パウロによるキリストの福音 III

 第三章 罪の支配

   ― ローマ書翻訳と講解 3 ―


 6 ユダヤ人と律法 (2章17〜29節)


 17 ところで、もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、神との関係を誇り、 18 律法に教えられて御心を知り、何をなすべきかをわきまえ、 19 自分を盲人の導き手、闇の中にいる者たちの光、 20 無知な者たちの教育者、未熟な者たちの教師であると確信し、それを律法の中に知識と真理を具体的な形で持っているからだとするのであれば、 21 他人を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか。「盗むな」と説くあなたが、盗むのですか。 22 「姦淫するな」と言っているあなたが、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌っているあなたが、宮の物を盗むのですか。 23 律法を誇っているあなたが、律法に違反することで、神を辱めているのです。 24 実際、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」と書いてあるとおりです。
 25 割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です。けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となっているのです。 26だから、もし無割礼の者が律法の義の要求を守るならば、彼の無割礼は割礼と算定されることになるのではありませんか。 27 それで、生まれながら無割礼であるが律法を満たしている者が、律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなたを裁くことになるのです。 28 外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではないからです。 29 むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそユダヤ人であり、文字ではなく御霊による心の割礼こそ割礼なのです。そのような人の誉れは、人からではなく神から来るのです。

律法を誇るユダヤ人の律法違反

 ここまでで、パウロはすべての人間が神に背いていることを明らかにしてきました(一・一八〜二・一六)。その前半(一・一八〜三二)では、創造者である唯一の神から離れて偶像を拝む諸国民の背神と、その結果である人間性の退廃が糾弾されました。実は、この非難はユダヤ教の立場からする異邦人(異教徒)への批判・非難であったのですが、後半(二・一〜一六)で、そのように「人を裁く」ユダヤ人が、ユダヤ人という名をあげないで、同じように神に背いていると断定されました。先に見たように、ユダヤ人という名を上げないことに重要な意味があったのですが、ここからパウロは「ユダヤ人」と名指して、「人を裁きながら同じことをしている」ユダヤ人の背神を示して、ユダヤ人も例外ではないことを論じます。

 すでにユダヤ人は「律法《トーラー》を持つ者」として他の民と区別されていましたが(二・一二以下)、ここで《トーラー》を持つことを誇りとするユダヤ人の意識が直接取り上げられます(二・一七〜二〇)。周囲の異教徒たちの偶像宗教を非難するユダヤ人は、唯一の創造神を拝む自分たちを誇りをもって「ユダヤ人」すなわち「ユダヤ教徒」と呼んで、周囲の諸宗教の民と区別していました。

 新約聖書で用いられている《ユウダイオス》は「ユダヤ人」という意味の語であり、普通「ユダヤ人」と訳され、この私訳でもそう訳していますが、当時の用語法ではむしろ「ユダヤ教徒」を指す名称です。たとえば、「サマリア人」は「サマリア教徒」(ヨハネ福音書四章)、《クリスティアノイ》(キリスト人)は「キリスト教徒」(使徒一一・二六)という意味で用いられています。現代の語感では、「ユダヤ人」と「異邦人」という対比は、人種的・民族的対比を意味していると受け取られがちですので、ローマ書のように信仰上の問題を扱っている文書では、「ユダヤ教徒」と「異教徒」という語で理解する方が意味が明確になると思われます。そのため、この講解では以後場面に応じて「ユダヤ教徒」を用いることにします。

 続けてパウロはユダヤ教徒の誇りを列挙していきます(一七〜二〇節)。ユダヤ教徒の誇りの根拠は《トーラー》(律法)を与えられていることです。《トーラー》を与えられているということは、神との特別の契約関係にあるということです。《トーラー》は契約の言葉であり、《トーラー》を持つユダヤ教徒だけが、神から選ばれて特別の関わりにある民なのです。そして、「《トーラー》の中に(唯一神に関わる)知識と(コスモスの真相としての)真理を具体的な形で(自分たちの歴史的体験として)持っている」ので、この《トーラー》に教えられて、ユダヤ教徒だけが明確に神が人に求めておられるところを知り、人間とは何をなすべきか、いかに生きるべきかを知っている民であると誇っているのです。そして、《トーラー》を持たない異教徒たちを、このような知識をもたない「盲人」、「闇の中にいる者」、「無知な者」、「未熟な者」と呼び、自分たちユダヤ教徒こそ、そういう異教徒たちの「導き手」、「光(灯火)」、「教育者」、「教師」であると自認していたのです(パウロは当時のユダヤ教文献によく出てくる用語を用いて、ユダヤ教徒の自負と誇りを描いています)。預言者イザヤ(四二・六〜七、四九・六)が言ったように、自分たちユダヤ教徒こそ「主の僕」であり、「諸国民の光」として異教徒を教え、真の神の知識と真理に導き、救いをもたらさなければならないと自負していました。そのような使命感から、ユダヤ教徒は周囲のヘレニズム世界の人々に積極的に宣教活動をしていたのです(マタイ二三・一五参照)。
 
