パウロ以後のキリストの福音


終章 パウロとパウロ以後                   

 


はじめに ― 時代区分について

 キリストの福音が歴史的に展開する跡をたどるさい、それぞれの時代における特質を理解することは、福音の本質を追究するうえで有益と考えられます。新約聖書を構成する諸文書が成立した時期を、福音の歴史的展開の「最初期」と呼ぶならば、この「最初期」は第一次ユダヤ戦争(66〜70年)を境として、その前の時期とその後の時期の二つに分かれます。話を簡潔にするため、その分かれ目をこの戦争のクライマックスをなすエルサレム陥落・エルサレム神殿崩壊の年(70年)としますと、30年のイエスの復活顕現から70年のエルサレム神殿崩壊までの四〇年間が前期、70年以後二世紀初頭までの四〇〜五〇年間の後期に分かれることになります。

 前期は使徒たちが活躍し、使徒たちの直接の指導下にあった時代です。ところが、60年代にはペトロとパウロという代表的な使徒が殉教して世を去り、他の使徒たちも年齢的に舞台から退場することになり、後半の時期は使徒たちの弟子、またさらにその弟子という第二世代、第三世代の後継者が福音を宣べ伝え、キリストの民を指導することになります。これらの第二世代、第三世代の後継者たちは、福音を証言したり、集会を指導したりする文書を書いたとき、それを使徒たちの名を用いて書き送りましたので、後期は(本書の「序章」で見たように)「使徒名書簡」の時代となるわけです。

 この二つの時期の区分は、たんに指導者の世代交代による傾向や特質の変化だけではありません。この二つの時期は、エルサレム神殿の崩壊という救済史的にきわめて重要な出来事によって区分されています。この出来事の前と後では、福音の理解や提示に重大な違いが出てきます。前期における福音の提示は、パウロの書簡によってほぼ確認できますので、後期の「使徒名書簡」によって提示されている福音の内容は、いつもパウロ書簡(問題なくパウロの真筆とされている七書簡)と比較しながら進めてきました。その具体的な比較は個々の使徒名書簡の講解でしてきましたが、最後にこの終章で、前期と後期では、すなわち、エルサレム神殿の崩壊の前と後では福音の理解と提示がどのように変化したかをまとめておきたいと思います。それは「パウロによるキリストの福音」と「パウロ以後のキリストの福音」の比較という形を取ることになります。

 

「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」という用語について

 ところで、ユダヤ人の間で始まったイエスをメシア・キリストと信じる信仰運動は、かなり初期からギリシア語を話すユダヤ人によって異邦人にも伝えられ、イエスをキリストと言い表す信仰はユダヤ人以外の諸民族、すなわち異邦諸民族の間に広がっていきます。とくに使徒パウロの働きによって、主イエス・キリストを信じ言い表す信仰は、急速にヘレニズム世界に広がり、確立していきます。この過程を描くのに、一般に「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」という用語が使われています。わたしもこの著作集(とくに「パウロによるキリストの福音」シリーズ)で、これまで一般の慣例的な用法に従って、この用語を使ってきました。

 しかしこの用語は、この時代の実態に合わず、誤解を招く不適切な用語です。というのは、この時代では、「ユダヤ人」とは「ユダヤ教徒」のことですから、「ユダヤ人キリスト教」というのは、「ユダヤ教徒のキリスト教」という意味になり、矛盾しています。ユダヤ教徒でイエスを信じた人たちは、ユダヤ教をやめたのではなく、あくまでユダヤ教徒としてイエスを信じたのです。この時にはまだキリスト教はありません。彼らはあくまでユダヤ教徒です。では、彼らのイエスをキリストと信じる信仰はどう表現すればよいのでしょうか。わたしは、この信仰を「イエス・キリストの信仰」または「キリストの信仰」と呼んだパウロの表現に従って、「イエス・キリスト信仰」または「キリスト信仰」と呼んでいます。それはまだユダヤ教と区別される「キリスト教」という別の宗教ではありません。キリスト信仰はユダヤ教の中で成立し、キリスト信仰の民はユダヤ教の内側に存在したのです。

 一方、新約聖書で「異邦人」というときは、ただユダヤ人以外の民族を指しているのではなく、ユダヤ教徒でない民、すなわちユダヤ教から見た異教徒を指しています。はじめの頃には、異教徒がイエスをメシア・キリストと信じて神の民となりうるとは、ユダヤ教徒には考えられませんでした。ところが、ステファノをはじめとするギリシア語系のユダヤ教徒によって、とくに使徒パウロの働きによって、福音がユダヤ教徒以外の民に伝えられ、異教徒の間にキリスト信仰が広がっていきます。異教徒でキリスト信仰を言い表す者を多く含む集会がアンティオキアに成立したときはじめて、彼らがユダヤ教徒《ユーダイオイ》とは別の民と認められるようになり、《クリスティアノイ》(キリストの民)と呼ばれるようになりました(使徒一一・二六)。ユダヤ教徒のキリスト信仰の民も、この異教徒のキリスト信仰を、同じ神の御霊によって与えられた信仰と認めざるをえませんでした。

 こうして、この時代の実態に即して表現すると、この時代にはキリスト信仰に、ユダヤ教徒のキリスト信仰、すなわち「ユダヤ教の枠の内のキリスト信仰」と、異教徒のキリスト信仰、すなわち「ユダヤ教の枠の外のキリスト信仰」という二つのタイプがあったと言わなければなりません。以後、表現を簡潔にするため「ユダヤ教内キリスト信仰」、「ユダヤ教外キリスト信仰」と呼ぶ場合もあります。

 同じキリスト信仰ですが、この二つのタイプのキリスト信仰の関わり方は、新約聖書の範囲内では複雑な様相を示しています。前期(エルサレム神殿崩壊以前)では、この二つのタイプのキリスト信仰の間には、激しい葛藤がありました。この関わりは、エルサレム神殿の崩壊を境目として劇的に変わります。後期、すなわちエルサレム神殿崩壊以後の「使徒名書簡」の時代には、ユダヤ教枠内のキリスト信仰は衰退し、やがて歴史の舞台から消えていきます。ユダヤ教枠内のキリスト信仰は、ユダヤ教とは別の宗教を生み出すことはありませんでした。それに対して、ユダヤ教外のキリスト信仰はますます拡大し、成長します。もともとユダヤ教の枠の外にあったのですから、そのキリスト信仰からやがて「キリスト教」という、ユダヤ教とは別の新しい宗教が生まれてくることになります。

 


        第一節 使徒名書簡のキリスト信仰     

              

    律法(ユダヤ教)の問題

「律法」という語の用例における変化

 パウロとパウロ以後の福音提示の違いを考察しようとするとき、その手がかりとして文書に現れる用語の違いを見ますと、まず「律法」《ノモス》という用語の頻度の違いが目立ちます。パウロ自身が書いた七書簡(ギリシア語原文)では、《ノモス》という語が一一八回用いられています。これは、全新約聖書の一九四回の中の数字ですから、パウロがいかに《ノモス》の問題と格闘した使徒であるかが分かります。その中でもローマ書の七四回とガラテヤ書の三二回が突出しています。ローマ書とガラテヤ書で見てきたように、パウロはキリストの福音を語るとき、《ノモス》という語を繰り返し用いて、福音と《ノモス》の関係を論じています。他ではコリント第一書簡の九回とフィリピ書の三回だけです。「律法とは別の義」が論争の主題となったローマ書とガラテヤ書で多いのは当然の結果です。

