市川喜一著作集 > 第27巻 > 第12講

第十二講  聖霊、われらの内に働く神


あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

(フィリピ書二章一三節)


 先の第九講において、創造者としての神という神の基礎的な本質に聖書が与えている重要性を論じました。神とは存在しないものを存在へと呼び出す働きそのものなのです。初めに神は天と地の万物を創造し、創造された人をその地に置かれました。今や全宇宙は神の創造なのです。それゆえ人間の歴史は、時間の中で人間の中で働かれた神の働きなのです。歴史の中での神の行為の中で最も決定的な行為は、イエス・キリストの中に行われた神の働きです。「十字架されたキリスト」は人間の贖いのためになされた神の究極の働きです。これによって神は自分に背を向けて離れ去った人間と和解しておられるのです。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(コリント第二書五・一九)。

 キリストにおいて神はわたしたち背き去った者と和解し、罪を赦してくださっただけでなく、御自身の霊を与えて、わたしたちを子として受け容れてくださったのです。わたしたちは子としての身分を与える霊を受けたのです。わたしたちが「アッバ、父よ」と叫ぶとき、それはわたしたちを神の子とする霊なのです(ローマ書八・一五〜一六)。神の霊は現実を与える霊なのであり(ヨハネ福音書一四・一六〜一七)、その霊を受けることは神の子としての身分を現実のものとする出来事なのです。

 さて、わたしたちが神の子とされるさいその働き手となった聖霊は、わたしたちの内に働く神御自身であるのです。パウロははっきり言っています、「神があなたたちの内に働いておられるのです」と。キリストを信じる、あるいはキリストにある者の内に働いているのは神御自身なのです。神がキリストにある者たちの内に働いておられるのであり、わたしたちの内に働いておられる神を、わたしたちは「聖霊」と呼んでいるのです。神はわたしたちを存在させている創造者です。この創造の働きがなければ、わたしたちは存在しません。神はわたしたちの存在の源泉であり、基礎です。その創造者である神が、同時にわたしたちを贖う者であり、十字架されたキリストにおいてわたしたちと和解してくださった神です。神はキリストにあってわたしたちを神との交わりに招き、キリストにあってキリストのもとに来る者に御自身の霊、すなわち聖霊を与えてくださっているのです。このキリストによって神から賜る聖霊を、新約聖書は「聖霊によるキリストのバプテスマ」と称しているのです(第三講参照)。

 パウロは神を《ホ・エネルゴン》、働く者、行為する者、作用する者と呼んでいます(コリント第一書一二・六、ガラテヤ書三・五)。では、自分をキリストに委ねた者たちの内で、神はどういう働きをしておられるのでしょうか。パウロは信仰者の群れに、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる」のだと言っています。神がわたしたちにしてもらいたいと願っておられることを、成し遂げるようにという願いをわたしたちがもつように、神はわたしたちの中に働いておられるのです。救いへの熱望も、前に置かれた目標に向かってする苦闘も、両方ともわたしたちの内に行われる神の働きです。これが、わたしたちが畏れとおののきをもって救いの達成に努めなければならない理由です。わたしたちの中で意志し働いているのは神です(フィリピ書二・一二〜一三)。「あなたがたの内に働いているのは神です」という一三節は、「怖れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」という一二節の理由を語っています。もしわたしたちが自分の内に働く神の働きを無視するならば、これは大きな罪でしょう。それは神御自身を無視することを意味するからです。それはまた、わたしたちの内に働いてくださっている神の絶対的な恩恵に対する侮蔑と侮りをも意味することになります。

 キリストの福音は、信じる者をキリストは聖霊によってバプテスマすると告知しています。それは、自分自身をキリストに委ねる者に神は無条件に神の霊を与えてくださるということを意味しています。そうすることによって、神はキリストを信じる者の中で《ホ・エネルゴン》(働く者)となられるのです。簡単に言うと、その者たちの中に神が住まわれるのです。この奇蹟はキリストによって起こります。またはわたしたちがキリストにある時に起こります。福音書にあるように、「キリストは聖霊によってバプテスマする」のです。それはキリストにおける神の働きです(第三講)。

 神は《ホ・エネルゴン》(働く者)として、わたしたちの中で何を成し遂げ、また何を為しつつあるのでしょうか。この問いは、「聖霊はわたしたちの中で何を成し遂げ、何を為しつつあるのか」という問いと同じです。というのは、聖霊とは人間の中での神の働きの名称であるからです。このことをパウロはその書簡の中で、とくにローマ書の中で記述しています。そのことはわたしも人間存在の三つの次元としてまとめておきました、すなわち信仰と愛と希望です。キリストにあってわたしたちを聖霊によってバプテスマし、わたしたちの中で《ホ・エネルゴン》としてその働きを始めた神は、わたしたちが信仰と愛と希望に生きることができるようにしてくださったのです。第一に、神はわたしたちが信仰に生きることができるようにしてくださいました。その霊によって神は、わたしたちが「アッバ、父よ」と呼びかける神の子としての現実を与えてくださったのです(ローマ書八・一五〜一六)。第二に、神はわたしたち背いた者を愛し、その背神の罪を赦し、わたしたちに愛を注ぎ込んでくださったのです(ローマ書五・五)。こうして神はわたしたちが互いに赦し愛し合うことができるようにしてくださいました。それはわたしたちが神の無条件の恩恵の場に生きているからできることなのです。第三に、初めの実としてわたしたちの中に与えられた聖霊によって、わたしたちはこの死すべき身体において、すでに永遠の命、死者の復活に向かう命を生きることができるのです(ローマ書八・一一)。希望は死の現実に打ち勝つことができるようにする命の現実です(第八講)。

 このように、わたしたちが人間本性の弱さと戦っている時にも、神はわたしたちの内に働いてくださっているのです。パウロはしばしばこの弱さを「肉」と呼んで触れています。神の御霊がわたしたちの内にその働きを成し遂げてくださるようにするには、わたしたちが御霊に従って生きることが必要です。パウロはこう言っています、「御霊に従って歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことはありません。肉の願いは御霊に反し、御霊の願うところは肉に反するからです。この二つは互いに相反し、あなたがしたいことをするのを阻止するのです」(ガラテヤ書五・一六〜一七)。これがキリストにあって生きる者の基本原理です。人間の本性は、神の霊の働きと助けがなければ、人をその目的地に導くことはできないのです。ヒューマニズム(人道主義)は人間自身の中から発する価値ではなく、わたしたちの中の神の働きから起こるのです。