パウロによるキリストの福音 III

 第一〇章 律法と内なる罪

   ― ローマ書翻訳と講解 10 ―


はじめに

  パウロは六章で、キリストにあって罪に死ぬことにより、罪の支配から解放されることを論証しましたが、七章に入って、キリストにある者は「律法の支配」から解放されていることを明らかにします。パウロは「律法を知っている人たち」に語りかけます。律法の下にあって生きるとはどういうことかを身をもって体験しているユダヤ教徒たちに、キリストの福音は人を律法から解放するのだと説いて、納得させようとするのです。これは、ユダヤ人にとってとくに微妙な問題を扱う、きわめて困難な課題です。パウロの議論も複雑になっています。七章が、わたしたち律法の外にいる者にとって理解が難しい箇所になるのはやむを得ません。  七章は三つの段落に分けられると見られます。1結婚の比喩(一〜六節)、2律法により現れる罪の正体(七〜一三節)、3人間の内にある罪(一四〜二五節)となります。この中、1は前回扱いましたので、今回は2と3を取り上げて、この困難な箇所に取り組み、福音の光で見た人間理解を深めたいと願います。


  16 律法により現れる罪の正体 (7章7〜13節)

 7 では、わたしたちはどう言うのか。律法は罪であるのか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったのです。律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったのです。 8 ところが、罪はその戒めによって機会をとらえ、わたしの内にあらゆる種類のむさぼりを引き起こしたのです。 実際、律法がなければ罪は死んでいるのです。 9 わたしはかって律法とは無関係に生きていました。ところが、戒めが来たとき、罪は生き返り、 10 わたしは死にました。そして、いのちに導くはずの戒めがかえって死に導くものであることが分かりました。 11 実に、罪が戒めにより機会をとらえ、わたしを欺き、戒めによりわたしを殺したのです。 12 こうして、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いものなのです。
 13 では、善いものがわたしにとって死となったのでしょうか。決してそうではありません。実は、罪が善いものによってわたしに死をもたらすことで、その正体を現したのです。その結果、罪は戒めによって限りなく邪悪なものになるのです。

律法は罪であるのか

 パウロは先の段落で、「罪の情欲が律法を通してわたしたちの肢体の中に働き」(五節)とか、「律法から解放され」(六節)とか語りました。その他これまでの律法についての発言にも、「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためでした」(五・二〇)とか、「律法の下にいるのではないので、罪があなたがたを支配することはない」(六・一四)というような、律法を罪と同列に扱うかのような、あるいは律法が罪の陣営に属するかのような言葉が多くありました。このような発言は、ユダヤ教徒はもとより、「律法を知っている」ユダヤ人キリスト教徒からも、「では、律法は罪であると言うのか」という反発を招くことは避けられません。そこで、パウロは進んでこの批判を取り上げ、これを封じるために、この段落(七〜一三節)で律法と罪との関係を論じるのです。

 「では、わたしたちはどう言うのか」。パウロは、反対者の批判を進んで取り上げて、それに反論するときにいつも用いるこの問いかけの文(四・一、六・一参照)で切り出します。まず、「律法は罪であるのか」と、批判者たちが言いたいことを問いの形で取り上げます。彼らはパウロに向かって、表現は違っても結局、「お前は律法を罪と同列に扱っているではないか」と非難していることになるからです。そして、「決してそうではない」と激しく断定して、その結論の説明を、律法は罪を罪として認識させるものである(ローマ三・二〇)という律法の働きからスタートします(七節)。この律法の働きについては、批判者たちも同意できるはずだからです。
 
 「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったのです」。文頭の「しかし」は、律法は罪であるという命題と反対の議論と結論を導き入れるための「しかし」です。「そうではなく」、律法は罪を罪として認めさせるものとして、本来「聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いもの」であるのです(一二節)。この結論に至る反論を、パウロはこの「しかし」の一語にこめているのです。
 
 神の意志が律法という形で明白に示されて初めて、人間は自分の在り方とか行為が神に背いている、すなわち罪であると認識することができるのです。このことはすでに第一部でも三章二〇節までの箇所で十分語られていました。第一部では、律法は人を義とするためのものではないという視点から見られていましたが、ここ(第二部)では、「キリストにあって」罪の支配から解放されて生きる人間にとって律法がどのような意味を持つのかが改めて取り上げられます。ここで重要なことは、罪を認識させる律法の働きを、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったのです」と、パウロは「わたし」の問題として語り出していることです。

「わたし」とは誰か

 ここから七章二五節までに繰り返し現れる「わたし」《エゴー》はどのような意味で用いられているのかについては解釈が分かれ、古代教父の時代から現代に至るまで多くの議論が行われてきました。解釈は大きく二つに分かれます。一つは、「わたし」が言葉通りパウロ自身を指していると理解して、この箇所をパウロの自伝的告白と解釈する立場であり、他の一つは、多くの人を代表して作者が「わたし」の体験として語っている詩編(とくに死海文書の『感謝の詩編』)などに見られるように、パウロはここで人間の現実を代表して「わたし」という語を使っていると解釈する立場です。パウロのものにせよわたしたち自身のものにせよ、これを自伝的告白とする立場にも、七章をキリストに結ばれる以前の告白と理解する立場(たとえば初期のアウグスティヌス)と、キリストにある者の告白とする立場(後期のアウグスティヌスやルターを初めとする改革者たち)があります。
 
