救済史の構造 第二講

  創 造 と 復 活

     ―― アダムとキリスト ――



はじめに神は

 「はじめに神は天と地を創造された」。聖書はこの壮大にして深遠な信仰告白で始まる。そして、それに天地創造の物語が続く。それによると、神は六日間で天と地と、その中にある一切のものを創造し、最後にその御業の冠として人を創造された。そして、すべて造られたものを見てよしとされ、七日目に休まれた、とある。
 
 どの民族にも宇宙開闢の神話がある。イスラエルの天地創造の物語は、彼らの捕囚の地バビロニアの創造神話から影響を受けていると言われている。そうかもしれない。しかし重要なことは、イスラエルはそれを自分たちの神の「はじめの業」として信じ告白したことである。すなわち、神の救いの御業の歴史、救済史の最初の業としたことである。天地と人類の実在の事実そのものが、救済史の「アルケー」(始原、元初)とされたのである。
 
 イスラエルの民の信仰告白は、その原初の形が申命記二六章五〜一〇節にあるとされている。そこでは、出エジプトという歴史的出来事こそ、彼らの神の啓示であり、彼らの存在の土台であると告白されている。イスラエルがカナンの地に定住して農耕生活を始めたとき、土地の生産力を神とする周囲のバール信仰に対して、歴史の中に自身を啓示されるヤハウェを信じるように、預言者たちは戦った。この歴史化の過程は捕囚期の預言者において頂点に達したと思われる。とくに第二イザヤ(イザヤ書四〇〜五五章)の預言、天地の創造者が歴史の主宰者であって、イスラエルを解放される方であるという預言は壮大である。
 
 このように、すべてを神の救済の働きの歴史であると受け取るイスラエルの信仰が、天地の実在と人類の存在そのものが神の救済史のはじめの業であるとの啓示を見させ、冒頭の信仰告白をさせたのであった。そして、はじめの御業を見る信仰は、終わりの御業をも見る信仰である。始めがあれば、必ず終わりがある。「はじめに神は天と地を創造された」と告白する信仰は、必然的に終わりの御業を待ち望む。聖書の創造信仰は終末的である。では、天地の創造というはじめの業に対応する終わりの業は何であろうか。これが本講の主題である。

 

はじめのアダム

 創造の御業の頂点は人の創造である。神は人だけを神のかたちに創造された。それは、人を御自身との交わりの対象とされたということである。人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になった。この霊によって、人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在であった。

 ところが、人は蛇にそそのかされて、「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまった。それは、神に敵対する霊サタンの誘惑に負けて、自ら神であろうとする高ぶりに陥り、背神という根元的な罪を犯したのである。その結果、神との交わりは断たれ、その霊は死に、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまった。
 
 この人の創造と神からの離反は、神話的な形式で語られているが、これは現実の人間そのものの姿を啓示する言葉である。この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」である。本来アダムとは人自身のことであり、アダムの姿は人間そのものの姿なのである。
 
 そして、人の背神とその結果である死によって、神のはじめの業である天地の万物も死の影を宿し、滅びの相をもつものとなった。神の御業の歴史はすべてこの事実から始まる。この死と滅びの中から人類と天地万物を救い出して、神の栄光にあずかるものとして完成すること、これが救済史の究極目標となる。これは、背く人間に対する神の限りない愛から出るのである。そして、はじめ死と滅びが人によって来たように、終末の完成も人によって来ることになる。

 

終わりのアダム

 イエスが十字架上に死に復活して天にあげられ、主(キュリオス)またキリストとして宣べ伝えられたとき、前講で見たように、時は満ち、神の約束は成就し、決定的な救いの御業が成し遂げられたのであった。イエスこそイスラエルの全歴史が待ち望んでいた「来るべき方」キリストであった。では、キリストであるイエスはイスラエルの望みだけを満たす方であろうか。決してそうではない。キリストはイスラエルへの約束を成就することによって、地上の諸々の民、全人類への神の約束を成就し、救いをもたらす方となられたのである。

 そもそもアブラハムが選ばれたのは、彼の子孫によって地上の諸民族が神の祝福を受けるようになるためであった(創世記一二・三、二二・一八)。キリストこそイスラエルの歴史を成就する方であるから、彼の子孫とはキリストを指すことになる。多くの人ではなく、ひとりの人キリストによって世界の諸民族は神の祝福を受けることになる。預言者たちも、終末時の神の救いは御業はイスラエルだけではなく、世界の諸民族に及ぶことを、繰り返し預言している。
 
