マタイによるメシア・イエスの物語 

第8章 メシアの民の出現

     ー マタイ福音書 一四〜一七章 ー





はじめに

 第三ブロック(一一〜一三章)で、自分の民であるはずのイスラエルから拒否されるメシア・イエスの姿が描かれましたが、続く第四ブロック(一四〜一八章)では、拒否するイスラエルの中にメシアに属する民が形成されることが物語られます。この民は後に《エクレーシア》と呼ばれることになるのですが、マタイはこの第四ブロックで、イエスをメシア(キリスト)と告白する弟子たちの集団を《エクレーシア》と呼び始めます(一六・一八、一八・一七)。四福音書の中で《エクレーシア》という語が用いられるのはマタイ福音書だけであり、それもこの第四ブロックに限られます。
 
 この第四ブロックの物語部分(厳密には一三・五三から始まり一七・二七にいたる部分)は、基本的にマルコに従っています。故郷ナザレでの拒否、バプテスマのヨハネの処刑、五千人への供食、湖上での顕現、ゲネサレトでのいやし、父祖の伝承、カナンの女、四千人への供食、しるしの要求、パン種の警告と、ほぼマルコの順序通りに物語は進み、ペトロの告白というクライマックスに至ります。それまでの物語にもマタイの特色は出ていますが、ペトロの告白の段落には、この告白こそ《エクレーシア》の土台であるという重要なマタイの神学的意義づけが出てきます。続いて山上の変容、山麓での子供のいやしとマルコの内容が踏襲されていますが、最後に神殿税というマタイだけの記事が置かれます。
 
 物語部分に続く説話部分(一八章)は、イエスの語録を《エクレーシア》の在り方についての訓戒というマタイ独自の形にまとめています。その中に、イエスの宣教の核心である恩恵の支配を理解する上できわめて重要な、マタイだけの「王と家臣のたとえ」が出てきます。
 
 物語部分は順序も内容もほぼマルコに従っていますので、個々の段落の講解はマルコ福音書講解に委ね、ここではマタイ固有の特色に的を絞って物語の進展を追っていきます。

 水の上を歩く


立ち去るメシヤ

 マルコ福音書では、イエスが故郷ナザレの人たちに拒否されるところから、イエスの宣教活動に新しい時期が始まりました(マルコ福音書六章一〜六節の講解の中の「マルコ福音書の区分」の項を参照)。マルコではその後に「十二人の派遣」の記事が続きますが、マタイはすでに一〇章の「派遣説教」の中で扱っていますので、ここではそれを飛ばしてヨハネの処刑の物語が続きます。その結果、ナザレでの拒否とヨハネの処刑の記事が一体となって、イエスが公衆の中での活動から身を引いて、小さな弟子たちのグループだけに御自身の秘密を語られる時期が始まることを指し示すことになります。
 
 マタイは、イエスの活動がヨハネの活動と不可分に結びついていることを描いてきました。イエスの宣教活動はヨハネのバプテスマ運動の中から始まり(三〜四章)、イエスはヨハネと同じく神の支配の切迫を告げて、悔い改めを求められたのでした(四・一七)。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤへ退かれた」(四・一二)のでしたが、今ヨハネの処刑を聞いて、「船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところに退かれ」るのです(一四・一三)。ヨハネを処刑したのはガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスですが、イエスは今このヘロデが支配しているガリラヤから退き、ガリラヤ湖対岸の荒れ野に向かわれるのです。イエスは、ヨハネの処刑にご自分の時が近いことを知り、弟子たちに御自身が受けておらられる啓示をしっかりと教えておくために、最後の時を弟子たちとだけで過ごそうとされるのです。

 「退く」という動詞は、新約聖書で14回出てきますが、その中の10回はマタイです。マタイはイエスの生涯の各時期を「退かれた」という語で区切って物語を進めていきます。これはマタイが、今やイスラエルから「退く」(去っていく)状況にある自分たちの姿を、イエスに重ねて語っている結果であると考えられます。詳しくは、「マタイ福音書 24 拒否されるメシア」の中の「立ち去るイエス」の項を参照。

荒野に集う群衆

 イエスが自分たちから去って行かれたことを知ったガリラヤの群衆は、イエスを追って荒れ野に集まってきます。この群衆について、マルコ(六・三九〜四四)は「男五千人」と伝え、集合した様子を「百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」と描いています(これは部隊組織を連想させます)。またヨハネ福音書(六・一四〜一五)は、群衆はイエスを王としようとしたと伝えています。このような伝承の中に断片的に伝えられていることをつなぎ合わせると、この荒れ野の集合はイエスをメシア的な王として戴いて立ち上がり、ローマの支配からの解放を戦い取ろうとした男たちの集合ではなかったかと考えられます。ところが、イエスは彼らの要求を拒み、「ひとりでまた山に退かれた」ので、彼らは期待を裏切られ、イエスに失望して去っていきます(ヨハネ六・六六)。

 イエスの時代のメシア運動については、M・ヘンゲル『ゼーロータイ−紀元後一世紀のユダヤ教熱心党』(大庭昭博訳、新地書房)を参照してください。

 時代の雰囲気とイエスのカリスマ的な能力からすると、このような性質の出来事があったことは十分推察できますが、イエスの復活後、イエスをキリストと信じる者たちはこの出来事にまったく違った意味を与えて語り伝えていきます。その変化はすでにマルコ福音書において明かです。すなわち、マルコ福音書ではこの荒れ野に集まった群衆の光景は、イエスが「飼う者のない羊のような群衆を深く憐れみ、いろいろと教え」た場面として(マルコ六・三四)、また、食べ物をもってこなかった群衆に、五つのパンと二匹の魚を増やして食べさせたという奇跡物語として語り伝えられていきます。この奇跡物語は、イエスを荒れ野でマナを与えたモーセに勝る終末時のメシアとして示し、終末時に与えられると期待されていた「メシアの饗宴」が実現したのだと宣言しているのです(その記事についてはマルコ福音書講解の六章三〇〜四四節の段落を参照)。このような語り方は、「主の晩餐」の席で、復活された霊なる主から永遠のいのちの糧を限りなくいただいていることを体験している信徒たちの集団が、自分たちの体験を地上のイエスの出来事に重ねて語り伝えるところから出てきています。
 
 すでにマルコに見られる意味の変化を、マタイはさらに推し進めます。「男が五千人であった」というマルコの記事を、マタイ(一四・二一)は「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」として、この集団が軍事的蜂起を企んだ男だけの集団ではなく、女も子供も含む民衆であったことを明確にし、イエスの憐れみの対象としてふさわしい集団に変えています(なお、ルカとヨハネは男五千人というマルコの報告をそのまま踏襲しています)。それにともない、「百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした」という部隊組織を連想させる表現も削っています。こうしてマタイでは、荒れ野に集まった群衆の場面は、イエスが民衆への憐れみを示される場面であり、終末的な「メシアの饗宴」の実現であるという意味がいっそう明確にされることになります。

湖上の顕現

 マルコの順序に従い、民衆に食物を与えた記事の後に、逆風のために漕ぎ悩む弟子たちにイエスが水の上を歩いて近づいてこられたという物語が続きます。その内容(一四・二二〜二七)もほぼマルコと同じです。ところが、マタイはその後に、マルコにはない記事を書き加えています。すなわち、ペトロがイエスの命令に従って水の上を歩き、途中で怖くなって沈みかけ、イエスによって助けられるという記事です(一四・二八〜三三)。この記事はルカやヨハネにもなく、マタイ独自のものです。
 
