マタイによるメシア・イエスの物語 

第7章 天の国のたとえ

     ー マタイ福音書 一三章 ー





はじめに

 基本的にはマルコに従って物語を進めてきたマタイは、マルコが安息日についての論争やベルゼブル論争の後に置いている四章の「たとえ集」に到達します。マタイもマルコの順序に従って、一一章と一二章で語ってきたイスラエルに拒否されるイエスの物語の後にイエスの「たとえ集」を置きます(一三章)。

 イエスは「神の支配」を宣べ伝えるにあたって、多くのたとえを用いて「神の支配とはこのような事態である」と民衆に語りかけられたのですが、そのたとえを語り伝えて「たとえ集」を形成した初期の教団においては、イエスのたとえの意味は変わり始めていました。その変化はすでにマルコ福音書においても見られますが、マタイはさらに自分が置かれている状況に即して、自分の主張を語るために、マルコにないたとえを入れたり、イエスがたとえを用いられた意図についてマタイ独自の理解を示す文を入れたりして、マタイ特有の「たとえ集」を形成します。その結果、また、「たとえ集」がイスラエルの拒否を語る部分の直後に置かれている結果、マタイの「たとえ集」はイエスを拒否するイスラエルに対するイエスの反論(実はマタイの反論)という性格が色濃く出てきています。こうして一三章の「たとえ集」は、メシアとしてのイエスに対するイスラエルの拒否を語る物語部分(一一章と一二章)の後に置かれた説話部分として、福音書の第三ブロックを締め括ることになります。
 
 もちろん、イエスのたとえはそれを聴く者に、自分が置かれている場を示して主体的な決断を迫る性格の語りかけであり、その性格は当時の人にも現代のわたしたちにも同じです。しかしここでは、マタイの決断、すなわち、マタイがイエスのたとえをどのように理解し、どのように提示したかの問題を中心に見ていくことになります。個々のたとえについて、イエスの本来の意味はどのようなものであったのか、また、わたしたち一人ひとりがそのたとえをどのように受け止めて主体的に生きるかは、別の機会に触れなければならない問題です。
 
 イエスのたとえの本来の意味、初期の教団の解釈、たとえの受け止め方の問題などについては、『マルコ福音書講解20』「種まきの譬」から27までの「マルコ福音書四章」の講解を見てください。その講解を前提にして、以下の講解を進めていきます。


 イエスのたとえと寓喩


「種を蒔く人」のたとえとその説明

 1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞きなさい。」 (一三・一〜九)  

 マタイはマルコに従い、「種を蒔く人」のたとえを最初に置いています(一三・一〜九)。たとえの言葉遣いもマルコと同じです。強いて違いを探せば、良い土地に落ちて多くの実を結んだ種について、マルコは「三十倍、六十倍、百倍」と書いているところを、マタイは「百倍、六十倍、三十倍」と逆の順序にしているところぐらいです。マタイが順序を逆にした意図まで詮索する必要はないと思われます。また、イエスが弟子たちにたとえの意味を説明されたところ(一三・一八〜二三)も、マタイは基本的にはマルコと同じ内容を伝えています。ここでも強いて違いを探すと、マルコが種を「神の言葉」を指すとしているところを、マタイは「御国の言葉」と表現している点、および、良い土地をマルコは「御言葉を聞いて受け入れる人」を指すとしているのに対して、マタイは「御言葉を聞いて悟る人」としている点です。「御言葉を受け入れる」は福音宣教の状況における表現ですが、「御言葉を悟る」はマタイの律法学者的な体質をうかがわせます。

 『マルコ福音書講解』の当該箇所で詳しく述べましたように、イエスのたとえそのものは本来きわめて終末的な性質のものでした。このたとえは、蒔かれた種の多くは不毛の土地に落ちて無駄になったように見えるが、良い土地に落ちた種が多くの実を結ぶことによって、農夫の苦労は必ず報われるのだということを語っています。そのように、イエスの中に聖霊によって到来している「神の支配」という終末的な現実は、今はイエスの低い姿の中に隠されているが、やがて必ず豊かな実を結んで顕わな現実となるのだと言っているのです。ところが、この終末的な「神の国のたとえ」が、初期の教団の宣教活動の中で寓喩化されて、福音の言葉を聴く者の心構えを説く説教となりました。このたとえの性格の変化は、すでにマルコ福音書に見られるところですが、マタイもそのまま引き継いでいます。

 18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 (一三・一八〜二三)

 

たとえを用いて話す理由

 10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。
  『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
  見るには見るが、決して認めない。
  15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
  こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
  心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 (一三・一〇〜一七)

