パウロによるキリストの福音 I

第一章 ユダヤ教徒パウロ

第一節 ユダヤ教時代のパウロ
第二節 迫害者パウロ
第三節 パウロの回心




 はじめに


 第一部では「ガラテヤの信徒への手紙」を取り上げます(以下数字だけの引用はガラテヤ書の章節を指す)。
 この手紙は、キリストの福音とユダヤ教との関係という、初代教団の最も緊迫した問題を正面から取り扱っている重要な文書であり、後世のキリスト教の歴史にも計り知れない影響を及ぼしました。この講解でも当然その問題を主題として論じていくことになります。しかし、この「ガラテヤの信徒への手紙」には、パウロ個人の伝記と初代教団の歴史について、当事者であるパウロ自身が証言し資料を提供しているという、第一級の歴史文書としての側面があります。それで、本題に入るに先だって、この書簡が提供している資料に基づいて、パウロの生涯と働きの歴史について見ておこうと思います。それは、この書簡の主題である福音とユダヤ教との関係の問題に深く関わっているからです。
 この書簡がパウロの自伝的な内容を含んでいるので、成立年代順という本講解の原則にとらわれず、最初に取り上げます。


第一節 ユダヤ教時代のパウロ


ディアスポラのユダヤ人

 パウロはこの書簡の中でこう証言しています。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。 (ガラテヤ一・一三〜一四)

 パウロがイエスを信じる者たちを激しく迫害した人物であることは、初期の教団では周知の事実でした(一・二三)。ここでパウロは、その事実をみずから認めた上で(一三節)、その行動の背景となっている、若き日のユダヤ教への熱情を証言しています(一四節)。そこでまず、パウロの青年期のユダヤ教への関わりを見ておきましょう。

 パウロがキリキヤのタルソスで生まれたことは、パウロ自身の証言にはありませんが、使徒言行録の著者ルカが伝えています(使徒言行録九・一一、二二・三など)。このことは広く受け入れられており、疑う理由はありません。タルソスはキリキヤ州の州都として、経済的に豊かであっただけでなく、文化的にもアテネやアレキサンドリアに並ぶギリシャ文化が栄えた都市でした。パウロがこのヘレニズム都市で育ったのは何才ぐらいまでであったかについては議論があります。しかし、パウロがギリシャ語を母語として育ち、ギリシャ語の初等教育を受けたことは確かと見てよいでしょう。

 パウロはこのタルソスのユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人です。このことはパウロ自身が誇りをもって証言しています。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」。  (フィリピ三・五)

 両親は父祖の宗教(ユダヤ教)に忠実なユダヤ人であって、生まれた男の子に割礼を施し、自分たちが属するベニヤミン族の英雄サウロ王にちなんで、「サウロ」と名付けました。「生まれて八日目に割礼を受け」たというのは、生まれは異邦人であるが成人してから改宗して割礼を受けたユダヤ人ではなく、ユダヤ人を両親として生まれた血統正しいユダヤ人であることを誇る表現です。生まれや血統から、神に選ばれて契約にあずかる民イスラエルに所属するだけでなく、受けた教育と生活習慣においても厳格なユダヤ教徒であるとして、彼は「ヘブライ人の中のヘブライ人」と誇ることができたのです。

 このように、パウロは異邦人地域に住むユダヤ人、すなわちディアスポラ(離散)のユダヤ人です。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシャ語の名前を用いていました。二つの名前が象徴するように、パウロの一身にユダヤ教とギリシャ文化という二つの世界が沁み通っているという事実が、パウロをしてパウロならしめているのです。

先祖からの伝承

 ところで、パウロ自身はユダヤ教との関わりについてこう証言しています。

「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。 (ガラテヤ一・一四)

 原文の順序では、まず「ユダヤ教に徹しよう」としたことが語られ、続いてそれが「先祖からの伝承を守るのに熱心」という文で説明されています。ここでまず、パウロが回心前の自分のことを「ユダヤ教にいた時のふるまい」(一三節私訳)とか、「ユダヤ教に徹しようとした」(一四節)というように、「ユダヤ教」という語で表現していることが注目されます。この語が用いられるのはここだけで、他では用いられていません。他の箇所では、回心前の自分を表現するのに「律法」という語が用いられています。たとえば、このガラテヤ書の箇所と同じことを語るのに、フィリピ書ではこう言っています。

「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。 (フィリピ三・五〜六)

