市川喜一著作集 > 第27巻 > 第14講

第十四講  福音と宗教


肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを、神はなしとげてくださったのです。

(ローマ書 八章三節前半)


 思い起こしていただきたいのですが、パウロが「律法」と言うとき、多くの場合彼はユダヤ人の聖なる宗教であるユダヤ教のことを指しているのです。パウロはその書簡でしばしば《ノモス》というギリシア語を用いています。このギリシア語はふつう「律法」と訳されていますが、このギリシア語は、パウロの時代のユダヤ人の間では普通《トーラー》を指して用いられていました。そしてこの《トーラー》というヘブライ語はユダヤ人にとって聖なる宗教であるユダヤ教を指していたのです。パウロが、人は律法の行為ではなく、イエス・キリストの信仰によって義とされるのだと主張したとき、人が神との交わりに受け入れられるのはユダヤ教という宗教の諸規定を順守したからではなく、ただ自分自身をキリストとしてのイエスに委ねることによるのだと言っているのです。

 それで、パウロが「律法が成し得なかったことを、神は成し遂げてくださった」と言ったとき、それはユダヤ教という宗教がなしえなかったことを、神は成し遂げてくださったのだと言おうとしたのです。ユダヤ教はユダヤ人にとって唯一の真の宗教ですから、ユダヤ教が成し得ないことを他のいかなる宗教も成し遂げることはできません。上記のパウロの宣言は、いかなる宗教も成しえなかったことを神は成し遂げてくださったということを言っていることになります。

 基本的に、宗教はわたしたちに到達すべき目標とそこに至る道を示し、目標に達するのに適切な行為と努力を求めます。しかし宗教はわたしたちをその目標に至らせることに成功しませんでした、何故でしょうか。パウロはその理由を、「肉の弱さのゆえに」ときわめて簡潔に表現しています。「肉」というのは、人間の本性を指すのにパウロがよく用いる表現です。宗教は人間本性の弱さのゆえに、われわれを神との現実の交わりという目標に導き入れることができなかったのです。

 人間本性の弱さのために宗教が成しえなかったことを神は成し遂げてくださいました。では、神はどのようにしてそれを成し遂げてくださったのでしょうか。それはこうしてです、「すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されたのです。それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです」(ローマ書八章三節後半〜四節)。この前半(三節後半)は神が十字架されたキリストにおいて為されたことが語られ(第十一講)、後半(四節)では人間を神との交わりの現実に導き入れるという目標に導くために、神が聖霊によってわたしたちの内に為されることを示しています(第十二講)。

 宗教が成し得なかったことを神がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださっ たことは、福音が証言して宣べ伝えています。それで福音は宗教と違うものなのです。ところで、キリスト教は世界に数多くある諸宗教の中の一つです。確かにキリスト教はその内に福音を含み、キリストを証言しているのですから、極めて尊い宗教であるに違いありません。しかしキリスト教は福音そのものではなく、一つの宗教なのです。それでパウロがユダヤ教について言ったことは、キリスト教にも適用されます。人はキリスト教の諸規定を順守する働きによっては、神との交わりの現実に導き入れられることはできない。その現実に入るには自分をイエス・キリストに委ねること、すなわちキリスト信仰によって、神の無条件の恩恵により聖霊を与えられて実現するのです。わたしたちの内に働く神、すなわちわたしたちの内にいます聖霊が、わたしたち人間が成し得ないことを成し遂げてくださるのです。

 ローマ書八章三〜四節には、神がわたしたちのためになしてくださったことが二つ述べられています。神は、神に反抗する力の支配からわれわれを救い出すために、ご自身の子であるイエス・キリストを人間の歴史の中に送り込んでくださったのです。わたしたち人間は神に反抗する力の支配下にあるのです。わたしたちは、常に神に反抗する様々な力の捕らわれ人なのです。われわれの人間本性は、ギリシア語では《サルコス》、英語では「フレッシュ(肉)」ですが、生まれながらいつも神の本性に逆らっているのです。この面の人間本性が、パウロでは「罪の肉」と呼ばれ、キリスト教では「原罪」と称されるのです。

