ルカ二部作 


      序 章  ルカ二部作の成立



はじめに―福音書の配列について

 新約聖書は大きく分けると、福音書と使徒書簡の二つの部門に別れます。福音書が先に置かれて、その後に使徒書簡が続いています。福音書の部門については、現行の新約聖書では、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、使徒言行録の順に並んでいます(使徒言行録も福音書の部門に入ることについては後述)。この配列では、ルカ福音書と使徒言行録の間にヨハネ福音書が入ってきているので、ルカ福音書と使徒言行録が同じ著者によって書かれた一連の作品であることが見落とされがちです。後で詳しく見ることになりますが、ルカ福音書と使徒言行録は、同じ著者により一つの構想のもとに書かれた連作であって、切り離して理解することはできません。

 マルコ、マタイ、ルカの三つの福音書は内容と構成が並行しており、並べて比較することができることから「共観福音書」と呼ばれていますが、この三者の前後関係と依存関係については、マルコ福音書が最初に書かれ、そのマルコ福音書の枠を用いて、マタイ福音書とルカ福音書がその後に書かれたという見方がほぼ確立しています。マタイとルカの前後関係は確認できませんが、ルカ福音書を使徒言行録と一体として取り扱う必要から、マルコ、マタイ、ルカの順序が適当ではないかと考えます。

 それで、わたしは四福音書を配列するとき、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書と使徒言行録の順序に並べ、ヨハネ福音書は(他の三福音書とは性格が違いますので)別枠として最後にもってくるか、または使徒言行録を最後に置くために、ヨハネ福音書をマルコ・マタイの次に置き、ルカの二部作を最後に置くのが適切ではないかと考えています。



    T ルカの福音提示

ルカの二部作

 「ルカ福音書」と「使徒言行録」という二つの文書は、同じ著者によって、同じ意図をもって書かれた著作であることは、両書の序文からも明らかです。両書の共通の意図と性格については後で述べることにして、ここではまず著者が同じであることだけを確認しておきます。「使徒言行録」の著者はその序文(一・一〜二)で、同じ献呈者であるテオフィロ(ルカ一・三)に向かって、「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、・・・・天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と書いています。これは先に書いた福音書を指していることは間違いありません。用語や文体も、両書が同じ著者による著作であることを指し示しています。著者は、先の第一巻(福音書)に続いてこの第二巻(使徒言行録)を書いて、同じテオフィロに献呈しています。

 ルカは二つの別の著作をなしたのではなく、第一部と第二部からなる一つの著作をなしたと見るべきです。もしその一つの著作に標題をつけるとしたら、それは「イエス・キリストの福音 ― その史的展開」としてよいでしょう。第一部(ルカ福音書)ではイエスによる福音の展開、第二部(使徒言行録)では使徒たちによる福音の展開を記録したといえます(「展開」という用語については後述)。世に福音を提示する文書を福音書というのであれば、第一部だけでなく、第二部を含む全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきです。

 しかし、これは一つの著作が二つの部に分けられるというのではなく、別の著作であったことは事実です。それぞれの著作は、当時の書物の最大容量の長さであると見られ、別の書巻として制作され、別の時期にテオフィロに献呈されたと見られます。その間隔は正確には分かりません。一〇年ぐらいであったと見る研究者もいます。しかし、二部作が一つの構想の下に緊密に構成されていることを見ますと。その間隔はそれほど大きくはなく、かなり短い間隔で執筆されたのではないかと考えられます。

 ここでは伝統的な呼び方に従って、第一巻を「ルカ福音書」、第二巻を「使徒言行録」と呼んでいきますが、両者は一つの著作であるという視点を見失わないようにしなければなりません。両書をまとめて「ルカ二部作」とか「ルカ文書」と呼ぶこともあります。

 

ルカ二部作の意図と性格

 著者は、この著作の意図を自ら第一巻(ルカ福音書)の序文でこう明言しています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。(ルカ一・一〜四)

 ルカはここで《ディエーゲーシス》(ここで「物語」と訳されている語)という、新約聖書ではここだけに出てくる注目すべき用語を使っています。この語は、「わたしたちの間で実現した事柄について」の「歴史的説明」という意味で用いられています。この事柄については、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書き連ねて、「歴史的説明」の書を著すことを、すでに多くの人が試みてきた、とルカは言っています。その中にはマルコ福音書が含まれていることは確かです。ルカは、マルコ福音書を前に置いてこの福音書を書いています。マルコ福音書だけでなく、ルカは他の奇蹟物語や比喩物語集、また現在「語録資料Q」と呼ばれているイエスの語録集などの文書も手元にもっていたでしょう。ルカは、「すべての事を初めから詳しく調べている」者として、それらを「順序正しく書いて」、自分なりの「歴史的説明」の書を著して、「敬愛するテオフィロ」に献呈しようとします。

 そして、このような「歴史的説明」の書を献呈する意図を、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からだとします。献呈する相手の人物は、すでに「教えを受けている」者とされています。すなわち、この「歴史的説明」の書は、すでに信者である人たち、キリストの民《エクレーシア》内部の人たちに宛てて書かれています。彼らが、自分たちの受けた教えが歴史上に実現した出来事という確実な根拠に基づいていることを確認して、信仰を確かなものにするために書かれた書です。

 同時に、この書が「テオフィロ」に献呈されている事実は、この「歴史的説明」の書が、外のローマ社会の人々に向かって、キリストの民の信仰を弁証するために書かれた書であることを示唆しています。というのは、「テオフィロ」につけられた《クラティストス》という語は、高位高官の人物に敬意をもって呼びかけるときの敬称(英語 Most Excellent)ですから、この人物はローマ社会を代表する教養ある高位の人物であり、ルカはこの人物にこの書を献呈するという形で、ローマ社会に向かって、この信仰が「わたしたちの間で実現し、最初から目撃した人々がわたしたちに伝えた」確かな歴史的出来事に基づくものであり、それを報告することでその確かさ、健全さを説明しようとしていることになります。このように、外の人たちに向かって自分の信仰の根拠と内容を説明し、外の人たちの承認や同意を得ようとする文書を「護教文書」と言い、そのような著作をもって世に働きかける著作家を「護教家」と呼びます。ルカの著作は、そのような「護教文書」のはしりです。ルカの後に出た二世紀の多くの「護教家」は、ローマ皇帝などローマ社会を代表する人物に宛てて、多様な護教文書を書くことになります。ルカの二部作には、このような護教文書としての性格が見られます。

 なお、「テオフィロ」はルカの著作活動と出版を支援した後援者(パトロン)ではないかと見られます。彼が実在の人物かどうかが議論されていますが、たとえ実在の人物ではなくても、ルカの著作の意図や性格を理解する上で変更の必要はありません。

 

福音の史的展開

 ルカは自分の著作を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書としています。その「歴史的説明」は、「わたしたちの間で実現した事柄について」、「すべての事を初めから詳しく調べて」いるルカ自身が「順序正しく書いて」仕上げた著作です。この「わたしたちの間で実現した事柄・出来事」は、本来目に見えない神のご計画とか働きが、わたしたち地上の人間の間で、すなわち地上の歴史のただ中に、目に見える出来事の形で実現したことを指しています。

 福音は、イエス・キリストの出来事において成し遂げられた神の救いの働きを世界に告知する言葉です。このイエス・キリストの出来事(この方の生涯・働き・言葉)こそ、「わたしたちの間で実現した事柄」、わたしたち地上の人間の歴史の中に起こった救いの出来事に他なりません。《ケリュグマ》(福音)はそれを告知する直接的な言葉ですが(たとえばコリントT一五・三〜五)、ルカはそれを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書として提示します。わたしは、この本来目に見えない神の言葉である福音が歴史上の出来事として起こり、その中に自らの本質を開き示していく相を「福音の史的展開」と呼んでいます。わたしは、この「福音の史的展開」を跡づけて、その中で福音の本質を追究することを生涯の課題としていますが、それはルカがしたことを現代においてしようとしていることに他なりません。

 ルカはこの課題を成し遂げようとして、第一巻(福音書)を書きあらわしました。しかしその課題は、イエス・キリストの出来事を語る第一巻だけで終わることはできませんでした。ルカは、このイエスの復活後、この方をキリストとして世界に宣べ伝えた使徒たちの働きを見ています。彼らが宣べ伝える「福音」と、その結果歴史の中に生み出され、歴史の中に歩む「キリストの民」《エクレーシア》を見ています。それも「わたしたちの間で実現した事柄」、神の働きの歴史的展開に他なりません。ルカは第二巻(使徒言行録)を書きあらわして、イエス復活以後の福音の史的展開を文書にします。その序文(使徒言行録一・一〜二)は、これが同じ著者による第一巻の続編であることを示すだけの短いものですが、その意図とか性格は第一巻と変わりません。福音書の序言で示した著作の目的と性格は、この第二巻にも続いています。

 