 この並行例からも分かるように、パウロにおいては多くの場合、「律法」と「ユダヤ教」はほぼ同じ内容を指す語として用いられています。ユダヤ教に徹するとは、律法を徹底して厳格に守り行うことです。そして、ユダヤ教に徹するとか、律法を行うというのは、さらに具体的に言うと、「先祖からの伝承を守る」ことなのです。これはとくに、パウロもその一員であったファリサイ派のユダヤ教徒にとって重要な表現です。ファリサイ派とは、まさに「先祖からの伝承を守るのに熱心」な人々の運動なのです。

 このことを説明するには、歴史を少し遡らなくてはなりません。紀元前四世紀のアレキサンドロスの征服以来、地中海世界の諸民族の生活や文化は、ギリシャ文化の強い影響の下にギリシャ化してゆき、ギリシャ文化と東方の宗教文化が融合して形成された独特のヘレニズム文化の波に押し流されるようになります。パレスチナのユダヤ人も例外ではなく、宗教はモーセ律法とエルサレムの神殿祭儀を保持しながらも、実際の生活はギリシャ語を話し、ギリシャ風の生き方をする人たちが多くなっていきます。ギリシャ風の都市が建設され、そこでギリシャ風の学校教育や競技が行われるようになります。

 このヘレニズム化の波が王の権力によって強制されるに至ったとき、父祖伝来の宗教と慣習を守り抜こうとするユダヤ人との間に戦いが起こりました。紀元前二世紀の半ば、当時パレスチナを支配していたセレウコス王朝の王アンティオコス・エピファネスは力ずくでエルサレムをギリシャ化しようとして、勅令を発して神殿の祭儀を廃し、異教の祭壇を築き、ユダヤ人に割礼を受けることやその宗教規定を守ることを禁じます。このギリシャ化政策に反対して、「先祖からの伝承」としての「律法」を命がけで守ろうとしたユダヤ人が蜂起して戦争が起こります。この戦争は、代表的な指導者であった「マカベヤ」(鉄槌の意、新共同訳では「マカバイ」)と呼ばれるユダにちなんで、「マカベヤの反乱」とか「マカベヤ戦争」と呼ばれています(この戦争については旧約続編の「マカバイ記I」に詳しく語られています)。

 このような戦争が起こる底流として、とうとうたる時代のギリシャ化の流れに反抗して、「先祖からの伝承」を守ろうとする信仰深い人々の運動が、すでにこの時代以前からありました。このような人々は「ハシディーム」(敬虔な人たち)と呼ばれました。ダニエル書はこのような「ハシディーム」がマカベヤ戦争の時代に生みだした文書です。「ハシディーム」の一部の人は武器をとってマカベヤ戦争に参加しました(マカバイI二・四二、新共同訳ではギリシャ語読みで「ハシダイ」)。

 このマカベヤ戦争は「律法のためには命を惜しまない」人々の勇敢な戦いによって勝利を収め、エルサレム神殿は異教の汚れから清められて、再び律法に従ったヤハウェ祭儀が行われるようになります。その後、ユダの一族ハスモニア家は大祭司の職を占め、独立を回復したユダヤ神殿国家の実質的な王として君臨し、ハスモニア王朝時代を築きます。しかし、権力の常として、このハスモニア王朝も周囲のヘレニズム世界への妥協、力ずくの領土拡張、内部の権力闘争、反対派の弾圧など、世俗化し堕落していきます。

 このような時代に、「ハシディーム」たちは権力者ハスモニア家とは一線を画し、父祖から伝えられた宗教(律法)を純粋に守る運動を進めていきます。そして、この「ハシディーム」の運動の中から、ハスモニヤ時代に二つのグループがそれぞれの特色をもって形をとって現れてきます。すなわち、ファリサイ派とエッセネ派です。

 ファリサイ派は、当時すでに権威が確立していた「モーセ五書」に記されている律法の規定を、自分たちの時代と生活の中に適用して実践しようとした一般信徒の信仰運動です。そのために律法とその解釈を研究した学者たちの教えが口頭で弟子たちに伝えられ蓄積されて、律法を行うさいの実際的な細則を形成します。この律法学者たちの口伝伝承が、モーセ五書に記された成文律法と同じ権威をもつ神の律法として扱われるようになります。ファリサイ派のユダヤ人にとっては、モーセ律法と並んで、このような学者たちの伝承も「昔の人の言い伝え」として「父祖からの伝承」に属したのです(マルコ七・三〜五を参照)。パウロもファリサイ派の一員として、この父祖の伝承を守ることに人一倍熱心であったわけです。「ファリサイ」(分離した者たち)という呼び名は、このような口伝伝承の権威を認めない祭司階級から、正統教理から逸脱する異端者という意味で用いられたと見られます。

