パウロによるキリストの福音 II

 第七章 死者の復活

  ― コリントの信徒への手紙 I ―


はじめに

 パウロは、コリントから来た使者から聞いたり、他から伝え聞いた集会の状況に心を痛め、集会を正しい信仰の歩みに導くために、父親が切々と子を諭すようにこの手紙を書いてきました。そして、最後にもっとも重大な問題、福音の存立そのものに関わる問題を取り上げます。それが一五章で論じている「死者の復活」の問題です。
 
 この問題は、当時のコリント集会の人々だけでなく、現代のわたしたちにとっても重要な問題であるので、すでに『天旅』九三年一号から九四年二号までの八号にわたって詳しく講解し、それを『死者の復活』(一九九六年)という一書にまとめました。この著作は「著作集」にも入れてありますが、コリント書簡の講解としては一五章を省略できませんので、先の著作を要約して再録し、改めてわたしたちの復活信仰の内容と現代における意義とを再確認しておきたいと思います。

何が問題になっているのか

 パウロが本章(一五章)を書いたのは、コリント集会の一部の者が「死者の復活などない」と言っていることを伝え聞いたからです(一二節)。彼らは、「死者の復活」を否定することはキリストの福音を否定することになることを理解していないのです。彼らは、「死者の復活」を否定しても、自分たちは立派にキリストに属する民として生きていけると考えているのです。そこでパウロは本章で力を尽くして、「死者の復活」の信仰がキリスト信仰の本質的な内容でであること、すなわち、それを否定すれば福音が福音でなくなり、キリスト信仰がキリスト信仰でなくなるような内容であることを説き示すのです。
 
 ここでまず注意すべきことは、彼らが「死者の復活」を否定しことは、必ずしもイエスが復活された事実を否定したことを意味していないことです。「死者の復活」の「死者」は複数形です。彼らが否定したのは、キリストを信じて眠りについた「死者たち」が終わりの日に復活するという信仰を否定したのです。彼らがどういう理由または動機で「死者の復活」を否定したのかは特定できません。おそらく何らかの形で、ギリシャの霊魂と身体を対立して考える二元論的な思想の影響を受けていたのでしょう。ギリシャの宗教思想では、身体は霊魂の牢獄であって、救済とは霊魂が肉体という暗黒の牢獄から解放されて、光明の世界に昇ることだと理解されていました。したがって、救済された霊魂が再び身体を持つというようなことは考えられなかったのでしょう。ずっと後のことになりますが、「復活はすでに起こった」と主張した人たちがいたことが報告されています(テモテU二・一八)。おそらく彼らは、信仰によって自分の内面に体験した霊的変革を「死者の復活」と解釈したのでしょう。
 
 ひるがえって現代のキリスト教会はどうでしょうか。教会は礼拝ごとに「使徒信条」を唱え、「我は身体のよみがえりを信ず」と告白しています。しかし、現代のキリスト者は自分が復活することを真剣に人生の土台とし目標として生きているでしょうか。実際の生活では「死者の復活」などは夢物語としているのではないでしょうか。そのような人たちに「死者の復活」はキリスト信仰の本質的な内容であることを示すために、パウロはまず福音がキリストの復活を告知するものであり、キリストの復活はキリスト信仰の土台であることを確認した上で(一〜一一節)、キリストの復活と死者の復活が不可分であることを説き示すのです(一二節以下)。


 

 一 キリストの復活 (1〜11節)


 1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

受けて伝えた福音

 パウロはまず「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」(一節)と言って、パウロが宣べ伝え、コリントの人々が受け入れ、彼らがそれによって生きてきた福音を再確認します。そして、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、その言葉をしっかり保持していれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」(二節私訳)と付け加えます。

 パウロはコリントの人々に福音を宣べ伝えるさいに、すぐ後に引用する福音の言葉《ケリュグマ》が意味するところを詳しく説明したはずです。たとえばキリストの十字架の死が何を意味するのかを語ったはずです。キリストの復活については本章で語っているようなことを、その時に十分説明したはずです。「その言葉をしっかり保持していれば」というのは、使徒としてのパウロが聖霊の知恵と力をもって語った内容をそのまま受け入れ、身をもって生きることです。そうすれば、この福音が宣べ伝えるキリストが現実の力となってわたしたちを救いに至らせます。そうしないで、使徒が語った内容を無視して自分の体験や考えで福音を勝手に解釈しているようでは、(一二〜一六節で語られているように)信仰自体が空しいものになってしまうのです。

 パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と前置きして、福音(告知)の言葉《ケリュグマ》を引用します。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(三〜五節)

 パウロが宣べ伝えたこの告知は、けっしてパウロ個人のものではなく、ペトロをはじめ使徒たちが共通に宣べ伝えていた福音であることが、前置きで強調されています。パウロはダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇し、その復活者キリストから福音を宣べ伝える使命を与えられたので、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ一・一)と言うことができました。しかし、そのキリストを宣べ伝える言葉《ケリュグマ》は最初期の教団から「受けたもの」であったのです。パウロがここに引用している福音の言葉は、用語や内容の特徴からユダヤ人信徒の群で成立したものと考えられ、おそらくペトロたちが指導するエルサレム原始教団でごく初期に成立していたものを、パウロが回心三年目の初めてのエルサレム訪問時に受けたものではないかと推定されます。パウロは、この最初期の教団に共通のキリスト告白《ケリュグマ》を自分の福音宣教の基礎として、コリントの人々にもこれを「最も大切なこと」として伝えたのです。

前提としての「福音」

 この「福音」の言葉は、キリストの出来事を「死んだ」、「葬られた」、「復活した」、「現れた」という四つの動詞で描いています。「葬られた」ことは「死んだ」ことの確認ですし、「現れた」のは「復活した」ことの結果ですから、キリストの出来事は「わたしたちの罪のために死んだこと」と「三日目に復活したこと」との二つに帰します。そして、その二つの出来事のそれぞれに「聖書に書いてあるとおり」という句がついて、キリストの十字架の死と復活の出来事が(旧約)聖書の成就であることが強調されています。

 この「福音」は、キリストの死とわたしたちとの関わりについて、「キリストはわたしたちの罪のために死んだ」と明確に語っています。ところが、キリストの復活については、「三日目に復活した」という事実を語るだけで、わたしたちとの関わりについては何も語っていません。それで、「キリストは復活した」という福音を告白しながら、キリストの復活はわたしたちと無関係であるとして、「死者の復活」を否定する余地が残ることになります。そこでパウロは、キリストの復活とわたしたちの復活が一体であることを示し、キリストの復活の事実によって「死者の復活」の信仰を根拠づけるために、本章を書くことになるのです。
 
 パウロはまず、「死者の復活」信仰の土台となるキリスト復活の出来事を確認するために、改めてキリスト復活の証人を列挙します。ペトロ、十二人、五百人以上もの兄弟たち、ヤコブ、すべての使徒と列挙し、最後に自分自身をキリスト復活の証人の列に加えます。ここにあげられた証人たちは、パウロ本人を含め「大部分は今なお生き残って」いるのです。パウロ書簡は、復活されたキリストの現れを体験した証人たちが現に生きている時代に書かれているのです。地上の人間が復活者キリストに最初に遭遇した最前線からの緊急の報告なのです。
 
 「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」(一一節)
 
 パウロも他の使徒たちも、キリストから遣わされた使徒はみな、このように宣べ伝え、コリントの人たちも、今「死者の復活などない」と言っている人たちを含め、パウロからこの福音を伝えられて、そのとおり信じたのでした。キリストの復活はすべてキリストを信じる者の共通の信仰内容であり、土台であるはずです。パウロは、この共通の土台に立って議論を進めます。

 二 死者の復活がなければ(12〜19節)

 12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

救済史の論理

 このように「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(一二節)と、パウロは驚きをもって問いかけます。先に見ましたように、「死者たちの復活などない」と言っていたコリント集会の一部の人たちは、「キリストの復活などない」と言っていたのではありません。もしそう言っていたとパウロが聞いたのであれば、これは福音《ケリュグマ》そのものの否定であって、パウロはそのような者がキリストの集会に所属することを拒否したにちがいありません。

 キリストの復活を信じながら、信じる者がいったん死んだ後、終わりの日に再び身体を与えられて復活するという「死者の復活」を否定したのは、どういう動機からであるのか、また、彼らのキリスト信仰の内容はどのようなものであったのか、確定することは困難です。コリントの集会は、キリストの復活という共通の土台の上に立ちながら、「死者の復活」を信じる人たちとそれを否定する人たちの間で対立し、動揺していたのではないかと思われます。「死者の復活」を否定する人たちも、それがキリストの復活を否定し、福音そのものを否定することになるとは考えず、「死者の復活」がなくてもキリスト信仰は立派に成立すると主張していたのです。しかしパウロにとっては、「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定し、ひいては福音そのものを否定することになるのです。「死者の復活」の否定がコリント集会に広がれば、コリント集会はキリストの福音から脱落してしまうのです。この問題は、パウロにとって自分の福音宣教の働きが立つか倒れるかの瀬戸際なのです。
 
 このようにキリストの復活を信じながら「死者の復活」を否定する人たちに対して、パウロは両者が一つであることを示そうとします。パウロはこう断言します。

 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(一三節と一六節)

 この一文はふつうこう理解されています。すなわち、人間は一度死ねば復活するということはありえないのであるから、死んだキリストが復活することもありえない、というのです。人類の体験から広く認められている一般的な法則から、個々の具体的な出来事を判断する論理です。現代の福音拒否は、この論理に基づいて、キリストの復活を否定することで成り立っています。

 しかし、パウロがここで用いている論理はこのようなものではありません。もしこのような論理を用いているのであれば、いくらキリストの復活を確認しても(一〜一一節)、それを死者の復活の根拠とすることはできないはずです。キリストは神の子として特別扱いで復活したのであって、キリストが復活したからといって一般の人間が復活するという保証とか根拠にはなりません。パウロがここで用いている論理は、現代人には分かりにくいので、説明が必要だと思われます。
 