 パウロは「もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、・・・・・とするのであれば」という形でユダヤ教徒の誇りを列挙しますが、この「もし・・・・・ならば」は仮定ではなく、自覚を促す語りかけです。学生に学生たる本分を尽くすようにアピールするときに、「君がもし学生であるならば」と言うように、パウロはユダヤ教徒にユダヤ教徒としての自負を思い起こさせているのです。その上で、そのように《トーラー》を誇る者が《トーラー》に違反している事実を突きつけて、その責任の重さを強調するのです。
 
 パウロがここで「他人(異教徒)を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか」と言って、ユダヤ教徒が異教徒に《トーラー》を教えながら自ら違反している三つの罪をあげます。すなわち、盗み、姦淫、宮の物の盗みです。盗みと姦淫はどの社会ににもあることで説明は要りませんが、「宮の物を盗む」は「偶像を忌み嫌っている」ユダヤ教徒独特の罪です。この「宮」はエルサレム神殿ではなく偶像の宮を指します。偶像に属する金銀財宝は徹底的に焼き尽くすべきであると《トーラー》の命令(申命記七・二五〜二六)があるにもかかわらず、ディアスポラのユダヤ人がその売買に関わって利益を得ていることを指していると見られます。

 ユダヤ教社会にもこの他にいろいろと《トーラー》違反や犯罪行為があったでしょうが、とくにこの三つをあげるのは、パウロと同時代のフィロンにも並行例があり、当時のラビたちによってよく取り上げられ議論されていたことがうかがわれます。また、経験的には例外的な行為をユダヤ人共同体全体にとって代表的なこととして述べるのは、「黙示文学的見方による」(ケーゼマン)と見ることもできるし(黙示文学は神の民の中に見られる腐敗を終末の徴候の一つと見ました)、また、「彼らは言うだけで実行しない」という、シナゴーグに対する原始キリスト教の論争の定型的表現(ルカ一一章、マタイ二三章など)の一つである(ウイルケンス)と見ることもできます。

 こうして、「 律法を誇っている(一七〜二〇節)あなたが、律法に違反する(二一〜二二節)ことで、神を辱めている」と結論します(二三節)。《トーラー》が与えられたのは、それに従うことによって神の栄光を現すためでした。ところが、《トーラー》に違反することによって、周囲の民からそのような悪しきことをする民の神と見られるようになり、「神を辱めている」ことになるのです。ユダヤ教徒は日頃「神の大いなる名が称えられ、聖とされんことを」という「カデシュ」の祈りを口で唱えながら、実際の行為では神の名を汚しているというのです。そしてこの結論を、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」という聖書の言葉(イザヤ五二・五)を引用して根拠づけます(二四節)。

 このイザヤ書の箇所は、ヘブライ語聖書では「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている」ですが、七十人訳ギリシア語聖書は「わたしの名は常に、あなたがたのゆえに異邦人の間で汚されている」となっています。この引用は、ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人にとって、また初期キリスト教徒にとって、ヘブライ語聖書ではなく七十人訳ギリシア語聖書が正典聖書であったことを思い起こさせます。なお、イスラエルの民にゆえに主の名が異邦諸国民の間で汚されていることについては、エゼキエル書三六章一六〜二四節なども明白に語っています。

御霊による心の割礼

 次にパウロはユダヤ教徒との誇りである割礼を取り上げます(二五〜二九節)。ここまで(一七〜二四節)、《トーラー》を与えられていることが義の保証にならないことを示したパウロは、続けてユダヤ教徒が神と特別の契約関係にあることを保証する最も確かな拠り所としている割礼の有効性を問題にします。割礼の有効性を問題にすること自体がすでに正統ユダヤ教への挑戦です。

 「割礼」は男性性器の包皮を手術で切除する儀式で、古代諸民族によく見られる習慣ですが、イスラエルではヤハウェとの「契約のしるし」として重要な意味をもっていました(創世記一七章)。とくに捕囚期と捕囚以後においては、異教徒からユダヤ教徒を分かつしるしとして重視されました。それで、異教の支配者がユダヤ教を禁圧しようとするとき割礼禁止という形をとり(セレウコス朝のアンティオコス四世やローマ皇帝ハドリアヌス)、ユダヤ人はこれに命がけの抵抗をして、マカベヤ戦争やバルコクバ反乱となりました。
 ユダヤ人は生後八日目に割礼を受けました(フィリピ3・5)。異教徒がユダヤ教に改宗するには割礼を受けることが求められました。ユダヤ教会堂には、ユダヤ教の教えに引かれた異邦人が参加しましたが、割礼を受けるまでは正式のユダヤ教徒とは認められず、「神を敬う者」と呼ばれました。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、異邦人を「無割礼の者」と呼んで、不浄の民であるとしました。

