パウロによるキリストの福音 II

 第一四章 神の然り

  ― コリントの信徒への手紙 II ―


 神の慰め

「和解の手紙」

 コリントでの「二度目の滞在」で悲しい思いをして、深く傷ついてエフェソに帰ってきたパウロは、どうにかしてコリント集会の支持を回復しようとして「涙の手紙」を書きます(前章)。手紙だけでは十分ではないと感じたパウロは、事態を収拾するために信頼する同労者テトスをコリントに派遣します(テトスが「涙の手紙」を携えてコリントに行ったのかどうかは確定できませんが可能性はあります)。テトスは以前にパウロの意を受けて募金のためにコリントで活動したこともあり(U一二・一八)、コリントの人々と親しく、また信頼もされていたのでしょう。
 
 パウロはテトスからの報告を期待と不安の気持ちで待ちわびていたのでしょう。少しでも早く報告に接することができるように、エフェソを出て北に向かい、トロアスでキリストの福音を伝える活動を続けます。トロアスでのパウロの活動は順調に進みますが、コリントからの報告を携えてくることを期待していたテトスがなかなか到着しないので、不安にかられてパウロはトロアスでの働きを途中で切り上げるようにして対岸のマケドニアに渡ります(U二・一二〜一三)。コリントからマケドニア経由でトロアスに向かうことになっているテトスに、一日でも早く会うためです。このような行動に、パウロがコリント集会の問題にどれほど深く心を痛めていたかがうかがわれます。
 
 マケドニア州に着いたときの状況について、パウロ自身がこう言っています。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には、全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(U七・五)。外にはパウロの宣教活動の成果を覆そうとする勢力との戦い、内にはコリント集会を、ひいては異邦人伝道の成果を失うのではないかという恐れにより、身には安らぎがなく、ことごとに苦しんでいたのです。
 
 ところが、テトスが吉報を携えて来ました。コリント集会は今やパウロへの信頼を回復し、これまでの態度を悔い改めたというのです。パウロがテトスと再会したのはマケドニア州のどこであるのかは確定できませんが、おそらくフィリピとかテサロニケというような、パウロが建てた集会がある都市だったのでしょう。パウロはそれまでの不安と恐れが深かっただけに、このテトスがもたらした報せによって受けた喜びは大きく、慰めもまた深いものでした(U七・六〜七)。こうしてパウロはコリント集会との和解を喜ぶ手紙を書きます。この「和解の手紙」がテトスと再会したマケドニアで書かれたのか、またはエフェソに帰ってから書かれたのか、研究者の説は分かれています。書かれた時は、先の「涙の手紙」からある程度の期間が経っていることが想定されるので、五五年頃と見てよいでしょう。

 この「和解の手紙」は現在の「コリント信徒への手紙U」の一章一節〜二章一三節と七章五節〜一六節、および一三章一一〜一三節の結びの挨拶に保存されていると見られます。現在の「コリント信徒への手紙U」は、この「和解の手紙」を枠として、その中に他の機会に書かれた手紙を組み入れて編集されたものと見られます。二章一三節と七章五節は自然に続いており、それを裂くように「最初の弁明」の手紙が挿入されたのはどういう意図によるのかは説明困難な問題です。



神の慰め

 1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 (U一・一〜二)

 この手紙の挨拶の文で、パウロは「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」者であることを明言して、集会に対する使徒としての自分の立場を改めて明らかにした上で語りかけます。語りかける対象は「コリントにある神の教会《エクレーシア》と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ」となっていますが、実質的にはコリントの集会にあてた手紙です。コリントの集会でアカイア州に住むすべての神の民を代表させていることになります。
 
 手紙ではふつう挨拶の後に神への賛美と感謝が続きますが、この手紙ではとくに「神の慰め」が賛美と感謝の主題となっています。これは、コリント集会のことで心痛が深かっただけに、その解決によって受けた慰めが大きかったからです(U七・五〜七)。パウロは、この時に受けた神からの慰めの中でこの手紙を書いているのです。

 3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。6 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。 (U一・三〜一一)

 パウロにとって、そしてわたしたちにとって、神は「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」であり、「慈愛に満ちた父」ですが、この手紙の場合とくに「慰めを豊かにくださる神」なのです(三節)。ところで、慰めは苦難を前提にしています。苦難がなければ、慰めもありません。慰めとは、苦難の中での喜びであり、不安や恐れの中での確かさと希望です。人からの慰めがもはや及ばなくなった苦難の中で、それでもなお天来の喜びや希望を実感するとき、わたしたちは神の慰めを知るのです。そして、神の慰めを知ることは、神が自分に寄り添っていてくださること、神が自分と共にいてくださることを体験することなのです。
 
