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洗礼でなく福音を            (2021年11月14日 福音講話要旨)

キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないでつげ知らせるためだからです。

(コリントT 1章17節)


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パウロはアンティオキア集会から離れて独立してエーゲ海地域の諸都市に福音を宣べ伝えますが、その福音活動の最後に東岸のアジア州州都エフェソに滞在して活動しているとき、先に福音を宣べ伝えでかなりの規模の集会を形成した西岸のアカイア州の州都コリントから使節が来て、コリント集会に起こった様々な問題について問い合わせ、使徒パウロの指導を仰ぎます。その質問に応えて書き送った手紙が「コリントの信徒への手紙」ですが、その第一の手紙は集会の分派の問題に対する使徒の勧告から始まっています。

パウロはすでにコリントの集会に分派があり、それぞれ「わたしはパウロにつく」とか、「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」とか言い合っていることを聞き及んでいました。おそらく、次々にコリントにやって来てキリストを宣べ伝えた使徒や伝道者によって信仰に入った人たちが、自分がその使徒や伝道者に所属することを誇りとして、このうに言って分派を形成していたのでしょう。パウロはコリントではわずかの例外を除いて、だれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝して、自分の使命をこのように語ったのです(コリントT 1:17)。

この福音を信じる者たちが形成する信仰者の交わりであるエクレシアが、長年の歴史の中で制度的な「キリスト教会」となる過程で、本来主イエス・キリストへの信仰を告白する「バプテスマ」が、教会への加入を意味する「洗礼」という儀礼になっていきました。現代のキリスト教世界では、洗礼を受けることはキリスト教会に加入するための儀式です。洗礼を受けた者が正式のキリスト教会員と認められ、洗礼を受けていない者はキリスト教徒とは認められません。キリスト教会は、異教徒を説得してキリストを信じ、キリストを告白するキリスト教徒とするために洗礼を授けます。洗礼は人をキリスト教徒とし、キリスト教会員とします。

現代ではキリスト教会は多くの教会・教派に分かれています。東方ギリシア正教会と西方ローマカトリック教会に分かれ、西方ではさらにローマカトリック教会と、そこから分かれたプロテスタント諸教会があります。洗礼を受けるとは、その諸教会が授ける洗礼を受けて、その教会に所属することを意味します。そして、そのそれぞれの教会が行う典礼に参加し、その教義を信奉して、その指導に従ってキリスト教徒として生活することになります。

わたしが福音を宣べ伝えるだけで洗礼を授けないのは、その福音を聞いてキリストに従う人が、特定の教会に所属して、その教会の教義とか儀礼に拘束されることがないようにするためです。キリストに従うことが、特定の歴史的状況によって形成された特定の形に拘束されるようなことは、あってはなりません。福音を聞いてキリストに従う人は、自分が今いる状況の中で、キリストに従って行けばよいのです。

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このように、洗礼が特定の教派とか教会への所属を意味するものであれば、わたしもパウロと共に「(初期に授けたわずかの例外は別にして)だれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています」と言うことになります。わたしもパウロと同じく、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言います。洗礼を授けることと、人をキリストに導くことは別です。人がキリストに来るのは、洗礼によるのではなく、福音によるのです。福音がキリストを告げ知らせ、キリストを信じる者を救いに至らせるのです。

人を救うのは洗礼ではなく、福音です。洗礼を受けてキリスト教徒となり、キリスト教を実行することで救いに達するのではありません。福音が告知するキリストに身を委ね、そのキリストに合わせられることが救いなのです。キリストが救ってくださるのです。キリストがわたしたちの中に働き、わたしたちを救いに至らせてくださるのです。そして福音が告知するキリストは、まずなによりも「十字架された姿のキリスト」なのです。キリストとは復活して今も働いておられる方ですが、その復活者キリストが、わたしたちの罪(神への背き)のために、十字架上に死なれた方として現れておられるのです。復活者キリストは、わたしたちのための死をその身に負っておられるのです。パウロは以下の箇所(コリントT 1:18〜2:5)で、その十字架された姿の復活者キリストを語ることになります。

この十字架の姿の復活者キリストは、同時にわたしたちの復活の初穂です。わたしたちのために十字架上に死なれた方は、初穂として、すなわち死者の中から復活する神の民を代表する初穂として復活されたのです(コリントT 15:20?22)。そして復活者キリストは、そのこと(キリストを信じる者が復活するということ)の保証として、信じる者に聖霊を与えてくださるのです。聖霊は復活の手付金、保証です(コリントU 5:1?5)。わたしたちキリストにある者、キリストに属する者は、「見えるものではなく、見えないもの、復活という見えないものに目を注ぐ」のです。見えるもの、すなわちこの世の生は過ぎ去りますが、見えないもの、すなわち復活の世界は「永遠に存続する」からです(コリントU 4:18)。

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パウロは、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と深く自覚しています。わたしもこの自覚をパウロと共にしています。福音を告げ知らせるとは、キリストを告げ知らせることです。救済者キリストを告げ知らせることです。復活者キリストを救済者として告げ知らせることです。どのように優れた人物でも、死んだ人を死ぬべき人間の救済者とすることはできません。復活者でない者は救済者キリストではありません。神は十字架上に死んだイエスを復活させてキリストとされたのです。パウロは生涯をかけて、この復活者キリストを世界に告げ知らせたのです。

わたしの生涯をかけた活動は、「洗礼ではなく福音」です。キリストを告げ知らせ、そのキリストを信じた人に洗礼を施して、教会の一員に加え、キリスト教徒として生きる仕方を説くことではありません。わたしの生涯の活動は、聖霊によって体験した復活者キリストの現実を証言し、その証言によって人がキリストを信じて従うようになることです。もちろん、この証言はわたし一人のものではありません。多くの人がこの体験を証言してきました。その源流にパウロがいるのです。わたしはパウロの弟子の一人として、パウロに学びながら、現代の日本において証人の一人として立ってきました。

わたしたち普通の生身の人間を、このような復活者キリストの証人とするのは、聖霊の働きです。神がキリストに従う者に与えてくださる聖霊は、「真理の霊」です。新約聖書がいう「真理」とは、神と人との関わりの現実(リアリティー)のことです。神は霊です。その神との関わり、またその神との交わりのリアリティーを与える聖霊が、復活者キリストという霊のリアリティーをわたしたちに示し、わたしたちに証言させてくださるのです。わたしたちは聖霊によってこの復活者キリストを証言し、この復活者キリストが与えてくださる現実を福音として告げ知らせるのです。キリスト教会に加入させる洗礼を授けるためではなく、この復活者キリストを告げ知らせる福音を語っているのです。

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