 パウロは「 割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です」と言って、割礼の意義を認めます。しかし、割礼が主との「契約のしるし」という意義を持つ(有効である)のは、あくまで《トーラー》を行い実現している場合です。割礼という儀礼にあずかっていること自体が、神の民であることを保証するものではないのです。「けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら」、契約を破っているのですから、割礼は「契約のしるし」としての意義を持たず(無効となり)、「あなたの割礼は無割礼となっているのです」(動詞は完了形で、すでに無割礼となってしまっている)。身体に割礼の跡をとどめていても、ユダヤ教徒が不浄の民として軽蔑する「無割礼の異教徒」と同じだというのです。こうしてパウロは、割礼という外面的儀礼を神との関係の保証だとするユダヤ教の錯覚を粉砕します。パウロは、儀礼に客体的な有効性を保証するすべての「宗教」の錯覚を粉砕するのです。
 
 続いてパウロは、同じ原理を反対側から描きます。パウロはすでに「《トーラー》を持たない異教徒が、《トーラー》が求めるところを自然に行う」場合を論じていました(二・一四)。ここで、「《トーラー》を持たない異教徒」を「無割礼の者」とか「生まれながら無割礼である(者)」という表現で指して、彼らが《トーラー》の要求を満たす場合を取り上げます(二六〜二七節)。その箇所(二・一四)の講解でも触れましたように、《トーラー》を持たない異教徒が《トーラー》の要求を「自然に」満たす可能性は、すでにヘレニズム期のユダヤ教が知っていた「書かれざる律法」という原理によっていました。たしかに、原理としてはそうですが、パウロがこのような場合を論拠にしてここに見るようなユダヤ教徒には革命的な主張をすることができるのは、やはり生まれながら無割礼である異教徒が御霊によって《トーラー》の要求を満たしているという、「キリストにある」現実を念頭に置いているからであると考えられます。そのことは、ここで「御霊による心の割礼」が言及されていることからもうかがえます。
 
 このような場合(無割礼の者が律法の義の要求を守る場合)、「彼の無割礼は割礼と算定されることになる」とか、「律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなた(ユダヤ教徒)を裁くことになる」というのは、(両方とも動詞は未来形であり)最終的な神の裁きの場で起こることを指しています。現在のユダヤ教徒が想像もできないことが終末の裁きで起こるというのです。割礼を受けているユダヤ教徒が無割礼の汚れた者として退けられ、割礼を受けていない者が割礼ありと「算定されて」受け入れられるというのです。「算定される」という動詞は、四章でアブラハムについて繰り返し「義と認められた」と語られているときの動詞と同じです。すぐ後に述べることになる「信仰によって義と認められる」という福音の原理を、パウロはここで先取りして用いているのです。
 
 それだけでなく、無割礼の異教徒が割礼のあるユダヤ教徒を裁くことになるのです。黙示文学に、終わりの日には救われたイスラエルが自分たちを迫害した異邦諸国民を裁くという期待がありますが、パウロはこの期待を逆転して、律法を満たした異教徒が律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるユダヤ教徒を裁くようになるというのです。ただし、この場合の「裁く」は、世界を裁くのはあくまで神だけですから、自らが裁判官の席に着いて裁くのではなく、神が外見ではなく各自のなしたことに従って裁かれるとき(二・六)、その裁きの正しさを証言する者となる、と理解すべきでしょう。福音書(ルカ一一・三二)に、悔い改めた異教のニネベの人たちが、裁きの時に「今の時代と一緒に(神の裁きの座の前に)立ち上がり、これ(ヨナに勝る者の宣教にも悔い改めないイスラエル)を罪に定める」と語られているのも同じです。

 黙示思想には「聖なる者が世を裁く」という思想があります。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。そして、さらに天使への裁きに聖徒が参与すると理解されて、「聖なる者たちは天使をも裁く」(コリントI6・3)という思想になったと見られます。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、また、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。このような黙示思想の流れの中で、パウロがそれを逆転して、割礼の者と算定された異教徒が裁きの座に着いて、律法違反の割礼の者たち(ユダヤ教徒)を裁くことを語った可能性もあります。しかしここでは、福音書の並行事例に従い、証人として神の裁きの正しさを証明すると理解します。なお、引用した福音書の語録は「語録資料Q」からのものです。