 パウロの神学(福音理解)全体がダマスコ体験とその後のキリスト体験から発しているという意味では、ここもパウロ自身の体験の告白であるという側面を持っていることは否定できません。また、解釈者の深い霊的体験の告白が重ね合わせられて、自伝的な解釈が出てくるという面もあります。しかし、この箇所の解釈としては自伝的告白に限定することはできないと考えられます。この箇所で語られている律法体験は、問題なくパウロの自伝的告白とされるフィリピ三・六やガラテヤ一・一三〜一四と内容的に矛盾しているからです。その自伝的告白の箇所では、パウロは律法を行っていることに確信をもっており、ここに描かれているような律法の下にある人間の矛盾と苦悩は感じていません。さらに、ここに扱われている問題は人間の普遍的な問題であって、パウロ一個人の特別な体験に限定するにはあまりにも広くて重大であるということも考慮に入れなければなりません。この箇所の「わたし」の姿は、キリストにある者の視点から、キリストの外にある人間(律法の下にある人間)の現実を描いたものと理解してよいでしょう。この箇所は、パウロの救済論の視点から見られたパウロ独自の(パウロの体験に裏打ちされた)人間論であると言えます。

 

律法の総括

 パウロはすでに人間を「アダムにある」と「キリストにある」という二つの場にある者として描いていました(五・一二〜二一)。ここでは、その「アダムにある」人間が「わたしは」と語り出しているのです。そしてパウロは、この「わたし」が律法に遭遇したとき何が起こったかを、生まれながらの人間を代表するアダムの物語を用いて描くのです。

 そのさい「むさぼるな」という戒めが「律法」の代表として登場します。これは「十戒」の第十番目の戒め(出エジプト記二〇・一七)です。「十戒」では、家、妻、奴隷、牛や羊など、隣人の所有物を欲しがってはならないという戒めですが、パウロは目的物を省略して、「むさぼるな」という内面的な戒め、心の在り方に向けられた戒めとして引用します。それによって、特定の目的物を限度を超えて欲しがることだけでなく、律法が禁じている悪を欲する人間本性全体に向けられた戒めとなります。このように、この戒めを律法の核心または総体と理解することは、フィロンを初めパウロの時代のユダヤ教の中に見られる傾向でしたが、パウロもここでこの戒めをそのように扱っています。

   

 パウロにおいては、「律法」《ノモス》は単数形で用いられて、モーセ律法の全体を指すことが多いのですが、「戒め」と訳した《エントレー》はしばしば複数形で用いられ、個々の命令や禁令を指します。しかし、ここは定冠詞つきの単数形で、「むさぼるな」という禁令を律法の総体として扱っていることをうかがわせます。  

 神が人間に与えた律法の全体は、「むさぼるな」、すなわち「思い上がるな」という戒めに尽きます。律法がやって来て「むさぼるな」と言わなかったら、「わたしはむさぼりを知らなかった」、すなわち、人間は自分の在り方とか自分の本性的な内的欲求が、限度を超えてむさぼっているのだという事実が分からないのです。自分の本性が、人間の限度を超えて神になろうとするもの、すなわち神に背を向ける罪であることが分からないのです。「むさぼるな」という戒めを神の律法であると知ることによって、自分の本性的な内的欲求が神に対する背反であることを自覚するようになるのです。なお、ここの文脈を超えているかもしれませんが、「むさぼり」を突き詰めて行くと、律法が禁じる悪を欲求することだけでなく、律法を満たすことによって義となろうとする人間の自己主張も「むさぼり」であり、律法は神と等しくなろうとする人間の根元的な罪を暴露するものとなります。

 

律法を利用する罪の仕業

 「ところが、罪はその戒めによって機会をとらえ、わたしの内にあらゆる種類のむさぼりを引き起こしたのです」(八節前半)。 このように人間の本性の中に隠されている罪が、「むさぼるな」という戒めが来たとき、その戒めによって人間本性の中に潜んでいるむさぼり(思い上がり)を自覚させ、また刺激して、様々な面に現れるようにするのです。それは、人間の際限のない支配欲として現れます。人に対しては権力欲として、物に対しては所有欲として現れます。
 
 このような罪と律法の不思議な関係を、パウロは以下の文でより詳しく描いて見せます。「実際、律法がなければ罪は死んでいるのです」(八節後半)。「死んでいる」というのは、生きて活動できない状態であることを指しています。「律法」というのは、罪の働きを禁止する戒めです(律法の大部分は「〜するな」という禁止規定です)。その律法がなければ、罪は罪として、すなわち神への背きとして働くことができないのです。のれんに腕押しの状態で、罪は人間を圧迫する力にならないのです。このことを、パウロは「わたしはかって律法とは無関係に生きていました」(九節前半)と表現します。アダムの物語において、戒めを与えられるまでのアダムは、罪の苦悩も死の恐怖もなく、エデンの園で生きていました。

 

 この「わたしはかって律法とは無関係に生きていました」(九節前半)という文章も、「わたし」を用いたこの段落をパウロの自伝的告白とする解釈を困難にします。パウロは熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれ、もの心ついた頃から厳格な律法の教育を受けていたので、「わたしはかって律法とは無関係に生きていました」という時代はないはずです。このような状況は、戒めを与えられるまでのアダムの物語としてはじめて理解できます。  

