マタイによるメシア・イエスの物語

第9章 恩恵の場に生きる共同体

     ー マタイ福音書 一八章 ー



 

 


はじめに ― 第四の語録集

 フィリポ・カイサリヤからエルサレムに向かう最後の旅の途中、イエスとその一行はガリラヤでの宣教活動の拠点であったカファルナウムに立ち寄ります。そして、「家におられた時」、すなわち群衆から離れて弟子たちだけが回りにいた時、イエスは弟子たちが途中「誰がいちばん偉いか」と議論していたことを取り上げて、心得違いを諭されます(マルコ九・三三〜三七)。マルコの物語がここまで来たとき、マタイは弟子たる者の心構えを説くイエスの語録をまとめて、弟子の共同体の在り方を説く語録集(一八章)としてここに置きます。一八章が一つの語録集(五つの語録集の中の第四)を形成していることは、「山上の説教」など他の語録集と同じ「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という句で締め括られている(一九・一)ことからも明かです。

 第四ブロック(一四〜一八章)では、イスラエルから拒否されるメシア・イエスの回りに、少数ながらイエスをメシア・キリストと告白する弟子たちの集団が形成されることが物語られてきました。そのブロックの最後に、マタイは弟子たちの共同体へのイエスの訓戒をまとめて置きます(一八章)。この語録集では、マタイは現在自分が指導する信徒の共同体を念頭において語っていることは、その中で「教会」《エクレーシア》という語が使用されていることにも示されています(一七節)。
 
 この語録集の中で、マルコと共通のものは「マルコ福音書講解」に委ね、それを扱うマタイの特色を見るにとどめ、ここではおもにマタイ特有のものを取り上げて見ていくことにします。
 


 

 小さい者


いちばん偉い者

 最初の「誰が天の国でいちばん偉いのか」という問いを扱う段落(一八・一〜五)では、マタイはイエスと弟子たちとの間の問答(マルコ九・三三〜三五)は省略して、すぐに「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせ」(二節、マルコでは「幼児を腕に抱いて」)、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」というイエスのお答えを置いています(四節)。ただその前に、マルコでは他のところに出てくる「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」というお言葉を置いて(三節)、「子供のようになる」ことの重要性を強調しています。天の国に入るのに必要な「子供のようになる」ことが、同時に天の国でいちばん偉い者になる道だというです。
 
 ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(ユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。神の支配とは恩恵の支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恩恵を恩恵として無条件に受け取り、恩恵に全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恩恵の場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。イエスご自身がそのような「無者」の典型です。
 
 最後にマタイはマルコ(九・三七)の言葉を、その後半部を略して引用し、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(五節)という語録でこの段落を締め括ります。ここでの「子供」は、存在する価値もないとして社会で無視されている「小さい者」のことであり、そのような者を「受け入れる」とは、そのような者の仲間になり、自分をそのような低い場に置くことです。「わたしの名のために」は、ほかに何の理由がなくても、イエスがそうすることを望まれるからという理由だけで、あるいは、「小さい者」がイエスに属する者であるからという理由だけで、受け入れることを指しています。そのように「小さい者」を受け入れる者は、じつにイエスを自分の中に迎え入れていることになる、というのです。イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っておられます(二五・四〇)。イエスはこのような「小さい者」とご自分を一つにしておられるのです。このようにマタイは、弟子団の交わりの根本憲法として、自らを低くすることを最初に求めるのです。
 
 なお、マタイがマルコ(九・三七)の語録の後半を略したのは、この語録を自分を低くすることを求める意味に限定するためであると見てよいでしょう。

罪への誘惑

 「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
 
 ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
 
 この「つまずかせる」ことの重大さを印象づけるために、マタイは「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(七節)という結び付けの一文を置いて、「つまずき」に関する別の語録(おそらく元々は別の伝承であったと考えられる語録)を続けます(八〜九節)。この語録は「あなたをつまずかせる」という表現が示しているように、「小さい者をつまずかせる」こととは別の問題で、信仰者一人ひとりの自分の問題です。もし片手片目が「あなたをつまずかせるなら」、その片手片目を切り捨てよというイエス独特の激しい表現で、信仰を失い、神との命の交わりから脱落し、「火の地獄に投げ込まれる」ことの恐ろしさが語られています。それは「神の国に入る」ことの真剣さの裏返しの表現です。