 ただ、イエスが語られたたとえとその説明の間に入れられている「たとえを用いて話す理由」(一三・一〇〜一七)については、マタイはマルコの文に大幅な編集の手を加えています。マルコはイエスが「たとえを用いて話す理由」については、わずか三節で済ませていましたが(マルコ四・一〇〜一二)、マタイはかなり拡大して八節を使っています。マルコでは「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が、イエスがいつもたとえで語られる理由を訊ねています。すなわち、弟子たちもたとえで語りかけられる対象になっています。それに対してマタイでは、「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜあの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか』と言った」となっています。マタイは初めから弟子たちと「あの人たち」を区別して、イエスが「あの人たち」、すなわち弟子以外の「外の人たち」にだけたとえで語られる理由を訊ねたことになっています。この弟子たちと外の人たちの区別は、「あなたがた」と「あの人たち(彼ら)」という表現で最後まで強調されます。
 
 この区別は、「あなたがた(イエスの弟子たち)には御国の奥義を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない。だから、彼らにはたとえで語るのだ」となります。ここでの「たとえ」は、謎という意味です。ヘブライ語とアラム語では、「たとえ」を意味する語は「謎」という意味もあり、マタイはここでその意味をこめて、「あの人たち」には謎で語って、奥義を悟れないままに放置するのだと言っているのです。マタイは、マルコでは他の箇所に用いられている「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という格言をここに入れて、悟りを「持っていない」彼らがますます謎の中に放置される理由としています。
 
 マルコが悟るように呼びかけるたとえとしている「あかりのたとえ」と「秤のたとえ」(マルコ四・二一〜二五)は、マタイは最後の一節を用いるだけです。二つのたとえは他の文脈で用いている(五・一五、七・二、一〇・二六)ので省略したと思われます。
 
 マタイは彼らが「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ことを、イザヤの預言の成就だとしてイザヤ書を引用しますが、マルコの引用より長くて詳しく、「わたしは彼らをいやさない」と彼らの滅びについて断定的です。それに対して「あなたがた」弟子たちについては、ルカが別の箇所で用いている「語録資料Q」の言葉をここに入れて、預言者たちや旧約の義人たちが見ていた以上の奥義を見ることを許されている幸いを強調しています。
 
 こうして、「たとえを用いて話す理由」の一段は、「彼ら」、すなわちイエスを信じない者たち、とくにイエスの信徒を迫害するユダヤ人会堂に対するマタイの激しい断罪になっているのです。一方「彼ら」との対照で、イエスに従う者たち(弟子たち)が「御国の奥義」を悟る者たちであることが強調されています。ここだけでなく、マタイでは弟子たちはイエスの言葉をよく理解して、神の支配の奥義を悟っている者と描かれており、弟子たちの無理解を強調するマルコと著しい対照を見せています。これは、対立するユダヤ人会堂に対して、自分たちこそ神の支配の奥義を悟っている集団であることを主張するためです。

「毒麦」のたとえ

 24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 (一三・二四〜三〇)

 マルコでは「種を蒔く人」と「秘かに成長する種」と「からし種」の三つのたとえが一つのセットになって「たとえ集」に置かれています。この三つのたとえは、「神の国はこのようなものである」という形で導入される「神の国のたとえ」集を形成していたと考えられます。イエスは種と収穫を主題にして、農民の生活に密着した形で「神の国」を語られたのです。

 マタイはその中の「秘かに成長する種」のたとえを省き、代わりに「毒麦」のたとえ(二四〜三〇節)を入れています。このたとえはマルコになく、またルカにもなく(したがって「語録資料Q」からのものでなく)、マタイだけにあるたとえであり、そのたとえにマタイは自分で詳しい説明を付けています(三六〜四三節)。マタイの説明は、「種を蒔く人」のたとえの説明がそうであったように、たとえを寓喩としています。すなわち、たとえの細部にそれぞれ意味を持たせて形成された一連の物語にしています。イエスのたとえを寓喩とする傾向はすでに最初期の教団にあり(種を蒔く人のたとえが典型的)、その傾向は後世の教会の伝統になっていきますが、マタイもここで自ら明白な形の寓喩を用いているのです。
 
 「毒麦のたとえ」はマタイだけにあるので、多くの学者はこのたとえはマタイだけが持っていたマタイ特殊資料(M)から取られたものと推定しています。しかし、たとえの本体を見ますと、一つの比較点だけを持つ「比喩」ではなく、初めから一連の物語としての構想をもって語られていることが感じられます。ある資料から伝えられた「比喩」をマタイが寓喩として解釈したというより、はじめからマタイが一つの寓喩を語り、その寓喩の意図を説明の部分で明らかにしているのではないかと、わたしは推察しています。