 「慰め」はギリシャ語では《パラクレーシス》と言います。この語の動詞形《パラカレオー》は本来「そばにいて呼び求める」という意味の語で、そうする人を指す《パラクレートス》は法廷用語では弁護士を指すことになります。ヨハネ福音書では受難の前夜の「訣別説教」で、イエスが弟子たちに聖霊を「別の《パラクレートス》」として遣わすことを約束しておられます。この《パラクレートス》を、わたしは「同伴者」と訳しています。それは、地上のイエスがいつも弟子たちと一緒にいて助けてくださったように、復活されたイエスが遣わしてくださる聖霊が、「同伴者」としてこれからはずっと一緒にいて助けてくださるようになるからです。このように「神の慰め」は、神が寄り添ってくださっていることの結果であり、それはキリストにあって賜る聖霊によって起こる現実です。
 
 パウロは自分が苦難の中で受けた神の慰めを感謝しているだけでなく、その慰めによって「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる」ことを感謝しています(四節)。このように、苦難の中にある人に寄り添って、自分が苦悩の中で受けた神の慰めをもって慰めることができる者こそ真の宗教者です。キリスト者にそれができるのは、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(五節)。キリスト者、とくにキリストの使徒は、キリストに結ばれているゆえに、キリストのいのちをこの世界で生きる苦しみ、すなわち「キリストの苦しみ」がその身に及んでいます。同時に、その苦しみの中で、「キリストを通して」受ける御霊によって、神が寄り添っていてくださるという慰めを受けています。この「わたしたちに満ちあふれているキリストの慰め」が苦悩の中にいる人に及ぶのです。神の慰めを体験しているキリスト者の存在を通して、苦悩に満ちた世界に神の慰めが波及するのです。この「キリストによる神の慰め」こそ、キリスト者が発散する「キリストの香り」のもっとも大切な一面です。内村鑑三の「キリスト信徒のなぐさめ」も、まさにこのようなキリストの香りのみごとな一例です。
 
 パウロは自分の苦悩とその中で受ける神の慰めを、コリントの人たちの慰めと救いのためのものであるとします。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」(六節)。ここでの「わたしたち」は使徒パウロとその一行であり、「あなたがた」はコリント集会の人たちを指しますが、この「わたしたち」と「あなたがた」の関係は、キリスト者とキリスト者に接する人々との関係にも適用されます。キリスト者とその群である《エクレーシア》は、キリストにあって受ける苦難と慰めによって、世界の慰めと救いの基礎となっているのです。
 
 パウロはコリントの集会について「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません」と言っています。そして、その理由として「なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」言っています。このパウロのコリント集会の将来に対する確信は、どうすればわたしたちが接する人たちの将来に希望を持つことができるかという問題に対して示唆を与えます。もしわたしたちが、その人もわたしたちが受けている神の慰めを受けていることを知ることができれば、その人の将来は滅びではなく救いであることを確信できるでしょう。そのためにも、わたしたちはキリストにあって受ける神の慰めを、生涯を通して周囲に及ぼしていく使命を果たさなければなりません。

 8 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。9 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。10 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。11 あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。 (U一・八〜一一)

 ここでパウロは、「アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」と言って、エフェソで受けた苦難について語ります。アジア州で受けた苦難というのは、州都エフェソでの苦難を指しています。先に見たように、パウロはエフェソに二年も滞在して、反対する勢力と戦いながら活動し、また、エフェソを拠点として近隣の地域に福音を伝えたのでした。そして、そのエフェソで投獄され、死刑をも覚悟しなければならないような状況に追い込まれました。そのような状況から救い出されたのは神の奇跡によるとしか言えないほどの危険な状況であったのです。パウロは「生きる望みさえ失ってしまい」、もはや「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになり」ます。このエフェソでの獄中体験が、パウロの復活信仰をいっそう深く具体的なものにしたのです。パウロはエフェソでの投獄体験に直接言及していませんが、その体験によって復活信仰が深められ、切実なものになったことは、その時の獄中で書かれたと見られるフィリピ書や、その後に書かれたと見られるコリント第二書簡に色濃く反映しています(たとえばフィリピ三・一〇〜一一、二〇〜二一、コリントU四・七〜五・五など)。


 神の然り

 12 わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。13〜14 わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。

 15 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。16 そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。17 このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。19 わたしたちは、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。21 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。22-神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に御霊を与えてくださいました。