 それに対して、パウロの名によって書かれた六書簡では、エフェソ書に一回、テモテ書Tに二回、計三回出てくるだけです。しかもエフェソ書(二・一五)の一回は、《ノモス》が廃されたことを語るところです。テモテ書T(一・八〜九)の二回は、律法が不法な者のために用いられるべきものであることを説くだけです。この事実からも、パウロにおいては大問題であった律法の問題が、パウロ名書簡では問題にならなくなっていることが分かります。なお、パウロ以後の書簡では、ヘブライ書に一四回出てきます。ここでは祭儀制度の規定としての律法が問題になっています。

 本書に先行する「パウロによるキリストの福音」シリーズ(ローマ書講解を含む五巻)で繰り返し論じましたように、パウロが《ノモス》というときは「ユダヤ教」の全体を意味することが大部分でした。パウロが「律法とは別に神の義が現れた」と叫び、「信仰による義」を高らかに唱えるとき、それはユダヤ教の枠の外で、ユダヤ教とは無関係に、キリスト信仰によって人は救われるのだという福音の提示でした。パウロはキリストの福音を提示するとき、人を救うキリスト信仰がユダヤ教の外で成立するものであることを、文字通り命がけで主張しました。この主張のために、パウロはユダヤ教を絶対化するユダヤ教徒から命を狙われ、ついにはこの主張が原因で殉教する結果になったのです。

 ところが、パウロ以後の時代になると、もやは《ノモス》の問題は取り上げられません。ユダヤ教との関係は問題ではなくなっています。なぜこのような違いが生じたのでしょうか、その理由を考えてみましょう。

変化の理由

 パウロがガラテヤ書やローマ書で激しく主張した「律法とは別の神の義」とか「信仰による義」の主張がよく理解されるようになって、次の世代ではもはやその問題は議論する必要がなくなったのでしょうか。たしかに年月が経って、パウロの福音がだんだんと理解されるようになったのは事実でしょう。少なくとも理解する人の数が増えたのは事実でしょう。しかし、理解の程度は外から判断することは困難です。だいたいこの時期にガラテヤ書やローマ書がどの程度流布して読まれていたかも分かりません。内的な理解の進展で、このような劇的な変化を説明することは困難です。このような変化には、外的な状況の劇的変化が予想されます。

 先の「時代区分について」の項で見ましたように、パウロの時代と「使徒名書簡」の時代との間には、エルサレムの陥落と神殿の崩壊というユダヤ教にとって決定的な出来事が起こっています。この出来事が、その前の時期と後の時期におけるキリストの民とユダヤ教との関係を劇的に変えることになります。

 66年から始まり70年のエルサレム陥落を頂点とする第一次ユダヤ戦争の時期に、エルサレム共同体はエルサレムから去り、辺境のペラに移ります。エルサレム共同体を率いてきた「主の兄弟ヤコブ」も、少し前の62年に殉教しています。このような状況によってエルサレム共同体は、イエスをメシア・キリストとして宣べ伝える新しい信仰運動の中核としての位置を失い、パレスチナのユダヤ教内のキリスト信仰運動は歴史の舞台から去っていきます。それに伴い、異邦人も割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ神の民とは認められないとして、パウロの時代には激しく活動した「ユダヤ化主義者」の活動も終息したと考えられます。70年以後の時期には、もはやパウロのようにキリスト信仰はユダヤ教の枠の外でも成立するのだと激しく主張して戦う必要がなくなっていたと見られます。

 70年を境として、ユダヤ教団とキリスト信仰の民との関係も劇的に変わっていました。それ以前の時期においては、イエスをキリストと信じる信仰運動もユダヤ教の中に存在することができました。ユダヤ教指導層は、キリストの民を危険なメシア運動の一派として弾圧しましたが、それでもなおユダヤ教内の対立であり弾圧でした。ところが、70年以後の時期においては、ファリサイ派主導のユダヤ教再建の過程で、黙示思想的メシア運動をもはやユダヤ教内の運動として認めることはできなくなり、ヤムニヤに再建された「法院」(かってのエルサレム最高法院を継承するユダヤ教の指導機関)は、イエスを信じるユダヤ教徒を異端者としてユダヤ教から放逐します。キリストの民は、そのユダヤ人メンバーがユダヤ教団に残るという形でユダヤ教団と重なる部分を持つことは、もはやできなくなります。パウロの時代にはその重なりがあったので、パウロはユダヤ教との関係を真剣に問題にしなければなりませんでした。その重なりの中の一部のユダヤ人が、キリストの民全体をユダヤ教の枠の中に引き戻そうとしたので、パウロは激しく反対してガラテヤ書を書き、キリストの民をユダヤ教の枠の外へ解放するために戦ったのでした。

 ところが70年以後の時期においては、このような重なりがなくなり、ユダヤ教団とキリストの民は別の領域を形成するようになったので、キリストの民の内部でユダヤ教へ引き戻そうとする力と戦う必要はなくなりました。キリストの民は、完全にユダヤ教の枠の外で生きるようになります。ユダヤ教との関係は、自分たちを迫害する敵対的な教団を非難攻撃するだけのものとなりました。たとえばこの時期に成立したマタイ福音書は、その共同体の構成員がユダヤ人であり、自身はユダヤ教的体質を保持しながらも、ユダヤ教団に対してはただ偽善者として非難攻撃するだけになっています。その構成員の大部分が異邦人となってきているエーゲ海地域のパウロ系諸集会では、もはやユダヤ教との関係は問題にならなくなり、ここで見たように、当時ではユダヤ教を意味する「律法」という用語は、その文書に出てこなくなります。

 状況がこのように劇的に変化したのに伴い、思想的・神学的にも大きな変化が見られるようになります。パウロにおいては、イスラエルが神の救済史の担い手でした。「イスラエル」という名は、ユダヤ人を神との契約関係にある、神の働きの担い手として選ばれた民として見たときの呼び名です。従って、他では普通に「ユダヤ人」と呼んでいるパウロも、神の救済史の担い手として語るときは「イスラエル」と呼び、救済史におけるユダヤ人の立場を語るローマ書九〜一一章でこの呼び名を繰り返し用いています(新共同訳で一五回)。ところが、パウロ名書簡になると、エフェソ書(二・一二)で、読者が「イスラエルの民に属さない」ことを語る箇所に一回出てくるだけで、一切用いられなくなっています。ということは、使徒名書簡の時代においては、イスラエルは救済史の担い手ではなくなっていることを意味しています。ルカは、エルサレムの陥落を語る箇所で、その出来事を「異邦人の時代」の到来としています(ルカ二一・二四)。イスラエルではなく異邦人が神の救済の働きを担う時代が到来したことを見ているのです。イスラエルが救済史の担い手でなくなるとともに、そして(先の項で見たように)、キリスト信仰がユダヤ教の枠の外に踏み出したこともあって、救済史的思考そのものが衰退し、ギリシア的な宇宙論的な思考の枠組みが優勢になってきます。しかし、救済史的な枠組みと終末待望が消失したのではなく、底流として流れ続け、状況によっては表面に噴出します。この面を次の「終末待望の変化」の項で見ることになります。