 「地獄」については、マルコ福音書講解52「つまずき」、および、福音講話「キリスト信仰の諸相」の中の「希望の諸相」第2講「希望としての神の国」、とくに「地獄を克服する希望」という項を参照してください。なお、ルカ福音書一七章の一節と二節には、マタイ福音書一八章の六節と七節が逆の順序で出てきます。


「迷い出た羊」のたとえ

 「小さい者を受け入れなさい」(一〜五節)と「小さい者をつまずかせるな」(六〜九)という訓戒に、「小さい者を軽んじるな」という訓戒が続きます(一〇〜一四節)。そして、「小さい者を軽んじることのないように気をつけなさい」(一〇節前半)という訓戒の理由が二つ上げられます。一つは、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」(一〇節後半)からです。もう一つは、「迷い出た羊」(一二〜一三節)のたとえが語るように、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(一四節)からです。
 
 どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。

 この天使についての語録は他の福音書にはなく、マタイだけにあります。その天使論の内容から見ても、この語録はマタイによる構成である可能性があります。しかし、もしマタイによる挿入であるとしも、ご自分を小さい者と一つにして語られるイエスのお心をよく表現していると見られます。

 次にマタイは、「迷い出た羊」のたとえをここに置いて、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ことを印象深く説きます(一二〜一四節)。このたとえはルカ福音書にもあり、「語録資料Q」から採られていると見られます。ただ、ルカはこのたとえを、「罪人」と食事を共にすることを非難するファリサイ派の人たちや律法学者たちに対してイエスが語られた反論として、「失われた銀貨」や「放蕩息子」のたとえと並べて置いています(ルカ一五・一〜七)。おそらく、この「迷い出た羊」のたとえの本来の場はそちらにあると考えられます。マタイはそれを「小さい者」を大切にするようにという共同体への訓戒を語る文脈に置くことで、このたとえを自分たちの現在の状況に活かします。マタイがこの福音書を書いたとき、マタイの共同体《エクレーシア》は決定的にファリサイ派律法学者たちの「会堂」《シナゴーグ》と決裂しています。もはや批判に対する反論を必要とする段階は過ぎています。マタイは、このたとえをここに用いることによって、共同体への訓戒を豊かにするのです。したがって、たとえは同じでも結論はルカとマタイでは違います。ルカでは「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」となっていますが、マタイでは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」となるのです。
 

 恩恵の場


     

罪を犯した兄弟

 次に「罪を犯した兄弟」の取り扱いについての勧告が取り上げられ(一五〜一七節)、その機会にそのように行動する「教会」《エクレーシア》の権威と特権が語られます(一八〜二〇節)。

 一五節の「あなたに対して」は底本のギリシャ語原典では角括弧に入れられています。それを欠く有力な写本があるからです。原本にはなかったが、二一節の「わたしに対して」という句に対応させるために写本の段階で挿入されたか、または、原本にあったのが罪一般に適用できるようにするために省かれたのか、両方の可能性があります。この部分(一五〜一七節)に「あなた」という単数形が多く用いられている事実から(一七節も「あなたにとって異邦人か徴税人同様に」となっています)、原本にこの句はあったと見てよいと考えられます。しかし、マタイがこの段落をここに置いたのは、個人間の問題だけでなく、罪一般の問題を《エクレーシア》がどう扱うべきかを論じるためであるとみられるので、ここでは共同体の中で「罪を犯した兄弟」一般の問題として見ていきます。ルカ(一七・三)の並行記事も「もし兄弟が罪を犯したたら」となっており、「あなたに対して」という句はありません。

 この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は《エクレーシア》(教会)と呼ばれ、その成員は《アデルフォス》(兄弟)と呼ばれていました。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのです。
 
 おそらく語録伝承では「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい」(ルカ一七・三)という形で伝えられていたと考えられますが、マタイはそれを実際の場面に適用できるように、具体的な規定にしています。その規定の仕方にはユダヤ教共同体での経験が反映しているように思われます。
 
 「罪を犯す」とはどういうことを指しているのかは明確には規定されていません。イスラエルにおいては、罪とはヤハウェとの契約条項(律法)に違反する行為であり、罪に対する処罰と赦しのための手続き(祭儀)は詳しく規定されていました。自身ユダヤ教ラビとしての体質を持ち、おもにユダヤ人信徒に語りかけるマタイは、当然十戒とかその他のユダヤ教の基本的な戒めに違反する行為を罪としていたことは推察できます。
 
