ルカ福音書講解 18 

     第一八章 神殿境内での教え                                   

                          ― ルカ福音書 二〇章(二〇節)〜二一章(四節)


はじめに

  これまで繰り返し見てきたように、ルカ福音書は1 ガリラヤでの「神の国」の告知、2 エルサレムへの旅、3 エルサレムでの受難と復活 の三部で構成されています。前号の「エルサレムに入るイエス」から、第三部入っていますが、エルサレムでの受難と復活を語る第三部は次のように三つの区分に分けることができます。

 1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
 2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
 3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)

 そして第一区分の「神殿での活動と論争」は、(前号で見たように)さらに次の三つの小区分に分けることができます。

 1 エルサレム入り(一九・二八〜四六)
 2 神殿境内での教え(一九・四七〜二一・四)
 3 終末についての説教(二一・五〜三八)

 前章ではこの小区分の中の「1エルサレム入り」に続いて「2神殿境内での教え」の前半を扱いました。本章ではその「2神殿境内での教え」の後半を扱うことになります。

 

 神殿での活動と論争(その2)


115 皇帝へ税金(二〇・二〇〜二六)

納税問題と「熱心党」運動

 この段落を理解するには、納税が宗教問題になっていた当時の状況を見ておく必要があります。当時のパレスチナはローマの支配下にあり、各地域はローマによって承認されたヘロデ家の領主によって統治されていました。その中でユダヤは六年に領主アルケラオスが失政によって追放され、ローマ総督の直轄領となります。その時行われた総督キリニウスの人口調査(住民登録)によって、ユダヤの住民は直接ローマ皇帝に税を納めることになります。

 このときガリラヤ出身のユダがローマ皇帝に税を納めることを拒否して蜂起します。これはユダヤ人をローマの支配から解放するための政治的革命運動ではなく、異教徒のローマ皇帝に税を納めることは、唯一の支配者である神の主権を侵し、第一戒への違反であるとして反対し、神の主権による支配の確立を目指したユダヤ教原理主義的な宗教運動でした。ユダが起こしたこの運動はその後拡大し、一世紀のユダヤ人の歴史を決定する重要な要因になります。
 ユダはファリサイ派の律法学者であり、ローマの支配に妥協的な主流のファリサイ派にあきたらず、武力を用いてでも神の主権による支配を確立すべきであるとして、過激な原理主義的宗教運動を起こしたのでした。彼に従う人々は《ゼーロータイ》(熱心党)と呼ばれます。一世紀の歴史家ヨセフスもユダの運動を、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に並ぶユダヤ教の一派として扱っています。

 イエスが活動された時代は、このような熱心党の運動がユダヤ教徒の中に拡がりつつある時代でした。この運動は四〇年代には全ユダヤ人を巻き込むようになり、六〇年代に反ローマの全面的な戦争に突入するに至ります。この時期、ローマ総督はもちろん、ローマとの妥協によって辛うじて自治を保っているエルサレムの神殿指導者も、熱心党の運動にはきわめて神経質になっていました。ローマ皇帝への納税を拒むことを示唆する言動は、ローマへの反逆として弾圧・処刑の対象となる危険がありました。

 

神殿における納税問答

 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。(二〇・二〇)

 「彼ら」、すなわちイエスが語られた「ぶどう園と農夫」のたとえが自分たちを指していることを悟った「律法学者たちや祭司長たち」は、すぐにでもイエスを逮捕しようとしますが、群衆を恐れて手を下すことができませんでした(前節)。「そこで」別の方法を画策します。それは、総督の支配と権力にイエスを引き渡して、ローマ総督の力でイエスを抹殺する方法です。そのために、「イエスの言葉じりをとらえ」、イエスがローマに反逆を企てる者であると訴えることができるように画策します。彼ら自身はすでに民衆の前でイエスの権威を問題にしたとき、イエスの鋭い問いかけに答えることができず、面目を失って引き下がっているので、今度は「正しい人を装う回し者を遣わし」て、民衆の前でイエスを追い込もうとします。

  マルコ(一二・一三)では、彼らは「ファリサイ派やヘロデ派の人を数人」遣わしたとなっています。ファリサイ派だけとなっているユダヤ教勢力と対抗しているマタイ(二二・一六)は、ファリサイ派の人たちが「その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に」イエスのところに遣わしたとしています。イエスと律法解釈の問題で議論するにはファリサイ派で律法に精通した者が適任です。「ヘロデ派」がどういう人を指すのか議論があるところですが、ここではヘロデの政治的野心に追従する人たちというより、ヘロデ家から厚遇されていたエッセネ派の人たちと見ると、律法問題の論客としては適任です。エッセネ派は律法解釈と順守の厳格さではファリサイ派を凌ぐ一派でした。このような人たちを遣わしたのは、あくまで律法解釈の問題として議論させ、その中で総督に訴えることができる「言葉じりをとらえ」ようとしたからです。

 ルカは遣わされた者がどのユダヤ教宗派に属する者かには関心がなく、あるいはそれを伝える必要を感ぜず、「自分を義人(律法に忠実な者)であると装う回し者」と表現しています。ここで「装う」と訳されている語は、もともと舞台で面をつけて演技する者を指す語で、「偽善者」を意味するようになっている語が用いられています。彼らは律法の理解について自分の確信をもって議論するのではなく、律法の知識をもって「イエスの言葉じりをとらえる」ために演技する「回し者」です。

 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。(二〇・二一〜二二)

 回し者らはイエスに「先生」と呼びかけ、民衆の面前でイエスが律法の教師として立派であることを誉めそやします(二一節)。この称揚の言葉は、イエスを心から敬服しているところから出ているのではなく、そのような民衆の教師である以上、状況を顧慮することなく、いま民衆の面前で自分が考えていることを率直に答えなければならないぞと圧力をかけているのです。その中で「えこひいきなしに」と訳されている句は、「顔を見ることなく」という神の裁きについて旧約聖書にしばしば現れる表現です。今自分が語りかける相手がどのような立場の者であるか、どのような状況で語っているのか、それがどのような結果を招くかということを顧慮することなく、この質問に単刀直入に答えて、「真理に基づいて神の道を教え」なければならないぞ、と強要しているのです。