   「ところが、戒めが来たとき、罪は生き返り、わたしは死にました」(九節後半〜一〇節前半)。罪は律法という支点(足場)を得てはじめて、人間を圧迫する力を発揮することができるのです。神がアダムに「善悪を知る木の実は食べてはならない」という戒めを与えられたとき、それは人間に神になろうする「むさぼり」を禁じられたのでした(ユダヤ教では、アダムはこの戒めを受けたさいに、《トーラー》全体を受領したとされています)。この「むさぼるな」という戒めが来たとき、罪は罪として働く足場を得て生き返り、罪としての力を発揮し、人間に神に背いているという自覚を与え、圧迫するようになりました。こうして、人間は神の顔を避ける者となり、エデンの園から追放される者、死ぬ者となったのです。このアダムに起こった出来事が、「罪は生き返り、わたしは死にました」と、簡潔で印象的な対比の文で描かれるのです。
 
 こうして、人間は「いのちに導くはずの戒めがかえって死に導くものであることが分かりました」(一〇節後半)ということを体験するのです。戒めは、それを守ることによって人間を命に導くはずのものであることは、ユダヤ教の公理です(レビ記一八・五、申命記四・一)。ところが、わたしを命に導くはずの戒めが、かえってわたしを死に追いやったのです。どうしてこのような転倒が起こったのでしょうか。それをパウロは一文にまとめます。
 
 「実に、罪が戒めにより機会をとらえ、わたしを欺き、戒めによりわたしを殺したのです」(一一節)。そのような転倒を引き起こしたのは罪の仕業だというのです。罪という神に敵対する支配力が、神の戒めを手がかりにしてわたしを欺いたのです。この「欺いた」という表現には、明らかに創世記のアダム物語の「蛇がわたしをだましたので」(創世記三・一三)という言葉が響いています。アダム物語において蛇が神の戒めを手がかりにして、「神のようになる」ことをそそのかしたように、「罪」は戒めを利用して人間を神への自覚的な反逆に追いやったのです。そして、神に背くに至った人間を「戒め」という刃物で殺したのです。「戒め」は背く者を死に定める神の規定ですから、背く人間を断罪し、死に追いやるのです。
 
 「こうして、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いものなのです」(一二節)。「こうして」、すなわち、ここまで罪と律法の関係について述べたところから分かるように、人間を神に背かせるのは律法ではなく罪であるのだから、律法は罪の仲間ではない、律法自体は神から与えられたものであり、神に属するもの、聖なるものなのです。したがって、律法が命じる戒めも「聖であり、正しく、善いものなのです」と言えるのです。パウロがここ(七〜一一節)で罪と律法の関係について述べたのは、「お前は律法を罪と同列に扱うのか。律法は罪なのか」という非難に答えるためでした。そうでないことを明らかにして、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いものなのです」と、律法は神聖であるというユダヤ教の確信を擁護するのです。それで注解者の中には、この段落に「律法のための弁明」という標題をつける人もいます。

罪の正体

 すると、「戒めが来たとき、罪は生き返り、わたしは死にました」と言うのであれば、律法あるいはその戒めという「善いものがわたしにとって死となった」ことになるではないか、という反論が予想されます。パウロはこの反論を取り上げ、「決してそうではありません」と断定して、こう答えます。「実は、罪が善いものによってわたしに死をもたらすことで、その正体を現したのです」(一三節前半)。先に見たように、人間に死をもたらしたのは律法ではなく罪です。しかも、罪は律法という聖なるもの、善いものによって死をもたらすことで、自分が何者であるか、その正体を現したのです。律法を持たない異邦人は、律法がないまま、罪の支配の下にあり、律法と関係なく滅びるのです(二・一二)。そのとき、異邦人は自分の本性の中に巣くっている支配力が、人を神に背かせる「罪」であることを知らないままで、罪によって死に追いやられるのです。それに対して、「律法を知っている」ユダヤ人は、人間の本性を支配する力が「罪」であること、神に敵対する支配力であることを知ることができるのです。
 
 「その結果、罪は戒めによって限りなく邪悪なものになるのです」(一三節後半)。罪は律法という善いものによって死をもたらすことによって、「限りなく罪深い」(直訳)ものになるのです。悪が悪を用いて働くのは当然です。悪が善を用いてその悪を働くとき、その悪は「限りなく邪悪な」ものになります。強盗は邪悪な行為です。しかし、困苦にある人を助けようとする善意を利用して、その善意を強盗の機会とする行為、たとえば病気で倒れているふりをして、助けるために車に乗せてくれた人に刃物を突きつけて強奪する行為はさらに邪悪です。
 
 それに対して、限りなく善であるたもう神は、いかなる悪をも善をなす機会とされるのです。「ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです」(八・二八)。人間の目には悪が支配しているように見える時も、神が働かれる場では、「(悪を含む)すべてのことが共に働いて善にいたるのです」。
 
 罪という支配力は、神の律法という聖にして善なるものを用いて人を死と地獄に追いやることで、その邪悪な正体を現すのです。「罪」は、律法を行って神の御心に従った生き方をしようとする人間の熱意を利用して、自分は律法を行っているから義であると錯覚させ、恩恵を拒む不信仰へと陥れ、死に至らせるのです。ときにはその熱心を利用して、律法を守らないと自分が判断する他人を殺す行為に走らせます。これは人間の本性に巣くう罪の仕業です。このように、律法によって暴露される罪の正体がいかに「限りなく邪悪なもの」であるかという主題が、次の段落(七・一四〜二四)で展開されることになります。
 


  17 人間の内にある罪 (7章14〜25節)

