十字架の上に血を流されたイエスは、使徒たちの福音告知の言葉を通して、限りなくすべての民に分かち与えられ、それをいただく者に復活されたイエスの命が満ち溢れています。聖霊の分与によって復活者イエスの命をいただく者は「満腹します」。復活のイエスの命の波及には限度はありません。こうして、地上のイエスを語ることによって復活のイエスを告知するという福音書の二重性は、この記事においては、イエスと民衆との悲劇的な決裂という歴史的出来事が、主の食卓における復活者の現臨という福音の中心主題の中に呑み込まれているという形で示されることになります。

 イエスが僅かのパンと魚を群衆に分配しようとされたときに、何らかの不思議な現象が起こったことは十分ありうることです。しかし、わたしたちにはもはや、ガリラヤの荒れ野で実際に起こったことを確認する手がかりはありません。目の前の福音書の記事は、このような信仰の場で語り伝えてこられた信仰告白の記事です。それを語り伝えたパレスチナ・ユダヤ人の共同体は聖書(旧約聖書)に親しみ、壺の粉と瓶の油が使っても使っても尽きなかったというエリヤとサレプタのやもめの話(列王記上一七・八〜一六)や、エリシャが貧しいやもめの一瓶の油で多くの空の瓶を満たした話(列王記下四・一〜七)、またエリシャが僅かのパンで百人の人を満腹させ、食べ残しがあった話(列王記下四・四二〜四四)などをよく知っています。何よりもモーセが荒れ野で天から食べ物(マナ)を降らせて民を養ったことを信じています。彼らは使徒から伝えられた荒れ野での出来事を、預言者以上の方であるイエスが、彼らが行ったこと以上のことを行われた出来事として語り伝えていきます。

 このような信仰の語りにおいては、「パンと杯」と「パンと魚」の組み合わせの違いや、魚も「裂く」対照になっているなどの細かい矛盾は問題になりません。さらに、「残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった」と、福音が世界の諸民族を集めて神の民とすることが「十二」というイスラエルの民を象徴する数で表現されることにもなります。

 また、この伝承を福音書という文書に書きとどめるとき、福音書記者たちはこの荒れ野での出来事を、イエスが「飼う者のない群れ」のような状態の民衆を憐れまれた場面として描きます(マルコ六・三四)。この傾向をもっとも明確に示しているのはマタイです。マタイは、マルコの「男五千人」に「女と子供を別にして」という句をつけて、その群衆が女子供を含む一般の民衆であると明記し、イエスが民衆を憐れまれた出来事として描きます(マタイ一四・二一)。

 こうして、この荒れ野の群衆の記事は、目撃者の証言、語り伝えた共同体の信仰、福音書記者の意図が重なって、その重なりの中で復活者イエス・キリストの福音を世界に告知していることが理解できます。

ルカの省略

 ルカは荒れ野の集まりの記事の後、イエスが湖上を歩かれた出来事や、弟子をつれてティルス、シドン、デカポリス地方に行かれた旅や、もう一度四千人に食べ物をお与えになったことを伝えるマルコ(六・四五〜八・二六)の長い記事をすべて省略して、五千人に食べ物をお与えになった出来事の直後にペトロの告白を続けています。ルカはマルコ福音書に基づいて書いていると考えられるので、なぜこのような大きな部分を省略したのか、その理由とか意図を考えてみざるをえません。もっともこれを省略と見ないで、ルカはマルコに基づいて書いているという仮説(二資料説)を見直す材料にすることもできます。しかし、ここでは省略と見て、その理由を考え、ルカの特色を考察します。

 まずルカは、対岸の地の荒れ野に行かれるとき、弟子たちを先に舟で行かせ、舟が嵐で漕ぎ悩んでいるとき、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたという「湖上歩行」の記事(マルコ六・四五〜五二)を省略しています。この「湖上歩行」の記事は、本来は復活されたイエスの顕現の出来事を、地上のイエスの働きの期間に組み込んだものであることを、前著『マルコ福音書講解T』で詳しく論じました。ルカも復活されたイエスが湖上で嵐のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに現れたという伝承を知っていたのでしょうが、それをマルコのように地上のイエスの物語に組み込むことを必要と考えなかったか、あるいは適切と考えなかったのでしょう。

 復活されたイエスの顕現の記事を地上の働きの期間に組み込むことはルカもしています。先に見たように、奇跡的な大漁の記事(五・一〜一一)はもともと復活されたイエスがガリラヤ湖畔で顕現された記事(ヨハネ二一・一〜一四)をペトロたちの召命記事として組み込んだものでした。ですから、ルカがこのような組み込み自体を不適切としたとは考えられません。むしろ、水の上を歩くという当時の知識人にはあまりにも荒唐無稽と感じさせ、つまずきを与える記事を入れることは避けたのではないかと推察されます。

 次ぎにルカは、イエスが弟子たちだけを連れて北方の異教の地であるティルスとシドンやデカポリス地方に行かれた旅を省略しています。この旅の意義については前著『マルコ福音書講解T』で見ましたが、おそらくルカは、このような記事は異邦人読者には必要がないと考えたのでしょう。その中に含まれるシリア・フェニキアの女の物語(マルコ七・二四〜三〇)も、イエスが異邦人に厳しい態度を示された面があるので避けたかったのかもしれません。この旅の記事に含まれる段落で必要なもの(たとえば清めに関する論争など)は、ルカは他のところで用いています。

 イエスが再び荒れ野で四千人に食べ物をお与えになったというマルコ(八・一〜一〇)の記事をルカが省略した理由は、比較的容易に推察できます。ルカは、マルコに見られる重複記事を一つにまとめて簡略にしていますが、ここもその典型的な例です。もともと五千人に食べ物を与えた記事と四千人の場合の記事は、一つの出来事が別々の経路で伝承され、それがマルコでは別々の出来事として書き記されたものと考えられます。したがって、ルカがそれを一つの出来事としたのは当然です。

 このように、ルカは基本的にはマルコ福音書に従いながらも、自分の著作意図や構想に従って大胆に省略や簡略化をしています。それは、自分が持っている特殊な伝承を多く入れて、自分の著作意図を十分に達成するために、彼独自の構想を貫こうとしたからでしょう。


 52 ペトロ、信仰を言い表す(9章18〜20節)

出来事の場所

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。(九・一八a)

 ルカの書き方からすると、この記事は荒れ野の大集会の直後にあり、イエスはまだガリラヤの荒れ野におられることになります。しかし、マルコ(八・二七)はペトロの告白が行われた場所として、ガリラヤ湖北岸から北へ四〇キロほどにあるフィリポ・カイサリアの地方という地名をあげています。おそらくこのような具体的な地名は、この出来事の当事者であるペトロ自身から出ているのでしょう。マルコでは、ガリラヤの荒れ野での大集会の後、イエスは民衆の追従を避けて、少数の弟子たちだけを連れて、ツロとかシドンという北方異教の地へ旅だっておられます。その旅を終えていよいよエルサレムに向かうために「イスラエルの地」に入ろうとして、その境界の地でご自身にかかわる重要な奥義を語り出されたと見られます。
 ルカはそのような旅の行程や出来事の地名は異邦人読者には必要はないと考えたのでしょうか、すべて省略し、ただ「イエスがひとりで祈っておられたとき」としています。「弟子たちは共にいた」のですから、この「ひとりで」はイエスだけがひとり離れて山や荒れ野で祈られたことを指しているのではなく、「群衆を避けて」弟子たちと一緒におられた状況を指し示しています。マルコの北方の旅の記事は、この時期(荒れ野の大集会から山上の変容に至る時期)がイエスの活動の分水嶺になっていることを印象づけますが、ルカにおいてもそれは同じです。この時以来、イエスはもはやガリラヤの群衆の中に立つことはなく、弟子たちだけと一緒に受難の地エルサレム向かわれることになります。

イエスの問いとペトロの答え

 この状況で、イエスは重大な奥義を語り出すために、弟子たちに問いかけられます。

 そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」。(九・一八b〜一九)

 この弟子の答えは、先にヘロデが聞いて不安に駆られたガリラヤの民衆のうわさ(九・七〜八)と同じです。弟子たちも、ガリラヤの民衆の間にイエスをこのような預言者とする熱狂があることを報告します。「洗礼者ヨハネ」というのは、ヨハネはすでに処刑されていますから、あの大預言者である洗礼者ヨハネが生き返って働いているのだから、あのような奇跡を行うことができるのだという見方です。「エリヤ」は、神が最終的な審判と救済を成し遂げられる直前にイスラエルに送られる預言者であると、当時のユダヤ教で広く信じられていた預言者です。また、イザヤとかエレミヤというような昔の預言者が生き返ってイエスという姿で働いているのだ、というような見方です。ガリラヤの民衆はイエスをそのような預言者と見て、長らく途絶えていた預言の声が再び響き渡り、最終的な解放の時が近いと熱狂していた様子が報告されます。