 このように民衆の面前で答えなければならない状況に追い込んだ上で、「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」と本題を切り出します(二二節)。これは罠です。もしイエスが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っている」と答えるならば、異教のローマ支配に屈服妥協する教師として民衆の信頼と支持を失わせることができます。もしイエスが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っていない」と答えるならば、民衆に皇帝への納税を拒否するように扇動する律法教師として総督に訴えることができます。彼らは律法解釈の議論をしているように装って、その議論の中でイエスの言葉じりをとらえようとします。この罠を仕掛けた者たちは、支持する民衆の面前でイエスを納税拒否の熱心党の立場に追い込み、ローマ総督に訴える口実を得ようとしたのでしょう。彼らの意図は、ここでイエスの言葉じりをとらえることに失敗したにもかかわらず、後でピラトの法廷に訴え出たときには、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(二三・二)と言っていることからも分かります。

 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」。(二〇・二三〜二四前半)

 イエスは彼らの問いに隠されている罠を見抜かれます。イエスは罠を仕掛けた者たちにデナリオン銀貨を持ってこさせて、「そこにはだれの肖像と銘があるか」と問われます。イエスは律法解釈の議論ではなく、民衆が現に貨幣を用いて生活しているという現実から出発されます。

 当時のエルサレムでは多くの種類の貨幣が流通していましたが、その中でもっとも多く用いられていたのがローマ貨幣のデナリオン銀貨です。これはほぼ労働者一日の賃金に相当し、ローマ社会の基本通貨でした。その表には皇帝の像と、それを取り囲むように名前と称号を刻んだ銘文がありました。イエスの時代のデナリオン銀貨には皇帝ティベリウスの像と「神的アウグストゥスの子、皇帝にして大祭司ティベリウス」という銘が刻まれていました。ユダヤ教徒の中には律法に熱心なエッセネ派の人たちのように、このような異教の支配を象徴する像をもつコインを使用することを避ける人たちもいました。

 彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(二〇・二四後半〜二五)

 イエスの問いに対して、彼らは「皇帝の像と銘です」と答えます。その像と銘は、貨幣が皇帝のものであることを指し示しています。イエスはその事実を指して、それが皇帝のものであるのなら、皇帝がそれを求めるとき、それを皇帝に返すのは当然ではないかと言って、皇帝に税を納めることを認められます。しかし同時に、それと一体で「神のものは神に返しなさい」と言って、「皇帝のものを皇帝に返す」ことがどのような場で行われるのか、その限界を指し示されます。

 神に返すべき「神のもの」とは何かについては、イエスは何も説明しておられません。聖書に親しんでいる者であれば、銀貨に刻まれている皇帝の像との類比で、神によって創造された人間には神の像が刻まれていることを思い起こします(創世記一章)。人間はその全存在が神の所有、「神のもの」です。わたしたち人間は被造者として、自分の存在を全面的に神に返すべき立場の者です。そのように自分を全面的に神に返す在り方の中で、地上では皇帝が維持する秩序の中で生活する者として、皇帝に属する貨幣は、皇帝が求めるところに従って皇帝に返すことが当然となります。

 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。(二〇・二六)

 ルカはこの段落をほぼマルコに従って書いていますが、その最初の導入(二〇節)とこの結びの文で、この問答がイエスをローマ総督に訴えるための策略であったことを明確にしています。それが謀略であったことを強調することによって、ローマの権力によって処刑されたイエスは、本来ローマの秩序に背く者ではないことを示そうとする護教的動機があったものと考えられます。

 

神のものと皇帝のもの

 この場面における「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉は、政治権力の支配下に生きる世々の神の民にとって基本的な指針となります。政治権力の支配下にない時代はないのですから、いつの時代にも「神の支配」の下にある神の民は、地上の政治的支配に対してどういう態度で生きるかが問題となります。

 あらゆる政治的世界の行為、たとえばある政党に投票するという行為や税を納めるというような行為を、それが「律法にかなっているかどうか」という観点から判断しようとすると、律法(宗教)に対する立場や解釈の相違から、さまざまな異なった判断が生じ、しかもそれが宗教的確信によって絶対化されるため、解消しえない対立と争いが出て来ます。イエスの時代に、異教の皇帝に税を納めることを「律法にかなっているかどうか」という形で問題にしたことは、律法順守がすべてになっていた当時のユダヤ教においては当然のことでしたが、そのような問いの立てかた自体が根本的に間違っているのです。これまでも他の問題について、すべてを「律法にかなっているかどうか」という観点から見るユダヤ教を、イエスが厳しく批判し、乗り越えておられることを見てきました。
 この場合も、イエスは「それは律法にかなっている」とか「それは律法に違反している」というような答えはされません。そういう答えをすることは、自ら質問者と同じ律法の立場に立つことになるからです。イエスは全然別の立場、観点から問題を捉えて答えられます。それは人間の現実という観点です。イエスがデナリ銀貨を持ってこさせられたのも、現在人々が生きている現実を指し示すためです。

 その銀貨に刻まれている肖像と銘は、それが皇帝のものであることを示しています。当時の人々がその銀貨を使って生活しているという事実は、ローマ皇帝の支配によって維持されている秩序の中で生活が成り立っているということです。その意味で、この銀貨は皇帝のものであると言えます。その皇帝が銀貨の一部を税として要求したときは、税を納めるという形で皇帝に返すのは当然である。それが人間の現実である。それはある特定の宗教の規定(ここではユダヤ教の律法)で肯定したり否定したりする性質の事柄ではありません。イエスはこの立場から、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。

 しかし、人間には政治的世界に生きているという現実よりさらに重要な現実があります。それは神との関わりの中に生きているという現実です。人間は神によって存在を与えられている被造者であり、その全生涯のあり方について神に答えなければならない責任をもつ存在です。その意味で、人間の全存在が神のものです。わたしが所有しているものの一部が神のものであるというのではなく、わたしの存在そのものが神のものです。銀貨にその所有者である皇帝の像が刻まれているように、人間には神の像が刻まれています。「神のものは神に返しなさい」というのは、自分の持ち物の一部を供儀として神に捧げることではなく、自分自身を神に捧げ、自分の全存在を神の御心に委ねることです。「皇帝のもの」というのは自分の持ち物の一部であるのに対して、「神のもの」というのは自分自身ですから、両者は次元の異なる領域であることが分かります。「神のものは神に返す」という人間の根源的な在り方の中で、人間生活の一部の領域として「皇帝のものは皇帝に返す」ことが求められているのです。