 パウロが「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」というとき、それは「神が死者の復活という形で人間を救済されるのでないならば、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずだ」という意味です。このように、ここでパウロが用いている論理は、科学的な一般法則によって個々の場合を判断する論理ではなく、「救済史の論理」なのです。
 
 「救済史」というのは聖書(旧約聖書)の基本的な枠組みです。聖書によれば、神はまず約束の言葉を与えそれを成就するという形で、恩恵による救済の働きを歴史の中に進めておられます。天地創造から新天新地の完成に至るまで、このような約束と成就という形で進められる神の一連の働きが「救済史」と呼ばれるのです。福音は「聖書に書いてあるとおり」という表現で、キリストの十字架・復活の出来事が聖書の成就である、すなわち、救済史の証言としての旧約聖書全体を成就する出来事であると宣言しているのです。
 
 ところで、当時のユダヤ教では、神の救済は「死者の復活」をもって完成されると理解されていました。神は最終的に御自身に属する民を死者の中から復活させて、救済の働きを完成されるという理解です。モーセ五書だけを権威とするサドカイ派は、モーセ五書に書いてないという理由で「死者の復活」を否定していました。しかし、当時主流のファリサイ派や厳格派のエッセネ派は「死者の復活」を信じていおり、敬虔な民衆は「終わりの日の復活の時に復活すること」を信じていました(ヨハネ一一・二四)。イエスご自身もこの「死者の復活」の信仰を前提にして、それがモーセの書に書かれている旧約聖書自身の信仰であると語っておられます(マルコ一二・一八〜二七)。とくにパウロは熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒として、「死者の復活」が旧約聖書の信仰内容であることを当然のこととしているわけです。
 
 それで、福音がキリストの復活を聖書の成就であるとするとき、それは聖書が終末に実現するとしていた「死者の復活」がイエスの身に起こったと宣言しているのです(使徒四・二)。キリストの復活は、終末的事態である「死者の復活」が歴史の中で起こった最初の出来事であるのです。キリストの復活は「死者の復活」と切り離すことができない出来事であり、両者は一体です。一方を否定することは他方を否定することになるのです。また、キリストの復活は、終わりの日の「死者の復活」を保証する出来事となるのです。パウロはすぐ後でこの意義を「初穂」という比喩で語ることになります。
 
 このように「死者の復活」がキリストの復活と一体であるならば、「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定することになります。キリストの復活を否定することは福音全体を否定することです。復活しなかったはずのキリストを復活したと宣べ伝える使徒は偽証人となります。キリストが復活していないのであれば、キリスト信仰は過去の人物の遺訓に従うだけのものになり、信仰とは復活したキリストとの交わりに生きるいのちの現実であるという福音的信仰の立場から見れば、まったく空虚なものになってしまいます。そのような空疎な信仰は、わたしたちを現実の罪の支配から解放することはできず、また、現実に死に打ち勝つ希望の力にもなりません。キリストを信じる者は、空しい希望に欺かれて、この世で苦しむだけの惨めな者になります。

旧約聖書をめぐる対立

 このようにパウロが聖書(旧約聖書)の信仰を前提にして用いている「救済史の論理」が、「死者の復活」を否定しているコリントの人たちをどれだけ説得したか、その結果は分かりません。だいたい「死者の復活」を否定した人々がどのようなタイプの人たちであったのか、様々な見方があり、議論は決着していません。基本的には、先に見たように、強大なギリシャ宗教的環境にあり異邦人信徒の多いコリント集会で、霊と身体の二元論的なギリシャの宗教思想に強く影響されて、救済を霊魂が卑しい身体から解放されることと理解していた人たちがいたことは推察できます。それで「身体の復活」を説くユダヤ教に対する体質的な嫌悪から、「死者の復活」を否定したのでしょう。彼らが、霊知《グノーシス》による霊魂の物質世界からの救済を説くグノーシス主義者であるという説はただちに賛成することはできませんが(グノーシス主義が成立するのはもっと後の時代のことになります)、グノーシス主義に向かう傾向とかその萌芽はコリント集会にあったのではないかと推察されます。
 
 「死者の復活」を否定する人たちをパウロが「救済史の論理」をもって説得しようとした事実は、この時すでにヘレニズム世界に成立した集会において旧約聖書に対する態度に対立があったことをうかがわせます。初期の指導者はほとんどユダヤ人でしたから、「律法と無関係の義」を説いたパウロ自身を含め、彼らは当然のこととして旧約聖書を神の啓示の書として受け入れて、議論の前提にしています。それに対して、(おもに異邦人ですがユダヤ人も含め)ギリシャ宗教思想の影響を強く受けている人たちは旧約聖書に対して批判的であり、彼らがグノーシス主義に進むにしたがって、ますます旧約聖書への否定を強くしていきます。旧約聖書の創造神は物質世界を創造した下位の神《デーミウールゴス》に過ぎず、イエスが啓示した父なる霊神だけが至高の神とされます。創世記の創造物語における蛇は、人間を物質世界の牢獄から解放するために知恵を与える救済者とされるなど、解釈を逆転することで旧約聖書を根本から否定するようになります。二世紀半ばには、当時のキリスト教世界を二分する勢力になっていたマルキオン派は、旧約聖書を拒否して、ルカ福音書とパウロ十書簡だけを正典として信仰の拠り所とします(マルキオンがグノーシス主義に分類されるかどうかは議論がありますが、旧約聖書の否定では典型的なグノーシス主義陣営に属します)。
 
 グノーシス主義者たちは、使徒たちをユダヤ教の残滓を受け継ぐ者として軽視し、自分たちの知恵《グノーシス》の方が勝るとしましたが、使徒たちの権威の継承を自認する派は旧約聖書を受け入れ、グノーシス主義に対抗しました。古代教会における二つの大きな流れは、旧約聖書を否定する派と受け入れる派との対立という形で戦ったと見ることもできます。そして、最後には旧約聖書受容派が否定派に打ち勝って正統派となり、(ローマ帝国の権力と結びついて)否定派を異端として撲滅するにいたります。旧約聖書受容派の代表であるエイレナイオスの神学が典型的な「救済史の神学」になるのは当然です。もし旧約聖書否定派が勝利していたら、キリスト教は現在のキリスト教とはまったく別の宗教になっていたでしょう。キリスト教が旧約聖書を正典として受け入れていることは、自明のことではなく、激しい戦いの結果であるのです。その戦いの最初の戦場が、「死者の復活」をめぐるパウロと反対者の論争であるのです。使徒信条の「我は身体のよみがえりを信ず」という条項は、旧約聖書受容派の勝利のモニュメントであるのです(この信条の問題点については別にとりあげます)。

 三 初穂キリスト(20〜22節)

 20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

初穂

 このように「死者の復活」を否定すればキリストの復活を否定することになり、福音を偽りとし信仰を空しいものにすることになるとした上で、同じ論理で、キリストが復活された以上、それは「死者の復活」を保証するのだと論を進めます。

 「しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として死者の中から復活されたのです」(二〇節私訳)

 「しかし今や」という句は、パウロにおいては、救済史の時代《アイオーン》の転換を告げる重要な句です。キリストの十字架・復活の出来事は、新しい時代、終わりの時の到来を告げる出来事なのです。今までの《アイオーン》(時代、世)とはまったく異なる質の新しい時代の到来なのです。ロマ書三章二一節でも、そのような重さをこめてこの句が用いられています。そこでは、律法が支配していた時代が終わり、律法とは関係なく信仰によって義が与えられる時代が来たことが宣言されています。ここではキリストの復活が《アイオーン》の転換点であることが宣言されているのです。
 
 しかし今や、キリストは実際に復活されたのです。人が何と言おうと、キリストは事実復活してペテロに現れ、十二人に現れ、多くの兄弟たちに現れ、パウロ自身にも現れたのです。これは命をかけて証言できる確かな事実です。今や、このキリストの復活によって死者が復活する終末のアイオーンが到来したのです。キリストの復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではありません。それは死者(複数)が復活することを代表する出来事なのです。この関係をパウロは「初穂」という比喩を用いて表現するのです。
 
 この「初穂」という語はもともと祭儀的性格の強い語です。日本の神事でも田畑の収穫の初穂を捧げて神々を祭ります。イスラエルのヤハウェ礼拝においても家畜の初子や畑の初物が捧げられました。初物を神に捧げるのは、収穫の全体を神に捧げて、神に属する聖なるものにしているのです。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそう」なのです(ロマ一一・一六)。捧げられた初物は全体を代表し、その中に全体を含んでいるのです。
 
 キリストは初穂として復活されたのです。すなわち、キリストの復活はキリストの身にだけ起こった孤立した出来事ではありません。創造者なる神が終りの日に成し遂げると語ってこられた死者たちの復活がいまキリストの身において起こったのです。初穂を神に捧げることは全収穫を捧げることであるように、キリストの復活は終末の死者の復活の開始であり、その中に死者の復活全体が含まれているのです。
 
 この「初穂」という一語によって、キリストの復活とわたしたちとの関係が見事に言い表されています。この章の初めで、パウロは自分が受けて伝えた「福音」を提示していました(三節 b〜五節)。そこではキリストの十字架については、「わたしたちの罪のために」という句でわたしたちとの関係が明示されていました。ところが、キリストの復活についてはその事実が告知されているだけで、わたしたちとの関わりが明言されていませんでした。いまここで、それが明言されます。キリストは「わたしたちの初穂として」復活されたのです。パウロはこのこと、すなわちキリストの復活とわたしたちとの関わりを明らかにするために、この章(第十五章)全体を書いているのです。この章全体でパウロが主張していることを含めて福音を提示するならば、「福音」はこのようになります。
 
 「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの初穂として三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

 キリストの十字架上の死はわたしたちの罪のためであること、キリストの復活はわたしたちの復活の初穂であること、そして、このキリストの十字架と復活の出来事は、神が聖書によって約束してこられた終末の救済の成就であること、これが「福音」の核心なのです。