 はじめ人によって死と滅びが来たように、約束が成就する終わりの時も、人によって命と栄光が来る。キリストは終わりのアダム(人)である。アダムとキリストは、予型と対型として対応する。ただし、方向が逆である。はじめのアダムにより死と滅びがすべての人に及び、終わりのアダムにより命と栄光が全世界に来るのである。
 
 アダムが生まれながらの人間を代表する頭であるように、キリストは終わりのアダムとして、終末時に創造される新しい人間を代表する頭である。頭は代表する全員を自分の中に含んでいる。アダムにあってすべての人が罪の支配下にあり、死に定められているように、復活者キリストにある者はすべて、彼の復活の命に生きるのである。したがって、救済史とははじめの人によって死と滅びに陥った人類と天地の万象を、終わりの人キリストによって復活の命と栄光に回復される神の御業である、と言うことができる。このように、アダムとキリストの対比は救済史の基本的枠組みをなす。
 
 使徒パウロは、このような救済史の枠組みを、彼の手紙の二カ所で詳しく展開している(ローマ書五章とコリントT一五章)。

 

ひとりの人により

 まず、ローマ書五章(一二〜二一節)では、はじめ一人の人の背神の行為により罪が世界に入り込み、罪によって死が万人を支配するに至ったように、終わりの時にも一人の人キリストの義なる行為により、多くの人が義とされて命に至るという消息が示されている。死を克服して命に至るためには、死の根である罪が処理され、義が与えられなければならない。神への反逆が取り除かれ、神との交わりが回復しなければならない。それ故、終わりのアダムたるキリストの第一の業は罪の贖いである。

 キリストはこの業を、十字架の死に至るまで父なる神の御旨に従う従順の行為によって成し遂げられた。十字架こそキリストの義の業である。キリストは犠牲の子羊として多くの人の罪を負い、彼らのために、彼らを代表して打たれ、砕かれ、死なれたのであった(イザヤ書五三章)。それは、頭なるキリストにあって、すべての人の罪が裁かれ、彼の死に合わせられて神に敵対する古い我が死に、それにより罪とサタンの支配力が打ち砕かれ、復活された方が内に生きることができるようになるためである。
 
 ここで、一人の人がどうして多くの人の罪を負うことができようか、という反論を見ておこう。キリストはもはや私的個人ではない。復活により終わりのアダムとなった方である。すなわち、終末時に創造される新しい人類の頭になられたのである。キリストは新しい人類そのものである。それ故、キリストに為されたことは、彼に代表される全員に為されたのである。十字架のキリストにあってすべての者が裁かれて死に、復活者キリストにあってすべての者が復活の命を生きる。
 
 このようなわけで、人が滅びに至るか復活に至るかは、ただその人がアダムに属するかキリストに属するかだけによって決まる。人はみな生まれながらのままではアダムに属する者である。イエスが復活されたと心に信じ、口でイエスを主(キュリオス)と言い表す者(ローマ一〇・九)は、彼に属する者として、頭なるキリストにおいて成し遂げられた神の救いの御業にあずかるのである。
 
 さらに、アダムとキリストとの対比において注目すべき点がある。アダムにおいては罪と死の間に因果関係があった。すなわち、わたしたちが罪に陥ったので、罪が原因となって死が支配するようになった。それに対して、キリストにおいては神の恩恵が溢れるように支配している。すなわち、わたしたちの側にそれを受ける理由も資格も無いのに、賜物として無条件に義と命が与えられているのである。この点においてアダムとキリストの対応は破れる。因果の法則が支配する古い世界に、別種・別次元の恩恵の支配が突入してきているのである。

 

初穂なるキリスト

 次に、コリント書簡Tの一五章では、死人の復活という神の究極の御業がアダムとキリストとの対比構造の中で示されている。

 「しかし今や、キリストは死人の中から復活した。それは眠っている者たちの初穂としての復活である。というのは、死が人によって来たのだから、死人の復活も人によって来るからである。それは、アダムにあってすべての人が死ぬように、キリストにあってはすべての人が生かされるからである。ただ、各自はそれぞれの順序に従う。まず初穂なるキリスト、次にキリストに属する者たちがキリストの来臨にさいして復活する。それから、この最終の時に、・・・・キリストは国を父なる神に引き渡される」(コリントT一五・二〇〜二四 私訳)。
 