 ところで、イエスをメシア・キリストと信じる者たちの新しい契約共同体においては、イエス・キリストにおいて啓示された父の御心に反する行動が罪となるわけですが、「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者であれ」という原理が与えられているだけで、個々の行為についての規定はありません。それで、実際には罪の問題は、ある成員が他の成員に対してなした不法な行為という形で現れることが多いということになります。それが「あなたに対して罪を犯したら」という表現になったと考えられます。
 
 そのような場合、まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります(一五節)。その場合、相手を赦すことが前提になっています。この部分は、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい」(ルカ一七・三)という語録の変形と見られます。イエスの民はお互いに戒め合って、神の御旨を行う民となるように召されているのです。
 
 続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(一六節)という規定には、申命記一九章六節のような規定が反映しています。このような「二人または三人の証人の口によって確定される」という考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の《エクレーシア》に共通であったようです(たとえばコリントU一三・一)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もありうるのですから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。
 
 さらに、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」となります(一七節前半)。このような場合、ユダヤ教であれば会堂の長老会議にかけるとか、重罪の場合は最高法院に訴えるということになりますが、イエス・キリストの民の場合は、このような罪を裁く会議とか法廷はありません。個々の集会自体が成員の罪の問題を処理しなければなりません。「教会《エクレーシア》に申し出る」とは、何らかの形で行われる集会の全体会議のようなものにかけて問題を討議し、その成員の扱いを決めることを指していると考えられます。

 集会が成員間の紛争を裁くことについては、「パウロによるキリストの福音」第二部第四章「終わりの日に生きる」の中の「兄弟間の訴訟」の項を参照してください。

 教会に申し出て、その結果「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(一七節後半)となります。「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という表現には、マタイのユダヤ教ラビとしての体質が示されています(五・四六〜四七も参照)。ユダヤ人から見れば異邦人は異教徒のことであり、徴税人は神の民イスラエルに入ることができない種類の人間です。「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのは、もはや仲間の兄弟とはせず、信仰共同体から追放することです。旧約聖書では「民の中から断たれる」と表現され、後のキリスト教会では「破門」と言われた扱いです。
 
 このようにマタイは、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい」という一つの語録を、旧約聖書の規定をモデルにして、集会内の実際問題を処理するための三段階の手続きに具体化します。クムラン宗団にも罪を犯した成員に対する規定があったようですが、マタイにはクムランに見られるような裁きを担当する祭司階級は存在していません。また、三四十年後のアンティオキアのイグナティオス(一一七年殉教)の時代には単独司教制が始まっており、その司教が裁定を下していたことを考えますと、マタイでは特定の僧職がなく、集会員が相互に戒め合い、集会全体が裁定を下していたことは注目されます。

イエスの名による集まり

 罪を犯した兄弟に対処することを取り上げた機会に、赦して受け入れたり、赦さずに追放したりする権能が《エクレーシア》にあること(一八節)、および集会の心を合わせた祈りは必ず聴かれること(一九節)が保証され、その根拠として集会の中にはイエスご自身がおられることが上げられます(二〇節)。
 
 一八節と一九節は共に「はっきり言っておく」という句で始まっています。この句は原語では「アーメン、わたしはあなたがたに言う」で、重要なことをイエスが宣言または断言されるときによく用いられます。

 「アーメン」は「堅固である、信実である、信じる」という動詞の形容詞形(または副詞形)で、「堅い、確かな、信実な」という意味の語です。この語は、旧約聖書では賛美や祈りの後に唱和されて、賛美や祈りの言葉の確かなことを保証しました。この語を自分の言葉の確かさを強調するために「わたしは言う」の前に用いるのは、福音書だけの特異な用法で、おそらく、イエスの語録を伝承した初期のユダヤ人の宣教運動(いわゆるQ宗団)の中で、預言者的な霊感によって「わたしはあなたがたに言う」という形で、臨在する霊の主の言葉が語られたさい、その言葉の確かさを強調するために「アーメン」が添えられ、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」になったと見られます。この形はすでにマルコ福音書に13回用いられ、マタイでは31回出てきます。ヨハネ福音書では「アーメン」が繰り返された荘重な形で25回出てきます。

 「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(一八節)という文に用いられている「つなぐ」と「解く」という語は、ユダヤ教律法の教師であるラビの用語では、律法順守のためにある内容の義務を課したり免除することを指します。しかし、ここでは直前の罪を犯した兄弟に対する処置を根拠づけているのですから、罪の責任に「つなぐ」とか、その責任から「解く」という意味に理解すべきです。
 
