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パンデミックの中のキリスト信仰               2020年5月10日
京都  市川 喜一
T パンデミックの嵐

 今世界は新型コロナウィルス感染症の爆発的な感染拡大の最中にあります。この感染症の拡大地域を赤く塗った世界地図は、全体がほとんど真っ赤になり、この感染症が全世界に拡大していることを示しています。ある感染症の全世界的な急激な感染拡大を「パンデミック」と呼んでおりますが、世界は今まさにパンデミックの嵐のただ中にあると言えます。日本も例外ではなく、この新型コロナウィルス感染症の激しい拡大に怯え、外出の自粛が要請され、人と人の接触が断たれており、経済活動が停滞・萎縮して、生活と生存の脅威にさらされております。
 
   このコロナウイルスは人から人へ無差別に感染します。この肌の色の人には感染しないとか、ある特定の宗教の人には感染しないというような差別はありません。キリスト教徒もイスラム教徒も、自由主義者も社会主義者も区別は致しません。私たちキリスト信仰の民も、体をもつ人間として社会生活をしている以上、感染のリスクから免れてはいません。同じように社会の要請に応えて、外出を自粛するとか、営業を停止するとか、感染の拡大を防ぐために協力していかなければなりません。
 
   この目に見えない敵、まだその性格も正体もわからない新しい敵である新型コロナウィルスとの戦いに打ち勝つためには、あらゆる区別を超えた人間の連帯と協力が必要です。大は国と国との間の協力、国際的な一致と協力、小は個人間や地域内の協力まで、すべての面での協力が求められています。その中で、自分の国さえよければよいとして情報を隠したりする一国主義、他人への感染の可能性を無視して自分の好みで振る舞う個人の身勝手は許されません。
 
   今回の感染症は、人間としての生存に不可欠な呼吸を通して感染して命を脅かすのですから、人と人が繋がって形成する人間社会の根底を揺るがす脅威となっています。この脅威に打ち勝つために様々な方策が工夫されていますが、その中に、感染者との濃厚接触を避けるために個人の行動を厳しく監視して把握する方法が取られる場合があります。最近のデジタル技術とネット通信網の発達からしますと、それが有効な方法の一つであることは理解できます。しかし、その個人の行動のデータが誰の管理下に置かれるのかが問題です。それが権力者の管理下に置かれますと、人類が長年の苦闘を経て形成してきた民主的な社会が崩壊する危険があります。このパンデミックが収束した後の人間社会は、それ以前の社会と同じではありえない、われわれは別の世界に生きることになるであろうと警告する識者も多くいます。
 
  U 外なる人と内なる人

 さて、このパンデミックは、わたしたちキリスト信仰に生きる者にとって何を意味しているのでしょうか。わたしたちキリスト信仰の者は、このパンデミックの世界の中で、この事態にどのように対処していけばよいのでしょうか。この問題を考えるにあたって、パウロが「外なる人」と「内なる人」の区別を語っていることが、重要な示唆を与えてくれます。パウロはコリントのキリスト者たちに送った第二の手紙の中で、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」と語っています(4章16節)。文頭の「だから」という語は、「わたしたちは落胆しない」理由として、その直前に語っている「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださると、わたしたちは知っています」(同章14節)という文を指しています。そのことを知っているので、人生に大きな苦難があっても落胆しない、と言っているのです。
 
   わたしたちキリストにある者は、このパンデミックの事態の中にあっても、落胆したり怖れたりしません。それは「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださると、わたしたちは知っている」からです。イエスを死者の中から復活させた神が、イエスをキリストと信じて、自分の全存在をその主イエス・キリストに投げ込んで従った者、イエス・キリストと共にある者を、イエスと一緒に復活させてくださるのです! 神はわたしを復活させる! こんなことは信じられません。そんなことを信じて、そんなことを生涯の目標として実際に生きていくことなど考えられない、というのが普通です。ここでパウロは「外なる人」と「内なる人」の区別を語り出します。
 
   「外なる人」というのは、生まれながらの人間の全体です。わたしたち人間はみな、体をもってこの世界に生まれて来て、その体で世界との関わりの中で生存し、やがてその体は衰え死んでいきます。それが「外なる人」です。そのように体をもって世界のただ中に生きている人間が、福音という神の言葉を聞いて、その神の言葉を信じて生きるようになったとき、その神の言葉によって始まった新しい命が「内なる人」と呼ばれるのです。ですからキリスト者は、生まれながらの「外なる人」と、キリストによって新しく内に始まった命、「内なる人」との両方に生きていることになります。
 
   ここで注意すべきは、「外なる人」と「内なる人」の区別は、人間の外的・身体的側面と内的・精神的側面の区別ではないことです。パウロはここで、年と共に身体は衰えるが、精神はますます新たになり強くなる、と言っているのではありません。体をもって生きる生まれながらの自分は、年齢と苦労の中で体力も気力も、身体も精神も共に衰えていきます。しかし、信仰によって始まった新しい命、恩恵によって上から賜った内なる命は、苦難の中で鍛えられて、御言葉に対する信頼を日々強められていくのです。自分の中にあるこの二つの種類の命が、邦訳では「外なる人」と「内なる人」と言われているのです (英訳では、our outer nature とour inner nature と訳されています)。
 