 水の上を歩いて来られるイエスの記事は、イエスの十字架の刑死の後、ガリラヤの漁師の仕事に戻っていた弟子たちに復活されたイエスが顕現された出来事を、地上のイエスの物語に重ねたものであることは、マルコ福音書講解 35 「湖上を歩くイエス」で詳しく論じました。マタイはマルコの記事の後に、ペトロが水の上を歩いてイエスのもとに行こうとする物語を続けます。イエスが水の上を歩いて来られた記事が本来復活者の顕現の物語であるならば、ペトロが水の上を歩いた記事も、その復活者イエスに出会ったペトロの体験、ひいていはペトロが代表するエクレシアの体験を物語るものでなければなりません。マタイはこのペトロの物語を書き加えることによって、復活者イエスと共に生きる自分の共同体の信仰を励ますのです。
 
 マタイのユダヤ人共同体は、イエスがそうされたように、今や故郷のイスラエルから立ち去り、未知の世界に乗り出そうとしています。今まで自分たちを支えてきた律法はもはや通用しません。これから乗り出していこうとしている世界は、未知の神々が支配し、諸々の民がひしめく世界です。そこでどのように生きていくのか、どのように活動するのか、予定を立てたり、計画図を描くことはできません。ひたすら、復活されたイエスが共にいてくださるという信仰の現実だけに頼って、人間的には何の支えも保証もない世界に乗り出していくのです。このような共同体に向かって、マタイは水の上を歩くペトロの物語をもって語りかけるのです。
 
 「わたしである」《エゴー・エイミ》という神的称号をもって顕現された復活者イエスに向かって、ペトロは「主よ」と叫びます。このペトロの叫びには、復活者イエスを主《キュリオス》と告白する原初の信仰告白が響いています。ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言います。「あなたは現に水の上を歩いておられます。その方のお言葉でしたら、たとえ水の上を歩くという人間には不可能なことでも、わたしはお言葉に従います」というのです。それが信仰です。
 
 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き始めます。ところが、強い風を見て怖くなり、その途端に水にのみ込まれようとします(「沈む」よりも強い感じの動詞)。ペトロは思わず「主よ、助けてください」と叫びます。イエスはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言って、ペトロを救い上げられます。
 
 このペトロの姿は、復活者イエスを信じてこの世界の現実の中に歩むエクレシアの姿であり、またキリストにある者ひとりひとりの姿です。わたしたちは、復活者イエス・キリストから目を離して世界の現実や自分の能力に目をとめますと、このような生き方をするのに自分の中には何の根拠もなく、世界には何の保証もないことに気づき、怖ろしくなります。そして、怖れと信仰は水と油です。怖れのあるところには信仰はなく、信仰のあるところには怖れはありません。主から目を離したとたん、わたしたちの魂は怖れに捕らえられ、世界の現実の中にのみ込まれてしまいます。その時にできることは、ただ「主よ、助けてください」と叫んで、再び復活者イエス・キリストに目を注ぐことだけです。
 
 怖れて沈みそうになるペトロに、イエスは救いの手を差し伸べながら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。この「信仰の薄い者よ」という叱責は、イエスを信じない者たちに向けられることはなく、イエスを信じて従っている弟子たちに向けられる叱責で、ほとんどマタイだけに出てきます(例外はルカ一二・二八)。マタイは(ここ以外では)この言葉を、「野の花、空の鳥」のたとえで、衣食のことに思い煩う弟子たちに向かって(六・三〇)、嵐の中の小舟で怖れる弟子たちに向かって(八・二六)、また、パンを持ってこなかったことを議論する弟子たちに向かって(一六・八)用いています。この用例からもわかるように、この叱責の言葉は、どのような状況でも怖れることなく、神に委ねきってイエスに従うように弟子たちを励ます激励の言葉なのです。
 
 マタイはこの湖上の顕現の物語を、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」という文で締めくくります(一四・三三)。これはマルコと大きく違う点です。マルコは湖上の顕現物語を、「弟子たちは内心ただ呆然とするばかりであった。彼らはパンのことを悟らず、その心がかたくなになっていたからである」(マルコ六・五一〜五二私訳)という文で結んでいます。マルコは復活されたイエスの顕現の出来事を地上の出来事に重ねて語るので、それをイエスが地上におられた時の物語にするためには、弟子たちはそれが復活者の顕現であることをまだ理解していなかったとしなければなりません。そのための工夫が「弟子たちの無理解」の動機になっています(この点についてはマルコ福音書講解 終章 92 の「マルコ福音書の二重性」を参照)。
 
 マタイにはそのような動機はなく、弟子たちはイエスの言葉の奥義を悟り、出来事の意義を理解していたという立場で物語を進めていきます。ここでも弟子たちは湖上で顕現して、「わたしである」《エゴー・エイミ》と名乗られる方に対して、ただちに「本当にあなたは神の子です」と告白して、「イエスを拝んだ」のです。これは、復活されたイエスに対して弟子たちがとった態度と同じです(二八・一七の「ひれ伏した」は、ここの「拝んだ」と同じ動詞です)。マタイはこの湖上の出来事を、マルコ以上に明確に、復活されたイエスの顕現として物語っているのです。

昔の人の言い伝え

 マタイはマルコに従って物語を進めます。「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着き」、イエスはそこで多くの病人を癒されます(一四・三四〜三六)。その後に、マルコの順序通りに、「昔の人の言い伝え」に関する論争が置かれます(一五・一〜二〇)。この記事も基本的にはマルコと同じですが、マタイは微妙な形でマルコに変更を加えています。

 この「昔の人の言い伝え」に関する記事は、福音とユダヤ教との関係についてきわめて重要な意義をもっていますが、その内容の詳細と意義については「マルコ福音書講解」37の「神の言葉と人間の言い伝え」に委ね、ここではマタイの立場を見ることに限定して講解を進めます。

 この論争は、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしていることを律法違反として咎めた、エルサレムからのファリサイ派律法学者に対してなされています(一五・一〜二)。彼らによると、「手を洗わないで食事をする」ことは、「昔の人の言い伝え」を破る行為であって、それは律法に違反することであるというのです。モーセ律法は清いものと汚れたものを区別し、イスラエルの民が汚れたものに関わることなく、清いものであるように求めています。この律法の規定を実際の日常生活の中で実行するためにはどうすればよいかを、代々の律法学者たちが研究し、師から弟子に口頭で伝えられた教えが「昔の人の言い伝え」です(ユダヤ教では「ハラカ」と呼ばれています)。食事に関する「ハラカ」では、手は汚れたものに触れている可能性があるから、そのままでものを食べると、汚れたものに触れた手によって食物が汚れ、その汚れた食物を食べた人も汚れるので、食事をする前には必ず儀礼的な手洗いをしなければならないのです。この「ハラカ」を破る行為は、清くあることを求める律法を破る行為に他ならないというのです。
 
 この非難に対してイエスは、「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」という《マーシャール》(謎)で答えられます(一五・一一)。福音書では、イエスはコルバンの実例をあげて、ファリサイ派は「自分の言い伝えによって神の言葉を無効にしている」と議論しておられますが(一五・三〜九)、イエスの答えの核心はこの《マーシャール》にあります。マルコはこの《マーシャール》を、「すべて外から人の中に入ってくるものは、人を汚すことはできない。それは人の心に入るのではなく、腹の中に入り便所に出ていくからである」と説明し、「(イエスは)こう言って、すべての食物を清いとされた」という解説を加えています。(マルコ七・一八〜一九)。「口から出てくるもの」については、「人から出て来るものこそ、人を汚すのである。内側から、すなわち人の心の中から、さまざまな邪悪な思いが出て来るからである。不品行、盗み、殺人、姦淫、強欲、邪悪、欺き、享楽、嫉み、誹り、高慢、愚痴など、これらの悪はすべて内側から出て来て、人を汚すのである」と説明しています(マルコ七・二〇〜二二)。
 
 マタイはマルコの説明をそのまま踏襲していますが、ひとつ重大な変更を加えています。すなわち、マルコの「こう言って、すべての食物を清いとされた」という句を削って、代わりに「しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」(一五・二〇)という文を最後に置いて、イエスの《マーシャール》の解説の結論としています。このマルコとマタイの違いは、初期のエクレシアにイエスの《マーシャール》の理解に二つの違った流れがあったことを示唆しています。
 