  14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されています。 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が欲することは行わず、自分が憎むことをしているからです。 16 もしわたしが欲しないことをしているとすれば、わたしは律法が善いものであると認めていることになります。 17 だがそうだとすると、それを行うのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです。  18 わたしは、自分の中には、すなわちわたしの肉の中には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、実際は善をしていないからです。 19 わたしは自分が欲する善はしないで、欲しない悪を行っているのです。 20 それで、もしわたしが自分の欲しないことをしているのであれば、それを行っているのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです。  21 そこでわたしは、善をなそうと欲しているわたしに、悪が住みついているという律法に気づきます。 22 わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 23 わたしの肢体の内に別の律法があってわたしの理性の律法と戦い、わたしの肢体の内にある罪の律法の中にわたしを閉じこめているのを見ます。  24 わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか。 25 わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。  こうして、わたし自身は理性では神の律法に仕えていますが、肉によって罪の律法に仕えているのです。

霊なる律法と肉なる人間

 「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています」(一四節前半)。ここの「わたしたち」はユダヤ人を指すと見てよいでしょう。律法を与えられている「わたしたち」ユダヤ人は、「律法は本来霊的なものであることを知っています」と、パウロはユダヤ人に共通の律法認識をさらに一歩進めた形で確認します。

  すべて「わたし」を主語として語られているこの段落(七・七〜二五)の中で、ここだけは「わたしたち」が主語になっています。「わたしたち」キリストに属する者たちと理解することも可能ですが、この七章は「律法を知っている」ユダヤ人をに対象に議論が進められていることを考えると、ユダヤ人をさすと理解する方が自然でしょう。なお、「わたしたちは知っている」《オイダメン》を《オイダ・メン》と区切って読み、「一方、わたしは知っている」と訳し、段落全体を「わたし」で一貫することも可能です。一八節には「わたしは知っている」という表現が出てきます。  なお、七〜一三節がアダム物語を下敷きにした「わたし」の物語であったので、動詞はすべて過去形でしたが、一四〜二五節はキリストにある者の立場から現実の人間の実相を描く記述であるので、動詞はすべて現在形になっています。この現在形は、自分の現実を嘆く悔い改めの詩編(たとえば二二編、五一編、六九編)などに先例が見られます。
 
 ここで律法について用いられている「霊的な」という語は、「物質的な」に対立する「精神的な」とか、「外面的な」に対立する「内面的な」というような意味ではなく、「肉的な」に対立し、「御霊に属する」とか「御霊に関連する」という意味です。この形容詞「霊的な」《プニュマティコス》の元になる名詞《プニューマ》(霊)は、パウロにおいてはほとんどの場合、神の霊を指しています。「律法は霊的である」というのは、律法は人を神の霊の次元に生かすために、神の霊によって与えられたものである(この点については八章二節の講解で詳しく触れることになります)、すなわち、神の霊に属するものであるという意味で、律法の天的起源を示しています。これは「律法は聖なるものである」(一二節)というユダヤ教共通の確信をさらに一歩進め、当時のユダヤ教には他に例を見ないパウロ独自の律法理解を示しています。?律法が「霊的」《プニュマティコス》であるという記述は、当時のユダヤ教には見あたりません。?
 
 「しかし、わたしは肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されています」(一四節後半)。律法は霊的なものであるが、その律法を与えられた人間、「わたし」は「肉に属する者」なのです。ここでパウロの人間論(人間理解)が、パウロ独自の「肉」という用語を用いて簡潔に表現されています。「肉」とは、神に対立する生まれながらの人間本性を指しています。律法は本来神の霊に属するものですが、それを受ける人間は、御霊に対立する「肉」《サルクス》(肉)に属するものなのです。御霊(神の霊)と肉(生まれながらの人間本性)は対立し、反対の方向を向いているのです(ガラテヤ五・一七)。それで、人間は本性的に神の律法に反する方向を志向することになるのです。

 

 ここに用いられている形容詞「肉に属する」《サルキノス》は、本来「肉から成る」という意味ですが、ここでは《プニュマティコス》(霊的な)の対立語である《サルキコス》(肉的な)と厳密に区別されないで、神に対立する生まれながらの人間本性である《サルクス》(肉)に属するという意味、すなわち《サルキコス》と同じ意味で用いられています。 

 「罪の支配の下に売り渡されています」という表現は、先に語られた奴隷の比喩(六・一六)を思い起こさせます。人間は罪という主人に売り渡されて、奴隷としてその支配下にあるのです。そして、その人間の姿が次節以下に展開されることになります。

わたしの内に住む罪

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が欲することは行わず、自分が憎むことをしているからです」(一五節)。わたしは自分の行動を説明できないだけでなく、自分という存在の矛盾に途方に暮れるのです。わたしという存在は、「自分が欲することは行わず、自分が憎むことをしている」という矛盾した在り方をしているからです。「自分が欲することは行わず」というのは、律法が命へ至る道として命じているのだから、それを行うことを欲しているのに、実際にはそれを行わないことです。そして逆に、「自分が憎むことをしている」のです。すなわち、滅びへの道として律法が禁じているので、憎むべき行為としていることを、実際には行ってしまっているのです。
 
 この「自分が欲することは行わず、自分が憎むことをしている」という人間の矛盾はすでに古くから気づかれていて、前五世紀の詩人エウリピデスのギリシア悲劇からアウグストゥス帝時代のローマの詩人オウィディウスの「変容」に至るまで、広くギリシアやラテンの文学にも取り上げられています。しかし、この矛盾を神の前における人間存在の矛盾として深く自覚したのは、やはりユダヤ教文学、とくに悔い改めの詩編に代表される諸テキストです。ユダヤ教においては、この矛盾は善いことを命じる神の律法とそれを行うことができない人間の矛盾として自覚されることになります。パウロも熱烈なユダヤ教徒として、人間存在の矛盾を神の律法との関係で見ることになります。