アダムとキリスト

 「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」(二一節私訳)

 パウロはここで、キリストの復活とわたしたちとの関係、すなわち「キリストはわたしたちの初穂として復活された」という関係を根拠づけます(二一節の初めに先行する文を根拠づける《ガル》という語があります)。しかし、ここでパウロがその根拠づけに用いる論理は現代人には意表外のものです。この節はふつう「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と訳されます。しかし、ここでは「一人の」という句はついていません。ここで用いられている「人」という語《アントローポス》は単数形で、冠詞もついていません。
 
 ここでパウロがギリシャ語で《アントローポス》(人)と言うとき、その背後にヘブライ語聖書の《アーダーム》があることは明らかです。《アーダーム》は本来個人名ではなく、「人」とか「人間」という意味の名詞であって、創世記冒頭の三章ではこの語を用いて人間の創造と堕落が物語られているわけです。創世記冒頭のアダムの物語は人間の現実存在の姿を語るものです。その物語においてアダムは人間(人類)を代表する者として行動しているのです。このような聖書理解を背景にして見るとき、この節の《アントロポース》というギリシャ語を《アーダーム》(以下慣例に従って「アダム」と表記します)というヘブライ語に戻して訳すと、パウロがここで言おうとしていることが少しはっきりしてきます。
 
 パウロはこう言っているのです。「死がアダムによって来たのだから、死者の復活もアダムによって来るのです」。最初のアダムは創世記のアダムを指しており、後のアダムはキリストを指していることは、すぐに続く次節からも明かです。そして、四五節ではキリストのことをはっきりと「最後のアダム」と呼んでいます。パウロはキリストを「アダム」と見ているわけです。ここでパウロが「アダム」というとき、それは人類を代表する立場の存在という意味です。創世記のアダムと福音が告知するキリストは、その意味で共に「アダム」なのです。創世記のアダムは現在の人間、この古いアイオーンの人間を代表し、キリストは終末時の人間、来るべき新しいアイオーンの人間を代表するのです。
 
 パウロが説く「死者の復活」信仰は救済史の論理に基づいています。そして、福音が前提とする救済史は、「聖書に書いてあるとおり」という句が示しているように、キリストの出来事が聖書(旧約聖書)の成就であるという基本的な枠組みを持っています。その中で、キリストは新しいモーセであるとか、アブラハム契約の成就者である(パウロはとくにこの枠組みを重視しています)とか、様々な枠組みが用いられていますが、パウロはキリストをアダムと対比することで、キリストの出来事を人類史的な意義にまで拡げています。キリストを終わりのアダムとするパウロのアダム・キリスト論は、救済史の最大の枠組みを形成します。

 「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです」(二二節私訳)

 前節では死も死者の復活も共に「アダム(人)」から来るという共通面が強調されていましたが、ここでは初めのアダムによってもたらされたものと、終りのアダムによってもたらされたものとの違いが強調されます。それはまったく正反対のものなのです。それで、ここでは二人のアダム(人)はそれぞれ固有の名で呼ばれています。すなわち、初めのアダムは創世記で用いられている人物名の「アダム」、終りのアダムは福音が用いている「キリスト」という名で呼ばれます(この節のアダムとキリストには定冠詞がついています)。
 
 前節で「人」の前に用いられていた前置詞は《ディア》(によって、を通して)でしたが、この節のアダムとキリストの前に用いられている前置詞は《エン》です。これは英語の「イン」に相当するギリシャ語の前置詞であって、パウロが「エン・クリストゥ」という形で、わたしたちとキリストの結び付きを表すのに繰り返し用いています。新共同訳がこれを「キリストに結ばれて」と訳しているように、この「エン」は人がキリストと結ばれていること、言い換えればキリストに属する者であることを表現しています。ここではそれを「キリストにあって」と訳しております。ここでこの「エン」という語を用いて、人間の二つのあり方が表現されています。一つは「アダムにあって」、すなわちアダムに属する人間のあり方と、もう一つは「キリストにあって」、すなわちキリストに属する人間のあり方です。
 
 現在の人間は、生まれながらの自然のままではみなアダムに属しています。言い換えれば、わたしたち自然のままの人間のあり方をアダムが代表しているのです。アダムは聖書でわたしたち現実の人間すべてを代表する者として描かれています。わたしたち現実の人間が例外なく死ぬことが、アダムの物語として語られています。すなわち、アダムが神に背いた結果死ぬことになったと語られていますが、それはわたしたち人間の現実のことなのです。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のです。
 
 それと同じように、「キリストにあってすべての人が生かされる」のです。わたしたちが信仰によってキリストと結びつき、キリストに属する者とされるならば、死者の中から復活されたキリストの生命によって生かされることになり、キリストが復活されたように復活にいたるのです。

 ここで受動態で用いられている「生かす」という動詞《ゾーオポイエイン》は、「命を与える」とも訳されますが、人を主語とする自動詞の「生きる」《ゼイン》と違って、神を主語とする他動詞であって、神(またはその霊)が人を死の状態から生かすという終末的な意味で用いられる動詞であり、「復活させる」《エゲイレイン》と同じ意味です。神は「死者を生かす神」とも呼ばれ(ロマ四・一七)、「死者を復活させる神」とも呼ばれます(コリントU一・九)。この「生かす」と「復活させる」という二つの動詞は同意語として、組み合わせて用いられることもあります(ロマ八・一一、ヨハネ五・二一)。いま扱っているコリント書簡の箇所でも、二一節で「人によって死者の復活が来る」と言われたのと同じことが、この二二節では「キリストにあって生かされる」と表現されているのです。このように《ゾーオポイエイン》(生かす、命を与える)という動詞が終末的な復活を意味することは、後でパウロがキリストを「命を与える霊」(四五節)と呼んでいることの意味を理解するうえで重要になります。

 このように、「生かされる」は死者の復活を指しているのですから、それは将来の出来事です。当然、この動詞は未来形で使われています。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のはすでに起こっている現実ですから過去形で語られていますが、「キリストにあってすべての人が生かされることになる」のは未来形で語られるのです。

 四 復活の順序 (23〜28節)

 23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

パルーシアにおける死者の復活


 ただ、各人はそれぞれの順序に従って復活するのです。初穂であるキリストが復活し、次いでキリストの来臨のときキリストに属する者たちが復活します。(二三節私訳)

 ここで「順序」と訳した原語《タグマ》は、順序づけられたユニットないしグループを指す語です(それで軍事用語としては「軍団」という意味になります)。死者の復活においても、各人はそれぞれ、神が時の中に順序づけられたグループに従って復活することになる、とパウロは言っているのです。このような言明の背後には、時の流れの中でわれわれが体験する救済はすべて、究極の目的に向かって神が定められた段階ないし順序に従って起こるのだという旧約の救済史的信仰があります。
 
 死者の復活における第一の段階は、初穂であるキリストご自身の復活です。次に来る第二の段階は、キリストの来臨《パルーシア》にさいしてキリストに属する者たちの復活です。ここで、キリストの復活について、第一というような数字ではなく、「初穂」という救済史的意義の強い用語で順序が語られていることが注目されます。キリストの復活はたんに順序が先だというだけでなく、後に来るグループをあらかじめ代表し保証する復活であることが、ここでも明らかにされているのです。
 
 今は二つの復活の間の時であって、現在地上に生きる信徒は、すでに初穂として復活されたキリストに結ばれることによって、将来の自分の復活を待ち望む立場にあるのです。「死者の復活」というのは、あくまで将来のことであることを改めて強調し、復活はもうすんだと主張して「死者の復活」を否定する人たちを論駁しているのです。
 
 ここで「将来」というのは、まさに来たらんとするキリストの事態です。すなわち、キリストの到来、来臨《パルーシア》のことです。キリストが来られるとき、キリストに属する者たちは死の眠りから呼び覚まされて、もはや朽ちることのない体を着せられて栄光の中に現れます。これが「死者の復活」です。逆に、そのような死者の復活が起こることが、キリストの来臨《パルーシア》なのです。パウロにおいては、キリストの来臨《パルーシア》と死者の復活は同一の出来事の二つの呼び方なのです。パウロが語る将来はほとんど「死者の復活」だけと言えます。パウロはもはや黙示録的出来事の経過について語ることはほとんどありません。パウロの終末待望は「死者の復活」に集中していると言えます。

最終的な完成

 それから終局となって、その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます。(二四節私訳)

 この節冒頭の「それから」は、二三節の「次いで」に続いて、復活する者たちの第三の「順序《タグマ》」について語っているのではなく、キリストの来臨のときの死者の復活にさいして到来する最終的な完成の局面を語っているのです。
 
 パウロがここで用いている《テロス》という語は本来「終わり、結末、完成」というような意味の語で、ここでの文脈からすれば、神の救済史の「最終的な完成の局面」と理解すべきです。その意味を込めて、ここでは「終局」と訳します。
 
 では、キリストの来臨《パルーシア》時の死者の復活と「最終的な完成の局面」《テロス》との時間的関係はどうなるのでしょうか。この問に対して、教会はさまざまな解答を提出してきました。たとえば、すでに新約聖書の中でヨハネ黙示録(二〇・一〜六)には、キリストが復活した聖徒たちと共に一千年の間地上を支配し、その後に最後の審判と完成が来るという「千年王国」が説かれています。そして、この「千年王国」について、二千年の教会史の中でじつにさまざまな説が提出され、論争が行われてきました。
 
 しかし、このように《パルーシア》と《テロス》の時間的関係を問う問い自体が意味がないのです。キリストの来臨《パルーシア》とその内容である死者の復活という事柄自体、すでに時の流れを超えた次元の出来事です。そして当然、「救済史の最終的完成の局面」《テロス》も時を超えています。このように時の枠組みを超えた事柄について時間的前後関係を問うこと自体、意味がありません。時間の枠の中にいるわれわれにとって、《パルーシア》も《テロス》も共に時の彼方に待ち望む「終末」的事態であって、その前後関係や、その間の出来事を論じることはできません。ですから、本節の「それから」は、時間の前後関係を示すのではなく、論理的関係を示す語と理解すべきです。すなわち、キリストの来臨時の死者の復活があって初めて、救済史の最終的完成がありうる、という関係です。
 