 マルコにあるように、「すべての食物が清い」のであれば、レビ記(一一章)に書かれているような清い食物と汚れた食物の区別は無意味になります。イエスは《マーシャール》の形であれ、モーセ律法(トーラー)を順守する必要はないと主張されていることになります。事実、初期のエクレシアにおいて、ユダヤ教の食物規定を順守すべきであるという主張と、その必要はもはやないのだという主張が激突して大問題になりました。
 
 必要はないという主張の代表者はパウロです。パウロは「すべて(の食物)は清い」(ロマ一四・二〇)と断言し、ユダヤ人も食物規定のない異邦人と一緒に食事をするように主張しました(ガラテヤ二・一一以下)。この主張は、初期エクレシアのユダヤ人指導者たちから激しい反対を受け、パウロは食物規定を守るユダヤ人信徒との融和に、生涯心を砕かなければなりませんでした(コリントT八章、ロマ一四章)。パウロの流れを汲む異邦人キリスト教の立場にあるルカは、神が幻によってユダヤ人指導者の代表であるペトロに、すべての食物は清いことを示されたと語っています(使徒言行録一〇章)。この物語は、ユダヤ人に食物規定を乗り越えさせることは、幻という神の非常手段による介入が必要なほど難しいものであることを示しています。
 
 ところが、マタイは彼のユダヤ人キリスト教の体質から、「トーラー」が無効になるという主張には耐えられません(五・一七)。マタイは、マルコの「すべての食物は清い」という文に、「トーラー」を無効にする危険を読みとってそれを削除し、代わりに「しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」という文を置いて、イエスの《マーシャール》を「ハラカ」の問題に限定しようとしたと考えられます。すなわち、「トーラー」の清い食物と汚れた食物の区別は依然有効であるが、汚れを受けないための実際的な細則については、イエスはこの《マーシャール》で弟子たちの行為を正当化されたのであると解釈するのです。
 
 パウロ・マルコの立場とマタイの立場の対立は、歴史が解決しました。古代教会が異邦人世界に確立するにともなって、ユダヤ教食物規定は問題でなくなり、マタイの解釈はマルコの解釈に当然含まれる一部となり、対立するものではなくなりました。

異邦の女の信仰

 続くカナンの女の娘が癒された記事(一五・二一〜二八)も、基本的にはマルコ(七・二四〜三〇)と同じです。ただ、この異邦人の女性がイエスに向かって、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んでいる言葉は、マルコにはなく、マタイの特色を示しています。マタイによれば、異邦人もダビデの子、すなわちイスラエルに約束されていたメシアの憐れみによって救いに入れられるのです。イエスがダビデの子であることを強調するマタイの特色は、冒頭の系図以来一貫しています。

 もう一つ、マルコにはないお言葉をマタイは加えています。イエスは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って、この異邦人女性の願いを拒否しておられます。このお言葉は、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(一〇・五)という派遣説教のお言葉と共に、地上のイエスはご自分の働きと使命をイスラエルに限定しておられたことを伝えています。これから異邦世界への宣教に乗り出そうとしているマタイが、あえてこのような矛盾する語録を伝えているのは、イエス伝承に対するマタイの強い忠誠心からだと考えられます。
 
 さらに懇願する女性に、イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われますが、女性はこのイエスのお言葉をそのまま自分の身に引き受けて、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えます。イエスはこの答えを聞いて、「あなたの信仰は見上げたものだ」とお誉めになり、「あなたの願いどおりになるように」と言われます。そのとき娘の病気は癒されたのです。
 
 この女性は自分を、パンをいただく資格のある子供ではなく、資格のない小犬の場に置いたのです。このように自分を無資格の場に置いて、神の恩恵だけに身を委ねる姿が信仰です。この異邦人女性はイエスの憐れみだけに縋ることによって、神の恩恵の支配に飛び込んだのです。こうして、異邦人が信仰によって神の民に加わることを、マタイは先の異邦人百人隊長の記事(八・五〜一三)と合わせて、二つの記事で語るのです。

 異邦人の信仰についての二つの記事の構造が並行していることについては、「第4章  民を癒すメシア」の中の「百人隊長の信仰」の項を参照してください。



 北方への旅


異邦の地へ

 洗礼者ヨハネの処刑を聞かれたイエスは、「舟に乗ってそこを去り、(対岸の)人里離れた所に退かれ」(一四・一三)、そこで大勢の群衆に食物を与えられます(一四・一四〜二一)。ここで、その後のイエス一行の行程について、福音書の記事を検討してみましょう。
 
 イエスと弟子の一行は、再び舟に乗って「湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた」とされています(一四・三四―マルコ六・五三と同じ)。「ゲネサレト」(またはゲネサレ)はガリラヤ湖の北西岸に広がる肥沃な平野で、ガリラヤ湖は「ゲネサレ湖」とも呼ばれています。この平野の湖岸には、北にはカファルナウムがあり、南にはマグダラがあります。イエスはこのゲネサレトの地で多くの病人をいやされます(一四・三四〜三六)。「昔の人の言い伝え」についてのファリサイ派の律法学者たちとの論争(一五・一〜二〇)もこのゲネサレトの地で行われたことになります。
 
 その後「イエスはそこ(ゲネサレト)をたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とマタイは伝えて(一五・二一)、「この地に生まれたカナンの女」の娘の癒しの出来事を語っています(一五・二二〜二八)。マタイの物語では、この出来事がティルスかシドンのどちらで起こったのか分かりませんが、マルコはこれをティルスの出来事としています(マルコ七・二四)。そして、その後イエスの一行は「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」(マルコ七・三一)と伝えています。マルコが伝える行程は不可能ではありませんが、きわめて不自然なものです。ゲネサレトの地から西に進んで地中海岸(おそらくアッコ)に出て、そこから北に約四〇キロ行くとティルス(ツロ)があります。そこからさらに四〇キロ近く北にシドンがあります。ところがデカポリス地方というのはガリラヤ湖の南東に広がる地域です。従ってマルコが伝える行程は、マルコ福音書講解39で述べましたように、「琵琶湖をガリラヤ湖になぞらえると、琵琶湖からいったん福井へ行き、福井を去って、金沢を経て、奈良県を通り抜け、再び琵琶湖に戻ってきた」ことになります。マタイはこの不自然さを感じたのか、この行程を省略して「イエスはそこ(ティルスとシドンの地方)を去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」(一五・二九)とだけ報告しています。
 
 この時「ガリラヤ湖のほとり」でイエスがされたことについて、マルコは「エファタ」という一言で耳が聞こえず口が利けない人を癒された出来事を具体的に伝えていますが(マルコ七・三二〜三七)、マタイは多くの病人をいやされたという一般的な描写で簡単に語るにとどめています(一五・二九〜三一)。
 
 その後の出来事も、マタイはマルコの順序に従って物語を進めていきます。四千人の群衆にパンを与えられた記事は、ここでも「女と子供を別にして、男が四千人」としている他はほぼマルコと同じです。ただ、この出来事の後、イエスは舟に乗って「ダルマヌタの地方に行かれた」というマルコの記事を、マタイは「マガダン地方に行かれた」と変えています。ダルマヌタという地名が分からないので変えられたと考えられますが、「マガダン」もどこのことか不明です。マグダラと読む写本や、その他多くの読み方がされている写本があることも、この地名が古代においてすでに分からなくなっていたことを示しています。
 