 この理解は、ヨハネ福音書(二〇・二三)に伝えられている「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というお言葉からも支持されます。初期の教団は、復活の主から聖霊によってこのような権能を与えられていると理解していました。それがユダヤ人の宣教圏で「つなぎ、かつ解く」というラビ的な用語で表現されたのです。信徒の集団《エクレーシア》が地上で罪ありとしたことは、天上でも罪ありとされ、赦して罪なしとしたことは、神も赦して受け入れてくださるというのです。

 この「つなぎ解く」権能がペトロに与えられたことについては、第8章「メシアの民の出現」の中の「天の国の鍵」の項を参照してください。

 地上でイエスを信じる者の集団が一致して決めたことは、天上で神もその決定を受け入れてくださるという地と天の対応が、祈りにおける願い事についても語られます。すなわち、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(一九節)というのです。ここでは信じる者の集団が「あなたがたのうち二人」と、これ以上小さくできない極限にまで進められています。どんな小さい群れでも、イエスを信じる者が地上で心を合わせて祈り求めるならば、天にいますイエスの父が与えてくださるというのです。
 
 それは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(二〇節)からです。この文は、先行する内容を理由づける語で始まっています。イエスの名によって集まる共同体《エクレーシア》が、どんなに小さいものであっても、地上でこのような地位にあるのは、その中にイエスご自身がおられるからです。信じる者たちの中にいますイエスは、もちろん復活されたイエスです。復活して霊なる主として、信じる者たちの共同体の中にいてくださり、働いてくださっているのです。父と一つである復活の主イエスがその中にいてくださる共同体であるから、「つなぎ解く」権能があり、祈り求めるものが与えられるという確信をもつことができるのです。

 普通二〇節は一九節の根拠づけとされますが、マタイの文脈では一八節と一九節両方の根拠づけであると見られます。


父が慈愛深いように

 ルカ(一七・三〜四)に保存されている語録では、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」の後に、赦す場合について「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」というお言葉が続いています。マタイはそれを、ペトロの質問とイエスの答えという形で、改めて取り上げます(一八・二一〜三五)。
 
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」というペトロの質問(二一節)には、マタイが自分の集会における現実の罪の問題について切実な思いで主に問いかけている姿勢が感じられます。その問いにイエスは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(二二節)と答えた上で、「仲間を赦さない家来」のたとえ(二三〜三五節)を語られます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」というのは、限りなく赦しなさいということです。そのように限りなく赦すことの必要が、「仲間を赦さない家来」のたとえで印象深く語られるのです。

 このたとえはマタイだけにあるたとえであり、その成立と釈義には多くの議論があります。しかし、今回は紙数が尽きたので、詳しい講解は別の機会に譲り、要点だけに止めます。

 このたとえの要点は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(三三節)という王の言葉にまとめられています。とても払い切れない厖大な借金を抱えた家来を、王は憐れんで借金を帳消しにしてやります。ところがその家来が僅かの金を貸している仲間を赦さず、訴えて牢に入れます。それを聞いた王は怒り、借金がすっかり返済されるまでその家来を牢に入れたというのです。そして、最後にたとえの結論として、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(三五節)という言葉が来ます。
 
 このたとえは、わたしたちが父の無条件絶対の恩恵の場に生きている者であることを改めて思い起こさせます。わたしたちは子として受け入れられる資格は何もない者です。父が恩恵によって無条件に受け入れてくださったから、神の子ととして命にあずかっているのです。恩恵の場においてはじめて子でありうるのです。ですから、父が求めておられるのは、「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者であれ」ということです。父が無条件にわたしを受け入れてくださっているように、わたしも兄弟を限りなく赦して、無条件に受け入れなければならないのです。そうせざるをえないのです。もしそうしなければ、それはわたしが自分自身を恩恵の場から追放することになるのです。兄弟を赦さない者は、自分も赦されない者として、すなわち恩恵の外にいる者として、自分の生涯の責任を神の前に負わなければならないのです。だれがこの責任に耐えることができましょうか。わたしたちの神への負い目は払いきれないものです。
 
 こうして、イエスを信じる者たちの共同体への訓戒をまとめた語録集(一八章)は、恩恵の場に生きる者たちの姿を物語るものになっています。恩恵の場では、人間の側の価値に無関係に、一人ひとりが父に慈しまれる子として扱われるのです。それでとくに「小さい者」、人間的には価値がないとされる者への配慮が全体を貫くことになるのです。「仲間を赦さない家来」のたとえを最後に置いて、共同体への訓戒がすべて恩恵の場に生きる者への恩恵の告知であることを明らかにした点に、マタイがまとめたこの語録集の価値があります。



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