 一方エッセネ派は、エルサレム神殿を支配するハスモニア家の大祭司を非正統の祭司と批判して、正統的な祭司の下で祭儀的な清浄を実現しようとした信仰運動です。この運動の指導者は「義の教師」と呼ばれ、その厳密な律法解釈からハスモニア家の大祭司を正統でないと批判したため迫害され、ユダの荒野に逃れて、エルサレム神殿に対抗する祭司制をもつ「ハシディーム」の集団を形成したと見られます。このグループがエッセネ派と呼ばれ、ヨセフスの歴史書にも詳しく紹介されています。死海北西岸の荒野にあるクムランの建造物遺跡は、このエッセネ派の本部ないし拠点であり、その近辺の洞窟から発見された古代写本群(死海写本)はエッセネ派の文書であると見られます。エッセネ派は、このクムランで修道院的な共同生活をした中核的な集団の他にも、イスラエルの各地にいわば在家のままで生活したエッセネ教徒も多くいたことが報告されています。

エルサレムのパウロ

 パウロが最後のエルサレム上京のさい騒乱に巻き込まれて逮捕されたとき、エルサレムの住民に向かってヘブライ語で次のような弁明をしたと、ルカは伝えています。

「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」。 (使徒言行録二二・三)

 パウロが若い時からエルサレムで律法の教育を受けたとするルカのこの報告は、現代では論争されています。しかし、M・ヘンゲルがその著『回心前のパウロ』で説得的に論証したように、少なくともパウロがエルサレムでファリサイ派の律法教育を受け、律法の教師として活動したことは認められるべきであると思われます。七〇年の神殿崩壊以前のファリサイ派ユダヤ教においては、聖都エルサレム以外の地でのラビ教育は考えられないからです。パウロがエルサレムで律法教育を受けたとすると、当時エルサレムで最高の律法学者であったガマリエル(使徒言行録五・三四のガマリエル)の弟子となったことも疑う理由はありません。

 本章の「ユダヤ教時代のパウロ」については、ここに挙げた M. Hengel, The Pre-Christian Paul, ( SCM Press ) 1991 の論証に負うところが多くあります。

 当時のエルサレムのユダヤ教の状況について重要なことは、エルサレムがすでにギリシャ語を話す世界有数のギリシャ都市の一つであったという事実です。もちろんユダヤ教の聖地として、エルサレムは聖書の言語であるヘブライ語と日常語であるアラム語を用いるユダヤ人の都市であり、アラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人が多数を占めていました。しかし、彼らの中にはギリシャ語もよくする人たちが多くいました。その上、ディアスポラのユダヤ人でエルサレムに住むようになった人たちやその子孫のように、ギリシャ語を母語とするユダヤ人もかなりの割合(一〇〜一五パーセント)であったと推定されます。エルサレムとその近郊で発見された第二神殿時代の碑文の四割がギリシャ語の碑文であるとも報告されています。

 さらに、巡礼としてエルサレムに滞在するディアスポラのユダヤ人や外国人が、いつも狭い街にひしめいていました。エルサレムは規模でこそローマやアレキサンドリアには及びませんが、当時のヘレニズム世界では、多くの巡礼者を引きつけた最も魅力ある国際都市の一つであったのです。とくにディアスポラのユダヤ人は、晩年には聖地エルサレムに住み、律法の学びに専念し、そこに葬られて復活の日を待つことが憧れでした。

 このようなバイリンガル(二言語)の状況から、ユダヤ人の日常の宗教生活の中心をなすシナゴーグ(会堂)も、アラム語を用いる会堂とギリシャ語を用いる会堂に分かれていました。ギリシャ語を用いるシナゴーグには、エルサレムに住んだり滞在したりするディアスポラのユダヤ人が出身地別に集まったものが多くありました(使徒言行録六・九はこのような会堂を指していると見られます)。