 次に、ファリサイ派とサドカイ派の人たちが来て(マルコではファリサイ派だけ)、イエスに天からのしるしを見せるように要求する記事が続きます(一六・一〜四)。マルコでは「今の時代には、決してしるしは与えられない」と拒否されていますが(マルコ八・一一〜一三)、マタイは「ヨナのしるしの他には」という重要な句を残しています。ルカ(一一・二九)にもあるので、この句は「語録資料Q」に含まれていたと見られます。「ヨナのしるし」とは、三日三晩大魚の腹の中にいて地上に戻ってきたヨナの物語を、三日目に復活したイエスを指す象徴としていることは明かです。ユダヤ人に向かってイエスをメシアとして宣べ伝えた初期の宣教運動において、イエスの復活こそ究極のしるしであって、これを信じないならば、他のどのような奇跡もしるしにはならないと、ユダヤ人の不信仰を責めているのです(一二・三八〜四二、およびその段落に対する講解を参照)。
 
 次に、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れたことを論じているのに対して,イエスが直前にされたパンの奇跡を思い起こさせておられる記事が続きます。マルコの記事は、弟子たちがその出来事の意味を悟らないことを叱責されるイエスの激しい言葉で終わっています(マルコ八・一四〜二一)。それに対してマタイ(一六・五〜一二)では、「弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」という文で終わっています。すなわち、マルコが弟子たちの無理解ぶりを強調するのに対して、マタイは弟子たちが奥義を悟っていることを強調するという対比がここでも見られます。
 
 この後、マルコでは一行がベトサイダ(ガリラヤ湖北岸のヨルダン川より東にある町)に着き、そこでイエスが盲人の目につばをつけて癒されたことが語られていますが(マルコ八・二二〜二六)、マタイはこの記事を略しています。おそらく弟子たちの悟りを強調するマタイが、マルコの記事を弟子たちの盲目を象徴するものと見て削除したのでしょう。マタイは弟子たちの悟りを強調する記事(一六・一二)からすぐにフィリポ・カイサリアでのペトロの告白に記事に入っていきます。

 

 群衆に食べ物を与える出来事が二重に伝えられている問題については「マルコ福音書講解40」で、天からのしるしの要求については「マルコ福音書講解41」で、パン種に対する警告については「マルコ福音書講解42」で、それぞれその内容と意義を詳しく講解していますので、それを参照してください。ここでは、マルコと異なるマタイの特色を簡単に指摘するにとどめます。


フィリポ・カイサイアで

 このように、ヨハネの処刑後、ガリラヤを立ち去られたイエスとその一行の行程についての記事は、マルコ福音書ではかなり混乱していますし、マルコの記事を変更したり省略したマタイの記事もなおすっきりしません。ティルス、シドン、フィリポ・カイサリアなど、北方の異教の大都市の名があげられていることから、この時期にイエスは弟子たちと一緒に「イスラエルの地」を「立ち去り」、北方の異邦の地域に旅を続けられたと見られます。その旅の物語の中に、ガリラヤの地名と結びついた出来事の伝承が組み込まれたので、このような混乱が起こったのではないかと考えられます。福音書はイエスの伝記を書くためのものではなく、あくまでイエスを復活者キリストとして宣べ伝える信仰の文書ですから、その目的のために構成されています。そのさい、内容上の必要からここに置かれた伝承に、ガリラヤの地名が含まれていたために、イエス一行の行程がきわめて不自然に見えるようになったと推察されます。したがって、わたしたちもイエス一行の行程を詮索して合理的に整える必要はなく、あくまで物語がわたしたちの信仰に語りかける内容とその意義に耳を傾ければよいのです。ルカはこの時期の北方への旅には一切触れず、イエスはガリラヤ宣教から帰ってきた「十二人」を連れて対岸のベトサイダに退き、そこで五千人の群衆に食物を与えられたことを報告し、すぐにペトロの告白を続けています(ルカ九・一〇〜二〇)。ルカでは、ペトロの告白に関してフィリポ・カイサリアという地名はでてきません。ヨハネ福音書にもフィリポ・カイサリアの場面はありません。

 マルコおよびマタイが用いた伝承によれば、ペトロが弟子たちを代表してイエスをメシアと告白した重要な出来事はフィリポ・カイサリア地方で起こりました。この出来事は、イエス一行がガリラヤ湖から北へ行ってフィリポ・カイサリア地方に到着したときのことか、あるいは北からガリラヤ湖に向かって南下したときのことか、福音書のテキストから判断することはできません。わたしは、マルコ福音書の受難物語の流れからすると、北から南下してガリラヤ湖を目指されたときのことではないかと推察しています。マルコ福音書もマタイ福音書も、この出来事の後は一直線にエルサレムでの受難に突き進んでいきます。イエスは北方の旅を終えて、いよいよこれからエルサレムを目指して「イスラエルの地」に入ろうとされて、弟子たちにご自身の秘密を語り出されたと見られます。
 
 イエスはガリラヤ湖を去って地中海岸に出て、ティルス経由でシドンまで行かれたと福音書は報告しています。シドンから内陸部に入って四〇キロあまり南下すると、フィリポ・カイサリア地方に来ます。そこからさらに四〇キロ南下するとガリラヤ湖に戻ります。先に述べた理由により、この北方の旅の中に挿入されたガリラヤの地名を無視しますと、イエス一行はティルスから海沿いにシドンまで北上し、そこから内陸部に入って南下し、フィリポ・カイサリア地方経由でガリラヤ湖に戻ったのではないかと考えられます。その途中、ラビたちの伝承によれば聖なる《エレツ・イスラエール》(イスラエルの地)の境界線であるとされていたフィリポ・カイサリア地方で、いよいよ受難の旅の最後の行程に入ろうとして、イエスは弟子たちにご自身の秘密を語り出されるのです。

 この岩の上に


ペトロのメシア告白

 イエスはご自分の時が近いことを知って、敵対者に取り囲まれたガリラヤでの激しい宣教活動から退き、少数の弟子たちとだけで北方の異教の地を旅されます。それは、ご自身がその時に備えるためでもありますが、同時に弟子たちに「受難のメシア」という奥義を理解させるためではなかったか、とわたしは推察します。イエスは何らかの形でその奥義を指し示すようなことを語られたのしょうが、弟子たちは理解することができませんでした。それで、いよいよ受難の旅が最後の行程に入ろうとするとき、イエスはその奥義を教え始め(一六・二一)、「しかも、明白にその言葉を語られた」(マルコ八・三二)のです。
 
 「受難のメシア」という秘密を語り出す前に、イエスはまず弟子たちがイエスをどう理解しているのかを尋ねられます。周囲の人たちがイエスを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」などと言っているのを確認した後、イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたは(強調)わたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。イエスの問いにシモン・ペトロが代表して答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」(一六・一三〜一六)。
 
 このイエスと弟子たちの問答の部分については、マタイはほぼマルコ(八・二七〜二九)と同じですが、ペトロの答えに「生ける神の子」という句を付け加えていることが目立ちます。マルコでは、ペトロは「あなたはメシアです」と答えていますが、マタイでは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたとされています。
 
 このペトロの答えは、ギリシャ語原文では「あなたは《クリストス》、生ける神の子です」となっています。ペトロはアラム語で「あなたはメシアです」と答えたはずですが、それをギリシャ語福音書は《クリストス》という訳語を用いて伝えているのです。《クリストス》は「油を注がれた者」という意味のギリシャ語ですから、神から油を注がれた終末的な救済者を指すヘブライ語ないしアラム語の「メシア」の訳語として用いられるのは当然です。ところが、《クリストス》という語は、ギリシャ語による福音の宣教において死人の中からの復活によって神の子とされた方の称号として用いられていましたから(たとえばロマ一・二〜四)、ギリシャ語圏の読者には、このペトロの答えはペトロがイエスを復活者キリストと告白していると理解されるようになります。
 
 大部分の現代語訳は、ペトロの答えを「あなたはキリスト、生ける神の子です」と訳しています。この訳は、「キリスト」が新約聖書では復活した救済者の称号である以上、ペトロがすでにこの時、イエスを復活者キリストと告白しているという理解を避けることができません。しかしこれは、歴史上の出来事としては誤解です。この段階では、ペトロがイエスを復活者キリストであると告白することはありえません。ペトロは当時のユダヤ人のメシア期待の中で、そのメシア観の範囲内で、イエスをメシアであるとしているのです。
 