 36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 (一三・三六〜四三)

 この寓喩の意味はマタイ自身の説明によって明かです。マタイの説明によってこの寓喩が語る物語を再構成してみると次のようになるでしょう。「人の子」であるイエスが来られて、世界という畑に神の言葉という良い種を蒔かれた。その種が実を結び、イエスの言葉に従う「御国の子ら」(御国に属する人たち)を生み出した。ところが、夜の間に敵である悪魔が世界に入ってきて、毒麦の種を蒔いた。その結果、世界には「御国の子ら」に敵対する「悪い者の子ら」もいるようになった。畑に麦と毒麦が混じっているように、現在の世界には「御国の子ら」と「悪い者の子ら」が混じっている。今「悪い者の子ら」が裁かれずに放置されているのは、良い麦と毒麦を一緒に抜いてしまわないためである。二種類の麦が十分生長して、違いが明らかになる収穫の時に、畑の主人が僕たちを遣わして刈り入れ、良い麦は倉庫に入れ毒麦は焼き捨てるように、世の終わりの裁きの日に、栄光の位に座して来られる「人の子」イエスは天使を派遣して、不法を行う「悪い者の子ら」を集めて審判の火に投げ込み、義人たちを「父の国」で太陽のように神の栄光で輝かせてくださる。
 
 このたとえの主眼点は、麦と毒麦を一緒に抜いてしまわないように毒麦も今は放置されているが、収穫の時には必ず火で焼かれるようになる。そのように、不法を行う者たちも今は「御国の子ら」の中に混じっているが、彼らは終末時の神の審判によって必ず滅ぼされるのだという警告です。問題は、マタイが「毒麦」でどのような種類の人たちを指しているのかです。麦と毒麦が同じような形をしていて一見区別ができないという点がこのたとえの重要な前提になっているので、対立が明白なユダヤ人会堂や不信仰な世界を指すのではなく、同じようにイエスを告白している内部の者たちを指すと理解する方が順当でしょう。
 
 マタイが集会内部の(あるいは広くキリスト教運動の中の)「不法を行う者たち」に対して厳しい警告をしなければならないと考えていたことは、「山上の説教」の結び(五・二一〜二三)で明かです。では、マタイにとって「不法を行う者たち」とはどういう種類の人たちであったのかについては見方が分かれます。ここでも「山上の説教」の結びと同じく、信仰に誇って律法を無視するような振る舞いをする者たち(一部のユダヤ人信徒からはパウロの一派はそのように見えたでしょう)に地獄の火で焼かれると厳しい警告をしていると見ることもできます。あるいは、「つまずきとなるものすべて」という表現から、マタイが「御国の奥義」としている救済史理解(具体的にはイスラエルへの審判と異邦人への伝道)に反対する「偽預言者たち」を指しているとも見られます。彼らは「トーラー」を守らない異邦人を受け入れることを拒否して集会から追い出そうとしているので、マタイは終末に神ご自身が裁かれる日までユダヤ人も異邦人も一緒に育つままに委ねるようにと諭していると見る見方もできます。
 
 このように、このたとえは集会内部に存在する「悪い者の子ら」に対する終末の火の審判をもってする厳しい警告か、先走って人間的な判断で裁かないように諭す寛容を説くたとえか、理解の仕方は分かれます。現在のわれわれには寛容を説くたとえとして理解することが望ましいのですが、マタイ自身は厳しい警告として語っているのではないかと考えられます。それは、このたとえ集の最後に置かれている「投げ網」のたとえが、寛容を説く部分はなくて、世の終わりに「悪い者ども」が裁かれることだけを語っているので、そのたとえ(および山上の説教の結び)との整合性から、マタイはここでも警告を語っていると見られるからです。こうして、「種を蒔く人」のたとえとその説明で、外の人たちとの違いを強調したマタイは、一転して「毒麦」のたとえで内部の人たちに厳しい警告をすることになります。
 

 天の国のたとえ


「からし種」と「パン種」のたとえ

 31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」 (一三・三一〜三五)

 