 23 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。24 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。 2・1 そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2 もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。3 あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。4 わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。 (U一・一二〜二・四)

神の信実

 次にパウロはコリント訪問の計画を変えたことや予定の遅れについて、その真意を説明します(U一・一二〜二・四)。パウロは、エフェソからまずコリントに行き、コリントからマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びコリントに戻ってきて、コリントからユダヤ(エルサレム)へ送り出してもらう計画を立てました(U一・一五〜一六)。これは、エルサレム教団への献金をマケドニア州とアカイア州で集めた上でエルサレムへ持参する活動のことを言っていると見られます。この計画はすでに第一書簡を書き送ったときの計画、すなわちマケドニア州経由でコリントに行く計画(T一六・五〜七)と違っています。この時の計画は(これまでに見てきたように)パウロの側とコリント集会の側の事情の急変で実行できなくなり、予定になかった「二度目の滞在」を急に余儀なくされたりしました。その後に立ててコリントにも通告した新しい計画(U一・一五〜一六の計画)もなかなか実行できず、コリントの人たちの中には、パウロの訪問予定の変更や遅れについてその動機を疑い、パウロに疑念を持ったり、批判したりする人があったようです。そのような疑念や批判に対して、パウロは真情を吐露して、訪問を遅らせている真意を説明します。
 
 パウロの説明は二つにまとめられます。一つは、神の信実と、その神から受けた純真と誠実に訴えて、「あなたがたに向けたわたしたちの言葉は『然り』と同時に『否』となるものではなく」、今は遅れていても必ず実行されるのだと言明します(U一・一二〜二二)。もう一つは、訪問が遅れているのは、「あなたがたへの思いやりから」だという真意の説明です(U一・二三〜二・四)。「二度目の滞在」のとき、パウロとコリント集会の対立は解けず、パウロもコリントの人たちも悲しい思いをしました。そこで、「そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまいと決心した」パウロは、「涙ながらに手紙を書き」、テトスを派遣するなどして、時間をかけて事態の回復を待ったのです。パウロのコリント訪問がお互いの喜びとなる時期を待ったのであって、他には何の動機もないと、「神を証人に立てて、命にかけて誓います」。
 
 ここでわたしたちにとって重要なことは、パウロが自分の言葉の確かさを保証するのに、「神の信実」を引き合いに出し、「神の信実」の上に自分の行動を置いていることです(U一・一五〜一八)。人間的な考えによる計画であれば、「然り、然り」が同時に「否、否」となる可能性があります。すなわち、そうすると言っておいて、それをしないことがありえます。しかし、「神は信実な方です」から、その「神の純真と誠実によって、(肉によらず)神の恵みの下に行動している」自分たちの言葉は、「然り」であると同時に「否」となることはありえないと言うのです。すると言った以上、必ずするのです。パウロは自分の言葉と行動の確かさを「神の信実」によって根拠づけているのです。その上で、自分の言葉の確かさの根拠になっている「神の信実」について重要な発言(U一・一九〜二二)を続けます。
 
 「信実」とは、人格において言葉と現実が一致している姿です。「信」という字は「人」と「言」が一体となっている姿です。その「言」が「成る」という意味で「誠」と言ってもよいでしょう。「神は信実な《ピストス》方です」というのは、神は信そのもの、誠そのもの、至誠至信の方であるということです。ですから、神は神が語られた言葉そのものであり、その言葉を必ず実行されます。具体的には、神は歴史の中であらかじめ語られた言葉、すなわち約束は必ず実行されるということです。イスラエルの民も詩編の中で、この神の「信実《エムナー》」を神の「慈しみ《ヘセド》」と並んで、自分たちの存在と救いの根拠として賛美してきました。パウロが宣べ伝える「キリストの福音」は、実にこの「神の信実」の告知に他ならないのです。
 
 パウロたちがコリントの人たちに宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではなく、「然り」だけが実現した方、すなわち、その方においてイスラエルの歴史の中で与えられてきた神の約束の言葉がことごとく実現した方なのです。これがいつも福音の第一項目です。この方を信じる者は、この方によって神に「アーメン」(然り)と唱えます。「アーメン」は《エムナー》(信実)と同系の語です。「アーメン」と唱えるのは、「然り、あなたは信実です。あなたはキリストにおいて御約束をことごとく実現されました」と、神に栄光を帰して賛美しているのです。
 