 そのメシア観によれば、神から油を注がれた「メシア」は、その力によってイスラエルを異教徒の支配から解放し、栄光の地位に上げる救済者です。ですから、イエスが「受難のメシア」、すなわち殺されるメシアの秘密を語り出されたとき、ペトロはそれが理解できず、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」と言って、「サタンよ、引き下がれ」と叱責されるのです(一六・二一〜二三)。もしこの時すでにペトロがイエスを復活者キリストと告白しているのであれば、「サタンよ、引き下がれ」という叱責はありえません。

 当時のメシア観、ペトロの「メシア」告白の意義、「キリスト」という訳語については、マルコ福音書講解44「苦しみを受ける人の子」を参照してください。

 それで、最近の翻訳はペトロが告白した時の歴史上の状況を再現するために、「あなたはメシアです」と訳すようになっています(NRSV、新共同訳など)。この訳は、マルコ福音書では当時の状況に忠実な訳として素直に受け取ることができます。ペトロが当時のメシア観によって「あなたはメシアです」と言い表したのに対して、イエスはペトロのメシア観を訂正するかのように、ご自分がそのような「メシア」ではなく、苦しみを受ける「人の子」であることを明白に教え始められます。従来のメシア観から脱却できないペトロは、それを理解できず、イエスがそのような道を行かれないように「いさめ始め」、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と激しく叱責されることになります(マルコ八・二七〜三三)。マルコ福音書のこの段落につける標題は、「ペトロの信仰告白」ではなく、「ペトロの誤解と苦しみを受ける人の子の啓示」の方がふさわしいと言えます。
 
 しかし、マタイ福音書では事情が違います。マタイはペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白の直後に、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ――」(一六・一七〜一九)というイエスの賞賛ないし祝福の言葉を置いています。マタイは明らかに、ここのペトロの告白を初期のエクレシアが告白していた復活者キリストへの信仰告白としているのです。「生ける神の子」を加えたのも、イエスをキリストと告白する初期の信仰告白の定式に従っています(ロマ一・二〜四参照)。マタイ福音書では、ペトロはすでに湖上に顕現されたイエスに「あなたは神の子です」と告白して拝んでいるのです(一四・二八〜三三)。このような復活者キリストへの信仰告白であるからこそ、「この岩の上にわたしのエクレシアを建てる」と言うことができるのです。そうすると、ここのペトロの告白は、「あなたはメシアです」よりも「あなたはキリストです」と訳した方がふさわしいことになります。当時のユダヤ人の「メシア」信仰の上にキリストのエクレシアは立つことはできません。
 
 ところがマタイは、イエスがペトロのメシア観の間違いを叱責されるマルコの記事もそのまま継承しています(一六・二一〜二三)。もしペトロの告白を、復活者キリストへの信仰告白として、「あなたはキリストです」と訳すと、イエスの激しい叱責と矛盾します。マタイ福音書では、ペトロの告白に続くイエスの賞賛(一七〜一九節)とイエスの叱責(二二〜二三節)は矛盾しています。ペトロの告白を「メシア」と訳しても「キリスト」と訳しても矛盾に陥ります。
 
 このディレンマは福音書の二重性から来ています。福音書はイエスの伝記ではなく、地上のイエスの物語によって復活者キリストを世界に告げ知らせようとする文書です。福音書が物語るイエスの姿には、地上のナザレ人イエスの姿と、そのイエスが復活者キリストであるという告知が重なっています(マルコ福音書講解92「マルコ福音書の二重構造」参照)。マルコ福音書も、福音書全体としてイエスを復活者キリストとして告げ知らせているのですが、このフィリポ・カイサリアの場面では、地上の出来事を比較的忠実に伝えていることになります。それに対して、マタイはイエスの賞賛の言葉を挿入することによって、この場面をイエスをキリストとするエクレシアの信仰告白の場面にしているのです。しかも、イエスの叱責という歴史的な場面も保存しているので、矛盾した物語になっているのです。

 マタイは、ペトロが厳しく非難されているマルコの物語に、他の場面でのペトロの「神の子」告白に対するイエスの言葉を挿入して、教団の指導的立場にあるペトロを擁護し、彼の首位性を主張したと見られます。その「他の場面」というのは、おそらくペトロへの最初の復活者の顕現であり、それがこの箇所と湖上を歩くペトロの記事(一四・二八〜三三)に反映していると見られます。また、マタイのここの記事は、ルカ二二・三一〜三四、ヨハネ六・六六、ヨハネ二一・二五以下などと共に、最後の晩餐とかペトロへの最初の復活者の顕現について伝える物語の背後にある共通の伝承が想定されるという見方もあります(クルマン『ペテロ』参照)。なお、ルカはペトロがイエスからサタンと叱責される箇所を省略することで、ペトロを擁護し、矛盾を回避しています。

 しかし、この物語としての矛盾は、福音書を信仰の書として読む者には矛盾ではありません。信仰は福音書が二重構造になっていることを理解しています。マタイ福音書のこの箇所は、福音書の二重構造がもっとも典型的に、もっとも尖鋭に現れている箇所です。地上では誤ったメシア信仰のために激しく叱責されたペトロも、復活者キリストにあっては、父から御霊によって直接「神の子イエス・キリスト」の奥義を啓示された者となり、キリストのエクレシアがその上に建てられる岩となり、天の国の鍵を持つ者とされるのです。生身のペトロが水の上を歩くペトロとなるのと同じです。イエスの祝福の言葉は、このペトロに対するものなのです。
 
 このような理解に立って、もう一度翻訳の問題に戻ります。ペトロの告白を「メシア」と訳しても「キリスト」と訳しても矛盾は残りますが、翻訳はどちらか一つを選ばなければなりません。福音書は本来地上のイエスを物語るものであるという建前から、ここでは歴史上の場面として「メシア」という訳を採ります。当時メシアは「神の子」とも呼ばれていましたから(マルコ一四・六一)、「生ける神の子」という句の付加は「メシア」と訳すことの妨げにはなりません。その上で、イエスの賞賛の言葉は復活者キリストにある場での理解に委ねます。キリストにあって福音書を読む者は、ペトロの「メシア」告白を、マタイが理解したように父から直接与えられた復活者キリストの啓示として、その上にエクレシアが成立する土台として受け取ることができます。

この岩の上に

 このように、マタイはイエスの賞賛の言葉を入れることによって、マルコ福音書のペトロの「メシア」告白の場面をエクレシアの「キリスト」告白の場面に変えています。このマタイ福音書だけにあるイエスの賞賛祝福の言葉を検討してみましょう。

 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会《エクレーシア》を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 (一六・一七〜一九)

 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」という文で、「このこと」というのは(原文では特定の語を指す代名詞はありませんが)、ペトロがイエスが何者であるかを悟り告白した内容を指しています。それは、人間の知恵や理解で知りうることではなく(原文では「肉と血が啓示したのではなく」というアラム語的な表現)、天にいます父が隠されている秘密を啓示された結果である、というのです。マタイはこの言葉で、聖霊によって啓示されてイエスを復活者キリストと告白しているエクレシアの体験を描いているのです。そして、その体験に対する主イエス・キリストの祝福を聞いているのです。
 
 マタイは現在の自分たちエクレシアの体験とそれに対する主の祝福を、ペトロに代表させペトロの体験として描きます。ペトロの本名はシモンでした。ユダヤ人社会では「シモン・バルヨナ」と呼ばれていました。「バルヨナ」というのはヨナの息子、あるいはヨハナン(=ヨハネ)の息子というアラム語です。シモンはヨハネの息子と伝えられていますから(ヨハネ一・四二)、おそらくヨナといのはヨハネが短縮された形であると見られます。このシモンがイエスに「あなたはメシア、すなわちキリストです」と告白したのに対して、今度はイエスがシモンに向かって、「あなたはペトロである」と言われるのです。
 
