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「真理の霊が来るとき」を読んで
広島  谷廣ミサヱ

「真理の霊が来るとき」という市川喜一先生の三〇冊目の著書を読んだ時、若い頃の先生の講筵の後のお祈りの時のことを思い出しました。

 大勢の兄弟姉妹が共に祈り続けると、その祈りが次第に異言になり、異言の大合唱なっていました。まだその頃にはよく解りませんでしたが、その時に聖霊が各々の上に降っていたのだと今は思います。「聖霊が来る」ことを「真理の霊が来る」と表現されてといると思います。

 「聖霊」という言葉は現代人には敬遠されているかも知れませんが、実は過去と現在と未来に亘って世界を正しい方向に向かわせている現実の力であり愛であると思います。私たちは物心がついて以来それなりに真理というものを求めて苦労を重ねて来ました。真理の本体が何であるかも知らぬままに、とにかく真理を求めないではいられないので求めました。

 十六歳からプロテスタント系の教会に通いましたが、牧師さんのお話は短くて、あっという間に終了して空しく帰途に着くということが、長い間続きました。無教会系の聖書研究会を経て、市川先生の「キリスト福音会」という単立集会に行くようになったのが二十二歳の時でした。五十五年という長い間、たくさんのお話を聞き、たくさんの本を読ませていただいてきたのですが、今回出版されたこの本を読むと、これはこれまでのお話と本の内容を短く煮詰めたものだと感じます。

 平易な文章で短くまとめられたこの著作を読むと、これまでのたくさんの著書の後に、最後にこれだけは伝えておきたいという意志が感じられます。私たちは生きていく上でいろいろな経験をして、いろいろなことを学習してきましたが、どんなに悩みどんなに努力しても解決できない難問に何度も遭遇しました。その時わたしは机の前で、または布団の中で必死の思いで主イエス・キリストに祈ります。その時に主は必ず助けて下さいました。実は私が祈るより前に、主キリストが私に祈れと言われていたのです。求めるより前に、求めよと言って下さっていたのです。

 そしてその時わたしの心の中にすっと入って、すべての悩みから解放して下さったのです。心の中にすっと入って来たものが聖霊であり、キリストの分身なのです。人間のいかなる力も及ばない所に神の霊の力は届くのだ思います。親が子供におやつを与えるように与えられるのではありません。

 この人が真剣に求め、キリストを信じ切っているかどうかを見極めてから、最善の仕方で与えられます。そして今までの苦悩の涙が喜びの涙に変わります。それが「真理の霊が来るとき」だと思います。

   (2022年11月29日)

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