 パウロはエルサレムで、ガマリエルの門下で律法を学び、「先祖からの伝承」を受け継ぐと同時に、ギリシャ語を話すユダヤ人の会堂で教師となるために上級のギリシャ語教育を受け、資格を得てからはギリシャ語系ユダヤ人の会堂で「律法を朗読し、定めを解きあかす」教師の働きに従事したと考えられます。その教師としての働きの中には、さらに深く律法を学ぼうとしてエルサレムに帰ってきたディアスポラのユダヤ人に聖書を教えるだけでなく、ユダヤ教に引かれて集まってくる異邦人に律法(ユダヤ教)を教え、改宗に導き割礼を受けるに至らせるという伝道的な面もあったわけです。このような働きをパウロは「割礼を宣べ伝える」と言っているのです(ガラテヤ五・一一)。

エッセネ派の影響

 回心前のパウロがエルサレムで律法を学び教える活動をした時期については、パウロの思想形成に大きな影響を及ぼしたと見られるもう一つ注目すべき事実があります。それはエルサレムにおけるエッセネ派の存在です。この時代の歴史家ヨセフスが、エルサレム城壁の南西部に「エッセネ門」と呼ばれる城門があったことを報告していますが、これはその近くにエッセネ派の居住地があったことを示唆しています。この時期はクムランの居住地が紀元前三一年の地震によって放棄されていた時期であり、エッセネ派に好意的なヘロデによってエルサレムに居住地が与えられていたと推定されています。これは最近の考古学的発掘によってかなり確実な事実と見られています。

 エルサレムのエッセネ派居住区については、ベッツ/リースナー『死海文書ーその真実と悲惨』(清水宏訳、リトン社)第十章参照のこと。

 そうだとすると、律法を学ぶことに熱心で徹底的であったパウロが、律法のもっとも厳格な実践者として尊敬されていたエッセネ派と何らかの形で接触をもち、かなりの影響を受けたことは十分考えられます。エルサレムの街の狭さと当時のユダヤ教の熱気からすると、影響がなかったと考えるほうが困難です。事実、パウロ書簡に見られる思想、とくに黙示思想の枠組みには、エッセネ派の文書と見られる死海文書との共通面が多くあり、用語や表現にも同じものや並行関係が見られます。もっとも、当時のファリサイ派はかなり終末的・黙示思想的傾向もあったようですから、パウロの黙示思想的な側面をすべてエッセネ派の影響と考えることはできません。


第二節 迫害者パウロ


熱心党の時代

 パウロは「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心」であったと言っています。そして、ルカの報告によれば、エルサレムの住民に向かって、「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と語りかけたとされています(使徒言行録二二・三)。このパウロ自身にもエルサレムのユダヤ人についても用いられている「熱心」という語は、この時代のユダヤ教の雰囲気を示すキーワードになっていました。
 先祖からの伝承(律法)を守るのに熱心な「ハシディーム」の流れは、ハスモニア時代とヘロデの時代を通してずっと続いていましたが、紀元後の一世紀に入って新しい様相を見せるようになります。紀元六年にアルケラオスが追放されて、ユダヤはローマ皇帝直属の属州となりました。それにともなって、人口調査ケンススが行われます。この人口調査は当然徴税のための土地調査を含んでいました。この人口調査と土地課税に対して、それに従うことはイスラエルの土地に対するヤハウェの主権を否定することであり、ヤハウェだけを神として拝むことを求める第一戒に違反することだとして、ファリサイ派の中の過激な人たちがローマに対する抵抗運動に立ち上がりました。その運動は、短刀シカリでの暗殺(それでシカリ派とも呼ばれる)、ゲリラ戦争、暴動など、武力闘争へと進んでいきます。この運動を最初に指導したのがガリラヤのユダと呼ばれる人物です。彼らは《ゼーロータイ》(熱心党)と呼ばれ、ヨセフスによって(サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派と並んで)ユダヤ教の第四党派として数えられるようになります。

 ゼーロータイ運動の詳細は、M・ヘンゲル『ゼーロータイー紀元後一世紀のユダヤ教「熱心党」』(大庭昭博訳 新地書房)を見てください。

 イエスが活動された時代(三〇年前後)には、この「熱心党」はかなりの影響力をもっていたようです。イエスの弟子の中にも「熱心党のシモン」が数えられています(マルコ三・一八)。また、福音書で「強盗」とか「暴徒」と訳されている《レースタイ》という語(バラバや一緒に十字架につけられた二人もこう呼ばれています)は、この熱心党活動家をローマ側から見た呼び方です。結局、イエスもこのような反ローマの革命家として処刑されることになるのです。