完成と継続 ― ルカの救済史

 ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」という文で、「実現した」を「満す」とか「成就する」という動詞の完了形・受動態で表現しています。この動詞は、(マルコやマタイで)預言の成就について用いられる「満たされた、成就した」という動詞とは少し違う形ですが、同系の動詞です。ルカはこの動詞で、イエス・キリストの出来事によって神の救済の働きが「完成に達した」ことを指し示しています。しかし、イエス・キリストにおいて完成に達した神の救いの働きは、なお地上の歴史の中で展開すべき未来をもっています。これは、その救いを受ける人間が時間の中にいるかぎり、すなわち歴史の中にいるかぎり必然の相です。

 最初キリストの福音は、預言された終末の到来として告知されました。キリストの十字架と復活において実現した救いは、すぐにも栄光の中に来臨されるキリストによって完成するという、差し迫った終末的告知でした。使徒時代にはまだその終末待望が熱く燃えていましたが、使徒後の時代、すなわち「使徒名書簡」の時代では、「来臨の遅延」が大きな問題になっていました。すなわち、エルサレムが異邦人のローマによって占領され、神殿が崩壊してもキリストの来臨はありませんでした。七〇年の神殿崩壊以後の時代の指導者たちは、キリストの民《エクレーシア》にこの問題にどう対処するのかを語らなければなりませんでした。

 この時代のキリストの民は、いつ来るのか分らないキリストの来臨による完成までの長い期間を、地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならなくなっていました。エルサレム神殿の崩壊後のこの時代、イスラエルに代わってキリストの民《エクレーシア》が、イエス・キリストにおいて完成した神の救済を担って、歴史の中を歩む使命が与えられていることを、この時代の終わりに生きたルカはしっかりと自覚しています。神は歴史の中でその救済の働きを成し遂げ、進められるのだという救済史の思想(神学)が自覚されます。ルカはその自覚で、福音の史的展開を物語る《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書二巻を書き著します。このようにして、ルカの著作は、この時代の《エクレーシア》の救済史的自覚を表現する文書となります。

 

著者と成立年代

 さて、このような「福音の史的展開」を物語る重要な二部作の文書を著した「ルカ」とはどのような人物でしょうか。これまで著者を「ルカ」と呼んできましたが、この二部作の著作自体には、著者が「ルカ」であることを指し示す文言はありません。古代教会の伝承において(エイレナイオス以来)、この二部作はパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡)にパウロの同伴者・協力者としてその名前が出てくる「医者のルカ」(フィレモン二四節、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)が書いたとされてきましたので、伝統的に「ルカ」の著作とされてきました。本書でも、この二部作の著者を、この教会伝統に従って「ルカ」と呼んでいますが、著者が誰であるか、その人物像を正確に描くことはできません。

     ギリシア語新約聖書には、《ルーカス》という名が(ここにあげた)三カ所に出てきます。この《ルーカス》は、フィレモン書では「わたしの協力者(同労者)」、コロサイ書では「愛する医者ルカ」、テモテ書では「ルカだけがわたしのもとにいる」と言われています。二部作の著者が医者であることについては、医者特有の術語が少ないことから、これを否定する議論もありますが、当時の医者の実態からすると決定的な根拠にはならず、医者であることを示唆する箇所もあり、医者であったとする伝承は受け入れてよいと考えられます。

     なお、新約聖書には《ルーキオス》という名が二カ所に出てきます。使徒言行録(一三・一)では、アンティオキア集会の指導者の一人として、バルナバやサウロ(パウロ)と並んで「キレネ人のルキオ」という形で、そしてローマ書(一六・二一)では、パウロの同行者の一人として、ヤソンとソシパトロと一緒に、「わたしの同国人ルキオ」という形で出てきます。この二カ所の《ルーキオス》はユダヤ人ということになります。


 この二部作の著者がユダヤ人であるのか異邦人であるのかが議論されています。コロサイ書(四・一〇〜一四)の文面では、ルカはパウロの同国人(=ユダヤ人)のリストとは別のグループにあげられているので、ルカの出自は異邦人であるとされてきました。さらに二部作の文体は、洗練されたギリシア語と高度のギリシア文学の教養を示しており(そのギリシア語の文体は新約聖書の著者たちの中でも最高の洗練さを示しています)、内容も異邦人向けに書かれていることから、当然のように著者はギリシア人(=異邦人)とされていました。

 しかし最近、二部作の著者はユダヤ人ではないかという議論が強くなっています。たしかに、そのユダヤ教に対する態度や詳細で多彩な聖書引用や聖書に基づく議論は、著者がユダヤ人であることを推察させる面があります。ただ、その生まれは異邦人であっても、当時の最高のギリシア的教養を身につけた後ユダヤ教に改宗したか、少なくとも「神を敬う者」としてユダヤ教会堂で信仰生活を送った人物である可能性も考えられます。

 著者が異邦人であるかユダヤ人であるかは、この場合あまり意味がありません。ユダヤ人であっても、ヨセフスやフィロンの場合に見られるように、ギリシア的環境で生まれ育ったディアスポラのユダヤ人には、高度のギリシア語とギリシア的教養の人物は珍しくありません。また、著者が異邦人であっても、入信後数十年もすれば、長年聖書(ギリシア語旧約聖書)に親しみ、ユダヤ教的な思想を深く身につけていることは十分あり得ることです。その出自がいずれであれ、この二部作の著者は、高度のギリシア的教養と深い聖書とユダヤ教への理解を身につけた教養人であったことは確かです。エーゲ海地域のヘレニズム世界に展開したキリスト信仰は、使徒名書簡の時代の後期に、その諸潮流を統合する最適の人物を見出したと言えるでしょう。

 著者問題において問題になるのは、「使徒言行録」の旅行記の中に出てくる「われら章句」です。「われら章句」というのは、「使徒言行録」の旅行記の中で、主語が「わたしたちは」となっていて、その旅行記を書いた人物自身がその旅行に参加していることを示している部分です。この「われら章句」は、パウロの旅行のトロアスからフィリピまで続き(一六・九〜一七)、フィリピでいったん途切れ、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、この旅行記の著者はトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この事実から、この「われら章句」の著者はフィリピ出身の人物ではないかという推察もあります。

 この「われら章句」については、三つの見方があります。1.古代教会(エイレナイオス)以来、この旅行記の著者は使徒言行録の著者であるルカ自身であるとする伝統的な見方。2.実際にこの部分の旅行に参加した別の人物の旅行記をルカが資料として利用したという見方。3.この「われら章句」はルカの文学的創作であるとする見方です。現代の研究者には、2と3の見方が多いようです。

 五〇年代後半のパウロの伝道旅行に同行したのが、ルカが二〇歳前後とか三〇歳前後の時であったとすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。わたしたちはこの二部作の著者を、若き日にパウロの後期の伝道活動に同伴し、最後の監禁の時期まで見届けた「医者のルカ」であるとする伝統的な見方に立って読んでも、特別の不都合はないと考えます。

 しかし、この時期のパウロに同伴して活動し、パウロを熟知している人物の著作としては、「ルカの二部作」(とくに使徒言行録)はあまりにもパウロ書簡から知られるパウロの実像や思想から離れているとして、現代の研究者には2または3の見方をとる人が多いようです。

 たしかにルカが使徒言行録で描くパウロは、パウロ書簡から知られるパウロの実像とは、その実際の出来事においても福音理解(思想や神学)においても、違う面があることは顕著な事実です。しかし、これは自分の著作の理念や構成を貫こうとするルカの姿勢から説明できるものが多く、ルカがパウロの同伴者であったことを否定する根拠にはなりません。たとえば、パウロ書簡ではきわめて重要な主題となっているエルサレムの聖徒たちへの献金のことに、使徒言行録は全然触れていません。これは同伴者として事実を熟知しているはずの著者にしては不自然なことです。しかし、ルカは自分の著作の意図に合わないものや関係のないものは大胆にカットして筆を進めていく著述家です。ルカは何らかの理由で献金問題に触れるのは適切でないと判断して、意図的に触れなかったと見られます。

 ルカがパウロ書簡に触れないことが問題になりますが、これはルカが著作した時期(おそらく80〜90年代)には、まだ「パウロ書簡集」が収集されていなかったか、少なくとも流布していなかった(流布は二世紀になってからです)ので、著者は「パウロ書簡集」という文書は持っていなかったし、見てもいなかったことを示唆しています。この事実は、ルカ二部作の成立が比較的早い時期であったことを示唆する材料になります。

 ルカは、序文において自分は「わたしたちの間で実現した事柄」の「目撃者」ではなく、「目撃者」たちが記録したことを整理してまとめる役割を果たす者であると明言しています。これは使徒たちから後の第二世代(使徒たちの弟子)、第三世代(さらにその弟子)の仕事です。第二世代ではペトロとパウロの一致を描くことは不可能であるとし、その他の理由もあって、ルカを第三世代と見る研究者が多いようです。この二部作の成立年代も、80〜90年代に見る説が多いようですが、70年代から二世紀初頭まで様々な見方がなされています。

 実際の成立年代を確定することは困難ですが、この二部作は「使徒名書簡」の時代の終わりに位置づけるべき文書であると、わたしは考えています。すなわち、パウロ以後にも継承されてきたパウロの福音と、パウロ以後のキリスト信仰の変容がルカの二部作に流れ込み、ここで「福音書」(二部作全体を一つの福音書と見て)という規範的な形でまとめられ、以後の時代の出発点となっていると、わたしは見ています。