 こういうわけで、イエスの言葉は、人間の生活の中に「皇帝のもの」(政治や経済)と「神のもの」(宗教)という、全然別の対等な二つの領域があることを認めて、それぞれの領域でそれぞれの支配者に従うことを求めているのではありません。そのように理解して、この言葉が信徒や教団が直視しなければならない地上の問題から逃避するための口実にされるということが、教会史においてしばしば起こりました。イエスの言葉は、人間が神に従い、神と共に生きるという根源的な在り方の中で、政治や経済、学問や芸術というそれぞれの領域で、その領域の現実と法則に従うように求めているのです。熱心党の人々(ゼーロータイ)は、神に従うとはあらゆる領域で律法を徹底的に守ることだとして、律法という一種の理念によって政治的領域の現実を無視したため破滅しました。宗教的熱心はともすればこのような誤りに陥りやすいもです。最初期の共同体がその霊的高揚の中で、宗教的動機から発するる反ローマの政治的動乱(ユダヤ戦争)に巻き込まれることなく存続することができたのは、イエスのこの言葉があったからです。使徒パウロも共同体に対して、キリストに全存在を捧げて従うことを求める中で、地上の権力者に従うことを勧めています(ロマ一三・一〜七)。パウロ以後の共同体もこの線を維持しています(ペトロT二・一三〜一七)。これはイエスの言葉の線に沿うものと言えます。

 しかし、皇帝が「皇帝のもの」以上のものを求めた時には、「神のものは神に返す」という信仰の原理から、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」とその要求をきっぱり拒まなければならないことがあります。たとえば、皇帝が自分を神として拝むことを求めた時、キリスト者はこの要求に屈することはできません。ヨハネ黙示録はこの戦いの証言です。その後のローマ帝国における迫害の歴史は、この要求に対する信仰の命がけの戦いでした。
 どこまでが「皇帝のもの」かについては、意見の相違がありえます。そのため国家と教会の関係は実に複雑な歴史をたどることになります。国家と教会の関係について、ここでその歴史や思想を概観することもできませんが、その源泉にイエスのこの言葉があることは指摘しておくことが必要でしょう。「皇帝のものは皇帝に返せ」だけでは、国家権力の専制に対する歯止めがなく、国家権力の絶対化、神格化に陥ります。「神のものは神に返せ」だけでは、熱心党の誤りや神政政治(祭政一致)の誤りに陥ります。両者が同時に語られねばなりません。「神のものは神に返す」ことが、「皇帝のものは皇帝に返す」という現実を包み込み、また、「皇帝のものは皇帝に返す」ことが、「神のものは神に返す」という原理で根拠づけられると同時に限界づけられるような関係、これが民主的な国家形態を成立させる根底であると考えられます。


116 復活についての問答(二〇・二七〜四〇)

ユダヤ教における「死者の復活」

 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。(二〇・二七)

 神殿で毎日民衆に教えを説いておられるイエスに、神殿の支配層はなんとかして民衆の前でイエスを追い詰めようとして論争をしかけてきます。先にはファリサイ派とヘロデ派(エッセネ派?)の論客が論争を挑みましたが、イエスの見事な答えに圧倒されて退散しました。今度はサドカイ派の者がイエスに論争をしかけます。

 サドカイ派が登場するのは、ルカ福音書ではここだけです(マルコ福音書も同じ)。ルカは(マルコに従い)、ユダヤ教各派の主張に不案内な異邦人読者のために、サドカイ派の主張を解説して、この問答の意義を明らかにしようとします。サドカイ派は大祭司をはじめ祭司貴族階級とその周辺の人々が多く、神殿の支配的勢力を占めていました。神学的には保守派で、モーセ五書に書かれていることだけを神からの啓示として、それ以後の展開を認めませんでした。ファリサイ派がモーセ律法の解釈を述べた律法学者たちの口伝の集積を「口伝律法」として、モーセ五書の成文律法と同等の権威を認めたのに反対し、あくまで書かれたモーセ律法だけに固執しました。それで、ファリサイ派がヘレニズム期の時代の流れの中で、霊魂の不滅や終わりの日の復活と審判の思想を形成したのに対して、サドカイ派はそれに反対し、それがモーセ五書の律法に書かれていないことを理由に、ファリサイ派が主張する天使の存在や死後の霊魂の存在、最後の日の死者の復活などはないと主張していました。後にパウロは最高法院での裁判のときにこの両派の対立をついています(使徒二三・六〜九)。

 ここで「復活《アナスタシス》がある」という信仰は、神は終わりの日に御自身に属する民を死者の中から復活させるという信仰を指しています。この信仰はイスラエルの歴史においてごく後期になって成立したものです。旧約聖書では、ごく後期に属する黙示録的な部分の僅かな箇所に暗示的な文言が例外的に出てくるだけで(イザヤ二六・一九、ダニエル一二・一.三など)、全体としては死者の復活を語ることはありません。しかしダニエル書以降新約時代直前に多く書かれた黙示文書になると、死者の復活の信仰が前面に出てくるようになります。ファリサイ派の律法学者は、時代が生み出す新しい信仰を律法の新しい解釈として受容し、その解釈をモーセ律法の本文と同じ権威のある伝承として蓄積したので、死者の復活の信仰も受け入れ、彼らの信条としていました。エッセネ派も黙示思想的傾向が強く、死者の復活を信じていました。それに対してサドカイ派は保守的で、モーセ五書の本文に書かれていること以外は認めようとしなかったので、この新しい信仰を拒否しました。

 共観福音書で見るかぎり、イエスは「死者の復活」を積極的に宣べ伝えられたことありません。イエスは、弟子たちに秘かにご自分の受難と復活について語られた場合以外、復活という言葉を口にされたこともありません。しかし、当時すでにユダヤ教の正統信条として広く民衆に受け入れられていた「死者の復活」の信仰を当然の前提として、神の国を語られたことがルカ一四・一四などからもうかがえます。サドカイ派の者たちは、復活の信仰に関する限りイエスはファリサイ派の立場に立つ者として、その信仰が律法に矛盾することを取り上げて論争を挑み、言葉じりをとらえようとします。以下の質問は、「復活がある」ことを否定するサドカイ派の人々が、「復活がある」と主張するファリサイ派と論争するときに、ファリサイ派の復活信仰の矛盾をつくため好んで用いた論法でした。


復活論争

 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」。(二〇・二八)

 この律法規定は申命記二五章五〜一〇節の規定を要約したものです。これは古代の部族社会で行われていたレビレート婚の習慣をイスラエルの民の法として取り入れたものです。古代の部族社会では男子による家名の継承が重要でしたから、ある家長が跡取りの男子を残さず死んだ場合は、その妻は他家に嫁ぐことは許されず、亡夫の弟と結婚して、生まれた長子を亡夫の家の跡取りとして、彼の家を続かせなければならないと規定されていました。弟がその義務を果たさないことは恥ずべきこととされていました。もっともこの義務は同居している弟に限られていたようです。このような結婚を「レビレート婚」と言いますが、族長時代のイスラエルにもこのような習慣があったことが、創世記三八章(とくに八節参照)に伝えられています。死者の復活を否定するサドカイ派は、復活を認めるとこのモーセ律法が成り立たなくなることを理由にあげ、復活を認めるファリサイ派を批判していました。彼らはその議論をイエスに向けます。