 それに対してイエスは、弟子たち自身はイエスをどのような方としているのかを問われます。

 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「神からのメシアです」。(九・二〇)

 ペトロが弟子たちを代表して答えます、「神のメシアです」(直訳)。ペトロはイエスを預言者以上の方としています。「メシア」とは、ヘブライ語で「油を注がれた(者)」を意味する語であり、終わりの日に神から油を注がれた者としてイスラエルに遣わされる救済者(解放者)の称号となっていました。イスラエルは長い苦難の歴史の終わりに、神の霊を注がれ(油は霊の象徴です)、神の力をもってイスラエルを解放する「メシア」の出現を待ち望んでいました。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた「メシア」だと言い表したのです。預言者は終わりの日の解放を預言しました。それに対して、メシアはその解放をもたらす方であり、預言者以上の方、預言の成就・実体です。ペトロたちは、イエスと一緒いて、イエスの働きを身近に見て、民衆よりも一歩進んで、そのような確信をもつに至っていました。


 53 イエス、死と復活を予告する(9章21〜27節)

苦しみを受ける人の子

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。(九・二一〜二二)

 このペトロの告白を、イエスは否定はしておられません。しかし、「そうだ、その通りだ」とそのまま認めることもしておられません。むしろ、ペトロの思いと理解を修正するような言葉を語り出されます。この部分は先の「イエスの問いとペトロの答え」(九・一八〜二〇)と一体として読まなければなりません。ペトロのメシア告白は、「ペトロの信仰告白」として独立に扱うべきではなく、ここのイエスの言葉を導入するための導入部です。多くの翻訳は、この新共同訳のように、別の段落に区切っていますが、これは正当な理解を妨げます。手元のギリシア語原典も一八節から二二節までを一段としていて、途中で段分けはしていません。わたしのマルコ福音書の私訳も、この部分(マルコ八・二七〜三三)を一つの段落とし、「苦しみを受ける人の子」という標題で扱っています。

 イエスが「弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」られたのは、イエスがメシアであるという事実ではなく、これから語り出そうとしておられる「受難する人の子」の奥義のことです。この奥義は、時が来るまで弟子たちの間だけに秘められていなければなりません。周囲のユダヤ人にはとうてい理解できないことですが、弟子たちにはそれが起こったときにその意義を悟ることができるように、あらかじめ奥義を語っておこうとされます。

 イエスは、これから向かうエルサレムでは「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」ことが避けられないことを覚悟しておられます。ここで《デイ》という語(英語のmustに相当するギリシア語)が用いられており、「必ず・・・・することになっている」と訳されています。これは黙示思想に特有の「神の必然」を指し示す用語です。黙示思想では、人間には隠されているが神には秘密の計画があり、その神の御計画は必ず実現するという確信が語られています。イエスは、ご自分をイザヤ書五三章が預言したあの「主の僕」として遣わされたとしておられたので、使命を全うして栄光に入る前にこのような受難が必然、すなわち神の定めであることを悟っておられます。そして、その神の定めに身を委ねてゆかれます。その苦しみを逃れる方法があっても、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と言って、その定めに身を委ねられます(マタイ二六・五四)。

 ここで、この受難予告の文の主語が「人の子」であることが重要です。イエスは、受難して復活するご自分のことを「人の子」という語で指しておられます。「人の子」というのは黙示思想の用語であって、今は隠されているが終わりの日に天から現れて神の審判を行い、神の民を救済し、世界に神の支配を実現して完成する超自然的な人物です。その典型的な用例は、ダニエル書七章一三〜一四節に見られます。黙示思想でこのような終末的審判者であり救済者を指す「人の子」という称号を、イエスがどのような意味で用いられたのかは、新約聖書学の難問で議論が続いています。しかし、ここでの用例から、イエスがこの「人の子」という称号をご自分を指すのに用いられたことは確実となります。

 本来終末的・超自然的な栄光の審判者・救済者の称号である「人の子」を、地上で民の指導者から排斥され殺されるご自身を指すのに用いられた事実は、十字架の意義を理解するためにもっとも重要な視点を提供します。その意義を語ることは全新約聖書神学の課題ですが、ここではイエスがご自分の受難を予告するときに「人の子」という称号を用いられたという事実の重要性を指摘し、以下でその経緯に触れるにとどめます。

 エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがご自分の受難を予告された言葉が三回記録されています(ここと九・四四、一八・三一〜三三)。その二回目の予告の文は「人の子は人々の手に引き渡される」という簡潔で、謎めいた言葉です。これがイエスが語られたもともとの予告の言葉であったと考えられます。この予告の言葉が実際のイエスの受難の様子を知っている最初期の共同体で語り伝えられていく過程で、「人の子」を主語にしたまま、すでに知っている実際の殉難の経緯を説明する言葉を加えて、第一回目の予告、第三回目の予告と、よりいっそう具体的で詳しい予告の言葉になっていったと推察されます。とくに第三回目の予告は詳しく、事後に形成された受難史のまとめの様相を示しています。

イエスの叱責の省略

 このイエスの受難予告を聞いたペトロが、「イエスをわきへお連れしていさめ始め」、受難の道を歩まないように説得しようとしたとき、イエスがペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたというマルコ(八・三二〜三三)の記事を、ルカはすっかり省略しています。このマルコの記事は、ペトロの告白とイエスの受難予告の段落(九・一八〜二二)を理解する上で重要な意味を持っています。それだけに、これを省略したルカの理由とか意図を考えざるをえません。

 イエスが「サタンよ、引き下がれ」と激しくペトロを叱責された事実は、ペトロが「あなたは神のメシアです」と言ったときのメシア像が、イエスが使命とされている「主の僕」像とまったく違うことを示しています。この叱責の記事は、ペトロ自身の告白から来ているはずです。ペトロが三回イエスを知らないと言ったことと並んで、このような共同体を代表する使徒ペトロの恥となるような記事を共同体が創作することはありえません。ペトロ自身が深い悔悟の思いをもって告白したことが伝承されて、このような記事になったはずです。

 この時のペトロにとって、メシアとは神の力をもって異教の支配を打ち破り、イスラエルを異教の支配の抑圧から解放して、栄光の時代を来たらせる解放者でした。ペトロが、このような当時のユダヤ教の一般的なメシア理解とは別のメシア像を抱くことなど、どうしてできるでしょうか。イエスが語り出された「イスラエルの指導者たちに排斥されて殺される」メシアなどはとうてい理解できません。思わず「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ってしまうのも当然です(マタイ一六・二二)。 ペトロに対するイエスの叱責は、この時のペトロの告白が当時のユダヤ教のメシア像によるメシア告白であることを証明しています。この理解に基づいて翻訳するときには、ペトロの告白は「あなたはキリストです」ではなく、「あなたはメシアです」が適切となります。「キリスト」という名は、新約聖書では復活者キリストの称号となっているからです。この時点でペトロがイエスを、民の罪のために死んで復活した「キリスト」と告白することはありえません。しかし、もしルカがこのイエスの叱責の記事を省略したのは、このような歴史的状況を捨象して、ここを復活後の共同体が告白している「イエスはキリストである」という告白をペトロが代表して行っていると読んでもらいたいという意図からであるとすれば、「あなたはキリストです」と翻訳するほうが適切となります。ルカがイエスの叱責の記事を省略したことで、そのように読む可能性が出てきます。

 イエスの叱責は、ペトロ本人が語った歴史的事実と見ることができますから、この叱責を伝えているマルコでは、「あなたはメシアです」と訳すのが適切です。ところが、マルコに基づいて福音書を書いたマタイは、この叱責の箇所をより詳しく伝えながら同時に、ペトロの告白の直後にペトロを賞賛する次のような言葉を続けています。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる・・・・」。(マタイ一六・一七〜一九)

 この言葉は明らかに、ペトロの告白を復活者キリストを告白するものとして扱っています。この場合は、ペトロの告白は「あなたはキリストです」と訳すべき場合となります。叱責と賞賛が同居するマタイの記事は、ペトロの告白が最初期の共同体で両方の意味で理解され伝承されていたことを垣間見させます。この同居は、イエス伝承を用いて復活者キリストを告知しようとする福音書の二重性から来ます。