 ルカの二部作の成立地域についても、アンティオキアやカイサリアなど諸説がありますが、二世紀末に著述した教父エイレナイオスは、ルカの著作はアカイアで成立したという伝承を伝えています。ルカの二部作は、アカイアを含むエーゲ海地域で成立・流布していたことは現代の批判的な聖書学も認めています(たとえばH・ケスター)。パレスチナとかシリアというような他の地域からのものを含め、エーゲ海地域でそれまでに伝えられていたケリュグマ伝承とイエス伝承、その地域のエクレシアで成立していた賛歌や説教、伝記などすべてがこのルカの文書に流れ込み、それがこの「使徒名書簡」の時代に形成されたキリスト信仰を受け継ぐルカの神学の枠組みの中でまとめられ、この二部作が生み出されたと見られます。

 ルカの二部作は、新約聖書の中でも群を抜いて巨大な作品です。二部作の合計では全五二章になります。マタイの二八章、ヨハネの二一章に較べても、いかに巨大な作品であるかが分かります。それは全新約聖書の約四分の一の分量を占めます。それは、パウロとパウロ以後の時代の福音をまとめあげ、次の時代へ引き継ぐためのピボット(回転軸)の位置を占めています。二世紀以後のエクレシアは、このルカの路線を継承して「教会」を形成していくことになります。

 

時代の総合としてのルカの二部作

 前著『パウロ以後のキリストの福音』で見たように、とくにその終章「パウロとパウロ以後」でまとめたように、エルサレム陥落以後の「使徒名書簡」の時代は、一方ではユダヤ教黙示思想から脱却してヘレニズム世界の思想の枠組みの中でキリスト信仰を確立しようとする潮流があり、他方にはキリストの来臨を中心にしたユダヤ教黙示思想の枠組みを維持しようとする潮流があり、二つの潮流が絡み合い、対抗し、新しい総合を求めて模索していた時代ではないかと見られます。この総合の試みの一つが、この時代を締めくくるような意義を担って現れたルカの二部作、すなわちルカ福音書と使徒言行録ではないか、とわたしは見ています。

 この「使徒名書簡の時代」の二つの潮流について、ルカは両者を総合し、そこから生まれる新しい方向を模索しています。一方でルカは、マルコ福音書や「語録資料Q」に伝えられているイエス伝承を継承し、パレスチナ・ユダヤ人が伝えたパレスチナの伝承を十分活用しています。その中にはマルコ一三章の「小黙示録」と呼ばれるパレスチナ・ユダヤ教の黙示思想的伝承も含まれています。

 しかし同時に、ルカはエルサレム神殿はすでに崩壊し、イスラエルを核とする救済史は成り立たたなくなっていること、「異邦人の時代」が始まっていることもしっかりと見据えています。もはや黙示思想的な来臨待望だけに生きることはできません。キリストの民はこれから何百年も何千年も地上の歴史を歩む覚悟をしなければなりません。イエス・キリストの出来事において成し遂げられた救済の出来事を土台として、その上に《エクレーシア》の中に働く神の救いの歴史を築いていかなければなりません。

 ユダヤ人である使徒たちが伝えたように、聖書の救済史の枠組みは維持すべきですが、それはもはやパレスチナ黙示思想的な形においてではなく、ユダヤ人と異邦人とからなるキリストの民《エクレーシア》を担い手とする歴史の中での歩みの中で形成されるべきものになります。その歩みの根拠・土台として、ルカはイエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救済の出来事と、その土台に立って歴史の中を歩むキリストの民の範例として、最初期の《エクレーシア》の姿を、二部作として書きとどめます。新しい救済史理解が始まります。この方向の先に、エイレナイオスの救済史神学が成立し、それがその後の正統派の教会の神学を方向づけます。

 ルカの二部作の成立年代については議論が続いていて確定はしていません。大体は一世紀の終わり頃と見られていますが、二世紀初頭と見る研究者もいます。実際の成立年代については、ルカ文書よりも遅いものがあるかもしれませんが、福音の展開史の視点からは、わたしはルカの二部作を「使徒名書簡」の時代を締めくくる位置にある著作だと見ています。ルカ文書はそれまでに伝えられたすべての伝承を統合し、これからのキリストの民《エクレーシア》が進むべき方向を指し示す位置にあると見られます。

 

    U 異邦人への福音書

異邦人共同体における成立

 前著『パウロ以後のキリストの福音』の終章第二節「福音書の時代」で書きましたように、使徒たちが世を去ってから一世代ぐらいの期間に「福音書」と呼ばれる新しい類型の信仰文書が生み出されました。その時期は、70年のエルサレム陥落を頂点とするユダヤ戦争から一世紀末(あるいは二世紀初頭)までの三〇年から四〇年くらいの時期になります。この時代は、まさに「福音書の時代」であり、福音の歴史的展開にとってきわめて重要な意義をもつ時代です。

 この時代の初めに、すなわち70年前後にマルコ福音書が成立したと見られます。マルコ福音書の成立地については、伝統的にはペトロがローマで殉教した後、ペトロの通訳者であり協力者であったマルコがローマで書いたとされてきましたが、しかし最近ではその内容からシリアで成立したとする見方が有力になってきています。いずれににしてもペトロが伝えたイエス伝承をまとめた文書として尊重され、この時代に急速に各地に流布し、この時代の後半には、東はパレスチナ・シリアから西はローマまで、この時代の地中海地域の福音宣教圏全体に広く知られるようになっていたと見られます。

 それで、同じくイエス伝承を用いて復活者イエス・キリストの福音を告知する文書が、各地でマルコ福音書をモデルとして生み出されることになります。この時代の後半(80年代から90年代)には、東方ではシリアでマタイ福音書が書かれ、西方ではエーゲ海地域でルカ福音書が成立することになります。この二つの福音書は、ほぼ同じ時期(この時代の後半)に書かれたと見られます。

 マタイ福音書とルカ福音書は、同じようにマルコ福音書を基本的な枠組みとして用いていることと、共通のイエスの語録資料を用いていることから、共通点が多く、マルコ福音書を含めて三つの福音書が「共観福音書」と呼ばれることになります。しかし、マタイ福音書とルカ福音書は、その成立事情から、対照的な性格を見せています。それで、今回の主題であるルカ福音書の性格を際だたせるために、マタイ福音書と比較しながら、ルカ福音書の特質を見ていくことにします。

 両者の基本的な違いは、マタイがユダヤ人キリスト者に向かって書いているのに対して、ルカは異邦人キリスト者を対象として著述していることです。マタイ福音書が、マルコ福音書を基本的な枠組みとして用いながらも、ユダヤ人読者のためにかなりマルコ福音書を改訂し、また、ユダヤ教の枠内で伝承された「語録資料Q」を拠り所として主要な内容としているなど、律法(ユダヤ教)の立場を維持しようとしています。そのことは、前著『マタイによる御国の福音』と『マタイによるメシア・イエスの物語』のマタイ二部作で見たとおりです。マタイ福音書を生み出したシリアのユダヤ人信者の共同体(マタイ共同体)は、すでにユダヤ教会堂から出て、別の信仰共同体として異邦人社会に乗り出そうとしています。そのため、その内容は異邦人にも呼びかけるものとなっています。何よりも異邦人社会の言語であるギリシア語で書かれていることが、この福音書の異邦人社会に向かう姿勢をよく示しています。しかし、著者はユダヤ教律法学者の出身であると見られ、読者もユダヤ人共同体であることから、この福音書にはユダヤ教的な体質が色濃く残っています。

 それに対してルカ福音書は、パウロの異邦人伝道の成果として形成されたエーゲ海地域で、しかもその構成員のほとんどが異邦人出身者になった時期に成立しています。著者のルカが異邦人であるかユダヤ人であるかは確認できませんが、先に見たように、どちらであるにせよ、著者はギリシア・ローマ世界の高い教養をもち、異邦人の視点から著述を進めています。前著『パウロ以後のキリストの福音』(とくにその終章)で見たように、使徒名書簡の時代(70年のエルサレム陥落から一世紀末まで)は、もはや律法(ユダヤ教)との関係が問題にならなくなるほど、ユダヤ人の影響は小さくなっています。このような異邦人諸集会が活動しているエーゲ海地域で、このような時代の末期に成立したルカの二部作が異邦人向きの著作となるのは当然です。

 一方ルカは、使徒たちが伝えた福音と信仰を継承維持することを使命としているので、ユダヤ人である使徒たちが当然のこととして拠り所とした聖書(旧約聖書)を信仰の拠り所として尊重しています。ディアスポラのユダヤ人として幼い時から身につけてきた知識か、または回心してから数十年の学びによって獲た知識かは確認できませんが、ルカは七十人訳ギリシア語聖書に精通しており、それを引用して(マタイと較べると事例はずっと少ないですが)議論を進めています。その結果、ルカの二部作は聖書的・ユダヤ教的救済史の枠組みを基本的には保持しつつ、使徒名書簡の時代に見られたユダヤ教律法から自由になったヘレニズム的キリスト信仰を、高いギリシア的教養で表現する文書となっています。そのような性格からルカの二部作は、ヘレニズム世界に進出した使徒たちのキリスト宣教が、この使徒名書簡の時代の最後にとった形態として、福音の史的展開において重要な位置を占めています。