 「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。(二〇・二九〜三三)

 復活を認めると、このような場合その女は七人の男の妻とならなければならないが、そのようなことは律法では許されていない。そうすると、復活を認めることによってモーセ律法は矛盾に陥ることになるから、復活を認めることはできないという論理です。「復活の時、その女はだれの妻になるのか」という問いは、ファリサイ派の復活信仰の矛盾をつく難問でした。ファリサイ派の律法学者はこの問いに「その女は最初の男の夫となる」と答えていたようですが、問う者と同じモーセ律法の絶対性の立場に立つ限り、どう答えても自己矛盾は避けられません。

 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。(二〇・三四〜三六)

 イエスはこの問いに対して、その問いが出てくる立場そのものの間違いを指摘することによって、問いそのものを無効にされます。問う者は、「次の世に入って死者の中から復活する」者も、この世でめとったり嫁いだりする者と同じような結婚関係をもつと前提していますが、その前提そのものが間違いだと、イエスは暴露されます。

 実はマルコではこの言葉の前に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」という言葉があります(マルコ一二・二四)。マタイ(二二・二九)は、少し表現は違いますがこの言葉を保持しています。質問者が思い違いをしている理由を指摘するこの重要な言葉が、ルカにない理由は分かりません。ルカはこの言葉の代わりに、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが」という文を置いて、「この世」と「次の世」の対比を強調しています。この言葉がないだけでなく、この箇所(三四〜三六節)のルカの用語と表現はマルコと大きく違っており、マルコの記事を変更したというより、別の系統の資料を用いて書いたのではないかと推察させるほどです。

 マルコ(一二・二五)は単純に「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と書いて、「誰の妻となるのか」という問いが成り立たないことを指摘しています。復活とは神による新しい世界の創造であり、そこでは人間は天使のように朽ちることのない体をもって生きるのであるから、死ぬべき体の人間が地上に存続するために必要としている結婚は、復活の世界ではもはや存在しない、という明確な論理です。

 それに対してルカは、「この世《アイオーン》」と「次の世《アイオーン》」という黙示思想の用語を使って、死者の復活の信仰が黙示思想に属するものであることを思い起こさせます。その上で、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」という表現を使って、そのような人々は「めとることも嫁ぐこともない」と現在形の動詞を用いて彼らの在り方を描くので、(来たるべき世では)復活するにふさわしいと(現在すでに)認められている人たちは、今この世で結婚しない生き方をするという理解を可能にします。マルコの単純な表現を知っているはずのルカが、このような複雑な表現に変えた理由とか意図は分かりません。

 後のキリスト教の歴史において、修道僧や教会聖職者は結婚しないことが求められますが、その根拠としてこの言葉が用いられたとしたら、それは問題です。というのは、「めとることも嫁ぐこともない(=結婚しない)」理由は、「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」とされています。すなわち、天使に等しい者となり、もはや死ぬことがない状態になってはじめて、生命の継承のための結婚が不要になるのです。それゆえ、人間が地上にいて死ぬべき身体の中にある限り、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」でも結婚が不要になるわけではありません。「復活にあずかる者として、神の子である」から結婚が不要とかふさわしくないとされるならば、御霊によって神の子とされ、復活にあずかる希望をもって生きているキリスト者には、結婚は無用となります。後にグノーシス派の教会には、結婚を避ける傾向が出て来ますが、この言葉の誤用もあったのかもしれません。

 「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。(二〇・三七〜三八)

 死者の復活はないとするサドカイ派の人たちに、イエスは聖書の箇所を引用して、彼らが「聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」のだと指摘されます。ここでイエスが引用しておられる聖書は、出エジプト記の三章で燃え尽きないで燃えている柴の間から主がモーセに現れて語りかけられたことを物語る箇所です。その六節でモーセに現れた主は「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われ、一五節ではモーセを民に遣わすにあたって、「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」と言われたとされています。ユダヤ教では出エジプト記を含むモーセ五書はモーセが書いたものとされていますから、この記事をイエスはモーセが主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことを示す記事として引用されます。この有名な記事はユダヤ教徒であればみな熟知しています。イエスはそれを引用して、そこに死者の復活が明記されているとされるのです。これは驚くべき聖書理解です。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤハウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名です。イエスはこの御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されていると言われます。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされていますが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになります。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となります。

 神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいました。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は「死んだ者たちの神」となります。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭でなければなりません。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければなりません。

 すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではありません。イスラエルにはギリシア人のような霊魂不滅の考え方はありません。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動として理解されています。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現です。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのです。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまいます。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになります。

 このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つです。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させています。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではありません。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るものです。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られます。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がありません。これは御霊に満たされておられたイエスだけが達しえた境地であると考えられます。

 なおルカは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉の後に、マルコにはない「すべての人は、神によって生きているからである」という言葉を加えています。原文は「すべての人は神に生きるからである」とあります。この「神に」という与格(三格)がどういう意味であるのかが問題です。与格(三格)の名詞は「によって」という意味で用いられる場合もありますが、本来は「〜に(向かって、対して)」という意味合いを示す格です。欧米語の翻訳はほとんどみな「神に生きる」と訳しており、新共同訳のように「神によって」と訳しているものはありません。この三格は「神との関わりで」とか「神に関わるかぎり」という理解も可能です。

 この文が「〜だからである」という理由を示す語で先行する「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という文に続いていることからすると、「すべての人、すなわち人間は誰であっても、いのちそのものである神との関わりにあるかぎり、神のいのちにつながって生きているのだから」と解釈するのが適当と考えられます。そうすると、三七〜三八節は、神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗ってアブラハム、イサク、ヤコブをご自身との関わりに置いておられる以上、神との関わりにある者として彼らはみな生きていることになる、と解釈することになります。

 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。(二〇・三九〜四〇)

 サドカイ派の者たちに対するイエスの答え、とくにモーセ五書の言葉を用いて死者の復活を根拠づけられたイエスの聖書の理解に、専門の律法学者も驚きます。そのような聖書の理解を示した学者はいません。こうお答えになったイエスの霊的権威に圧倒されて、何か言葉尻をとらえようとしてイエスを取り囲んでいた者たちも、それ以上あえて質問することはできなくなります。