 この時代の熱心党運動の特色は、彼らのテロの目標が自分たちの父祖の宗教を汚す異教の支配者に向けられただけでなく、異教徒の支配に妥協して律法を汚す(と彼らが考えた)同胞ユダヤ人に向けられたことです。これには聖書に先例があります。民数記二五章(一〜一八節)に、イスラエルが異教の娘たちのバアル礼拝に加わってヤハウェの怒りを引き起こし、民に災害が臨んだとき、ピネハスが民の目の前でそのような行為をしたイスラエル人を女と一緒に、槍で刺し殺したという物語があります。主はピネハスの行為をよみしてこう言われたと記されています。

「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情を持ってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである』」。 (民数記二五・一〇〜二三)

 マカベヤの反乱も同じ「情熱」から始まりました。シリア王の役人が異教の祭壇にいきにえを捧げることを要求したとき、祭司マタティアはこれを断固として拒否しますが、目の前で一人のユダヤ人が王の命令に従っていきにえを捧げようとします。「これを見たマタティアは律法への情熱にかられて立腹し、義憤を覚え、駆け寄りざまその祭壇の前でこの男を切り殺し」、「律法に情熱を燃やす者はわたしに続け」と叫んだのです(マカバイI二・一五〜二八)。これがマカベヤ戦争の発端となります。彼らにとってエリヤも「燃え立つ律法への熱情のゆえに天にまで上げられた」大先輩でした(マカバイI二・五八)。

 ガリラヤのユダから始まる運動は、自分たちこそピネハスやエリヤやマタティアの「熱情」を受け継ぎ、自分の命をかけてもイスラエルから律法を汚す者を取り除き、それによってイスラエルの罪を贖い、神の救いをもたらすのだとしたのです。この「熱情」から彼らは「熱心党」と呼ばれるようになります。このように「熱心党」の運動は、本来イスラエルの中の宗教運動ですから、彼らの敵意の対象はまず第一に、イスラエルの中で律法を汚す者に向かうことになります。それで大祭司さえ彼らのテロの犠牲になります。彼らの運動は徐々にユダヤ人社会に浸透し、ついにローマに対する全面戦争にまでいたります。しかし、その運動の末期には、内部で分裂して対立する党派が、お互いに相手を律法を汚す者として攻撃し、血で血を洗う抗争に陥り、ローマの軍事力に敗北する前に自己崩壊し、七〇年のエルサレム神殿の崩壊を招きます。

ステファノの殉教

 パウロがエルサレムでファリサイ派の学徒として律法の研鑽に励み、さらに教師として律法を教える仕事に携わっていた二十年代と三十年代初頭では、熱心党の活動がどの程度になっていたかは、ヨセフスも沈黙していて確実に知ることはできませんが、福音書の記事などから、その影響はかなり浸透していたと見られます。とくに「ハシディーム」の流れを汲む敬虔なユダヤ人の間では、「律法への熱心」は合い言葉となっていたのでしょう。パウロも父祖の伝承を守ることに徹しようとする自分の姿勢を、繰り返し「熱心」という言葉で表現しています。さらに、パウロは「熱心の点では教会の迫害者」と言っています。律法を汚す者を糾弾することが律法への熱心の証明であると考えるほどに、熱心党の理念に影響されていたと言えます。

 イエスがエルサレムで十字架刑に処せられたとき、パウロはエルサレムにいてその出来事を知っていた、あるいは現場に居合わせていた可能性が十分にあります。ファリサイ派律法学者パウロにとって、「木にかけられた者」とは神に呪われた者であって(申命記二一・二三)、そのような者が神から遣わされたメシアであるなどということは、とうてい受け入れることはできない不条理の極み、「つまづき」そのものです。そのようなことを宣べ伝え、それに従う者たちに対しては、パウロは軽蔑の目で見下し放置していたと思われます。このような宣教に対して、パウロがただちに反応して行動を起こした形跡はありません。むしろ、ファリサイ派指導層はこの新しい信仰運動を放置したと伝えられています(使徒言行録五・三三以下)。

 ところが、イエスに従う者の中の一部のユダヤ人が、イエスを信じることによって、神殿礼拝やモーセ律法の遵守はもはや必要ではないのだと主張するに及んで、律法への熱情に燃える正統派のユダヤ人との間に激烈な論争が起こります(使徒言行録六・八〜一五)。ついに激高したユダヤ人が、そのような主張をする者の代表者であるステファノを捕らえてリンチにかけ、石打で殺すという事件が起こります。パウロはステファノを殺す側の一員として、その事件の現場に居合わます。