 

異邦人向けの表現

 ルカの二部作の内容がどのような意味で異邦人向けであり、異邦人のキリスト信仰の表現であるかについては、個々の段落の講解で触れることになりますが、ここでは用語や表現法など表面的な事柄で、ルカの二部作が異邦人向けであることを示す事例をあげておきます。

 ルカは、ギリシア語だけを用いている異邦人読者のために書いていますから、聖書やイエス伝承にあるヘブライ語やアラム語などセム語系の用語を用いないようにしています。たとえば、「アッバ」、「ボアネルゲ」、「エファタ」、「ホサナ」などマルコ福音書やマタイ福音書に出てくるセム語系の用語は、ルカの並行箇所には用いられていません。また、「ラビ」というヘブライ語は、「師、先生」とか、「主人、先生」という意味のギリシア語に変えられています。「ゴルゴダ」というヘブライ語の地名も省略されて、「されこうべの場所」という意味を表現するギリシア語だけになっています。

 用語においては、共観福音書ではルカだけに出てくる「救い主」《ソーテール》という称号が注目されます。キリスト教二千年の歴史の中でイエスの称号として重視され、広く用いられてきたこの称号は、意外なことに新約聖書では最後期の一部の文書に現れるだけで、他の称号と較べると全体としては用例がきわめて少ないのです。

 この「救い主」《ソーテール》という称号は、パウロにも一例(フィリピ三・二〇)だけ見られますが、パウロ以後に少し用いられ(エフェソ五・二三)、最後期の牧会書簡に至って急増し、一〇例となります。また、最も遅い時期の文書と見られるペトロ第二書簡に五回出てきます。他には、ヨハネ福音書(四・四二)とヨハネ第一書簡(四・一四)に一例ずつ、ユダ書(二五)の一例だけです。それだけにルカがこの称号を四回(福音書で二回、使徒言行録で二回)用いていることが目立ちます(福音書の二回は一・四七と二・一一、使徒言行録の二回は五・三一と一三・二三です)。

 この「救い主」という称号は、福音書の中で初期のマルコ福音書には用いられず、また後期でもユダヤ人向けのマタイ福音書にも出てきませんが、後期に異邦人向けに書かれたルカの二部作に出てくるようになります。これは、ルカ文書成立の環境が、牧会書簡のような最後期の文書の異邦人環境と似ていることを示唆しているのではないかと考えられます。先に前著『パウロ以後のキリストの福音』の「牧会書簡」の章で紹介したように、牧会書簡の著者はルカではないかという説もあるくらいです。

 ギリシア・ローマ世界では、都市を侵略者から解放したり、世界に平和を樹立した将軍や皇帝が「救い主」という称号で称えられていました。異邦人読者には、メシアとか贖い主というようなユダヤ教的な称号よりも、この「救い主」という称号の方がずっと分かりやすく親しみやすい称号であったのでしょう。イエス・キリストは、イスラエルの「メシア」から「万民の救い主」へと変貌します。この世界での福音の展開を締めくくるような位置にあるルカの二部作で、この「救い主」という称号が用いられるようになるのも理解できます。ユダヤ教徒が汚れた異教徒たちを指すのに用いた「異邦人」《エスノイ》(複数形)という呼称は、ヘレニズム世界での宣教の場では世界の諸民族を指す用語となり、キリストは世界のすべての民の救い主として宣べ伝えられるようになります。「異邦人への使徒」、すなわち非ユダヤ教徒への福音を委ねられたパウロから出発した宣教運動は、ルカの時代には世界の諸民族(万民)への救済使信として告知されることになります。

 


    V ルカ二部作の構想

旅の書

 以上に見たように、ルカは二部作の全体でキリストの福音をギリシア・ローマ世界に提示しようとしています。他の三つの福音書がすべてイエスの生涯の枠内で福音を告知しようとしているのに比べて、この点がルカの福音提示の最大の特色であり、貢献です。ルカは、第一部のイエス言行録というべきルカ福音書だけでなく、それに第二部の使徒言行録を加えて、世界に対する神の救済を告知するのです。両部とも同じ福音の告知ですから、構成の上でも内容においても相対応する形になるのは自然なことです。その対応関係は個々の段落の講解で触れることになりますが、ここでは大枠における両部の対応関係を見ておきたいと思います。

 ルカの主要関心事は、ユダヤの辺境ガリラヤで始まったイエスの「神の国」の福音が、全世界の救済の告知として(当時の人にとって全世界である)ローマ帝国の首都に到達する過程を描き、それによってこの世界にキリストの福音を提示することでした。ルカはこの二部作で、ガリラヤにおけるイエスの働きから始まって、その神の救いの告知が聖都エルサレムを経て、帝国全体を代表するローマに達するまでの歴史的過程を描きます。そのことによって、イエスをキリストと信じている人たちに、その信仰の根拠とその確かさを示し、周囲のギリシア・ローマ世界の人たちに、このキリスト信仰を認め、受け入れるように呼びかけます。その著作の意図は、著作への序文(ルカ一・一〜四)で見たとおりです。

 このような地理的な進展がルカの二部作の大枠を形成します。第一部(福音書)では、イエスによって担われた福音がガリラヤからエルサレムまで進む過程が叙述されます。そして第二部(使徒言行録)では、使徒たちに担われたキリストの福音がエルサレムから始まってローマに到達する過程が物語られます。この地理的な進展は、福音の担い手の地理的な移動、すなわち旅の姿で描かれます。従って、ルカの二部作は「旅の書」の様相を示すことになります。

 第一部(福音書)については、イエスがガリラヤからエルサレムに行かれたことはどの福音書にも記述されていますが、ルカ福音書においては、ガリラヤからエルサレムに向かうイエスの旅が、ガリラヤでの「神の国」の宣教活動と、エルサレムでの受難と復活の出来事と並んで、福音書の主要部分を形成しています。この旅の部分(ルカ九・五一〜一九・二八)は「ルカの旅行記」と呼ばれ、その分量からも特色ある内容からも、この区分が重視されていることが分かります。分量だけみても、この旅の部分は計三七七節あります。これは、ガリラヤでの活動を描く部分(四・一四〜九・五〇)の二七五節、エルサレムでの受難と復活を語る部分(一九・二八〜二四・五三)の二九六節と較べて、かなり大きなことが分かります。

 その内容も、モデルとしているマルコ福音書から大きく離れて、ルカ独自の性格を示しています。他の部分はほぼマルコ福音書に従っていますが、この「旅行記」では、ルカだけに見られるイエスの語録やたとえを多く取り入れています。たとえば、ルカだけに伝えられている有名な「放蕩息子」、「失われた銀貨」などのたとえ話は、みなこの「旅行記」に収められています。ルカだけの独自の内容を収めた部分(九・五一〜一八・一四)は、この「旅行記」の大部分を占めています。

 第二部の使徒言行録が「旅の書」であることは、一読して明らかです。フィリポのサマリアから沿岸地方への宣教の旅、ペトロのカイサリアに至る旅など、使徒たちの旅によって福音はエルサレムから各地に広まっていきます。エルサレムから追放された「ヘレニスト」(ギリシア語を用いるユダヤ人)によって設立されたアンティオキア集会から、ユダヤ教の枠を超えた伝道活動が始まり、それはヘレニズム世界に広く離散していたディアスポラ・ユダヤ人の会堂を拠点としながら、周囲の異邦人世界へ拡大していきます。そのクライマックスはパウロの伝道旅行です。アンティオキアから始まったパウロの宣教活動は三次に及び、ついにローマに達します。使徒言行録は、使徒たちの旅の物語で満ちています。

 ルカの二部作が「旅の書」という様相を見せているのは、著者自身が旅の人であったからではないかと考えられます。先に「著者」の項で見たように、著者のルカは(全部ではないにせよ)パウロの伝道旅行に同行し、その活動をその目で見た同行者であり、「われら章句」の著者であると見られます。この伝統的な見方に対しては、様々な批判があり議論は続いていますが、それを否定する決定的な根拠はありません。少なくとも、現形のルカの二部作を理解する上で、この見方に立って読むことは有益であると考えられます。

 ルカは、パウロの最後の旅、すなわちマケドニア州・アカイア州からアジア州を経てエルサレムに上り、エルサレムで逮捕され、カイサリアで拘禁され、ローマに護送されるまでの旅にも同行して、パウロの最後を見届けていると考えられます。すでにパウロの生前にルカの旅は広範囲にわたっていますが、パウロ亡き後も、ルカは各地を旅して、使徒たちが伝えた諸伝承を集めたのではないかと推察されます。ルカが資料として用いている伝承が地域的な広がりを見せていることから、そのような推察が促されます(ルカが用いた資料については後で触れます)。

 

二部作の地理的な枠組み

 このような地理的な進展という大枠をもって構想されたルカの二部作は、その構想に従って構成されているので、その構成は比較的見分けやすくなっています。細かい区分は講解に委ねますが、二部作全体の構成は、著作への序文(一・一〜四)を別にして、大枠で以下にようになっていると見られます。