 「神はご自身の子を罪深い肉の姿で、そして罪のために送り、肉にある罪を断罪されたのです」。この文の「肉において」という句は、「断罪する」という動詞を修飾するのではなく、先行する名詞「罪」を修飾する、とわたしは理解しています。人間本性には罪が普遍的に深く根を下ろしているのです。

 神はなぜその最終的な救いの働きを、一人の人間という歴史上の存在の中で成し遂げられたのでしょうか。換言すれば、永遠の救済者、神のキリストはなぜ人として現れなければならなかったのでしょうか。第一にパウロはここで、神は肉にある罪を断罪しなければならないからであると答えています。人が肉にとどまる限り、すなわち人の本性が神に反抗する力の支配下にある限り、神が人と交わりをもつことは不可能だからです。罪が、すなわち神への背反が本性的に宿る肉に対しては、神は明確に「否(ノー)」を突きつけなければなりません。

 第二に、神は、わたしたちの中に神の目的をなし遂げるために、復活されたキリストを通してわたしたちに聖霊を送りこまれます。神は十字架上のイエスにおいて人間本性の中にある罪を断罪された後、イエスを死者の中から復活させました。そしてイエスをキリストと信じ、復活して神によって指名された救済者と信じた者に、神はご自身の霊、聖霊を送って、彼らの内に働き始めました。神の働きの目的はローマ書 八章の四節に述べられています、それは「律法の正しい要求が、肉にではなく御霊に従って歩むわたしたちの内に満たされるため」です。もし神がその御霊を人間に送り、人間の中に働かれることがなければ、人間は自分自身だけに放置され、肉に従って、自身の弱い本性に従って歩まなければなりません。パウロが「律法は、肉の弱さのために、することができないのです」と言うように、わたしたちは宗教の要求を満たすことができず、聖なる宗教が指し示す目標に到達することができません。

 聖なる宗教の正当なる要求は、わたしたちが霊に従って歩む時に満たされるのです。わたしたちに聖霊が与えられていなければ、聖霊に従って歩むことはできません。それで神は、受けた御霊に従って歩むご自身の民において、またその民によってその御目的を満たすため、わたしたちに聖霊を賜るのです。肉にある人間にご自身の霊を与えるために、神はまず最初に肉にある罪を断罪しなければなりませんでした。二つのこと、すなわち肉にある罪を断罪することと、肉における神への背反という罪を認めて神に立ち帰り、神の和解を受け容れる者に聖霊を与えること、この二つは一つです。

 「働きとしての神」はイエス・キリストにおいて最終的な救済の働きを成し遂げられました。肉(人間本性)にある罪をナザレのイエスの十字架上に断罪し、このイエスを復活されたキリストと信じる者に、とこしえに生きる永遠の命を与えられたのです。ここでもう一度、わたしは「働きとしての神」を強調しておきたいと思います。神はなにかある実体とか存在ではありません。神は働きそのものです。「神」という言葉は、存在しないものを存在へと呼び出す純粋で根源的な働きを指す言葉なのです
(第九講)。

 この「働きとしての神」はその御計画に従い、その創造の目的を完成されると、わたしたちは確信しています。神の働きの目的は「神の国」とか「神の支配」と呼ばれています。それはキリストにある者たちに与えられた聖霊によって実現されつつあります。神はこのキリストにある者たちの中に働いておられるのです。神の働きは終わり、完成に至るでしょう。神が存在しないものを存在へと呼び出し、キリストとしてのイエスにおいて最終的な贖いの働きを成し遂げたことを知る者たちは、今や熱烈に神の支配が歴史の中に出現することを待ち望んでいます。その出現は、栄光のからだをもって現れる神の子たちの出現を含んでいます。その出現は終わりの日の死者の復活を含んでいます(ローマ書八・一九〜二三)。