    終末待望の変化

来臨待望の衰退と終末の現在化

 もともと復活者イエスの来臨による神の支配の完成を待ち望む信仰共同体であったエルサレム共同体から始まる来臨待望が、福音の進展とともにどのように変化していったのか、先にやや詳しくたどりました(本書148頁の第三章第一節「来臨待望の変遷」)。それでここでは繰り返しませんが、そこで見たように、来臨待望の面でもエルサレム陥落・神殿崩壊が決定的な意義をもち、その前と後では来臨待望に大きな変化が見られます。それ以前の時代では、パウロも含め、キリストの民は復活者キリストが天から現れて、世界を裁き、神の支配を完成される終わりの日の到来を熱く待ち望んでいました。ユダヤ教における終末待望では、イスラエルの回復が中心にあり、異邦諸民族が回復されたイスラエルに加わることで神の民が完成されるとされていました。パウロもこのユダヤ教終末待望を共有しています(ローマ書九〜一一章)。ところが、イスラエルは回復されるどころか、その聖地エルサレムと神殿を異教徒ローマ人によって破壊されて、滅亡の危機に瀕します。この出来事は、キリストの民の間では、イエスを殺し、イエスを信じる民を迫害し、義人ヤコブを殺したイスラエルに対する神の審判と理解されて、もはやイスラエルを中核とする終末的完成の希望は成り立たなくなります。「人の子」の来臨を待望するエルサレム共同体が舞台から退場するにともない、ユダヤ教黙示思想の影響は急速に退潮します。

 その結果、70年以後の「使徒名書簡」では、《パルーシア》(来臨)という用語が出てこなくなります。パウロが《パルーシア》という用語を用いているのは五回だけですが、主が「来られる時」とか「現れる時」、また「主の日」や栄光の「顕現」などの表現で、終わりの日の主キリストの到来を繰り返し語り、最後まで熱烈に待ち望んでいます(ローマ八・一八〜二五)。それに対して、コロサイ書やエフェソ書や牧会書簡などのパウロ名書簡になると、《パルーシア》という用語が出てこないだけでなく、終わりの日の来臨に触れることがほとんどなくなります。パウロ以後の福音理解を代表するコロサイ書やエフェソ書は、もはや目を将来に向けるのではなく、目を上に向けて、天上にいますキリストに満たされることを信仰の目標とするようになります。

 これはパウロ以後の時代の一般的な傾向ですが、迫害など特殊な状況では、例外的に黙示思想的終末待望が燃え上がり、キリストの来臨待望が熱烈に表現されることがあります。ヨハネ黙示録はその代表例です(しかしヨハネ黙示録には《パルーシア》という用語は出てきません)。パウロ名書簡にも、テサロニケ第二書簡のように、テサロニケ第一書簡を継承して黙示思想的な傾向を示す文書も現れています。テサロニケ第二書簡では、一回だけですが《パルーシア》という用語が出てきます。

 ペトロ第一書簡も迫害という特殊な状況において成立したと見られますが、使徒名書簡の中で独自の終末観を示しています。この書簡は、終わりの日が差し迫っていることを強調して、迫害に直面している信徒を励ましています。ペトロの名によって書かれたこの書簡は、ペトロの来臨待望の姿勢を忠実に継承したのでしょう。しかし、キリストの到来を語るのに《パルーシア》という語を用いることはなく、もっぱら《アポカリュプシス》(顕現)という表現を用いています。これは、パウロの協力者であったシルワノあるいはシルワノ周辺の著者が、パウロの福音理解の一面をしっかり継承している結果だと、わたしは思います。すなわち、パウロにおいては黙示思想的な終末待望がなお生きていましたが、一面キリストにあってすでに終末の事態である新しい質の命が来ているのだ、わたしたちはいま現在キリストにあって聖霊によってその命に生きているのだという自覚がありました。栄光のキリストは、今はおられないが将来突然に来臨されるのではなく、すでにわたしたちの内に隠された姿で生きておられるのだから、いわゆるキリストの《パルーシア》とは、その隠された姿のキリストの栄光が現れることに他ならないという理解です。それが、終わりの時を語るのに、《パルーシア》(来臨)ではなく《アポカリュプシス》(顕現)という語だけを(三回)使わせたと考えられます。ここに終末の「現在化」の一つの現れが見られます。

復活信仰の現在化

 この終末の現在化は、とくに復活信仰に著しい形で見られます。パウロにおいては、復活は将来の希望でした。イエスはすでに復活されましたが、その出来事は将来のわたしたちの復活を保証する「初穂」と理解されていました。パウロが、キリストにある者の復活を語るときはいつも未来形の動詞を用いていました(ローマ六・五)。ところが、コロサイ書やエフェソ書になると、わたしたちの復活が過去形で語られるようになります(コロサイ二・一二、三・一、エフェソ二・六)。わたしたちはすでにキリストにあって、キリストと共に復活させられたのです。したがって、コロサイ書やエフェソ書は、将来の復活を語ることはありません。パウロにおいて、将来の終末的な復活を語るのに用いられていた《アナスタシス》(復活)という用語は、コロサイ書やエフェソ書には出てきません。

 しかし、この違いはパウロ名書簡のキリスト信仰がパウロのキリスト信仰の質とは違ってきたことを意味するのではなく、用語の違いと視点の違いを意味するものです。パウロも、将来の終末的な復活《アナスタシス》を待望しつつ、キリストにあって現在すでに新しい命に生きている現実を強調しました。その命は復活に至る命、復活に至らざるをえない質の命として語られていました。わたしたちが死に定められたこの生まれながらの命とは別に、上からの新しい質の命に生きるようになったことを、ペトロ第一書簡の著者は「神はわたしたちを新たに生まれさせた」(一・三、二三)と言い、コロサイ・エフェソ書は「キリストと共に復活させた」と表現するのです。このように復活を現在の霊的現実として表現する傾向は、ヨハネ福音書に至って頂点に達します。

 このような復活信仰における表現の違いは、パウロとパウロ以後の時代のキリスト信仰における視点の違いによるところが大きいと考えられます。パウロにおいてはまだユダヤ教の救済史的な思考の枠組みとか視点が強く残っています。その視点で見るとき、わたしたちの復活は将来の終末的出来事として語らなければなりません。ところが、使徒名書簡の時代は、思考の枠組みそのものがユダヤ教的なものからギリシア的なものに移っていますから、本来終末的な復活が、現在の霊的・空間的なイメージ(ギリシア思想特有の宇宙論的霊的空間)で語られるようになったと見られます。それで、キリストにあって賜っている復活を目指す新しい命が、上から与えられている現在の体験として、それが「新生」とか「復活」という用語で語られることになります。


    エクレシア理解の進展

《エクレーシア》の用例

 ここでも、キリストに所属する民の共同体を指す用語が、パウロとパウロ以後とではその用い方が違ってきていることを手がかりにして、パウロ以後のエクレシア理解の進展を見ていきます。パウロ書簡でもパウロ以後のパウロ名書簡でも、キリストの民の共同体を指すのに《エクレーシア》というギリシア語が使われていることは同じです。このギリシア語はもともとギリシアの《ポリス》(都市国家)で招集された市民の集会を指すのに用いられた語ですが、それがイスラエルの《カーハール》(会衆を意味するヘブライ語)の訳語として(《シュナゴゲー》と共に)七十人訳ギリシア語聖書で用いられ、新約聖書でもその用語が継承されて、キリストを信じる人たちの集団あるいは集会を指す用語となりました。ところが、子細に検討すると、パウロと使徒名書簡(とくにパウロ名書簡)とでは、その用い方に違いがあり、その違いにパウロ以後の時代においてエクレシア理解が進展していることがうかがわれます。