 マルコ福音書では、この復活問答の後に「最も重要な掟」についての問答があり(マルコ一二・二八〜三四)、その後に「もはや、あえて質問する者はなかった」という文が来ます。しかしルカは、「最も重要な掟」についての問答を省略していますので、この文が復活問答の後に来ることになります。ルカがこれを略したのは、おそらくすでに「善いサマリア人」のたとえで、これと同じ性格の問答を用いた(一〇・二五〜二八)からであると考えられます。ルカは重複を避ける著作家です。

新約聖書における「死者の復活」

 このような「死者の復活」についての議論が福音書に置かれているのは、キリスト信仰共同体にとってどのような意味があるかを、ここで考察しておきたいと思います。最初に採り上げなければならないのは、この問題についてのパウロの議論です。

 パウロは五〇年代にエーゲ海地域の諸都市にキリストの福音を告知する活動を進めました。パウロが告知したキリストの福音は、「十字架につけられた姿の復活者キリスト」ですが、そのキリストはやがて栄光の中に来臨され、そのときキリストの民は死者の中から復活するという告知が含まれていました。そのことはこの時期に書かれたテサロニケ第一書簡からも明らかです。彼の福音活動によりコリントにもキリストを信じる者たちの共同体が形成されます。ところが、その数年後エフェソで活動しているときに、コリント集会から来た使者からコリントの集会に「死者の復活などはない」と主張する人たちがいることを伝えられます。驚いたパウロはコリントの集会に手紙(コリント第一書簡)を書き送り、その中(一五章)で「死者の復活」を否定することは、キリストの復活を否定することであり、キリストの福音を台無しにすることだと、激しい調子で「死者の復活」を弁証しています。その議論の詳細は、拙著『パウロによるキリストの福音U』の「第六章・死者の復活」を見ていただくことにして、ここではそのような議論しなければならなかったという事実の意義を考えてみたいと思います。

 「死者の復活」を否定したコリントの人たちは、キリストの復活を否定したのではありません。キリストの復活を否定することは福音を否定することであり、キリスト者の共同体の中にいることはできません。「死者の復活」の信仰とは、神は終わりの日にキリストにあって死んだ者たちを死者の中から復活させて、栄光の体をもつ者としてくださるという信仰です。彼らはこの「死者の復活」を否定してもキリストを否定することにはならないと考えていたのです。彼らはキリストにあって救われることを、「死者の復活」抜きで理解していたのです。

 彼らがどういう理由で死者の復活を否定したのかは、パウロの反論の手紙からは分かりません。この信仰はギリシア人の宗教観からは理解しがたい信仰であり、おそらくギリシア人の宗教的体質が反発させたのではないかと推察されます。ギリシア人にとって体は霊魂の牢獄であり、せっかく体から解放されて永遠の世界に入った霊魂が再び体に結びつけられることは決して願わしいことではなかったのでしょう。しかし、聖書の救済史的な世界に生きているユダヤ人パウロは、キリストの出来事を救済史の枠の中で理解し告知しています。その視点から、終わりの日の死者の復活を否定することは、その根拠として神がキリストを復活させたこと無意味にすること、キリストの復活を否定すること、福音と信仰を空しくすることだとして激しく反対し、死者の復活を福音の基本的内容(それがなければ福音が福音でありえない内容)として告知します。

 しかし、そのパウロも最後に書いたローマ書では、終わりの日の死者の復活を前面に出すことはせず、信じる者の希望の内容として触れるに止めています(ローマ八・一八〜二五)。これは、ローマ書がガラテヤ書と同じく、律法とは別の義を確立することを主題とするからでしょう。

 パウロ以後のパウロ系共同体では、死者の復活の信仰は後退していきます。パウロ以後に書かれたパウロ名書簡(コロサイ書やエフェソ書)では、キリストの来臨《パルーシア》の待望は、なくなったわけではありませんが、信仰の前面からは退場し、来臨に際して起こると待望されていた「死者の復活」も触れられることがなくなります。パウロにおいては復活はあくまで将来のこととして語られていましたが、このパウロ名書簡では過去形で語られるようになり、キリストにあって聖霊によって生まれ出た新しい命に焦点が当てられるようになります。総じて、ユダヤ教的な救済史の枠組みではなくヘレニズム的なコスモロジー(宇宙論)の枠組みでキリストの救済が理解されるようになります。

 このような状況のエーゲ海地域の諸集会にルカ福音書が登場して読まれるようになったという状況を想像してみましょう。この地域の諸集会がパレスチナ・シリア地域で成立したマルコ福音書やマタイ福音書をすでに知っていたいかどうかは確認できませんが、少なくともルカ福音書はこの地域で成立し、そこで流布したことは確実です。そうすると、この地域の諸集会のキリスト者はこの福音書にある復活問答を読み、この問題についての主イエスの発言を聴くことになります。そこでなされた「復活はない」という主張に対するイエスの反論は、「死者の復活」を否定したり、それに無関心になっていた人たちの目を覚まさせ、共同体の復活信仰に重要な指針となり、刺激となり、回復させる力となったのではないかと想像させます。パウロ書簡がどれだけ知られていたかは確認できず、パウロ書簡集が流布するのはかなり後(二世紀に入ってから)と考えられるので、ルカ福音書のこの記事が復活信仰の回復剤となったという想像も許されるでしょう。

 もう一つ新約聖書で「死者の復活」が問題になるのはヨハネ福音書です。この福音書は、イエスを信じる者は現在すでに永遠の命を得ているということを使信の中心に置いて強調し、将来の死者の復活に触れることはほとんどありません。これは同じ時期に同じ地域で成立したコロサイ書やエフェソ書などのパウロ名書簡と同じ線上にあります。ところが六章の「命のパン」の章で、「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」(ヨハネ六・四〇)と、現在すでに永遠の命をもっているという宣言に、終わりの日の復活が加えられ場合が数カ所出てきます(六章三三、四〇、四四、五四節)。この「死者の復活」への言及は、この福音書の基本的な使信に沿わないので、後代の編集による挿入であるとする見方がなされるようになります。しかし、それがどのような事情によるものであるにせよ、正典として新約聖書に入れられているヨハネ福音書は、「死者の復活」の信仰を受け入れています。この事実が重要です。

 一世紀の終わりから二世紀にかけて、キリストの福音は様々な形で語られ、広まっていきました。終末待望の内容と復活については、実に多様な見解が行われていました。その混沌の中で、福音書(エーゲ海地域ではルカ福音書)の復活問答の記事は、「正統派」の信条形成に大きな力になったと推察されます。事実、二世紀半ばに成立したとされる「ローマ信条」(使徒信条の原形)では、「我は身体のよみがえりを信ず」という項目が入れられるようになります。


117 ダビデの子についての問答(二〇・四一〜四四)

ダビデの子かダビデの主か

 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。(二〇・四一)