 この信実な神が、わたしたちとあなたがたの双方をキリストの中へ結びつけ、「油を注いでくださった」、すなわち、「わたしたちに証印を押して、保証として御霊をわたしたちの心に与えてくださった」のです。このように信実な神によってキリストにあって結ばれ、共に御霊の証印を受けているわたしたちとあなたがたの間に、どうして「然り」が同時に「否」となるような不信実なことなどありえようか、とパウロは言っているのです。

 二二節冒頭の《カイ》は、「また」(そしてさらに)という意味ではなく、「すなわち」の意味に理解すべきでしょう。「油を注いでくださった」上さらに「保証の御霊を与えてくださった」のではなく、二二節は「油を注ぐ」という象徴的な表現の内容を具体的に説明していると見るべきです。



絶信の信

 パウロはコリント集会に対する自分の言動の信実を保証するために神の信実を引き合いに出しましたが、パウロの言葉は当面の目的を超えて、「神の約束はことごとくキリストにおいて実現した」という、救済史上のキリストにおける神の信実にまで及びました。信仰とは、キリストに現されたこの神の信実に「アーメン、然り」と唱えて、身を委ねることです。
 
 わたしも初めは、信仰をキリストに対する自分の誠意とか忠誠心のように考えていました。しかしある時、自分の弱さに突き当たり、自分の信仰心に絶望して、神が信実であるという事実だけに自分の全存在をかけざるをえなくなりました。このように、自分の信仰に絶して神の信実だけに全身を委ねている姿を、わたしは「絶信の信」と呼んでいます。わたしはこのような「絶信の信」によって、キリストの福音に身を委ねたとき、聖霊の注ぎを受けたのです。まことに、神はこのように自分に絶望したわたしに聖霊を注いで、「お前はわたしのものだ」という証印を押してくださいました。それ以来、わたしは自分の信仰や力ではなく、神の恩恵の御力によって歩む者とされ、神の信実だけを土台として信仰の生涯を生きることになりました。わたしは自分の信仰では生きていけない者です。「絶信の信」は、キリストにおいて無資格の者に無条件で救いを与えてくださる神の「恩恵の支配」の一つの姿です。道徳的・人格的な価値だけでなく、信仰さえも資格ではなくなるのです。「信仰によって義とされる」とか「信仰によって聖霊を受ける」というときの信仰は、わたしにとってはこの「絶信の信」に他なりません。
 
 パウロもこのような信じる者の姿を、「自分に死んでキリストに生きる」と告白していましたが、この「絶信の信」の消息は、後になってパウロの信仰を受け継ぐ人たちの中で次のように定式化されることになります。
 
 「わたしたちは不信実であっても、キリストは信実であり続ける。キリストはご自身を否むことができないからである」(テモテU二・一三 私訳)。

 「絶信の信」については、「マルコ福音書講解 63」において「神の信」という主題で、また、福音講話「神の信」で詳説していますので、ここでは簡単に触れるだけにとどめます。


神の大肯定

 このように、この段落の「然り」と「否」は、言葉を実行するかしないかを指す表現ですが、「この方(キリスト)において然りが実現した」という言葉は、ここで扱われている信実の問題を超えてさらに大きな広がりを示唆します。すなわち、そのままでは神の「否」、神の拒否が突きつけられている世界に、キリストという場だけに神の「然り」、神の大肯定が実現したのです。
 
 パウロは、「人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現しておられます」(ロマ一・一八)と言っています。神なき世界は「神の怒り」の下にあるのです。「神の怒り」とは神の拒否、神の「否」です。神はこのような世界を受け入れることを拒否し、「否」を突きつけておられるのです。わたしたちも、生まれながらのままでは、この世界に属する者として、神の「否」の下にあるのです。そして、神の「否」はわたしたちの一人ひとりの内面で言い難い否定の壁となって、わたしたちの精神を圧迫し、いのちを押し殺しているのです。
 
 わたしは、学生の頃に読んだゲーテの「ファウスト」の中で、ファウストに現れた悪魔メフィストフェレスが、「お前は誰だ」というファウスト問いに答えた言葉が忘れられません。彼はこう答えました、「わたしはすべてを否定する霊である」。その頃のわたしは、すべてのことが無意味に感じられ、自分の存在を肯定することができず、深い不安の中に陥っていましたので、この言葉に妙な共感を覚えました。この内なる否定の壁をどうすれば打ち破り、大肯定の世界に生きることができるのかを模索していました。そのような時にキリストの福音に接したのです。
 