 キリストの復活は、キリストだけに起こった孤立した出来事ではない。頭であるキリストの復活は、その中にキリストに属するすべての者たちの復活を含んでいる。だが、彼らが時間の中にいる限り、キリストの復活は彼らの将来の復活の約束となり、その成就の保証となる。ここで、救済史の約束と成就の重層構造が最終局面を迎えている。キリストの復活はイスラエルの時の充満であり、約束としての全旧約聖書の成就であると同時に、キリストを頭とする新しい人類に対する復活の約束となる。そして、アダムがはじめの創造において人間そのものであったように、キリストは終わりのアダムとして終末における神の創造において人間そのものであるのだから、この死人の復活の約束は創造者の最終の約束となる。神はキリストを死人の中から復活させて、全人類に「わたしはすべての者を復活させる」と約束しておられる。これが福音である。
 
 この約束は全人類に与えられている。しかし、すべての人がイエスの復活を信じ、キリストと告白してキリストに属する者となり、この約束の受取人になるかどうかは別問題である。いま福音によりこの神の究極の約束が宣べ伝えられている。人類の前に二つの道が置かれている。アダムにあるままで死と滅びに至るか、キリストにあって命と復活に至るか、人類は選択しなければならない。そして、この選択は今、福音の前に立つわたしたち一人ひとりの選択でもある。

 

終わりに神は

 いったい復活とはどういう事態なのか。復活されたイエスに出会った弟子たちの証言によれば、たしかにイエスは体を持っておられ、食べ物を取り、彼らが理解できる言葉で語りかけ、一緒に歩かれた。しかし、その体はわれわれの地上の体とはまったく違ったもので、閉じられた部屋に突然現れたり、見えなくなったり、天に昇ったりする体であった。人類がそれまでに経験したことのない事態であるから、それを正確に表現する言葉もないわけである。しかし、イエスは元の体に生き返られたのではなく、全然別次元の体をもって生きるようになられたことは確かである。

 死んで土に帰った人間が復活するとは信じられない、想像すらできない、と多くの人は言う。それは創造者なる神を信じていないからである。復活は神の創造の業なのである。この天地万物を創造された方の新しい創造の業である。神は、キリストにあって与えられる新しい生命にふさわしい体を創造して与えられるのである。コリント書T一五章の三五〜四九節を見よう。
 
 死人の復活とは、「朽ちるもので蒔かれ朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ力あるものに復活し、魂の体で蒔かれ霊の体に復活する」ことである。聖書は、生まれながらの自然性の中の人間あるいはその命を「プシュケー」と呼ぶ。最初の人アダムは土の塵で造られ、命の息を吹き込まれて、生きた「プシュケー」となった。それに対して、終わりのアダムであるキリストは、復活により「命を与える霊(プニューマ)」となった。アダムに属する人間には「プシュケー」にふさわしい体が与えられているように、キリストに属する人間には、賜っている御霊(プニューマ)にふさわしい体が与えられる。それは神の新しい創造の御業である。
 
 第一の人アダムは土から出て土に属し、第二の人キリストは天から出て天に属す。この救済史の枠組みは人間存在の枠組みである。人はまずアダムにある者として、土に属する形をとっている。それが現実であるのと同様に、キリストにある者は天に属する形をとることになる。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活する。プシュケーの体で蒔かれ、プニューマの体に復活する。はじめにこの体を創造された方は、終わりの時には「霊の体」を創造される。
 
 「はじめに神は天と地を創造された」。このはじめの創造の御業に対応する終わりの御業、それが復活である。神は御自分の民を死人の中から復活させ、復活者にふさわしい新しい天と地を創造して、その御業を完成される。旧約は創造信仰を形成することによって新約の復活信仰への道備えをし、新約の復活信仰は旧約預言者たちの創造信仰形成の労苦の実を収穫する。復活は創造の冠である。救済史は創造に始まり復活に至る。
 
 この終わりの日の創造の御業は、初穂なるキリストの復活に始まり、死者たちの復活に至って完成する。この二つのカイロスの間にいる神の民の歩み、これが次講、第三講の主題となる。

 (一九八五年夏期特別集会での講話 U)


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