 前節(四〇節)で、イエスの言葉じりをとらえようとして質問してきた者たちは、イエスの鋭い答えに圧倒されて沈黙してしまったことが語られました。それを承けて、今度はイエスが彼らに問いかけられます。この問いかけは、マルコ(一二・三五)では律法学者たちに向けられたとされていますが、ルカでは「律法学者たち」が外され、神殿でイエスの教えに耳を傾けているユダヤ人民衆に語りかけられた言葉としても聴くことができるようになっています。

 当時のユダヤ教では、メシアは「ダビデの子」と呼ばれており、ダビデの子孫から出て、ダビデが築いた栄光のイスラエル王国を回復する者と期待されていました。イエスはこの問いかけによって、ユダヤ教(とくにファリサイ派の)「ダビデの子」を超えるメシアを民衆に示そうとされます。

 「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』」。(二〇・四二〜四三)

 ここで引用されている詩編は一一〇編の一節です。この詩編には「ダビデの詩」という標題がついています。現代の聖書学では各詩編成立の状況や時代が詳しく研究されて、この標題をもつ詩編の多くはダビデの作ではないことが明らかにされていますが、当時のユダヤ教ではこの標題の詩編はすべてダビデの作として通用していました。そして、信仰について議論するときはいつも聖書の言葉が根拠として用いられたので、イエスが律法学者たちと議論されるときも、最初期共同体がユダヤ教会堂と議論するときも、いつも聖書が引用され、主張の論拠とされました。ここでもこの詩編が霊感を受けたダビデの言葉として引用されています。マルコ(一二・三六)は「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」として引用しています。

 詩編一一〇編は、「主は、わたしの主にお告げになった」という言葉で始まります。最初の「主」はイスラエルの神ヤハウェを指し、「わたしの主」の「主」はこの詩編でダビデが「あなた」と呼びかけている人物を指しています。この詩編全体は、この人物が神の右に座し、敵を打ち破り、諸国を支配し、神と人を結ぶとこしえの祭司メルキゼデクとされることをうたっています。その全体が最初の「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」にこめられています。

 最初期共同体は、イエスが復活して高く上げられた出来事をこの詩編の成就として語りました。イエスの復活は、この詩編のイメージから、イエスが高く上げられて「神の右の座に」着かれた出来事として語られました(マルコ一六・一三、使徒二・三三、七・五五〜五六、ローマ八・三四、コロサイ三・一、ヘブライ一〇・一二、ペトロT三・二二)。

 「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。(二〇・四四)

 このように神の右の座に着かれた方に向かって、ダビデは「わたしの主」と呼びかけているのだから、この方は地上の一つの国の王座に座したダビデよりはるかに勝る方ではないか。神が送られるメシアは、ダビデの子として、ダビデが形成しその後崩壊したダビデ王国の元の栄光を回復するだけの方であろうか。決してそうではない。その方は「ダビデの主」として、ダビデ王国が予型として指し示した終末的な全世界への神の支配を体現される方ではないか。

 このような問いかけによって、イエスは、そしてそれに重ねて最初期共同体は、ユダヤ人に向かって、イエスこそ復活によって高く上げられ「神の右の座に着かれた」方であることを、聖書を論拠として指し示します。ユダヤ人がイエスをそのような方として受け入れることができないのは、イエスの復活を信じないからです。この「ダビデの子」問答も、イエスの復活を信じて、イエスを「ダビデの主」とするユダヤ人と、イエスの復活を信じないで、あくまで「ダビデの子」としてダビデ王国を回復するメシアを待ち続けるユダヤ人の間の対立を顕わにする問答として終わります。

 では、その後の福音を告知する運動の中で、この「ダビデの子」という称号がどのような位置づけになっていったのかを見ておきましょう。

 

新約聖書における「ダビデの子」の位置

 「ダビデの子」という称号は、イエスの時代のユダヤ教徒の間では来たるべきメシアを指す称号として定着していました。ユダヤ教には様々な内容の終末待望があり一様ではありませんでしたが、その中でもパリサイ派の影響力が増大するにつれて、ダビデの王国の栄光を回復するダビデの子孫を待望するパリサイ派のメシア待望が民衆の間に広まり、イエスの時代には「ダビデの子」はメシアの称号として定着していました。

 権威をもって教え力ある業を示されたイエスを、民衆が「ダビデの子」と歓呼して迎えたことは、イエス伝承においてエリコの盲人の呼掛け(マルコ一〇・四七)や、エルサレム入りの際の民衆の歓呼(マルコ一一・一〇)に垣間見ることができますが、マルコはむしろこのような民衆の熱気を抑えるような書き方をしている節があります。イエスご自身はこの「ダビデの子」という称号を一度も口にされず、むしろ人々がイエスを「ダビデの子」として語ることを厳しく禁じられたことを伝えています。イエスが「ダビデの子」という称号を厳しく拒否されたのは、この称号がイスラエルの政治的解放者としてのメシアを指しており、イエスはこのようなメシアとして立とうとする思いをサタンの誘惑として激しく戦われたのだと考えられます。この時代のユダヤ人の一般的なメシア待望とイエスの自覚の対比は、ペトロがイエスをメシアだと告白したときのイエスの叱責にもっとも鋭く現れています(マルコ八・三一〜三三)。

 ところが、イエス復活後のユダヤ人信徒の群れは、同胞のユダヤ人のシナゴーグに、イエスこそ約束されたメシアであることを論証するために、律法学者たちの批判に応えて、イエスがダビデの家系の出身であることを示そうとしました。その傾向はユダヤ人に福音を宣べ伝えようとするマタイ福音書に顕著です。その努力はイエスの系図と誕生物語にもっともよく表現されています。マタイは彼の福音書の冒頭でイエスを「ダビデの子」と紹介しています(マタイ一・一)。イエスの系図の重点は、イエスがダビデの家系であることを示すことにあります(マタイ一・一七)。この系図はヨセフの系図ですが、ヨセフが神の啓示によってマリアとその子イエスを受け入れることによって、イエスはダビデの家系の出身となります。ダビデの町ベツレヘム(ルカ二・四)での誕生の物語も、イエスがダビデの家系であることを示すためです。イエスの働きの記録においても、マタイはマルコよりも多く「ダビデの子」という称号を用いています(マタイ九・二七、一二・二三、一五・二二)。

 このようにイエスをダビデの子とする信仰告白は、マタイを待つまでもなく、ごく初期のユダヤ人のキリスト者共同体(その代表がエルサレム共同体)から出て、ヘレニズム世界を含む最初期共同体でかなり広く用いられていたようです。そのことは、パウロがローマ書の冒頭で福音を要約するのに、次のような信仰告白定式を引用していることからもうかがわれます。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」。((ローマ一・三〜四)