 もともとイエスをキリストと信じる者たちの共同体は「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウー》と呼ばれました(テサロニケT二・一四、コリントT一・二、コリントU一・一などパウロ書簡に多数)。これはユダヤ教黙示文書(死海文書など)において終末時に形成される神の民を指すのに用いられた《カハール・エール》(神の会衆)というヘブライ語のギリシア語訳です。エルサレムに成立した最初期のキリスト者の共同体は、自分たちをそのような終末的な「神の会衆」と自覚し、自らを「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウー》と呼んだのです。その後、《シュナゴゲー》がユダヤ教会堂を指す用語になっていたこともあって、各地の《カーハール》(会衆)を指すのにもっぱら《エクレーシア》が用いられるようになったと考えられます。

 パウロもその七書簡で《エクレーシア》を四四回用いています。それは終末的な「神の会衆」を指していますが、「神の」がつかないで《エクレーシア》だけで用いられている時も、同じ内容の終末時に神に召された神の民を指していることに変わりはありません。ただ、パウロはその《エクレーシア》(会衆・集会)を複数形でよく用いています。たとえば「ガラテヤの諸集会」(ガラテヤ一・二)とか「ユダヤにある諸集会」(ガラテヤ一・二二)、「キリストのすべての集会」(ローマ一六・一六)、「神の諸集会」(コリントT一一・一六)などです。その「諸集会」の個々の集会を指すときは当然単数形で「誰それの家にある集会」というような形で出てきます(コリントT一六・一九、フィレモン二、ローマ一六・五)。また個別の集会での礼拝の在り方を指導するときにも、単数形で「集会」を用いています(コリントT一四章)。このような用例からすると、パウロはある地域の個々の集会を指すのに《エクレーシア》という語を使っていたことが分かります。しかし、それだけでなくある地域のキリスト者の全体を単数形で指す場合もありました(コリントT一・二)。また、《エクレーシア》の全体を人の身体の比喩で語るなど(コリントT一二・二七〜二八)、キリストの民の全体を視野に入れて語ることもありました。しかしそれはまれで、パウロにおいては《エクレーシア》は個々の具体的な集会を指していたと言えるでしょう。

 それに対して、コロサイ書やエフェソ書になると、《エクレーシア》はすべて(計一三回)単数形で用いられるようになり、それはキリストの民の総体を指しています。挨拶の部分に出てくる「ニンファと彼女の家にある集会」と「ラオディキアにある集会」(コロサイ四・一五〜一六)の二カ所は具体的な個別の集会を指していますが、他のすべての用例では、キリストの民の全体を指す単数形で出てきます。コロサイ書とエフェソ書の講解で見たように、この両書簡では、キリストはその体である《エクレーシア》の「頭」であり、その体である《エクレーシア》に充満する方として語られ、キリストの民の目標は成長して「頭」であるキリストに到達することと語られるようになります。キリストは《エクレーシア》と一体なる方として語られるようになります。このような《エクレーシア》理解は、パウロから発するものでありながらも、パウロの場合とはかなり違ってきていると言わなければなりません。
 パウロ以後の時代の使徒名書簡は他にもあり、とくにパウロの名によって書かれた牧会書簡は、パウロの時代からかなり年月が経った時期の、かなり制度化した集会の姿が見られるようになります。しかしここでは、パウロ書簡と比べて、コロサイ書とエフェソ書に見られる《エクレーシア》観の進展がどうして起こったのか、それは何を意味するのかという問題に絞って見ておきます。

エクレシア理解変化の理由と意義

 エクレシア理解にこのような変化あるいは進展が見られるのは、やはりユダヤ戦争・エルサレム神殿崩壊を境として、キリストの民がユダヤ教から離脱して、別の信仰集団としての自覚が強くなったからだと考えられます。それ以前の時期においては、イエスをメシア・キリストと信じる者たちは、ユダヤ人はもちろん異邦人も含めて、自分たちは契約の民、選びの民であるイスラエルに連なることによって神の終末的な救済にあずかっているという自覚が強くありました。パウロも、イスラエルを救済史の担い手として語り(ローマ九〜一一章)、キリストの民を「神のイスラエル」と呼んでいます(ガラテヤ六・一六)。従って、キリストの民をイスラエルとは別の神の民として自覚する必要はありませんでした。ユダヤ教側からは迫害されていましたが、思想的・神学的には、キリストの民はこの時期にはまだイスラエルの内側にいたのです。それで、パウロも信仰者の共同体について語るときには、おもに個々の具体的な集会について語ることになります。

 たしかにこの時期においてすでに、自分たちは「新しい契約」の民であるという自覚はありました。「最後の晩餐」の伝承がエルサレムのユダヤ人共同体から発するものであれば、エルサレム共同体にも「新しい契約」の民であるという自覚があったことになります(ルカ二二・二〇)。パウロは「新しい契約」によって神に結ばれているいるのだという自覚を明確に語っています(コリントU三・六、ガラテヤ四・二四)。しかし、契約が新しくされたという自覚と、イスラエルへの所属とは別です。たとえば、クムランのエッセネ共同体も自分たちは「新しい契約」の民であると自覚していましたが、イスラエルとは別だとは考えていませんでした。自分たちこそ真のイスラエルであると自覚していたのです。

 ところがエルサレム陥落と神殿崩壊によって事情が一変します。キリストの民はもはやイスラエルの内側に安住していることはできなくなりました。イスラエルはもはや救済史の担い手ではなく、キリストの民はイスラエルとは別の民として、別の原理で救済を語り、イスラエルを土台とする救済史とは別の原理で共同体を基礎づける必要を感じるようになります。先に見たように(本書412頁)、パウロ名書簡では「イスラエル」という用語は出てこなくなります。

 コロサイ書・エフェソ書の著者(とくにエフェソ書の著者)は、キリストの民はキリストの体であるというパウロの比喩を継承して、キリストの民をキリストの生命によって結合され成長する有機体として描きます。そのさい、もはやユダヤ教的な時間軸に沿った救済史の枠組みではなく、彼らが呼吸しているヘレニズム世界の霊的空間の枠組みで語ります。キリストの体としてのエクレシア(民)は、霊的な諸々の空間(層)の最上位にいますキリストがその中に満ちている霊的現実態であり、キリストの支配の下にあり、キリストを目標として成長する生命体であるとされます。そして、その関係が体に対する頭の比喩で語られます。

 このように、キリストの民がイスラエルから分離したという歴史的状況と、ユダヤ教的救済史思考からヘレニズム世界の宇宙論的思考へと、思考の枠組みが変わったことによって、キリストの民としてのエクレシアの自覚の仕方が変わったと考えられます。


    ヘレニズム諸宗教との関係

論敵の質の違い

 パウロはキリストの福音を危うくする論敵として、「ユダヤ主義者」と激しく戦わなければなりませんでした。異邦人信者に割礼を受けることを要求する「ユダヤ主義者」こそ、パウロの主要な論敵でした。パウロの福音は、神が成し遂げられた救いの出来事であるキリストに結ばれることによって、すなわち信仰(キリスト信仰)によって義とされ、救われ、神の民とされるという使信です。もし割礼を受けてユダヤ教徒となり、モーセ律法を守らなければ救われないとすれば、信仰によって(=恩恵によって)救われるというパウロの福音の土台が覆ります。パウロはこのような「ユダヤ主義者」の主張に対して、ガラテヤ書を書いて激しく論駁しています。パウロがキリストの福音の全体を提示するために最後に書いたローマ書でも、この信仰による義の主張が強く前面に出ています。