 こうして、「 外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」という原理が、神の正しい裁きの帰結として確認されます(二八節)。そして、その原理の肯定的な面として、「 むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそ(真の)ユダヤ人である」という重大な宣言がなされます(二九節)。この「隠れたところにおけるユダヤ教徒」は、「外見上のユダヤ教徒」と対照されています。「外見上のユダヤ教徒」とは「肉に施された外見上の割礼」を受け、書かれた文字としての《トーラー》を持ち、《トーラー》に従って生活することを標榜している者たちのことです。それに対して、「隠れたところにおけるユダヤ教徒」とは、「肉に施された外見上の割礼」は受けていないが「御霊による心の割礼」を受けており、書かれた文字としての《トーラー》はもっていないが、《トーラー》が求めるところを現実の歩みにおいて満たしている者たちのことです。そのような者があることを、パウロは長年の異邦人伝道によってよく知っているのです。そして、そのような「隠れたところにおけるユダヤ人」の誉れは、「人からではなく神から来る」、すなわち、人からユダヤ教徒と認められなくても、神からそう認められると言って議論を締め括ります。ここで神から契約の民ユダヤ教徒と認められることが「誉れ」という語で語られるのは、ユダヤ人とかユダヤ教徒という名称は名祖のユダから来ていますが、「ユダ」という名は「ほめる」という動詞から来ているとされているからです(創世記二九・二五)。ユダヤ人は自分たちこそ神からの誉れにあずかっている民だと誇っていましたが、パウロはそれを「外見上のユダヤ人」ではなく、「隠れたところにおけるユダヤ人」のものとするのです。
 
 この割礼の意義を論じる箇所に、「御霊による心の割礼」というパウロの福音の中心的な内容を指し示す句が出てきます。「心の割礼」の重要性はすでに預言者たちによって説かれていました(申命記10・16、 30・6、 エレミヤ4・4、 9・25、 エゼキエル44・7)。また、当時の死海文書やフィロンなどのユダヤ教文書にも「心の割礼」を重視する主張が見られます。しかし、ユダヤ教の中で、神の契約の民となるのに割礼が必要であることを否定する者はありません。割礼はユダヤ教の生命線です。パウロはその一線を超えて、神の民となるのに必要なのは「御霊による心の割礼」であって、モーセ律法による(文字による)身体の割礼は必要でないとするに至ります(ガラテヤ書)。「心の割礼」とは、内面の根底的な転換を、ユダヤ教の割礼儀礼を比喩として用いて表現したもので、それは御霊によって古い存在の殻が破られ、その中から新しい人が生まれ出るとき、初めて実現するのです。預言者たちが説いた「心の割礼」は、御霊を受けることによって実現するのです。
 
 パウロは、ユダヤ人が誇る割礼を「文字による外見上の(身体の)割礼」とし、これと対照して、神の民と認められるのに有効な割礼とは、「御霊による心の割礼」だとします。これがなければ、身体に受けている割礼は無意味だとするのです。この「御霊による心の割礼」を受けていれば、身体の割礼はあってもなくてもよいとするのです(ガラテヤ6・15)。ガラテヤ書の講解で詳しく見ましたように、パウロはこの原理によってユダヤ教を乗りこえるのです。熱烈なユダヤ教徒パウロが、あの堅いユダヤ教の殻を突破して、自由な福音の境地に生き、それを宣べ伝えるようになったのは、ただ一つ「御霊による」という現実を体験して知ったからです。この「御霊による」現実は、第二部(とくに8章)で詳しく展開されることになりますが、ユダヤ教徒も罪の下にある点では例外でないことを論じるこの箇所で、その事実を見させる原点として、「御霊による割礼」という句で言及されるのです。

 パウロは、信じる者が聖霊を受けて新しい命に生きるようになることを、ユダヤ教儀礼である割礼を比喩として用い、「御霊による心の割礼」と呼んでいますが、「聖霊によるバプテスマ」という呼び方はまだしていません。強いて捜せば、「一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされた」(コリントI一二・一二直訳)という表現がありますが、聖霊が与えられることを強調しながらも、それを「聖霊のバプテスマ」と呼ぶことはありません。この呼び方はマルコ福音書以降になります。七〇年代以降の福音書の時代になって、他のバプテスマ運動との差異を強調するために、「水によるバプテスマ」に対して「聖霊によるバプテスマ」という呼び方が用いられるようになります(福音講話「聖霊のバプテスマ」参照)。この呼び方も、パウロの「御霊による心の割礼」を源流としていると見てよいでしょう。

 7 ユダヤ人からの抗議 (3章1〜8節)

  1 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。また、割礼の益は何か」。 2 それはすべての面で多くあります。まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです。3 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」。 4 決してそんなことはありません。すべての人を偽り者として、神が真実とされますように。「あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう」と書かれているとおりです。
  5 「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」 ――わたしは人間の論法に従って語っているのです。 6 決してそうではありません。そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう。
  7 「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」。8 わたしたちは中傷され、わたしたちが「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と言っていると、ある者たちが噂しているが、そのような者が断罪されるのは当然です。
 

ユダヤ人に対する神の信実

 これまで進めてきたパウロの議論は、ユダヤ教徒と異教徒を同列に置いて、ユダヤ教徒が誇る《トーラー》と割礼の救済史的意義を無視しているように思われます。そこで当然、ユダヤ教徒から抗議の声があがります。パウロはその抗議を自分の方から取り上げて、その抗議を退けます。この段落は、論者であるパウロ自身が反論を立てて、それに答えていくという「ディアトリベー」と呼ばれる論争文体が用いられていると見られます。この訳では、ユダヤ人論敵の抗議と見られる文は「 」で示してあります。