 「毒麦」のたとえに続いて、マタイは「天の国は何々に似ている」とか「天の国は次のようにたとえられる」という句で始まる五つの「天の国のたとえ」を置いています。たとえが置かれている位置からすると、初めの二つ(からし種のたとえとパン種のたとえ)は、毒麦のたとえと共に、群衆に向かって語られたことになりますが、後の三つのたとえ(畑に隠された宝、真珠を見つけた商人、投げ網)は、「群衆を後に残して家にお入りになった」イエスが、毒麦のたとえの説明の後に、弟子たちだけに語られたことになります(三六節参照)。しかし、イエスが弟子たちだけに語られたとする状況の説明(一〇節と三六節)は、たとえの説明(およびたとえで話す理由を語る部分)について言われているのであって、たとえそのものは、いつも群衆に向かって語られていると見るべきであると考えられます。マタイも「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった」(三四節)と明言しています。
 
 イエスがたとえを用いて語られたことを、マタイらしく預言の成就であるとして旧約聖書を引用していますが(三五節)、これは詩編七八編二節のかなり自由な引用です。最初期の教団では、ダビデも預言者として扱われていました(使徒二・三〇)。
 
 マタイはマルコの「からし種」のたとえをほぼそのまま用いています。このたとえは種のときの小ささと成長したときの大きさが対照されているたとえです。種のときは目に見えないような小さいものが、畑に蒔かれて成長すると、空の鳥が来て枝に巣を作るほど大きな木になるという、初めの小ささと終わりの大きさが驚きをもって対照されているのです。小さい始まりの中に大きな終わりが含まれ、すでに実在していることが語られています。神の支配も同じように、今はイエス一人の小さい姿の中に隠されて来ているが、それはやがて世界を覆う現実になることが語られているのです。「隠されているもので顕れないものはない」という原理をたとえで語ったものです。
 
 マタイは「からし種」のたとえに「パン種」のたとえを続けます。この二つのたとえはすでに「語録資料Q」に一組のたとえとして伝えられていたと見られます。「パン種」のたとえも、「からし種」のたとえと同じく、小さい始まりが大きな終わりに結果することを印象深く語るたとえです。一握りの僅かなパン種が、三サトン(約四〇リター)もの練り粉に混ぜられると、発酵したとき全体を膨らませて大きなかたまりとなります。そのように神の支配は今は小さな現実でも、やがては大きな世界を変容させるのです。
 
 ところで旧約聖書では、空の鳥が巣を作るほどの枝を張った大きな木は、広い世界を覆い多くの臣下を養う巨大な帝国を象徴するたとえです(エゼキエル三一章、ダニエル四章)。また、粉全体を発酵させるパン種は、過越祭のハガダ(解釈書)によれば、悪意と邪悪の象徴でした(コリントT五・六〜八参照)。内村先生もこのような解釈をとっておられます。ところがイエスは大胆に、この二つのたとえを悪の力の比喩としてではなく、神の支配を語る比喩として用いておられるのです。イエスのたとえには、たとえば借用証を書き替えさせる不正な管理人を賞めるというように、常識的な道徳や思想をひっくりかえすような意外な表現もあることを考えると、このように大木やパン種が「神の国」の比喩として用いられていることも驚くにはあたりません。また、イエスのたとえを聴く庶民には、このような旧約聖書の背景を考慮に入れて解釈するというようなことはなく、この二つのたとえが語る小さな始まりと大きな終わりの対照を、驚きをもって聴いて納得したことでしょう。その時すでに聴衆は、「隠されているもので顕れないものはない」という神の国の真理に捉えられているのです。


「隠された宝」のたとえ

 マタイはたとえ集の終わりに三つの「天の国」のたとえを並べています。この三つのたとえは、「天の国」(「神の国」または「神の支配」のマタイ的表現)は今は隠された姿で来ているというモティーフを扱い、その隠されている「天の国」に対する全存在の投入を求めるのです。

 44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 (一三・四四)

 最初のたとえでは、「天の国」は畑に隠された宝にたとえられています(四四節)。あるいはむしろ、宝が隠されている畑を全財産を売り払って買った人の行為と喜びが「天の国」だと言えます。このたとえで畑は、宝との対照で無価値の荒れ地を象徴しているのでしょう。自分が所有する全財産を売り払って無価値な荒れ地を買う行為は愚かさの極みですが、その荒れ地に宝が隠されていることを知っている人には喜びです。自分が持っている能力でこの世の栄誉とか繁栄を獲得する道を捨てて、キリストに生きるために苦難と恥の生涯を選び取ることは愚かさの極みですが、今は苦難の現実の中に隠されているキリストこそ神の国そのものであり、神のいのち、永遠のいのちであることを知る者にとっては、そうせざるをえない道であり、喜びの道であるのです。
 