 パウロは、この「ユダヤ主義者」との戦いの他に、もう一つの戦線でも戦わなければならなかったことが、コリント書簡などからうかがえます。コリントのようなヘレニズム世界の宗教と生活が深く浸透している典型的な異教(ユダヤ教から見た異教)の都市では、その宗教と生活の両面で福音を異教の誘惑から守るための戦いが必要となりました。コリントの集会を福音から逸脱させようとしたパウロの論敵がどのような内容の主張をしたのかは、議論が絶えないところですが、霊魂と肉体を峻別する二元論的なギリシア思想の影響から、体の行為を霊魂の救済と無関係として、放縦な生活に陥る誘惑があったと考えられます。パウロの時代ではまだ「グノーシス主義」というような体系的な宗教思想ではないでしょうが、そこに向かう傾向とか萌芽があったのではないかと見られます。後世の「グノーシス主義」では、同じ二元論から肉体の営みを卑しいもの、この物質世界の支配者である神《デーミウルゴス》の策略に陥る行為として結婚を禁じたりするようになります。パウロの福音のための戦いには、このような傾向との戦いもあったことになります。

 ところが、先に見たように、使徒名書簡の時代になると、律法(ユダヤ教)の問題は決着しており、「ユダヤ主義者」との戦いはなくなっています。しかし、福音の確立のために戦う必要は、別の形で続きます。一つには、この時代には、ユダヤ教とは別の宗団として周囲の異教世界との対比を鮮明にしてきたキリストの民は、異教社会や権力からの圧迫や迫害を受けることが多くなります。使徒名書簡には、このような迫害や圧迫に耐えて、信仰を守り抜くようにという励ましが多くなります。しかし、このような外からの試練だけでなく、集会の内側にも福音を変質させる危険な教えとか傾向が出てきます。とくに、この使徒名書簡の時代の宗教性を代表するコロサイ書・エフェソ書には、このような福音を変質させかねない内側の教えに対する戦いが正面に出てくることになります。

 この時代に福音を脅かした異なる教えとはどのようなものであったのかは、先にコロサイ書の成立のところで取り上げた「コロサイの『哲学』」の項(本書16頁)で簡単に触れました。そこで見たように、この時代には、パウロの時にはまだ萌芽の形で入ってきていたグノーシス主義的な傾向が、かなりはっきりとした宗教的形態をもつようになっていたことがうかがえます。パウロの次の世代の著者たちは、このようなギリシア的宗教性の色彩の強い論敵と戦わなければならなかったのです。

 しかし、論敵との戦いはしばしば論敵の土俵の上で行われます。ヘレニズム時代初期に、地中海世界を席巻したギリシア思想と対決して固有の宗教伝統を維持しようとしたユダヤ教の「ハシディーム」(敬虔主義者)の運動は、対決の相手方であるギリシア思想の土俵で(ギリシア的思考法と用語で)戦ったので、そこからギリシア化したユダヤ教であるファリサイ派ユダヤ教を生み出す結果になりました。それと同じように、コロサイ書よりもさらに後の時期にグノーシス主義的な宗教思想と戦わなければならなかったエフェソ書において、グノーシス的な宇宙論的普遍主義が色濃く見られるようになります。ケスターはエフェソ書を「グノーシス主義との闘争」という標題で扱っていますが、同時に「著者が自己の普遍主義を可能にする神学的範疇を得たのは、グノーシス主義からであった」としています。従って、グノーシス主義との違いと対決は倫理の領域に移され、著者は間違った宗教思想との対決を、キリストにある者にふさわしい実際の生活で示すように求めます。それが典型的に現れるのは結婚に関する教えです。グノーシス主義では、性的放縦か結婚の禁止という両極端に向かう傾向がありますが、エフェソ書は天的キリストとエクレシアの一体関係に基づいて、地上の結婚生活を聖なるものとするように説きます。エフェソ書は、当時のローマ社会の倫理とか家庭訓を信仰的に解釈された徳と悪徳表にまとめて、徳を行うことによって誤った信仰と一線を画するように求めます。この倫理的な在り方で異端と一線を画するというやり方は、後の時代に正統派の教会がグノーシス主義諸派と戦う時の方針となります。


    むすび

 以上、使徒名書簡の時代のキリスト信仰が、パウロ書簡に代表される使徒時代のキリスト信仰と違ってきている面があることをまとめてみました。しかし、重要なことは、結果としての相違ではなく、そのような相違を生み出すダイナミックス(動的過程あるいは動態的力学)です。同じキリストが、同じ御霊によって、異なる状況において働かれた結果、以上のような違いが生じたのです。結果としての相違に目を奪われることなく、その違いを生み出さざるをえなかった状況の違いを念頭に置いて、このような文書(使徒名書簡)を生み出したキリスト信仰の命の質を探求することが、わたしたちの課題です。この課題は各人の信仰の問題であり、祈りと御霊の導きの中で成し遂げられるべき課題です。

 


        第二節 福音書の時代

 

    福音書の成立

福音書の時代

 「使徒名書簡」の時代は福音書の時代と重なっています。使徒の後継者たちが、使徒から伝えられた信仰と伝承を維持・確認するために、自分たちの状況に即して、使徒たちの名によって書き上げた諸文書が「使徒名書簡」でした。その使徒名書簡が多く生み出された時期、すなわち第一次ユダヤ戦争から一世紀末あるいは二世紀初頭までの四〇〜五〇年の時代は、同時に新約聖書に保存されている四つの福音書が生み出された時代でもありました(そうすると、新約聖書の二七の文書の内、パウロ七書簡以外の二〇の文書が、この時代に書かれたことになります)。このことからも、この時代の重要性がうかがわれます。

 福音書が書かれた目的は、「使徒から伝えられた信仰と伝承を維持・確認するため」という点で、使徒名書簡の目的と同じです。しかし、使徒たちから伝えられた「イエス伝承」(イエスの働きや教えの言葉の伝承)を素材としてキリストの福音を物語るという、使徒名書簡にはなかった新しい形態を生み出した点で、福音書の成立は福音の史的展開の中で、決定的な、そしてもっとも重要な意義をもつ出来事となりました。

 イエスの教えの言葉やその生涯と働きを物語るイエス伝承は、直接イエスにつき従った使徒たちから伝えられて、イエスを信じる者たちによって口頭で語り伝えられ、共同体の共有資産になっていました。その一部は書きとどめられて文書になっているものもあったようです。その語り伝え方と文書化は、時代と地域によって違いがありました。その伝承の過程を探求する伝承史研究は新約聖書学の重要部門ですが、議論は複雑で、決定的な説が確立するまでにはいたっていません。
 イエスの生涯の中でもっとも重要な十字架の死にいたる受難の出来事については、かなり初期から一定の内容をもった「受難物語」が形成されていたようです。そのほか、イエスがなされた力ある業(奇蹟)を物語る奇蹟物語も、様々な形で伝えられていました。一部のものは書きとどめられて「しるし資料」として流布していたとも見られています。また、イエスが折に触れて語られた言葉は、「語録資料」として文書にまとめられていました。このような「語録集」は、それを形成した共同体の人たちによっては、自分たちの信仰の拠り所となる文書であり、言葉の広い意味で「福音書」と言ってもよいでしょう。それは、やがて成立するようになる四福音書の先駆形態と見ることもできます。