 ルカは叱責の記事を省略することによって、異邦人読者が、ペトロの時の歴史的状況にとらわれず、「あなたはキリストです」という彼ら自身の告白として読むことができる道を開いたと言えます。その省略がペトロの告白に、一人の人間としてわたしたちの中に現れたナザレのイエスを復活者キリストとして告白する福音の基本告白を読む理解を可能にし、その段落(九・一八〜二〇)を独立の段落とし、「ペトロの信仰告白」という標題をつけ、「あなたは神のキリストです」という翻訳を生むことになります。

 

十字架を負って従え ― 第一の語録

 先に九章一八〜二二節は一つの段落として読むべきことを述べました。段落を区切るとすれば、この二三節で新しい段落が始まると見るべきです。一八〜二二節は弟子たちだけとの対話ですが、二三節からは「皆に言われた」言葉が始まります。マルコ(八・三四)はここで明確に、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記しています。この一段(二三〜二七節)は、イエスが様々な機会に語られた語録を一つにまとめて、イエスがご自身の受ける苦しみの秘密を語り出された受難予告の言葉の後に、そのような方に従う弟子に関わるものとして置いたものと考えられます。ここの語録集は、ほぼマルコ(八・三四〜九・一)を継承していますが、マルコにある二三の語句を省略したり、時には付け加えています。

   
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。(九・二三)

 イエスは弟子を召される時、いつも「わたしに従って来なさい」と言っておられました。今地上の歩みの最後の時期を迎えるにあたって、イエスご自身に関する秘密が明らかにされると同時に、弟子としてイエスに「従う」とはどういうことを意味するのか、初めてその内容が明白な言葉で語り出されます。

 弟子たちはいつもイエスと共にいて、その言葉の権威と力ある業に圧倒され、イエスをメシアであると信じるまでになっていました。彼らがイエスにどこまでもついて行こうとしたのは、メシアとしてのイエスがイスラエルを回復される事業に参加して、その栄光に与りたいと願ったからでした。弟子たちは最後まで、エルサレムにお入りになればイエスのメシア的支配がただちに実現するものと期待していたようです。ヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った(マルコ一〇・三五〜三七)のは、このような期待の表現です。ルカにはこの箇所がありません。その代わりルカは、弟子たちは復活されたイエスに対して、イエスがイスラエルを回復される時のことを尋ねていることを報告して(使徒一・六)、弟子たちのメシア・イエスによるイスラエル回復の期待が最後まであったことを示しています。

 そのような理解と期待をもってイエスについて行こうと願っている弟子たちに対して、イエスは全く別の道を指し示されます。イエスはこの世を代表する支配者から投げ捨てられ殺されるのです。そのようなイエスについて行こうと願う者は、自分の理解や期待や願望を捨て、総じて自分自身を否定し、自分そのものを捨てなければ、イエスに従って行くことはできないのです。そして、「自分を捨て」とか「自分を否定して」という生き方が、「十字架を背負って」という句で表現されます。

 イエスがこの句を口にされたことを否定して、これをイエスの十字架の処刑を知っている最初期の共同体が「自分を捨てる」ことの説明として加えたのであるとする見方もあります。しかし、当時のパレスチナではローマ人による十字架刑は決してめずらしくなかったのですから、イエスがこの表現を用いられたことを否定する必要はありません。この句は、「十字架につけられる」ではなくて、「自分の十字架を背負う」という表現が用いられていることが示しているように、十字架上の殉教死を指しているのではなく、むしろ死刑囚が自分がつけられる十字架の木を担って、同胞の敵意と侮蔑の中を歩んでいく姿を指しているのです。ルカがこの句にマルコにはない「日々」という句を加えているのも、このような理解からでしょう。「イエスに従う」とは、イエスと同じく、このような「自分の十字架を背負う」生涯に入ることです。このような生涯を受け入れる覚悟のない者は、イエスについて行くことはできません。そのことをイエスは「塔を完成できなかった人」のたとえと「遠くの敵と和睦する王」のたとえで語っておられます(一四・二五〜三三)。

わたしのために命を失う者 ― 第二の語録

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。(九・二四)

 イエスご自身が自分の命を失うことを通して真実の命にいたる道を歩んでおられます。イエスはご自分の身に成就すべきこの命の秘義を語り出されたばかりです。「失うことによってそれを保つ」という命の世界の逆説ないし秘義は、ルカ一七・三三やヨハネ一二・二五(一粒の麦)で一般的な形で伝えられていますが、ここでは「わたしのため」、すなわちイエスの弟子として、苦しみを受け殺される「人の子」イエスに従うことによって自分の命を失うという関連で取り上げられています。

 自分の力で獲得できるものによって自分の命を保ち豊かにしようとする者は、結局はその命を失うことになります。人間が自分で獲得できるものは、死を超えて人を生かすことはできないからです。命とは自分自身です。自分で自分を救おうとする者は、自分で自分を持ち上げようとするのと同じく、不可能なことを無益に試みているのです。それに対して、イエスに従う者として「自分の命を失う」者、すなわちイエスのために自分を捨て、自分を否定する者は、イエスがそうであったように、自分を神に投げ出しているのです。そのように神に自分を投げ入れる者は、神から真実の命を受ける、あるいは神に真実の命を見いだすことになるのです。神は命そのもの、また永遠の命であるからです。このように、イエスはご自身が歩んでおられる命の道の逆説を弟子たちに語り、その道を共に歩むように招かれます。

 ところが、この御言葉は迫害を受けている最初期共同体の状況においては、緊迫した具体的な問題となり先鋭化します。すなわち、イエスの名を告白する信仰のゆえに受ける迫害の中で、イエスの名を否定して自分の安全を図り、自分の命を救おうとする者は、一時的に命を永らえても、結局神なき絶望の中に滅びることになる。それに対して、イエスを主またキリストと告白し、その信仰のゆえに苦しみを受け、命を失うことがあっても、その人は神から永遠の生命をもって報われる、という内容の御言葉として、迫害の中で信仰の決断を迫る言葉となります。イエスはご自身が苦しみを受けるように、弟子たちにもこの世からの迫害が来ることは避けられないと予見し、くりかえし警告し覚悟を促しておられました。そのような予測の中で語られた言葉として、この御言葉は、迫害の中での信仰告白を求める意味をも担うことになります。

 マルコはこのような状況で聞く言葉として、「また福音のために」という句を加えたのですが、ルカはこの句を加えていません。イエスの弟子たちが受けたユダヤ教側からの迫害も過去のことであり、現在の共同体がローマ社会で認知されることを理念とするルカは、この句を加える必要を感じなかったのでしょう。

たとえ全世界を手に入れても ― 第三の語録

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。(九・二五)

 これは本来一つの諺とか格言であったのかもしれません。たしかにこの言葉は、信仰とは無関係に用いても、どこでも通用する内容です。しかし、現在の連関の中に置かれることによって、この言葉は新しい意味を担うことになります。万人が認める格言が、ここでイエスが用いられると、前節と次節で語られる福音の真理、すなわち自分の命を失うことによって真実の命にいたるという信仰の道を励ます力強い言葉となります。

 人はこの世で自分の命を保ち拡張し栄えようとし、そのためにできるだけ多くのものを自分に獲得しようとします。それに成功して全世界を獲得したとしても、それを所有する自分自身がなくなれば、何の意味があろうか。その時、失われた自分の命を買い戻すために、どんな代価を支払いえようか(マルコにあるこの部分をルカは省略しています)。全世界を差し出しても、命を買い戻すことはできないのです。このように、一般に理解されている格言としては、ここでの「自分の命」というのはこの世の命のことです。けれども、イエスがここで語られている命とは、人がイエスのために失うことによって、神から与えられる真実の命のことです。それを得ることができないのであれば、たとえ全世界を獲得するほどこの世での命が栄えたとしても、何の意味があるでしょうか。この方向で自分を追求するかぎり、その命はやがて必ず朽ち果て滅んでしまいます。

 「人は自分の命を失うことによってその命を救う」というイエスの言葉は、その二つの命が同じ命であるかぎり、解きがたい矛盾です。けれども、イエス復活後、信じる者たちはキリストから賜る聖霊によって新しい命の世界を体験し、自分を失うことによって神から与えられる命は、地上の生まれながらの命とは別種の命であることを知っています。ヨハネ福音書(一二・二五)はその命を「ゾーエー」と呼んで、生まれながらの命である「プシュケー」と区別しました。その新しい命が生まれながらの古い命と決定的に違う点は、それが復活に至る命であることです。このような復活にいたる命に生きる場で聞くとき、「全世界をもうけても」の御言葉はさらに強く終末的な声を響かせます。「人は全世界を獲得しても、自分が死者の中からの復活に達しなければ、その人生に何の意味があろうか。何がなくても、何を失っても、最後に命を失っても、死者からの復活に達するならば、その人生は勝利の人生ではないか」。