 この《テロス》、すなわち「救済史の最終的完成の局面」は、「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます」という表現で語られます。ここで「すべての権力《アルケー》、すべての権威《エクスーシア》や勢力《デュナミス》」が、神の支配に反抗する勢力として語られています。ヘレニズム世界では、人間が住んでいる世界ないし宇宙《コスモス》は天界の霊的な諸力、天使的な諸力が階層をなして支配していると考えられていました。地上の国家権力や支配権力もその一つの表現と考えられていたのです。「その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」とあるのは、その時キリストと「すべての権力、すべての権威や勢力」との一大決戦が行われて、キリストが勝利して彼らの支配を滅ぼされるという意味ではなく、次節の内容からしても、キリストがすでにその十字架と復活によって始められた反神的諸力の克服の業がこの段階ですべて完成し、その完成した支配を「父である神に引き渡される」ことになると理解すべきでしょう。

最後の敵


 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで、支配されることになっているからです。(二五節私訳)

 前節の「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」が、キリストに関わる神の定めによって根拠づけられます。この節の初めに、「せざるをえない《デイ》」という語がありますが、聖書ではこの語は必ずそうならざるをえない神の定めを表現する語です。神が終末的救済者としてお立てになったキリストは、その使命と権能からして、その支配が「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」貫かれるように定められているのです。そのような定めを教団は旧約聖書の中に見い出して、キリストの支配の完全さを根拠づけたのでした。その代表的な例は詩編一一〇編です。そこではこう宣べられています。

 「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」(一節)

 復活して神の右に上げられたキリストは、この「主の御言葉」によって、「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」支配するように、神によって定められているのです。  十字架・復活によって始まったキリストの支配は、なお神の支配に敵対するさまざまな霊的力が働くこの世《アイオーン》の中で、それらの力の支配を打ち破りつつ、完成に向かって進められてゆきます。そして、そのキリストの支配は「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」、すなわち「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」にいたるまで、必ず到達するのです。それが神の定めだからです。

 「最後の敵として、死が滅ぼされます」(二六節)

  このようにキリストが滅ぼしゆかれる神への敵対的支配力の最後のものが死です。キリストが最後の敵である死を滅ぼされるとき、「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」というキリストの業は完了し、キリストが支配を父なる神に引き渡される「終局」が来るのです。

 「死が滅ぼされる」とは「死者の復活」にほかなりません。死者が復活するとき、死が滅ぼされるのです。死者が死者でいるかぎり、死が支配しています。死者が復活するときはじめて、死が滅ぼされて、神の命が完全に顕現するのです。
 
 最後には死も滅ぼされるという言明が、詩編(八・七)の引用で根拠づけられます(二七〜二八節)。「神は服従させた」という表現をキーワードにして、キリストが「父である神に支配を引き渡される」という「終局」の出来事が、聖書解釈の形で説明されます。ここの議論の運びには、現代のわれわれから見るとやや強引な感じを受けますが、当時のパリサイ派聖書学者には普通のことだったのでしょう。詩編八編は本来、創造の秩序において人間がすべての被造物を支配するように定められたことを歌った詩編ですが、その中の「人の子」(五節)がメシア的に解釈されて、キリストの支配を賛美する詩編とされたものと考えられます。それで二八節ではキリストが「御子」と呼ばれ、最終の局面では御子が御父から与えられた万物の支配権を御父に引き渡して、神の全救済史が完成すると語られることになります。神の救済史の全過程は、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ことです。キリストにおける死者の復活が成就することで、死という最後の敵に対しても神は勝利者として現れ、この最終的完成が実現するのです。

 五 復活を目指して(29〜34節)

 29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

的外れ

 ここまでパウロは救済史的な信仰に立って、「死者の復活」をキリストの復活によって根拠づけてきましたが、この一段では、「死者の復活」を否定すれば、わたしたちの信仰が実践的に矛盾に陥ることを示して、「死者の復活」を目指して生きることが信仰生活の実際上の要諦であることを説きます。

 まずコリントの集会で行われている「死者のためにバプテスマを受ける」という習慣を取り上げて、「死者の復活」がなければそのようなバプテスマは無意味になるではないかと論じます(二九節)。「死者のためのバプテスマ」というのは、おそらくバプテスマを受けないで亡くなった人のために、その人の救いを求めて近親者が代わりにバプテスマを受けたことを指すのではないかと考えられます。この「死者のためのバプテスマ」は後の教会会議で否定されますが、ここの議論は、初期の宣教において救いがいかに具体的に、また真剣に受け取られていたかを示しています。
 
 次に、「死者の復活」がなければ、キリスト信仰に生きることによって受ける苦難や危険が無意味になることを、とくに自分自身の体験から示します(三〇〜三二節)。パウロは「エフェソで野獣と闘った」と言っていますが、これはエフェソでユダヤ人や異邦人から受ける迫害に命がけで闘いながら福音を宣べ伝えたことを指していると考えられます。「わたしは日々死んでいます」というような生き方は、「死者の復活」がなければ成り立たない生き方だというのです。
 
 もし死者が復活しないのであれば、わたしたちの生き方は、預言者イザヤ(二二・一三)が言っているように、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という一種の道徳的ニヒリズムに陥ります。「死者の復活」信仰こそ、この体をもって生きる地上の生き方について責任があることを示し、真剣にならせる原動力です(コリントT六・一四〜二〇)。
 
 さらに、パウロは「悪いつきあいは良い習慣を台なしにする」という諺を引用して、「死者の復活」を否定する人たちから影響されて、復活を目指すキリスト信仰本来の生き方が失われないように警告し(三三節)、次のように戒めます。

 「醒めて正気になり、的外れな生き方をしないようにしなさい」(三四節私訳)

 死者の復活を否定して、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という生き方をしている人たちを、パウロは酒に酔って、足元がふらつき、正しい目的地に向かって歩いて行けない人にたとえて、こう呼びかけます。酔いから醒めて正気になり、キリストにあって賜っている本来の目的地(死者からの復活にあずかること)に向かって、しっかりと歩むように呼びかけるのです。
 
 「醒めて正気になり」という動詞の後に、それと重ねて用いられている《ハマルタノー》という動詞は、新約聖書では普通「罪を犯す」という意味で用いられている動詞です。しかし、ここでは三二節後半以下の文脈からすれば、神の戒めに違反する個々の行為ではなく、生き方全体がキリストにおいて示された神のみ旨から外れることを問題にしていると見られますので、この動詞の原意「的を外す」に遡って、「的外れの生き方をしないように」と訳してよいと考えられます。
 
 この場合の「的」、すなわち、わたしたちの歩みが向かうべき目的地は「死者の復活」です。わたしたちが死者の復活にあずかること、あるいは死者の復活に達することです(ピリピ三・一一)。旧新約聖書の全体が証言する救済史の頂点は死者の復活です。世界を創造された神は、ご自身の民を死者の中から復活させることによって、救済の業を完成しようとされているのです。神はこの目的地に達するように福音によってわたしたちを召しておられるのです。
 
 神の目的はそれ以下ではありません。神は死よりも弱い方ではありません。ところが、コリントの集会の中に、神に関する真の知識(グノーシス)を持っていると主張しながら、死者の復活を否定する人たちが出てきたのです。彼らの神は死者を復活させることがない神、死よりも弱い神です。死を滅ぼすことのできない神は神ではありません。彼らは真の神を知らないのです。神の秘義《ミュステーリオン》を知らないのです。グノーシスを誇る彼らは、神について無知なのです。パウロはこのような人々を「恥じ入らせるために」、あえて彼らを「無知」と呼んで、彼らに反省を迫り、「醒めて正気になる」ように呼びかけるのです。

 六 復活の体 (35〜44節)

 35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 38 神は、御心のままに、それに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

創造の冠としての復活

 ここで死者の復活を信じるにさいしての最大の難問が取り上げられます。死者が復活すると言っても、いったい「どんなふうに」復活するのか、想像がつきません。霊魂不滅ではなく復活である以上、何らかの「体」を備えた生命の形態でしょうが、「どんな体で」生きるようになるのか、見当もつきません。人類はこの体以外の形は経験したことがないのですから、理解できず信じられないのは当然です。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と問わないではおれません。

 この問に対するパウロの回答は、「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」(四四節前半)という一句に尽きるのですが、そのことを理解させるために、パウロはまず植物とか動物とか天体という自然界の事象を取り上げて説明します(三六〜四一節)。自然界というのは神が創造された世界のことですから、パウロは神の初めの創造との類比(アナロギア)によって、死者の復活という終末の出来事を語っているわけです。自然界が神の創造の業によって存在するように、死者の復活という終末的事態も、初めの創造に対応する終わりの創造の業と理解されているのです。
 
 最初に種粒の比喩が来ます(三六〜三八節)。死んだあと別の体をもって復活することは考えられないとして「死者の復活」を否定する者は、自然の中に書き込まれている初歩の教科書も読みとることができない「愚かな人だ」と一蹴されます。死んでこの体が朽ち果てた後、人間は別の体をもって復活するという福音の約束は、植物というもっとも身近な自然の中にも明確に読みとることができるではないか、とパウロは反問します。種を蒔くとき、その種が土の中で朽ちて死ななければ、その種の中にある生命は本来の姿を現すことはできません。たとえば、麦を収穫しようとすれば、麦の本体を地に植えるのではなく、「ただの種粒」を地に蒔きます。その種粒が地中で朽ちて死んだ後、その種から麦の本体が出てきて実をつけるにいたります。この種蒔きと収穫というもっとも身近な経験が、死者の復活の真理を語っているのです。
 