 「キリストにおいて然りが実現した!」。これが福音です。わたしに来た喜びの告知です。神はキリストにおいて世界と和解しておられるのです。キリストにおいて神御自身が成し遂げてくださった贖いのわざによって、人の罪の責任を問うことなく、無条件で受け入れてくださっているのです。キリストにおいて神は「然り」を与えてくださっているのです。そして、その「然り」を聖霊の証印によって、一人ひとりの生きる現実としてくださっているのです。キリストという和解の場において初めて、「神を喜ぶ」という大肯定の生が始まるのです(ロマ五・一〇〜一一)。
 
 よくプラス思考の重要性が説かれます。しかし、自分の存在そのものを肯定できなければ、小手先の「プラス思考」だけでは人生の根本的な矛盾を克服することはできません。人生の様々な苦難や失敗や苦悩という「否」の中で、神の「然り」を実感することが「神の慰め」であり、死という究極の「否」に直面しながら神の「然り」を持つことが復活の希望です。復活者キリストにおいて根元的な肯定が実現したのです。


 和解と赦し


コリント集会の悔い改めと赦し

 計画を遅らせて「まだコリントに行かずにいる」のは、あの「二度目の滞在」で双方が悲しい思いをしたことを繰り返したくないという「思いやり」からだと強調した後(U一・二三〜二・四)、パウロは「悲しみの原因となった人」を赦すようにコリントの人たちに求めます。

 5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。6 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。8 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。9 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。11 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。 (U二・五〜一一)

 コリント集会の中にパウロの指導に疑いや反感を持つ人たちがいたことは、すでに第一書簡にも現れていました。「わたしはアポロに」とか「わたしはケファに」と言う人たちはパウロの指導に服したくない人たちだったのでしょう。また、自分が「霊の人」であると自負した人たちも、自分たちの霊的知識に誇ってパウロの権威に反発していたのでしょう。パウロはそのような分派心や霊知の誇りに対して、第一書簡で多くの言葉を用いて論争し、説き勧めなければなりませんでした。四章と九章には、使徒としてのパウロの振る舞いを批判する者たちに対するパウロの反論が詳しく展開されています。
 
 ところがその後、外から入り込んできた「働き人たち」によって事態は急速に悪化し、パウロが使徒であること自体が問題となってきました。それに対して、パウロは(これまでに見てきたように)自分こそキリストから遣わされた使徒であることを必死に弁証します。パウロを批判する外からの「働き人たち」と対決するために急遽コリントを訪れた「二度目の滞在」のとき、コリント集会は彼らとパウロの間に板挟みになって動揺したのでしょうが、結局パウロはコリント集会の信頼を回復できず、悲痛な思いを抱いてエフェソに戻らなくてはなりませんでした。このとき、コリント集会の有力メンバーの一人が外からの「働き人たち」の側に立って、コリント集会がパウロから離れるように動いたようです。
 
 この事態に対処するために、パウロは「涙ながらに手紙を書き」、テトスを派遣して説得に当たらせます。その手紙とテトスの活動は功を奏し、コリント集会は「悔い改めて」パウロに帰り(U七・八〜一二)、パウロから離れるように集会を扇動した人物を処罰します(U二・六)。この処罰がどのような性質ものであったかは確定できませんが、おそらく集会からの追放(後に「破門」と呼ばれるようになる処罰)だったのでしょう。処罰された人は「悲しみの原因となった人」(U二・五)とか「不義を行った者」(U七・一二)と単数形で指されており、一人であったことが分かります。集会が処罰できるのは集会に所属する構成員だけですから、外から来た「働き人たち」(いつも複数形)はコリント集会から拒否されて退去したのでしょう。この「和解の手紙」には彼らのことはもはや触れられていません。

 「多数者による処罰」(U二・六)とは公式の全員集会での決定による処罰を意味します。初期の集会がエッセネ派集会をモデルにして、会衆の全員集会で処罰も決定していたことについては第四章の中の「世を裁く聖徒」の項を参照。「多数者」が会衆を指すことについては、ヴァンダーカム『死海文書のすべて』青土社・二九〇頁、チャールズワース編『イエスと死海文書』三交社・三七二頁を参照。
 なお、ここでパウロが「涙の手紙」について語っているところから見ると、コリントU一〇〜一三章が「涙の手紙」であるとしても、その全部ではなく、最後の「警告」(U一二・一九〜一三・一〇)の後に、具体的な処置を求める部分があったと考えられます。「涙の手紙」を第二書簡に組み入れた編集者は、その部分は集会での朗読にふさわしくないとして入れなかったと見られます。