  第一部 福音書―イエスの言行録

導入部
 誕生物語と幼児物語     一・五〜二・五二
 イエスの登場        三・一〜四・一三

第一主要部 ガリラヤでの「神の国」宣教活動     四・一四〜九・五〇

第二主要部 エルサレムへの旅      九・五一〜一九・二八

第三主要部 エルサレムでの受難と復活      一九・二八〜二四・五三

 

  第二部 使徒言行録

導入部 イエスの歴史から使徒たちの歴史への移行      一章

第一主要部 エルサレム原始共同体とその宣教活動(ペトロが主要な担い手)    二〜一二章

第二主要部 パウロの異邦人伝道    一三〜二八章


 使徒言行録については、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒一・八)という綱領的な預言に従い、使徒たちの働きを次の三段階にまとめる見方もあります。

 T エルサレムでの証言活動   一〜七章
 U ユダヤとサマリアへの進展  八〜一二章
 V 地の果て(ローマ)への到達 一三〜二八章

 これは第一主要部を、エルサレムとユダヤ・サマリアの二つの段階に分けた形となります。

 なお、地理的な視点から見ると、ルカ二部作全体はエルサレムを中心として構成されていると言えます。福音はエルサレムに向かい(第一部)、エルサレムから発します(第二部)。第一部の福音書においては、イエスの働きはエルサレムを目指しているものとして描かれ、エルサレムにおいてキリストとしての働きが完成します。復活されたイエスはエルサレムとその近郊で現れ、ガリラヤでの顕現は触れられていません。弟子たちはエルサレムにとどまるように指示されます。第二部の使徒言行録においても、使徒たちの働きはエルサレムから発し、つねにエルサレムとの関連で進んでいきます。異邦人への使徒パウロも、繰り返しエルサレムに戻ってきて、エルサレムとの結びつきを確認しています。それで、パウロを「エルサレムとローマの間に立つ使徒」(佐竹)とする見方も出てくることになります。

  ルカはエルサレムの陥落・神殿の崩壊を知っています。ルカが執筆した時には、神殿は焼失し、エルサレムは異教徒が支配する都市になっています。それにもかかわらずルカがエルサレムを福音の史的展開の中心地とするのは、エルサレムが「イスラエル」を象徴する地であるからです。ルカにとっては、エルサレムは神殿と一体です。エルサレムは神殿と一体となって「イスラエル」を象徴しています。イエスの働きはイスラエルにおいて完成し、そこから諸国民への福音が発します。大きく見れば、ルカは預言者がイスラエルやシオンについて語った預言(たとえばイザヤ二・三、二四・二三、三五・一〇、四六・一三など)が成就しているという構想で、このエルサレムを中心とする二部作を構成したと言えます。

 

二部作の構成原理としての預言と成就

 ルカも、他の福音書と同じように、預言と成就の図式を重視していますが、イエスの生涯の個々の出来事が聖書の預言の成就であるとして聖書箇所を引用することは、マタイ福音書に較べるとずっと少なくなっています。マタイは聖書を熟知しているユダヤ人に向かって書いていますから、イエスの生涯の出来事一つ一つに、「それは預言者を通してこう言われていたことが成就するためであった」として、繰り返し聖書を引用しています。それに対してルカは、イエスの出来事が聖書の成就であるという福音の基本的な使信を継承し、「わたし(イエス)についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(ルカ二四・四四)と言っていますが、イエスの働きを記述する本体部分では、マタイのように個々の出来事を預言の成就として聖書を引用することはほとんどありません。これも、聖書を知らない異邦人読者には、福音は聖書(古い契約)の成就であるとする総論は告知しているが、具体的な適用という各論は省略していることになります。

 しかし、ルカがその著述を二部作という形で構成したことから、預言と成就の図式にルカ独自の形が出てきています。すなわち、第一部でのイエスの言動が預言となり、それが第二部の使徒たちの働きにおいて成就しているという構造が見られます。ルカにおいてはイエス自身が預言者であり、イエスが語られた言葉や為された働きが、イエス復活後のキリスト者の共同体《エクレーシア》において実現しているという図式で、その二部作が構成されることになります。個々の対応については、それぞれの段落の講解で扱うことになりますが、ここで代表的な場合を例示しておきます。
 この図式で最も重要な事例は、イエスが御自身の十字架の受難と復活について、それが神的必然であるとして予告・預言されたことが、使徒たちの宣教において、すでに実現した過去の出来事として告知されていることです。

 イエスは御自分に従う弟子たちが周囲から迫害を受けるときに喜ぶように語られましたが(ルカ六・二二〜二三)、使徒言行録では、迫害された使徒たちが喜びに満たされ(五・四一)、集会も迫害の中で喜びに溢れたことが伝えられています。

 イエスは弟子たちが証のために法廷に引き出されることを預言されましたが(ルカ一二・一一〜一二など)、使徒言行録には使徒たちが会堂や最高法院、また総督の法廷に引き出されてキリストを証ししたことが数多く物語られています。

 イエスは「大宴会」のたとえで、福音はまずユダヤ人に与えられるが、ユダヤ人が拒んだので異邦人に向かうことを預言されましたが(ルカ一四・一五〜二四)、それは使徒たちの働き、とくにパウロの働きにおいて、その通りに実現します。パウロは繰り返しユダヤ人に、「あなたたちが拒むので、わたしは異邦人に向かう」と宣言して、その福音の働きを進めていきます。

 イエスは福音を拒む者たちには「足の埃を払い落とせ」と語られ(ルカ九・五)、使徒たちは福音をののしる者たちに向かって「足の塵を振り払って」去っていきます(使徒一三・五一、一八・六)。

 ルカ福音書は他の福音書に較べて、イエスを預言者として描くことが多いようです。とくに、ルカはイエスを申命記(一八・一五)で預言されている「モーセのような預言者」として描いています。ペトロは、ペンテコステのすぐ後に神殿でイエスをメシアとして宣べ伝えたとき、申命記の預言を引用してイエスを「モーセのような預言者」とし、この方に聴き従うように呼びかけています(使徒三・二二)。ステファノは最高法院で弁明したとき、昔のイスラエルの民がモーセに従わなかったように、今のイスラエルは約束された「モーセのような預言者」であるイエスに背き、この方を殺したと、イスラエルを非難しています(使徒七・三七、五二)。このように、終わりの日にイスラエルに遣わされる「モーセのような預言者」を拒んだために、イスラエルは見捨てられ、異邦人が神の民として選ばれることになったという見方が、ルカの二部作には貫かれています。

 

ルカ二部作における対応構造

 ルカの二部作には、預言と成就という関係ではありませんが、第一部と第二部の記述に対応関係が見られます。すなわち、第一部でイエスについて語られたのと同じこと、またはそれに相応する出来事が第二部の使徒たちの働きや共同体についても語られるという関係です。この対応構造は、同じ一つの福音を二部作で提示するルカの著作に必然的に伴う構造であると言えるでしょう。個々の対応関係は講解に委ね、ここでは主要なものを例示して、対応構造があることを指摘するに止めます。

 その中でまず第一にあげるべきことは、第一部のイエスの働きや出来事と、第二部の使徒たちの働きや出来事が、ともに聖霊の働きとして記述されていることです。第一部では、幕が上がる前の序曲というべき誕生物語でも、イエスの誕生は聖霊によるものであることが強調されています。第一部での宣教の働きは、イエスが上より聖霊を受け、聖霊の力に満たされて、預言の成就として御霊の到来を宣言されることから始まります(ルカ三・二二、四・一、一四、一六〜二一)。それに対応して第二部での宣教も、使徒たちが聖霊を受けて力に満たされ、終わりの日の預言の成就として聖霊が降ったという宣言から始まります(使徒一・八、二章)。その後に続くイエスの働きも、使徒たちの働きも、聖霊によるものとして繰り返し記述されます。

 イエスは「神の国」を宣べ伝えられました(ルカ四・四三など多数)。使徒たちも「神の国」を宣べ伝えたとされています(使徒一九・八など多数)。しかし、第二部では、使徒たちは「神の国と主イエス・キリストの御名」を宣べ伝えたとされることが多くなります(使徒八・一二など)。実際には使徒たちは「キリストを宣べ伝えた」(使徒八・五)という方が事実に近いと考えられます。使徒たちは、イエスを復活されたキリストとし、その十字架の死を罪の贖いとして告知したはずです。それを「神の国」の告知としたのは、むしろルカが使徒たちの宣教をイエスの宣教と対応させるために用いた表現であると考えられます。

 イエスは神の霊によって多くの力ある業(奇跡)を行われました。使徒たちも、それに対応する奇跡を行っています。イエスは病人を癒されました。使徒たちも多くの病人を癒します(使徒五・一五〜一六)。イエスは手や足の麻痺した人を癒されました。使徒たちも麻痺した人を癒します(使徒三・一〜一一)。イエスは悪霊を追い出されました。弟子たちも悪霊を追い出します(使徒八・七など)。イエスは死者を生き返らせました。使徒たちも死者を生き返らせます(使徒九・三六〜四三)。このようにルカは、使徒たちが行った多くの奇跡の中から、イエスの奇跡に対応するものを代表的な事例として列挙して、使徒たちの働きを記述しています。