 

 ユダヤ教におけるこの矛盾の自覚については、旧約聖書続編に含まれているエズラ記(ラテン語)の三・一七〜二二、九・二八〜三七を参照。死海文書「宗規要覧」三・一五〜四・二六にも、真実の霊と不義の霊という二つの霊の対立と、その二つの霊が終わりの日に至るまで「執拗に争いあう」ことが語られています(日本聖書学研究所『死海文書』97〜100頁)。パウロと同時代のユダヤ人哲学者フィロにも、理性に従う「内なる人」と欲情に従う「外なる人」の対立が語られています。  

 「もしわたしが欲しないことをしているとすれば、わたしは律法が善いものであると認めていることになります」(一六節)。滅びへの道として律法が禁じているので憎むべき行為としていることを、「わたし」が実際には行い続けており、それを自分という存在の矛盾と感じているのであれば、「わたし」は「律法が善いものである」と認めていることになります。律法が善いものであると認めるから、「わたし」は律法が禁じているゆえに「欲しないこと」を行う自分を矛盾と感じるのです。
 
  この事実から重大な結論が導き出されます。「だがそうだとすると、それを行うのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです」(一七節)。今まで「罪」は自分の外にある支配力であるかのように語られてきました。奴隷の比喩においても、罪は奴隷に対する主人のように、上から力をふるう支配者として語られてきました。しかし、ここで罪は自分の外にあるのではなく、自分の内にあることが明らかになります。罪は、わたしの内にあって、わたしに「欲しないこと」を行わせる力なのです。「欲しないこと」を行っているのはもはや「わたし」ではありません。「わたし」は律法を善いものと認め、それに反することを行うことは「欲していない」のです。ところが、わたしの内にある別の力がわたしにその「欲しないこと」を行わせているのです。

わたしの内に住む罪―再説

 この重大な結論を、パウロは別の表現でもう一度提示して確認します(一八〜二〇節)。
 「わたしは、自分の中には、すなわちわたしの肉の中には、善が住んでいないことを知っています」(一八節前半)。すでに旧約の信仰者もこう告白していました。「あなたに背いたことをわたしは知っています」(詩篇五一・五)。神に背いていることを自覚して、「わたしは知っています」と告白する「わたし」の姿を、パウロはすでにこのような「悔い改めの詩篇」を通してよく知っています。その姿に自分を重ねて、パウロも「わたしは知っています」と告白します。
 
 この「わたし」がどの程度パウロ自身の告白であるのかを決めることはできません。パウロの手紙に見られるごく僅かの証言から、パウロの個人的な体験のすべてを推察することは無理です。しかし、キリストを知ってからのパウロは、キリストにあって自己の現実、ひいていは人間の現実をしっかりと見据えるようになったと見てよいと思います。ファリサイ派の時代のパウロは律法を行うことができる自分に自信を持ち、矛盾を感じないでいたかもしれませんが、キリストに出会って御霊の光に照らし出されたとき、「自分の中には善が住んでいない」ことをはっきりと知るようになります。
 
 そのことをパウロはすぐに、「わたしの肉の中には善が住んでいない」と言い直します。「肉」というのは、生まれながらの人間の本性を指すパウロに特徴的な用語です。御霊の光に照らし出されると、人間の本性は御霊が示す神の善性に逆らい敵対する性質のものであることが見えてくるのです。この「わたしの肉の中には善が住んでいない」という告白は、「肉の望むところは御霊に反し、御霊の望むところは肉に反する」というガラテヤ書(五・一七)の言葉を個人的な告白の形で表現したものになります。
 
 パウロはここで自分が「欲すること」と「欲しないこと」を「善」と「悪」という一般的な用語で表現しています。これは、先に(一四〜一七節で)律法にかなうから欲していることと、律法に禁じられているから欲していないことの対立として描いていたことを、律法のあるなしに関わらず人間存在の矛盾を描くために、善と悪という一般的な用語で言い直したと理解してよいでしょう。善と悪という用語で語ると、人間存在の矛盾は「善をなそうという意志はありますが、実際は善をしていないからです。わたしは自分が欲する善はしないで、欲しない悪を行っているのです」(一八節後半〜一九節)となります。
 
 この意志と行為の分裂は、先にも述べたように、どの世界でも古くから人間存在の矛盾として知られていました。それは理性と情欲の対立から生じる分裂とか様々な形で説明されますが、パウロはそれを人間の内に巣くう罪の仕業とするのです。もし人間が自分の欲している善をいつも自然に行う存在であれば、人間は救いを必要としないのです。人間は自分で自分を完成することができるはずです。ところが、現実には自分を分裂させる力の支配下にあるので、その力から解放・救出されなければ完成に至ることはできないのです。この罪による人間存在の分裂が、先に一七節で述べられたのとほぼ同じ文で繰り返され、確認されます。「それで、もしわたしが自分の欲しないことをしているのであれば、それを行っているのはもはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです」(二〇節)。

理性の律法と罪の律法

 このように重ねて、人間を分裂させ矛盾に陥れているのは「わたしの内に住んでいる罪」であることを確認した上で、パウロはこの事実を「律法」《ノモス》という語をあえて用いて「そこでわたしは、善をなそうと欲しているわたしに、悪が住みついているという律法に気づきます」(二一節)と表現します。ここの「律法」《ノモス》はモーセ律法でないことは明らかです。ここでは人間の在り方の規定という広い意味で用いられています。それで、多くの日本語訳では「法則」と訳されていますが、パウロはここでユダヤ人に向かって「律法」《ノモス》の本質を説いているところですから、《ノモス》にはこういう一面もあるのだということを理解するために、同じ訳語で統一する方がよいと考え、あえて同じ「律法」という訳語を用います。

