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第 七 講  世俗社会における福音


信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

(ガラテヤ書三章二三〜二五節)


 この現代社会では、わたしたちは宗教からの影響や圧力をほとんど感じることなく、世俗的な生活様式で暮らしています。まず最初に、現代世界の文脈における世俗化という問題を考えてみましょう。人間の生には二つの側面があると言えるでしょう。一つは「聖なる」側面で、宗教的信仰に関わる側面です。もう一つはわたしたち人間の能力の限界内で送る日常生活に関わる世俗の側面です。ところが、わたしたちの日常の生き方の中で時折、人間の理解や能力を超える不思議で神秘的な出来事に遭遇します。わたしたちは生におけるこの神秘的なものを「聖なるもの」と呼び、そう呼ぶことで、人間が「聖なるもの」ともつ関わりが宗教であると定義してよいでしょう。

 人間の共同体の初期の段階では、人生のほとんどすべての局面を宗教が覆い統制していました。その段階では「聖なるもの」が人生の最大部分を占め、「世俗なもの」は最小でした。人間が従事するほとんどすべての活動に宗教が浸透していました。しかし人類の歴史の流れの中で、「世俗なもの」がその領域を広げ、徐々に「聖なるもの」の領域を狭めていきました。今日では、とくに大きな技術都市では、人々は宗教からの影響や圧力をほとんど感じることなく生活しています。

 この世界の世俗化は、人類が宗教に依存する時代の終焉を意味していると理解することができるのでしょうか。キリスト教神学の指導的な人の中には、そう信じている人たちもいます。現代の世俗化を、人類が宗教という養育係を去って、大人の段階に入ったことだとするのです。しかし、もしそのような解釈が上記のパウロの言葉(ガラテヤ書三・二三〜二五)に基づいているのであれば、わたしは同意できません。

 パウロはここで「律法」を養育係とか家庭教師と呼んでいます。ここで思い起こしていただきたいのですが、パウロは「律法」という語で《トーラー》、すなわちユダヤ教の全体を指しているのです。パウロはユダヤ教という宗教を《パイダゴーゴス》だと言っています。このギリシア語は家庭教師を指しますが、貴族の子息が大人になるまで、跡取りであるその息子を鍛錬するために雇われた者(たいていは奴隷)を指します。ユダヤ教を含むすべての宗教は、子供を跡取りにふさわしく行動するようにしつける家庭教師とか養育係だというのです。跡取り息子が家庭教師の監督下にあるかぎり、彼らは父親の富を享受することはできません。彼らが成長して家庭教師から解放されたとき、彼らは父親の生活と特権に至ることができるのです。

 パウロは宣言します、「しかし信仰が現れた今、わたしたちはもはや養育係の下にはいないのです」。宗教は、キリストが来られるまでは、わたしたちの家庭教師、養育係、訓練者でした。キリストが人類の歴史の一部となって神の救いの業を完成された時、信仰によってこの方と結ばれる者は、養育係から解放されて、跡取りとして父親の豊かさを享受することができるのです。パウロがこの節で「信仰が現れる」とか「信仰が来た」と言うとき、パウロはキリスト信仰を指しているのです。キリスト信仰だけが神の子とするのです。このことは次の節(三章二六節)で明確に表現されます、「あなたがたは信仰によりキリスト・イエスにあって神の子なのです」。わたしたちはキリスト信仰によって義とされ何らかの交わりに導き入れられ、神の栄光と豊かさの相続人とされたのです。これは、何らかの宗教の規定や組織に留まることで到達したものではありません。人は宗教の外で神の子となりうるのです。キリスト信仰があるところ、宗教の軛からの解放があります。

 世俗化を進める原動力は人間の知性とか合理性だと人々は信じています。それはその通りです。現代の世俗化は一七世紀から一八世紀にかけて西ヨーロッパのキリスト教諸国での啓蒙運動から始まりました。一六世紀に起こった宗教改革の後、新興の市民階級の合理主義は教会の伝統的な教義と戦いました。合理主義は科学の発達を促し、理性によって人間の諸困苦を解決しようとしました。そうすることで人類は教会のドグマの束縛から解放されました。人類はもはや宗教という養育係を必要としなくなりました。今や生得の理性のおかげだけで、われわれは自由に生き、その目標に達することができるのです。これがこの時代の世俗主義です。

 宗教的な人たち、とくに聖職者たちは、世界の世俗化を嘆き、それを批判します。彼らは共同体への彼らの影響力を取り戻し、儀礼や信条や聖職階級というような宗教的装置の必要を強調します。しかしその努力は無駄です。世界の世俗化は避けられず、それはほとんど人類の運命となっています。しかしながら、わたしたちはそのことに悲観的になることはありません。世界の世俗化はわれわれの将来に積極的な影響を及ぼすことができるのです。

 どうしてわれわれは世俗化の積極的意義を考えることができるのでしょうか。それは、福音がすべての民にとって神の救いの力であって、宗教ではないからです。世界の諸宗教が人類への影響力を喪失することがあっても、福音活動は何も失うものはないのです。神の救いの力は宗教の外で働くからです。パウロは、「しかし今や、神の義(人を義とする神の働き)は律法(宗教)の外に現れた」と言いました。パウロの福音活動は、パウロの時代では唯一の真の宗教であったユダヤ教の外で行われました。パウロの働きは宗教の外に拡がり、あらゆる宗教の民に及びました。キリストの福音をもたらすわれわれの働きも、世界の諸宗教の枠の外で果たされなければなりません。宗教はこの福音の働きを助けることも妨げることもできません。世俗化した世界では、この福音活動は組織化された宗教の反対に直面することなく進めることができます。

 世俗世界は宗教に対してほとんど何の関心も持ちません。世俗世界の人々は、自分が体験し理解でき、事実として証明されたものしか信じません。彼らは科学だけを信じます。しかし人間の本性には生得的に、何か宗教的なものがあります。ということはわたしたち人間は、なにか見ることも理解することもできない世界のことを考えないではおれないし、われわれは何のために存在しているのか、どこから来たのか、どこへ行くのか、と問わないではおれないのです。「ホモ・サピエンス」は同時に「ホモ・レリギオースス(宗教する人間)」なのです。わたしたちは人間の能力を超えたところ、たとえば死の彼方に対する答えを、宗教に求めてきました。確かに宗教はさまざまな答えを提出してくれましたが、決定的な答えは与えてくれませんでした。

 宗教が成し得なかったことを、キリストが成し遂げてくださいました。キリストはわたしたちに聖霊を賜ることによって、永遠の命の現実を与えてくださったのです(第三講参照)。キリストはこの報知を宗教の外で知らせてくださいました。キリストはその報知を世俗世界にいる人々にも知らせておられます。キリストはあなたが宗教的であろうと世俗的であろうと関わりなく、ある宗教に所属しているかどうかに関わりなく、永遠の命を与えてくださいます。キリストにはそのような区別はどちらでもよいのです。それ故、世界の世俗化は福音の働きから何も奪うことはなく、かえってわれわれの福音活動により多くの機会と自由をもたらすことになるのです。

 世界の世俗化は、キリスト教を含め既成の歴史的宗教にとっては、自分たちは相対的なものであるという事実を自覚させるための圧力になることでしょう。それは、どの宗教も自分を絶対的とか普遍的であると主張することはできず、自分を人間性の救済とか完成を達成させるものだと主張することはできないということです。世界の世俗化は、聖霊によって永遠の命を与えてくださるキリストを求めるように、人々を促すことになるでしょう。