 第二部の最後はパウロのエルサレムへの旅、逮捕、裁判、ローマへの護送というパウロの受難記になっています。パウロの最後は(おそらく意図的に)伏せられていますが、このパウロの受難記は多くの点でイエスの(エルサレムへの旅を含む)受難物語に対応しています。たとえば、パウロのエフェソの長老たちへの別れの言葉(使徒二〇・一七以下)は、イエスの最後の食事の時の訓話に対応しています。福音書がイエスの受難物語で終わるように、ルカは第二部を、使徒たちを代表する人物の受難記で終わります。

 第一部(福音書)と第二部(使徒言行録)との間だけではなく、第二部(使徒言行録)の前半の第一主要部と後半の第二主要部の間にも対応関係が見られます。前半の第一主要部の主要人物であるペトロと、後半の第二主要部の主要人物であるパウロについての記述において、ペトロがしたことやその身に起こったのと同じこと、またはそれに対応することをパウロはしており、またその身に起こっています。たとえば、ペトロは神殿で足の萎えた人を立ち上がらせ、その奇跡に驚いたエルサレムの民衆に最初に福音を説いています(三章)。パウロは異邦人への伝道旅行で、足の萎えた人を立ち上がらせ、驚いた民衆に福音を宣べ伝えます(一四章)。ペトロはヘロデ王によって投獄されますが、天使の働きで獄舎から救出されます(一二章)。パウロもフィリピで投獄されますが、地震によって奇跡的に獄から逃れます(一六章)。

 パウロ書簡(たとえばガラテヤ書二章)で見る限り、ペトロとパウロの間には、イエスの十字架と復活という基本的なことでは一致していますが、ユダヤ教律法に対する姿勢などで違いがあることが知られます。ところが、使徒言行録では、ペトロは律法について、まるでパウロが説いているようなことをユダヤ人に向かって主張しています(使徒一一・一〜一八、一五・七〜一一など)。総じて使徒言行録においては、ペトロの説教とパウロの福音告知は、入れ替えても差し支えがないほど似ていると言われています。二人の説教にも対応関係が読み取れます。

 このような対応関係は、ルカが初期の福音宣教を担った二人の中心人物の間の相違や対立をできるだけ抑え、二人の一致と協力を印象づけるために採用した構成によるものと考えられます。このルカの意図は、自分たちの時代のキリストの民にとって範例的な時代となる使徒時代の共同体の姿を美しく描くためであると見られます。このように共同体の一致を描くことは、キリストの民の内部においても範例として必要ですし、外部に対して自分たちの信仰を弁証する護教的な見地からも有益ですから、ルカがこのような構成をとったことは理解できます。

 

    W ルカの資料と叙述

歴史家としてのルカ

 ルカには歴史家としての面があります。もちろん、ルカは単なる歴史家ではありません。ルカの重要性は、相克する時代の様々な信仰の傾向や潮流を一つの総合にまとめあげて、神学的・思想的に統合されたシステムとし、次の時代への指針として福音を提示する仕事を成し遂げたこと、すなわち神学者としての面にあります。ただ、ルカはその仕事を(自身が序文で宣言したように)「歴史的説明」の書を著すことによって成し遂げたことが、新約聖書諸文書の他の著者たちと違う点です。

 ルカの二部作は、ギリシア・ローマ世界の古典的な歴史書と較べても、勝るとも劣らない優れた作品であると、その方面の専門家が評価しています。古典的な堂々たる序文(一・一〜四)で始まり、新約聖書随一の流麗なギリシア語で、先に見たように綿密に構想された構成をもって、一貫した物語が語り進められていきます。その文体や引用、叙述の仕方は、著者の古典的な歴史書や文芸作品の素養を示しているとされています。しかし、文芸作品としての評価はわたしの能力を超えることですし、また、ルカの二部作が提示する福音の特質を理解しようとする本稿の目的にとっても、深く立ち入る必要はないと考えられますので、その方面の専門書に委ねて、ここでは歴史家としてのルカの一面を、ごく簡単に見ておきます。

 古代の歴史家は何よりも旅行家でもありました。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトス(前5世紀のギリシアの歴史家)は、同時に古代ギリシア最大の旅行家でもあり、直接の見聞を求めて東方世界を広く旅し、エジプトからインダス川にまで行っています。その見聞を基にして大著「歴史」を書きます。また、ローマの勃興期を描く「歴史」を書いたポリュビオス(前2世紀のギリシア人歴史家)は、スキピオに従って地中海各地を広く旅し、ポエニ戦役のことを書くためにハンニバルの全行程を自分で歩いたと伝えられています。

 ルカもまた旅行家であったことは、先に見ました。「われら章句」の著者は、旅行、とくに航海のことに詳しく、体験も豊富であったことがうかがわれます。著者は、少なくともパウロの最後の時期の伝道旅行に同行し、マケドニアからアカイア州を経てパレスチナ・シリアの地に行き、最後はローマまで旅して、各地の実態を自分の目でつぶさに見ています。さらに、パウロ亡き後も広く旅行をして、行き先の各地で関係者から証言を集め、その地方の伝承を聞き取っていたはずです。文書があれば、当然その写しを持って帰ったことでしょう。そのことをルカ自身がこう言っています。

  「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」。(ルカ一・一〜二)

 「わたしたちの間で実現した事柄」というのは、キリストとしてのイエスの出来事を指しており、それを目撃した人たちが、その出来事の証人として召されて、「御言葉のために働いた人々」となり、それを語り伝えました。「御言葉」《ホ・ロゴス》というのは、キリストとしてのイエスの出来事を語り伝える言葉、すなわち福音を指す術語(仲間内の用語)です。彼ら(使徒たち)が語り伝えたことを「書き連ねて」文書にする動きも、すでに始まっていました。そのような試みについて、「多くの人々が既に手を着けています」と言っています。ルカは、そのような文書を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)と呼んでいます。

 このような文書の中に、マルコ福音書が含まれていたことは明かです。ルカはマルコ福音書に基づいて自分の福音書を書いています。また、イエスの語録を集めた「語録資料Q」も手元に持っていたはずです。他にも、イエスの奇跡集なども持っていたことでしょう。このような文書資料だけでなく、ルカは各地で集めた証言や伝承を資料として持っていました。そのことは、ルカ自身が「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので」(ルカ一・三)という表現で示唆しています。

 歴史家としてのルカは、これらの資料を用い、その内容を「順序正しく書いて」(この表現の意味については後述)、この二部作を著述します。この著述の目的は、先に見たように、これを読む者が、「受けた教えが確実なものであること」を確認するための《ディエーゲーシス》(歴史的説明)とするためです(ルカ一・三〜四)。

 

ルカの資料

 そこで、ルカがこの二部作を著述するさいに用いた資料について、簡単に見ておきます。歴史家としてのルカが用いた資料を詳しく詮索することは、眼前のルカ文書を信仰的に理解する上で、決定的に重要なことではありませんので、なお議論の多い資料問題は専門書に委ねて、ここでは必要最小限にとどめます。

 共観福音書の成立に関しては、現在では二資料説が広く認められています。これは、マルコ福音書が最初に成立し、マタイとルカはマルコ福音書とイエス語録資料(略号はQ)という二つの資料を用いて、それぞれの福音書を書いたと見る説です。そのさいマタイとルカは、それぞれだけが持っている独自の資料も用いたとされ、マタイの独自資料はM、ルカの独自資料はLという略号で呼ばれています。

 ルカが福音書を執筆した一世紀末には、70年前後の成立と見られるマルコ福音書は広く流布していて、ルカもそれを自分の福音書の基本的な枠組みとして用いることができたと考えられます。ただ、それが現在わたしたちが手にしているマルコ福音書と同じものか、または、それ以前の版の「原マルコ福音書」と呼ぶべきものであったかは議論されていますが、この問題は当面のわたしたちの課題には取り上げなくてもよいと考えられます。
 ルカが用いたイエスの語録資料(Q)も、マタイが用いたものと同じ版であるのか、または違う版であるのかが議論されていますが、これもここではとりあげる必要はないと考えられます。必要なときに講解で触れることにします。

 ルカ福音書だけに現れる特殊な伝承は、ルカ独自の資料(L)からと見られますが、この資料がどのようなものであったのかが問題になります。先に見たように、歴史家ルカは福音宣教運動に関わる地域を広く旅行して、直接目撃証人から聞き取り、またその地の伝承を集め、流布している文書を持ち帰り、自分の福音書執筆のさいの資料としていると考えられます。詳しいことは専門書に委ね、ここではルカの特殊資料の一部に関してごく概略を見ておきます。

 ルカはアンティオキアで得られた資料(アンティオキア資料)を用いていると見られます。ルカはアンティオキアで「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」(使徒一三・一)と接触し、おそらく彼を通して「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(ルカ八・三)を知ったと推察されます。このようなヘロデに近い人物を通して、イエスに対するヘロデの態度や扱いを知ることができ、ルカだけがそれを福音書に取り入れることができた(ルカ一三・三一〜三三、二三・七〜一二)と考えられます。ルカは使徒言行録でアンティオキア集会のことを詳しく報告しています。

