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福音と復活者キリストに光を投げかける
〈評者〉 水垣 渉

     表題および下記の一文は、月刊キリスト教書評誌「本のひろば」2022年10月号に掲載された、
     市川喜一著『真理の霊が来るとき』に対する書評です。

 著者市川喜一氏は、1930年の生まれ、1956年に京大大学院法学研究科を中退して独立伝道を開始、その志を生涯貫いて現在に至っておられる。本書の副題は、「復活者キリストを証言する新約聖書」である。まさに著者は、新約全体に取り組んだ末に本書を著された。

 本書の目的は本文末尾の一文が明示している(143頁)。「読者の皆さまが・・・・・・福音が告知する復活者キリストの現実に飛び込んできて、神が信じる者に与えてくださる聖霊により、復活者キリストにリアリティーに直面し、このキリストに従い、キリストにあって生きることによって、その復活者キリストから与えられる聖霊により信仰と愛と希望に生きることを切に願って、この書をお届けします」。

 著者のこの言葉には重厚な裏付けがある。それが『市川喜一著作集』全二十四巻であって、そこには新約全書への研究と講解、さらに多くの聖書講話や神学的にも重要な最初期キリスト教史や諸宗教の問題への解明が含まれている。これらに言及するのは、恐らく著者の最終の著作になろう本書が、近現代の歴史的新約研究の成果を踏まえつつ、独自の思考を練り上げて成ったことを確認したいからである。その際手掛かりになったのが、ヨハネ福音書と二つのコリント書簡である。ヨハネ福音書は本書の主題からすれば当然であるが、コリント書簡はやや意外の感を与えるかもしれない。新約に親しんできた著者にも新たな発見であったようである。このような例が本書には豊かに含まれていて、読者には巻を措(お)かせない刺激を絶えず与えてくれる。

 新約聖書二十七巻の文書は、生前のイエスの伝承を含んでいるにしても、すべて主イエスの復活後に書かれている。つまり復活者イエス・キリストを信じた人々によって著されたのが新約聖書である。しかし復活「後」といっても、単なる遠い過去のことではなく、「今」のことである(この「今」は歴史的な意味での「現在」でもない―著者の「永遠」論は神学的にも意義深い)。つまり聖霊によって開かれる「今」である。それは「復活者キリストの現実に《飛び込んできて》」という「決断、飛躍」を要求する「今」である。

 しかしこの決断も「聖霊の賜物としての信仰」(第六章)によるのであって、自力的律法的わざによるのではない。著者は「律法」を「宗教としてのユダヤ教」と解し、パウロのロマ書における律法批判を宗教批判に通じると説く。だから復活者キリストは宗教としてのキリスト教を含む宗教批判にもなる。これは「宗教としてのキリスト教とその教会」(このことは、国家から宗教と認められることによって各種の免税措置が受けられるという我が国の事情からもすぐわかる)に対して福音が発揮する本質的批判的機能である。「現実のキリスト教世界で切り捨てられることが多い」「死者の復活」(107頁)についても、復活者キリストの福音は、宗教を超えて広がりゆく威力を持つことを著者は明らかにする。

 福音が福音である根本に光を投げかけたのが、本書の現代的意義であろう。つまり、著者が中心となっている「新約原典研究会」に加わってきた書評子は、本書に「宗教」改革的意義を認めたいのである。 (みずがき・わたる=京都大学名誉教授)
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