 おそらく、このステファノ事件をきっかけとして、パウロはイエスに従う者を迫害する活動を積極的に開始したと考えられます。律法と神殿を汚すようなことを宣べ伝え、敬虔なイスラエルの民を堕落させる者は、厳しく糾弾して処罰し、汚れを取り除かなければなりません。そうしないならば、その汚れに対してイスラエルの上に神の裁きを招くことになります。パウロはシナゴーグの責任を担う一員として、律法への熱情に駆られて、そのような主張をするイエスの信徒たちを厳しく探索し、尋問し、処罰する行動を開始します。

 当時のシナゴーグは異端的な言動をするユダヤ人に刑罰を課す権限をもっていました。その刑罰の中に「四十に一つ足りない鞭」という刑罰があります。パウロが直接鞭を下したのかどうかは分かりませんが、律法に対する熱情が鞭打ちを激しくして、イエスを告白する信徒を死にいたらしめた場合があったかもしれません(後にパウロがこの刑を受ける立場になります)。パウロは「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒言行録二二・四)とまで言っています。

《ヘレニースタイ》の会堂での迫害

 ステファノのリンチ事件をきっかけとして始まった迫害について報告している使徒言行録の記事(八・一〜三)を見ますと、奇妙な事実に気付きます。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とルカは伝えています。ルカが「使徒」というのは、イエスの弟子であったペトロを初めとする十二人で、エルサレム教団の指導者の立場にある人々です。この大迫害で皆散らされていったのに、使徒たちだけは何の関係もないかのようにエルサレムに残ることができたのは、奇妙な事態だと言わなければなりません。事実、使徒言行録はこの大迫害の後もエルサレムには有力な教会が存続して活動したことを報告しています。いったい、この迫害は誰に向けられたものでしょうか。

 事態を理解するための示唆が使徒言行録六章(一〜六節)にあります。そこでは、《ヘレニースタイ》すなわち「ギリシア語を話すユダヤ人」と《ヘブライオイ》すなわち「ヘブライ語(厳密にはアラム語)を話すユダヤ人」との間に対立があったことが示唆されています。新しく選ばれた七人の指導者がみなギリシャ名をもつ《ヘレニースタイ》であること、彼らが伝道者としての活動をしていることから見て、教会の一致を強調しようとするルカの記事の背後に、別の二つのグループの存在が透けて見えてきます。すなわち、この「七人」で代表される《ヘレニースタイ》の集団と、「十二人」に代表される《ヘブライオイ》の集会です。

 ここで、当時のエルサレムがバイリンガル(二言語)の国際都市であったことを思い起こしていただきたいのです。先に見ましたように、ユダヤ人のシナゴーグもアラム語を話すユダヤ人の会堂とギリシャ語を話すユダヤ人の会堂に分かれていました。使用言語が違うので、会堂での礼拝活動も別にせざるをえないのです。アラム語を話す《ヘブライオイ》の会堂は、おもにパレスチナ生まれのユダヤ人から成り、ギリシャ語を話す《ヘレニースタイ》の会堂は、ヘレニズム世界の各地から聖地エルサレムに戻ってきて滞在または生活していたディアスポラ・ユダヤ人の会堂でした。これには出身地別の会堂が多くあったようです。パウロ自身も《ヘレニースタイ》の一人であり、この《ヘレニースタイ》の会堂で律法の教師をしていたのです。

 ペンテコステの日に始まるとされる使徒たちの宣教活動によって、多くのユダヤ人が信仰に入ったのですが、その中にディアスポラのユダヤ人も多くいたことが、使徒言行録二章七〜一一節の記事からうかがえます。イエスを信じた人々は使徒たちの指導の下に集会を形成するのですが、使用言語の違いから《ヘブライオイ》と《ヘレニースタイ》は別の集会を形成せざるをえませんでした。これはユダヤ人の会堂と同じ事情です。最初期のエルサレムの信徒の群れが二つのグループに分かれて集会を形成するようになったのは、おそらく宣教開始後数カ月ぐらいのごく早期のことであったと考えられます。エルサレムにおけるアラム語人口とギリシャ語人口の割合から単純に推定しますと、《ヘレニースタイ》の集会は少数派であったと見てよいでしょう。