 ここに立てられている反論は、(イエスを信じない)ユダヤ教徒からものか、それともパウロの割礼なしの福音に反対した「ユダヤ主義者」(異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ人伝道者)からのもの(シュトゥールマッハー)かが問題になります。たしかにパウロは、ガラテヤ、フィリピ、コリントと、パウロの割礼なしの福音を覆すために働きかけてきた「ユダヤ主義者」の働きがローマにまで及ぶのを恐れて、彼らの反論に対して自分の福音を弁証するためにこの書簡を書いたという面があります。しかし、ここの文脈(神に背いている人間であるという点ではユダヤ人も例外ではなく、異邦人と同じであることを示そうとする文脈)では、とくに「ユダヤ主義者」に限定する必要はなく、彼らも含んでユダヤ教徒一般を指すと理解してよいでしょう。

  「では、ユダヤ人の優れた点は何か。すなわち、割礼を受けてユダヤ教徒であることのの益は何か。お前の議論では何もなくなるのではないか。神がユダヤ人を選ばれた意味はなくなるのではないか」(一節)という抗議に、パウロは「たしかに何もない」と否定するのではなく、「 それはすべての面で多くあります」と言って、ユダヤ教徒であることの救済史的な特権を認めます。そして、その「多くある」特権を数え上げようとして、「まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです」と言います(二節)。事実、イスラエルの選びの意義を正面から取り上げる第三部(九〜一一章)では、その多くの特権が列挙されています(九・四〜五)。しかし、ここでは第二以下は触れられことなく、「神のもろもろの言葉が信託された」という基本的な特権だけが取り上げられます。
 
  「神のもろもろの言葉」というのは、イスラエルの歴史の中で与えられた契約の言葉、律法、預言、約束など、神を啓示する様々な種類の言葉を指しています。神はイスラエルの民を信じて、その導きの歴史の中で御言葉を委ねられたのです。そのようにしてイスラエルの歴史の中で委ねられた神の言葉を土台にして成立したユダヤ教《トーラー》を持つことは、他の異邦諸国民にはないユダヤ人だけの特権です。この特権を認める点では、パウロは他のユダヤ人と同じです。
 
  ところが、福音を信じないユダヤ人から反論が起こります。もしイエスがイスラエルに約束されたメシア・キリストであるならば、イスラエルの民は全体としてはイエスをメシア・キリストと信じていないのであるから、神の契約とか約束の言葉は無効になるのではないか、という反論です。パウロはその反論を自分の言葉で表現します。 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」(三節)。実はパウロは、イスラエルの「ある者たち」(実は大多数)がイエスを信じないからといって神の言葉が無効になったのではないことを、九章六節以下で詳しく論じることになるのですが、ここでは先を急ぎ、ほとんど議論をしないで、「 決してそんなことはありません」と断定します。その断定は、「すべての人を偽り者として、神が真実とされますように」(人間は偽るものだが、神は本性上偽ることはありえない)という一般的原理によってなされます。そして、その原理を聖書の一句、「あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう」(詩編五一・六後半、ただし引用は七十人訳ギリシア語聖書から微妙な変更をして)を引用して根拠づけて、この抗議に対する反論を終えます(四節)。現代の人間には強引な反論の仕方に見えますが、聖書を絶対とするユダヤ教徒の間の論争では、聖書の言葉を引用して反論を封じることは普通のことです。

中傷にたいする反論

 次にパウロは、不信心な者、不義なる者を義とする神の義(四・五)というパウロの福音宣教に対する反論を取り上げます。パウロに反対するユダヤ教徒は、パウロが主張する「神の義」の論理的矛盾を衝きます。パウロ自身が彼らの反論をまとめます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」(五節)。パウロが主張するように、もし神の義が不義なる人間を義とする働きにあるならば、そのような神の義は人間の不義があって初めて成立するものである。そうすると、自分の義を貫くために人間の不義を必要としながら、その不義なる人間に怒りを注ぐ(処罰する)とは、神の振る舞いに矛盾があることになる。すなわち、神は不義となるのではないか。したがって、パウロが主張するような「神の義」はありえない、という論法です。
 
 このように論敵の反論をまとめながら、かりそめにも「神は不義ではないのか」というような冒涜的な言葉を発するのは、論敵の人間的な論理による批判を引用しているだけだとして、「わたしは人間の論法に従って語っているのです」という断り書きを付け加えないではおれないのです。その上で、「決してそうではありません」と断固否定します。ここでも詳しい議論は一切しないで、神が不義であるという結論など、とんでもないことだと退けます。パウロが宣べ伝える「神の義」とはどういうものか、パウロはこの書簡全体(とくに第一部と第二部で)展開するのですが、ここでは先を急ぎ、「そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう」という、ユダヤ教徒には当然の前提(神は世界の審判者であるというユダヤ教の公理)を持ち出して反論を退けます。
 