 イエスはご自分の中に隠されて来ている聖霊の現実に生き抜くために十字架の道を歩まれました。イエスの復活以後は、復活者キリストとしてのイエスを知ることが「宝」となりました。パウロはこう言っています。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ三・八)。ここに、全財産を投げ出して、宝が隠されている荒れ地を買った人の実例があります。それ以後、このように宝を得るために苦難の生涯に自分を投げ出した人たちが連綿と続き、そのような人たちの中に「天の国」が保持され伝えられてきたのです。

 45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 (一三・四五〜四六)

 「真珠を見つけた商人」のたとえ(四五〜四六節)も、先の「畑に隠された宝」と一対で、意味は同じです。現在では養殖技術が進んで真珠はありふれた装飾品になりましたが、古代では真珠は宝石の中でも至上の価値のあるものでした。あの神秘な輝きを見せる真珠は、深海の奥に隠されており、その一粒を見つけることはきわめて稀な幸運でした。深海に真珠を「探す」ことは命がけの事業でした。それで真珠はきわめて「高価な」宝石であったのです。このたとえの商人はたまたま市場で人目につかないでいた「高価な真珠」を見つけたのかもしれませんが、「真珠」にはもともと「人の目に隠されている尊い宝」というイメージがあります。それでこの真珠のたとえも、先の「畑に隠された宝」のたとえと同じく、隠された現実である神の国、隠されている至高の価値のために、自分をすべて投げ入れる人の姿を語るたとえになります。

 47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 (一三・四七〜五〇)

 最後の「投げ網」のたとえ(四七〜五〇節)は、一見「隠されている神の国」というモティーフは見当たらないようですが、「世の終わり」には正しい者と悪い者が厳しく選別されることを語ることで、現在の「世」においてはまだ選別されずに隠されている「義人たち」の中に、どのような犠牲を払っても留まるように教えているのです。マタイにとって最後に「父の国で太陽のように輝く」のは「義人たち」です(四三節)。「御国の子ら」は「義人たち」(新共同訳は「正しい人々」と訳している)のことです。ここにもマタイ独自の「義」の強調が見られます。

天の国のことを学んだ学者

 51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 (一三・五一〜五二)

 マタイは「たとえ集」の最後に、マタイ独自の記事(五一〜五二節)を置いて締め括ります。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」という問いに、弟子たちは「分かりました」と答えています。弟子たちは「天の国の秘密を悟ることが許されている」(一一節)のですから、イエスが語られたたとえの意味を悟って、神の御旨の奥義を理解している者とされます。この弟子の姿は、弟子たちの無理解を強調するマルコの描き方と対照的です。

 さらにマタイは、イエスの弟子として「天の国の秘密を悟ることが許されている」学者は、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」というたとえを付け加えます。当時「学者」というのは、ユダヤ教律法に通暁している学者のことです。マタイはイエスを信じないユダヤ教律法学者を激しく非難していますが、イエスの弟子となった律法学者は「新しいものと古いもの」を判断し、その関係を理解し、両者を正しく提示することができる真の「学者」であるとしているのです。おそらくマタイ自身ユダヤ教律法に通暁している律法学者であるか、その素養のある人物であって、そのような「学者」がイエスの弟子となることによって「新しいものと古いもの」を判断し、イエスの信徒を導かねばならないとしていると見られます。この言葉は、初期のユダヤ人の間の信仰運動とマタイ自身の体質を示しているように思われます。
 
 「学者」をこのように理解しますと、「新しいものと古いもの」というのはモーセ律法によって与えられていた「古い啓示」と、イエス・キリストによって与えられた「新しい啓示」を指すことになります。その「新しいもの」によって「古いもの」を判断して、両方を正しい関係で提示する者こそ真の「学者」であって、イエス・キリストの民はこのような「学者」に耳を傾けなければならないと主張しているのです。たとえば、マタイが「山上の説教」で「対立命題」という形で、イエスの言葉がモーセ律法を成就完成するものであるとして提示するするとき、マタイは「天の国のことを学んだ学者」として行動しているのです。
 
 このたとえにおける「新しいものと古いもの」は、このように理解するのが順当と考えられますが、「学者」をユダヤ教律法の学者に限定せず、広く御霊によって知恵と知識の賜物を与えられている者とすれば、「古いもの」とは伝承されたままのイエスの言葉を指し、「新しいもの」とは御霊による新しい理解の仕方を指すと見ることもできます。たとえば伝承された「投げ網」や「刈り入れ」のような終末的な裁きを語るたとえを、マタイは自分の置かれている状況に即して「毒麦」のたとえとし、新しい使信を語らせていると見ることもできます。マタイは伝承されたイエスの語録に、自分たちが置かれている状況に即して、新しい意義づけを与えて福音書を書いているのです。  


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