 原語の《ペトロス》は、岩という意味のギリシャ語《ペトラ》(女性名詞)に男性語尾をつけて男性の名前にした形です。ギリシャ語では、イエスの言葉は「あなたは《ペトロス》である。わたしはこの《ペトラ》の上にわたしの《エクレーシア》を建てる」となります。それで、エクレシアがその上に建てられる「岩」はペトロという人物《ペトロス》ではなく、《ペトラ》が象徴するキリスト告白を指すという解釈もなされますが、この用語からする解釈は無理です。それは、イエスが語られたと考えられるアラム語では両方とも《ケファ》だからです。シモンはイエスから「ケファ」という呼び名を与えられたのです(ヨハネ一・四二)。

 ペトロへの祝福の言葉は復活者の顕現の場で与えられたものであるとしても、「ケファ」という呼び名自体はイエスが地上におられたときに与えられたものです。イエスは他にもゼベダイの二人の子らに「ボアネルゲ」(雷の子)という呼び名を与えておられます(マルコ三・一七)。イエスは弟子ひとりひとりの性格を見抜いて、ふさわしい呼び名をつけられたのです。おそらくヨハネ福音書(一・四二)が示唆しているように、彼らがイエスに出会ったごく初期に与えられたのでしょう。ここ(ペトロへの祝福の言葉)で、その名を担う者の果たすべき役割が新しく啓示されたのです。

 この「ケファ」の上にキリストの民は成立する、とマタイは書いているのです。しかし内容からすると、サタン的なメシア理解しか持てない人間シモンではなく、父からの直接の啓示によってイエスが復活者キリストであるという奥義を示されて告白している「ケファ」が「岩」とされているのです。その意味で、エクレシアがその上に建てられる「岩」とはこのキリスト告白であると言えます。さらに進んで、この告白の内容であるキリスト自身が岩であるという理解も可能になります。わたしたちの信仰体験としては、この「岩」とは究極的には主イエス・キリストご自身を指すと理解せざるをえません。

 古代ではオリゲネス、テリトゥリアヌス、クリュソストモスなどがこの「岩」を信仰告白を指すと解釈し、アウグスティヌスはイエス・キリストご自身を指すと解釈しました。宗教改革者は、信仰告白あるいはキリストご自身を指すと理解しました。

 この岩であるペトロと共に「イエスはキリスト、生ける神の子である」と告白する者たちの群れが、ここで《エクレーシア》と呼ばれています(一八節)。《エクレーシア》という語は、イエスの復活後、イエスを復活者キリストと告白する民が自分たちの共同体を指すのに用いた用語ですから、歴史的な場面としてはイエスが《エクレーシア》という語を用いて神の民の成立を語られることはなかったと考えられます。しかし、マタイはペトロの「メシア」告白の場面を「キリスト」告白の場面にしているのですから、この告白をする民を自分たちが用いている《エクレーシア》という語を用いて呼ぶのです。そして、現在の自分たちの《エクレーシア》を地上のイエスと弟子たちの姿に重ねて物語っていきます。その結果、現在の《エクレーシア》に対する訓戒を、イエスが弟子たちに与えられた訓戒として語ることができるのです(一八章、とくに一七節)。

 《エクレーシア》という語を用いて自分たちの共同体のことを語ったのはマタイであるとしても、それはイエスが地上に終末的な神の民の成立を予想されてはいなかったことを意味するものではありません。それは別問題です。イエスは別の表現で終末的な神の民の歴史内での形成を語っておられます。それをマタイがここで《エクレーシア》と重ねるのです。しかし、それはもはや古い神の民であるイスラエルの枠内の民ではなく、それとは別のキリストの民、「わたしの《エクレーシア》」なのです。

 マタイは「わたしは、この岩の上にわたしの《エクレーシア》を建てるであろう」という語録をここに置いています。「建てるであろう」という動詞は、イエスが神殿で「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建てるであろう」(ヨハネ二・一九)と言われたお言葉を思い起こさせます。マタイとその共同体は、そのお言葉通り、復活されたイエスが現在ご自身に所属する民を呼び集め、終末時の神の民を形成されていることを、建物の比喩を用いて表現しているのです。この新しい神殿の「隅の頭石」は、ペテロと共に、イエスがキリストであるという奥義を父から啓示されて告白する信仰であり、その信仰を成り立たせるイエス・キリストご自身です(エクレシアを建物の比喩を用いて語ることについてはコリントI三章一〇節以下を参照)。
 
 イエスはこの《エクレーシア》について、「陰府《ハデス》の門もこれに対抗することはできない」(直訳)と語られます。《ハデス》とは死者のいる場所です。「《ハデス》の門」とは、死者をその領域に閉じ込めている開かずの門です。ひとたび死者の国に入るならば、だれもこの門を破ることはできません(この意味で「陰府の力」と意訳することも可能です)。もし「陰府の門」を陰府の支配力とし、その力が《エクレーシア》を攻撃すると理解すると、「陰府の力はこれに打ち勝つことはできない」と訳すことになります。しかしここは、復活の命に溢れる《エクレーシア》が攻撃するとき、「陰府の門はこれに対抗することができない」で、開門せざるをえないと理解する方が、《エクレーシア》の力強さをいっそう強調することになると思われます。《エクレーシア》は復活の命が支配する場です。この復活者キリストにある場では、今までわたしたちを死に閉じ込めてきた「陰府の門」も打ち破られるのです。

天の国の鍵

 「建てる」とか、「(土台の)岩」、「門」と建物のイメージを用いて《エクレーシア》のことを語ってきたマタイは、ここに「鍵」の比喩を用いてペトロの地位を語ります。すなわち、イエスをキリストと告白したペトロに、イエスは「天の国の鍵」を授けたというのです。ここで「天の国」は建物のイメージで登場します。「天の国」とは、ここではすでに建物の比喩で語られている《エクレーシア》を指していると見られます。「天の国」すなわち《エクレーシア》という建物に入る門を開いたり閉じたりする鍵を、イエスはペトロに授けたというのです。主が僕エルヤキムに「ダビデの鍵」を与えて、「彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はないであろう」という支配権を委ねられたように(イザヤ二二・二二)、イエスはペトロに鍵を渡し、彼の家《エクレーシア》の管理人に任命したというのです。その鍵を用いて、ペトロが門を開くとき、人はエクレシアに入ることができ、門を閉じるときは入ることが拒否されるのです。ここでは表現の意味の説明にとどめ、これが実際には何を意味するかは後で取り上げます。

 旧約聖書の「鍵」の象徴はヨハネ黙示録の著者がよく用いています。復活者キリストは「ダビデの鍵を持つ方」と呼ばれ、イザヤ書二二章二二節がそのまま引用されています(黙示録三・七)。また、死者の中から復活した方として「死と陰府の鍵をもっている」とされています(黙示録一・一八)。

 そしてさらに、「鍵」の権能を説明する言葉が続きます。
 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。
 「つなぐ」とか「解く」という表現は、ユダヤ教律法の教師であるラビたちの用語です。ラビの用語では、「つなぐ」というのは律法順守のためにある内容の義務を課すことであり、「解く」というのはその義務を免除することです。この意味で理解しますと、イエスはペトロにイエスの言葉を解釈して教える権能を与えたことになります。具体的な状況に即して、イエスの言葉に従うためにはこうすべきであると、ペトロが地上で決めたことは、天上でも有効であるという意味になります。その決定と教えに反することは、神の意志に反することになります。
 
 ところが、この「つなぎ、かつ解く」権能は、ペトロ個人だけでなく、エクレシア全体に与えられていることを語る箇所があります(一八・一八)。そこでは「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られています。そこでも「つなぐ」とか「解く」の内容は説明されていませんが、直前の段落(一八・一五〜一七)の文脈からすると、罪を犯した兄弟を受け入れるか追放するかを決める権能を指しているようです。後に続く「赦さない家臣のたとえ」(一八・二一以下)も、これが兄弟を赦して受け入れる権能であることを指しています。
 