イエスを恥じる者 ― 第四の語録

 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」。(九・二六)

 マルコには最初に「神に背いたこの罪深い時代に」という句がありますが、ルカはそれを省略しています。この語録は、「人の子が父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時」のことを語っています。この時のことについては、さらに黙示的な終末予言(二一・五〜三六)において明白に語られることになります。終りの日に人の子が栄光の中に到来あるいは顕現するという発言は、イエスの「人の子」に関する発言の中で最も重要なグループを形成します。

 イエスの時代のユダヤ教には、神が最終的な救いの業を成し遂げてくださる時が近いという終末的な期待が熱く燃えていました。そのような期待の一つの形として、イスラエルを再びダビデ王国のような栄光に回復する「ダビデの子」としてのメシアが待望されていましたが、同時にもう一つ別の形の終末待望がありました。それは、ダニエル書をはじめ第四エズラ書やエノク書というような、当時広く流布していた黙示文書に表されているもので、そこでは天から現われる「人の子」ないし「人」によって最終的な神の支配が顕現するとされていました。イエスはご自分が「ダビデの子」としてのメシアであることは厳しく拒まれましたが、この「人の子」が現われる時のことについては、当時の人々の待望を当然の前提として、黙示文書的な用語で語っておられます(一七・二二〜三七)。

 ところで、イエスが終りの日における神の支配の顕現について語られる時、「わたしが来る時」というように一人称で語られることはなく、いつも「人の子が来る時」というように、誰か別の第三者が来るような形で語っておられます。それで、イエスはご自分とは別の「人の子」の到来を期待しておられたのだという見方が出てくることになります。けれども、ここのイエスの言葉は、来るべき「人の子」とイエスご自身との深い結びつきを示唆しています。たしかに、イエスはまだ「わたしがその人の子である」と明白な言葉では語っておられません。しかし、今地上のイエスとその言葉に対してどのような態度を取るかによって、終りの日に「人の子」とどのような関わりに入るのかが決められるというのです。そうであれば、イエスと「人の子」は別の人格ではありえません。この言葉を語られたイエスは、地上では投げ捨てられ殺されるご自分を、栄光の中に顕れるべき「人の子」と同一視しておられたことになります。これは「人の子の奥義」に属することであって、この言葉は弟子たちにとってはまだ謎であったことでしょう。

 イエスとその言葉を「恥じる」という表現については、同じ事柄について伝承されている別の語録がその意味を明らかにします。

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。(一二・八〜九に)

 「恥じる」とは、《ホモロゲオー》すなわち「(仲間であると)言い表す」とか「告白する」の反対で、「(知っている者を)知らないと言う」とか「否認する」ことです。「恥じて拒む」です。まさにペテロがイエスの裁判の時に取った態度です(二二・五四〜六二)。今この地上でイエスとの関わりを否定する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」と何の関わりも持ち得ない者です。そして、地上のイエスを告白する者は、「人の子」が栄光の中に顕れる時、「人の子」に属する者として受け入れられ、その栄光に与るのです。

 これは、イエスの人格とわたしたちの終末信仰について、きわめて重要な意義をもつ言葉です。わたしたちにとって、終末が将来どのような形で到来するのかを議論したり知ることではなく、今イエスとその言葉に対してどのような態度を取るか、すなわちこの地上の生涯においてどれだけ忠実にイエスに従うかが、決定的な意義を持つことになります。

 今は「神に背いた罪深い時代」です。神がイエスによって最終的な業を成し遂げようとされているこの時に、そのイエスを殺そうとする態度に、この時代の神への反逆と根源的な罪があらわになっています。このようなイエスへの憎しみと迫害の中にある最初期の共同体にとって、この御言葉は文字どおり自分の命をかける言葉でした。イエスを憎み罵倒する群衆の面前や、神の支配を認めようとしない人間の法廷で、今イエスを告白するか否認するかが来るべき栄光に与るか否かを決めることになります。多くの信者が文字どおり命をかけてこの御言葉に従ったのでした。彼らにとって、終末信仰とは現在の命をかけた事柄でした。そしてこの事は、「この時代」だけでなく、イエスに反抗する「この世」に生きるすべての者にとって同じです。

神の国を見るまでは死なない者がいる ― 第五の語録

 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」。(九・二七)

 この御言葉も他の関連で語られたものを、イエスのために苦しみを受ける弟子に関わるものとして、ここに加えられたと考えられます。ここでは、栄光の時の到来が、「人の子」の到来としてではなく、「神の国が力をもって来る」と表現されています。この御言葉の直接の意味は、今ここに一緒にいる弟子たちの中には、迫害の中で殉教の死を味わう者も多くいるであろうが、ある者はその生存中に「神の国」が栄光の中に現れるのを見ることになる、それほど「神の国」の到来は切迫している、ということであり、弟子たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに「人の子」が来ると言われた御言葉(マタイ一〇・二三 これも迫害に関連した言葉です)とほぼ同じことを意味しています。

 ところで、イエスが「人の子が栄光の中に現れる」とか「神の国が力をもって来る」とか言われる時、それはご自分の受難の後に続いて到来するはずの将来の栄光の事態を一つのものと見て語っておられるのです。後の共同体が復活、昇天、再臨と呼んだ事態が、区別されることなく一つのものとして語られています。たしかに、イエスが復活された時、「神の支配」は死にも打ち勝つものであることが現れ、弟子たちは地上のイエスの中に隠されていた「神の国」が「力にあふれて現れるのを見た」のでした。復活されたイエスに出会った弟子たちは、イエスが主またキリストとして立てられ、神の右に座す方となられたことを知りました。しかし共同体は現実には迫害の中にいます。主イエスの主権はまだ世界に確立されていません。それが確立される時、すなわち主イエスがその栄光と権威をもって世界に臨まれる時はまだ将来です。その時のことを、共同体はあらためて「来臨(パルーシア)」とか「顕現(アポカリュプシス)」の時と呼んで(「再臨」は後の時代の呼び方です)、その到来を熱く待ち望みました。このように、イエスにおいては一つの事態と見られていた将来の栄光の顕現は、復活後の共同体においては、すでに起こった「復活・昇天」と将来起こるべき「来臨・顕現」とに分かれることになります。そして共同体は迫害の中で、聖霊の力強い働きと、「死なない者がいる」というこの御言葉に励まされて、自分たちが生きているあいだに主の「来臨」があるという熱烈な待望に生きることになります。

 初代の信者たちがこのような信仰に生きていたことは使徒の書簡にも証言されています。パウロは、「主の来臨」の前に「眠りについた(死んだ)人たち」が出たことを意外なこととして驚き嘆いている信者たちを励ますために手紙を書いており(テサロニケT四・一三〜一八)、その中で「主が来られる日まで生き残るわたしたち」(一五節)と言っています。また他の所で、「わたしたちは皆が眠りにつく(死ぬ)わけではありません。…最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、(地上に生存している)わたしたちは変えられます」とも言っています(コリントT一五・五一〜五二)。このように、聖霊の力強い働きによって復活の主イエスとの生き生きとした交わりに生きる者にとっては、自分が死ぬという事実よりも主が来られるという事実の方がより差し迫ったものになっているのです。その時に自分が「覚めているか眠っているか」はどちらでもよいことになります。主が来られるという事実の前で、自分の生と死は相対化されてしまっています。「死なない者がいる」と言われたイエスの御言葉は、このような形で信じる者たちの中に生き続けたのです。


 54 イエスの姿が変わる(9章28〜36節)

山での祈り

 ガリラヤでの「神の国」告知の活動を終えて、いよいよ神から与えられた使命を果たすためにエルサレムに向かう時が近づいたことを悟られたイエスは、弟子たちに「苦しみを受ける人の子」の奥義を語り出されました(九・二一〜二二)。それは、エルサレムでそのことが起こった時に備え、弟子たちを整えるためでした。十二人の弟子にこの奥義を語り出された後、イエスは最後の旅程の一歩を踏み出すにあたって、一人父との交わりに没入しようとされます。このときイエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブの三人を連れて行かれます。この三人はゲツセマネの祈りのときと同じです。ここの山での祈りとゲツセマネの祈りは、受難の旅の始めと終わりに位置して、対応しています。おそらくイエスは、この祈りの場で与えられる秘義の啓示について、この三人を証人として側におらせようとされたのでしょう。

 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。(九・二八)