 パウロはさらにユダヤ教側からの反論をまとめます。「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」(七節)。この反論は、先の「わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、わたしたちに怒りを注ぐ神は不義ではないのか」という反論と論理的構造が同じです。先の「わたしたちの不義」と「神の義」の対比が、ここでは「わたしたちの偽り」と「神の真実」という対比に変わっているだけです。この反論が出ることから逆に、パウロの福音宣教には、「不義なる者を義とする神の義」の告知と並んで、「不信実な人間を支える神の信実」という告知が際だっていたことがうかがわれます。「不義なる者を義とする神の義」については、パウロはこの書簡全体を通して弁証の議論を展開しますが、「不信実な人間を支える神の信実」という主張は、表面に現れて組織的に論じられることはありません。しかし、パウロ書簡の全体に底流として流れており、パウロの救済論の土台になっている事実を見逃してはなりません。

 三節では「信じる」という動詞とその名詞形である「信実《ピスティス》」と「不信実《アピスティス》」が用いられ、「神の信実《ピスティス》」という重要な句が出てきます。これはパウロに特徴的な表現です。それに対して、四節と七節では、人間の「偽り」に対して「真実な」と「神の真実《アレーセイア》」という表現が用いられています。この語は、七十人訳ギリシア語聖書が神の「まこと、誠実」を《アレーセイア》で訳していることから、新約聖書でもよく用いられ、パウロも聖書(とくに詩編)の表現を意識してこの語を用いていると考えられます。両者は同じと見てよいでしょう。新共同訳は両方とも「真実」と訳していますが、この講解ではパウロ的な表現である「神の信実」を用いて講解を進めます。

 パウロは、人間の不信実と対比して(人間の信実をあてにしないで)「神の信実」を救済の土台と見ていたことが、書簡の各所に見られます。この段落以外では、ロマ一五・八、コリントT一・九、コリントT一〇・一三、コリントU一・一八などです。パウロはこの主張を書簡で組織的に展開していませんが、論敵が「不信実な人間を支える神の信実」というパウロの主張を取り上げて非難している事実は、パウロの福音宣教においてこの主張が際だっていたことを示しています。パウロのこの主張はパウロ系の諸教会で受け取られて、「パウロの名による書簡」の時代になると、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテU二・一三)という信仰告白の形で定式化されます。わたしは、マルコ福音書の「神の信実に生きよ」(マルコ一一・二二私訳)という信仰理解もこの線上にあると考えています。そこから、「絶信の信」の消息が出てくることになります(マルコ福音書の当該箇所の講解を参照)。
 
 この反論(七節)にはパウロはもはや答えることをしないで、二つの反論(五節と七節)をまとめて、「わたしたちは中傷され、わたしたちが『善を来たらせるために、悪をしようではないか』と言っていると、ある者たちが噂している」(八節)と言います。この二つの反論は自分たちの福音宣教に対する中傷だというのです。パウロに反対するユダヤ教徒は、パウロの福音に含まれる主張、「不義なる者を義とする神の義」と「不信実な人間を支える神の信実」という恩恵の告知をねじ曲げて、それは「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と主張していることだと言いふらしているのです。神の義とか神の信実(という善)を現すために、人間は不義を働くとか、偽りを行うという悪をしておればよいのだ、とパウロは主張していることになるとして、パウロの福音に反対しているのです。
 
 このように、パウロはこの二つの反論を「中傷」だとするので、中傷にはもはや議論で対抗せず、「そのような者が断罪されるのは当然です」という一言で退けて、このユダヤ人からの抗議に対する議論を切り上げます。「そのような者」が、パウロを中傷する者を指すのか、「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と考える者を指すのか、両方の解釈が可能ですが、自分に反対の議論をする者を断罪するよりは、「善を来たらせるために、悪をしようではないか」というような原理に生きる者が神からの断罪を受けることは明白であるとして、中傷が的外れであることを示そうとしたと理解する方が適当でしょう。
 
 この段落(三・一〜八)は、これまでのパウロの議論(とくに二・一七〜二九)に対して、ユダヤ教徒からの抗議を取り上げています。パウロはこの抗議に対して、議論らしい議論はしないで、聖書を引用したり、ユダヤ教的公理を指すだけで退けています。パウロはここでは、次の段落で示そうとしている「ユダヤ人もギリシア人もすべて罪の下にある」(三・九)という結論に至るために、議論を省いて急いでいます。しかし、この抗議は神学的にはパウロの福音の問題点を鋭く衝いており、パウロはこの書簡全体で弁証の議論を展開することになります。したがって、ここに取り上げられた抗議の論点は、これからのパウロの福音弁証の議論を理解するための視点としての意味を持っていると考えられます。その意味でこの段落は重要です。
 