 また、ヨハネ福音書には「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ二〇・二三)というお言葉が伝えられています。初期の教団は、復活の主からこのような権能を与えられていると理解していました。このような明白な並行語録がある以上、「つなぎ、かつ解く」権能はもともと罪を犯した兄弟を受け入れるか拒否するかの権能であったと理解すべきです。それがユダヤ人の宣教圏で「つなぎ、かつ解く」というラビ的な用語で表現され、さらにマタイによってペトロへの賞賛の中に用いられて、ペトロ個人に与えられた権能とされたと見られます。
 
 このように理解すると、「つなぎ、かつ解く」権能はペトロに与えられた「鍵」の内容を説明することになり、一九節は一体のものとして自然に続きます。イエスはペトロに「天の国の律法」を解釈して教える権能を与えて、ラビの長に任命されたのではありません。ペトロは、教団に与えられた赦しを与えるという意味の「つなぎ、かつ解く」権能を代表しているのです。その意味で「天の国の鍵」を与えられているのです。  

ペトロの首位性

 初期の教団には、ペトロを使徒の中で首位におく伝承がありました。それは、復活されたイエスが最初にペトロに現れたという伝承に基づいています。最初に復活の主に出会った者として、イエスの十字架刑の後ガリラヤに逃げていた弟子たちを励まし、エルサレムに再びイエスを信じる者たちの群れを形成し、指導するのに中心的な役割をはたしたのはペトロでした。しかし、ペトロがエルサレムを去ってからは、主の兄弟ヤコブがエルサレム教会の、したがって全教団の首位に座すことになります。ペトロはアンティオキアに来て伝道し、パウロと対立しますが、パウロがアンティオキアを去ってからは、イエスの身近な弟子であり復活の第一の証人としてのペトロの権威が、アンティオキアを中心とするシリア地方に確立していきます。この流れの中で成立した共観福音書では、ペトロはいつも十二使徒のリストの筆頭者として登場します。シリアで成立したと見られるマタイ福音書は、この地方で確立しているペトロの首位性を、ここで見たような語録の編集によって根拠づけるのです。
 
 しかし、初期の宣教運動においては、ペトロ以外の人物を首位とする伝承もありました。たとえば、主の兄弟ヤコブを首位とする伝承は、復活されたイエスは最初にヤコブに現れ、ヤコブに全権を委ねたという内容の福音書を成立させていました。また、トマスを最高の啓示を与えられた使徒とする「トマス福音書」もあり、さらにマグダラのマリアを首位におく伝承もありました。
 
 新約聖書の中でもっとも初期の文書であるパウロ書簡は、ペトロであれ他の誰であれ、一人の人物が首位に座して全エクレシアを指導監督するという体制には反対しています。マタイ福音書はパウロが活動した時期よりずっと後の成立ですが、パウロ系の諸集会は、マタイがここで書いているようなペトロの首位性は認めなかったと思われます。
 
 たとえば、ヨハネ福音書は、どの程度パウロの思想を継承しているのかは議論がありますが、ペトロ以外の弟子を優位におく傾向があります。ペトロの使徒としての権威を否定しているのではありませんが、ペトロが首位であることには批判的であるように見えます。
 
 このように初期の伝承の多様さを瞥見したのは、マタイ福音書で主張されているペトロの首位性は、当時の状況でマタイが描いているエクレシアの理念であって、当時の福音の多様な展開の中の一つであることを理解するためです。したがって、この箇所の理解は、マタイが彼の状況の中で言おうとしていることを理解するように努めつつ、福音の基本的原理に従って解釈しなければならないと言えます。

 このマタイだけが伝えるペトロへのイエスの賞賛の言葉(一六・一七〜一九)は、ローマ・カトリック教会の成立や教義、それに対抗する宗教改革など、その後のキリスト教の歴史に重大で巨大な影響を及ぼし、論争の的となってきました。この問題は、この講解の範囲をはるかに超えますので、別の機会に取り上げたたいと思います。


 旅の途上で


受難予告

 ペトロの「あなたはメシアです」という告白に、独自の意義づけを与えた後(一六・一三〜二〇)、マタイはそのメシアたるイエスが受難の道を歩み始めることを物語ります。「この時から、イエスは弟子たちに示し始められた」(一六・二一)という書き出しで、マタイの受難物語が始まります。以下エルサレム入城まで、マタイはかなり忠実にマルコに従って物語を進めていきます。しかし、マタイはいつも、ペトロと共に「あなたこそメシア・キリストです」と告白する自分の共同体を視野に置いて、マルコの表現を少しずつ変えながら書き進めます。この現在の共同体に対するマタイの関心は、一八章にいたって明白に表現されるようになります。今回取り扱う部分で語られる出来事の内容や意味は、大部分すでに「マルコ福音書講解」で取り上げていますので、それを見ていただくことにして、ここではマルコに対するマタイの特色に重点を置いて、マタイの物語を聴いていきましょう。
 
 ピリポ・カイサリヤからエルサレムに向かう旅で、イエスは三回も繰り返して御自身の受難を予告しておられます。この旅の重要な主題です。共観福音書の受難予告を比較すると、三回とも三つの福音書すべてに記録されており、ほぼ同じ言葉で伝えられています。この事実は、おそらくマタイとルカは「語録資料Q」に依存するのではなく、それぞれの仕方でマルコに従っていることを示唆していると見られます。ここでは、マタイをマルコと比較して、マタイの特色を見ていきます。
 
 第一回目のイエスの受難予告の言葉(一六・二一)は、マルコとほとんど同じです。ただ、これを《ホ・ロゴス》という語で指して、これこそ「福音」であるとするマルコの表現は見られません。また、ペトロがイエスを「わきへお連れしていさめた」のに対して、イエスが「サタンよ、引き下がれ」と激しく叱責された事実も、マタイはそのまま伝えています(二二〜二三節)。ただマタイは、ペトロがイエスに、「神があなたに憐れみ深くあって、そのようなことがあなたに起こりませんように」(二二節後半の直訳)と言ったとつけ加えています。この時のペトロの言動をイエスへの愛情によるものとして、ペトロを弁護する動機がマタイにはあったのでしょうか。
 
 ご自身の受難を予告された後、ご自分に従う弟子たちにも「自分の十字架を背負う」覚悟を促される言葉が続きます(一六・二四〜二八)。この言葉は、マルコでは弟子たちと群衆に向かって語られたことになっていますが(マルコ八・三四)、マタイでは弟子たちだけに語られたことになっています。総じて、エルサレムへの旅を語るこの部分では、群衆は姿を消し、もっぱら弟子たちが話題になっています。ここにもマタイの現在の共同体への強い関心が出ているのでしょう。
 
 従う者の覚悟を求めるイエスの言葉においても、マルコの「わたしのため、また福音のために命を失う者」は、マタイでは「福音のため」がありません。また、「人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」、マルコではイエスを恥じる者を人の子も恥じるとなっていて(マルコ八・三八)、イエスへの信仰告白だけが問題となっていますが、マタイでは「それぞれの行いに応じて報いる」となっています(一六・二七)。これは、天の国に入るには「律法学者やファリサイ派の人々の義に勝る義」が必要であるとしたマタイの思想にふさわしい変更です。
 
 第二回目の受難予告(一七・二二〜二三)でも、受難を予告するイエスの言葉は、マルコをそのまま用いていますが、その言葉を聞いた弟子たちの態度については、マルコ(九・三二)が「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」としているところを削って、ただ「弟子たちは非常に悲しんだ」と変えています(一七・二三)。ここにも、マルコが弟子たちの無理解を強調するのに対して、マタイは弟子たちがイエスの教えや奥義を理解していたことを強調する傾向があるという対比が見られます。
 