 ルカは、パウロの最後のエルサレム行きの旅に同行し、カイサリアに上陸しています。カイサリアは伝道者フィリポの活動拠点であり、パウロ一行はエルサレムに入る前の数日彼の家に泊まっています(使徒二一・八)。パウロはエルサレムで逮捕されてカイサリアに護送され、そこで二年間拘禁されますが(使徒二四・二七)、ルカも二年間カイサリアに滞在したと見られます。この二年間にルカはフィリポから彼自身の活動の経緯だけでなく、最初期のエルサレム共同体やその活動を詳しく聞くことができたはずです。このフィリポは(十二弟子の一人のフィリポではなく)七人の《ヘレーニスタイ》伝道者の一人であり(使徒六・五)、サマリアから沿岸地方に伝道し、カイサリアを拠点として活動した人物です(使徒八章)。このフィリポから聞き、カイサリアに伝えられている伝承を集め、ルカはカイサリアで多くの資料(カイサリア資料)を得たことと推察されます。

 ルカはエーゲ海地域で活動したと考えられますが、この地域の中心地でありパウロの最晩年の活動拠点であったエフェソと当然密接な接触があったとしなければなりません。エフェソにはパウロに関する伝承が多く残されていたと考えられ、ルカはそれを利用することができたでしょう。しかし、パウロ書簡の大部分がエフェソで書かれ、また後にはエフェソ近辺でパウロ名書簡が成立して、パウロ書簡集が収集されたことを考えると、ルカがパウロ書簡を知らないように見えるほど利用していないことが問題にされます。パウロ書簡にある歴史的事実と違っていたり(たとえばパウロが重視しているエルサレムへの献金が使徒言行録では触れられていないことなど)、パウロ書簡の神学思想とルカのそれがかなり違っていることから、ルカはパウロの同伴者ではありえないとする議論も行われています。しかし、この相違は、ルカが執筆した時にはまだパウロ書簡集は成立しておらず、流布していなかったので、ルカはパウロ書簡集を手元に置いて資料として用いることはできなかったからであると考えられ、ルカ二部作の成立が比較的早い時期であったことを推察させる根拠の一つになります(パウロ十書簡集の成立は二世紀に入ってからと見られます)。パウロの同伴者ルカが献金に触れないのも、知らないからではなく、彼の執筆方針から不適切と判断して省略したと見ることができます。また、パウロ書簡の神学思想との違いは、ルカも時代の子として、若いときに接したパウロ自身よりも、執筆した晩年には使徒名時代の神学思想を共にしていたからであると説明できます。パウロの同労者であり後継者となった人たちの神学思想が、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、かなりパウロから離れていることを見ると、ルカがパウロと違ってきていることは当然であると言えるでしょう。

 ルカがエフェソで得た資料(エフェソ資料)には、パウロに関するものだけでなく、ヨハネ共同体と共通の資料があるようです。ヨハネ共同体はユダヤ戦争の前後の時期にパレスチナ・シリア地域からエフェソへ移住したと考えられ、パレスチナの最初期の伝承をエフェソに携えてきていたと推察されます。ルカのエルサレム中心主義はヨハネの影響であると見る学者もいます。また、ヨハネ共同体を率いた長老ヨハネは、イエスから母マリアを託された弟子として、エフェソにマリアを伴ってきていたので、ルカはマリアから出たイエスの誕生と幼少時代に関する伝承を聴いていた可能性があります。

 ルカは、皇帝に上訴してローマに護送されるパウロに同行し、パウロがローマで監禁されていた二年間をローマで過ごしたはずです。そうすれば、当時ローマにいたプリスキラ・アキラ夫妻や、パウロよりも前から使徒として働いていたアンドロニコとユニア(夫妻?)などの有力な働き人たち(ローマ一六・三以下)から、イエスに関する伝承や使徒たちの働きについて詳しく聞くことができたと考えられます(ローマ資料)。

 このように、ルカが各地で得た資料がルカの特殊資料(L)を形成しますが、その内容はイエスや使徒たちの働きや出来事に関するものだけでなく、イエスの教えの言葉に関するものもありました。たとえば、有名な「放蕩息子」のたとえなど、ルカ福音書だけに伝えられているイエスのたとえ話は、ルカがこのように各地で得た特殊資料に含まれていたものです。このようなルカ福音書だけにある物語やたとえが、この福音書をきわめて魅力的なものにしていることを考えると、このルカ特殊資料(L)の重要性が分かります。

 

ルカの歴史叙述

 このように、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けている」ルカ以前の文書と、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」として、ルカが長年にわたって(「初めから」と訳されているギリシア語は「長らく」という意味もあります)調べてきた証言や伝承を資料として、彼の二部作を著述します。その叙述の仕方は、ルカ自身によって「順序正しく」と表現されています(ルカ一・三)。では「順序正しく書く」とはどういうことでしょうか。その意味を、出来上がったルカの著作から探ってみましょう。
 ルカは、彼の二部作の第一部(福音書)においては、マルコ福音書を基本的な枠組みとして物語を書き進めています。洗礼者ヨハネの宣教活動から始まり、ガリラヤで病人をいやし、「神の国」を宣べ伝え、最後にエルサレムに上って、そこでユダヤ教指導層と対決し、ローマ総督に引き渡されて十字架につけられる、というマルコの構成の大枠に従っています。そして、各部における物語の順序もマルコ福音書に従っています。

 もしルカがヨハネ共同体と共通の伝承を知っているとすれば、ガリラヤ伝道の前のユダヤにおけるイエスの活動(バプテスマを授ける活動を含めて)やエルサレムでの活動があったこと、また、ガリラヤで活動中もイエスは繰り返し祭りのためにエルサレムに上っておられることを知っていたと考えられます。しかしルカは、このようなヨハネ共同体の伝承(おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと考えられます)には従わず、マルコの構成に従い、ガリラヤでの活動の前のユダヤでの活動に触れることなく、エルサレム上りも最後の一回だけにしています。

 この事実からも、ルカが「順序正しく」と言うとき、それは事実が起こった順序の通りにという意味ではなく、著述の意図を表現するのにふさわしい順序で書くということを意味していることが分かります。そもそも歴史家が歴史を書くとき、その記述は事実を出来事の順序に羅列するのではなく、自分の歴史観を表現する構成と表現を用いるものです。ルカも、自分の神学的思想を表現するために、イエスの生涯と働きを記述するのですから、その記述の原理は出来事の順序ではなく、著述の目的にふさわしい順序となるのは当然です。

 では、そのためにルカがマルコ福音書の構成に従ったのは何故でしょうか。それは、当時すでにマルコ福音書がペトロの権威を背景として広く受け入れられていて、共同体主流の福音書になっていたからではないかと考えられます。ヨハネ共同体は、主流からやや離れた位置にあり、ペトロを権威とする共同体主流に対抗する一面があります。ルカは、この特異な性格のヨハネ共同体よりも、主流の共同体の基準に従ったのだと考えられます。ヨハネ共同体内部にも、後期には共同体主流との溝を埋めようとする傾向があったことが、ヨハネ福音書の最終的な編集過程(たとえば二一章の付加)から読み取れるとされています。

 しかし、ルカの叙述はマルコと違ってきている点も多くあります。本体が洗礼者ヨハネの登場から始まるのはマルコ福音書と同じですが、ルカはその前にイエスの誕生と少年期の物語(ルカ一〜二章)を置いています。これは、イエスの生涯を描く物語をより完全にするためですが、ルカの誕生物語はイエスの伝記の最初の部分というよりは、福音書全体の使信を要約して象徴的に提示するという、オペラの序曲のような性格の物語です。
 イエスの働きが、ガリラヤでの宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの活動という三部で構成されているのはマルコ福音書と同じですが、先に見たように、ルカはエルサレムへの旅の部分を、ガリラヤとエルサレムでの活動を描く部分(この部分では基本的にマルコの順序に従っています)よりもずっと大きくし、そこに多くのルカ独自の物語やたとえなどを置いています。この部分ではルカはマルコの順序から大きく離れ、ルカ自身の個性を発揮しています。

 さらにルカは、マルコによく見られる同じような出来事の繰り返し記事を省略し、記述もシンプルにしています。荒野で群衆に食物を分け与えられた記事は、マルコでは二回(五千人と四千人)繰り返されていますが、ルカでは一回(五千人)になっています(ルカ九・一二〜一七)。ゲツセマネの園で祈られたとき、イエスは眠り込んでいる弟子のところに三回戻ってきておられますが、ルカでは一回だけです(ルカ二二・二九〜四六)。マルコ福音書では逮捕されたイエスはユダヤ教の法廷で二回尋問されますが、ルカでは一回になっています(ルカ二二・六六〜七一)。