 8 義人は一人もいない (3章9〜20節)

 9 では、どうなのか。わたしたちには優れたところがあるのでしょうか。全くありません。わたしたちはすでに、ユダヤ人もギリシア人もすべて罪の下にあると告発しました。
 10 次のように書かれているとおりです。
  「義人はいない。一人もいない。
 11 悟る者はなく、神を求める者もいない。
 12 すべての者は迷い出て、共に無益な者となった。
   慈愛を行う者はいない。一人もいない。
 13 彼らののどは開いた墓であり、
   彼らは舌で人を欺き、
   彼らの唇の下にはまむしの毒がある。
 14 その口は呪いと苦さに満ち、
 15 彼らの足は血を流すのに速く、
 16 彼らの道には破壊と悲惨ばかりがあり、
 17 彼らは平和の道を知らない。
 18 彼らの目には神への畏れがない」。
 19 ところで、律法が言うことはすべて律法の下にいる者たちに向かって語っているのだということを、わたしたちは知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。20 それゆえ、律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはないのです。律法によって罪の認識が生じるのですから。

罪の支配下にある人間

 このようにユダヤ人からの抗議に反論したあと、改めて「では、ユダヤ人の優れた点は何か」(一節)というユダヤ人からの抗議を取り上げます。今回は、パウロは自分もその仲間の一員として、「では、どうなのか。わたしたち(ユダヤ人)には優れたところがあるのでしょうか」と自ら設問して、「全くありません」と全面的に否定します(九節前半)。前段ではユダヤ人の救済史的な特権が認められていましたが(三・一〜二)、それがあるからといって「では、どうなのか。そういう特権を与えられたユダヤ人は、異教徒より優れた者となっているか。全然そうではない」として、パウロがすでに指摘し告発したように(一・一八〜二・二九)、神に背いている点ではユダヤ教徒も異教徒とまったく変わらないと断定します。そして、「ユダヤ人もギリシア人(異教諸民族)もすべて罪の下にある」という結論を掲げます(九節後半)。これが第一部前半(一・一八〜三・二〇)の結論です。

 ここで、ローマ書では初めて「罪」という用語が現れます。ここの「罪」は単数形です。ユダヤ教では罪とは律法の規定に違反する行為ですから、様々な罪、多くの罪があるわけで、普通複数形で現れます。ところがパウロは、聖書や定型的な信仰告白文を引用する場合の僅かな例外を除いて、いつも「罪」を単数形で用いています。これは、パウロが罪を個々の律法違反の行為ではなく、一つの力として理解していることを示しています。パウロがここで「罪の下にある」というのは、罪という一つの力の支配下にあるという意味です。そういう理解で、RSV(改正標準訳)はここを「罪の力の下にある」と訳しています。
 
 パウロは、罪とは何かを定義したり説明したりしていません。パウロ書簡全体から、パウロは罪を一つの支配力、人間を神に敵対する方向に支配する力であると見ていることが分かります。パウロにとって、救いとはこの罪の支配力(とその支配の結果である死)からの解放です。それで、「救いに至らせる神の力」としての福音を提示するためには、まずすべての人間が罪の力の支配下にある事実を明らかにしなければならないのです。パウロはここまでの議論(一・一八からここまで)でそれをしてきました。その中でとくに、ユダヤ人も例外でないことを強調してきました(二・一〜三・八)。罪という語を用いないで、罪の支配の結果、ユダヤ教徒も異教徒も区別なく、すべての人間が神に背いている事実を明らかにしたのです。そして今、結論としてそれが罪の支配の結果であると明言するに至るのです。これまで背後に隠れていた黒幕が名指され、表面に現れるのです。

 ローマ書における「罪」《ハマルティア》の用例を調べると、複数形は四・七と七・五の二カ所だけです。他はすべて単数形ですが、その分布はローマ書理解にとって重要な点を示唆しています。第一部(一・一八〜五・一一)では僅か四回しか用いられていませんが、第二部(五・一二〜八・三九)では四一回に及んでいます。第一部の四回は、この結論を述べる段落での二回(三・九、三・二〇)と聖書引用の二回(四・七、四・八)です。この分布は、パウロが救いの本体である「罪と死の支配からの解放」を扱っているのは第二部であることを示しています。罪の正体とその力(働き)については、第二部を詳しく見なければなりません。第一部では、すべての人間を神に背かせているのは罪という隠れた支配力であると、最後に黒幕が名指されて、第二部での主役としての登場を準備するのです。今回、この結論を主題として「罪の支配」という標題をつけましたが、「罪の支配」の実態は第二部で詳しく論じなければならない問題です。