 

 三・二七の「律法」についての注で指摘したように、とくにユダヤ人を意識して「律法」について議論しているときに、ギリシャ的な(あるいは近代的な)「法則」という思想を持ち込むことには、極度に慎重でなければなりません。「この語義の典拠は初期ギリシャ時代の文献に見いだされるだけで、古典時代およびヘレニズム時代の文献や、パウロ書簡の他の箇所には見出されない」(EKK ヴィルケンス)のであるからなおさらです。ヴルガタのラテン語訳や近代の英独仏など欧米語訳はみな、「法」を意味する同じ語(lex, law, Gesetz, loi)を用いて訳しています。  

 このようにこの段落の《ノモス》をみな「律法」と訳すると、パウロが次のように書いている箇所は理解し難くなるのは事実です。パウロはこう言っています。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの肢体の内に別の律法があってわたしの理性の律法と戦い、わたしの肢体の内にある罪の律法の中にわたしを閉じこめているのを見ます」(二二〜二三節)。
 
 たしかに、「理性の律法」とか「罪の律法」という日本語表現は、説明が困難です。それで、ほとんどの日本語訳では「神の律法」のところは「律法」という訳語を用い、他の箇所はみな「法則」としています。文語訳も「神の律法(おきて)」と「法(のり)」と訳し分けています。しかし、テキストの解釈は、パウロをはじめユダヤ人読者の常識と用法における《ノモス》から出発しなければならないと考えます。その上で、パウロが言っていることをわたしたちの現実に適用して受け取るべきでしょう。
 
 「わたしの肢体の内に別の律法があって」と言っているのは、「わたしの肢体の内にある罪の律法」のことを指していると見られますから、わたしの中で対立し抗争するのは「わたしの理性の律法」と「わたしの肢体の内にある罪の律法」の二つであることになります。「神の律法」は、わたしの外にあって、外からわたしに臨むものですから、わたしの内にあって「わたし」という人間存在を分裂させている律法は、「理性の律法」と「罪の律法」ということになります。

 

 「理性」と訳した語《ヌース》は、新約聖書に出てくる二四回の中、二一回までパウロ文書(パウロ七書簡とパウロの名による書簡)に出てきます。この語は、人間の精神的能力の中で、理解、判断、洞察する能力を指す語です。パウロはこの語を当時のヘレニズム世界のギリシア語における一般的な用例に従って、心,思い、理解(力)などという幅広い意味で用いています。ここでは、意志と行為を決定する道徳的な意識、すなわち実践理性を指していると見ることができます。「心」では漠然としすぎるので、「理性」という通常の訳語の方が適当と思われます。  

 パウロは、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいます」と言います。パウロはすでにコリントU四・一六で「内なる人」という表現を用いていました。そこでの「内なる人」は、御霊によって生きるいのちを指しており、地に属し朽ち果てる定めの「外なる人」と対立していました。ここではそれとは違い、人間一般の事態が問題になっており、わたしの内にあって「善をなそうと欲している」人間の一面を指しています。そして、パウロはこの「内なる人」を、ギリシア人に親しい「理性」という語を用いて、「わたしの理性」と言い換えます。
 
 石の板に刻まれ、「トーラー」(モーセ五書)に書き記され、ラビたちの伝承によって教えられる「律法」は外にあります。しかし、わたしの「内なる人」がその律法を喜び、その律法を善いものとして同意するかぎり、律法はわたしの内にあるものとなります。このように、わたしの理性によって同意され、わたしの内にあるものとなった律法が「わたしの理性の律法」です。
 
 それに対して、わたしの肢体の内に「別の律法」があります。「肢体」というのは、実際に行為をする身体の各部分を指しますが、ここでは「肉」(神に敵対する生まれながらの人間本性)に規定された人間の具体的な在り方を指しています。この肢体の中には、「理性の律法」とは別の律法があって、「理性の律法」と対立して戦い、わたしが神の律法を喜び行おうとするのを妨げ、反対のことを行わせているのです。この「わたしの肢体の内にあって」、わたしに欲しない悪を行わせる「別の律法」が「罪の律法」と呼ばれるのです。それも「律法」の一つの面なのです。「むさぼるな」という律法は、わたしの肢体の中にむさぼりを引き起こすのです。このように罪を引き起こし、人間を罪のとりこにするという面から見られた律法が「罪の律法」なのです。この「罪の律法」は、罪にある者は死ななければならないという断罪を含むので、「罪と死の律法」と呼ばれるのです(八・二)。
 
 わたしたちは「肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されています」(一四節)。その結果、わたしたちは「罪の律法の中に閉じこめられている」のです。「罪の律法」がわたしたちを閉じこめる牢獄になっているのです。ギリシア人は肉体が霊魂を閉じこめる牢獄であるとしていましたが、パウロは「律法」が人間を閉じこめる牢獄であるとするのです。本来聖にして善なる神の律法が、肉なる人間の中で「罪の律法」となり、人間を閉じこめる牢獄となっているのです。これは、ユダヤ教徒には途方もない宣言です。パウロは「律法からの解放」という福音の告知をユダヤ教徒に説明するために、このような律法についての複雑な議論を展開するのです。率直にいって、パウロの議論はユダヤ教徒でない者にはきわめて分かりにくい議論です。しかし、「律法を知っている」ユダヤ人には、律法の神聖を擁護しながら、同時に救いとは「律法からの解放」であることを説得するために、このような議論が必要だったのです。