 使徒たちが世を去る時期になって、使徒たちが伝えたイエス伝承を保持すると共に、その諸伝承を用いてイエスの働きと言葉を伝えて福音を世界に提示する文書、「福音書」が成立するようになります。福音書は、イエスの生涯と教えを世に伝えるための伝記ではなく、あくまでもイエスに関する伝承を用いてキリスト信仰を世界に提示しようとする文書、すなわち、イエスを復活者キリストとして世に告知するための文書です。そのような信仰から生み出された、まったく新しい類型(ジャンル)の文書です。
 「使徒名書簡」の時代を語るにさいしては、この時代のもっとも重要な出来事である福音書の成立に触れないでおくことはできません。しかし、各福音書の成立事情とその内容に関して論じることは本書の課題ではありません。それは各福音書の講解に委ねなければなりません。ここでは、本書の「終章」の一部として、本書が扱った「パウロ以後」の福音の舞台であるエーゲ海地域で、この時代のキリスト信仰が最後に取った形として、ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)成立の意義に触れておきたいと思います。そのために、他の三つの福音書の成立を簡単に見た上で、ルカ文書の位置づけを試みたいと思います。

マルコ福音書の成立

 この福音書の時代の幕を切って落としたのはマルコ福音書です。四つの福音書の前後関係については諸説がありますが、マルコ福音書が一番早く成立したことは広く認められており、ほぼ定説として確立していると見られます(もっともK・ベルガーのようにヨハネ福音書が最初に書かれたと見る有力な研究者もいます)。マルコ福音書は、その内証(文書そのものの中に見いだされる根拠)から、第一次ユダヤ戦争(66〜70年)の時期、あるいはエルサレム陥落の直後くらいの時期に書かれたと見られます。すなわち、「使徒名書簡」の時代のもっとも初期に書かれたことになります。この福音書の成立と流布が、この時代を「福音書の時代」とすることになります。

 このように重要な意義を担う福音書ですが、このマルコ福音書がどの地域で、どのような状況で、誰によって書かれたのかなどについては決定的な見方はなく、詳しいことが分かりません。古代教会からの伝統では、ペトロの通訳者であり協力者であるマルコが、ペトロがローマで殉教した後、ペトロから聞いていたイエス伝承を用いて、この福音書をローマで書いたとされてきました。マルコがローマでペトロと一緒にいたことは、ペトロ第一書簡(五・一三)にも記されているので、このような成立事情も十分考えられますが、最近はシリア地域を推察する傾向が強くなっています。どこで成立したにせよ、この福音書はペトロを代表者とするイエスの直弟子たちの語り伝えたイエス伝承を継承していることは確実で、ペトロと働きを共にしたマルコを著者と見ることは自然なことです。いずれにせよこの福音書は、ペトロを通して伝えられたイエス伝承を継承している文書として、きわめて重要な位置を占めています。

 そしてそれ以上に重要なことは、このマルコ福音書がはじめてイエス伝承を用いてキリストの福音を物語るという、新しい類型の文書を生み出した事実です。しかもマルコは、パウロの福音活動に同行して協力した体験もあり、パウロとのつながりも深い人物ですから、彼が語るキリストの福音は、パウロの「十字架の言葉」、すなわちキリストとしてのイエスの十字架の出来事に神の救いの働きが成し遂げられているという宣教を中心に据えています。その結果、この福音書は「長い序文をもつ受難物語」だと言われるような内容と構成になっています。実際の著者が誰であれ、この最初に書かれた福音書は、ペトロが伝えるイエス伝承と、パウロが宣べ伝える十字架の福音が融合した希有の作品となっています。

マタイ福音書の性格

 使徒マタイの著作として伝えられたマタイ福音書は、その堂々たる構成と内容から、新約聖書の冒頭に置かれるにふさわしいとされ、後世のキリスト教に絶大な影響を及ぼしました。しかし実際は、使徒時代以後の律法学者的素養のある人物が、先に成立していたマルコ福音書を物語の枠として用い、その中にこの福音書を成立させた共同体の伝承(おもにイエスの言葉を伝える語録伝承)を組み入れて書いた著作と見られます。

 この福音書を生み出した共同体は、イエスをメシア・キリストと信じるユダヤ教徒の共同体であると考えられます。しかし、この福音書がアラム語からの翻訳ではなく、はじめから立派なギリシア語で書かれていた事実は、この共同体がギリシア語を使う「ヘレニスト・ユダヤ人」の共同体であることを示しています。このユダヤ人の共同体は、おそらくユダヤ戦争で戦火のパレスチナを逃れて、北のシリア方面に移住し、そこで異邦人のヘレニズム世界へ乗り出そうとしていました。そのような時期(おそらく80年代)に、この福音書が書かれたと見られます。

 この福音書を生み出したユダヤ教徒の共同体は、使徒マタイが源とされるイエスの言葉伝承を奉じて、パレスチナのユダヤ人の間で信仰運動を進め、その期間にイエスの語録を集成して文書にしていたと見られます。その文書はギリシア語で書かれていました。この語録資料文書は、後にルカの著作にも資料として用いられるので、現代の研究者の間では「Q」と呼ばれています(Qはドイツ語で資料を意味するクウェレの頭文字)。マタイ福音書の著者の最大の貢献は、黙示思想的な終末切迫の預言と実際生活上の格言のような知恵の言葉をおもな内容とする「語録資料Q」を、十字架の福音を物語るマルコ福音書の枠の中に置いたことです。このことによって、ともすれば倫理的な要請になりがちなイエスの語録が、十字架の福音の場に置かれることによって、「恩恵の支配」を告げる深みのある言葉となったことです。恩恵の場で受け取るとき、マタイ福音書は実に堂々たる「福音書」の様相を見せることになります。

ヨハネ福音書の独自性

 四つの福音書の中でヨハネ福音書は特異な位置を占めています。他の三つの福音書が、マルコ福音書の物語を枠として用い、語録資料など共通の伝承を用いて構成されているので、ほぼ並行した記述になっています。それで、この三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。それに対してヨハネ福音書は、イエスの働きを物語る枠も共観福音書とは異なり(イエスの働きのおもな舞台は、共観福音書ではガリラヤですが、ヨハネ福音書ではエルサレムになります)、イエスの言葉の伝え方も大きく違ってきています。共観福音書では、地上のイエスが語られた言葉がイエスの語録としてかなり忠実に伝えられていますが、ヨハネ福音書では、伝承された地上のイエスの言葉とヨハネ共同体が御霊による復活者イエスとの交わりの中で聴いている言葉が継ぎ目なく重なっていて、イエス(実質的には復活者イエス)と弟子たち、あるいはイエスとユダヤ人たちとの対話を構成しています。ヨハネ福音書はその主要部分が、このような長大な対話で構成されていて、一種の霊的対話編となっています。

 このような特異な福音書が、いつどこで、誰によって、どのような事情の中で書かれたのかは、いまだに激しい議論の渦中にあります。この福音書は、現代の著作のように、ある個人によって一気に書き上げられた著作ではなく、一つの独特な性格の信仰共同体による福音提示の営みとして、多くの編集過程を経て現在の形になった文書です。この福音書は、二世紀の教父たちに「ヨハネによる」福音書という名で知られていたことから、「ヨハネ福音書」と呼ばれるようになり、この福音書を生み出した共同体を形成した指導者、したがってこの福音書の生みの親となった人物が「ヨハネ」という名で知られるようになります。この人物は、ペトロたち十二弟子とは別の形でイエスにつき従った弟子とされ、この福音書の中で「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の(別の)弟子」という形で出てきます(ヨハネ二一・二四)。