 その他、ガリラヤからエルサレムへというルカの基本線を明確にするためでしょうか、マルコが伝えているイエスと弟子の一行がガリラヤから北方のティルスやシドンに行かれた記事は省略され、ルカ福音書ではイエスはガリラヤからまっすぐにエルサレムに向かわれます。このような順序の面で大きい違いを示す代表的な事例は、マルコがガリラヤ伝道の最後の時期に置いている故郷ナザレでの拒否の事件(マルコ六・一以下)が、ルカではガリラヤ伝道の最初に置かれていることです(ルカ四・一六以下)。この置き換えでルカが何を言おうとしているのかは、その箇所の講解で扱うことになりますが、ここでは、ルカが単純にマルコに従っているのではなく、構成の大枠はマルコに従いながらも、自分の神学的意図を表現するために大胆に順序を変えている面があることを指摘するに止めます。



  結び―ルカ二部作出現の意義

 ルカの福音理解(神学)の傾向や思想的特徴は、二部作の講解を済ませた後にまとめるべき事柄ですので、ここでは触れないで、ルカの著作が二部作として出現したことの意義を再確認して、本稿の結びとします。

 最初期の共同体《エクレーシア》は、復活されたイエスが栄光の中に来臨される時が差し迫っているという待望の中に生きていました。従って、イエスを復活者キリストとして宣べ伝える福音書は、イエスの地上の生涯での教えと働き、その十字架の死の意義と復活の事実を告知し、その復活者イエス・キリストがすぐにも来臨されて救いが完成することを、その中で語るだけで十分でした。パウロも含めて使徒たちはそのように福音を宣べ伝えてきました。使徒時代の直後に成立したと見られるマルコ福音書は、イエス・キリストの十字架と復活を語る中で、「人の子」の来臨を告知する一三章を置いて、それで福音のすべてを告げ知らせていました。

 ところが、ルカの時代には状況が変わっていました。エルサレム神殿の崩壊と一体として語られていた終わりの日の到来、「人の子」の来臨(マルコ一三章)は、実際にエルサレム神殿が崩壊しても起こりませんでした。それから十年、二十年、三十年経っても、キリストの来臨《パルーシア》は起こりませんでした。70年のエルサレム神殿崩壊以後のキリストの民の共同体は、この事実に直面して、この事実を包み込むことができる形で、福音を語り直さなければならなくなっていました。この時期に異邦人環境で成立したコロサイ書やエフェソ書は、もはやキリストの来臨について語らなくなっています。そのような時代の流れの中で、その流れを締めくくるような意義を担って出現したのがルカの二部作です。

 ルカが福音書だけでなく使徒言行録を含む二部作によって福音を提示した事実そのものが、《パルーシア》待望の退潮と、新しい救済史理解の登場を示しています。ルカはエルサレム神殿が崩壊した後も《パルーシア》(キリストの来臨)は起こらず、キリストの民の共同体《エクレーシア》が舞台に登場して、歴史の中を歩み始めている事実を見ています。しかもその共同体《エクレーシア》は、ますます異邦人が多くなり、エルサレム陥落以後の時代にユダヤ人のエルサレム共同体の指導力がほとんど消滅しているという状況で、異邦人が主要な担い手となっている共同体です。ルカはこの歴史的事実の中に、神の人間救済のご計画(救済史)における新しい相を見ています。そして、その救済史の新しい理解を、イエス・キリストの出来事と使徒たちの働きという二部作で表現するのです。

 ルカは、ユダヤ人である使徒たちの救済史理解を忠実に継承しています。すなわち、使徒たちが伝えた福音では、イエス・キリストの出来事はイスラエルの歴史が待望し、神がイスラエルの歴史の中で(=旧約聖書において)約束してこられた終わりの日の救済の成就であるという理解です。これは、イエスの出来事を語る第一部の福音書でも繰り返し表現されていますし、第二部の使徒言行録でも、福音を語る使徒たちはイエス・キリストの出来事を旧約聖書の成就として告げ知らせています。ルカはこの理解と確信を他の福音書と共有しています。

 さらにルカは、使徒たちの来臨信仰の継承者として、「キリストの来臨」《パルーシア》の待望を維持しています。ルカは、マルコ福音書一三章の黙示思想的終末預言を(細部の変更はありますが)ほぼそのまま受け継いでいます。この点で、同じくパウロ以後の時代(しかしルカ二部作よりは前と考えられる時期)に成立したと見られるコロサイ・エフェソ書とは違います。コロサイ・エフェソ書では将来の《パルーシア》は語られなくなり、もっぱらキリスト共同体《エクレーシア》におけるキリストの充満が追い求められています。また、同じような時代に成立したヨハネ福音書も、現在の霊的現実に集中していて、将来の《パルーシア》待望は著しく後退しています。それに対してルカは、使徒たちの福音における救済史的構造を受け継ぎ、将来のキリスト来臨による完成を確かな希望として掲げています。

 ただ、ルカはエルサレム神殿崩壊の後も来臨は起こらず、共同体はこれからも地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならない時代に書いています。ルカは、歴史の中における《エクレーシア》の存在と歩みを救済史の中に位置づけなければなりません。イエス・キリストの十字架・復活の出来事における決定的な救済の出現と、キリスト来臨による終末的完成の間に、地上におけるキリストの民《エクレーシア》の歴史が入ってくることになります。ルカは、第一部のイエス・キリストの出来事を語る福音書と共に、第二部の《エクレーシア》の成立と歩みを語る使徒言行録を書いて、神の救済の働きの全体を描くことになります。こうして、来臨遅延の状況において、ルカの福音提示は福音書と使徒言行録の二部作とならざるをえないのです。ルカが二部作で福音を提示した事実が、時代の状況に即した救済史の新しい理解の出現を指し示しています。

 キリスト共同体《エクレーシア》は、ルカ二部作の執筆時には、すでに五六十年(あるいは七八十年)の年月を歩んできています。ルカは、その中で使徒たちが直接福音を宣べ伝え、指導した最初の時期を範例として描きます。この時期の共同体の歴史を描くのは、使徒たちの時代を範例とするという目的だけでなく、もう一つの重要な意図があります。それは、キリスト信仰がユダヤ教の枠から出て、異邦人世界に広がり、異邦人がキリスト共同体の主要な構成員となり、救済史の担い手となることの正統性を、歴史的物語として描くことです。それで、ルカの《エクレーシア》歴史物語は、「エルサレムからローマへ」、すなわち、ユダヤ教の聖地エルサレムでの福音宣教開始から始まり、異邦世界の頂点であり象徴であるローマに福音が到達するところで終わることになります。

 このように異邦人のキリスト共同体が救済史の担い手となる時代を、ルカは「異邦人の時代」と呼んでいます(ルカ二一・二四)。使徒言行録は全体で、「異邦人の時代」への移行を、歴史物語の形で描いています。第一主要部の中心人物であるペトロは、本来ユダヤ人への福音を委ねられた使徒ですが(ガラテヤ二・七)、ルカはペトロをあたかも異邦人への使徒であるかのように描きます。ルカの使徒言行録ではペトロは、最初期のエルサレム共同体において、福音を異邦人にもたらすための門戸を開いた人物として描かれています(とくに一〇〜一一章のコルネリオの記事)。ペトロはエルサレム会議で、異邦人に割礼なしの福音を宣べ伝えるパウロを擁護しています(一五章)。

 第二主要部でルカは、異邦人への使徒パウロの活躍を詳しく物語ります。パウロの働きにより、異邦人は異邦人のままで(=割礼を受けてユダヤ教に改宗ことなく)キリストの民となり、新しい時代の救済史の担い手となります。パウロが書簡で激しく主張した「無割礼の福音」を、ルカはパウロの働きを記述する歴史物語で確認しています。総じてルカは、ペトロやパウロの働きを聖霊による出来事として描くことによって、この救済史の担い手が異邦人に移行したことを、神のご計画によるものとして提示していることになります。

 ルカ二部作の第二部「使徒行伝」はよく「聖霊行伝」と呼ばれるように、使徒たちの働きの全体を聖霊が導き、聖霊がその原動力となっておられます。聖霊による使徒たちの働きを目撃し、また自らもその聖霊の働きを体験して、使徒たちの働きが聖霊によるものであることを深く理解しているルカは、このように使徒たちの働きを「聖霊行伝」として描くことができたのでした。そして、ルカの聖霊理解は第一部の福音書においても示されており、イエスの生涯は、その誕生から「神の国」宣教の働き、癒しの働きすべてを聖霊によるものとして描いています。聖霊の働きを強調するのはルカ福音書の特徴です。このように、ルカがその二部作を通して聖霊の主導を強調するのは、この二部作が全体として示している救済史の進行が、人間の思いから出たものではなく、神の御計画・御旨から出るものであることを示すためであると考えられます。

 ルカは、歴史物語を書くことによって、現在の自分たちの世代と、後に続く次の世代に新しい救済史理解を提示し、キリストの民がこれから世界のただ中で歩むための指針を与えたことになります。ここに、ルカ二部作が出現したことの意義があります。実際に、二世紀以後のキリスト共同体は、ルカの路線を歩むことになります。この結果から見ても、ルカ二部作は新約聖書の最後の段階に属し、使徒時代の使信をまとめて次の世代に引く継ぐ連結器の位置にあるといえます。

 


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