律法からの証明

 次にパウロは、この「ユダヤ人もギリシア人もすべて罪の下にある」という結論を、聖書からの引用で論証します(一〇〜一八節)。パウロは詩編とイザヤ書から次々に引用して、「義人はいない。一人もいない」(一〇節)ことを、聖書自身が証言していることを示します。その内容を一つ一つ解説する必要はないと思いますが、概略だけ見ておきます。
 
 最初に人間の無知無明、愚かさ、かたくなさがあげられ(一一〜一二節)、続いてのど、舌、唇、口、足、目など身体の器官の働きという比喩で「罪の支配下にある」人間の言葉と行動が象徴的に描かれます(一三〜一八節)。そして、そのような結果から、すべての人間は「平和の道を知らず」(一七節)、「神への畏れがない」(一八節)と結論づけられます。全体のバランスからいうと、のど、舌、唇、口など言葉を発する器官が多いのが目立ちます。これらの器官の働き、すなわち言葉に現れた人間の退廃が強調されています。それは、言葉を発する源である心が腐敗していることを示しています。人間を人間ならしめている心と言葉が腐敗しているのです。その結果、足で象徴される人間の行動がすべて破壊と悲惨ばかりとなり、平和《シャローム》を実現することができないのです。人間性の奥底に殺人に走る傾向(血を流すのに速い)という根元的な悪があるのです。こうして、「罪の支配下にある」人間の悲惨が、聖書の言葉によって描写されます。

 参考のために引用箇所をあげると、一〇〜一二節は詩編一四・一〜三から(七十人訳ギリシア語聖書一三・一〜三のテキストが一部変更されて引用されている。パウロが「善を行う者はいない」の章句を「義人」に変更して、全体の標題にしたと見られる)。一三節は詩編五・一〇から。一四節は詩編一〇・七から。一五〜一七節はイザヤ書五九・七〜八から。一八節は詩編三六・二から。それぞれ七十人訳ギリシア語聖書を少しづつ変更して引用しています。



律法の働き

 このように聖書を引用して、「義人はいない。一人もいない」ことを論証してから、「ところで、律法が言うことはすべて律法の下にいる者たちに向かって語っているのだ」(一九節前半)と、ユダヤ教徒にトドメを刺します。そもそも《トーラー》は異教徒にではなく、ユダヤ教徒に語りかける書です。神はユダヤ教徒に向かって「(お前たちの中には)義人はいない」と断定しておられるのです。これまでパウロは、神に背いている点ではユダヤ教徒も異教徒と何ら変わることがないと主張してきましたが、最後にユダヤ教徒が神からの語りかけとしている《トーラー》(詩編も預言者も《トーラー》に含まれます)の言葉そのものが、はっきりと「《トーラー》の下にいるユダヤ教徒に」そう語っていることを示して、ユダヤ教徒も例外でないことを確認します。こうして「(ユダヤ教徒も含めて)すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(一九節後半)のです。

 このように律法自身が、律法の下にいるユダヤ教徒に向かって「義人はいない」と断定しているのですから、「律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはない」ということが結論されます(二〇節前半)。そもそも律法は、それを実行することによって義とされるために与えられたものではなく、「律法によって罪の認識が生じ」、罪の認識によって悔い改めと信仰に至らせるために与えられたものですから、この結論(律法の実行によっては、だれ一人神の前に義とされることはないという結論)は律法の本質からしても当然です(二〇節後半)。ここには、パウロがすでにガラテヤ書(三章、とくに一九節)で表明している律法観が簡潔にまとめられて、ユダヤ教徒も例外でないことを論証するのに用いられています。

 二〇節は《ディオティ》という接続詞で始まっています。この接続詞は、(1)原因や理由を示す文節を導く場合(because)、(2)推論とか結果を示す文節を導く場合(therefore)、(3)確認を示す《ホティ》の代わりに用いられる場合(for, because)があります。ほとんどの翻訳は(1)または(3)をとって、「(なぜならば)〜からである」と訳していますが、僅かながら(2)をとって、「それゆえ」とする有力な訳もあります(たとえばカルヴィン、ケーゼマン)。多数訳は、律法の実行によっては義とされないことがここまでの議論(2章)で確立されているとして、それを理由にユダヤ人も断罪されているという聖書の引用(10〜18節)を根拠づけることになります。「それゆえ」という訳は、逆に、聖書がユダヤ人に向かって語ること(10〜18節)を根拠にして、律法の実行によっては義とされないという主張を根拠づけることになります。これまでの議論の流れからして、「それゆえに」と理解する方が適切であると考えます。 なお、パウロの律法観については、第一部第四章第二節の中の「律法の役割と位置」を参照してください。

 こうして、信仰による義を提示する前提として、人間は誰一人として神の前に義ではありえないことを論証したのですが、その議論を見ていますと、パウロがとくにユダヤ教徒に対して律法の実行による義を否定するのに力を入れていることがうかがわれます。二章一節以下の全体がそのために当てられています。この事実は、ローマ書がおもにユダヤ人を念頭に置いて書かれているということを改めて確認させます。


 

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