 パウロは処罰を受けた「その人」を赦し、再び交わりに受け入れて「力づける」(一章でよく用いられた「慰める」と同じ語)ように求めます(U二・六〜八)。自分に敵対して苦しめた者のために配慮する使徒の心に、「敵を愛しなさい」と言われたイエスの精神が生きています。それだけでなく、「その人」を赦すのは「サタンにつけ込まれないため」でもあると言っているところに、「サタンのやり口は心得ている」使徒の霊的な知恵が見られます(U二・一一)。赦さないならば、「その人」だけでなく、集会にも霊的な損失をもたらす結果になることをパウロは見抜いているのです。



 12 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、13 兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。 (U二・一二〜一三)

 7・5 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には、全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。

 8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。12 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。

 13 こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。14 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。15 テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。16 わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。 (U七・五〜一六)

 続いてパウロは「例の事件」を回顧して、あの悲しい出来事が神の憐れみによって解決し、かえってよい結果をもたらしたことを感謝します。まず、テトスからの報告を受けるまでどれほど不安であり苦悩したかを語り、それだけにマケドニアでテトスに再会してコリント集会の「悔い改め」を知ったときの喜びが大きかったことを率直に伝えます(U二・一二〜一三と七・五〜七)。そして、パウロが多くの涙をもって書き送った「あの手紙」が引き起こしたコリント集会の変化を感謝をもって振り返ります(U七・八〜一二)。
 
 パウロが先に涙をもって書き送った「あの手紙」は、差し迫った状況を反映して激しくて厳しい面があったようです。その中で具体的な処置を求めるとくに厳しい部分は、第二書簡に組み入れられるさいに除かれたと見られますが、その厳しさがコリントの人たちに衝撃を与え「悲しませた」のです。パウロは「あの手紙」が彼らを悲しませたことを知っています。しかし、その悲しみは「神の御心に適った悲しみ」であったので、コリントの集会に「熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらした」のです。ここに用いられている一連の名詞は、「あの手紙」が与えた衝撃によってコリントの集会が熱心に事態を討議し決定にいたった様子を、テトスから伝え聞いたパウロの印象を要約しているのでしょう。おそらく「多数者」の集会で熱い議論が続き、そこに御霊の働きが顕著に見られ、ついに「多数者」の決議によってあの「偽使徒たち」は退けられて退散し、集会の一員でパウロを非難した「あの人物」は処罰されたのでしょう。
 
 こうして「がん」を取り除く手術は成功したのです。この成功によってパウロは深く慰められたのですが、さらに、この事件でコリント集会と折衝したテトスが、その誠意が受け入れられ、コリントの人たちから信頼されるようになったことを喜んでいるさまを見て、パウロもいっそう喜びを深くしたことが述べられます(U七・一三〜一六)。この部分は、募金について語る八章と九章の前置きにもなっています。その募金活動でテトスは中心的な役割を果たすことになるからです。

募金の手紙

 第二書簡の八章と九章は、エルサレム教団への献金の問題を扱っています。この二つの章が一つの手紙なのか別の手紙なのか、また、いつどのような状況で書かれたものかについては、説が分かれています。おそらく「和解の手紙」が書かれた後、マケドニアかエフェソで書かれたのでしょう。この二つの章には、あの「涙の手紙」に見られた動揺や不安や厳しさはもはやなく、安らかな信頼の雰囲気で勧告がなされています。

 「和解の手紙」と「募金の手紙」はいったんエフェソに帰ってから書かれたという見方も有力ですが、マケドニアでテトスと再会してコリント集会の変化を知ったパウロは、募金活動を再開するためにテトスを再派遣し(U八・一六〜二四)、そのままマケドニア州の献金を携えた諸集会の代表者たちとコリントに向かったと見る方が自然だと考えます(U九・一〜五、とくに四節)。そうであれば、「募金の手紙」は出発前にマケドニアで書かれたことになります。

 コリントではエルサレム教団のための募金活動は第一書簡が書かれる前から始まっていました(T一六・一〜四)。それが、コリント集会とパウロの関係悪化により、とくにパウロがその献金を一部私用に流用しているのではないかという疑念により(U一二・一六〜一七)、一時中断したか停滞していたようです。コリント集会との信頼関係が回復した今、パウロは改めてこの募金活動を再開し、コリント集会に対して「始めたからにはやり遂げるように」勧めます。
 