 「使徒」たちを含め《ヘブライオイ》の集会は、パレスチナ育ちのユダヤ人が多く、先祖からの伝承(律法)に忠実に生きることに何の疑問ももたず、あくまでユダヤ教の枠の中でイエスをメシアと信じる信仰を告白していったのです。それに対して、《ヘレニースタイ》の集会では、先祖からの伝承に対して自由な立場をとる人が多く、イエスの言葉の中に見られる律法を超える思想に共鳴し、その面を強調する傾向が出てきたと考えられます。復活されたイエスに聖霊によって結ばれて救いを受けている以上、神殿の犠牲もモーセ律法もその役割は終わったのだとする彼らの告白は、彼らが所属する《ヘレニースタイ》会堂のユダヤ人を刺激し、激しい論争が起こったのでした。

 このような事情で、ステファノに対するリンチ事件も、それに端を発する迫害も、《ヘレニースタイ》の諸会堂の間での出来事であったと言えます。「使徒」を初めとする律法に忠実な《ヘブライオイ》の信徒たちは、この迫害の嵐の外にいて、エルサレムに残ることができたわけです。(以下、ギリシャ語を話すユダヤ人を「ギリシャ語系ユダヤ人」と呼びます。)

 ステファノ事件以後、パウロは事態の重大さを感じ、シナゴーグの信仰を担う教師としての責任感と律法への熱心に駆られて、主導的に迫害を開始します。会堂の中のイエスの信徒たちを探索し、捕らえ、尋問し、律法に反する言動をする者に刑罰を課していきます。もちろん、パウロ自身はそうすることが神に仕える道だと確信しているわけです。
 迫害でエルサレムから散らされたギリシャ語系ユダヤ人信徒たちは、地中海沿岸地域の諸都市やキプロス、アンティオキアまで行って、同胞ユダヤ人にイエスの福音を宣べ伝えました(使徒言行録一一・一九)。その中の一部の者たちはダマスコに逃れました。ダマスコは多くのユダヤ人が住むエルサレムと関わりの深い都市でした。ダマスコには(確証はありませんが)すでにガリラヤなどから伝えられた福音によって、イエスを信じるユダヤ人の集会が成立していた可能性があります。しかし、エルサレムから逃れて行ったギリシャ語系ユダヤ人信徒によって、ダマスコのユダヤ人諸会堂が深刻な影響を受けることを恐れて、エルサレムのギリシャ語系ユダヤ人の会堂は、すでに信徒の探索に指導的な働きをしていたパウロを、その目的のためにダマスコに派遣します。

  パウロがエルサレムで信徒の迫害をしたという使徒言行録の記述に対して、ガラテヤ書一章二二〜二四節の、「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。……」というパウロ自身の証言に基づく重大な反論があります。また、パウロがエルサレムで律法の研鑽をしたこと自体も疑問視されています(序章で紹介した佐竹明『使徒パウロ』も)。しかし、前出のヘンゲルの著書はこの反論に十分答えていると思われます。ここで議論の詳細に入ることはできませんが、使徒言行録の記事は、ルカ特有の偏りを差し引けば、その歴史性は大枠として信頼できると考えられます。



第三節 パウロの回心


ダマスコ体験

 イエスを信じる者を弾圧するためにダマスコに向かったパウロは、その途上で彼の存在をひっくり返す決定的な体験をします。復活されたイエスに遭遇するのです。このダマスコ途上の体験については、パウロはユダヤ教時代の律法への熱心を語った言葉(一三〜一四節)に続けて、ごく簡単に触れているだけです。

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき……」。 (ガラテヤ 一・一五〜一六)

 このパウロに「御子が啓示された」ダマスコ途上での出来事については、すでに本書の序章で書いていますので、改めて触れることはしません。ここでは、以上に見てきました律法への熱情に燃えるパウロにとって、このダマスコ体験が何を意味したのかを、パウロ自身の証言によって見ておきたいと思います。

 それまでの律法への熱心との関連で、この体験の意味を直接語っているパウロ自身の証言としては、まず「フィリピの信徒への手紙」三章があります。そこでパウロは、ユダヤ教徒としての誇りを数え上げた後、こう断言します。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。 (フィリピ三・七)

 「わたしにとって有利であったこれらのこと」というのは、先に列挙したユダヤ教徒としての誇りです。律法を守る者として優れている点です。それが神から遣わされたキリストに反抗する理由になったのですから、キリストを信じる今では「損失」でしかありません。パウロはさらにこう続けます。

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。 (フィリピ三・八)