 マルコとマタイは「六日の後」としています。どの出来事から「六日の後」であるのか明示されていませんが、ルカは「この話をしてから八日ほどたったとき」と書いて、イエスが「苦しみを受ける人の子」の奥義を語り出されたときからであることを明記しています。この書き方は、これから山で起こる出来事が、先に語り出された「苦しみを受ける人の子」の奥義と深く関わるものであることを示しています。

 この山上の出来事は、ペトロが「仮小屋を三つ建てましょう」と言っていることから、仮庵祭の季節であったと見られています。仮庵祭は、ユダヤ教の三大巡礼祭の一つで、秋の収穫を祝う祭りであると同時に、ユダヤ人は一週間木の枝で造った仮小屋で暮らして、荒れ野を旅した出エジプトを記念しました。同時に、この時代のユダヤ人にはメシア到来への願いが熱く燃える希望の祭りでもありました。

 この仮庵祭は、年に一回大祭司が至聖所に入って民のために贖罪の儀式を行う「大贖罪日」《ヨム・ハ・キップリーム》の「六日後」に始まり、七日間続きます。もしイエスがエルサレムで贖罪の山羊が屠られる「大贖罪日」の祭儀が行われている時期を選んで「苦しみを受ける人の子」の奥義を語り出されたのであるとすれば、それから六日後でも八日後でも仮庵祭の時期になるので、そこで民の指導者によって殺される方の隠された栄光が現れ出るという、意義深い背景を形成することになります。

イエスの変容

 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。(九・二九)

 イエスが祈りの中で父と深く交わり語り合っておられるとき、モーセ以上に父と顔と顔を合わせて語り合い、父の御顔を見ておられるイエスの子としての本質が、その姿に輝き出てきます。聖霊に満たされて語るステファノの顔が「さながら天使の顔のように見えた」(使徒六・一五)とありますが、ここでは父と一つとなって父と語り合っておられるイエスの子としての本質(本来の姿)が、まとっておられる人間の形を貫いて輝き現れて、三人の弟子たちに啓示されたのです。

   また、同時にイエスの服が真っ白に輝きます。「白い衣」は、エノク書などの黙示文書において終わりの日に現れる神の民の衣服として描かれています。それはヨハネ黙示録に継承されています(黙示録七・九〜一七)。また、黙示文書では、終末時には義人たちの姿はこの世のものならぬ光輝に変わることが語られていました(シリヤ語バルク黙示録五一)。福音も終末におけるキリストの来臨《パルーシア》の時には、キリストに属する者たちは変容を体験すると語っています(コリントT一五・五一、フィリピ三・二一)。ここで「イエスのお顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」のは、この終末時に起こることとして待ち望まれていたことが、今イエスの身に起こったと証言しているのです。

モーセとエリヤが現れる

 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(九・三〇〜三一)

 マルコ(九・四)は「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と書いています。エリヤは終わりの日が来る直前に再来すると期待されていた預言者です(マラキ四・五)。そのエリヤが現れたことで、イエスの出現が終わりの日の出来事であると指し示されているのです。そのことは、山を下りるときのイエスと弟子たちの対話(マルコ九・一一〜一三)にも示されています。ここでは、エリヤが現れたことが主題です。そのエリヤが「すべてを元どおりにする」というのは、モーセによって結ばれたシナイ契約の回復のことを指しているので(マラキ四・四)、モーセが一緒に現れることになります。
 ルカは(そしてマタイも)そこを「モーセとエリヤが現れた」と、二人を対等に並べています。これは、モーセが代表する律法とエリヤが代表する預言の両方が、これからイエスの身に起こることを神の終末的な救済の出来事と証ししていることを示すためです(二四・二七、四四参照)。ルカにおいては、モーセとエリヤは律法と預言を代表して、すなわち全聖書を代表して、イエスにおける救いの出来事を証言する者です。その役目は神の最終的な御業を指し示すという栄光ある役目ですから、二人は「栄光に包まれて現れ」ます。

 モーセとエリヤの二人は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」について話していたとありますが、ここの原文は「イエスがエルサレムで満たす(果たす、成し遂げる)ことになるご自身の《エクソドス》」です。モーセとエリヤが現れたことはマルコとマタイも語っていますが、その話題がエルサレムにおけるイエスの《エクソドス》であったことはルカだけが伝えています。ルカは、マルコとは別の伝承を用いることができたのでしょう。
 この《エクソドス》という語は「出て行くこと」を意味する名詞で、七十人訳ギリシア語聖書ではイスラエルが奴隷の家エジプトから脱出したことを物語る書(モーセ五書の第二の書)の標題にもなっています。ここでは、イエスがこの世から「出て行かれること」を意味し、イエスが十字架の死と復活によって、この世から出て天上の世界に去って行かれることを指しています。それは、イエスが父から与えられた使命を果たすことですから、イエスが「満たそうとされている《エクソドス》」という表現で語られています。

ペトロの啓示体験

 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(九・三二〜三三)

 先にこの時の山上の祈りはゲツセマネの祈りに対応していることを見ましたが、同行した三人の弟子が眠気に襲われたことも同じです。ここの表現は「眠りに押さえつけられていた」というような動詞が用いられています。マタイ(二六・四三)は同じ動詞をゲツセマネの祈りの場面で用いています。ここでもゲツセマネでも同じですが、そのような緊迫した状況で弟子たちが自然に眠くなることはありえません。弟子たちは何か霊的な力を受けて、通常の状態を超えた意識状態(一種のエクスタシーの状態)にされたと考えられます。そのような特殊な意識状態で、ペトロたちは御霊による幻(ビジョン)を体験します。ここではイエスの隠された栄光を啓示され、ゲツセマネではイエスの苦悩の祈りの中身を聴き取ることになります。
 このような御霊による霊視霊聴の体験はパウロも体験し書き記しています。パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と言って、次のように言っています。

     「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園(パラダイス)にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」。(コリントU一二・二〜四)

 これはパウロ自身の体験ですが、このような体験をペトロたちがイエスが地上におられるときにしたとしても不思議ではありません。聖霊は人の思いと限界を超えて自由に働かれるからです。山上の出来事はペトロたちの啓示体験であったのです。

 ペトロと仲間はすでに二人の人(モーセとエリヤ)が現れてイエスと語り合っているのを見たと言われています(三〇〜三一節)。それが、「眠りに押さえつけられていた」特殊な意識状態で見たのであることがここで説明され、その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロが思わず言った言葉も、このような状態での発言であることが明らかにされます。「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」のです。

 ペトロは三つの仮小屋の建設を提案します。仮庵祭の時期のユダヤ人にとって、祭りを祝うために仮小屋を建てることは当然の着想です。今はエルサレムから遠く離れているが、律法と預言者によって証しされたメシアであるイエスがここにおられる以上、メシアの到来を祝ってここで仮庵祭をするのが当然ではないか。ペトロはこのように考えたのでしょう。

雲の中からの声

 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(九・三四〜三五)

 マルコでは、栄光の中に現れた方に接して恐れている弟子たちに雲が現れ、その中から声が聞こえたのですが、ルカでは雲が現れ弟子たちを覆ったので、彼らは大いに恐れたとなっています。原因と結果が逆になっています。

 聖書において、雲は神の臨在の現れです。神が臨在される「臨在の幕屋」は雲に覆われました(出エジプト記四〇・三四)。弟子たちは聖なる神の臨在に触れて、恐れおののいたのです。この恐れは、人間が聖なる方に出会うときに感じる本性的な畏怖です。この時、弟子たちはもはや「眠りに押さえつけられていた」状態ではなく、はっきりと覚醒して、聖なる方の臨在を感じることになります。

 その聖なる臨在の中から声が聞こえてきます。姿は見えませんが、聖なる人格に対面していることがはっきりと感じられる霊的な場において、その人格から発せられる言葉を聞く体験は、モーセをはじめイスラエルの預言者たちの系譜を形成します。ペトロたちはこの山で、神の臨在の中から発せられる言葉を聞くという預言者的な体験をします。

 その声は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言います。その声の「これは」は、イエスを指していることは明らかです。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」のですから(次節)。このナザレのイエスこそ、神が選ばれた子であるという宣言です。この神の宣言を聞いたのは、ペトロたち三人だけでしたが、この神の宣言は、やがてペトロたちを通して世界に響くことになります。

 イエスこそ、神から「わたしの子、選ばれた者」と宣言された方です。人類の全歴史で何億人いるか数えることができない人間の中で、天地の創造者なる神は、イスラエルをご自分の民として選び、イスラエルの中で語ってこられましたが、今やそのイスラエルの中でナザレのイエスを選び、この方を御自身の子として御自身の本質を宿らせ、この方を通して世界に語りかけられるのです。ですから、「これに聞け」ということになります。これは、弟子たちだけに求められることではなく、全世界に神が求められることです。世界は、ナザレのイエスを神が選ばれたただ一人の子、神の本質を宿し、神を啓示する唯一の「神の子」として、この方に聴き従わなければならないのです。