 この信仰告白定式は、パウロが自分が告知している福音を要約したものではありません。それは、パウロ以前にユダヤ人のキリスト者共同体で形成され、ローマのキリスト者たちが受け入れている共通の信仰告白定式を、パウロが自分と宛先人の共通の場として引用しているものです。ローマの共同体はパウロの福音活動で成立したものでなく、ごく初期にエルサレムとローマとの間のユダヤ人の交流で福音が伝えられて成立したもので、この信仰告白定式は最初期のエルサレム共同体から出たものです。

 パウロ自身はキリストが「ダビデの子」であるとは主張していません。書簡で見る限り、パウロがダビデの名に触れるのは、ローマ書冒頭で引用したユダヤ人共同体の信仰告白定式以外では、信仰による義の実例としてダビデを引き合いに出すとき(ローマ四・六)と、イスラエルのつまずきを「ダビデの詩」と呼ばれる詩編で論証するとき(ローマ一一・九)の二回だけです。パウロ以後のコロサイ書やエフェソ書にもダビデの名は一回も登場しません。

 こうしてパウロに見られるように、概してギリシア語系ユダヤ人が異邦人に福音を告知するときには、イエスを「ダビデの子」とすることはなかったと考えられます。ルカもこの流れの中にありますが、マルコに従って福音書を書いていますので、マルコに用いられているイエス伝承を含みます。それで、マルコにあったエリコの盲人の「ダビデの子よ」という呼びかけ(一八・三八〜三九)と、神殿でなされた「ダビデの子」問答(二〇・四一〜四四)ではこの称号が出てきますが、その他には出てきません。イエスがエルサレムに入られた時の民衆の歓呼にあった「ダビデ」の名は、ルカでは消えています。ルカ福音書で「ダビデ」が多く出てくるのは一〜二章の誕生物語です(五回)。その理由と意義については、誕生物語を扱うところで触れることになります。

 同じルカが書いた使徒言行録では、「ダビデの子」という表現が出てくるのは一箇所(使徒一三・二三)だけですが、「ダビデ」の名はキリストの出現を予告するものとしてしばしば登場します(一三回)。福音書の本体部分ではあまり積極的に取り上げられていなかったイエスが「ダビデの子」であるという主張が、誕生物語と使徒言行録で強調されるようになったのは、イエスの出現は聖書(旧約聖書)の預言の成就であり、ユダヤ人の待望を満たす方であることを強調しなければならない状況があったからだと推察されます。これは、福音がヘレニズム世界に入って行き、急速にギリシア化される過程で、ユダヤ教とか旧約聖書を徹底的に排除する傾向(その代表がマルキオン)が出て来たのに対抗して、使徒的伝統(使徒たちはみなユダヤ人でした)を擁護するためであったと考えられます。この問題については、別の機会に触れることになります。

 こうして、異邦人の間での福音告知においては、イエスが「ダビデの子」であるという主張は後退していきます。ところが、パウロ名書簡の一つで、新約時代の最も後期に属する牧会書簡において、福音を要約する文にダビデの名が出てきます。

 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(テモテU二・八)

 これは、パウロがローマ書の冒頭で引用していたあのエルサレム共同体発と見られる信仰告白定式を簡潔にした形です。このような形が定着したのは、おそらく最初期後期にはパウロ系の諸集会にも福音書が普及して、イエスの出自や、イエスの出来事が聖書の約束、とくにダビデになされた約束を成就するのであるという意義が浸透していったからではないかと考えられます。

 最初期の共同体がイエスを「ダビデの子」としたのは、イエスがダビデの家系の出身であることを主張しているだけではなく、すでにその地上の働きにおいてイエスは聖書の約束を成就する方であることを主張しているのです。論敵パリサイ派の用法においても、「ダビデの子」というのはダビデになされた約束を成就する者という意味です。そのイエスが死者の中から復活して「主《キュリオス》」として立てられたのです。したがって、「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」という信仰告白定式は、地上でイスラエルの全歴史を成就する働きを成し遂げ、復活して《キュリオス》として全世界に臨まれる終末的救済者、主イエス・キリストの福音をぎりぎりまで煮つめた表現であると言えます。

 パリサイ派が立てたメシアの真偽を判定する基準の中で最も決定的な点は、メシアはその生涯中にイスラエル解放という使命を達成していなければならないという基準です。この基準からすれば、十字架にかけられて処刑されたイエスはメシアではありえません。十字架上に処刑されたメシアというのは、ユダヤ人にとって最大のつまずきです。それに対して、福音はイエスが死者の中から復活されたという事実をもって応えます。これが福音の最も決定的な告知です。神はイエスを死者の中から復活させて、神の右に座す《キュリオス》、また人類の救済者キリストとしてお立てになったと告知します。パリサイ派が考えているメシアとは次元の違うメシア(救済者)です。イスラエルの民を異教の支配者から解放するメシアではなく、人間を罪と死の支配から解放する救済者です。福音はユダヤ人にとって最大のつまずきである「十字架につけられたキリスト(メシア)」を宣べ伝えます(コリントT一・二三)。ユダヤ人はイエスの復活を信じないので、メシアを「ダビデの子」とします。しかし、復活者イエスを信じる者は、イエスを「ダビデの子」として、地上でダビデになされた約束、ひいては旧約聖書預言全体を成就する方として、そして同時に復活して神の右に座す「ダビデの主」として崇めます。


118 律法学者を非難する(二〇・四五〜四七)

 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。(二〇・四五)

 ここでルカはマルコに従い、律法学者たちに対する批判を置いています。ただ、マルコ(一二・三七後半〜三八節)が「大勢の群衆がイエスの教えに耳を傾けた。イエスは教えの中でこう言われた」としているところを、ルカは「弟子たちに」言われたとしています。「民衆が皆聞いているとき」に言われたのですから、民衆への警告にもなりますが、ルカはとくに弟子たちへの警告としています。ユダヤ教会堂と厳しく対立しているマタイ(二三・一〜三六)は、この箇所に「律法学者たちとファリサイ派の人々」に対する批判と非難のあらんかぎりを集めて、彼らを「偽善者」、「地獄の子」と呼び、「わざわいだ」という預言者的断罪の言葉を投げつけています。それに較べると、もはやユダヤ教律法との深刻な問題を抱えていない時代に書いているルカは、マルコの記述をそのまま継承するだけで十分としたのでしょう。以下の律法学者たちに対する批判は、(ごく僅かの用語の違いはありますが)ほとんど字句通りにマルコと一致しています。