 ここでパウロは「キリストの知識《グノーシス》」のすばらしさに圧倒されて、それ以外のもの一切を損失とし、キリストを知り、キリストを得るために失った一切のものを、失っても全然惜しくない無価値な「塵あくた」と見なす、と激しい言葉で表現しています。ここで「他の一切」とか、「失ったすべてのもの」と言っているものは、文脈からして、とくにユダヤ教徒としての誇り、律法の行者としての最高の価値を指していることは明かです。

 ここで決定的な価値の転換が起こっています。それまで最高の価値であったものが「塵あくた」となり、それまでは最も卑しいものとしていた十字架の刑死者イエスをキリストとして知ることが無上の宝とされるようになったのです。それまでは、パウロは一切を律法を規準にして価値を計っていました。どれだけ律法にかなっているかが、一切のものの価値を決めていました。その規準からすると、イエスは十字架で処刑されるべき無価値なものです。ところが、イエスを復活されたキリストであると知ってからは、一切をキリストを規準にして見るようになります。どれだけキリストを知ることに関わるか、どれだけキリストにあずかっているかが、一切の存在の価値を決める規準になります。その規準からすると、パウロのユダヤ教徒としての誇りは、キリストに敵対するものとして「損失」になってしまいます。律法そのものもこの規準で新たに計られるようになります。

律法の終わり

 ダマスコ体験はよく「パウロの回心」と呼ばれます。それはたしかに、パウロにとって決定的な価値の転換でした。しかし、それは「改宗」ではありません。ある宗教から他の宗教に変わったという出来事ではありません。ユダヤ教からキリスト教に改宗したのではありません。その時にはまだ「キリスト教」はありません。この体験の後も、パウロはユダヤ人、すなわちユダヤ教徒であることをやめたわけではありません。ユダヤ教の中にいながら、パウロが「律法」と呼んでいるユダヤ教そのものの位置づけが決定的に変わってしまったのです。

 キリストに出会うまでは、律法こそ最終的な神の啓示であり、救いの道でした。ところが、キリストを知ったとき、キリストこそ神の啓示であり救いであることが分かったのです。このキリストの前に、律法はもはや最終的な啓示とか救いの道であるという位置を持たなくなったのです。たしかに、律法はキリストを準備しました。しかし、キリストが現れたとき、太陽が昇った後のろうそくのように、律法はその役割を終えたのです。この事態を、パウロは「キリストは律法の終わりとなられた」(ローマ一〇・四)と表現しています。

 ここで「終わり」と訳したギリシャ語原語は《テロス》です。この語は「終わり」という意味の他に、「目標、結論」という意味もあります。新約聖書には「目標」と理解しなければならない箇所も稀にありますが(テモテI一・五、ペトロI一・九)、ほとんどは「終わり」の意味で用いられています。新約聖書での基本的な用法は、「世の終わり」(マルコ一三・七)に代表される終末的な意味の用法です。パウロもこの意味で用いています(コリントI一五・二四)。さらに、パウロは各人の「最期」「終極」という意味で用いる場合が多いようです(コリントII一一・一五、フィリピ三・一九、ローマ六・二一、二二)。

 ローマ書一〇章四節の「キリストは律法の《テロス》です」というパウロの用法は、「終わり」という意味なのか、「目標」という意味なのかが争われています。協会訳(口語訳)は「終わり」と訳し、新共同訳は「目標」と訳しています(英訳聖書では「ゴール」ではなく「エンド」が多いようです)。パウロのこの語の用例とここでの文脈からすると、「終わり」という意味で用いていると理解するほうが自然です。これをあえて「目標」と訳すのは、福音は律法を廃止するのではなく、完成・成就するものであるという面を強調したいという神学的な理由からであろうと思われます。

 キリストの福音において律法がどのような位置を占めるのかについては、パウロはガラテヤ書とローマ書でとくに詳しく議論を展開していますので、ここは結論を出す場所ではありません。それで、キリストは律法を成就するという一面もあることを心にとどめながら、言葉の普通の意味で「キリストは律法の終わりとなられた」というパウロの宣言を、標題として掲げておきます。それは、ダマスコ体験の内容を一言で表現するのにふさわしいものと言えます。パウロにとって、キリストとの出会いは「律法の終わり」となったのです。すなわち、ユダヤ教という「先祖からの伝承」を熱心に守り行うことによって救われようとする道は終わったのです。この時点から、パウロは全然別の救いの道を宣べ伝える者となるのです。


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