 「募金の手紙T」(八章)では、前半(一〜一五節)で、まずマケドニア州の諸集会の募金への熱意を伝えてコリント集会を励まし(一〜七節)、次いでキリストの恵みへの応答として自発的に献げるように勧めます(八〜一五節)。後半(一六〜二四節)では、献金をとりまとめるために派遣するテトスと他の二人の兄弟を推薦します。二人の中の一人は「福音のことで至る所の教会で評判の高いあの兄弟」で、その人は「わたしたちの同伴者として諸教会から任命された」人物です。この人物はパウロの宣教活動の仲間ではなく、募金活動の公正を期するために(おそらくパウロが依頼して)諸集会から任命されて同伴するようになった人です。他にパウロは「もう一人わたしたちの兄弟」を同伴させます。このような配慮は、パウロが「主の前だけでなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけている」ことの現れです。

 八章でテトスと評判の高い「あの兄弟」を派遣することが、これからの予定として語られているのに、一二章(一八節)で二人の派遣が過去のこととして語られています。この事実は、(第二書簡を九章までと一〇章以下の二つの書簡から成ると見て)九章までの部分が一〇章以降の部分よりも前に書かれたと見る説(ハーパー聖書注解)の根拠になっています。本講解が取ってきた立場からすると、八章ではテトスを含めて三名の派遣が予定されていますが、一二章では二人なので、これは「涙の手紙」以前に行われた別の時期の募金活動を指していると見なければなりません。コリントでのエルサレム教団のための募金活動は、第一書簡が書かれる前から行われていたので、その可能性は十分あります。

 「募金の手紙U」(九章)では、まず(一〜五節)、マケドニア州の人々にアカイア州(コリントがその中心都市)の人たちの献金への熱意を語って誇ったことに言及して、パウロがマケドニア州の人たちと一緒に(マケドニア州の諸集会の献金を携えて)コリントに行ったときに恥をかくことがないように、献金を集めて用意しておくように依頼します。「兄弟たち」(U八・一六〜二四で推薦された三名の兄弟たち)を一足先に派遣するのも、パウロが到着したときには献金の用意ができているようにしてもらいたいからであると、派遣の意図を説明します。マケドニア州の人々にはアカイア州の熱意を伝えて励まし、アカイア州(コリント)の人々にはマケドニア州の熱心を語って励ます(U八・一〜七)など、パウロはこの募金活動の成功のためにはあらゆる手段を用いて努力している様子がうかがわれます。  次いで、「人は蒔くものを刈り取る」という格言を用いて、自発的な心で(喜んで)献げるように励まし(六〜一〇節)、最後に、この惜しみなく施す奉仕の業が、キリストの福音の証となり神の栄光の賛美となるのだと、コリントの人々の信仰心に訴えます(一一〜一五節)。

パウロの異邦人伝道と募金活動

 こうしてコリントの集会との和解を達成し、念願のコリント再訪を果たしたパウロは、コリントで冬を越します。これは五五年から五六年にかけての冬のことであると見られています。この時のコリント滞在についてルカは、「そして、この地方(マケドニア)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシャ(コリント)に来て、そこで三か月を過ごした」(使徒言行録二〇・二〜三)と簡単に触れるだけです。コリントに滞在している間、もちろんパウロは語り祈り集会をして、コリントの人たちの信仰と集会の確立のために最善の努力をしたことでしょう。しかし、この期間にパウロは、後の福音の歴史にとってきわめて重要なことを成し遂げます。すなわち、「ローマの信徒への手紙」を執筆したことです。この手紙の意義と重要性は、その手紙を講解するさいに触れることになりますが、ここではこの手紙の最後(ロマ一五・一四〜三三)に、コリント滞在中のパウロの状況と心境が語られているところがありますので、それに基づいてこの時のパウロの姿を見たいと思います。
 
 ここでパウロはまず、これまで自分が進めてきた異邦人伝道を総括しています(ロマ一五・一四〜二一)。パウロは初めから自分を「すべての異邦人を信仰の従順へと導くために恵みと使徒職を受けた」(ロマ一・五私訳)者と自覚し、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。パウロはここでその働きを「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」と表現しています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています。この表現に、パウロが自分の使命をどのように理解していたかがうかがわれます。
 
 パウロは預言者以来のユダヤ人の終末期待を共有していたように見受けられます。その終末待望はこのように要約できるでしょう。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むようになり、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。パウロはこのようなメシア・キリストの意義を先行する箇所(ロマ一五・八〜一三)で述べて、異邦人がイスラエルの神に帰することを多くの預言者からの引用で確証し、異邦人への使徒また祭司としての自分の務めの意義を語る準備をしています。
 