 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。(二〇・四五〜四七)

 イエスと律法学者たちとの根本的対立は、すでに福音書の全体が描いてきました。ルカ福音書でも第二部の「旅行記」の中で「ファリサイ派との対立と対決」が取り上げられていました(一一・一四〜五四)。それはイエスの「恩恵の支配」とファリサイ派律法学者たちの「律法の支配」の対立でした。しかし、いま神殿での最後の対決の締めくくりとして、イエスが律法学者に投げかける批判は、もはやこのような根本問題ではなく、彼らの偽善という面に限られます。
 「彼らは長い衣を着て歩きまわり、広場で敬礼されるされることや、会堂の上席、宴会の上座に座ることを好み、寡婦の家を食いあらし、見栄で長い祈りをする」。「長い衣」は律法学者の身分をあらわす衣で、特に長く、ゆるやかにたれています。これを着て歩いていると、どこでもすぐに律法学者であることが分かるので、一般の人々から「ラビ(先生)」として特別の敬意をこめた挨拶を受けることになります。

 ユダヤ人の宗教生活と社会生活全般の中心になるシナゴーグ(会堂)では、律法学者は「上席」に、すなわち聖書が納められている聖ひつ前方の長椅子に、会衆に向き合って座ります。宴会があれば「上座」に座って、その地域社会で最も重要な特別の人物として扱われることを当然とします。このように彼らは自らを、神の御心を示す律法に精通し民衆を指導する立場にある者であるとしながら、実は「寡婦」に代表される小さい者、弱い者に「背負いきれない重荷を負わせる」だけで、律法の重荷を負いきれないで苦しむ者たちを見下げているだけです。

 彼らの中には特別な立場にいることを利用して、実際弱い立場の寡婦の家から強欲に資産を奪うようなことをする者もいたのかも知れません。彼らが「長い祈り」をして宗教に熱心であるように見えるのは、内にある強欲を隠して人々から立派な宗教者であると認めてもらいたいからに過ぎません。彼らは外面では律法を厳格に守る信心深い者と見せかけていますが、実際は神が求めておられる最も大切なへりくだった魂とか慈愛の心から遠く、「偽善者」、「目の見えない案内人」にすぎない、とイエスはされます。彼らは神の御心を知っていると誇っているだけ、彼らの偽善は「誰よりも厳しい裁きを受ける」ことになると断罪されます。

 ここで注目されるのは、律法学者に対するこの最後の対決の中で、彼らの偽善が攻撃されているだけで、彼らの教えそのものは批判されていないことです。このことはマタイでは、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(二三・二〜三)という形で述べられています。「彼らの言うこと」、すなわちファリサイ派律法学者の教義はすべて守り行うべき正しいものと認められています。しかし彼らは「言うだけで、実行しない」。教義はあるが、それを実現する力がない。そこに偽善が生れます。福音はファリサイ派の教義を否定するのではなく、それを成就完成する力として来たのです(マタイ五・一七)。ファリサイ派ユダヤ教は旧約の長い歴史の到達点です。キリスト教はこのファリサイ派ユダヤ教を母胎として生まれ、これを完成することによって乗り越える信仰です。福音がもたらす聖霊の力によって初めて、律法は成就され、偽善は克服されることになります。ファリサイ派ユダヤ教は福音にとって最も身近な環境であるだけに、それを克服し乗り越えるのに激しい戦いと強烈な力を必要とすることになります。ここに、特に「弟子たちに」対して「気をつけなさい」と呼びかけられる理由があります。


119 やもめの献金(二一・一〜四)

 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。  (二一・一〜四)

 ここもルカはマルコをほぼそのまま用いています。前半のイエスが見ておられた情景の描写では、ルカはマルコの記事を簡潔にしていますが、イエスが語られた言葉はほぼそのまま用いています(ここでも用語が僅かに違いますが)。マタイはこの場所にこの記事を置かず、代わりにエルサレムの荒廃を嘆くイエスの預言の言葉(ルカでは一三・三四〜三五)を置いています(マタイ二三・三七〜三九)。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器であって、神殿の「女子の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。神殿に詣でる人々は、この容器に献金のおかねを投げ入れるのですが、たくさんのおかねを投げ入れている人々の間に、ひとりの貧しい寡婦がレプタ銅貨二枚を投げ入れるのを、イエスはごらんになります。

 レプタというのはギリシア貨幣の最小単位で、マルコはこのレプタ銅貨二枚でローマ貨幣の一コドラントに相当すると説明を加えています。当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシア貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していたので、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。ルカは周知のこととしてこの説明を省略しています。コドラントは、ローマ貨幣の基本単位であり一日分の給料に相当するデナリ銀貨の六四分の一ですから、その半分のレプタ銅貨は、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいになるのでしょう。レプタ二枚はささやかな金額ですが、その日暮しの寡婦にとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部であったと考えられます。一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、この寡婦が自分の存在すべてを神の手に委ねている心が表れています。

 マルコでは、これをごらんになったイエスは「弟子たちを呼び集めて言われた」となっていますが、ルカは略しています。しかし、福音書に書かれている以上、これが弟子たちへのイエスの教えであることには変わりはありません。「よくあなたがたに言っておくが、この貧しい寡婦は、賽銭箱に投げ入れた誰よりも多く投げ入れた」。レプタ二枚は誰よりも少ない金額です。しかし、神が人の内側の心を見られるように、イエスは投げ入れる者の心を見られます。イエスが重大な発言をされるときの、「よくあなたがたに言っておく」が用いられていることからも、この教訓が決して小さい事柄でないことが分かります。

 この寡婦の姿は信仰の本質をよく表現しています。信仰とは神との関わりの中に生きることですが、人間は普通自分が持っているものの中の余りを神に捧げて、神からよいものを手にいれようとします。自己を確保した上で、外にいる神を利用しようとする態度です。それに対してこの寡婦は、自分の貧しさの中から、自己のすべてを神に投入れ、委ね切っているのです。それが聖書のいう信仰です。イエスはこの寡婦の姿を教訓として、弟子たちに信仰の本質を教えられます。「みな余っているものの中から投げ入れているが、この寡婦は乏しい中から、持っているもの全部、自分の生活すべてを投げ入れた」。これが信仰です。
 よく似た物語は多くの宗教に見られます。おそらく、この寡婦の物語も独立の伝承として伝えられていたものでしょう。マルコは(そしてマルコに従ってルカは)この信仰の教訓を、律法学者たちの自己顕示の偽善の攻撃の直後に置いて対照させ、神殿における律法学者たちとの論戦を締めくくります。


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