 ヨハネ福音書の特色は長大な霊的対話編で構成される部分にありますが、イエスの地上の生涯と働きを伝える部分にも、共観福音書にはない重要な情報があり、イエスの生涯と働きを考察する上で貴重な資料となります。それは、この福音書の伝承の源流に、ペトロたちとは別に、イエスに直接つき従った「イエスが愛された弟子」がいるからです。神殿での過激な象徴行為や最後の晩餐の性格、十字架死の日付などの重要な事実について、マルコ福音書よりも重視すべき伝承を伝えています。

 この福音書を生み出した共同体(ヨハネ共同体)は、ある時期にパレスチナからエフェソに移ったことが推察されます。二世紀の教父たちの証言は、この共同体がエフェソにあったことを指し示しています。その移住がいつごろか正確には確認できませんが、六〇年代のユダヤ戦争の頃ではないかと推察されます。ヨハネ共同体は「使徒名書簡」の時代には、エフェソを拠点として活動していたと考えられます。その福音書の成立は、おそらくこの「使徒名書簡」時代の後期ではないかと考えられますが、正確に年代づけることはできません。そうすると、ヨハネ共同体の活動の舞台は、エーゲ海地域に展開したパウロ系の諸集会と一部重なってきます。ヨハネ福音書には、用語や思想においてコロサイ書やエフェソ書と共通する面があることも示唆的です。パウロとは別の、パレスチナの預言者的伝統を表現するヨハネ黙示録を、それがエフェソを中心とする地域で成立・流布したという事情から、エーゲ海地域における「パウロ以後のキリストの福音」を主題とする本書で取り上げましたが、そうするとヨハネ福音書も同じ理由で取り上げて考察しなければなりません。しかし、それは大きすぎて本書の課題からはみ出しますので、その重なりがあることだけを指摘するに止めます。エフェソを中心とするエーゲ海地域におけるパウロ系の伝承とヨハネ系伝承の重なりは、今後の重要な検討課題だと思われます。


    ルカの福音提示

ルカの二部作

 このような使徒名書簡の時代、すなわち福音書の時代の最後に、本書の主要な舞台であるエーゲ海地域で、この時代を締めくくるような位置を占める重要な文書が生み出されます。それは、共にルカの著とされる「ルカ福音書」と「使徒言行録」です。
 この二つの著作が同じ著者によって、同じ意図をもって書かれたことは、両書の序文からも明らかです。両書の共通の意図と性格については後で述べることにして、ここでは著者が同じであることだけを確認しておきます。「使徒言行録」の著者はその序文(一・一〜二)で、同じ献呈者であるテオフィロ(ルカ一・三)に向かって、「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、・・・・天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と書いています。これは先に書いた福音書を指していることは間違いありません。用語や文体も、両書が同じ著者による著作であることを指し示しています。著者は、先の第一巻(福音書)に続いてこの第二巻(使徒言行録)を書いて、同じテオフィロに献呈しています。

 ルカは二つの別の著作をなしたのではなく、第一部と第二部からなる一つの著作をなしたと見るべきです。もしその一つの著作に標題をつけるとしたら、それは「イエス・キリストの福音 ― その史的展開」としてよいでしょう。第一部(ルカ福音書)ではイエスによる福音の展開、第二部(使徒言行録)では使徒たちによる福音の展開を記録したといえます(「展開」という用語については後述)。世に福音を提示する文書を福音書というのであれば、第一部だけでなく、第二部を含む全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきです。

 しかし、これは一つの著作が二つの部に分けられるというのではなく、別の著作であったことは事実です。それぞれの著作は、当時の書物の最大容量の長さであると見られ、別の書巻として制作され、別の時期にテオフィロに献呈されたと見られます。その間隔は正確には分かりません。一〇年ぐらいであったと見る研究者もいます。それで、ここでも伝統的な呼び方に従って、第一巻を「ルカ福音書」、第二巻を「使徒言行録」と呼んでいきますが、両者は一つの著作であるという視点を見失わないようにしなければなりません。両書をまとめて「ルカ文書」と呼ぶこともあります。

ルカ二部作の意図と性格

 著者は、この著作の意図を自ら第一巻(ルカ福音書)の序文でこう明言しています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。(ルカ一・一〜四)

 ルカはここで《ディエーゲーシス》(ここで「物語」と訳されている語)という、新約聖書ではここだけに出てくる注目すべき用語を使っています。この語は、「わたしたちの間で実現した事柄について」の「歴史的説明」という意味で用いられています。この事柄については、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書き連ねて、「歴史的説明」の書を著すことを、すでに多くの人が試みてきた、とルカは言っています。その中にはマルコ福音書が含まれていることは確かです。ルカは、マルコ福音書を前に置いてこの福音書を書いています。マルコ福音書だけでなく、ルカは他の奇蹟物語や比喩物語集、また現在「語録資料Q」と呼ばれているイエスの語録集などの文書も手元にもっていたでしょう。ルカは、「すべての事を初めから詳しく調べている」者として、それらを「順序正しく書いて」、自分なりの「歴史的説明」の書を著して、「敬愛するテオフィロ」に献呈しようとします。

 そして、このような「歴史的説明」の書を献呈する意図を、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からだとします。献呈する相手の人物は、すでに「教えを受けている」者とされています。すなわち、この「歴史的説明」の書は、すでに信者である人たち、キリストの民《エクレーシア》内部の人たちに宛てて書かれています。彼らが、自分たちの受けた教えが歴史上に実現した出来事という確実な根拠に基づいていることを確認して、信仰を確かなものにするために書かれた書です。

  同時に、この書が「テオフィロ」に献呈されている事実は、この「歴史的説明」の書が、外のローマ社会の人々に向かって、キリストの民の信仰を弁証するために書かれた書であることを示唆しています。というのは、「テオフィロ」につけられた《クラティストス》という語は、高位高官の人物に敬意をもって呼びかけるときの敬称(英語では Most Excellent)ですから、この人物はローマ社会を代表する教養ある高位の人物であり、ルカはこの人物にこの書を献呈するという形で、ローマ社会に向かって、この信仰が「わたしたちの間で実現し、最初から目撃した人々がわたしたちに伝えた」確かな歴史的出来事に基づくものであり、それを報告することでその確かさ、健全さを説明しようとしていることになります。このように、外の人たちに向かって自分の信仰の根拠と内容を説明し、外の人たちの承認や同意を得ようとする文書を「護教文書」と言い、そのような著作をもって世に働きかける著作家を「護教家」と呼びます。ルカの著作は、そのような「護教文書」のはしりです。ルカの後に出た二世紀の多くの「護教家」は、ローマ皇帝などローマ社会を代表する人物に宛てて、多様な護教書を書くことになります。ルカの二部作には、このような護教書としての性格が見られます。なお、「テオフィロ」が実在の人物かどうかが議論されていますが、たとえ実在の人物ではなくても、ルカの著作の意図や性格を理解する上で変更はありません。

福音の史的展開

 ルカは自分の著作を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書としています。その「歴史的説明」は、「わたしたちの間で実現した事柄について」、「すべての事を初めから詳しく調べて」いるルカ自身が「順序正しく書いて」仕上げた著作です。この「わたしたちの間で実現した事柄・出来事」は、本来目に見えない神のご計画とか働きが、わたしたち地上の人間の間で、すなわち地上の歴史のただ中に、目に見える出来事の形で実現したことを指しています。