 この時ペトロたちが聞いた言葉は、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになったとき天から聞こえた声(マルコ一・一一と並行箇所)と似ていることから、両者の関係が問題とされています。しかし、そこでは天からの声はイエスに向かって発せられ、イエスだけがその声を聞かれたのでした。その声はイエスに向かって「あなたは」と語りかけています。そのイエスの体験が何らかの形で伝承されて、イエスの受洗記事となったのですが、ここでは雲の中からの声はペトロたちに向けられ、「これは」とイエスを三人称で指しています。しかし、内容は同じです。イエスこそ神が選ばれた子、神の心に適う方です。イエスがそのような方であるという告知が、全新約聖書の核心となります。

弟子たちの沈黙

 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(九・三六)
 「その声がしたとき」、啓示の出来事は完結します。ペトロたちは眠りに押さえつけられた状態からも、雲に覆われたときの恐れからも解き放たれて、正常の状態に戻ります。そのとき彼らが見たのは、自分たちの前におられるイエスお一人だけでした。弟子たちは改めて、いま目の前におられる、普段自分たちが師事しているイエスが、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神から宣言される方であると知り、畏怖の思いをもってひれ伏したことでしょう。

 弟子たちはここで体験した不思議な啓示体験をしばらくはだれにも話しませんでした。「当時」(直訳は「それらの日々には」)とあるのは、その出来事の直後しばらくはということで、ある時から弟子たちはこの体験を語り出したことを意味します。語り出したからこそ、それが伝承されてこの福音書の記事になったのです。では、弟子たちはいつからこの体験を語り出したのでしょうか。

 このことについてはマルコの記事が示唆を与えています。マルコ(九・九)に、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」とあります。弟子たちが「沈黙を守った」のは、「今見たことをだれにも話してはいけない」というイエスの命令に従ったからです。ルカはその理由を省略し、沈黙の事実だけを伝えています。イエスが沈黙を命じられたのは、苦しみを受ける人の子の奥義について沈黙を命じられたのと同じ理由であると考えられます(九・二一参照)。このようなイエスの栄光の喧伝は、時代のメシア待望の火に油を注ぐことになり、イエスが歩もうとしておられる道の妨げになるからです。

 しかし、その沈黙の命令には「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限が付けられています。すなわち、弟子たちは復活されたイエスの顕現に接した後では、この山上での不思議な啓示体験を語り出したということです。そのことは、ペトロから出た伝承を用いていると見られるペトロ第二書簡(一・一六〜一七)にも響いています。

 復活されたイエスの顕現を体験した後に、復活者イエスの告知の中でこの山上での啓示が語られると、復活されたイエスの顕現と山上でのイエスの栄光の姿への変容は重なってこざるをえません。山上の変容の記事は、復活されたイエスの顕現の体験が、イエスの地上の働きの時期に置かれたものであるという理解が生まれるのも当然です。事実、マタイ福音書(二八・一六以下)は復活されたイエスの顕現をガリラヤの山で起こったこととしています。わたしたちはすでにそのような事例を見てきました。奇跡的な大漁の記事(五・一〜一一)や湖上を歩かれるイエスの記事(マルコ六・四五〜五二)は、そのような性格の記事でした。

 しかし、この山上の変容の記事は、ペトロたちがイエスと一緒にいた時期の出来事であると理解すべきです。その出来事の場所と日時も具体的に特定されています。さらに、山上でイエスの栄光の姿を見るという体験は、どうしようもない眠気や雲に覆われての恐れなど、復活されたイエスの顕現の場合と違い、弟子たちの特異な状態が伴っています。まだ肉体の中におられるイエスの栄光は、そのような啓示を受ける者の特異な状態の中でのみ啓示されることができたのです。復活されたイエスの顕現の場合は、そのような特異な状態は必要ありませんでした。
 ガリラヤでの「神の国」告知の働きを終え、いよいよ受難の地エルサレムに向かわれるとき、イエスはその苦しみを受ける卑しい姿の中に神の子としての栄光を宿す方であることが、弟子団の中核部を形成する三人に啓示されます。この啓示体験が、イエスの十字架上の刑死という状況で、弟子団が最終的な崩壊に至らなかった根拠となったのではないかと推察されます。


 55 悪霊に取りつかれた子をいやす(9章37〜43節a)

癲癇(てんかん)の子

 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。(九・三七)

 ここからエルサレムに向かう決意をされるところ(九・五一)まで、ルカはマルコに従って物語を進めていきます。山を下りられたところで悪霊に取りつかれた子をいやされた出来事が置かれていることも同じですが、マルコの記事と較べると、ルカは大幅に簡略化しています。

 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」。(九・三八〜四〇)

 この子の症状は癲癇(てんかん)と呼ばれる病気の典型的な症例です。癲癇(てんかん)は、反復性の発作をおもな症例とする慢性の脳疾患で、青春期とか幼少期に発病する場合が多い病気です。発作は一、二分の短いものから、数時間、数週間に及ぶ場合もあり、発作が起こると、痙攣(けいれん)だけでなく、意識や感情、感覚や運動など精神と身体の全般にわたる症状が発作として現れます。現在ではそのような発作が脳の障害から来るものであることが分かっていますが、古代の人々は他の病気の場合と同じくそれを悪霊の仕業としていました。

信仰のない時代

 イエスが山におられる間に、この癲癇(てんかん)の子をもつ父親が麓に残っている弟子たちに、悪霊を追い出すように頼みましたが、弟子たちはそれができませんでした。それで、山から下りてこられたイエスを見た父親がイエスに頼むことになります。この状況をごらんになったイエスは嘆かれます。

 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい」。(九・四一)

 この言葉は、父親だけでなく弟子たちをも含め、イエスを取り巻いている群衆に向けられています。イエスは、この終わりの時に神から遣わされた者を迎えるイスラエルの不信仰を嘆かれます。この決定的な時を迎えるこの時代のイスラエルは、信仰によって、すなわち神から来られたイエスを受け入れ、神に立ち返ることによって、悪霊から完全に解放されて栄光の姿になっていなければならないのに、イエスを信じることなく、いつまでも神に背を向けたままで、悪霊の支配から解放されないでいる現状を嘆かれます。

 イスラエルがそのような状態であるので、神の力を宿すイエスが、民の苦しみを救うために日夜働かなければならい状況が続きます。そのことをイエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆かれるのです。そして、「あなたの子供をここに連れて来なさい」と言われます。ここまでは、その子の状態についての父親の説明だけでした。ここでイエスは、悪霊に取りつかれて苦しんでいる本人自身をみもとに来させます。

神の大いなる力

 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。(九・四二a)

 その子が連れてこられる途中でも、癲癇(てんかん)の発作は続きます。その子が連れてこられると、イエスは悪霊を叱り、その子をいやされるのですが、その前に、その発作を起こしている子を前にしてイエスと父親との間に交わされた重要な対話をルカは省略しています。

 マルコ(九・二〇〜二四)によると、イエスが父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになると、父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」とこれまでの惨状を訴えます。そして、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願います。それに対してイエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と断言されます。その子の父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びます。

 ルカが伝えていないこの一段は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という父親の叫びに「絶信の信」の消息が示されており、わたしたちの信仰理解にとって重要な箇所ですが、なぜかルカはそれを省略しています。これを省略と見るかどうかは問題ですが、ルカが示している簡略化の一例であるとすると、その簡略化によってわたしたちは信仰についての大切な示唆を失うことになり、福音書が四つあることの重要性を改めて痛感します。

 イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。(九・四二b)

 ルカは、イエスがなされた驚くべき大いなる業を、きわめて簡潔な筆致で描きます。ナインのやもめの息子の場合も、「イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」と、きわめて簡潔に語られています(七・一四〜一五)。ここでも「汚れた霊を叱り」と、一言葉で誰もいやせなかった難病の子供をいやされたことが簡潔に語られます。いやされた子を親に「返された」というのも、ルカ独自の表現です。そして、その結果も簡潔に表現されます。

 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。(九・四三a)


 56 再び自分の死を予告する(9章43節b〜45節)

謎の言葉

 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。(九・四三b〜四四)

 エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがご自分の受難を予告された言葉が三回記録されていますが(九・二二とここと一八・三一〜三三)、ここに置かれている二回目の予告の文、「人の子は人々の手に引き渡される」という簡潔で謎めいた言葉が、イエスが語られたもともとの予告の言葉であったと考えられます。先に見たように、イエスが話されたアラム語では、人を指すのに「人の子」という表現が用いられました。それで、イエスは「人の子は人の子らの手に引き渡されようとしている」と語られたと推察されますが、その言葉はアラム語を母語とする弟子たちには「人は人々の手に引き渡されようとしている」という謎の言葉《マーシャール》になります。この謎の言葉を聞いた弟子たちの困惑と恐れが次のように記述されています。

弟子の無理解

 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(九・四五)

 イエスはエルサレムに向かう旅の途上で、ご自身の受難を予告されましたが、それがこのような謎の言葉でなされていたため、弟子たちはその意味が理解できず、イエスのように神の力をもって大いなる奇跡を行い、メシアとして来られた方が殺されるようなことは、最後の最後まで予想することができませんでした。ルカは、そのような弟子たちの無理解を、「彼らには理解できないように隠されていた(=神が隠しておられた)のである」と書いて、神の計らいの結果であるとしています。弟子たちは、「引き渡される」という言葉が示唆する悲惨な結末を聞くのを恐れて、その言葉の意味をイエスに尋ねることすらできませんでした。これは、イエスがすでにご自分が殺されることを明白に語り出されたとする記事(九・二二)と矛盾するようですが、その時の弟子たちの実際の姿としては、イエスの謎の言葉に戸惑い恐れている姿が事実でしょう。

 このように、ルカは弟子の無理解を率直に伝えています。イエスはエルサレムにおける受難を予告されたにもかかわらず、弟子たちはそれが理解できず、自分たちのメシア期待に燃えてエルサレムに向かって旅をします。同じくエルサレムに向かいながら、イエスと弟子たちは別の道を歩んでいるのです。イエスは受難の道を、弟子たちはメシアの栄光と支配の道を歩んでいます。

 そのことは、弟子たちが仲間の中でだれがいちばん偉いかという議論をしていたという事実からもうかがわれます(次の段落)。ルカは伝えていませんが、マルコ(一〇・三五〜三七)によるとエルサレムに入る直前、ゼベダイの子のヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と頼んでいます。これも、弟子たちが直前までいかにイエスの受難の道を理解せず、違った道を歩んでいたかを示しています。イエスはこの旅をも、弟子たちに神の国の奥義を教えるための期間としなければなりませんでした。それほど長い旅ではなかったはずですが、ルカはこの旅の期間にイエスの教えをぎっしりと詰め込んでいます。


 57 いちばん偉い者(9章46〜48節)

小さい者

 イエスが語り出された受難の予告を理解できない弟子たちは、自分たちの理解でメシアとしているイエスがエルサレムに入られる時に実現する栄光を期待して、その時には「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論をし始めます。

 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。(九・四六)

 この場面も、ルカはマルコ(九・三三〜三七)の記事をかなり大幅に簡略化しています。マルコによると、この場面は一行が山から下りてカファルナウムに帰って来たときの出来事になっています。イエスはいよいよ受難の地エルサレムに旅立つ前、ガリラヤ伝道の本拠地となっていたカファルナウムでしばしの時を過ごされます。その時にもなお、人の上に立つことだけを考えている弟子たちに、イエスは神の国における在り方を教え諭さなければなりませんでした。イエスは一人の子供の手を取り(マルコではさらに「抱き上げて」)言われます。

 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われます。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。(九・四七〜四八)

 イエスが指し示される「子供」は、無邪気とか純粋さの象徴ではなく、自分では何もできない「小さい者、低い者」の象徴です。存在する価値もないとして社会で無視されている者の象徴です。このような「小さい者」を「イエスの名のために受け入れる」とは、イエスがそのような小さい者を愛し、ご自分を一つにしておられる故に受け入れることです。自分にはそうする理由は何もありませんが、イエスがそうされ、またわたしたちにそうすることを願われる故に、そのような小さい者を受け入れ、自分をその小さい者と同じ場に置くことです。

 そのように「小さい者」を受け入れる者は、イエスを受け入れているのです。その「小さい者」とイエスが一つになっておられるからです。そして、そのようにイエスを受け入れる者は、イエスをお遣わしになった方、すなわちイエスの父を受け入れているのである、とイエスは断言されます。これは大変な宣言です。神を自分の中に迎え入れ、神と共に生きることは人間の究極の境地です。その境地に到達する道が、ここにじつに大胆に提示されています。神と共に生きる境地に到るのは、特定の宗教に精進してその奥義を究めた者ではなく、イエスの名によって「小さい者」を受け入れて生きる者であるというのです。神に最も近いのは、諸宗教の高位の聖職者ではなく、日常の生活の場で「小さい者」と苦しみを分かちながら共に生きている「小さい者」たちです。真剣に受け取れば、このみ言葉はあらゆる宗教制度を粉砕する爆破力を秘めています。

 こうして、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論をしている弟子たちに、イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と、神の国での価値の物差しを明示して、弟子たちを諭されます。人の価値を測る物差しが、神の国と人間社会では全然違うのです。人間社会では、その能力によってどれだけ多くの人や物を支配するかで価値が測られます。しかし神の国では、大きな能力のある者がどれだけ自分を小さく低くすることができるか、そうすることによってどれだけ多くの人に仕え、どれだけ有効に役立つことができるかで測られます。この観点からすれば、イエスこそ最も偉大な人物、あるいは偉大な人物の原型であると言えます。


 58 逆らわない者は味方(9章49〜50節)

一致の土台

 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」。(九・四九)

 原文では「そこでヨハネが答えて言った」とあります。これはイエスが「わたしの名のゆえに」と言われたことを受けて、ヨハネが言った言葉としてここに置かれたのでしょう。「わたしたちと一緒にあなたに従わない」とか「わたしたちの仲間にならない」(マルコ)という表現には、最初期の諸共同体の間で自分たちのグループに所属しない者たちのイエスの名による活動を禁圧しようとした状況が重なっていることを感じさせます。この状況は現代の教派・教団の間で、自分たちに所属しない者を異端として禁圧し、対立抗争する姿を連想させます。

 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」。(九・五〇)

 自分のグループに属さない人たちが進めるイエスの名のための活動を、このように自分に味方するものとして受け入れることが、イエスが求められるところであり、イエスに属する者にふさわしい姿勢です。その姿勢はパウロにも見られます(フィリピ一・一五〜一八)。このように自分たちのグループの在り方を絶対化しないことが、キリストの民の一致の出発点であり土台です。

 


 

  第一部をふりかえって

 

マルコ福音書の三部構成とルカの福音書構想

 ルカはマルコ福音書を知っていたと考えられます。それが現在わたしたちが持っているマルコ福音書とまったく同じものか、少し違った形のものかは議論のあるところですが、ほぼ現在の形で流布していたマルコ福音書を手元に持っていたと推察されます。マルコ福音書は地上でのイエスの働きを、ガリラヤでのいやしと教えの働き、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三部構成で描いています。しかし、実際のイエスの働きや出来事はこのように単純ではなかったと考えられます。ヨハネ福音書によると、イエスは地上の働きの期間、何回もガリラヤとエルサレムを往復しておられます。ヨハネ福音書は、イエスの実際の働きを目撃した証人から出た伝承を用いていると見られ、この方が実際のイエスの出来事に近いと見られます。マルコ福音書の構成、すなわちガリラヤでの働き、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難という三部構成は、イエス伝承を用いて十字架・復活のキリストを告知しようとする目的のために構想されたもので、実際の出来事の順序通りに記述された歴史ではありません。

 ルカはヨハネ福音書を知りません。ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体は、少なくとも後期にはエーゲ海地域でエフェソを中心として活動していたのですから、エーゲ海地域をおもな活動地域としていたルカもその伝承と何らかの接触をもっていたかもしれません。しかし、ヨハネ福音書はまだ成立していないか、あるいは流布していない状況であったと考えられます。ルカは、自分の時代のキリストの民のために福音書を書こうとしたとき、マルコ福音書の三部構成に従って、自分の福音書を構想します。おそらくルカの時代には、マルコ福音書は使徒ペトロが伝えたイエスの物語から出たものとして、権威ある文書として流布していたと見られます。ルカがこのマルコ福音書の三部構成に基づいて自分の福音書を構想したのも当然です。ルカ福音書もマルコ福音書と同じく、イエスの出来事を、ガリラヤでの「神の国」告知の働き、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三部構成で描くことになります。