 ここで留意すべきことは、地中に朽ちる種から麦の本体が出てくることを、パウロは単なる自然の経過としてはいないことです。パウロは、それを創造者である神の意志に基づく創造の業であるとしています。「神が体をお与えになります」というとき、その「神」は創造者です。創造者がその「御心のままに」、朽ち果てた種に体を与え、一つ一つの種にそれぞれその種類に応じた体を創造してお与えになるのです。パウロは、「蒔くものは、死ななければ命を得ない」という自然界の事象を、創世記一章の創造の秩序に属することとして語っているのです。
 
 従って、後でパウロが「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、・・・・自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」(四二〜四四節 a)と言うとき、死者の復活という終末の出来事を、初めの創造との対比で語っていることが分かります。すなわち、死者の復活は初めの創造に対応する終わりの創造として理解されているのです。神は創造者として、御心のままにそれに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体を創造してお与えになるように、終わりの時には、ご自身の子らに、もはや朽ちることのない新しい体を創造して与えられるのです。
 
 このように、復活信仰は創造信仰を完成します。死者の復活は終わりの日の創造です。それは神の創造の御業の目標であり最終段階です。復活は創造の冠です。イスラエルの長い歴史の中で創造の信仰が形成されたのは、この復活信仰を準備するためであったと言えます。

体の栄光の違い

 死んで初めて本来の体を現す種粒のたとえによって、死後にこの地上の体とは別の体が備えられていることを語った後、使徒は、わたしたちが今地上で体験している体とは違った種類の体があることを、動物と天体の事象を用いて語ります(三九〜四一節)。

 まず動物の「肉」にも違いがあることが取り上げられます。ここで「肉《サルクス》」というのは、「獣の肉、鳥の肉、魚の肉」という表現が示しているように、体を持って現れる地上の生命形態全般を指す用語です。獣は地上を走り、鳥は空を飛び、魚は水の中を泳ぐために、それぞれ違った体を与えられています。人間の体は他の動物と同じ点も多くありますが、手を自由に用いて物を造ったり、言葉を用いるための器官を与えられているという点で、他の動物とは違います。このように、同じ動物でも体をもって発現する生命形態にはさまざまな違いがあります。
 
 続いて、「しかし、天上の体と地上の体があります」と言って、体に違いがあることが、地上だけでなく、天上にまで広げられます。「天上の体」というのは、わたしたち現代人には分かりにくい表現ですが、当時の宇宙観では、天体は光の衣を着ている生命体と考えられていたのです。そして、「天上の体の輝きと地上の体の輝き」とが異なっていることが指摘されます。これは、「輝き《ドクサ》」という点では、天上の体は地上の体にはるかに勝っているということでしょう。地上の体は輝きを発していませんが、天上の体は自ら輝きを発しています。それだけでなく、「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」と言って、天上の体にも輝きの違いがあることが強調されます。
 
 このように、体の「輝き《ドクサ》」に違いがあることが強調されるのは、すぐに続いて(四三節)、この自然界の事実との類比で、「栄光《ドクサ》」では地上の体とは異なる復活の体のことを語るためです。

自然の命の体と霊の体


 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(四二〜四四節)

 植物や動物や天体という自然界の事象を観察した後、「死者の復活もこれと同じです」と言って、自然界との類比で死者の復活が語られます。基本的な類比は、蒔かれた種が地中で朽ち果てた後、別の体をもって現れるという現象から取られています。現在の人間存在は、種粒のように地上に「蒔かれた」ものと見られています。人間は地上に「蒔かれた」体が死んで朽ち果てた後、まったく別の体をもって「起こされる」のです。それが「復活する」ことです。ここでは人間存在が「蒔かれる」と「起こされる」という二つの受動態の動詞で語られます。両方とも神によって創造された存在としての人間の姿です。
 
 種粒と植物の本来の姿が全然違うように、人間も蒔かれた時の姿と起こされたときの姿がまったく別であることが、三組の形容詞の対比で描かれます。最初に「朽ちるもの」と「朽ちないもの」の対比が来ます。地上の人間は「朽ちるもの」です。地上の人間はだれも永遠に生き続けることはできません。かならず死にます。これは地上の人間の定めです。ところが人間はこの定めを自然のものとして受け取ることができず、なんとかしてこの定めから逃れようとして悪戦苦闘してきました。死は人間にとっていつも苦悩であり恐れでした。そのような人間に対して福音は、諦めて死の定めに従うように考えを変えるように説得するのではなく、死の彼方に「朽ちないもの」の世界があることを確証して、解決を与えるのです。神の御心にしたがって死から引き起こされるとき、人間は「朽ちないもの」にされるのです。その体はもはや、この地上の体のように病み、老い、朽ち果てることはありません。
 
 次に「卑しいもの」と「輝かしいもの」の対比が来ます。この「卑しいもの」は「輝かしいもの《ドクサ》」の反対の状態ですから、神の「栄光」に欠ける状態、すなわち神の優れた質にあずかることがないために生じる悲惨な状態を指すと見てよいでしょう。現実の人間は罪のために神の栄光に達することができないのです(ロマ三・二三)。この体の中には罪の法則があり、わたしたちを神に背く力の支配の下にとりこにしています(ロマ七・二三)。そのため、わたしたち人間の現実はいかに悲惨な状態になっていることでしょうか。いくら平和を望んでも、地上には憎しみ、争い、流血が絶えません。建てるよりも壊すことに速く、強い者が弱い者を搾取する不正義は絶えず、いくら働いても貧窮から脱することができない地域が地を覆っています。このような地上の人間界の悲惨は、神の栄光にあずかることができないこの「卑しい」体と一体である人間本性から出てきます。この「惨めな人間」の原因となっている地上の体は「死の体」と呼ばれ、その体から救い出されることが呻きをもって切望されるのです(ロマ七・二四)。この呻きは、わたしたちが地上にあってこの卑しい体の中に生きるかぎり続くでしょうが、人間が「輝かしいもの」に復活するとき完全に解決します。それが「神の栄光にあずかる希望」なのです(ロマ五・二)。
 
 最後に「弱いもの」と「力強いもの」の対比が来ます。私たちの体は弱いものです。わずかの環境の変化や、ウィルスなどの外敵の侵入、その他さまざまな原因ですぐに病気になり、倒れ伏してしまいます。肉体だけでなく、脳の働きとしての精神も弱いものです。わずかのストレスや精神的衝撃に耐えられず、変調をきたし、病み果てる場合が多くあります。現代はとくに精神の病が多いようです。弱さは病気という形で現れるものだけではありません。内に強い意志や願いがあっても、それを成し遂げる気力や体力がないことを嘆かないわけにはいきません。この嘆きは年を重ねるにしたがって深くなります。いろいろな意味で、この体の中に生きる人間は「弱いもの」です。しかし、復活して新しい体で生きるときには、もはやこの弱さとそれを嘆く嘆きはなく、願うところはすべて成し遂げる力に満ち、病に倒れ伏すこともなく、いのちに溢れて存在し活動するでしょう。
 
 ここまで、地上の体と復活の体の性質が、三組の形容詞の対比で描かれてきましたが、最後にその体そのものの名があげられます。

 「つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(四四節)

 「自然の命の体」というのは、いまわたしたちが生きているこの地上の体です。原語のギリシャ語では《ソーマ・プシュキコン》と呼ばれています。《ソーマ》(体)につけられている形容詞《プシュキコン》は、聖書では生まれながらの自然の生命を指す《プシュケー》の形容詞形です。新共同訳の「自然の命の体」は分かりやすい訳語です。

 いまわたしたちが地上で生きているこの「自然の命の体」は、「朽ちる、卑しい、弱い体」ですが、復活のときに与えられる「朽ちることのない、輝かしい、強い体」は《ソーマ・プニュマティコン》と呼ばれます。《プニュマティコン》は《プニューマ》(霊)の形容詞形ですから、「霊の体」ということになります。「自然の命の体」に対して「霊の命の体」と訳してもよいかもしれません。
 
 ところで、聖書では「霊」はけっして、体や心のように生まれながらの人間に自然に含まれている一部分ではありません。それは神から与えられる特別の賜物です。霊は本来人間に属するものではなく、神に属するものです。この地上で生まれながらの自然の命に属する体が与えられているように、神からの「霊」が完全に現れる時には(それが復活です)、霊の命にふさわしい別の体が与えられるのです。それが「霊の命の体」です。
 
 「自然の命の体」がどのようなものであるかは、わたしたちはよく分かっています。では、「霊の命の体」とはどのような体でしょうか。それはわたしたちの理解を超え、想像を絶しています。なにしろ、復活されたイエスの他は、人類はまだ一度も「霊の命の体」を経験したことがないのですから、それを表現し説明する言葉も概念もありません。使徒もそれが「霊の命に属する体」だというだけで、それ以上のことは何も言っていません。強いて言うと、「イエスが復活されたように」わたしたちも復活すると言うほかありません。パウロはこう言っています。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケT四・一四)。ヨハネも言っています。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネの手紙T三・二)。イエスの復活は、終わりの時に死者の中から復活する者たちの原型であるということです。この意味でも、キリストはすべて眠っている者の初穂として復活されたと言えます。
 
 「霊の命の体」が与えられることは、神の新しい創造の業です。「自然の命の体」が初めの創造であるのに対して、「霊の命の体」が与えられるのは終わりの日の創造によります。まったく新しいものを造り出される神の創造の業ですから、わたしたちがその姿を想像することもできないのは当然です。それにもかかわらず「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるのです」と断言できるのは、神を創造者と信じ、その神が終わりの日の創造によって救済史を完成してくださることを信じているからです。復活は創造の冠です。