分裂した人間の呻き

 こうして見ると、本来聖にして善なる神の律法が、肉に属する人間の内にあっては、「理性の律法」と「罪の律法」という互いに相反する相を示し、人間を分裂と矛盾に陥れている消息が明らかになってきます。神の聖なる律法を人間の内でこのように分裂させるのは、人間の内にあって人間を支配している「罪」の仕業です。その罪が人間を支配し、「欲する善を行わず、欲しない悪を行っている」という現実に引きずり込み、「罪の律法」という牢獄に閉じこめているているのです。そして、罪の支払う報酬は死ですから、「罪の律法」という牢獄は同時に、罪人に死の断罪を下す「死の律法」となるのです。このように、肉に属し罪に売り渡された「わたし」は、「罪と死の律法」という牢獄につながれた哀れな囚人ということになります。
 
 ここに来て、この段落で告白している「わたし」は誰を指すかというテキスト解釈の問題を超えて、「わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」(二四節)という叫びが、わたしたち一人ひとりの告白にならざるをえません。「からだ」《ソーマ》は、パウロにおいては、身体だけを指すのではなく、身体を備えた具体的な人間の全体を指します。その人間全体が、以上に見てきたように、罪の支配下にあって、律法によって断罪されている、すなわち死に定められているのです。それが「死のからだ」です。自分が死に定められているのであるから、自分で自分を救うことはできません。「誰がわたしを救い出してくれるであろうか」という叫びにならざるをえません。

 

 ローマの処刑方法として、死刑囚を死体に向かい合わせに結びつけ、革袋に入れて死に至らせるという方法があり、その処刑法を比喩にしているという説もありますが、パウロがそのような処刑法を念頭に置いてこの叫びを書いたのかどうかは分かりません。  

 パウロもキリストに出会うまでは、ファリサイ派ユダヤ教徒として律法を行い義とされることを目指して励み、自分が律法を行う義人であることに確信をもち、このような矛盾に苦悩することはなかったでしょう。しかし、キリストに遭遇し、その自分が神の遣わされた義人イエス・キリストを殺す側にいたことを知り、愕然として罪の支配の現実に気づきます。そして、キリストにあって御霊の光を受け、その光によって人間の現実を深く洞察させられます。とくに、ユダヤ教徒として律法との関わりにある人間の現実を反省させられます。その結果、ここに見たような革命的な律法理解に到達することになります。キリストにあるパウロも、肉に属する人間として、この悲痛な叫びを発しないではおれないのです。
 
 ユダヤ教徒でないわたしたちも、「欲する善は行わず、欲しない悪を行っている」という矛盾の中で、実は罪の支配下にいたのです。それを神の律法への背反と自覚することはなくても、神に背き、死に定められた存在であったのです。「死のからだ」の中で呻いていたのです。この二四節の悲痛な叫びは、宗教とか文明の違いを超えて、人間存在そのものが発する根元的な呻きであると言えます。

キリストにおける解放

 この悲痛な叫びに、突如、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します」(二五節前半)と、感謝の叫びが続きます。そして、この神への感謝の理由あるいは内容を述べる文が続きます。それが八章二節です。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」(八章二節)。悲痛な嘆きの後に突然救いの感謝の叫びが続くことは、悔い改めの詩篇によく見られる現象です(詩篇二二・二三、六九・三一など)。このような詩篇では、すでに救いを体験している者が、そこから救い出された苦難の大きさと苦悩の深さをその救いの感謝の前に述べているのですから、何の説明もなしに突然感謝と賛美へ移るのです。ここでパウロは、すでにキリストにあって救いを体験している者として、その視点からこれまで描いてきたアダムにある人間の実相(七・七〜二三)を、「わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」(二四節)という叫びでまとめた上で、突如、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と、神への感謝と賛美の声を発するのです。

 

 神への感謝の叫び(七章二五節前半)とその理由を述べる文(八章二節)の間にある二つの文(七章二五節後半と八章一節)は、この感謝の叫びとその理由を述べる思想の流れを著しく損ねています。それで現代の注解者には、この二つの文を後の編集または写本の段階での挿入と見る人もいます(後で書き加えられた傍注が本文に入り込んだ可能性があります)。わたしも二五節前半に八章二節を続けることで、パウロの言おうとすることが自然に理解できると考えますので、この七章二五節後半と八章一節の二つの文は括弧に入れて、後で別に取り扱います。また、八章二節はそれに続く三節以下と切り離すことはできませんから八章の講解で扱うべきですが、そこ(八章二節)での「律法」という用語を理解するために、「律法」問題を扱ってきたここまでの講解の一部としてここで取り上げ、次の八章の講解において、その出発点として改めて取り上げることにします。  

 「罪と死の律法」は、ここまでに見てきたように、肉に属する「わたし」を閉じこめている牢獄です。わたしは、そこから解放されることを切に願って呻いているのです。その解放の出来事が「わたしたちの主イエス・キリストによって」起こったのです。その解放を体験した者として、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します」と叫んだのです。その「わたしたちの主イエス・キリストによって」成し遂げられた解放を、パウロは「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、あなたを解放した」と表現します。

 