   なぜ「外なる人」は衰えていくのに、「内なる人」は日々新たにされていくのでしょうか。それは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(同章18節)。わたしたちキリストにある者も、外なる人としては、この見える世界との関わりの中で生きております。この見える世界は変わります。それは過ぎゆくもの、過ぎ去るものです。この体をもって生きる生まれながらの「外なる人」は、この変わりゆく世界との関わりの中で存在し、自らも変わりゆく存在、やがては過ぎ去るものです。
 
   しかし内なる人は「見えないもの」に目を注ぎます。この「見えないもの」というのは、外面的・身体的なものと対立する内面的・精神的なもの、という意味ではなく、この手紙の4章から5章(10節まで)の文脈から理解する限り、パウロは復活を指しているとしなければなりません。復活は見えないもの、生まれながらの人間が理解したり、体験したり、証明したりすることができないものです。キリスト者は、このような見えないものに「目を注ぎます」。「見えないものに目を注ぐ」というのは奇妙な表現ですが、復活という見えない真理に自分のすべての関心を集中し、その目標に向かって人生のすべてをかけていく姿勢を指しています。パウロの手紙のこの箇所は、「見えないものに目を注ぐ」生涯を走り抜いたパウロの姿をよく指し示しています。キリスト者パウロの復活信仰の具体的な姿が証言されています。
 
   キリスト者も、身体をもって生きる限り、その「外なる人」はこの過ぎゆく世界の中で、その一員として生きています。世界がパンデミックに襲われている時、わたしたちも感染のリスクに直面しており、感染拡大の防止と克服に世界の人々と協力しなければなりません。その点ではキリスト者も全く同じです。しかしキリスト者は「見えるものは過ぎ去る」ことを知っており、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」、すなわちパンデミックの現実を見て一喜一憂するのではなく、永遠に存続する「見えないもの」に目を注ぎます(同章18節)。その「見えないもの」とは、パウロにおいては「復活」です。
 
   キリスト者も、「外なる人」としては世界の苦難を共にしております。パンデミックの中で同じように感染のリスク、命の危険を感じています。しかし、この感染症による死を免れても、この身体をもって生きる「外なる人」は、いづれは衰えて死滅することを知っています。それがどのような形の死であっても、「一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる」のです(同章17節)。パウロがいう「永遠の栄光」とは復活を指しています。わたしは最近マーラーの第二交響曲「復活」の最終楽章で歌われる合唱の中で、「わたしたちは生きるために死ぬのだ」という歌詞に大変感動しました。これはドイツの教会の「復活讃歌」からの引用だそうです。パウロも「蒔くもの死ななければ命を得ないではないか」と言っています。同じようにわたしたちも「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活するのです」(コリント第一15章)。キリスト者の「内なる人」は、この復活という「見えないものに目を注いでいる」のです。
 
  V 確かな土台

 では、この復活という「見えないものに目を注ぐ」ことは、どうして可能になるのでしょうか。それは、復活が神の言葉であるからです。キリスト信仰、キリストを信じるという事は、キリストにおいて神が語られたということを信じることです。神とは、この天地の万物を存在させ、地上の生けるものすべてを生かし、わたしを存在させ生かしてくださっている根源的な働きです。その方がキリストの中で働き、キリストによってわたしたちに語りかけてくださったのです。この神がナザレのイエスの中に働き、十字架につけられて殺されたイエスを死者の中から復活させて、キリスト(救済者)とされたのです。
 
   復活されたキリストは、十字架の形をしておられます。パウロは「十字架された姿の復活者キリスト」を福音として世界に宣べ伝えました。この福音こそ、神から背き去っている人間への神からの最終的な語りかけです。このキリストであるイエスを信じて神に立ち帰る者を、神は無条件に赦して受け入れ、神との交わりに入らせ、新しい命を与えてくださいます。この新しい命が、わたしたちの中に「内なる人」を形成します。わたしたちの中の「内なる人」とは、キリストにおいて神の言葉を聞いている人のことです。
 
   この神の言葉は天地の存在よりも確かな事実です。イエスは言われました、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13章31節)。キリストであるイエスにおいて語られた神の言葉は、岩よりも確かなリアリティー(現実)です。この神の言葉の上に自分の人生を築く者は幸いです。それは神の言葉である以上、天と地が過ぎ去ることがあっても、過ぎ去ることのない確かな土台であるからです。その福音が、天地が過ぎ去っても過ぎ去ることのない神の言葉が、「わたしはあなたを復活させる」と言っているのです。わたしの「内なる人」は、この言葉を聞いております。復活されたキリストに出会う体験をしたパウロをはじめ使徒たちは、そのイエス復活の事実の中に、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださると、わたしたちは知っています」ということができました。
 
   地震の多いこの国に住んでいるわたしたちは、最も堅固で動くことはないと思っている大地が震え動くことを何回も体験しました。まさに地の基が震うことをしばしば体験しました。今回のパンデミックで世界は、最も清くてどこにも満ちている大気が、死をもたらすウイルスを運ぶこともあるという体験をしました。わたしたち人間は、大地とか大気という最も確かものとして依存している生存の拠り所が崩壊することを体験しました。そうであるなら、天地が過ぎ去っても過ぎ去ることのない神の言葉に、私たちの全存在を委ねることを学ぶべきでしょう。わたしたちキリスト者は、この危機と試練の時に、この確かな神の言葉という土台の上に人生を築いていることを感謝して、改めてこの確かな言葉、福音を与えてくださっている神を賛美し、感謝を捧げましょう。
 
   
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