使徒信条の問題点

 先に「旧約聖書をめぐる対立」の項で述べましたように、「死者の復活」の信仰は、それを否定するグノーシス主義的な傾向に勝利して、正統派の「使徒信条」に取り入れられました。使徒信条には「われは肉体の復活、永遠の生命を信ず」とあります。ところで、西方教会で成立した使徒信条はラテン語が用いられており、復活については「われは《カルニス》の復活を信ず」となっています。《カルニス》はギリシャ語の《サルクス》に相当し、わたしたちが現在生きているこ肉体を指します。この語が用いられたために、古代の正統派教会では、終わりの日の復活が「肉体の復活」、すなわち地上で生きていたのと同種類の身体に復活することだという理解が浸透します。キリスト教を批判する者は「肉体の復活」の不合理を嘲笑し、擁護する教会側は聖書の言葉を無理に解釈して「肉体の復活」を弁証します。  パウロは「肉体の復活」というようなことは言っていません。むしろ「肉《サルクス》と血とは神の国を受け継ぐことはできない」(コリントT一五・五〇)と言って、この肉体は復活と関わりがないと断言しています。そしてここで見たように、パウロは「死者の復活」というのはこの肉体(自然の命の体)とは別の種類の体(霊の体)に復活することであると強調しています。
 
 古代教会が「死者の復活」信仰を擁護した情熱には打たれます。この信仰がローマ帝国の迫害に打ち勝った原動力でした。同時に、「死者の復活」についてパウロが教えたことがいかに僅かしか理解されていなかったかに驚きます。古代教会以来、復活があまりにも強く地上の肉体と結びつけられて理解されたために、現代では使徒信条の復活についての告白がかえって宙に浮いてしまうことになり、基本信条として口では唱えていても、実際の信仰生活には何の意味ももたなくなってしまっているのではないかと思われます。
 
 復活信仰はキリスト信仰の土台です。復活信仰の衰弱が現代キリスト教の病根の一つではないかと見られます。パウロが説く復活を正確に理解することによって、もう一度パウロの霊的な復活信仰を回復することが現代の課題です。

 この「使徒信条の問題点」について詳しくは、拙著『死者の復活』の付論「死者の復活と霊魂不滅ーヘレニズム世界における復活の福音」を参照してください。

 七 終わりのアダム(45〜49節)

 45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

命を与える霊

 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(四四節b)

 前段(三五節〜四四節)で自然界との類比から、使徒パウロは死者の復活を「自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活する」ことと語りました。そして、この「霊の体に復活する」という将来の出来事を、いま現に自然の命の体で生きているのと同じ確かさで断言します。この確かさはどこから来るのでしょうか。
 
 それは、命という命はすべてそれを表現する体がある、体のない命などありえないという確信から来ます。命と体とは一体であるという理解です。その確信は、イスラエルの長い歴史の中で形成され確立された創造者への信仰から来ます。創造者は植物や動物や人間、さらに天体まで、すべての生命はそれにふさわしい体を与えられました。今わたしたち人間がこの体をもって生きているのも、創造者なる神が人間をそのように造られたからです。
 
 その神が創造の業を完成するために、終わりの時に臨んでキリストを遣わされたのです。神は終わりの時にキリストによって万物を完成しようとされているのです。それは初めの創造に対応する終わりの創造です。神はキリストにおいて人間に新しい命を与えておられます。それは霊の命です。終末に属する命です。創造者なる神は、いまわたしたちが生きている自然の命にふさわしい体を与えてくださったように、新しい霊の命にはそれにふさわしい体を与えてくださるはずです。このような創造者に対する信仰が、「自然の命の体があるのだから、霊の体もある」と断言させるのです。

 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。(四五節)

 最初の創造においても、最後の創造においても、神の創造のみ業の中心は人間です。そこで、最初の創造における人間と最後の創造における人間とが、それぞれを代表する存在、すなわちアダムとキリストによって対比されます。
 
 神は初めに天地の万物を創造し、最後に冠として人間をご自身の像に似せてお造りになったとされています(創世記一章)。その人間の創造について聖書はこう語っています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記二章七節)。この最後の句「人は生きる者になった」を、ここでパウロはギリシャ語訳聖書で引用しています。それは、ギリシャ語を用いるヘレニズム世界に福音を語るパウロにとって当然のことです。ところが、そのギリシャ語訳聖書はこの箇所を「人は命のある《プシュケー》となった」と訳しているので、この《プシュケー》という語が鍵となって、《プニューマ》としてのキリストとの対比を成り立たせるのです。
 
 四四節前半の講解で触れたように、パウロはこの《プシュケー》という語を、人間が生まれながらに生きている生命、「自然の命」という意味で用いています。それに対して《プニューマ》(霊)は、本来人間には属さない神からの命、終末に属する命です。ですから、「人は《プシュケー》になった」という表現は、現在の人間、古いアイオーンに属する人間の現実を描くことに他なりません。わたしたち生まれながらの人間は、この《プシュケー》(自然の命)であり、その命に属する体《ソーマ・プシュキコン》をもって生きているのです。
 
 ここで、ギリシャ語訳聖書を引用するにあたって、パウロはテキストの「人」《アントローポス》に「最初の」という語を加えて、「最後の人」、「終末の人」キリストと対比します。さらに、パウロは「最初の人」にヘブライ語原典での主語である《ハ・アーダーム》を付け加えます。こうして、ギリシャ語聖書において「人」とだけ書かれている主語をパウロが「最初の人アダム」と呼ぶのは、初めの創造における人間の創造を、終わりの時にキリストにおいて完成される創造と対比するためであること、言い換えれば、パウロは創世記の記事を初めの創造と終わりの創造という救済史の枠組みで解釈していることを示しています。
 
 この「最初の人アダム」に対して、「最後のアダム」と呼ばれるのはキリストです。キリストは、創世記のアダムが初めの創造において人そのものであったように、終わりの創造において人そのものであるとして、「アダム」と呼ばれるのです。ここでキリストが「最後のアダム」と呼ばれるとき、それはキリストが終わりの時に出現する人そのものであることを指しているのです。それで、キリストは「最後の人」、「終わりの人」と呼んでもよいわけです(キリストが「人」と呼ばれることについては、二一節の講解を参照)。
 
 さて、「最初の人アダム」が「命のあるプシュケー」になったのに対して、「最後のアダム」であるキリストは「命を与える《プニューマ》(霊)」になったと言われます。アダムとキリストは、初めの創造と終わりの創造における人間そのものであるという点では共通していますが、その命の質は異なっています。アダムは土から造られたこの体に命の息を吹き入れられて「命のある《プシュケー》」になったのですが、キリストは彼に属する者たちに「命を与える《プニューマ》」になったのです。すなわち、アダムは外から命を吹き入れられて自分が生きているだけですが、キリストは外の者に命を与えるという質の命なのです。
 
 アダムは土から造られた体に命の息を吹き入れられた時に「命のある《プシュケー》になった」と言われていますが、キリストはいつ「命を与える《プニューマ》になった」のでしょうか。それは、キリストが神の大能の御力によって復活された時です。キリストは十字架の上に贖いの業を成し遂げた後、復活されて初めて、信じる者に聖霊を与え、聖霊によって内住する方となったのです。すなわち、霊なるキリストとなったのです。
 
 パウロがキリストという時、それはいつも霊なるキリストです。パウロは初めから復活されたキリストに出会い、そのキリストに捉えられて、そのキリストに結ばれて生きました。パウロはこのキリストを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白し、その事態を「キリストにあって」、あるいは「キリストに結ばれて」と表現しています。パウロにとってキリストとは外にいる人物ではなく、自分の内に生きる霊なるキリストです。このキリスト体験とキリスト理解から、パウロはキリストを「(命を与える)霊となった」と言わざるをえなかったのです。
 
 復活者キリストは「終わりのアダム」です。すなわち、終わりの時に現れる人間そのものです。ご自身が終末の人間であるだけでなく、ご自分に結ばれる者たちに入ってきて、命を与える霊そのものなのです。そのような方として、終わりの時に現れるすべての人間の根源、頭なのです。
 
 「命を与える」と訳されている動詞《ゾーオポイエイン》は、二二節の講解で述べたように、「復活させる」という動詞と同じ意味で用いられる動詞です。新約聖書においては、命を与えるとは復活させることなのです。「命を与える」というのは、命のないところ、死に定められたところに命を与えることですから、これは復活させることなのです。ですから、キリストが「命を与える霊」であるというのは、キリストが「復活させる霊」であるというのと同じです。「キリストにあって」生きるというのは、復活させる霊によって生きることです。死に定められた存在の中で、復活の命を生きることなのです。
 
 《プシュケー》、すなわち生まれながらの自然の命は死に定められています。その命は有限の時に限られています。時が来れば、その命は終わり、その命に属する体は分解します。土から造られた体は土に帰ります。それに対して、《プニューマ》、すなわち神に属する命、終末の命は、時を超えて生きます。その命に属する体である「霊の体」《ソーマ・プニュマティコン》は朽ちることがありません。わたしたちがいま現に生きている自然の命の中に、どのように霊の命が宿り生きるのか、これはわたしたちの理解を超えています。しかし、キリストに結ばれてその十字架の死に合わせられるとき、復活のキリストの命が内に生き始めます。そして、この自然の命が終わり、その体が朽ち果てた後、神は霊の命にふさわしい「霊の体」を与えてくださることを確かな希望として生きるようになります。

天に属する人

 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。(四六節)

 自然の命の体《ソーマ・プシュキコン》があるのと同じように霊の体《ソーマ・プニュマティコン》があることを、《プシュケー》である最初の人アダムと《プニューマ》となった最後の人キリストによって根拠づけた後、パウロはその二つの体の順序について語ります。  最初にあるのは霊の体ではなく自然の命の体であり、霊の体は最後に来るのであるという順序の強調は、当時の宗教思想に逆の順序を説くものがあったので、それを反駁して、復活の希望を確かなものにするためです。
 
 グノーシス主義の思想に、「原人」という特徴ある思想があります。現実の人間は無知と迷妄の暗闇に投げ込まれているが、このような現実の人間が存在する前に、完全な「人」そのものが存在したとし、現実の人間はその堕落した姿であるとするのです。その始源の完全な人を「原人」と呼び、この原人が何らかの形で地上に現れて、無知の暗闇の中にいる人々に呼びかけ、真実の知識を与え、人間を本来の姿に回復するというのです。ですから、「原人」は救済者であると同時に、救済される人間の本来の姿でもあるわけです。
 