 福音は、イエス・キリストの出来事において成し遂げられた神の救いの働きを世界に告知する言葉です。このイエス・キリストの出来事(この方の生涯・働き・言葉)こそ、「わたしたちの間で実現した事柄」、わたしたち地上の人間の歴史の中に起こった救いの出来事に他なりません。《ケリュグマ》(福音)はそれを告知する直接的な言葉ですが(たとえばコリントT一五・三〜五)、ルカはそれを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書として提示します。わたしは、この本来目に見えない神の言葉である福音が歴史上の出来事として起こり、その中に自らの本質を開き示していく相を「福音の史的展開」と呼んでいます。わたしは、この「福音の史的展開」を跡づけて、その中で福音の本質を追究することを生涯の課題としていますが、それはルカがしたことを現代においてしようとしていることに他なりません。

 

 ルカはこの課題を成し遂げようとして、第一巻(福音書)を書きあらわしました。しかしその課題は、イエス・キリストの出来事を語る第一巻だけで終わることはできませんでした。ルカは、このイエスの復活後、この方をキリストとして世界に宣べ伝えた使徒たちの働きを見ています。彼らが宣べ伝える「福音」と、その結果歴史の中に生み出され、歴史の中に歩む「キリストの民」《エクレーシア》を見ています。それも「わたしたちの間で実現した事柄」、神の働きの歴史的展開に他なりません。ルカは第二巻(使徒言行録)を書きあらわして、イエス復活以後の福音の史的展開を文書にします。その序文(使徒言行録一・一〜二)は、これが同じ著者による第一巻の続編であることを示すだけの短いものですが、その意図とか性格は第一巻と変わりません。福音書の序言で示した著作の目的と性格は、この第二巻にも続いています。

完成と継続―ルカの救済史

 ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」という文で、「実現した」を「満す」とか「成就する」という動詞の完了形・受動態で表現しています。この動詞は、(マルコやマタイで)預言の成就について用いられる「満たされた、成就した」という動詞とは少し違う形ですが、同系の動詞です。ルカはこの動詞で、イエス・キリストの出来事によって神の救済の働きが「完成に達した」ことを指し示しています。しかし、イエス・キリストにおいて完成に達した神の救いの働きは、なお地上の歴史の中で展開すべき未来をもっています。これは、その救いを受ける人間が時間の中にいるかぎり、すなわち歴史の中にいるかぎり必然の相です。

 最初キリストの福音は、預言された終末の到来として告知されました。キリストの十字架と復活において実現した救いは、すぐにも栄光の中に来臨されるキリストによって完成するという、差し迫った終末的告知でした。使徒時代にはまだその終末待望が熱く燃えていましたが、本書で繰り返し見てきましたように、使徒後の時代、すなわち本書が扱った「使徒名書簡」の時代では、キリストの来臨による完成までの長い期間を、キリストの民は地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならなくなっていました。エルサレム神殿の崩壊後のこの時代、イスラエルに代わってキリストの民《エクレーシア》が、イエス・キリストにおいて完成した神の救済を担って、歴史の中を歩む使命が与えられていることを、この時代の終わりに生きたルカはしっかりと自覚しています。神は歴史の中でその救済の働きを成し遂げ、進められるのだという救済史の思想(神学)が自覚されます。ルカはその自覚で、福音の史的展開を物語る《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書二巻を書き著します。このようにして、ルカの著作は、この時代の《エクレーシア》の救済史的自覚を表現する文書となります。

著者と成立年代

 さて、このような「福音の史的展開」を物語る重要な二部作の文書を著した「ルカ」とはどのような人物でしょうか。これまで著者を「ルカ」と呼んできましたが、この二部作の著作自体には、著者が「ルカ」であることを指し示す文言はありません。古代教会の伝承において、この二部作はパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡)にパウロの同伴者・協力者としてその名前が出てくる「医者のルカ」(フィレモン二四節、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)が書いたとされてきましたので、伝統的に「ルカ」の著作とされてきました。本書でも、この二部作の著者を、この教会伝統に従って「ルカ」と呼んでいますが、著者が誰であるか、その人物像を正確に描くことはできません。

 著者問題においてまず問題になるのは、「使徒言行録」の旅行記の中に出てくる「われら章句」です。「われら章句」というのは、「使徒言行録」の旅行記の中で、主語が「わたしたちは」となって、その旅行記を書いた人物自身がその旅行に参加していることを示している部分です。この「われら章句」は、パウロの旅行のトロアスからフィリピまで続き(一六・九〜一七)、フィリピでいったん途切れ、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、この旅行記の著者はトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この事実から、この「われら章句」の著者はフィリピ出身の人物ではないかと推察されています。

 この「われら章句」については、三つの見方があります。1.古代教会以来、この旅行記の著者は使徒言行録の著者であるルカ自身であるとする伝統的な見方。2.実際にこの部分の旅行に参加した別の人物の旅行記をルカが資料として利用したという見方。3.この「われら章句」はルカの文学的創作であるとする見方。現代の研究者には、2と3の見方が多いようです。
 五〇年代後半のパウロの伝道旅行に同行したのが、ルカが二〇歳前後とか三〇歳前後の時であったとすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。しかし、この時期のパウロに同伴して活動し、パウロを熟知している人物の著作としては、「ルカの二部作」はあまりにもパウロ書簡から知られるパウロの実像や思想から離れているとして、現代の研究者には2または3の見方をとる人が多いようです。

 ルカは、序文において自分は「わたしたちの間で実現した事柄」の「目撃者」ではなく、「目撃者」たちが記録したことを整理してまとめる役割を果たす者であると明言しています。これは使徒たちから後の第二世代(使徒たちの弟子)、第三世代(さらにその弟子)の仕事です。第二世代ではペトロとパウロの一致を描くことは不可能であるとし、その他の理由もあって、ルカを第三世代と見る研究者が多いようです。この二部作の成立年代も、80〜90年代に見る説が多いようですが、70年代から二世紀初頭まで様々な見方がなされています。実際の成立年代を確定することは困難ですが、この二部作はこの「使徒名書簡」の時代の終わりに位置づけるべき文書であると、わたしは考えています。すなわち、パウロ以後にも継承されてきたパウロの福音と、この終章で見てきたパウロ以後のキリスト信仰の変容がルカの二部作に流れ込み、ここで「福音書」(二部作全体を一つの福音書と見て)という規範的な形でまとめられ、以後の時代の出発点となっていると、わたしは見ています。

 ルカの二部作の成立地域についても、アンティオキアやカイサリアなど諸説がありますが、二世紀末に著述した教父エイレナイオスは、ルカの著作はアカイアで成立したという伝承を伝えています。ルカの二部作は、アカイアを含むエーゲ海地域で成立・流布していたことは現代の批判的な聖書学も認めています(たとえばH・ケスター)。パレスチナとかシリアというような他の地域は別ですが、少なくとも(本書の舞台である)エーゲ海地域では、それまでに伝えられていたケリュグマ伝承とイエス伝承、その地域のエクレシアで成立していた賛歌や説教、伝記などすべてがこのルカの文書に流れ込み、それがこの「使徒名書簡」の時代に形成されたキリスト信仰を受け継ぐルカの神学の枠組みの中でまとめられ、この二部作が生み出されたと見られます。

 ルカの二部作は、新約聖書の中でも群を抜いて巨大な作品です。二部作の合計では全五二章になります。マタイの二八章、ヨハネの二一章に較べても、いかに巨大な作品であるかが分かります。それは、パウロとパウロ以後の時代の福音をまとめあげ、次の時代へ引き継ぐためのピボット(回転軸)の位置を占めています。二世紀以後のエクレシアは、このルカの路線を継承して「教会」を形成していくことになります。
 


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