 しかし、ルカはマルコ福音書にはない多くの資料を手元に持っています。「語録資料Q」とルカ特殊資料Lです。これらのマルコにはない資料を活用してさらに豊かな内容の福音書を書くために、ルカはこれらの資料を第二部のエルサレムへの旅の区分に置きます。ガリラヤでの働きを描く第一部と、エルサレムでの受難を語る第三部では、記事の内容も順序もほぼマルコに従っていますが、第二部のエルサレムの旅を扱う部分では大きくマルコから離れています。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれていますが、旅行の行程に触れるところはごく僅かで、ほとんどは旅行の行程とは関係のない物語で占められています。第二部は、ガリラヤとかエルサレムという地理的な枠組みから解放されて伝承資料を用いることができる一種の物語空間を形成しています。

 こうして、ルカ福音書第二部はルカの特色がもっともよく出ている部分になるのですが、その内容と順序については第二部の講解で扱うことになりますので、第一部の講解を終えたこの時点で、第一部をふりかえって、第一部に見られるルカの特色をまとめておきたいと思います。


第一部におけるルカの特色

 第一部ではルカは基本的にマルコに従っているとはいえ、マルコ福音書を引き写しているのではありません。当然のことながら、同じ内容のことを伝えるときも、文体はルカのものになります。たとえば、マルコは「直ちに」という語を、おもに「そして直ちに」という形で四一回も用いて、物語を続けて行きます。ところが、ルカが「直ちに」という語を用いるのは(全体で)三回だけで、マルコが「そして直ちに」としているところを、「そして」とか「ところで」とか「そこで」とかに言い換えたりしています。「そして直ちに」という句の連続した繰り返しによる直截的ではありますがやや単調で稚拙な感じのするマルコの文体を、ルカは前後のつながりを理解しやすくする流麗な文体に変えています。もっともルカも出来事の継起を印象づけるために、「〜が起こった」という同じ語で始まる段落を並べるなど、独自の文体上の工夫をしているところもあります(171頁の注記を参照)。その他、分詞構文を多用するなど、ギリシア語の文体としてはマルコと違って、より一層洗練された文体になっています。
 文体だけではなく内容でも、重複を避けて簡潔にするなど、マルコとの違いも観察されます。たとえば、大勢の群衆に食べ物をお与えになった記事は、マルコでは二回あったことになっていますが、ルカは一回にまとめています。一方、ナインのやもめの息子を生き返らせた物語などマルコにはない奇跡物語伝承とか、ルカの福音の主題である「罪の赦し」を物語るイエスの足を涙で拭い香油を注いだ女の物語など、ルカの特殊伝承から得た伝承により、マルコにはない記事を入れています。
 しかしここでは、ルカの福音理解と著述の意図にかかわる重要な違いを、第一部の中から数例取り上げておきましょう。その違いはそれぞれの箇所の講解で述べたところですが、第一部を終えるにあたって、それらの数例をまとめて観察し、ルカの特色を見ておきたいと思います。

 第一に、そしておそらく最も重要な違いは、マルコではガリラヤ伝道の最後の時期の出来事として簡潔に記述されていた故郷ナザレでの拒否の記事が、ルカでは内容も詳しくされて、ガリラヤ伝道活動の最初に置かれていることです。その箇所(四・一六〜三〇)の講解で述べたように、ルカはこの記事で自分が告知しようとしている福音の三つの面を、イエス御自身の宣言とそれに対するユダヤ人の対応として、綱領的・象徴的に提示します。

 1  聖書が来たるべきメシヤについてしている預言がイエスにおいて成就したという宣言(四・二一)は、マルコ(一・一五)の「時は満ちた」という宣言の内容を詳しくしたものです。イエスこそ、神の霊がとどまる終わりの日のメシヤ(油注がれた者)であるという宣言です。そして、イザヤ書の預言を用いることで、イエスによる告知が「恩恵の支配」の告知であることを指し示します。こうしてルカはイエスの福音告知の内容を、その活動の最初に綱領的に掲げます。

   ルカはその二部作で、イエスの福音が同族のユダヤ人に拒否されて異邦の諸民族に向かうことを歴史的に論証しようとしていますが、これもイエスの宣言(四・二三〜二七)と、イエスが同郷の人たちに拒否されるという象徴的な出来事の中で、イエスご自身によってなされた宣言であるとして、ルカはイエスの宣教活動の最初に置きます。

   イエスの活動全体が激しいユダヤ人の敵意の中で行われたことを示すために、イエスを石打にしようとした同郷のユダヤ人の行為が最初に置かれたと考えられます。これによって、イエスの宣教活動全体が、最後にはイエスを殺すに至るユダヤ教指導層の激しい敵意の中で行われたことを印象づけようとしています。

 第二に、これも重要な違いですが、弟子たちに対するイエスの教えが「平地の説教」(六・二〇〜四九)としてまとめられていることです。ルカは、マルコにはないイエスの語録をまとめた「語録資料Q」を手元に持っています。ここに集められた重要なイエスの語録をどこかに入れなければなりませんが、イエスのガリラヤにおける「神の国」の告知、すなわち神の恩恵の招きに応じてイエスに従う者となった弟子たちのことを語る区分(五一〜六・一六)が一段落したところで、弟子としてイエスに従う生き方について、弟子たちに求められるイエスの語録がまとめて置かれます。

 マタイもイエスの語録を「山上の説教」にまとめていますが、ルカがそれを知っていて倣ったというのではなく、ルカはマタイを知らなかったと推察され、ルカは自身の構想によって「語録資料Q」をこのような形でここに用いたと考えられます。マタイの「山上の説教」よりもルカの「平地の説教」の方が「語録資料Q」の原型に近いとされています。ルカは手元にある「語録資料Q」の内容をおもに第二部「エルサレムへの旅」で用いていますが、「語録資料Q」の「幸いの言葉」と「敵を愛せよ」という絶対愛の教えなどは、イエスの弟子となった者への教えとして、ルカはここに置かないではおれなかったのでしょう。

 第三に、マルコ(七・二四、三一、八・二七)が詳しく伝えている、ティルス、シドン、デカポリス、フィリポ・カイサリアなど、北方の異邦の地への旅をルカは全面的に省略していることです。『マルコ福音書講解』で見たように、この旅行の行程は不自然で、伝承の扱い方に問題があると見られていますが、ルカはこの旅行そのものをばっさりと削除しています。それで、マルコではこの旅行の終わりに、イエスがいよいよ「イスラエルの地」に入られるところとしてフィリポ・カイサリアでペトロの告白がなされたことになっています。それに対して、この旅行をすべて省略したルカでは、ペトロの告白はベトサイダ近くの荒れ野で五千人に食物をお配りになった出来事の直後に続き、ガリラヤのどこかで行われたことになります。したがって、ペトロの告白のすぐ後に続くイエスの変容の出来事も、マルコではフィリポ・カイサリアのすぐ北に連なるヘルモン山系の高い山とされるのですが、ルカではガリラヤのどこかの山となります。異邦人に向かって福音書を書いているルカは、パレスチナの地理に関するマルコの混乱した記事を取り入れる必要を感じず、出来事の信仰的意義を際だたせるために、この旅行記事を一切省略したと見られます。

 第四に、ペトロの告白記事にあるイエスの叱責の言葉(マルコ八・三二〜三三)をルカは省略しています。ペトロが受難を予告されたイエスを「そんなことはあってはなりません」と諫め、それをイエスが叱責されたという事実は、この時のペトロの「あなたはメシアです」という告白がなおユダヤ教のメシア理解にとどまっていることを示しています。従って「メシア」と訳するのが順当になります。その記事を削除することによって、ルカはペトロの告白を、ユダヤ教のメシア理解の枠から解放し、彼の時代のキリストの民が告白する「あなたこそ神からのキリストです」というキリスト告白を代表するものとしています。この削除によって、ペトロの告白は「あなたはキリストです」と訳すことができるようになります。マルコではまだペトロの告白の歴史的背景が響いていましたが、ルカではもはやユダヤ教内の出来事という歴史的状況は遠く過去のものとなり、自分たちのキリスト告白の場面として描くことができるようになっていたことを示しています。

 他にも、この第一部でも「主」《キュリオス》という称号の使用において、ルカの時代状況の反映が見られるなど、マルコとは違う書き方が見られますが、ここにあげた四例だけでもルカの特色とか傾向がはっきりと見られます。マルコがペトロを代表者とする使徒たちの状況を強く響かせているのに対して、ルカは地理的にもパレスチナから遠く離れ、時間的にも七〇年以後のすっかり変わった状況、すなわちもはやユダヤ人ではなく異邦人が主役となっている状況で、異邦人に語りかけています。その違いが、以上に見たようなマルコとの違いを生み出し、マルコに大きく依存している第一部でも、マルコとは違うルカの特色となっていると考えられます。

 


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