 パウロとほぼ同時代のユダヤ人哲学者フィロンは、どの程度グノーシス思想や黙示思想から影響を受けたか知りませんが、創世記の人間の創造の記事を次のように解釈して、原人思想に似た考え方をしています。すなわち、創世記一章に記されている人間、神が御自分にかたどって造られた人間は天的な人間であり、創世記二章に記されている人間、土の塵から造られた人間は、現実の地的な人間であるとしました。そして、神に背いて罪に陥っている地的な人間が、最初からあった天的人間に回復されることが救いであるとされるのです。ここでは、最初に天に属する人があり、次に地に属する人が来るのです。この時代のラビたちも同じような議論をしていました。
 
 この順序をパウロは逆転します。パウロが力をこめてこの順序を否定するのは、もしこのように天に属する人が最初にあるのであれば、人間の救済においてキリストの復活が占める位置が無くなってしまうからです。地に属する人間が救われるのは、初めの創造による人間に戻るだけで、そこでは死者の復活は必要ありません。ところが、パウロにとって救いとは、復活されたキリストに結ばれることによって、復活にあずかることなのです。このキリストの復活は終末の出来事であって、神の初めの御業ではありません。
 
 神の最初の御業は、天地万物を創造し、その地に属する人間を創造することです。創世記一章と二章の全体が、現実の人間の創造を語っているのです。その人間が創造者に背くことによって悲惨な状態に陥ったのです(創世記三章)。その人間を救済するために、神が時満ちて終わりの御業として成し遂げられた出来事が、キリストの十字架と復活なのです。ですから、復活によって与えられる「霊の体」は、現実の地に属する人間が生きている「自然の命の体」の前にあるのでなく、その後に来るのです。
 
 この順序の違いは聖書解釈の理論の問題ではなく、パウロが復活されたキリストに現実に出会った体験から出る違いです。復活されたキリストに出会うことなく、その命を知ることがなければ、創世記一章の人間を、二章以下の現実の人間が回復されるべき本来の人間の姿であるとする解釈も成り立ちます。しかし、復活されたキリストに出会い、このキリストに結ばれて生きるとき、キリストの復活にあずかることが人間の最終的な救済であること、すなわち、将来終わりの時に与えられる「霊の体」をもって生きることが人間の最終的な姿であることが確信できるので、霊の体をもつ「天に属する人」が最初にあるという解釈は成り立たなくなります。

 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。(四七節)

 こうして順序を確立した後、パウロは「第二の人」であるキリストが「天に属する者」であることを改めて示します。「最初の人」アダム、すなわち現実の人間が「土でできており、地に属する者」(直訳では「地からの者」)であることは、よく分かっています。聖書もそう語っていますし(創世記二章)、わたしたちの経験や理解もその通りに教えています。では、この「最初の人」であるアダムに対応する「第二の人」、「最後の人」であるキリストはどのような存在でしょうか。パウロはそのキリストを「天からの者」(直訳)、「天に属する者」と呼びます。
 
 「天に属する者」とは、土から造られた体をもつのではない、天界の存在です。天から来て、天に帰る、天界の存在です。復活のキリストはこのような「天からの者」、「天に属する者」です。キリストは一時わたしたちと同じく、土からできた体をとり、「地に属する者」となられましたが、その土からできた体を脱ぎ捨てた後、「霊の体」を着て天に上り、「天に属する者」であることを示されました(ヨハネ福音書はイエスをこのようなキリストとして描く福音書です)。
 
 このような「天に属する者」としてのキリストの姿は、福音書に出てくる「人の子」の姿を思い起こさせます。「人の子」は終わりの時に天から現れて、神の支配を実現する超越的な存在です。「人の子」は人間世界から登場する人物ではなく、天の雲にのって現れる存在です。「地からの者」ではなく、「天からの者」です。パウロはキリストを「人」とか「最後のアダム」とか「天からの者」と呼んで、終わりの時に現れる「天に属する者たち」の代表者とすることで、「人の子」という称号で表現されている黙示思想的希望を、死者の復活を核心とする福音の希望の中に吸収しているのです。

 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。(四八〜四九節)

 わたしたち人間は、自然の命に生きているかぎり、アダムの似姿となっているのは確かな現実です。それと同じ確かさで、わたしたちは霊の命に生きるかぎり、「天に属するその人」、すなわち復活者キリストと同じ姿をとることになるのです。キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも「霊の体」を与えられて、死者の中から復活するのです。
 
 ここで、アダムの似姿をとる人々と、キリストの似姿をとる人々という二種類の人間があると言っているのではありません。主語は同じです。「わたしたち人間は」アダムの似姿をとっているのが事実であるように、やがてキリストの似姿をとることになると言っているのです。「土からできたその人の似姿となっている」という文の動詞は、すでに起こった事実を表現する時制ですが、「天に属するその人の似姿にもなる」という文の動詞は未来形です。すなわち、ここでは同じ人間の現在と未来の二段階の存在様式が語られているのです。そして、現在の最初の段階が確かな現実であるように、未来の第二の段階も確かな現実であることが語られているのです。
 
 もちろん、このように語ることができるのは、キリストに属することで霊の命に生きるようになった者だけです。「キリストにある」という場から見ると、人間はこのような二段階の様式で存在するように造られていることが見えてくるのです。「初めの人アダム」と「終わりの人キリスト」が代表しているように、人間は「自然の命の体で蒔かれ、霊の体に復活する」という二段階の様式で存在するのです。
 
 このように、アダムとキリストの対比は、初めの創造と終わりの創造という神の全救済史の基本的構造を表現し、それに対応して人間の二段階の存在様式を表現しているのです。このような理解は、キリストの中に神の終末的な救済の出来事を体験した者が、そのキリストの現実から聖書全体の構造を理解した結果です。パウロはこの段落(四五〜四九節)で、このような聖書理解から出てくる救済史の構造を根拠にして、「自然の命の体で蒔かれ、霊の体に復活する」という復活信仰を確証するのです。

 八 死は勝利にのみ込まれた (50〜58節)

 50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

奥 義

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。(五〇節)

 ここで使徒は、これまで進めてきた議論を締めくくり、その要点を提示します。自然界との類比を用いたり、救済史という神学的な枠組みを用いて議論をしてきましたが、言いたいことは要するに、人間は自然の命に生きている現状の中では完成されないのであって、神の最終的な完成の御業を待たなければならない、ということです。これは、特別の霊の知識を受けている自分たちはこの地上ですでに完全な者になっており、将来の「死者の復活」などは必要としない、もともと「死者の復活」などは神の救いの計画の中にない、と主張する一部の人々に対して、「死者の復活」こそキリストの福音の本質的な内容であることを結論として改めて示すためです。
 
 ここで、わたしたちが生まれながらのままで生きている自然の命《プシュケー》の在り方が「肉と血」と呼ばれています。現在のこの体と一体である自然の命を、体の構成要素である「肉と血」とで象徴しているわけです。「肉と血」、すなわちこの自然の命の体をもって生きている限りの人間は、「神の国を受け継ぐ」とか「神の栄光にあずかる」ことはできないのです。パウロが「神の栄光にあずかる」(ロマ五・二)というとき、それは「死者の復活にあずかる」という具体的な内容を持っていることを忘れてはなりません。

 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(五一〜五二節)

 ここでパウロは改まった口調で「神秘を告げる」と宣言します。ここでパウロが「神秘」といっている内容は、原文では一つの文で語られています。強いて訳すと「わたしたちは皆が眠りにつくわけではなく、わたしたちは皆、最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、今とは異なる状態に変えられるのです」となります。パウロが語ろうとする「神秘」、すなわち神の秘められたご計画とは、すぐ後にくる「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」という部分ではなく、この五二節までの文の全体、とくにその核心部分である「わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます」が、その内容です。
 
 パウロはまず、「わたしたち」キリストに属する者たちの将来について、「すべての者が眠りにつく(死ぬ)のではなく、すべての者は変えられる」のだという対比を強調します。普通、「すべての者は死ぬ」という現実は動かし難いものです。ところが、キリストにあっては「すべての者が死ぬわけではない」と言えるのです。死ぬ者もいるが、死なない者もいる、ということです。聖霊によってキリストの来臨《パルーシア》が切迫していることを実感して生きるとき、その時に自分が地上に生きているか、すでに死んでいるかは、どちらの可能性もあり、どちらでもよいことになるのです。「すべての者は変えられる」ことの絶対的な確かさの前に、死生は相対化されてしまいます。
 
 それに対して、「今と異なる状態に変えられる」ことは、すべての者の身に起こることです。その時すでに死んでいる者は、死者の中から「復活して」朽ちない者とされ、そのとき地上に生きている者は、その場で朽ちない体に「変えられる」というのです。いずれにしても、現在の朽ちるべき存在が、朽ちることのない存在に変えられるのです。
 
 ここでパウロは「わたしたちは変えられます」と言って、自分をその時地上にる者たちのグループに入れています。キリストに属する者はどの世代の者であっても、地上にいる限り、パウロのように地上に生きている間に最終的な局面に出会う心備えをして生きていなければならない、ということです。
 
 この「変えられる」ことは、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」起こります。パウロは「変えられる」という動詞の直後に、「たちまち(瞬間に)」と「目のまばたきの間に」という二つの表現を並べて、それが一瞬の出来事であることを強調しています。しかしこの表現は、「今と異なる状態に変えられる」のに必要な時間が短いことを言っているのではなく、時間の流れの中にある存在が、時間を超えた永遠の存在に移るさいの、二つの世界の質的断絶を表現していると理解すべきでしょう。時間が長いとか短いは、時間の中にいる限り問題となるのであって、時間を超えた存在に変えられるのに、もはや時間の長短は問題になりません。その時、おそらくわたしたちは自分の身に何が起こったのか分からないのでしょう。あっと気がつくと別の世界にいるということになっているのでしょう。死ぬという体験もこのような性質のものではないでしょうか。