 「あなたを解放した」のところは、写本によって「わたしを解放した」あるいは「わたしたちを解放した」となっています。どれを採っても意味は同じですが、ここまでの「わたし」を主語にした思想の流れからすると、「わたし」と読むのが一番自然です。しかし、不自然な読み方の方が原本に近い可能性が高いとされます。ここでは底本にしたがって訳しておきます。  

 ここでわたしを解放するのが、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」とされていることが注目されます。「解放する」という動詞の主語は「律法」です。「律法」はわたしを閉じこめる牢獄であると同時に、わたしを解放する力でもある、とパウロは言うのです。律法によって律法から解放されるのです。律法がこのように矛盾した二面性を見せるのは、すでに同じ「神の律法」が人間の内において「理性の律法」と「罪の律法」という相反する方向の姿を見せていたのと同じです。
 
 律法がわたしを解放する力になるのは、それが「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」になるときです。律法は「アダムにある」わたしの内にあっては、「罪と死の律法」になっていました。ところが、「キリストにある」という場では、「いのちの御霊の律法」になるのです。律法は本来霊的なものです(七・一四)。霊なる神から発し、霊なる人間に向けられた言葉です。「キリストにある」場では、神の御霊が力強く働き、人間に語りかけられた神の言葉としての律法は、その本来の霊的な質を回復し、それを受ける人間に「いのち」を注ぎ与えるのです。御霊はいのちそのものです。その「いのちの御霊」が働く「キリストにある」場では、神から人間に語られる言葉(パウロはそれをなおユダヤ教の用語で「律法」と言っていますが)は、神のいのちを注ぐことによってわたしを「罪と死の律法」という牢獄から解放する力となるのです。
 
 パウロは第二部のはじめ(五・一二〜二一)でアダムとキリストを対比し、「アダムにある」と「キリストにある」という二つの場の違いを明らかにしました。「アダムにある」場では「罪が死によって支配している」のですが、「キリストにある」場では「恩恵が義によって支配している」のです(五・二一)。ここ(八章二節)には「アダムにある」という句はありませんが、七章で語られた「わたし」は「アダムにある」人間であり、「罪と死の律法」に閉じこめられているのは「アダムにある」人間であると言えます。アダムとキリストという二つの場の対比はここでも貫かれています。「アダムにある」場では、律法は「罪と死の律法」ですが、「キリストにある」場では、律法は「いのちの御霊の律法」となるのです。そして、この「キリストにあるいのちの御霊の律法が、(アダムにある)罪と死の律法からわたしを解放する」のです。
 
 すべてを律法との関係で見るユダヤ教徒には、「キリストにある」場で起こった解放の出来事も、律法の世界の出来事となり、このように「いのちの御霊の律法が罪と死の律法からわたしを解放した」と言うことになりますが、律法の外にいる者には必ずしもこのように表現する必要はありません。「いのちの御霊が(それは霊なるキリストに他なりません)、罪と死の現実からわたしを解放した」と言うことができます。事実、すぐに続く八章では、律法の内にある者にも外にある者にも等しく働く御霊によるいのちの現実が展開されることになります。

 

 八章の出発点として重要ですので、八章二節は改めて次の段落の講解で取り上げます。しかし、括弧に入れた七章二五節後半と八章一節の二つの文は、7章から八章への移行段落として、まとめてここで取り扱っておきます。  

二つの要約文?

 ここに見たように、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」という感謝の叫びの中に割り込むように、次の二つの文が挿入されています。
 
 「こうして、わたし自身は理性では神の律法に仕えていますが、肉によって罪の律法に仕えているのです」(七・二五)。
 「このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません」(八・一)。
 
 この二つの文は共に「こうして」とか「このゆえに」という、それまでの記述を要約する句《アラ・ウーン》で始まっています。お互いに何のつながりもない要約文が、この位置に二つ並んで出てくること自体が、この部分の理解を困難にしています。そしてさらに、それぞれの文も何を要約しているのか理解困難です。
 
 七章二五節は、先行する一四〜二三節を要約しているように見えますが、厳密に考察すると矛盾しています。二五節によると、「わたし自身」は理性では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えていることになりますが、同一の「わたし自身」が同時に二人の主人に「仕える」ことは、パウロが厳しく否定するところです(六・一六)。六・一五〜二三を書いたパウロがこの節を書いたとは考えられません。初期の読者が、パウロの記述を不正確に理解して要約した文を二四節の欄外に書き込み、それが写本の段階で本文に入れられたと見ざるをえません。
 
 八章一節も「このゆえに」という句で始まりますが、どこを指して「このゆえに」と言っているのか、先行する部分とつながりがありません。これも、八章二節の「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したから」という文を要約する傍注として欄外に書き込まれたものが、写本の段階で本文中に入り込んだと見ざるをえません。

 

 NTDのシュトゥールマッハーは、ユダヤ教ラビの講義やヘレニズム世界の学校で、ひとまとまりの議論の終わりとか最初に教師が内容の要約を短い句で掲げる習慣があることを例証として、この二つの文がパウロ自身によって書かれたものとしていますが、そうであっても、それがなぜこの位置に置かれているのかを説明することができません。また、七章の二五節を二三節の後ろに、八章の一節を二節の後ろに持ってくるなど、テキストの順序を変えて読もうとする説もありますが、これは写本の根拠が全然無く、文脈をますます混乱させる面がありますので、受け容れることはできません。これを傍注が本文に入り込んだものだとするケーゼマンやウィルケンス(EKK)の見方が妥当と考えられます。  



前章に戻る    次章に進む

目次に戻る   総目次に戻る