 第三回目の受難予告(二〇・一七〜一九)も、予告の言葉はマルコ(一〇・三二〜三四)とほとんど同じです。第三回目の予告は、第一回と第二回に較べると、ユダヤ人の法廷で死刑を宣告された後、異邦人の手に引き渡されることや、その後の侮辱、鞭打ち、十字架刑による処刑など実際の出来事に近くなっており、事後予言の性格が強く出ていることもマルコと同じです(ただ、マルコでは「殺す」が、マタイでは「十字架につける」といっそう具体的になっています)。ところが、この予告に対する弟子たちの態度については、マルコが「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と書いているところを、マタイは削除しています。マルコでは弟子たちは理解できないまま驚き恐れていますが、そういう弟子たちの無理解は伝えたくないというマタイの姿勢がここにも見られます。

変容の山

 ピリポ・カイサリア地方におけるペトロの告白とイエスの受難予告の後、イエスが高い山で「姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」出来事が続くのもマルコと同じであり、その記事の内容(一七・一〜一三)もほぼマルコ(九・二〜一三)と同じです。マルコでは服の白さについて「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と表現しているところを、マタイは「光のように白くなった」と言い換えて、その「白い衣服」がこの世のものではないことをより強く示唆したり、ペトロの「仮小屋を三つ建てましょう」という言葉に、「お望みでしたら」という句を加えたりするなど、小さい変更が見られますが、ここでもやはりマルコの「 ペトロはどう言えばよいのか分からなかった」という弟子たちの無理解を示唆する句を除いているのが目立ちます。

 ところで、四福音書の中でマタイだけが、復活されたイエスがガリラヤの山で弟子たちに現れたことを伝えています(二八・一六以下)。すでに水の上を歩くイエスの物語を復活されたイエスの顕現の物語として語ったマタイは(一四・三三)、この高い山での弟子たちの体験も復活者の顕現の物語として語っていると見られます。マルコではたんに「雲が彼らを覆った」とありますが、マタイでは「光り輝く雲が彼らを覆った」となり、それが栄光の主の顕現であることがより強く示唆されています。また、雲の中からの声に恐れてひれ伏す弟子たちに、「イエスが近づき、彼らに手を触れて言われた、『起きなさい。恐れることはない』」というマルコにはない文を加えているのも、これが復活者との出会いの体験であることを示しています。
 
 山から下りるとき、イエスが「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられたことはマルコと同じです。この命令は、イエスの復活後にはこの物語が復活顕現の物語として大いに用いられたことを、逆に示唆しています(ペトロU一・一六〜一八参照)。雲の中から聞こえた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声も、ヨルダン川でバプテスマをお受けになったときに聞こえた声と同じく、復活によって神の子とされたイエスの地位を告知する言葉に他なりません(ロマ一・四)。
 
 イエスが「死者の中から復活する」ことに言及されたので、弟子たちは、そのような終末の事態が起こる前には「エリヤが来るはずだ」とされていることについて質問します。その質問に対するイエスの答えは、マルコでは次のような順序になっています。
 
 1 まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
 2 人の子も苦しみを受ける。
 3 エリヤはすでに来たのだが、人々は彼を認めず勝手に扱った。

 この順序では分かりにくいので、マタイは2と3の順序を入れ替えて分かりやすくしています。そして、「弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」というマルコにはない文を加えて、弟子たちが洗礼者ヨハネを終わりの日の前に現れるエリヤとして理解したことを明言します。こうしてこの問答は、マタイとその共同体が洗礼者ヨハネを終末の前に現れる再来のエリヤとして告知するものになります。

悪霊に取りつかれた子供

 イエスは栄光の山から下って受難の地に向かって行かれます。山を下ったところで、悪霊に取りつかれた子供を癒されます。この出来事を伝えるマタイの記事(一七・一四〜二一)は、マルコ(九・一四〜二九)の報告をかなり簡単にしています(マルコでは一六節に及ぶところをマタイは八節と半分にしています)。ここでも、マタイはマルコの生き生きとした臨場感の強い奇跡物語を、事実の報告だけの簡潔なものにする傾向が見られます。たとえば、マルコでは子供の症状は三回にわたって説明されていますが、マタイは一回にしています。この簡略化の結果、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という父親の言葉に至る重要な問答は省略されて、「絶信の信」という深い消息を学ぶ機会がなくなっています。
 
 また、後で弟子たちがイエスに「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねたときのイエスのお答えは、マルコでは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」となっていますが、マタイでは「信仰が薄いからだ」と、マタイ特有の用語で説明され、その後にマルコでは他の文脈で用いられている「この山に向かって」という信仰についての語録が置かれます。

 「絶信の信」および「この山に向かって」の語録については、マルコ福音書講解63「いちじくの木が枯れる」を参照。


神殿税を納める

 山上の変容、山麓での子供の癒し、第二回目の受難予告とマルコの順序に従って物語を進めてきたマタイは、次にマタイだけの特有の神殿税の記事を置きます(一七・二四〜二七)。それはイエスの一行がカファルナウムに来たときの出来事とされています。おそらく、ここまでマルコに従ってきたマタイは、一行がカファルナウムの家に着いたという時点で(マルコ九・三三)、共同体に対するイエスの訓戒(一八章)を置こうとして、その前置きとしてこの神殿税の記事を入れたのでしょう。一八章にまとめられている共同体への訓戒がここから始まっていると見ることもできます。

 当時のユダヤ教では、成人男子は神殿維持のために年に半シェケルまたは2ドラクマの神殿税を納めなければなりませんでした。この税金を集める者がペトロに、「あなたたちの先生は(神殿税の)2ドラクマを納めないのか」と質問します。これはイエスがユダヤ教律法を順守していないという詰問です。ペトロは、イエスの返答を確認しないで、その場をとりつくろい、「納めます」と答えます。そのペトロにイエスは言われます、「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われます。
 
 イエスは地上の王たちが徴収する税金をたとえとして用いて、自分はこの神殿で拝まれている方の子であるから、神殿税を払わなくてもよいのだと言っておられるのです。マタイが福音書を書いた時には神殿は存在していないのですから、この語録は神殿が存在していたイエスの時代かその直後の時代にさかのぼるはずです。この語録はマタイが用いた伝承だけに知られていたようです。
 
 この税金の比喩の語録は、イエスの子としての自覚を示す重要な語録ですが、同時にこの語録は、「神殿より偉大な者がここにある」(一二・六)という語録と共に、イエスが子としてユダヤ教の神殿祭儀を超えておられたことをも指し示しています。それにもかかわらず、イエスが(そしてイエスに従い、イエスを信じるユダヤ人の共同体が)神殿税を納め、神殿祭儀を守るのは、あくまで「彼ら(ユダヤ人たち)をつまずかせないため」であるという言葉が続きます。イエスは言われます、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
 
 「銀貨」《スタテール》は4ドラクマ相当の銀貨で、ちょうどイエスとペトロの二人分の神殿税に相当します。この段落は、そうしなさいというイエスの言葉で終わっており、釣った魚の口に銀貨が見つかり、それでペトロが二人分の神殿税を納めたという事実は報告されていません。魚の口の中に見つかる銀貨で税を納めるという象徴的な説話で、神から賜る収入の中から(ペトロは漁師でした)律法の規定に従い神殿税を納めるように勧めていると見られます。
 
 この段落は、神殿崩壊前のユダヤ人信徒の状況を反映しており、イエスを信じるユダヤ人信徒は、イエスと共に神の子供として神殿税や祭儀規定から自由であるが、ユダヤ教徒としての立場から、周囲のユダヤ人をつまずかせないために、神殿税を納め祭儀を守っているのだと主張しています。このユダヤ人信徒の伝承をマタイが継承してここに置いたと見られます。そうであれば、イエスを信じる者は律法から自由であるという理解は、パウロやヘレニズム異邦人キリスト教だけでなく、ユダヤ人キリスト教の中にもあったことになります。



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