神の必然

 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることに必ずなるからです。(五三節)

 死者が復活し、地上に生きている者が変えられて、共に朽ちない者にされるのは、それが必ず起こらざるをえない神の必然であるからです。この神の必然が、文頭に置かれた《デイ》という一語で強調されているのです。《デイ》という語は、英語の must に相当する語で、後ろに動詞を伴い、そうしなければならない、そうならざるをえない、という義務や強制または必然の意味を表します。
 
 ギリシャ人がこの《デイ》という語を用いるとき、それは中性的な運命の支配を意味していました。それは、ある出来事が起こらざるをえない定めであった、運命であったということを意味していました。ところが、御自身の意志で世界を創造し、支配し、完成される神を信じるイスラエルが、ギリシャ語でこの神のことを語るようになったとき(七十人訳ギリシャ語聖書)、神の意志によって定められた事柄を、この《デイ》で表現するようになりました。とくに、ダニエル書に代表される黙示文書において、将来の出来事が神の定めによって起こらざるをえないことを表現するのに、この《デイ》が用いられたのです。新約聖書における《デイ》は大部分、このような神の定めによる終末的な必然を意味しています。
 
 死者の復活がこのような神の終末的必然であるというパウロの確信は、たんに死者の復活が神の救済の秘められた計画の中にあるという知識だけに基づくものではありません。終わりの時に神が死者を復活させてくださることは、パリサイ派のユダヤ教徒も確信していました。パウロの場合、この《デイ》は、復活されたキリストと出会い、復活者キリストと結ばれて生きているという、聖霊による現実の体験に裏打ちされています。神が終わりの時に御自身の民を死者の中から復活させて救済の業を完成される出来事は、キリストが復活されたとき始まっているのです。キリストは初穂として復活されたのです。聖霊によって復活者キリストとの交わりの現実に生きるとき、復活は自分の内にある《デイ》、命の現実としての《デイ》となるのです。
 
 このように、わたしたちが、もはや死ぬか生きるかは問題としないで、死なないものを上に着ることだけを確かな現実として生きることができるのは、神がその保証として御霊を与えてくださっているからです(コリントU五・五)。「死ぬべきものが命に飲み込まれてしまう」という現実に生きることができるのは、御霊によります。御霊こそ復活の希望の源泉であり、保証です。

命の勝利

 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた」。(五四節)

 使徒パウロの終末の希望は、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」に集中しています。これは、死んだ者が復活することと、地上に生きている者が変えられることの両方を含んでいます。ところで、今まで「死者の復活」という表現を用いてきましたが、この「死者」を実際に死んでしまった者だけに限ると、両方を含むことができなくなります。それで、「死者」を実際に死んだ者だけでなく、この死に定められた体をもって生きている者も含むというように広い意味に理解すれば、「死者の復活」という表現は両方を含むことができます(ロマ書八章一一節はこの意味であると理解できます)。このような意味で用いるならば、パウロの終末の希望は「死者の復活」に集中していると言えます。
 
 パウロが将来を語るとき、地上に次々に起こる患難の時代とか不思議なしるしとか宇宙の破局というような黙示録的な事柄はいっさい語りません。パウロが将来を望み見るときは、この意味での「死者の復活」に直結しています。来るべき《アイオーン》(終末)は聖霊によってキリストに結ばれている者の内にすでに来ています。それが「死者の復活」という形で完全に現れるときを待つだけです。それが「キリストのパルーシア」です。キリストが来臨することであり、顕現することです。その時こそ、ユダヤ人パウロが生涯かけて、神の約束であり預言であると受け取ってきた聖書(旧約聖書)が完全に実現成就する時なのです。
 
 その聖書の約束の中で、人間にとって最後の敵である死が滅ぼされることが語られています。パウロがここに引用している言葉は、イザヤ書二五章八節にあります。イスラエルは地上での救済と栄光を望み見て苦難の歴史を歩んできましたが、その中で預言者の霊性は最後に人類最後の敵である死そのものが滅ぼされるという希望に到達していたのです。これは、イスラエルという一民族の希望ではなく、死の支配の下に捕らわれている人類に、創造者なる神がその選民を通して与えてくださった究極の約束です。
 
 この約束は将来の「死者の復活」のときに成就します。逆に言えば、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」が来るまでは、「死は勝利にのみ込まれた」という言葉は成就しないのです。これは、五〇節で「肉と血は神の国を受け継ぐことはできない」と言ったのと同じことです。この節でパウロが再びこのことを強調するのは、復活はすでに起こったとし、自分たちは完成されていると誇って、「死者の復活」を否定する者たちに、神が実現してくださる救済は人間の内面のことに限られるのではなく、体を含む全存在に関わるものであることを示し、キリストの復活が何を意味するのかを改めて確認するのです。

死のとげ

 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(五五節)

 使徒は聖霊に溢れて叫びます、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」。人間はずっと死の支配に屈服してきました。誰も死に打ち勝つことはできませんでした。死は勝ち誇ってきました。しかし今や、キリストは死に打ち勝ち、死者の中から復活されました。いまキリストに合わせられて生きる者は、キリストと共に死に打ち勝ち、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と凱歌を上げることができます。たしかに、「死は勝利にのみ込まれた」という言葉はまだ成就していません。「死者の復活」にあずかり、この言葉を完了形で告白できるのは、まだ将来のことです。しかし、キリストを死者の中から復活させた方の御霊を内に宿して生きるとき、もはや死には支配されていないことを知ります。御霊は復活の保証です。死の事実は残ります。しかし、死はもはやわたしには支配権をもっていません。
 
 わたしたちは今聖霊によって勝ち誇ることができます、「死よ、お前のとげはどこにあるのか」と。死には「とげ」がありました。人が生きている限り、死はまだ来ていません。ところが、死はすでに生の中に影を落とし、死への恐れとか得体の知れぬ不安という形で、生を蝕んでいました。人は死に定められているという現実は、生のただ中にあって、生の喜びに痛みを与える「とげ」であり続けてきました。しかし今や、キリストにあって、死の「とげ」は抜き去られました。死は必ず来ます。しかし、キリストにあって生きている者には、その事実は恐れとか不安とか痛みとなって生を脅かすものではありません。死は、復活にいたるために通過する一つの段階にすぎません。死は、「体を離れて、主のもとに住む」ようになるための望ましい一歩となります(コリントU五・六〜八)。
 
 パウロは、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言っています(コリントU五・九)。また、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても(すなわち、生きていても死んでいても)、主と共に生きるようになるためです」と言っています(テサロニケT五・一〇)。このように、主キリストを知り、キリストと共に生きることが現実となり絶対的な価値となるとき、地上に生きているか死んでいるかはどちらでもよいことになります。死と生は相対化されます。それまでは、生と死は絶対的に対立するものでした。生を肯定するだけであれば、死は生を否定し脅かすだけのものになります。しかし、死生が相対化されたいまは、死は生を脅かす「とげ」ではなくなってしまいます。

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(五六〜五七節)

 ここでパウロは、「死のとげ」について彼独自の深い洞察を示します。「死のとげは罪である」というのです。「とげ」というのは、死が自分の支配を貫くために人を打ち叩き、脅かし、苦しめる道具としての「突き棒」とか「とげの付いた棒」を意味しています。死は罪を道具として用い、人間を脅かし、苦しめているというのです。そして、一息に「罪の力は律法です」と続けます。死の支配の道具として人を脅かす罪は、神の戒めである律法を梃子にして人間を支配する、というのです。この場合、「罪の力」というのは、「死のとげ」のイメージの延長上で理解できますので、罪が人間を押さえつけるさいの力の拠り所、支点というような意味となるでしょう。
 
 そのような死の支配力からの解放と勝利が復活です。神は、わたしたちの罪のために死に、三日目に復活されたキリストにおいて、死の支配に対する勝利を与えてくださっているのです(原文の「勝利を賜る」は現在分詞形です)。このキリストの十字架と復活がなければ、わたしたちは死の支配に打ち勝つことはできなかったでしょう。いまキリストにあって、聖霊の溢れる力によって、このような復活の希望に生き、死の支配から解放され、最後の敵である死に対して勝利を与えられていることを思うとき、キリストによってこの勝利を与えてくださった神に感謝せざるをえません。死者の復活を論じるパウロの筆は、おのずからキリストによって勝利を与えてくださった神への感謝に至り、締めくくられます。

結び

 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(五八節)

 こうして復活の希望を確立した後、パウロはそれを根拠にして、実際の信仰生活についての励ましを与えます。このように、死者の復活が確かな将来であり、復活にあずかる確かな希望が与えられているのだから、死者の復活はないと言う者たちに惑わされて動揺することなく、このような復活の主イエス・キリストを告白し(証言し)、福音の真理を追い求め、主に喜ばれる愛の業に励む生涯を貫くように、ということです。「主の業」というのは、こういう内容の生涯全体を意味していると思います。
 
 そのような生涯は、この世では報われること少なく、むしろ迫害される場合もあるくらいです。労苦を重ねるだけで実りはなく、生涯を無駄にしてしまっているのではないかという思いが、ときに内心にきざします。しかし、主に結ばれて生きる生涯に「無駄」ということはありません。地上で報われない労苦は、来るべき世で報われます。その確信は、正義と公平を本質とする神が、この世と来るべき世を貫いて支配しておられるという、主にある者の信仰から出てきます。
 
 死者の復活を論じた長い章の最後で、パウロはごく短く、復活の希望を根拠にして実際の信仰生活上の勧めをしていますが、この関係は重要です。復活の信仰は決して頭の中の問題、考え方や思想の問題ではありません。人生のあり方を決定する実践的な力です。パウロ自身、死者の中からの復活にあずかることを目標にして、その苦難の多い生涯を貫いたのでした(フィリピ三・一〇〜一四)。このような自分の生涯を実例として示して、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と呼びかけています(フィリピ三・一七)。復活に達することを目指して生きること、これがキリストに属する者の生涯の決定的な質となるのです。
 

 

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