 パウロはまさに神の計画の後半部、すなわち異邦人がイスラエルの神に帰るための働きを委ねられたのです。いわゆる「エルサレムの使徒会議」で、割礼の者たち(ユダヤ人)への福音はペトロたちエルサレムの使徒に委ねられ、無割礼の者たち(異邦人)への福音はパウロたちに委ねられました(ガラテヤ二・九)。ところが、神の計画の前半部、「まずユダヤ人に」救い主であるイエス・キリストが宣べ伝えられましたが、ユダヤ人全体がイエスをキリストとして受け入れることは実現しませんでした。イエスを信じるユダヤ人集団はユダヤ人社会で孤立していきます。一方、パウロの異邦人伝道は豊かに実を結び、多くの異邦人がイエス・キリストを信じてイスラエルの神に帰すようになります。パウロはこの矛盾と格闘しなければなりませんでした(ロマ九〜一一章)。パウロは自分の異邦人伝道の成功がユダヤ人を刺激して、不信仰によって切り離されたユダヤ人が「再び接がれる」ことを切に祈っています。
 
 次にパウロはこれからの計画について語っています(ロマ一五・二二〜三三)。今や「エルサレムからイリリコン州までキリストの福音を満たしたので」、もう「この地方」、すなわちローマ帝国(それは当時の人たちにとって全世界でした)の東部には働く場所がないと感じたパウロは、いよいよ帝国の西端イスパニア(今のスペイン)にまで福音を携えていこうと計画します。その途中で、何年も前から願っていたローマ訪問を果たし、ローマの兄弟たちと交わりを深め、ローマ集会からイスパニア伝道に「送り出してもらいたい」、すなわちイスパニア伝道という新しい大プロジェクトのスポンサーになってほしいと頼んでいるのです。パウロはキリストの来臨《パルーシア》が近いことを、聖霊によって迫られています。それまでに全世界に福音を携えて行かなければならないのです。今コリントにあって、パウロの心ははるかな西の果てに向いています。
 
 しかし、西に向かう前にパウロにはどうしてももう一度東に向かわなければならない任務があるのです。すなわち、苦心して集めた「聖徒たちへの献金」を届けるために、エルサレムへ行かなければならないのです。「マケドニア州とアカイア州の諸集会はエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意し」、集めた献金を携えてエルサレムに届けようとして、その代表者たちがコリントに集合しているのです。春になって船便が再会するのまって、パウロはその代表者たちと一緒にエルサレムに向かおうとしています。パウロは、神殿に初穂を捧げる祭司のように、エルサレム教団に異邦人集会の初穂を引き合わせようとしているのです。

 ここにコリント第一書簡(一六・一)で言及されていた「ガラテヤの諸教会」の名があげられていないことが注意を引きます。ガラテヤの諸集会は、パウロの懸命の努力にもかかわらず、「ユダヤ主義者」の働きかけが奏功してパウロから離れたのか、あるいは何らかのパウロ批判によって募金活動から脱落した可能性があります。しかし、ここに言及されていないからといって、そう断定することはできません。アジア州の諸集会(エフェソやコロサイなど)も言及されていませんが、パウロ一行がエフェソで船を乗り換えるときに合流する予定であったと考えられます。そのように、ガラテヤの諸集会も途中のどこかで合流する予定であった可能性は残ります。

 しかし、パウロの心は大きな不安がありました。それは、この献金がエルサレム教団に受け入れられず拒否されるのではないかという不安です。パウロは宛先のローマ集会に対して、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・・・・わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」と頼んでいます。パウロは律法を汚す者としてユダヤ人から何度もいのちを脅かされていました。いま律法主義者の牙城であるエルサレムに行こうとしているパウロは、そこでいのちに関わる迫害を覚悟しなければなりません。また、苦心して集めた献金がエルサレム教団に拒否される可能性もあります。もし拒否されたら、パウロが命がけで追求してきたユダヤ人と異邦人の交わりの中に成立するキリストの民の構想は致命的な打撃を受けます。このような不安を抱えながらも、パウロはどうしてもエルサレムに行って献金を届けなければならないのです。こうして、春がきて船便が再開されるのを待って、パウロは献金を携えたマケドニアとアカイアの集会代表たちと一緒にエルサレムに向って旅立ちます。

 エルサレム教団への献金活動は、パウロの異邦人伝道の中で重要な意義を担っています。その意義やパウロの不安の理由などは別の機会に譲り、ここではごく簡単に触れるにとどめます。また、ほとんど素通りした第一書簡の四章と九章、第二書簡の八章と九章、また、ごく簡単にしか触れなかった第二書簡の多くの段落にも、霊的に重要な示唆を与える章句が多くありますが、それらは個々の主題に応じて別の機会に取り上げることにして、今回はコリント書簡に現れた福音の主要な真理を追究することに限定し、これでコリント書簡の講解を終わります。


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